2025/10/08 - 2025/10/08
305位(同エリア629件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2025/10/08
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電車での移動
東京駅11:24-(はくたか)-13:54富山駅14:14-(あいの風とやま鉄道)-14:33高岡駅
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瑞龍寺
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電車での移動
高岡駅16:20-(あいの風とやま鉄道)-16:39富山駅
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東横INN富山駅新幹線口2
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この旅行記スケジュールを元に
瑞龍寺は、1614年創建の曹洞宗の寺院です。
加賀藩二代藩主前田利常公は前田利家公の庶子でしたが、実子がなかった32歳年上の初代藩主利長公(利家公は江戸幕府成立以前に亡くなったので加賀藩主ではありませんでした)から家督を譲られました。そのことに大きな恩義を感じていたことから、隠居後に20万石を領して高岡城を築きこの地で没した利長公の菩提寺として、瑞龍寺の「七堂伽藍」を整備しました。
江戸初期の禅宗建築の傑作として知られ、山門、 仏殿、 法堂が国宝、禅堂、 大庫裏、 大茶堂、 回廊が重要文化財に指定されています。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:東京駅→高岡駅→瑞龍寺(富山泊)
2日目:富山駅→高山駅→高山祭(高山泊)
3日目:高山駅→名古屋駅→新横浜駅
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 新幹線 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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富山駅までは、東京駅11:24発の北陸新幹線はくたか号です。
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ランチは、東京駅の名店街で購入した柿の葉寿司です。
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富山駅であいの風とやま鉄道(旧JR北陸本線)に乗換え、高岡駅へ向かいます。
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高岡駅の瑞龍寺口です。ここから瑞龍寺までは徒歩10分程度です。
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江戸時代後期始め頃の高岡の町です。この頃には、一国一城令により高岡城は廃城となっていました。
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瑞龍寺の参道です。この道の両端は、瑞龍寺と前田利長公の墓所です。
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前田利長公像です。
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14:45頃に瑞龍寺へ到着しました。
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瑞龍寺では、前田利家公を初代、利長公を二代加賀藩主としていますね。
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ボランティアガイドさんが説明してくださると聞いていたので、拝観料を支払ったところで尋ねると、「先ほど案内を始めました。途中からでも参加できます」とのことでした。急いで追いかけ、仏殿から先の説明をしていただくことができました。
やはり、ガイドさんに説明していただくと見るべきポイントがよく分かります。 -
ということで、伽藍全体の入口に当たる「総門」は後にガイドさんの説明なしで見学したものですが、この旅行記ではここから始めます。
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総門は薬医門形式で、冠木には家紋が並んでいます。
加賀前田家は菅原道真の子孫と自称しており、そのことから家紋を梅がモチーフの加賀梅鉢としています。 -
家紋の五つの花弁の部材は、その木目で同心円を作るようにデザインされています。
瑞龍寺の建造物の木材は大部分が塗装を施さない白木で、その木目の美しさが追求されています。 -
伽藍内部から見た総門です。
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扉の板材の木目も見事で、一族の繁栄を願い、非常に速いスピードで成長する竹にちなんでタケノコがイメージされています。
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総門は、旧加賀藩上屋敷(現在は東京大学の敷地)の「赤門」のモデルになっています。
赤門は、1827年に藩主前田斉泰が11代将軍徳川家斉の二十一女溶姫を迎えるために建設された朱塗りの門です。江戸時代、将軍息女の輿入れ時に建設された朱塗り門は夫人が亡くなると取り壊される決まりになっていましたが、溶姫が江戸幕府瓦解後まで存命していたため、取り壊されることなく現存し国の重要文化財に指定されています。 -
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「山門」です。1820年に再建された高さ約18メートルの楼門で、国宝に指定されています。
二重の屋根が上下ほぼ同じ大きさなのは、上の屋根に積もった雪が下の屋根に落ちるのを避けるためという北陸地方特有の雪対策です。 -
金剛力士像が両脇に安置され、楼上には釈迦如来、十六羅漢が祀られており、通常は非公開ですが、毎年11月の宝物展の期間に楼上が見学可能とのことです。
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上層の屋根は、扇垂木になっています。
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右側の金剛力士像・阿形の側面の板壁は、荒々しさを表す木目になるように木材が選ばれています。
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逆に、左側の吽形はそれが抑えられたような木目模様になっています。
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「仏殿」です。1659年の建立、総欅造りで国宝に指定されています。
鉛板葺きの屋根が特徴で、鉛は戦時には鉄砲の弾丸の材料にもなるため備蓄の役割もありました。 -
内部には、釈迦・文殊・普賢の三尊が祀られています。中国風の姿から「唐仏」といわれ、明国からの請来ともされていますが、真偽は確認できませんでした。
天井から吊るされた天蓋はインド発祥の日よけが発展したものだそうです。 -
三尊の背後の板の木目にも、何らかの意味があるようです。
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上層の軒組は禅宗建築の純粋な形式で、 屋根裏の扇垂木やエビ虹梁など複雑で妙をえた架構法です。
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この柱は、欅の「芯去材」です。
芯去材とは、原木の中心部を含めずに製材されたものなので、原木の径はこの2倍を大きく超えるものだったことになります。更に、この柱材は原木の北側の年輪間隔が詰まった丈夫な部分だそうです。 -
基壇の彫刻も精緻です。
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「法堂」です。明暦年間(1655~1657) の建立、総桧造りで国宝に指定されています。方丈建築に書院建築を加味したもので、六室より成り、建坪186坪の境内一の大建築です。
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法堂の廊下部分です。2024年1月の能登地震で、構造体に変形はなかったものの漆喰壁が被害を受け、修理中でした。国宝に指定されていることから、修理方法の策定にも文化庁との調整が必要で、着工までに相当な期間を要したとのことです。
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中央奥の内陣には、前田利長公の大きな御位牌が安置されています。
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欄間には鳳凰が刻まれています。高岡の地名は、『詩経』の一節「鳳凰鳴矣于彼高岡」に由来し、前田利長公が築城と開町に際して名づけた瑞祥地名です。
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中央二室の格天井には幕府の御用絵師・狩野安信の「四季の百花草」が描かれています。
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鳥瑟沙摩明王像です。説明板には以下のように記されています。
「烏瑟沙摩明王は一般的に東司(便所)の守護神。現存する鳥瑟沙摩明王としては日本最古にして最大級の像高百十七センチ。
鎌倉末期の特徴を示す極彩色が残るが佛師年代ともに不明。東司焼失により現存法堂にまつる。
法力 ― 不浄を清め病気平癒、聡明(学力向上)、古くから子宝安産成就などが上げられる。」 -
約300mの「回廊」は、重要文化財に指定されています。禅宗様式の白壁と格子窓が特徴的な美しい建築です。
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回廊内部です。
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引違い窓の敷居には、水抜き穴が設けられています。雨の多い北陸地方ならではの工夫で、地元の大手サッシュメーカーがこれをアルミサッシュに取り入れて、売上げを大きく伸ばしたそうです。
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回廊に面して「禅堂」があります。1746年の再建で、重要文化財に指定されています。
文殊菩薩が祀られ、坐禅修行をする建物ですが、坐禅だけではなく、食事、就寝も行う生活空間でもあります。 -
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「大茶堂」です。創建当初に造られたもので、重要文化財に指定されています。
外壁や軒下を土蔵と同じ大壁とし、内部を土天井とした大変珍しい防火建築物です。 -
「大庫裏」です。重要文化財に指定されています。
調理配膳や寺務運営を行う堂で、天井が漆喰で曲線になり結露に配慮してあります。正面には、韋駄天尊像が祀られています。 -
回廊の外に、五基の石廟が祀られています。
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説明板には以下のように記されています。
「前田利長公は本能寺の変後織田信長公父子の分骨を迎えてその霊を慰めたと伝えられる。
利長公の菩提寺瑞龍寺を造営した時、開山広山怒陽禅師が利長公父子も加えて同じ形式の五基を建造したのがこの石廟の由来である。
廟の石材は淡緑色の凝灰石(俗称越前笏谷石)を用い壇上積の基礎の上に立つ切妻型石廟建築である。
廟内の宝篋印塔は越前式の月輪装飾を施したもので越前の国を源流とし、加越能三州に分布している。
石廟は向って右から前田利長公(高岡開祖) 前田利家公(加賀藩祖) 織田信長公(利長夫人玉泉院の父) 織田信長公側室 織田信忠公(信長公の子息)の五人のもので、中でも利長公のものは壁面に二十五菩薩を組んだ代表的な優品である。
これら五基の石廟は地方政治史上又石造建策史上の貴重な資料であるところから、昭和四十五年三月二日富山県指定文化財史跡に指定された。」
「織田信長公側室」は、利長公夫人(織田信長公四女永姫)の生母に当たる女性かと思い調べましたが、分かりませんでした。 -
利長公の廟です。
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富山に戻り、宿泊先は駅前の東横インです。
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夕食は、ホテルの近くの「ビストロ・ダンザ」です。
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牛ミズジ肉の昆布締めです。
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海老とマッシュルームのアヒージョです。
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ビスマルクピザです。
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旅行記グループ 秋の高山祭と高岡瑞龍寺
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