2025/04/29 - 2025/04/29
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風に吹かれて旅人さん
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大原女と書いて、おはらめ。
「平家物語」のゆかりの地といわれる京都・大原で、
4/19~5/18まで開催される「大原女まつり」。
緑あふれる閑静な京都大原の里で、
大原女まつりのメイン行事は「大原女時代行列」。
室町時代から 明治大正時代まで
それぞれの時代の大原女衣装を身にまとい
大原女時代行列は、13時(寂光院を出発)~
15時頃(三千院・勝林院)
寂光院~ 三千院 ~勝林院 間の大原の田畑沿いの道、
好天の中、新緑の山里を約2キロほどを巡行する。
私は、 寂光院~ 三千院
その中間地点で、大原を後にしました。
晩年を寂光院で過ごした平清盛の娘、
建礼門院に仕えた女性が薪売りをした際に
着た衣装が原形とされている。
紺や黒の和服にかすりの前掛け、
赤いたすきなどを身につけ、
手ぬぐいを頭に巻いて薪を乗せるスタイル。
建礼門院の侍女・阿波内侍(あわのないじ)の
着物姿が原型とも言われています。
大原女とは、大原でとれた柴や薪、農作物などを
頭にのせて京の町まで売りに歩いた行商の女性のことで、
鎌倉時代から昭和初期まで、
約800年にわたって続いてきた大原の風習です。
時代とともに少しずつ装いに変化はありましたが、
紺色の着物に赤いたすきを掛けた独特の装束で知られています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
大原観光保勝会主催の第45回春の大原女まつり
大原は京都府京都市左京区の北東部の地名です。
大原はかつて「小原」と表記されたり、
「おはら」とも言われたりしました。
大原は標高約848メートルの比叡山の北西麓で、
淀川水系の一級河川・高野川の上流部に位置しています。
大原盆地は四方を山に囲まれ、
高野川に沿って京都市内と
若狭湾の福井小浜を結ぶ若狭街道が通り、
大原はその中継地点として栄えました。
若狭街道では福井小浜などから
サバを中心とした鯖街道とも。
大原は天台宗の開祖である伝教大師・最澄が創建した
天台宗の総本山・延暦寺が創建されている
比叡山西麓にあることから
三千院・勝林院・来迎院・寂光院などの
天台宗の寺院が創建されたり、移されてきました。
また大原は京都市内から約15キロほど離れているこから
文徳天皇の第1皇子である惟喬親王・平清盛の娘である
建礼門院徳子などの隠遁・出家の場所にもなりました。
ちなみに大原女(小原女)は建礼門院徳子の
侍女・阿波内侍(あわのないし)らが
起源とも言われています。
なお明治維新前には大原郷に戸寺・上野・大長瀬・
来迎院・勝林院・草生・野村・井出の8村が、
1882年(明治15年)に8村が統合されて大原村になり、
1949年(昭和24年)には愛宕郡から左京区に編入。 -
畑の畦道を眺め小径を歩いていると・
とても落ち着き癒されます。
今回は、予定より遅れて、
里山をのんびりと言うよりも、急いで。
バス停付近の駐車場から寂光院までは徒歩12分です。 -
桜が終わり、新緑の
散歩しながら寂光院を目指しました。
寂光院へほとんどの方か゛、
焦りながら早足て。 -
左は、京へ
右は寂光院と・・・。坂道を。 -
のどかな田園風景/自然が古い景色も
時代とともに少し少し変化するのも
ここ大原でも、決して例外ではなかった・ -
桂徳院近くの道標
大原女の小径は、二人三人と並んで歩いてると、
狭いので後ろをついて行くしかない。
しかし、
寂光院へ近づいても、誰一人いないので、
今日、大原女時代行列有るのか? -
「平家物語」のゆかりの地といわれる
京都・大原で、「大原女まつり」。
時代ごとに異なる
大原女の衣装を身にまとった大原女さん達が、
寂光院~勝林院にかけて行列巡行する
「大原女時代行列」。
また、「大原女まつり」期間中の特典として、
大原女衣装の着付割引が実施されるとか。
大原女の着付け体験の割引。
大原女の扮した方は、
三千院・宝泉院・勝林院・実光院の拝観が無料。
各お寺の拝観料は、以下の通り。
三千院:大人700円。
宝泉院:大人800円。
勝林院:大人300円。
実光院:大人700円。
行列参加は事前予約が必要なので。 -
寂光院前に集合。
平安時代、大原は若狭湾と京を結ぶ
中継地点として発展しました。
比叡山延暦寺の麓に位置し、三千院や勝林院など、
天台宗の寺院が点在します。
独特の衣装を着た女性たちが京の町へ出向き、
薪炭を行商する風習がありました・ -
50mほどの石段を登ると
山門...寂光院本堂が見える。
建礼門院が生涯を過ごした京都洛北の寺
壇ノ浦の戦いで平家が滅んだとき、
徳子は海に身を投げて助けられ、
京都東山の長楽寺、後、出家して建礼門院となりました。
その後、寂光院のかたわらに庵を結び、
息子の安徳天皇と平家一門の冥福を祈りながら、
暮らしたと伝えられています
寂光院は大原の里でもかなり奥の方にあり、
ひときわひなびた雰囲気があります。
寂光院は天台宗の尼寺で歴史は古く、
推古2年(594年)聖徳太子が
御父用明天皇の菩提を弔うため建てられた古刹で、
本尊は聖徳太子作と伝えられる六万躰地蔵菩薩でしたが、
平成12年不審火により本堂とともに
惜しくも罹災してしまいました。
平成17年夏には本堂が
落慶法要、地蔵菩薩像も入佛開眼され、
古の姿を取り戻し、今、公開されています。
境内には書院や汀の池など
「平家物語」にちなんだ史跡が多く残っている。 -
もとは聖徳太子が推古2年に建立したという古刹で、
隠れ寺的な装いを持つこの寂光院は、
苔と池泉の見事な庭園や
国宝の優美な仏像を有する三千院ともに、
大原を訪れる際にまず見ておくべき名所。
最初に、寂光院参拝へ -
寂光院参拝へ
これから..続々と寂光院へ入られます。 -
寂光院参拝へ子供行列
以前、秋の大原女ミニ時代行列では
大原女装束を身に付けた子供
その再現のよう。 -
寂光院参拝へ
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寂光院参拝へ
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寂光院参拝へ
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寂光院参拝から大原西陵に参拝へ
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寂光院参拝から大原西陵に参拝へ
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寂光院参拝から大原西陵に参拝へ
寂光院 寺・神社・教会
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寂光院参拝から大原西陵に参拝へ
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寂光院前の広場で待機してから
大原西陵に参拝へ -
大原西陵に参拝
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大原西陵に参拝
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大原西陵に参拝
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大原西陵に参拝
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寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝へ -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝へ -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝へ -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝へ
建礼門院陵・大原西陵へ階段を上がる・ -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝へ -
建礼門院陵・大原西陵へ階段を上がる・
この奥に
寂光院の東に隣接する高倉天皇皇后徳子(建礼門院)の
大原西陵
平清盛の次女で、高倉天皇の皇后であり、
安徳天皇が生まれると天子の国母となった建礼門院。
平安時代末の治承(じしょう)5年(1181)閏2月4日、
平清盛が世を去るとそれまで
栄耀栄華を極めた平家の勢力に陰りが見え始め、
代わって源氏が勢力を盛り返します。
木曽義仲の攻撃により建礼門院をはじめとする
平家の者は京の都を追われます。
元暦2年(1185)3月、
壇ノ浦(山口県下関市)の戦いでついに平家は滅亡しますが、
その最中、建礼門院の母・時子が10歳にも満たない
建礼門院の子・安徳天皇を抱いて入水します。
続いて建礼門院自らも海にその身を投じました。
しかし幸運と言うべきか、皮肉と言うべか、
偶然にも建礼門院は源氏方に助けられたのでした。
その後、建礼門院は京に送還され、
ひどくみすぼらしい朽ちた僧房で日々を送ることとなります。
元暦2年(1185)5月、建礼門院は剃髪して入寺し、
それからというもの安徳天皇と
平家一門の菩提を弔う日々を送っていました。
建礼門院はそうした日々を送る中、
いつしか、いやな事を耳にしてつらい思いをしながらの
今の都の近くでの暮らしよりは、
何かと寂しいながらもそういったことの耳に入らない
深い山の奥へでも行き、静かに暮らしたいと思うよう。
建礼門院は大原山の奥に寂光院という所があることを聞き、
文治(ぶんじ)元年(1185)9月末、寂光院に移ったのでした。
今から800年以上も昔のこと。 -
寂光院の東に隣接する高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝 -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝を終えて、
大原女時代行列へ -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝を終えて、
大原女時代行列へ -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝を終えて、
大原女時代行列へ -
寂光院の東に隣接する
高倉天皇皇后徳子(建礼門院)
の大原西陵に参拝を終えて、
大原女時代行列へ -
大原山荘大原山荘近くから、
大原女時代行列のスタート。 -
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大原女と書いて、おはらめ。
隠棲の里・大原より、
独特のスタイルで薪や農作物を京へ売り。
そのルーツは、
壇ノ浦で我が子を抱いて入水するも死にきれず、
寂光院に隠棲した建礼門院。
院に仕えた阿波内侍の作業着姿を、
地元娘たちが真似。
それが大原女の始祖と考えられてます。
古くから歌に詠まれ、絵にも描かれ、
単なる行商としてのみならず、
一種の雅な風物詩として
長らく都の人から愛されたとか。
しかし大原女、実際は雅どころではない重労働です。
大原から京都までの移動は、もちろん、徒歩。
京都市中心部より北に位置する山あいで、
古くから若狭の物産を京都に運ぶ街道として発展し、
今なお京都と滋賀を結ぶ交通の要衝となっている大原。 -
大原女まつりのメイン行事は「大原女時代行列」。
室町時代から 明治大正時代まで
それぞれの時代の大原女衣装を身にまとい、
勝林院 ~ 三千院 ~ 寂光院 間の
大原の田畑沿いの道を巡行する。 -
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京都の大原は、京都市の北東部に位置しており、
自然豊かな所です。
この菜の花のコラボで撮る・ -
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大原女とは、大原でとれた柴や薪、農作物などを
頭にのせて京の町まで売りに歩いた行商の女性のことで、
鎌倉時代から昭和初期まで、
約800年にわたって続いてきた大原の風習です。
時代とともに少しずつ装いに変化はありましたが、
紺色の着物に赤いたすきを掛けた
独特の装束で知られています。
往復20数kmもの道のりを歩くだけでなく、
頭の上には通常で30~40kg、
多い人では50kgにもなる荷物をのせて運んだと伝わります。
背中ではなく、頭に荷物をのせて運んだのは、
柴など長さがあるものを進行方向と平行にのせることで、
細く険しい山道を少しでも
歩きやすくしたためと考えられています -
大原女・時代行列のスタートは寂光院から.
バス停を国道を渡り
その先で、一行が休憩するところです・
ここで、大原女姿で里を巡行する大原女まつり
「平家物語」のゆかりの地の歴史と
新緑に包まれた閑静な洛北の京の里山、
京都大原で毎年行われる「大原女(おはらめ)祭り」。
大原女装束を身にまとった大原女が、
大原の寂光院から三千院を経て
勝林院までの約2キロメートルの山に抱かれた、
自然豊かな大原の里を練り歩く
(足元が.わらじなので慣れないので大変な様子でした。)
大原女時代行列が半ば行われました。
休息を取った後に三千院にも参拝し、
15時に最終地である勝林院に到着します。
寂光院から三千院の中間、
この時点で私は、帰宅、帰りに3~4時間かかるので。
女ひとり歌碑までにしました。
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