2026/02/14 - 2026/02/14
-位(同エリア219件中)
おやじさん
今年もウィメンズマラソンのボランティアを控え、熱田区で説明会を受けてきました。
説明と言っても、中身はボランティアジャンパーとキャップを受け取りに行くのが主なもの。
これもねぇ、毎年配布されるのはいいが、ご丁寧に年度まで印刷してあり、開催日を過ぎると使い道もなく、無駄な金使ってんなというのが正直な感想。
アジア競技大会にも参加しますが、こちらは一回限りなので税金大盤振る舞いの感は否めない。
選手を間近で見られるのは魅力だが、そろそろ辞退したいと思いながら、かみさんが積極的なのでそうもいかない。
本題に戻そう。
説明会後に尾張温泉へ浸かり行き、その道すがらで見かけた神社を掲載します。
今回は、海部郡蟹江町の佐屋川左岸に鎮座する源氏島 八幡社と源氏塚を取り上げます。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
佐屋川に架かる県道65号線の蟹江高架橋の脇に鎮座する八幡社社頭の眺め。
西側の県道に沿うように鎮座し、社地の東は佐屋川に注ぐ水路が流れています。 -
社頭に掲げられている源氏島 八幡社のいわれと由緒。
非常に長文なので割愛しますが、源氏島の謂れは、その昔源義朝が平治の乱(1159)で平清盛との戦いに敗れ、京から知多半島へ舟で逃れる途中、当時小島であったこの地に義朝が立ち寄り休息したとされ、すぐ東の源氏塚公園が源氏島とされる。
その後、義朝は知多の野間に辿り着き、長田忠致を頼ったが法山寺の東隣にある湯殿で長田親子の裏切りにあい、東国への帰還叶わず最後の地となった。野間大坊にはその義朝の墓が現存する。
社頭の源氏島 八幡社由緒から一部抜粋。
祭神は京都石清水八幡宮の祭神八幡大神(応神天皇)
源氏島 八幡社 棟板八幡力大菩薩 御再興正保四年(1647)吉日とある。
また、源氏 秋葉社創立とあり、本殿域の小社がそれにあたるようです、非常に詳細に書かれており、ここは愛知県神社名鑑(1992)から引用します。
『十五等級 八幡社 旧村社
鎮座地 海部郡蟹江町大字西之森字源氏島105
祭神 應神天皇
由 緒 創建は明らかでない。
慶応四年(1868)、西ノ森村方神社書上之覚によると「源氏分一、八幡宮壱社 右境内二十八歩御除地」とある。
張州府志では地名の由来について「源義朝が京の軍に敗績し微行して尾州に赴く時、船を此に駐した故の名なり、開墾して田となったが、なお源氏島という」伝説を紹介している。
文政十二年(1829)八月吉日の張り幕が残されている。
明治五年七月村社に列格する。
例祭日 十月四日
社殿 本殿流造・拝殿・神庫』 -
社頭から境内の眺め。
南北に細長い社地は、目の前の佐屋川を向き昭和十六年建立の鳥居を構え、その先に狛犬、拝殿、本殿域と連なる。 -
鳥居をくぐると右隅に「八幡社移転記 昭和四十五年十月」と刻まれた石標が立てられています。
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移転記が気になり今昔マップから鎮座地を明治まで遡ったが、鎮座地にある鳥居の印は動いていないように見受けられ、移転の内容は分からなかった。
明治頃は蛇行を繰り返す川と川の間の土地は海抜はほぼ0㍍に近く、古くから水と鬩ぎあいながらも豊かな水田地帯を築き上げてきた。 -
境内左の手水鉢から東の眺め、すぐ横に水門を備えるのも土地柄を表すもの。
水門の先が源氏塚公園になります。 -
拝殿前で守護する狛犬と切妻瓦葺の拝殿の眺め。
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昭和63年建立された子持ち・毬持ちの狛犬。
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妻入り拝殿の妻壁には水面に蠢く龍の姿とその上には獅子の親子の姿が彫られている。
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四方吹き抜けの拝殿から本殿域の眺め。
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一対の狛犬(昭和63年)が守護する本殿域は、石垣で一段高く積まれ、塀が四方を囲い神門に繋がるもの。
本殿は流造とあったが板宮造に向拝が付くものに見え、右側に境内社が一社祀られており、これが秋葉社だろうか。 -
本殿域を守護する狛犬。
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かつては八幡大菩薩と呼ばれたが、神仏分離後は八幡社に改称、現在まで氏子らにより受け継がれてきた。
義朝が東国敗走の際に立ち寄ったとされる源氏島に、源氏の氏神八幡神が祀られたのは自然の流れかもしれない、それがいつ頃なのか定かではないが、棟札や記録が見られる江戸時代を遡っていくものとおもわれます。 -
境内から南側の県道65号線と蟹江高架橋の眺め。
水田が少なくなった今でも水郷の趣きは漂うけれど、信長や義朝の時代、当地の水路は更に複雑で周辺もそこまで開拓されていなかったことだろう。
源氏島 八幡社
祭神 / 八幡大神(応神天皇)
創建 / 不詳
境内社 / 秋葉社
例祭 / 9月第4土曜日
氏子域 / 西之森(大字)
所在地 / 海部郡蟹江町学戸7-17
参拝日 / 2026/02/14
車アクセス / 白鳥橋からR1を西進、芝切交差点右折、佐屋川を越えて源氏交差点で右折、一つ目の信号を右折、源氏塚公園付近の八幡社まで?12km・30分前後 -
源氏島 八幡社から見えていた水門方向に徒歩2分ほど進むと、住宅街に広々とした公園があります。
こちらが今回取り上げる源氏塚のある源氏塚公園になります。
公園南側から眺める全景。
広い公園は遊具やトイレもあり整備され、訪れた時には紅梅が咲き始めていた。 -
その公園の南東角に源氏塚はある。
塚と言われてもその趣きはありませんが、宅地化が進む前に撮られた白黒写真では、田畑の中にポツンと佇む姿は塚の趣が残っていました。 -
「源氏塚
源義朝が平治の乱(1159)で平清盛との戦いに敗れ京都から知多半島へと舟で逃れる途中、当時小島であったこの地へ立ち寄ったと伝えられている。
それ以降この辺りは源氏島と呼ばれるようになったとされている。」 -
上は江戸時代に作られた尾張国絵図(1838)の海東郡。
絵図には埋め立てが進み、陸続きとなった源氏島の名(赤丸)が描かれています。
義朝が訪れた平安時代末期は、木曽三川はじめ河口一帯は迷路のように自然の水路ができていたのは容易に推測できる。
関ケ原を抜け、漸く海も眼前に迫り、知多への敗走の道筋も見え、義朝の心中もほっとしたことだろう。
尾張名所図会や尾張誌9 海東郡・海西郡(1898)にも源氏島について記されており、尾張誌では以下のように記されていました。
『源氏島
西森村にある。平治の乱のとき、左馬頭・源朝臣(源義朝)が都を落ちて東国へ向かい、美濃国青墓の長者のもとから身を忍んで、この知多郡野間へ至った際、川舟をここに留めて休息したという。
そのことから、この地を「源氏島」と名付けたと里の古老が伝えている。
また、義朝公が通られた道筋には古跡が多く残っており、美濃国多芸郡榛木村には「源氏橋」や「源氏柳」と呼ばれる場所もあるが、これらもすべて同じ時の出来事に由来するという。』
とある。 -
知多の美浜に逃れた義朝は法山寺の湯殿で死を遂げる。
上は尾張名所図会の第6巻に義朝最後の図として、丸腰で戦う義朝と襲いかかる長田忠致、奥の座敷には無念ながら討たれた鎌田正家と悲しむ妻の姿が描かれている。 -
源氏塚公園の南東角に立てられている石碑。
碑の建立時期は調べていないが、比較的新しいものと思われ、この地が源氏と深いかかわりを持つことを語り継ぐために建てられたのだろう。 -
源氏島の名も公園に名を留めるのみとなり、他方からこの辺りを通りがかり、源氏という地名を見るにつけ、胡散臭いと感じるかもしれないが、地史に記された歴史ある土地柄であることがわかってくる。
北西の蟹江町源氏に源氏公園がありますが、碑があるのは源氏塚公園です。
源氏塚(源氏塚公園)
所在地 / 海部郡蟹江町学戸7-131
訪問日 / 2026/2/14
源氏島 八幡社から源氏塚アクセス / 水門方向へ徒歩190m・2分
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