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2022年の“宿題”を片付けるため、2025年5月11日から3週間の旅に出ました。<br /><br />コロナ禍がなおも続いていた2022年11月、長い引きこもり生活から一歩を踏み出し、お気に入りの絵画と再会するため、ヨーロッパへ5週間の旅に出ました。<br />ところが残念なことに、お目当ての作品に出会えない場面が何度もありました。<br />美術館の作品は、貸し出しや修復のために展示されていなかったり、美術館そのものがリニューアル工事で部分的、あるいは全館閉鎖されていたりすることがあるのです。<br /><br />こうして“宿題”となってしまった絵画や美術館に改めて出会うため、今回は事前に入念な下調べをして旅に臨みました。<br /><br />1.パリ・ノートル=ダム大聖堂の修復が一段落し、一般公開が再開されること →  2024年12月に再開済み。<br /><br />2.ルーヴル美術館リシュリュー翼の北方絵画展示エリアの改装が完了し、ヤン・ファン・エイク《宰相ロランの聖母》が修復を終えて再び展示されること →  美術館に2回メールで問い合わせて確認済み。<br /><br />3.ロンドン・ナショナル・ギャラリー セインズベリー棟のリニューアル完了と、パオロ・ウッチェロ《サン・ロマーノの戦い》の修復・展示再開 →  再三の問い合わせの末、出発前日の5月10日になってようやく確認。<br /><br />普段であれば、観光シーズンで混雑する5月にヨーロッパを訪れるのは避けていたのですが、これら3つの条件が整ったこのタイミングに、満を持して出発しました。<br /><br />ところが、前回の旅の”宿題”はこなせたものの、またしても想定外の出来事が次々に起こり、新たな“宿題”を抱えることになってしまったのです。<br /><br />――そう、人生と同じ。「すべてが満たされること」なんて、ないのよ!<br />そして、最後のときを迎えるその瞬間まで、「終わり」はないのよ!<br /><br />そして、今回は、 “水”にまつわるトラブルと幸運に見舞われながら、地元の人々に助けられつつ、「旅の苦労と楽しさを噛みしめる」旅となりました。

2025年5月、ヨーロッパ4か国で美術館巡り Day2・・・ロンドン コートールドギャラリー

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2025/05/11 - 2025/06/01

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kawausoimoko

kawausoimokoさん

2022年の“宿題”を片付けるため、2025年5月11日から3週間の旅に出ました。

コロナ禍がなおも続いていた2022年11月、長い引きこもり生活から一歩を踏み出し、お気に入りの絵画と再会するため、ヨーロッパへ5週間の旅に出ました。
ところが残念なことに、お目当ての作品に出会えない場面が何度もありました。
美術館の作品は、貸し出しや修復のために展示されていなかったり、美術館そのものがリニューアル工事で部分的、あるいは全館閉鎖されていたりすることがあるのです。

こうして“宿題”となってしまった絵画や美術館に改めて出会うため、今回は事前に入念な下調べをして旅に臨みました。

1.パリ・ノートル=ダム大聖堂の修復が一段落し、一般公開が再開されること →  2024年12月に再開済み。

2.ルーヴル美術館リシュリュー翼の北方絵画展示エリアの改装が完了し、ヤン・ファン・エイク《宰相ロランの聖母》が修復を終えて再び展示されること →  美術館に2回メールで問い合わせて確認済み。

3.ロンドン・ナショナル・ギャラリー セインズベリー棟のリニューアル完了と、パオロ・ウッチェロ《サン・ロマーノの戦い》の修復・展示再開 →  再三の問い合わせの末、出発前日の5月10日になってようやく確認。

普段であれば、観光シーズンで混雑する5月にヨーロッパを訪れるのは避けていたのですが、これら3つの条件が整ったこのタイミングに、満を持して出発しました。

ところが、前回の旅の”宿題”はこなせたものの、またしても想定外の出来事が次々に起こり、新たな“宿題”を抱えることになってしまったのです。

――そう、人生と同じ。「すべてが満たされること」なんて、ないのよ!
そして、最後のときを迎えるその瞬間まで、「終わり」はないのよ!

そして、今回は、 “水”にまつわるトラブルと幸運に見舞われながら、地元の人々に助けられつつ、「旅の苦労と楽しさを噛みしめる」旅となりました。

  • 2025年5月12日(月)(Day 2)<br /><br />今回の旅で最初に訪れたのは、サマセット・ハウスにあるコートールド・ギャラリー(Courtauld Gallery)です。<br />

    2025年5月12日(月)(Day 2)

    今回の旅で最初に訪れたのは、サマセット・ハウスにあるコートールド・ギャラリー(Courtauld Gallery)です。

  • サマセット・ハウス(Somerset House)<br /><br />サマセット・ハウスは、ヘンリー8世の3番目の妃ジェーン・シーモアの兄であり、国王の死後に摂政として実権を握った初代サマセット公エドワード・シーモアが、1547年ごろに建設を始めた邸宅です。<br />彼の爵位にちなみ、「サマセット・ハウス(Somerset House)」と呼ばれるようになったそうです。<br /><br />かつては、戸籍本署や遺言検認裁判所などの官公庁が置かれており、子どもの頃に読んだチャールズ・ディケンズの作品や、アガサ・クリスティのポアロ・シリーズにもその名が登場していたのを覚えています。<br />当時の私は、「Summerset House」だとばかり思いこんでいました……(*ノωノ)

    サマセット・ハウス(Somerset House)

    サマセット・ハウスは、ヘンリー8世の3番目の妃ジェーン・シーモアの兄であり、国王の死後に摂政として実権を握った初代サマセット公エドワード・シーモアが、1547年ごろに建設を始めた邸宅です。
    彼の爵位にちなみ、「サマセット・ハウス(Somerset House)」と呼ばれるようになったそうです。

    かつては、戸籍本署や遺言検認裁判所などの官公庁が置かれており、子どもの頃に読んだチャールズ・ディケンズの作品や、アガサ・クリスティのポアロ・シリーズにもその名が登場していたのを覚えています。
    当時の私は、「Summerset House」だとばかり思いこんでいました……(*ノωノ)

  • ストランドからサマセット・ハウスの中庭を眺めたところ<br /><br />右側がコートールド・ギャラリーの入り口

    ストランドからサマセット・ハウスの中庭を眺めたところ

    右側がコートールド・ギャラリーの入り口

  • サマセット・ハウス 中庭<br /><br />中庭ではイベント会場の設営が行われていました。<br /><br />現在のサマセット・ハウスにはキングス・カレッジ・ロンドンやコートールド・ギャラリーなどが入居しており、冬にはこの中庭がスケートリンクに変わり、ニューヨークのタイムズスクエアと並んでテレビでよく紹介されています。

    サマセット・ハウス 中庭

    中庭ではイベント会場の設営が行われていました。

    現在のサマセット・ハウスにはキングス・カレッジ・ロンドンやコートールド・ギャラリーなどが入居しており、冬にはこの中庭がスケートリンクに変わり、ニューヨークのタイムズスクエアと並んでテレビでよく紹介されています。

  • コートールド・ギャラリー(Courtauld Gallery)入り口<br /><br />このギャラリーは、裕福な実業家で美術コレクターでもあったサミュエル・コートールドが、1932年に自宅と絵画コレクションをロンドン大学に寄贈したことに始まります。<br />当初はロンドンのポートマン・スクエアにある「ホーム・ハウス」に設けられていましたが、1989年に現在のサマセット・ハウスへと移転し、2021年には大規模な改修を経て再オープンしたそうです。<br /><br />今回は、主にピーテル・ブリューゲル(父)の2点の作品をお目当てに訪れました。

    コートールド・ギャラリー(Courtauld Gallery)入り口

    このギャラリーは、裕福な実業家で美術コレクターでもあったサミュエル・コートールドが、1932年に自宅と絵画コレクションをロンドン大学に寄贈したことに始まります。
    当初はロンドンのポートマン・スクエアにある「ホーム・ハウス」に設けられていましたが、1989年に現在のサマセット・ハウスへと移転し、2021年には大規模な改修を経て再オープンしたそうです。

    今回は、主にピーテル・ブリューゲル(父)の2点の作品をお目当てに訪れました。

  • エジプトへの逃避途上の風景:ピーテル・ブリューゲル(父), 1563年<br />(37.1cm × 55.6cm )<br /><br />アルプスと思われるヨーロッパの風景を舞台とした小さな絵には、聖家族の困難な旅を象徴するものが細部まで緻密に描かれています。<br />ブリューゲル(父)が大判の版画「大風景」シリーズの制作を通じて培った風景描写の力量が、ひときわ明確に表れている作品ではないでしょうか。<br /><br />スペイン・ハプスブルク家の有力者でフランス出身の枢機卿、アントワーヌ・ド・グランヴェルが注文主であったと考えられています。<br />彼は優れた芸術のパトロンとして知られ、ブリューゲルの重要な支援者でもありました。<br />さらに、この絵は後にピーテル・パウル・ルーベンスが一時所有していたことでも知られています。

    エジプトへの逃避途上の風景:ピーテル・ブリューゲル(父), 1563年
    (37.1cm × 55.6cm )

    アルプスと思われるヨーロッパの風景を舞台とした小さな絵には、聖家族の困難な旅を象徴するものが細部まで緻密に描かれています。
    ブリューゲル(父)が大判の版画「大風景」シリーズの制作を通じて培った風景描写の力量が、ひときわ明確に表れている作品ではないでしょうか。

    スペイン・ハプスブルク家の有力者でフランス出身の枢機卿、アントワーヌ・ド・グランヴェルが注文主であったと考えられています。
    彼は優れた芸術のパトロンとして知られ、ブリューゲルの重要な支援者でもありました。
    さらに、この絵は後にピーテル・パウル・ルーベンスが一時所有していたことでも知られています。

  • 画面下 幼子イエスを胸に抱いた聖母マリアとヨセフ<br /><br />幼子イエスを胸に抱く聖母マリアとヨセフの姿が描かれ、マリアの赤い衣が画面のアクセントとなって際立っています。

    画面下 幼子イエスを胸に抱いた聖母マリアとヨセフ

    幼子イエスを胸に抱く聖母マリアとヨセフの姿が描かれ、マリアの赤い衣が画面のアクセントとなって際立っています。

  • 画面右手では、小さな偶像が、枯れ木の幹の上の祠から転げ落ちています。<br /><br />イエスにより異端の神が排除されることを暗示していると解釈されています。

    画面右手では、小さな偶像が、枯れ木の幹の上の祠から転げ落ちています。

    イエスにより異端の神が排除されることを暗示していると解釈されています。

  • 画面左手前では、二人の男が暗い洞窟の前に架けられた板の橋を渡っています。<br />もう一人の男は、すでに橋を渡り終えたところなのか、あるいはこれから渡ろうとしているのか、橋を渡る二人をじっと見つめています。<br /><br />この作品は小さな絵なので、これまで書籍で何度も眺めてはいたものの、この部分に何が描かれているのかはっきりとは分かりませんでした。<br />書籍には「三人の男たちが、ぐらぐらと揺れる危ない橋を渡っている」と書かれていることが多いのですが、今回、実際に作品を目にして初めてその情景を理解することができました。

    画面左手前では、二人の男が暗い洞窟の前に架けられた板の橋を渡っています。
    もう一人の男は、すでに橋を渡り終えたところなのか、あるいはこれから渡ろうとしているのか、橋を渡る二人をじっと見つめています。

    この作品は小さな絵なので、これまで書籍で何度も眺めてはいたものの、この部分に何が描かれているのかはっきりとは分かりませんでした。
    書籍には「三人の男たちが、ぐらぐらと揺れる危ない橋を渡っている」と書かれていることが多いのですが、今回、実際に作品を目にして初めてその情景を理解することができました。

  • キリストと姦淫の女:ピーテル・ブリューゲル(父),1565年<br /><br />エルサレム神殿の階段で、姦淫の罪に問われた女性の処刑を止めようとするキリストの姿が描かれています。<br />キリストは地面に、オランダ語で「罪なき者、最初の石を投げよ」と書き記しています。<br />この作品は、スペイン・ハプスブルクの弾圧下にあった当時のネーデルラントにおいて、寛容と正義ある裁きを問いかける寓意的な表現として解釈されています。

    キリストと姦淫の女:ピーテル・ブリューゲル(父),1565年

    エルサレム神殿の階段で、姦淫の罪に問われた女性の処刑を止めようとするキリストの姿が描かれています。
    キリストは地面に、オランダ語で「罪なき者、最初の石を投げよ」と書き記しています。
    この作品は、スペイン・ハプスブルクの弾圧下にあった当時のネーデルラントにおいて、寛容と正義ある裁きを問いかける寓意的な表現として解釈されています。

  • ピーテル・ブリューゲル(父)が描いた油彩画の中で、この作品は唯一、グリザイユ技法が用いられたものとみなされています。<br />彼のドローイングや版画作品では、線描と陰影のみで構成されたものが多く見られますが、油彩画においてグリザイユ技法が用いられた例は、現存する限り他に確認されていません。

    ピーテル・ブリューゲル(父)が描いた油彩画の中で、この作品は唯一、グリザイユ技法が用いられたものとみなされています。
    彼のドローイングや版画作品では、線描と陰影のみで構成されたものが多く見られますが、油彩画においてグリザイユ技法が用いられた例は、現存する限り他に確認されていません。

  • 左下には「BRVEGEL MDLXIX」と署名が描かれています。<br /><br />ピーテル・ブリューゲル(父)は、かつて「Brueghel」と綴っていた時期もありましたが、1559年以降は &quot;h&quot; を省き、「Bruegel」と署名するようになりました。<br />この作品でも &quot;BRVEGEL&quot; と &quot;h&quot; 抜きで署名されており、本人によるものとみなされています。<br /><br />「MDLXIX」はローマ数字で1569年を意味し、この年はピーテル・ブリューゲル(父)の没年でもあります。<br />そのため、この作品は彼の最晩年に描かれたものとされています。<br /><br />グリザイユ技法によって石のレリーフのように静かに表現された画面、そして「罪なき者が最初の石を投げよ」というキリストの言葉。<br />それらは、人生の終わりにピーテル・ブリューゲル(父)が込めた祈りのようにも感じられ、思いを巡らせました。

    左下には「BRVEGEL MDLXIX」と署名が描かれています。

    ピーテル・ブリューゲル(父)は、かつて「Brueghel」と綴っていた時期もありましたが、1559年以降は "h" を省き、「Bruegel」と署名するようになりました。
    この作品でも "BRVEGEL" と "h" 抜きで署名されており、本人によるものとみなされています。

    「MDLXIX」はローマ数字で1569年を意味し、この年はピーテル・ブリューゲル(父)の没年でもあります。
    そのため、この作品は彼の最晩年に描かれたものとされています。

    グリザイユ技法によって石のレリーフのように静かに表現された画面、そして「罪なき者が最初の石を投げよ」というキリストの言葉。
    それらは、人生の終わりにピーテル・ブリューゲル(父)が込めた祈りのようにも感じられ、思いを巡らせました。

  • 聖母子:バルナバ・ダ・モデナ , 1365-1370年頃<br />(卵テンペラと金箔、木版画)<br /><br />イタリア中部のモデナに生まれたバルナバは、ビザンチン様式が好まれたジェノヴァで制作活動を行いました。

    聖母子:バルナバ・ダ・モデナ , 1365-1370年頃
    (卵テンペラと金箔、木版画)

    イタリア中部のモデナに生まれたバルナバは、ビザンチン様式が好まれたジェノヴァで制作活動を行いました。

  • 埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃<br />(油彩と金箔、木板)<br /><br />ロベルト・カンピン作とされており、油彩で描かれています。

    埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃
    (油彩と金箔、木板)

    ロベルト・カンピン作とされており、油彩で描かれています。

  • 埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃<br /><br />中央パネルは、キリストの埋葬で、聖母マリア、マグダラのマリア、聖ヨハネ、ニコデモ、アリマタヤのヨセフなどが描かれています。

    埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃

    中央パネルは、キリストの埋葬で、聖母マリア、マグダラのマリア、聖ヨハネ、ニコデモ、アリマタヤのヨセフなどが描かれています。

  • いかにもロベルト・カンピンらしい感情表現と細密な描写です。

    いかにもロベルト・カンピンらしい感情表現と細密な描写です。

  • 埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃<br /><br />左翼には、十字架上のキリストとひざまずいて祈る男性が描かれており、男性はこの三連祭壇画を依頼主とみられます。<br />

    埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃

    左翼には、十字架上のキリストとひざまずいて祈る男性が描かれており、男性はこの三連祭壇画を依頼主とみられます。

  • 埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃<br /><br />右翼には、3日後のキリストの凱旋復活が描かれています。

    埋葬:ロベルト・カンピン , 1425年頃

    右翼には、3日後のキリストの凱旋復活が描かれています。

  • 聖マグダラのマリアと洗礼者聖ヨハネを従えた三位一体:サンドロ・ボッティチェリ, 1491年頃-1494年頃<br /><br />この作品は、フィレンツェのサン・エリザベッタ・デッレ・コンヴェルティーテ修道院に所蔵されていたもので、この修道院は悔い改めた娼婦たちを受け入れていた施設でした。<br />そのため、フィレンツェの守護聖人である洗礼者聖ヨハネと、修道院の守護聖人であるマグダラのマリアが描かれています。<br /><br />この絵画は近年、バンク・オブ・アメリカの美術保存プロジェクトの助成を受け、大規模な修復が行われました。<br />調査の結果、天使の頭部は助手によるものとされ、主要な人物像はボッティチェリ本人の手による可能性が高いと考えられています。<br />また、額縁は修復中にパネル裏で発見されたデザインをもとに新たに制作されたそうです。

    聖マグダラのマリアと洗礼者聖ヨハネを従えた三位一体:サンドロ・ボッティチェリ, 1491年頃-1494年頃

    この作品は、フィレンツェのサン・エリザベッタ・デッレ・コンヴェルティーテ修道院に所蔵されていたもので、この修道院は悔い改めた娼婦たちを受け入れていた施設でした。
    そのため、フィレンツェの守護聖人である洗礼者聖ヨハネと、修道院の守護聖人であるマグダラのマリアが描かれています。

    この絵画は近年、バンク・オブ・アメリカの美術保存プロジェクトの助成を受け、大規模な修復が行われました。
    調査の結果、天使の頭部は助手によるものとされ、主要な人物像はボッティチェリ本人の手による可能性が高いと考えられています。
    また、額縁は修復中にパネル裏で発見されたデザインをもとに新たに制作されたそうです。

  • 聖母子と天使たち:クエンティン・マサイス  , 1500年頃-1509年頃

    聖母子と天使たち:クエンティン・マサイス , 1500年頃-1509年頃

  • エジプト逃避行の休息:パルミジャニーノ , 1523-24年<br /><br />パルミジャニーノ「パルマの小さな人」の愛称で呼ばれたイタリア人画家、ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラが20歳頃に描いた初期の作品で、既に人物の優美な姿にパルミジャニーノらしさが感じられます。

    エジプト逃避行の休息:パルミジャニーノ , 1523-24年

    パルミジャニーノ「パルマの小さな人」の愛称で呼ばれたイタリア人画家、ジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラが20歳頃に描いた初期の作品で、既に人物の優美な姿にパルミジャニーノらしさが感じられます。

  • アダムとイブ:ルーカス・クラーナハ(父), 1526年

    アダムとイブ:ルーカス・クラーナハ(父), 1526年

  • ヤン・ブリューゲル一家:ピーテル・パウル・ルーベンス , 1613-1615年頃<br /><br />この作品は、ピーテル・ブリューゲル(父)の息子である画家ヤン・ブリューゲル(父)と親交の深かったピーテル・パウル・ルーベンスによって、1613年から1615年頃に描かれたと考えられています。<br /><br />当初は、ヤンの2度目の妻カタリーナと、その子どもたちのうち2人、ピーテルとエリザベートが描かれた家族肖像でした。<br />制作年は、子どもたちの年齢や成長の程度から推定されています。<br /><br />ヤン・ブリューゲル(父)は1625年、アントワープで流行していた疫病(ペストまたはコレラとされます)により、56歳で急逝しました。同年に何人かの子どもも亡くなったと伝えられていますが、亡くなった人物の特定には至っていません。<br /><br />ヤン・ブリューゲル(父)は生涯に2度結婚し、10人以上の子どもがいたとされます。<br />そのうち消息が明らかになっているのは、最初の妻イザベラとの間に生まれ、父の画業を継いで画家となった息子ヤン・ブリューゲル(子)と、後に画家ダーフィット・テニールス(子)と結婚した娘アンナの2人だけです。<br />本作に描かれているピーテルとエリザベートについては、その後の記録や文献は確認されていません。<br /><br />後年になって、画面左側にヤン・ブリューゲル(父)本人の姿が加筆されたとされていますが、加筆の時期や理由は明らかになっていません。<br />構図のバランスを整えるためだったという見解もありますが、私には、この静かに家族を見つめるヤンの姿には、単なる視覚的補完を超えた意味が込められているように感じられます。<br /><br />加筆されたヤンの姿は、むしろ絵の中でやや浮いて見え、画面のバランスを崩しているようにも思えます。<br />それでも、家族を見守るかのように描かれたその存在には、ルーベンスが込めた「追悼」や「記憶」の思いが投影されているのではないでしょうか。<br />そこには、物理的な一体感ではなく、精神的なつながりの表現が感じられます。

    ヤン・ブリューゲル一家:ピーテル・パウル・ルーベンス , 1613-1615年頃

    この作品は、ピーテル・ブリューゲル(父)の息子である画家ヤン・ブリューゲル(父)と親交の深かったピーテル・パウル・ルーベンスによって、1613年から1615年頃に描かれたと考えられています。

    当初は、ヤンの2度目の妻カタリーナと、その子どもたちのうち2人、ピーテルとエリザベートが描かれた家族肖像でした。
    制作年は、子どもたちの年齢や成長の程度から推定されています。

    ヤン・ブリューゲル(父)は1625年、アントワープで流行していた疫病(ペストまたはコレラとされます)により、56歳で急逝しました。同年に何人かの子どもも亡くなったと伝えられていますが、亡くなった人物の特定には至っていません。

    ヤン・ブリューゲル(父)は生涯に2度結婚し、10人以上の子どもがいたとされます。
    そのうち消息が明らかになっているのは、最初の妻イザベラとの間に生まれ、父の画業を継いで画家となった息子ヤン・ブリューゲル(子)と、後に画家ダーフィット・テニールス(子)と結婚した娘アンナの2人だけです。
    本作に描かれているピーテルとエリザベートについては、その後の記録や文献は確認されていません。

    後年になって、画面左側にヤン・ブリューゲル(父)本人の姿が加筆されたとされていますが、加筆の時期や理由は明らかになっていません。
    構図のバランスを整えるためだったという見解もありますが、私には、この静かに家族を見つめるヤンの姿には、単なる視覚的補完を超えた意味が込められているように感じられます。

    加筆されたヤンの姿は、むしろ絵の中でやや浮いて見え、画面のバランスを崩しているようにも思えます。
    それでも、家族を見守るかのように描かれたその存在には、ルーベンスが込めた「追悼」や「記憶」の思いが投影されているのではないでしょうか。
    そこには、物理的な一体感ではなく、精神的なつながりの表現が感じられます。

  • バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像(模写):ピーテル・パウル・ルーベンス , 1630年<br /><br />この作品は、1514年頃にラファエロが描いたイタリアの宮廷人バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像画を、ルーベンスが模写したものです。<br />ラファエロの原画は、現在ルーヴル美術館に所蔵されています。<br /><br />ルーベンスはイタリア滞在中、あるいはアムステルダムで原画を実見した可能性があり、当時流通していた模写や版画も参考にしたと考えられます。<br />彼はラファエロに対する深い敬意と、芸術家としての競争心を込めてこの作品を模写したとされます。<br /><br />またルーベンスは画家であると同時に、外交官としても活動し、晩年には爵位を授けられた宮廷人でもありました。<br />そのため、カスティリオーネの著書『廷臣論』を通じて彼に敬意を抱いていた可能性もあるのでしょう。<br /><br />ラファエロの原画は、私にとっても特別な一枚であり、彼の肖像画の中でもとりわけ心惹かれる作品です。<br />今回このルーベンスの模写を目にし、「やはりルーベンスも、この作品の魅力に強く惹かれたのだ」と、共感を覚えました。<br /><br />ラファエロの原画は1639年、アムステルダムで競売にかけられました。<br />レンブラントは購入を試みましたが手が届かず、代わりにこの作品の模写スケッチを複数残しています。<br />それらは現在、ウィーンのアルベルティーナ美術館に所蔵されているそうですが、2023年に同館を訪れた際には、残念ながら気づきませんでした。

    バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像(模写):ピーテル・パウル・ルーベンス , 1630年

    この作品は、1514年頃にラファエロが描いたイタリアの宮廷人バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像画を、ルーベンスが模写したものです。
    ラファエロの原画は、現在ルーヴル美術館に所蔵されています。

    ルーベンスはイタリア滞在中、あるいはアムステルダムで原画を実見した可能性があり、当時流通していた模写や版画も参考にしたと考えられます。
    彼はラファエロに対する深い敬意と、芸術家としての競争心を込めてこの作品を模写したとされます。

    またルーベンスは画家であると同時に、外交官としても活動し、晩年には爵位を授けられた宮廷人でもありました。
    そのため、カスティリオーネの著書『廷臣論』を通じて彼に敬意を抱いていた可能性もあるのでしょう。

    ラファエロの原画は、私にとっても特別な一枚であり、彼の肖像画の中でもとりわけ心惹かれる作品です。
    今回このルーベンスの模写を目にし、「やはりルーベンスも、この作品の魅力に強く惹かれたのだ」と、共感を覚えました。

    ラファエロの原画は1639年、アムステルダムで競売にかけられました。
    レンブラントは購入を試みましたが手が届かず、代わりにこの作品の模写スケッチを複数残しています。
    それらは現在、ウィーンのアルベルティーナ美術館に所蔵されているそうですが、2023年に同館を訪れた際には、残念ながら気づきませんでした。

  • バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像:ラファエロ・サンティ , 1514-1515年 (2022年11月ルーブル美術館で撮影)<br /><br />ラファエロが親友カスティリオーネとの友情の証として描いた、オリジナルの肖像画です。<br /><br />カスティリオーネは、ミラノ、マントヴァ、ウルビーノといったイタリア各地の宮廷で修練を積み、ちょうどラファエロが芸術家として頭角を現し始めた頃、ウルビーノ公の妻エリザベッタ・ゴンザーガに重用されて、宮廷内での地位を確立しました。<br /><br />1504年頃には2人は親しい友人となり、翌1505年、ラファエロがウルビーノ公の命を受けて制作したイングランド王ヘンリー7世の肖像画を、カスティリオーネが使節として英国へ届けています。<br />また、彼はラファエロの代表作『アテナイの学堂』において「学術顧問」を務めた可能性があり、同作中のゾロアスター(球体を右手に持っている人)は彼をモデルにしたとも言われています。<br /><br />カスティリオーネは、理想的な宮廷人や侍女の姿を著名な人物たちの対話形式で描いた『廷臣論』を1516年に脱稿し、1528年にヴェネツィアで出版しました。この書は、上流階級の礼儀作法や教養を説いた名著としてヨーロッパ中で広く読まれ、「スプレッツァトゥーラ(努力の跡を見せない自然な優雅さ)」という概念を通じて、のちの英文学にも影響を与えました。<br /><br />この著作の中でカスティリオーネは、ラファエロに繰り返し言及し、「絵画においては、レオナルド・ダ・ヴィンチ、マンテーニャ、ラファエロ、ミケランジェロ、そしてジョルジョ・ダ・カステルフランコ(ジョルジョーネ)が最高である」と高く評価しています。

    バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像:ラファエロ・サンティ , 1514-1515年 (2022年11月ルーブル美術館で撮影)

    ラファエロが親友カスティリオーネとの友情の証として描いた、オリジナルの肖像画です。

    カスティリオーネは、ミラノ、マントヴァ、ウルビーノといったイタリア各地の宮廷で修練を積み、ちょうどラファエロが芸術家として頭角を現し始めた頃、ウルビーノ公の妻エリザベッタ・ゴンザーガに重用されて、宮廷内での地位を確立しました。

    1504年頃には2人は親しい友人となり、翌1505年、ラファエロがウルビーノ公の命を受けて制作したイングランド王ヘンリー7世の肖像画を、カスティリオーネが使節として英国へ届けています。
    また、彼はラファエロの代表作『アテナイの学堂』において「学術顧問」を務めた可能性があり、同作中のゾロアスター(球体を右手に持っている人)は彼をモデルにしたとも言われています。

    カスティリオーネは、理想的な宮廷人や侍女の姿を著名な人物たちの対話形式で描いた『廷臣論』を1516年に脱稿し、1528年にヴェネツィアで出版しました。この書は、上流階級の礼儀作法や教養を説いた名著としてヨーロッパ中で広く読まれ、「スプレッツァトゥーラ(努力の跡を見せない自然な優雅さ)」という概念を通じて、のちの英文学にも影響を与えました。

    この著作の中でカスティリオーネは、ラファエロに繰り返し言及し、「絵画においては、レオナルド・ダ・ヴィンチ、マンテーニャ、ラファエロ、ミケランジェロ、そしてジョルジョ・ダ・カステルフランコ(ジョルジョーネ)が最高である」と高く評価しています。

  • 月光の風景:ピーテル・パウル・ルーベンス , 1635-1640年頃<br /><br />晩年のルーベンスは、アントワープ郊外の別荘〈ヘット・ステーン〉で多くの時間を過ごし、営利目的ではなく、純粋に趣味として絵画を描きました。<br />経済的・社会的に大きな成功を収めた彼にとって、風景画は“自分自身のためだけに描いた”初めてのジャンルでした。<br /><br />この作品は当初、聖書の登場人物が描かれていたとされますが、後に塗りつぶされて、風景画として描き直されています。<br /><br />18世紀には、この作品は王立美術院初代会長ジョシュア・レイノルズの手に渡り、彼は美術講義の教材として用いました。<br />その後、この作品はジョン・コンスタブルをはじめとするイギリスの風景画家たちに大きな影響を与えたといわれています。

    月光の風景:ピーテル・パウル・ルーベンス , 1635-1640年頃

    晩年のルーベンスは、アントワープ郊外の別荘〈ヘット・ステーン〉で多くの時間を過ごし、営利目的ではなく、純粋に趣味として絵画を描きました。
    経済的・社会的に大きな成功を収めた彼にとって、風景画は“自分自身のためだけに描いた”初めてのジャンルでした。

    この作品は当初、聖書の登場人物が描かれていたとされますが、後に塗りつぶされて、風景画として描き直されています。

    18世紀には、この作品は王立美術院初代会長ジョシュア・レイノルズの手に渡り、彼は美術講義の教材として用いました。
    その後、この作品はジョン・コンスタブルをはじめとするイギリスの風景画家たちに大きな影響を与えたといわれています。

  • 印象派・ポスト印象派展示室(コートールド コレクション)<br /><br />印象派やポスト印象派の熱心な愛好家であったサミュエル・コートールドは、1924年に美術品の購入を目的とした「コートールド基金」を設立しました。<br />この基金は、当時イギリスでまだ十分に評価されていなかったフランス近代絵画(印象派およびポスト印象派の作品)を公共美術館に導入する大きな転機となりました。<br /><br />19世紀末から20世紀初頭のイギリスでは、アカデミズムや伝統的な風景画が主流で、マネ、モネ、ゴッホ、セザンヌらの画家たちは広く評価されていませんでした。<br />しかしコートールドは、こうした先進的な作品の芸術的価値に早くから注目し、基金を通じてスーラの『アニエールの水浴者たち』(ナショナルギャラリー収蔵)、ゴッホの『ひまわり』、ルノワールの『劇場のボックス席』などを購入し、公共美術館への収蔵を実現しました。<br /><br />さらに1932年には、セザンヌ、マネ、ドガらの傑作を含む自身の個人コレクションをコートールド・ギャラリーに寄贈し、このギャラリーの基礎を築きました。

    印象派・ポスト印象派展示室(コートールド コレクション)

    印象派やポスト印象派の熱心な愛好家であったサミュエル・コートールドは、1924年に美術品の購入を目的とした「コートールド基金」を設立しました。
    この基金は、当時イギリスでまだ十分に評価されていなかったフランス近代絵画(印象派およびポスト印象派の作品)を公共美術館に導入する大きな転機となりました。

    19世紀末から20世紀初頭のイギリスでは、アカデミズムや伝統的な風景画が主流で、マネ、モネ、ゴッホ、セザンヌらの画家たちは広く評価されていませんでした。
    しかしコートールドは、こうした先進的な作品の芸術的価値に早くから注目し、基金を通じてスーラの『アニエールの水浴者たち』(ナショナルギャラリー収蔵)、ゴッホの『ひまわり』、ルノワールの『劇場のボックス席』などを購入し、公共美術館への収蔵を実現しました。

    さらに1932年には、セザンヌ、マネ、ドガらの傑作を含む自身の個人コレクションをコートールド・ギャラリーに寄贈し、このギャラリーの基礎を築きました。

  • ラ・ロージュ(劇場のボックス):ピエール・オーギュスト・ルノワール , 1874年<br /><br />この作品は、1874年にパリで開催された「画家、彫刻家、版画家などによる匿名組合の展覧会」(のちに第1回印象派展と呼ばれる)に出品されました。<br />当時の批評では、「技巧は優れているが内容が浅い」とされ、また「観客と観られる者の視線の関係」や「女性モデルの濃い化粧」については賛否が分かれたといいます。<br /><br />「印象派(Impressionists)」という呼称は、新聞『ル・シャリヴァリ』の評論家ルイ・ルロワが、モネの《印象・日の出》を評して「これは単なる印象にすぎない」と揶揄したことに由来します。<br />当時は「未完成の習作のようだ」「子どもの絵」「色使いが野蛮だ」といった否定的意味合いで使われていました。<br /><br />しかし今日では、この作品は創造性と革新性の象徴とされ、近代美術における人物表現の出発点として高く評価されています。<br />そして、「印象派」という言葉も、今では栄光ある芸術名として定着しています。

    ラ・ロージュ(劇場のボックス):ピエール・オーギュスト・ルノワール , 1874年

    この作品は、1874年にパリで開催された「画家、彫刻家、版画家などによる匿名組合の展覧会」(のちに第1回印象派展と呼ばれる)に出品されました。
    当時の批評では、「技巧は優れているが内容が浅い」とされ、また「観客と観られる者の視線の関係」や「女性モデルの濃い化粧」については賛否が分かれたといいます。

    「印象派(Impressionists)」という呼称は、新聞『ル・シャリヴァリ』の評論家ルイ・ルロワが、モネの《印象・日の出》を評して「これは単なる印象にすぎない」と揶揄したことに由来します。
    当時は「未完成の習作のようだ」「子どもの絵」「色使いが野蛮だ」といった否定的意味合いで使われていました。

    しかし今日では、この作品は創造性と革新性の象徴とされ、近代美術における人物表現の出発点として高く評価されています。
    そして、「印象派」という言葉も、今では栄光ある芸術名として定着しています。

  • フォリー・ベルジェールのバー:エドゥアール・マネ, 1882年<br /><br />パリの人気ミュージックホール「フォリー・ベルジェール」のバー・カウンターに立つバーメイド、シュザンヌを描いた作品です。<br />彼女の表情は曖昧で、疲労や諦念、あるいは観客との隔たりを示しているようにも見えます。この時代のバーメイドは、しばしば娼婦としての役割も担っていたことから、作品には社会的背景も色濃く反映されています。<br /><br />この絵は、マネが亡くなる前年に完成させた晩年の作品で、彼自身が強く希望してサロンに出品されました。完成にあたっては、細部にまで極めて慎重に筆を入れています。<br />しかし、当時の評価は決して芳しいものではありませんでした。多くの批評家は、鏡に映る人物の構図が不自然で、特にバーメイドの正面の姿と、鏡に映る背後の男性との関係が空間的に破綻しているとして、「絵画のルールを無視している」と批判しました。<br />また、女性の無表情さや冷たい視線も「娯楽の場にふさわしくない」とされ、感情の乏しさが否定的に受け止められました。<br /><br />しかし現在では、こうした不自然さこそが、近代都市に生きる個人の孤独や、表と裏の二重性を象徴していると解釈されています。<br />鏡の像によって視覚的・心理的な奥行きを生み出したこの作品は、モダンアートの傑作として高く評価され、コートールド・ギャラリーのアイコン的存在となっています。

    フォリー・ベルジェールのバー:エドゥアール・マネ, 1882年

    パリの人気ミュージックホール「フォリー・ベルジェール」のバー・カウンターに立つバーメイド、シュザンヌを描いた作品です。
    彼女の表情は曖昧で、疲労や諦念、あるいは観客との隔たりを示しているようにも見えます。この時代のバーメイドは、しばしば娼婦としての役割も担っていたことから、作品には社会的背景も色濃く反映されています。

    この絵は、マネが亡くなる前年に完成させた晩年の作品で、彼自身が強く希望してサロンに出品されました。完成にあたっては、細部にまで極めて慎重に筆を入れています。
    しかし、当時の評価は決して芳しいものではありませんでした。多くの批評家は、鏡に映る人物の構図が不自然で、特にバーメイドの正面の姿と、鏡に映る背後の男性との関係が空間的に破綻しているとして、「絵画のルールを無視している」と批判しました。
    また、女性の無表情さや冷たい視線も「娯楽の場にふさわしくない」とされ、感情の乏しさが否定的に受け止められました。

    しかし現在では、こうした不自然さこそが、近代都市に生きる個人の孤独や、表と裏の二重性を象徴していると解釈されています。
    鏡の像によって視覚的・心理的な奥行きを生み出したこの作品は、モダンアートの傑作として高く評価され、コートールド・ギャラリーのアイコン的存在となっています。

  • 花瓶の花:クロード・モネ , 1881年着手

    花瓶の花:クロード・モネ , 1881年着手

  • トランプをする人々:ポール・セザンヌ , 1892年頃~1896年頃

    トランプをする人々:ポール・セザンヌ , 1892年頃~1896年頃

  • 化粧をする若い女性:ジョルジュ・スーラ , 1888年頃 - 1890年頃<br /><br />この作品は、31歳で亡くなったジョルジュ・スーラが描いた唯一の肖像画で、愛人であったマドレーヌ・クノブロシュが化粧をしている様子が描かれています。<br /><br />スーラは自身の光学理論に基づき、オレンジと青、ピンクと緑といった補色関係にある色を点描で隣り合わせることにより、強いコントラストと豊かな立体感を生み出しました。<br /><br />もともと画面左上の額縁には、鏡に映るイーゼルに立ったスーラ自身の姿が描かれていたとされますが、友人にその構図をからかわれたため、スーラは鏡を花瓶へと描き替えてしまったと言われています。

    化粧をする若い女性:ジョルジュ・スーラ , 1888年頃 - 1890年頃

    この作品は、31歳で亡くなったジョルジュ・スーラが描いた唯一の肖像画で、愛人であったマドレーヌ・クノブロシュが化粧をしている様子が描かれています。

    スーラは自身の光学理論に基づき、オレンジと青、ピンクと緑といった補色関係にある色を点描で隣り合わせることにより、強いコントラストと豊かな立体感を生み出しました。

    もともと画面左上の額縁には、鏡に映るイーゼルに立ったスーラ自身の姿が描かれていたとされますが、友人にその構図をからかわれたため、スーラは鏡を花瓶へと描き替えてしまったと言われています。

  • The Haystacks(干し草の山):ポール・ゴーギャン, 1889年頃<br /><br />ゴーギャンは、フランス北西部のブルターニュ地方ポン=タヴァンに滞在していた際に、この農村風景を描きました。<br /><br />印象派の光と色彩に影響を受けながらも、彼が確立した「クロワゾニスム(輪郭を強調した平面的構成)」の技法によって、明瞭な輪郭線と装飾的な色面で構成されています。<br />自然の風景や人物は、写実的に再現されるのではなく、内面的な理想や精神性を表現するために再構成されており、色彩も現実の光ではなく感情や象徴性に従って選ばれています。赤、金、緑など、強い色彩の対比が印象的です。<br />色彩の力で精神性を描き出そうとしたこの作品は、後のタヒチ時代に展開されるゴーギャン芸術の先駆けとなる作品です。

    The Haystacks(干し草の山):ポール・ゴーギャン, 1889年頃

    ゴーギャンは、フランス北西部のブルターニュ地方ポン=タヴァンに滞在していた際に、この農村風景を描きました。

    印象派の光と色彩に影響を受けながらも、彼が確立した「クロワゾニスム(輪郭を強調した平面的構成)」の技法によって、明瞭な輪郭線と装飾的な色面で構成されています。
    自然の風景や人物は、写実的に再現されるのではなく、内面的な理想や精神性を表現するために再構成されており、色彩も現実の光ではなく感情や象徴性に従って選ばれています。赤、金、緑など、強い色彩の対比が印象的です。
    色彩の力で精神性を描き出そうとしたこの作品は、後のタヒチ時代に展開されるゴーギャン芸術の先駆けとなる作品です。

  • 耳に包帯を巻いた自画像 :フィンセント・ファン・ゴッホ , 1889年<br /><br />ゴッホは1889年1月、同居していた画家ポール・ゴーギャンとの激しい口論の末、自ら左耳の大部分を切り落とし、入院して治療を受けました。<br />この作品は、退院してわずか1週間後に制作されたもので、鏡に映った自分の姿を描いたため、包帯が右耳に巻かれているように見えます。<br /><br />彼がかぶっている毛皮の帽子は、厚い包帯を固定すると同時に、冬の寒さを防ぐ役割を果たしています。<br />傷つき、寒く厳しい過酷な状況下で描かれたにもかかわらず、この自画像には、背後にイーゼルとカンヴァス、そして壁に貼られた彼の憧れの日本の版画が描き込まれており、創作への意志の表現とみなされています。

    耳に包帯を巻いた自画像 :フィンセント・ファン・ゴッホ , 1889年

    ゴッホは1889年1月、同居していた画家ポール・ゴーギャンとの激しい口論の末、自ら左耳の大部分を切り落とし、入院して治療を受けました。
    この作品は、退院してわずか1週間後に制作されたもので、鏡に映った自分の姿を描いたため、包帯が右耳に巻かれているように見えます。

    彼がかぶっている毛皮の帽子は、厚い包帯を固定すると同時に、冬の寒さを防ぐ役割を果たしています。
    傷つき、寒く厳しい過酷な状況下で描かれたにもかかわらず、この自画像には、背後にイーゼルとカンヴァス、そして壁に貼られた彼の憧れの日本の版画が描き込まれており、創作への意志の表現とみなされています。

  • 裸婦:アメデオ・モディリアーニ  , 1916年頃<br /><br />モディリアーニは、敬愛していたポール・ゴーギャンと同様に、ヨーロッパ以外の文化を積極的に取り入れ、西洋の美の理想に挑戦しました。<br />女性の細長い頭部や簡略化された造形には、彼がパリの民族学博物館で目にしたエジプト、アフリカ、オセアニアの彫刻からの影響が色濃く表れています。<br /><br />この作品に見られる荒々しい筆致で描かれた紅潮した顔、乱れた髪、陰毛の描写は強い官能性を帯びており、当時としては非常に挑発的なものでした。<br />1917年、パリの商業ギャラリーでモディリアーニにとって唯一の生前個展が開催され、本作を含むヌード作品が展示されました。<br />しかし、展示されていたヌード作品は“わいせつ”と見なされ、警察により展示は禁止されました。

    裸婦:アメデオ・モディリアーニ , 1916年頃

    モディリアーニは、敬愛していたポール・ゴーギャンと同様に、ヨーロッパ以外の文化を積極的に取り入れ、西洋の美の理想に挑戦しました。
    女性の細長い頭部や簡略化された造形には、彼がパリの民族学博物館で目にしたエジプト、アフリカ、オセアニアの彫刻からの影響が色濃く表れています。

    この作品に見られる荒々しい筆致で描かれた紅潮した顔、乱れた髪、陰毛の描写は強い官能性を帯びており、当時としては非常に挑発的なものでした。
    1917年、パリの商業ギャラリーでモディリアーニにとって唯一の生前個展が開催され、本作を含むヌード作品が展示されました。
    しかし、展示されていたヌード作品は“わいせつ”と見なされ、警察により展示は禁止されました。

  • 「コートールド・バッグ」として知られるバッグ:イラク、モスル(イルハン朝1300-1330年)<br />真鍮製、槌目模様、彫金、銀と金の象嵌<br /><br />コートールド・バッグは、14世紀前半のイルハン朝時代にイラク北部モスルで制作された、金銀象嵌による金属製の容器で、現存する唯一のイスラーム金属製バッグです。<br />形状は現代のハンドバッグに似ており、化粧道具や香料などを入れる携帯用容器と考えられています。表面には酒宴に興じる宮廷風景や植物文様などが精緻に描かれ、当時の宮廷文化や風俗を伝えています。モスルの高度な金工技術を示す傑作であり、美術史的にも文化史的にも貴重な資料だそうです。

    「コートールド・バッグ」として知られるバッグ:イラク、モスル(イルハン朝1300-1330年)
    真鍮製、槌目模様、彫金、銀と金の象嵌

    コートールド・バッグは、14世紀前半のイルハン朝時代にイラク北部モスルで制作された、金銀象嵌による金属製の容器で、現存する唯一のイスラーム金属製バッグです。
    形状は現代のハンドバッグに似ており、化粧道具や香料などを入れる携帯用容器と考えられています。表面には酒宴に興じる宮廷風景や植物文様などが精緻に描かれ、当時の宮廷文化や風俗を伝えています。モスルの高度な金工技術を示す傑作であり、美術史的にも文化史的にも貴重な資料だそうです。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • てつやんさん 2025/09/17 17:56:30
    憧れの旅です
    Kawausoimokoさん


    こんにちは!!
    いつもありがとうございます。
    ロンドンの旅行記にお邪魔しております。

    ビジネスクラスでヨーロッパ3週間の美術品めぐりの旅なんて、めちゃくちゃリッチな旅行ですね♪
    あこがれの旅のスタイルです。

    美術品は他国に貸出しが多々あるので、お目当ての作品が”出張中”の場合もありますね。
    しっかり下調べ、私も肝に銘じなくては…。

    コートギャラリーは行ったことがなくて、行ったつもりで勉強になりました。
    良さげな絵ばかりですね。
    4か国とのことですから、この後パリやブリュッセル、アムステルダムなどへ足を延ばされるのでしょうかね。
    (もしかしてイタリア?スペイン?)

    楽しみにしています!!
    てつやんでした

    kawausoimoko

    kawausoimokoさん からの返信 2025/09/18 13:07:14
    Re: 憧れの旅です
    てつやんさん 様

    こんにちは。
    書き込みしていただき、ありがとうございます。

    このところ、ちょっと故あって、自身の旅行記に手がつけられないので、もっぱらお気に入りの旅行記を読んで楽しませていただいています。

    ロンドンの後は、ベルギーとオランダへ行き、そして、パリから帰ってきました。
    いつか、この旅の続きを再開できたらいーなと思っています。

    これからも、てつやんさんの旅行記を楽しみにしています。

    kawausoimoko 拝



  • フィーコさん 2025/06/23 21:35:14
    ヤンは10人も子供がいた
    kawausoimokoさん こんばんは♪

    またまた絵画おんちのコメントです。

    こうやって解説付きで絵画を観せていただき、じっくりみました。

    ブリューゲル、知ってはいたのですが「父」「長男」「次男」
    家系的には次男系が続いていたようですがルーベンスが描いた
    「ヤン・ブリューゲル一家」
    コレラで息子2人とともに亡くなったと。
    ググったらヤンさん10人もお子さんいたのですね、あらら。

    >加筆は、家族を見守るように静かに立つヤンの姿を通じて、ルーベンスの亡き家族への「記憶」や「追悼」の意味が込められたものではないでしょうか。

    私もそう思います。
    見守っていらっしゃる。

    化粧をする若い女性:ジョルジュ・スーラ
    >もともと画面右上の額縁には、鏡に映るイーゼルに立ったスーラ自身の姿が描かれていたとされますが、友人にその構図をからかわれたため、スーラは鏡を花瓶へと描き替えてしまったと言われています。

    からかうのってどの時代にもどの世界にもあるのですね。
    鏡に映るイーゼルに立ったスーラさんがみてみたかった。

    チャールズ・ディケンズさんのお話に出てくるサマセット・ハウス。
    ロンドン未踏なんですが
    行く時あったら南のぐるぐる階段見に行きたいです。
    妄想が止まらない

    フィーコ

    kawausoimoko

    kawausoimokoさん からの返信 2025/06/24 11:51:56
    Re: ヤンは10人も子供がいた
    フィーコさん、こんにちは。

    つたない旅行記をじっくりご覧くださってありがとうございます。

    ご指摘の通り、誤解を招く不正確な表現だったので、その部分を訂正しました。
    1625年にヤン・ブリューゲル(父)は疫病(ペストやコレラと記述されることもあります)で亡くなりましたが、子どもたち全員が同年に亡くなったわけではなく、後に画家として活動した息子ヤン(子)など何人かは存命だったようです。

    それでも、後年になってヤン自身の姿が画面に加筆されたという点には、やはり家族を見守るような、あるいは喪失への静かな追悼の意図があったように感じられますよね。

    「見守っていらっしゃる。」というフィーコさんの言葉に、私も深くうなずきました。

    それから、スーラの鏡の話。
    からかわれて構図を変えたというのが、画家の人間味を感じさせますよね。私も、鏡の中にいたはずのスーラを一度見てみたかった……!

    サマセット・ハウスの“ぐるぐる階段”。
    おそらく、石造の優雅な螺旋階段(spiral stone staircase)のことを指しておられるのだと思いますが、残念ながら今回は非公開エリアとなっていて、見ることができませんでした。

    この階段を見学する場合には、事前に公開状況を確認されたほうが良いようです。チャールズ・ディケンズの小説にも登場していたと記憶していますので、いろいろな妄想が膨らむと思います。

    Kawausoimoko 拝

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