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ロンドン5泊という短い滞在時間の中で<br />およそ半日を充てなければならない<br />「パンプトン宮殿」への旅でしたが、<br />行って良かった。来て良かった。<br />と思えるハンプトンコート宮殿でした。<br /><br />ハンプトンコートの街や宮殿へと続く広い前庭に<br />季節の花々が風にゆれている様は<br />宮殿の風景を印象づけてくれました。<br />また見事に手入れされた庭園も素敵でしたが<br />何より私には、カラバッチョの<br />最も初期(1592年制作)の作品<br />『果物の皮を剥く少年』を観ることが叶ったことで<br />とても充実した時間となりました。<br /><br />カラヴァッジョを観にハンプトン宮殿に<br />旅しようと決めてから<br />16世紀のイングランドの歴史を紐解いてみたところ、<br />世界史で習った遠い記憶が蘇ってきましたが<br />ここまで、王位継承を巡る身内の愛憎劇が繰り広げられた<br />時代であったことは記憶の彼方になっていました。<br /><br />この愛憎劇の一方でヘンリー7世、ヘンリー8世のこの時代<br />イングランドのみでならずウェールズ、アイルランドの<br />統治権も手中に収めイギリスを一つの主権国家としての<br />統合の土台を築いていった。<br />またヘンリー8世は、自らの離婚問題を契機に<br />ローマ・カトリック教会と決別し、議会をも牛耳って宗教改革を<br />推し進めるなど政治体制を構築した。<br />こうした政治手腕を発揮し当時の欧州の弱小国から<br />欧州の強国への礎を築いた国王としてもその名を残した。<br /><br />事前準備の一環として<br />このような歴史を読み返しながら<br />血生臭く、ドロドロとしていて<br />気が重くなったことなど思い出しましたが、<br />忘備録として残してみました。<br />このところは(⌒-⌒; )スルーしてくださっても大丈夫です。<br /><br />広い見事な庭園で偶然出会った<br />たくさんのブラスバンドの行進♪♪は爽やかでした。<br /><br />

『ロンドンから列車で1時間ハンプトンコート宮殿にカラバッチヨの絵を訪ねて』~ ヨーロッパ2023夏・ロンドン3日目』

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2023/07/02 - 2023/07/02

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69

あの街から

あの街からさん

ロンドン5泊という短い滞在時間の中で
およそ半日を充てなければならない
「パンプトン宮殿」への旅でしたが、
行って良かった。来て良かった。
と思えるハンプトンコート宮殿でした。

ハンプトンコートの街や宮殿へと続く広い前庭に
季節の花々が風にゆれている様は
宮殿の風景を印象づけてくれました。
また見事に手入れされた庭園も素敵でしたが
何より私には、カラバッチョの
最も初期(1592年制作)の作品
『果物の皮を剥く少年』を観ることが叶ったことで
とても充実した時間となりました。

カラヴァッジョを観にハンプトン宮殿に
旅しようと決めてから
16世紀のイングランドの歴史を紐解いてみたところ、
世界史で習った遠い記憶が蘇ってきましたが
ここまで、王位継承を巡る身内の愛憎劇が繰り広げられた
時代であったことは記憶の彼方になっていました。

この愛憎劇の一方でヘンリー7世、ヘンリー8世のこの時代
イングランドのみでならずウェールズ、アイルランドの
統治権も手中に収めイギリスを一つの主権国家としての
統合の土台を築いていった。
またヘンリー8世は、自らの離婚問題を契機に
ローマ・カトリック教会と決別し、議会をも牛耳って宗教改革を
推し進めるなど政治体制を構築した。
こうした政治手腕を発揮し当時の欧州の弱小国から
欧州の強国への礎を築いた国王としてもその名を残した。

事前準備の一環として
このような歴史を読み返しながら
血生臭く、ドロドロとしていて
気が重くなったことなど思い出しましたが、
忘備録として残してみました。
このところは(⌒-⌒; )スルーしてくださっても大丈夫です。

広い見事な庭園で偶然出会った
たくさんのブラスバンドの行進♪♪は爽やかでした。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
4.0
交通手段
鉄道 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 目指すパンプトンコート宮殿へは<br />ビクトリアステーションから出発する列車で向かいました。

    目指すパンプトンコート宮殿へは
    ビクトリアステーションから出発する列車で向かいました。

  • 列車(電車)旅が大好きな<br />あの街から<br />ホームに入ってくる列車を見ただけで<br />もうワクワク(⌒▽⌒)しています。

    列車(電車)旅が大好きな
    あの街から
    ホームに入ってくる列車を見ただけで
    もうワクワク(⌒▽⌒)しています。

  • Victoria駅で乗車し<br />途中<br />Clapham Junction駅で乗り換えます。<br /><br /><br /><br />

    Victoria駅で乗車し
    途中
    Clapham Junction駅で乗り換えます。



  • Clapham Junction駅で乗り換えた列車で<br />ハンプトンコート駅に向かう途中<br />ウィンブルドン駅を通過<br /><ウィンブルドン・センターコート>が瞬間見えました。<br /><br />この旅の「序章編」に詳しく書いたのですが<br />当初の予定でこの夏の旅は、ロンドン発の旅になる予定でした。<br />しかし、ロンドンのホテルを予約しようとして<br />検索をしたところ、<br />1泊3万円以下のホテルは軒並み満室。<br />調べてみるとテニスのウインブルドン大会<br />期間に当たっていることが分かりました。<br />これではおよそ1ヶ月の旅は続けられないと<br />日程をパリと交換したのでした。<br /><br />この日通りかかったウィンブルドン駅は<br />大会の合間なのかひっそりとしていました。

    Clapham Junction駅で乗り換えた列車で
    ハンプトンコート駅に向かう途中
    ウィンブルドン駅を通過
    <ウィンブルドン・センターコート>が瞬間見えました。

    この旅の「序章編」に詳しく書いたのですが
    当初の予定でこの夏の旅は、ロンドン発の旅になる予定でした。
    しかし、ロンドンのホテルを予約しようとして
    検索をしたところ、
    1泊3万円以下のホテルは軒並み満室。
    調べてみるとテニスのウインブルドン大会
    期間に当たっていることが分かりました。
    これではおよそ1ヶ月の旅は続けられないと
    日程をパリと交換したのでした。

    この日通りかかったウィンブルドン駅は
    大会の合間なのかひっそりとしていました。

  • ガイドブックやブログを見ると<br />ビクトリア駅またはウォータールー駅<br />からハンプトンコート駅まで35分とか45分とか<br />載っていますが、私たちの場合は乗り換え時間や<br />駅からハンプトンコート宮殿への歩く時間を加えると<br />1時間はかかりました。<br /><br />日程を組む時には1時間程はみておくと<br />良いかなと思います。

    ガイドブックやブログを見ると
    ビクトリア駅またはウォータールー駅
    からハンプトンコート駅まで35分とか45分とか
    載っていますが、私たちの場合は乗り換え時間や
    駅からハンプトンコート宮殿への歩く時間を加えると
    1時間はかかりました。

    日程を組む時には1時間程はみておくと
    良いかなと思います。

    ハンプトンコート駅

  • ハンプトンコート駅からゆっくりと歩いて<br />ハンプトンコート宮殿までは8分ほど。<br />列車を降りた人たちのほとんどがハンプトンコート宮殿へ<br />向かう人たちで人波についてゆけば良いのですが<br />たとえば<br />ハンプトンコート駅舎でトイレへ行ったり<br />売店でパンや飲み物などを調達している間に<br />先ほど一緒の到着した人たちが誰もいなくなっても<br />大丈夫。駅には、日本語の案内が出ていました。<br />もち<br />Googleマップがあれば問題はありませんね。<br />

    イチオシ

    ハンプトンコート駅からゆっくりと歩いて
    ハンプトンコート宮殿までは8分ほど。
    列車を降りた人たちのほとんどがハンプトンコート宮殿へ
    向かう人たちで人波についてゆけば良いのですが
    たとえば
    ハンプトンコート駅舎でトイレへ行ったり
    売店でパンや飲み物などを調達している間に
    先ほど一緒の到着した人たちが誰もいなくなっても
    大丈夫。駅には、日本語の案内が出ていました。
    もち
    Googleマップがあれば問題はありませんね。

  • ハンプトンコート宮殿は、<br />ロンドン中央部の南西約20キロメートル<br />テムズ川の上流に位置しています。<br />宮殿の建物とその庭を合わせた全体の敷地面積は、<br />66エイカー(東京ドームおよそ6個分)と広大です。<br /><br />ウィリアム3世はヴェルサイユ宮殿に張り合うために<br />1689~1694年に改築しました。<br />その結果、テューダーとバロックの全く別の建築様式で構成され<br />1部は今もそのまま残されています。<br /><br /> <br /><br />

    ハンプトンコート宮殿は、
    ロンドン中央部の南西約20キロメートル
    テムズ川の上流に位置しています。
    宮殿の建物とその庭を合わせた全体の敷地面積は、
    66エイカー(東京ドームおよそ6個分)と広大です。

    ウィリアム3世はヴェルサイユ宮殿に張り合うために
    1689~1694年に改築しました。
    その結果、テューダーとバロックの全く別の建築様式で構成され
    1部は今もそのまま残されています。



  • テムズ川に架かる橋を渡ると<br />右はるか前方にハンプトンコート宮殿が見えてきます。<br /><br />

    テムズ川に架かる橋を渡ると
    右はるか前方にハンプトンコート宮殿が見えてきます。

  • 宮殿に続く前庭はお花畑になっていて<br />四季折々の花が咲いていて<br />観光客をあたたかく迎えてくれています。<br />

    宮殿に続く前庭はお花畑になっていて
    四季折々の花が咲いていて
    観光客をあたたかく迎えてくれています。

  • 一面に咲いている <br />黄色、紫、白の可憐んな花々に混じって<br />真っ赤なポピーがとても綺麗でした。<br /><br />

    一面に咲いている 
    黄色、紫、白の可憐んな花々に混じって
    真っ赤なポピーがとても綺麗でした。

  • 宮殿へと続くこの道の風景を見ただけでも<br />あぁ やって来て良かった。と<br />旅心が満たされてゆくのを感じました。<br /><br />

    宮殿へと続くこの道の風景を見ただけでも
    あぁ やって来て良かった。と
    旅心が満たされてゆくのを感じました。

    ハンプトン コート パレス 城・宮殿

  • 正面の門は、戦勝門と呼ばれていおり<br />戦勝門を入ると、広い前庭が広がっています。<br />前庭の左手にはチケットオフィスとギフトショップがあります。<br /><br />私たちは、事前にネットで予約しておきました。<br />1人 23.2£(カード請求レート 177.6円で4,120円)

    正面の門は、戦勝門と呼ばれていおり
    戦勝門を入ると、広い前庭が広がっています。
    前庭の左手にはチケットオフィスとギフトショップがあります。

    私たちは、事前にネットで予約しておきました。
    1人 23.2£(カード請求レート 177.6円で4,120円)

  • 天文時計から中庭に続く門楼は、ヘンリー8世の<br />2度目の王妃アン・ブーリン門として知られています。<br />ヘンリー8世が彼女を処刑した時、<br />門の上の彼女の居室の建設は、まだ建設途中でした。<br />門楼には、その後1540年に天文時計が飾られました。<br /><br />ヘンリー8世が居住した時代<br />新しい宮殿の建築は、ウルジー(後出人物)による<br />設計を踏襲し、垂直式ゴシックに強く影響を受けた<br />テューダー様式とイタリアのルネサンス様式が調和したものでした。<br />

    天文時計から中庭に続く門楼は、ヘンリー8世の
    2度目の王妃アン・ブーリン門として知られています。
    ヘンリー8世が彼女を処刑した時、
    門の上の彼女の居室の建設は、まだ建設途中でした。
    門楼には、その後1540年に天文時計が飾られました。

    ヘンリー8世が居住した時代
    新しい宮殿の建築は、ウルジー(後出人物)による
    設計を踏襲し、垂直式ゴシックに強く影響を受けた
    テューダー様式とイタリアのルネサンス様式が調和したものでした。

  • いよいよヘンリー8世の居城でもあった宮殿に入ってきました。<br />

    いよいよヘンリー8世の居城でもあった宮殿に入ってきました。

  • ヘンリー8世の部屋だったこの部屋を謁見室としました。<br />大広間の隣にあり、黄金色の装飾の天井と壁のタペストリーが、<br />いかにも元々はヘンリー8世の部屋だったことを知らされます。<br /><br />

    ヘンリー8世の部屋だったこの部屋を謁見室としました。
    大広間の隣にあり、黄金色の装飾の天井と壁のタペストリーが、
    いかにも元々はヘンリー8世の部屋だったことを知らされます。

  • ゲームを楽しむ部屋

    ゲームを楽しむ部屋

  • 『ハンプトンコート宮殿に絡んだ<br />    王家の物語がここから始まります』<br /><br />1485年8月<br />ボズワースの戦いに勝利した<br />ヘンリー7世(在位1485年~1509年)は<br />「イングランドの王、ウェールズ太公、アイルランド君主」への<br />即位を宣言した。とはいえ<br />ウェールズの田舎豪族出身のヘンリー7世が<br />その正当性を示すのは難しかった。<br />即位から3ヶ月後初めての議会を招集、<br />有力貴族から支持集めを成功させた。<br />次に、翌1486年亡きエドワード4世の長女と結婚。<br />直系でない王が継承の正当性を保証される手段でもあった。<br /><br />ウェールズ出身のヘンリー7世は、<br />ウェールズで絶大な支持を集めていた。<br />長年、イングランドから苦しめられてきた<br />ウェールズの民にしてみれば<br />ヘンリーは救済者であり「アーサー王」の再来と崇められた。<br />また、イングランド国内での王権の<br />安泰にも力を注いだ。<br />いまだに王家を凌ぐ有力貴族が数多く、<br />ヘンリーはこれら有力貴族同士の婚姻を制限したり<br />勅令に逆らう者への罰金制度を強化。<br />裁判収入や関税などを復活させ、<br />さらに裁判官、法務総裁、庶民院議長の<br />要職就任を有力者たちと<br />高値で取引し収入を確保した。<br />そして、地方の統治にあたっては<br />爵位を有する貴族の下の<br /><ジェントリー>と呼ばれる<br />中小地主を無給で治安判事を命じ<br />各地の司法・行政を託していった。<br />

    『ハンプトンコート宮殿に絡んだ
        王家の物語がここから始まります』

    1485年8月
    ボズワースの戦いに勝利した
    ヘンリー7世(在位1485年~1509年)は
    「イングランドの王、ウェールズ太公、アイルランド君主」への
    即位を宣言した。とはいえ
    ウェールズの田舎豪族出身のヘンリー7世が
    その正当性を示すのは難しかった。
    即位から3ヶ月後初めての議会を招集、
    有力貴族から支持集めを成功させた。
    次に、翌1486年亡きエドワード4世の長女と結婚。
    直系でない王が継承の正当性を保証される手段でもあった。

    ウェールズ出身のヘンリー7世は、
    ウェールズで絶大な支持を集めていた。
    長年、イングランドから苦しめられてきた
    ウェールズの民にしてみれば
    ヘンリーは救済者であり「アーサー王」の再来と崇められた。
    また、イングランド国内での王権の
    安泰にも力を注いだ。
    いまだに王家を凌ぐ有力貴族が数多く、
    ヘンリーはこれら有力貴族同士の婚姻を制限したり
    勅令に逆らう者への罰金制度を強化。
    裁判収入や関税などを復活させ、
    さらに裁判官、法務総裁、庶民院議長の
    要職就任を有力者たちと
    高値で取引し収入を確保した。
    そして、地方の統治にあたっては
    爵位を有する貴族の下の
    <ジェントリー>と呼ばれる
    中小地主を無給で治安判事を命じ
    各地の司法・行政を託していった。

  • 当時のヨーロッパは弱肉強食の世界だった。<br />弱小国に成り下がっていたイングランドは、<br />ヨーロッパの強国から<br />虎視眈々と狙われていた。<br />あちらこちらで戦火があがっている時代、<br />ヨーロッパの西部ではフランスと<br />新興国のスペインと敵対が始まっていた。 <br />両国との間で均衡を保っておこうとした<br />ヘンリーは、スペインに近づいていった。<br />スペインのイザベル1世と<br />フェルナンド2世の末娘カテリーナを<br />自身の皇太子アーサーと結婚させたのである。<br /><br />いわばイングランドとスペインとの政略結婚により<br />1501年11月14日<br />アーサー王太子(ヘンリー8世の兄)と<br />キャサリン・オブ・アラゴンは<br />セント・ポール大聖堂で華燭の典を挙げた。<br /><br />12月にアーサーは静養のため<br />バーミンガムの西方60kmほどに在る<br />ラドロー城に赴くが、流行の感冒にかかり、<br />1502年4月急逝した。<br />それは婚儀の20週後のことだった。<br /><br />2人の結婚に先立ち、ヘンリー7世の三男<br />エドマンド王子も夭折している。<br />よって、後継者の男子は<br />次男ヘンリー王子(後の8世)のみとなり、<br />ヘンリー7世は王朝の安泰と<br />スペインおよびハプスブルク家との関係を次男に託すこととなった。<br />

    当時のヨーロッパは弱肉強食の世界だった。
    弱小国に成り下がっていたイングランドは、
    ヨーロッパの強国から
    虎視眈々と狙われていた。
    あちらこちらで戦火があがっている時代、
    ヨーロッパの西部ではフランスと
    新興国のスペインと敵対が始まっていた。 
    両国との間で均衡を保っておこうとした
    ヘンリーは、スペインに近づいていった。
    スペインのイザベル1世と
    フェルナンド2世の末娘カテリーナを
    自身の皇太子アーサーと結婚させたのである。

    いわばイングランドとスペインとの政略結婚により
    1501年11月14日
    アーサー王太子(ヘンリー8世の兄)と
    キャサリン・オブ・アラゴンは
    セント・ポール大聖堂で華燭の典を挙げた。

    12月にアーサーは静養のため
    バーミンガムの西方60kmほどに在る
    ラドロー城に赴くが、流行の感冒にかかり、
    1502年4月急逝した。
    それは婚儀の20週後のことだった。

    2人の結婚に先立ち、ヘンリー7世の三男
    エドマンド王子も夭折している。
    よって、後継者の男子は
    次男ヘンリー王子(後の8世)のみとなり、
    ヘンリー7世は王朝の安泰と
    スペインおよびハプスブルク家との関係を次男に託すこととなった。

  • 当時、若い未亡人は持参金とともに<br />帰国するのが常識だったが、<br />ヘンリー7世側も巨額の持参金の返却を惜しんだ下心から、<br />ヘンリー王子(ヘンリー8世)との婚約を持ちかけた。<br />ヘンリー7世にとってこの縁組は本意ではなく、<br />再婚問題を先延ばししつつ、<br />翌年王妃が死去すると、キャサリンを自身の後妻に要求した。<br />さすがに厚顔無恥なこの申し出にスペイン側が硬化し、<br />イサベル女王は激怒。<br />第二次イタリア戦争で優勢なスペインに対し、<br />ヘンリー7世はこの要求をただちに<br />取り下げる一方、<br />当時11歳だったヘンリー王子が<br />成人に達してから結婚することとし<br />1503年6月23日<br />正式にヘンリー王子との婚約がイングランド・スペイン<br />双方の合意で成立した。<br /><br />その頃、聖ヨハネ騎士団はこの地ハンプトンコートで<br />1236年以来荘園を開いていた。<br />1505年、侍従長のサー・ジャイルズ・ドーベニーは、<br />ヘンリー7世に資産を貸し出し地域での力を保とうとした。<br /><br />こうして、権力基盤を固めたヘンリー7世は、<br />後の歴史家から<br />「イングランド史上最も有能な実務家として国政を取り仕切った王」<br />とも言われた。<br />1509年4月 52歳の生涯を閉じた。<br />

    当時、若い未亡人は持参金とともに
    帰国するのが常識だったが、
    ヘンリー7世側も巨額の持参金の返却を惜しんだ下心から、
    ヘンリー王子(ヘンリー8世)との婚約を持ちかけた。
    ヘンリー7世にとってこの縁組は本意ではなく、
    再婚問題を先延ばししつつ、
    翌年王妃が死去すると、キャサリンを自身の後妻に要求した。
    さすがに厚顔無恥なこの申し出にスペイン側が硬化し、
    イサベル女王は激怒。
    第二次イタリア戦争で優勢なスペインに対し、
    ヘンリー7世はこの要求をただちに
    取り下げる一方、
    当時11歳だったヘンリー王子が
    成人に達してから結婚することとし
    1503年6月23日
    正式にヘンリー王子との婚約がイングランド・スペイン
    双方の合意で成立した。

    その頃、聖ヨハネ騎士団はこの地ハンプトンコートで
    1236年以来荘園を開いていた。
    1505年、侍従長のサー・ジャイルズ・ドーベニーは、
    ヘンリー7世に資産を貸し出し地域での力を保とうとした。

    こうして、権力基盤を固めたヘンリー7世は、
    後の歴史家から
    「イングランド史上最も有能な実務家として国政を取り仕切った王」
    とも言われた。
    1509年4月 52歳の生涯を閉じた。

  • 王位を継承した18歳の若き国王ヘンリー8世は、父王の喪が明けぬ<br />6月11日にキャサリンと立会人1人だけの結婚式を強引に挙げた。<br />こうしてキャサリンはイングランド王妃となり、<br />6月30日に戴冠式が執り行われた。<br /><br />長身で強靭な体格に恵まれた18歳の王は野心満々であった。<br />彼は生前の父の慎重な政策を嫌いイングランドを<br />更にヨーロッパの1流国に<br />伸し上げようと躍起になってゆく。<br /><br />ヨーロッパ政治の中心は、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)と<br />フランス王国であり、ヘンリーはハプスブルク家側に付いて<br />国際社会における地歩固めをする意義があった。<br /><br />アーサーとの死別以来8年近く苦境にあったキャサリンにとって、<br />結婚と戴冠は幸福の絶頂であった。<br />ヘンリー8世は、薄幸の女性を救い王妃にしたことで、<br />誇らしい気持ちであった。一方キャサリンに母性をも求めた。<br />キャサリンはヘンリー8世に対し、<br />政策面でも強い影響力を持つようになった。<br />このようにして夫婦仲は、非常に円満であった。<br /><br />こうした野心家の青年王の初期の治世を支えたのが<br />トマス・ウルジーだった。<br />ウルジーは、<br />ヘンリー7世の治世の1507年に王室礼拝堂付き司祭となり、<br />ヘンリー7世に能力を買われ外交使節を務めた。<br />しかし慎重なヘンリー7世から警戒され出世しなかったという。<br /><br />その後、<br />トマス・ウルジーはヘンリー8世の非公式の秘書官に抜擢されて<br />王と顧問官たちのパイプ役を務め枢密顧問官となった。<br />1513年のヘンリー8世のフランス遠征に伴う兵站<br />王への豪華な調度品移送などの準備に奔走した功績で<br />王の目にとまり<br />ヘンリー8世の治世初期に寵臣として抜擢、信任を得て<br />内政・外交に辣腕を振るった。<br />

    王位を継承した18歳の若き国王ヘンリー8世は、父王の喪が明けぬ
    6月11日にキャサリンと立会人1人だけの結婚式を強引に挙げた。
    こうしてキャサリンはイングランド王妃となり、
    6月30日に戴冠式が執り行われた。

    長身で強靭な体格に恵まれた18歳の王は野心満々であった。
    彼は生前の父の慎重な政策を嫌いイングランドを
    更にヨーロッパの1流国に
    伸し上げようと躍起になってゆく。

    ヨーロッパ政治の中心は、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)と
    フランス王国であり、ヘンリーはハプスブルク家側に付いて
    国際社会における地歩固めをする意義があった。

    アーサーとの死別以来8年近く苦境にあったキャサリンにとって、
    結婚と戴冠は幸福の絶頂であった。
    ヘンリー8世は、薄幸の女性を救い王妃にしたことで、
    誇らしい気持ちであった。一方キャサリンに母性をも求めた。
    キャサリンはヘンリー8世に対し、
    政策面でも強い影響力を持つようになった。
    このようにして夫婦仲は、非常に円満であった。

    こうした野心家の青年王の初期の治世を支えたのが
    トマス・ウルジーだった。
    ウルジーは、
    ヘンリー7世の治世の1507年に王室礼拝堂付き司祭となり、
    ヘンリー7世に能力を買われ外交使節を務めた。
    しかし慎重なヘンリー7世から警戒され出世しなかったという。

    その後、
    トマス・ウルジーはヘンリー8世の非公式の秘書官に抜擢されて
    王と顧問官たちのパイプ役を務め枢密顧問官となった。
    1513年のヘンリー8世のフランス遠征に伴う兵站
    王への豪華な調度品移送などの準備に奔走した功績で
    王の目にとまり
    ヘンリー8世の治世初期に寵臣として抜擢、信任を得て
    内政・外交に辣腕を振るった。

  • 一方、ヘンリー8世との結婚生活の中、<br />キャサリンはたび重なる流産と<br />死産に見舞われることとなる。<br />その最初の妊娠は反スペイン派の攻撃を受けぬよう、<br />懐妊は極秘に伏せられたまま、翌1510年1月に女児を死産する。<br /><br />翌年1511年1月5日に男児ヘンリー王子を出産した。<br />イングランドとスペインの血を引く王子の誕生は、<br />両国関係を強固にするものでヘンリー8世の喜びは大きかった。<br />しかし盛大な祝賀行事が続く中の2月22日、<br />ヘンリー王子はわずか生後52日で死去。<br /><br />その後もキャサリンは妊娠するも流産。<br />1516年、ようやく健康な女児メアリー王女を出産。<br />ヘンリー8世はメアリーを溺愛した。<br />しかし、<br />この戦乱の世では男性の君主が望ましいと<br />ヘンリー8世はなおも王子を欲した。<br /><br />そのような状況下、トマス・ウルジーは<br />1519年の神聖ローマ皇帝選挙で<br />ヘンリー8世に出馬を決意させたが当選とはならず<br />ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世が皇帝カール5世に選出、<br />イングランドは栄光から一転して、<br />スペイン・神聖ローマ帝国を治める<br />ハプスブルク家とフランスの間で翻弄されることになった。<br /><br />やがて、ヘンリー8世は<br />王妃キャサリンの侍女メアリー・ブーリンと関係を持ちながら<br />その姉妹アン・ブーリンを求めた。<br />だがアンはメアリーと違って愛人となることを拒否し<br />正式な結婚を求めた。<br />

    一方、ヘンリー8世との結婚生活の中、
    キャサリンはたび重なる流産と
    死産に見舞われることとなる。
    その最初の妊娠は反スペイン派の攻撃を受けぬよう、
    懐妊は極秘に伏せられたまま、翌1510年1月に女児を死産する。

    翌年1511年1月5日に男児ヘンリー王子を出産した。
    イングランドとスペインの血を引く王子の誕生は、
    両国関係を強固にするものでヘンリー8世の喜びは大きかった。
    しかし盛大な祝賀行事が続く中の2月22日、
    ヘンリー王子はわずか生後52日で死去。

    その後もキャサリンは妊娠するも流産。
    1516年、ようやく健康な女児メアリー王女を出産。
    ヘンリー8世はメアリーを溺愛した。
    しかし、
    この戦乱の世では男性の君主が望ましいと
    ヘンリー8世はなおも王子を欲した。

    そのような状況下、トマス・ウルジーは
    1519年の神聖ローマ皇帝選挙で
    ヘンリー8世に出馬を決意させたが当選とはならず
    ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世が皇帝カール5世に選出、
    イングランドは栄光から一転して、
    スペイン・神聖ローマ帝国を治める
    ハプスブルク家とフランスの間で翻弄されることになった。

    やがて、ヘンリー8世は
    王妃キャサリンの侍女メアリー・ブーリンと関係を持ちながら
    その姉妹アン・ブーリンを求めた。
    だがアンはメアリーと違って愛人となることを拒否し
    正式な結婚を求めた。

  • スペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であるキャサリン<br />との離婚は容易ではなく、カトリック教会からの拒否返答により<br />王の激怒を受け、その絶大な信頼にかげりが見えてきたことを<br />悟ったウルジーは、1515年から1521年の7年間にかけて<br />14世紀のマナ・ハウスを再建して基礎を作り上げた<br />巨大なハンプトンコート宮殿を1525年、<br />惜しげもなくヘンリー8世に献上した。<br /><br />1529年 <br />王は既にアン・ブーリンと<br />ハンプトンコート宮殿で暮らし始めていた。<br />教皇への最終的な陳情も失敗したウイルジーは罷免された。<br />ヘンリー8世の重臣に対する断罪がほとんど死罪であった中で<br />ウルジーは死罪を逃れ、<br />大赦でヨーク大司教の地位だけは認められ、引退を許された。<br /><br />同年ヘンリー8世は離婚問題打破のため議会を召集<br />これが後年「宗教改革議会」とよばれることとなる。<br />更に1533年には上告禁止法を発布し、<br />イングランドは「帝国」であると宣言した。<br />翌年自らをイングランド国教会の長とするとともに、<br />カトリック教会から離脱。<br />ヘンリー8世はローマ教皇パウエル3世により破門となった。<br />

    スペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であるキャサリン
    との離婚は容易ではなく、カトリック教会からの拒否返答により
    王の激怒を受け、その絶大な信頼にかげりが見えてきたことを
    悟ったウルジーは、1515年から1521年の7年間にかけて
    14世紀のマナ・ハウスを再建して基礎を作り上げた
    巨大なハンプトンコート宮殿を1525年、
    惜しげもなくヘンリー8世に献上した。

    1529年 
    王は既にアン・ブーリンと
    ハンプトンコート宮殿で暮らし始めていた。
    教皇への最終的な陳情も失敗したウイルジーは罷免された。
    ヘンリー8世の重臣に対する断罪がほとんど死罪であった中で
    ウルジーは死罪を逃れ、
    大赦でヨーク大司教の地位だけは認められ、引退を許された。

    同年ヘンリー8世は離婚問題打破のため議会を召集
    これが後年「宗教改革議会」とよばれることとなる。
    更に1533年には上告禁止法を発布し、
    イングランドは「帝国」であると宣言した。
    翌年自らをイングランド国教会の長とするとともに、
    カトリック教会から離脱。
    ヘンリー8世はローマ教皇パウエル3世により破門となった。

  • 1533年ヘンリー8世とアン・ブーリン結婚し、<br />その年にエリザベス王女(後のエリザベス1世)が授かった。<br />しかし、その後のアンは流産や想像妊娠を経るも、<br />男子の誕生を求めるヘンリーの期待に応えることが出来ず、<br />その強い性格と優れた知性で政治に介入し、多くの敵を作った。<br /><br />1536年アンは再び妊娠した。<br />だが馬上槍試合でヘンリー8世が落馬し意識を失うという<br />知らせを聞いたアンは、衝撃を受けて流産した。<br />このことがあってからアンの没落は始まった。<br />実弟を含む5人の男が王妃との姦通で逮捕され、<br />アンもまた姦通罪、魔術を用いた罪で逮捕され、処刑された。<br /><br />1536年のアンの処刑の翌日、<br />ヘンリー8世はその侍女であったジェーン・シーモアと婚約し、<br />10日後に3度目の結婚した。<br />翌年にジェーンは<br />エドワード王子(後のエドワード6世)を出産した。<br />しかし<br />出産後の肥立ちが悪くておよそ20日後に死去。<br />ヘンリー8世は悲嘆にくれるも立ち直りをみせ<br />ウェールズをイングランドに統合し、<br />エドワード王子を世継ぎとする一方<br />新しく王位継承についての法を制定し<br />メアリー王女およびエリザベス王女を庶子の<br />身分に落として王位継承権を奪った。<br />

    イチオシ

    1533年ヘンリー8世とアン・ブーリン結婚し、
    その年にエリザベス王女(後のエリザベス1世)が授かった。
    しかし、その後のアンは流産や想像妊娠を経るも、
    男子の誕生を求めるヘンリーの期待に応えることが出来ず、
    その強い性格と優れた知性で政治に介入し、多くの敵を作った。

    1536年アンは再び妊娠した。
    だが馬上槍試合でヘンリー8世が落馬し意識を失うという
    知らせを聞いたアンは、衝撃を受けて流産した。
    このことがあってからアンの没落は始まった。
    実弟を含む5人の男が王妃との姦通で逮捕され、
    アンもまた姦通罪、魔術を用いた罪で逮捕され、処刑された。

    1536年のアンの処刑の翌日、
    ヘンリー8世はその侍女であったジェーン・シーモアと婚約し、
    10日後に3度目の結婚した。
    翌年にジェーンは
    エドワード王子(後のエドワード6世)を出産した。
    しかし
    出産後の肥立ちが悪くておよそ20日後に死去。
    ヘンリー8世は悲嘆にくれるも立ち直りをみせ
    ウェールズをイングランドに統合し、
    エドワード王子を世継ぎとする一方
    新しく王位継承についての法を制定し
    メアリー王女およびエリザベス王女を庶子の
    身分に落として王位継承権を奪った。

  • 1540年4度目の結婚は<br />ドイツの出身のアン・オブ・クレーヴズと<br />肖像画によって見合い結婚。<br />結婚後すぐにアンが以前に別の男と婚約していたとして<br />結婚は無効とされたがアンは離婚に強く抵抗せず半年で離婚。<br /><br />ヘンリー8世が学識にあふれ、音楽やダンスを好んだのに対し、<br />アンは、故国のラインラントの貴族女性の必須教育は刺繍など<br />だったこともありラインラントのドイツ語しか話すことも<br />書くこともできず、まして音楽やダンスの教育も受けていなかった。<br />離婚によって、アンは「王の妹」としての地位を得て、<br />2軒の家と十分な年金を約束されて、平和裏に王のもとを去った。<br />離婚後は王とも良好な関係を保っていた。アンは王室の行事のたびに、<br />国王やその子どもたちへ出向き、周囲からは非常に好かれていた。<br /><br />その後、ヘンリーは、2番目の妻であるアン・ブーリンの従妹<br />キャサリン・ハワードと5度目の結婚。<br />若い王妃に夢中になり、クロムウェルの土地や<br />おびただしい宝石をキャサリンに与えた。<br />ところが<br />キャサリンは以前に婚約していたフランシス・デレハムを<br />秘書として雇った。<br />王の不在中にキャサリンは姦通罪と反逆罪で告発され、<br />裁判にかけられた。<br />当初、ヘンリー8世は王妃の姦通を信じなかったが、<br />デレハムは自白した。<br />キャサリンがデレハムとのかつての婚約を認めていれば、<br />ヘンリー8世との結婚が無効になるだけで済んでいたはず<br />であるが、キャサリンは王との結婚後に<br />デレハムに姦通を強制されたと証言した。<br />一方、<br />デレハムはキャサリンがトマス・カルペパーと<br />姦通を犯していたと証言した。<br />デレハム、カルペパー、キャサリン、手引きをした侍女は、処刑された。<br />

    1540年4度目の結婚は
    ドイツの出身のアン・オブ・クレーヴズと
    肖像画によって見合い結婚。
    結婚後すぐにアンが以前に別の男と婚約していたとして
    結婚は無効とされたがアンは離婚に強く抵抗せず半年で離婚。

    ヘンリー8世が学識にあふれ、音楽やダンスを好んだのに対し、
    アンは、故国のラインラントの貴族女性の必須教育は刺繍など
    だったこともありラインラントのドイツ語しか話すことも
    書くこともできず、まして音楽やダンスの教育も受けていなかった。
    離婚によって、アンは「王の妹」としての地位を得て、
    2軒の家と十分な年金を約束されて、平和裏に王のもとを去った。
    離婚後は王とも良好な関係を保っていた。アンは王室の行事のたびに、
    国王やその子どもたちへ出向き、周囲からは非常に好かれていた。

    その後、ヘンリーは、2番目の妻であるアン・ブーリンの従妹
    キャサリン・ハワードと5度目の結婚。
    若い王妃に夢中になり、クロムウェルの土地や
    おびただしい宝石をキャサリンに与えた。
    ところが
    キャサリンは以前に婚約していたフランシス・デレハムを
    秘書として雇った。
    王の不在中にキャサリンは姦通罪と反逆罪で告発され、
    裁判にかけられた。
    当初、ヘンリー8世は王妃の姦通を信じなかったが、
    デレハムは自白した。
    キャサリンがデレハムとのかつての婚約を認めていれば、
    ヘンリー8世との結婚が無効になるだけで済んでいたはず
    であるが、キャサリンは王との結婚後に
    デレハムに姦通を強制されたと証言した。
    一方、
    デレハムはキャサリンがトマス・カルペパーと
    姦通を犯していたと証言した。
    デレハム、カルペパー、キャサリン、手引きをした侍女は、処刑された。

  • 1543年には、<br />富裕な未亡人キャサリン・パーと6度目の結婚をした。<br />キャサリン・パーは2度の結婚をしたものの、<br />いずれの夫も病死している。2番目の夫の死後<br />ヘンリー8世の3番目の妃だった<br />ジェーン・シーモアの兄トマスと交際中だった。<br />ところが宮廷に出入りするうちに ヘンリー8世に見初められ<br />ヘンリーは邪魔なトマスを公務で海外に送るとキャサリンに求婚した。<br /><br />過去に2人の妻との婚姻を無効とし、<br />2人の妻を断頭台に送ったことを承知していた<br />キャサリンはこの求婚にためらったが結局31歳で王と結婚した。<br /><br />キャサリンは教養の深いプロテスタントであり、<br />エドワード王子の教育を任された。<br />また、<br />メアリー王女およびエリザベス王女を庶子の身分から<br />王女の身分に戻しエドワード王子の下位ながら<br />王位継承権を復活させた。<br /><br />晩年、ヘンリー8世は著しく肥満し、馬上槍試合で負った<br />古傷の後遺症にも苦しみ<br />激昂すると手の付けられない状態だった。<br />しかしキャサリンは、王の看護を侍医に任せきりにせず<br />自ら献身的に看病した。<br />けれど健康は悪化する一方であったが<br />王もキャサリンに絶大な信頼を置いてた。<br />こうしてヘンリー8世は<br />1547年1月28日55歳で崩御した。<br />キャサリン・パーと結婚4年後のことであった。<br />

    1543年には、
    富裕な未亡人キャサリン・パーと6度目の結婚をした。
    キャサリン・パーは2度の結婚をしたものの、
    いずれの夫も病死している。2番目の夫の死後
    ヘンリー8世の3番目の妃だった
    ジェーン・シーモアの兄トマスと交際中だった。
    ところが宮廷に出入りするうちに ヘンリー8世に見初められ
    ヘンリーは邪魔なトマスを公務で海外に送るとキャサリンに求婚した。

    過去に2人の妻との婚姻を無効とし、
    2人の妻を断頭台に送ったことを承知していた
    キャサリンはこの求婚にためらったが結局31歳で王と結婚した。

    キャサリンは教養の深いプロテスタントであり、
    エドワード王子の教育を任された。
    また、
    メアリー王女およびエリザベス王女を庶子の身分から
    王女の身分に戻しエドワード王子の下位ながら
    王位継承権を復活させた。

    晩年、ヘンリー8世は著しく肥満し、馬上槍試合で負った
    古傷の後遺症にも苦しみ
    激昂すると手の付けられない状態だった。
    しかしキャサリンは、王の看護を侍医に任せきりにせず
    自ら献身的に看病した。
    けれど健康は悪化する一方であったが
    王もキャサリンに絶大な信頼を置いてた。
    こうしてヘンリー8世は
    1547年1月28日55歳で崩御した。
    キャサリン・パーと結婚4年後のことであった。

  • ヘンリーは死の直前に遺言し、<br />自身の死後キャサリンは王太后としてではなく<br />以後も引き続き王妃としての格式をもって接遇されること、<br />また当時破格の年7000ポンドの歳費を生涯にわたって<br />国庫から支給されることなどを定めていた。<br /><br />しかしキャサリンはエドワード6世の戴冠式を見届けると<br />早々に宮廷を退出し、<br />5月には周囲の動揺と反対を押し切って、<br />かつての恋人・海軍司令長官トマス・シーモアと再婚した。<br /><br />キャサリンは、ヘンリー8世の3人の子供たちの継母となったが<br />キャサリンとは3歳しか年が違わないメアリーは、<br />以前からキャサリンとは親しく<br />カトリックとプロテスタントという宗派の違いを越えた<br />深い信頼で結ばれていた。<br />まだ幼少のエリザベスは、初めての母親らしい存在となった<br />キャサリンに対して<br />「大好きなお母様」と呼んだ手紙が残されている。<br />子女たちが王族としての深い教養を身に着けられたのも、<br />聡明な王妃が勉学環境に<br />心を砕いた賜物だった。<br />

    ヘンリーは死の直前に遺言し、
    自身の死後キャサリンは王太后としてではなく
    以後も引き続き王妃としての格式をもって接遇されること、
    また当時破格の年7000ポンドの歳費を生涯にわたって
    国庫から支給されることなどを定めていた。

    しかしキャサリンはエドワード6世の戴冠式を見届けると
    早々に宮廷を退出し、
    5月には周囲の動揺と反対を押し切って、
    かつての恋人・海軍司令長官トマス・シーモアと再婚した。

    キャサリンは、ヘンリー8世の3人の子供たちの継母となったが
    キャサリンとは3歳しか年が違わないメアリーは、
    以前からキャサリンとは親しく
    カトリックとプロテスタントという宗派の違いを越えた
    深い信頼で結ばれていた。
    まだ幼少のエリザベスは、初めての母親らしい存在となった
    キャサリンに対して
    「大好きなお母様」と呼んだ手紙が残されている。
    子女たちが王族としての深い教養を身に着けられたのも、
    聡明な王妃が勉学環境に
    心を砕いた賜物だった。

  • そして<br />1547年1月、9歳の王子エドワードが王位を継ぎ、<br />エドワード6世となった。<br /><br />ヘンリー8世は生前、エドワードをスコットランド女王の<br />メアリー・ステュアートと結婚させスコットランドを<br />イングランドの管理下に置く構想を持っていた。<br /><br />またヘンリー8世は幼い息子を一握りの権臣が操ることを警戒し、<br />息子の成人まで統治は枢密院が行うとし、枢密院の決定には<br />枢密顧問官過半数の賛成が必要と定めた。<br />まるで、秀吉が家臣を呼んで秀頼を頼んだように。<br /><br />しかし、<br />エドワード・シーモア(エドワード6世の母方の伯父)は、<br />エドワード6世が即位するや<br />真っ先に甥エドワード6世の身柄を抑え<br />枢密顧問官たちの支持を取り付け<br />自ら摂政となってイングランドの事実上の支配者となった。<br /><br />更にヘンリー8世が失敗した、スコットランド乗っ取りに着手。<br />しかし、スコットランドと同盟関係にあったフランスの参戦で<br />またもや失敗に終わる。<br />1552年エドワード・シーモアが反逆罪で処刑されると<br /><br />今度は、ヘンリー8世の遺言でエドワード6世に代わって統治を行う<br />16人の枢密顧問官の一人に指名されていたノーサンバランド公である<br />ジョン・ダドリーが実権を握り、若き王に政治教育を行った。<br /><br />エドワード6世は比較的高齢の父(ヘンリー8世46歳)と<br />母が産後間も無く死亡したこともあってか幼年の頃から身体の弱い子だった。<br />ジョン・ダドリーは、エドワード6世の病状から崩御が近いと悟り<br />崩御後について画策する。<br /><br /><br />画像・<エドワード6世像><br />ウィリアム・スクロッツ画/1550年<br />

    そして
    1547年1月、9歳の王子エドワードが王位を継ぎ、
    エドワード6世となった。

    ヘンリー8世は生前、エドワードをスコットランド女王の
    メアリー・ステュアートと結婚させスコットランドを
    イングランドの管理下に置く構想を持っていた。

    またヘンリー8世は幼い息子を一握りの権臣が操ることを警戒し、
    息子の成人まで統治は枢密院が行うとし、枢密院の決定には
    枢密顧問官過半数の賛成が必要と定めた。
    まるで、秀吉が家臣を呼んで秀頼を頼んだように。

    しかし、
    エドワード・シーモア(エドワード6世の母方の伯父)は、
    エドワード6世が即位するや
    真っ先に甥エドワード6世の身柄を抑え
    枢密顧問官たちの支持を取り付け
    自ら摂政となってイングランドの事実上の支配者となった。

    更にヘンリー8世が失敗した、スコットランド乗っ取りに着手。
    しかし、スコットランドと同盟関係にあったフランスの参戦で
    またもや失敗に終わる。
    1552年エドワード・シーモアが反逆罪で処刑されると

    今度は、ヘンリー8世の遺言でエドワード6世に代わって統治を行う
    16人の枢密顧問官の一人に指名されていたノーサンバランド公である
    ジョン・ダドリーが実権を握り、若き王に政治教育を行った。

    エドワード6世は比較的高齢の父(ヘンリー8世46歳)と
    母が産後間も無く死亡したこともあってか幼年の頃から身体の弱い子だった。
    ジョン・ダドリーは、エドワード6世の病状から崩御が近いと悟り
    崩御後について画策する。


    画像・<エドワード6世像>
    ウィリアム・スクロッツ画/1550年

  • ジョン・ダドリーは、<br />自分の六男ギルフォードを本来は承継順位が低い<br />エドワード6世の従姉の娘ジェーン・グレイと結婚させ<br />そのジェーン・グレイを後継として指名する遺言を<br />崩御の床にあるエドワードに迫った。<br />結局エドワードはそれを了承し、<br />1553年7月6日に15歳で崩御した。<br /><br />するとジョン・ダドリーが、<br />ジェーン・グレイが女王になると宣言し、<br />ジェーンは戴冠式に備えた。<br />ダドリー一派の目論見を危険視した政府は、<br />急遽王女メアリー(メアリー1世)を<br />ロンドンへ呼び戻した。<br />7月19日、民衆の熱烈な支持を受けながら<br />メアリーは法に基づく正統の女王<br />としてロンドンに帰還した。<br />ジョンとギルフォードのダドリー親子、<br />ジェーン・グレイは反逆罪で斬首刑となった。<br />この短い期間を描き「9日間の女王」とも呼ばれ<br />映画や舞台化されている。<br />日本でも堀北真希主演舞台化されている。<br />

    ジョン・ダドリーは、
    自分の六男ギルフォードを本来は承継順位が低い
    エドワード6世の従姉の娘ジェーン・グレイと結婚させ
    そのジェーン・グレイを後継として指名する遺言を
    崩御の床にあるエドワードに迫った。
    結局エドワードはそれを了承し、
    1553年7月6日に15歳で崩御した。

    するとジョン・ダドリーが、
    ジェーン・グレイが女王になると宣言し、
    ジェーンは戴冠式に備えた。
    ダドリー一派の目論見を危険視した政府は、
    急遽王女メアリー(メアリー1世)を
    ロンドンへ呼び戻した。
    7月19日、民衆の熱烈な支持を受けながら
    メアリーは法に基づく正統の女王
    としてロンドンに帰還した。
    ジョンとギルフォードのダドリー親子、
    ジェーン・グレイは反逆罪で斬首刑となった。
    この短い期間を描き「9日間の女王」とも呼ばれ
    映画や舞台化されている。
    日本でも堀北真希主演舞台化されている。

  • エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世<br />共に子どもを残さなかったため、やがてテューダー朝は断絶し、<br />スコットランドに嫁いだヘンリー8世の姉マーガレットの曾孫、<br />ステュアート朝のジェイムス6世/1世による<br />スコットランドとイングランドの同君連合<br />(王冠連合)が成立することになる。<br /><br />ここまで、およそ100年のハンプトンコート宮殿に<br />絡んだ物語とともにイギリスの歴史を遠い記憶をたどりながら<br />「西洋とイングランドの歴史」関係本各種<br />ウイキペディアを参考資料として見てきましたが<br /><br />西洋と東洋これだけ離れた国であるヨーロッパの国々の政が<br />日本の鎌倉殿をめぐる政や秀吉や家康の政と何ら変わりないなぁ。<br />と感じた。 <br /><br />いつの世も権力者の欲望とは(;゜0゜)である。<br />

    エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世
    共に子どもを残さなかったため、やがてテューダー朝は断絶し、
    スコットランドに嫁いだヘンリー8世の姉マーガレットの曾孫、
    ステュアート朝のジェイムス6世/1世による
    スコットランドとイングランドの同君連合
    (王冠連合)が成立することになる。

    ここまで、およそ100年のハンプトンコート宮殿に
    絡んだ物語とともにイギリスの歴史を遠い記憶をたどりながら
    「西洋とイングランドの歴史」関係本各種
    ウイキペディアを参考資料として見てきましたが

    西洋と東洋これだけ離れた国であるヨーロッパの国々の政が
    日本の鎌倉殿をめぐる政や秀吉や家康の政と何ら変わりないなぁ。
    と感じた。 

    いつの世も権力者の欲望とは(;゜0゜)である。

  • 王室コレクションの絵画が<br />廊下の両側にもびっしりと飾られています。

    イチオシ

    王室コレクションの絵画が
    廊下の両側にもびっしりと飾られています。

  • 王室コレクションの絵画が<br />廊下の両側にもびっしりと飾られています。

    王室コレクションの絵画が
    廊下の両側にもびっしりと飾られています。

  • <Eleanor Need Ham>

    <Eleanor Need Ham>

  • <ジョージ2世><br />

    <ジョージ2世>

  • 王室コレクションの絵画が飾られています。

    王室コレクションの絵画が飾られています。

  • 王室コレクションの絵画が飾られています。

    王室コレクションの絵画が飾られています。

  • そしてこの奥<br />そろそろ観たいなぁ。<br />

    そしてこの奥
    そろそろ観たいなぁ。

  • この部屋の奥<br />この日開放されている部屋では<br />一番奥の部屋に<br />この日『ハンプトンコート宮殿』を訪れた理由<br />とも言えるカラバッチヨの絵画の展示室がありました。<br /><br />これまで開放されていた部屋と比べると<br />比較にならぬくらいの小さな部屋に<br />カラヴァッジョの『果物の皮を剥く少年』が飾られていました。<br />そこは入口から対角線上で オーラを放っていました。<br />あぁ 宮殿に掲げられている空間で観たいなぁ。との思いが叶いました。<br /><br />手元のカラヴァッジョの画集では個人蔵と記載されていて<br />もしもうまく鑑賞する機会があるとすれば<br />日本で開催される企画展だろうなぁ。<br />と、なれば混み混みの会場になるのだろうと案じていましたが<br />ロンドン旅を決めてから<br />いろいろ検索をかけてみたところ<br />なんと『果物の皮を剥く少年』が<br />ロイヤルコレクションの中に含まれていて<br />ロンドンのどこかで観る機会があるかも。<br />と検索を続けました。<br /><br />カラヴァッジョの『果物の皮を剥く少年』は<br />真筆かどうかの議論があるが10作品もあるという。<br />しかしそのどれもが初期の原作品に最も近いと考えられている。<br /><br />描かれている果物は原罪を表し、それを剥く行為は浄化を<br />表しているのだという。<br />その為、少年は人間の罪を贖うキリストであるとの見方もあり<br />さらにテーブルの左端に置かれた麦の穂はキリストの聖体と<br />見ることができるという。

    この部屋の奥
    この日開放されている部屋では
    一番奥の部屋に
    この日『ハンプトンコート宮殿』を訪れた理由
    とも言えるカラバッチヨの絵画の展示室がありました。

    これまで開放されていた部屋と比べると
    比較にならぬくらいの小さな部屋に
    カラヴァッジョの『果物の皮を剥く少年』が飾られていました。
    そこは入口から対角線上で オーラを放っていました。
    あぁ 宮殿に掲げられている空間で観たいなぁ。との思いが叶いました。

    手元のカラヴァッジョの画集では個人蔵と記載されていて
    もしもうまく鑑賞する機会があるとすれば
    日本で開催される企画展だろうなぁ。
    と、なれば混み混みの会場になるのだろうと案じていましたが
    ロンドン旅を決めてから
    いろいろ検索をかけてみたところ
    なんと『果物の皮を剥く少年』が
    ロイヤルコレクションの中に含まれていて
    ロンドンのどこかで観る機会があるかも。
    と検索を続けました。

    カラヴァッジョの『果物の皮を剥く少年』は
    真筆かどうかの議論があるが10作品もあるという。
    しかしそのどれもが初期の原作品に最も近いと考えられている。

    描かれている果物は原罪を表し、それを剥く行為は浄化を
    表しているのだという。
    その為、少年は人間の罪を贖うキリストであるとの見方もあり
    さらにテーブルの左端に置かれた麦の穂はキリストの聖体と
    見ることができるという。

  • ☆画像は、絵葉書から。<br /><br />この作品に多くの模写が存在するのには、そうした宗教的な<br />象徴によるのかもしれないとも言われる。<br />当時のローマでは、主題としても様式としても<br />目新しいもので<br />カラヴァッジョの後期の作品からすれば<br />まだまだ未熟とされるが<br />私には、<br />カラヴァッジョの最も初期(1592年制作)の<br />作品を鑑賞できた喜びと<br />その未熟さゆえに放っているオーラとでも言える<br />何かを感じ取ることができワクワクしました。<br /><br />だた1つ、残念だったのはこの部屋だけは撮影禁止<br />となっていたことでしょうか。<br />まぁ 作品の目の前でに佇み<br />1人じっくり鑑賞できたことに感謝しようと思う。

    ☆画像は、絵葉書から。

    この作品に多くの模写が存在するのには、そうした宗教的な
    象徴によるのかもしれないとも言われる。
    当時のローマでは、主題としても様式としても
    目新しいもので
    カラヴァッジョの後期の作品からすれば
    まだまだ未熟とされるが
    私には、
    カラヴァッジョの最も初期(1592年制作)の
    作品を鑑賞できた喜びと
    その未熟さゆえに放っているオーラとでも言える
    何かを感じ取ることができワクワクしました。

    だた1つ、残念だったのはこの部屋だけは撮影禁止
    となっていたことでしょうか。
    まぁ 作品の目の前でに佇み
    1人じっくり鑑賞できたことに感謝しようと思う。

  • さて<br />念願のカラヴァッジョの『果物の皮を剥く少年』を<br />目の前でじっくりと鑑賞することができ<br />美味しご馳走をお腹いっぱい食べた時のように<br />建物を後にしました。

    イチオシ

    さて
    念願のカラヴァッジョの『果物の皮を剥く少年』を
    目の前でじっくりと鑑賞することができ
    美味しご馳走をお腹いっぱい食べた時のように
    建物を後にしました。

  • 中庭も素敵で

    中庭も素敵で

  • テーブルセットや長椅子も設置されていて<br />思い思いに休憩やランチをしていました。

    テーブルセットや長椅子も設置されていて
    思い思いに休憩やランチをしていました。

  • 宮殿と美しい庭園の数々は1838年以来一般公開されており、<br />毎年国内外から約500万人が訪れる人気の観光地となっている。<br /><br />手入れされた木々が見事でした。

    イチオシ

    宮殿と美しい庭園の数々は1838年以来一般公開されており、
    毎年国内外から約500万人が訪れる人気の観光地となっている。

    手入れされた木々が見事でした。

  • グレート・ファウンテン・ガーデン (Great Fountain Garden)<br />マッシュルームの様な形の「イチイ」の木が印象的な庭園は、<br />メアリー2世が、オランダ人建築家のダニエル・マロットに依頼<br />見事な庭園を造園しました。<br />芝生では、みなさんがピクニック(^O^☆♪<br /><br />

    グレート・ファウンテン・ガーデン (Great Fountain Garden)
    マッシュルームの様な形の「イチイ」の木が印象的な庭園は、
    メアリー2世が、オランダ人建築家のダニエル・マロットに依頼
    見事な庭園を造園しました。
    芝生では、みなさんがピクニック(^O^☆♪

  • イギリスらしい庭のデザインといえば、ボーダー花壇。<br />冬の寒い西風から植物を守るレンガの壁(ウォール)に沿って<br />手前に低い植物、奥へ高い植物を組み合わせて、<br />細長く配置する手法で、さまざまな植物を<br />パッチワークのように組み合わせて植えていく、<br />イギリスでは当たり前に見られる手法は、<br />イギリス庭園史上もう一人の偉人として知られる<br />ガートルード・ジーキル女史が始めたものだとか。<br />イングリッシュガーデンの花壇植栽はこの手法<br />なのだろうか。<br /><br />

    イギリスらしい庭のデザインといえば、ボーダー花壇。
    冬の寒い西風から植物を守るレンガの壁(ウォール)に沿って
    手前に低い植物、奥へ高い植物を組み合わせて、
    細長く配置する手法で、さまざまな植物を
    パッチワークのように組み合わせて植えていく、
    イギリスでは当たり前に見られる手法は、
    イギリス庭園史上もう一人の偉人として知られる
    ガートルード・ジーキル女史が始めたものだとか。
    イングリッシュガーデンの花壇植栽はこの手法
    なのだろうか。

  • 遠くの方から何やら軽快な行進曲が聴こえてきました。

    遠くの方から何やら軽快な行進曲が聴こえてきました。

  • カッコいい制服に身を包んだ<br />ブラスバンドが軽快な行進曲を演奏しながら<br />やって来ました。

    カッコいい制服に身を包んだ
    ブラスバンドが軽快な行進曲を演奏しながら
    やって来ました。

  • わぁ!<br />ブラスバンドの生演奏を聴くのは<br />いつぶりだろう。<br />思い出せないほどだ。

    わぁ!
    ブラスバンドの生演奏を聴くのは
    いつぶりだろう。
    思い出せないほどだ。

  • いくつもの楽団(グループ)が<br />次々にやって来る。(⌒▽⌒)

    いくつもの楽団(グループ)が
    次々にやって来る。(⌒▽⌒)

  • 行進曲もそうだけれど<br />凛々しい!

    行進曲もそうだけれど
    凛々しい!

  • 演奏している曲も いつの間にか<br />マーチから<br />「スイート・キャロライン」「ヤングマン」<br />「ファイナル・カウントダウン」など懐かしい<br />POPSナンバーも演奏していた。(⌒▽⌒)<br />

    演奏している曲も いつの間にか
    マーチから
    「スイート・キャロライン」「ヤングマン」
    「ファイナル・カウントダウン」など懐かしい
    POPSナンバーも演奏していた。(⌒▽⌒)

  • 通り過ぎても思わず聴き耳と目で追いかけていた。(⌒▽⌒)

    通り過ぎても思わず聴き耳と目で追いかけていた。(⌒▽⌒)

  • 爽やかな白い制服で<br />楽器も種類が増え

    イチオシ

    爽やかな白い制服で
    楽器も種類が増え

  • 颯爽とマーチを奏でながら

    颯爽とマーチを奏でながら

  • 颯爽とマーチを奏でながら行進

    颯爽とマーチを奏でながら行進

  • おやおや今度のグループは<br />アメリカのテネシー州からのゲスト出演なのだろうか。

    おやおや今度のグループは
    アメリカのテネシー州からのゲスト出演なのだろうか。

  • おやおや今度のグループは<br />アメリカのテネシー州からのゲスト出演なのだろうか。

    おやおや今度のグループは
    アメリカのテネシー州からのゲスト出演なのだろうか。

  • マーチのリズム♪は心ウキウキさせてくれますね。

    マーチのリズム♪は心ウキウキさせてくれますね。

  • マーチのリズム♪は心ウキウキさせてくれますね。

    マーチのリズム♪は心ウキウキさせてくれますね。

  • ハンプトンコート宮殿のイベントには<br />ブラスバンドのパレードがあるとの情報は見かけなかったけれど<br />夏休みのこの時期に毎年あるのか、それとも偶然遭遇となったのか

    ハンプトンコート宮殿のイベントには
    ブラスバンドのパレードがあるとの情報は見かけなかったけれど
    夏休みのこの時期に毎年あるのか、それとも偶然遭遇となったのか

  • 次から次と庭園の向こうから行進してきます。

    次から次と庭園の向こうから行進してきます。

  • それでもこの先の予定があり<br />そろそろハンプトンコート宮殿を後にする時間が迫ってきました。

    それでもこの先の予定があり
    そろそろハンプトンコート宮殿を後にする時間が迫ってきました。

  • その前に、先ほど門の入口付近で見かけた<br />ミュージアムショップへ寄ってみます。<br />

    その前に、先ほど門の入口付近で見かけた
    ミュージアムショップへ寄ってみます。

  • 広い宮殿<br />まだ見切れていませんが陽が長い夏の日とはいえ<br />ゲートを後にします。<br />

    広い宮殿
    まだ見切れていませんが陽が長い夏の日とはいえ
    ゲートを後にします。

  • もう一度振り返って<br />ハンプトンコート宮殿に<br />さよならと言いました。

    イチオシ

    もう一度振り返って
    ハンプトンコート宮殿に
    さよならと言いました。

  • ハンプトンコートの駅まで歩いて8分ほど。<br />ハンプトンコートの街ともお別れです。

    ハンプトンコートの駅まで歩いて8分ほど。
    ハンプトンコートの街ともお別れです。

  • ハンプトンコート駅に戻ってきました。

    ハンプトンコート駅に戻ってきました。

  • Clapham Junction駅<br />行く時には乗り換え駅でしたが<br />帰路は、ロンドンのウォータールー駅への直通列車で<br />少しの時間停車となりました。<br /><br />パリに比べるとロンドンはまだ<br />エスカレーターがある駅が多いかなぁ。<br />それでも、どこの駅にもあるかと言ったら<br />ノーと言わざるえません。<br /><br />パリからロンドンと美術館の階段やら<br />地下鉄での移動やらで連日平均で2万3千歩超え<br />この旅がまだ始まったばかりを考慮すると<br />普段は意識して階段を歩いているところ<br />エスカレーターやエレベーターが<br />あれば、即 利用する。(⌒-⌒; )<br />これは、今まで考えられなかったことでした。

    Clapham Junction駅
    行く時には乗り換え駅でしたが
    帰路は、ロンドンのウォータールー駅への直通列車で
    少しの時間停車となりました。

    パリに比べるとロンドンはまだ
    エスカレーターがある駅が多いかなぁ。
    それでも、どこの駅にもあるかと言ったら
    ノーと言わざるえません。

    パリからロンドンと美術館の階段やら
    地下鉄での移動やらで連日平均で2万3千歩超え
    この旅がまだ始まったばかりを考慮すると
    普段は意識して階段を歩いているところ
    エスカレーターやエレベーターが
    あれば、即 利用する。(⌒-⌒; )
    これは、今まで考えられなかったことでした。

  • 終着駅までやってきました。<br />国外行きの列車の発着駅でもあり<br />記憶していた駅より随分と大きな駅でした。

    終着駅までやってきました。
    国外行きの列車の発着駅でもあり
    記憶していた駅より随分と大きな駅でした。

  • 「ウォータールー駅」<br />ウォータールーと言えば<br />ABBAのヒット曲「ウォータールー」<br />や<br />クラッシックの名画「哀愁」の舞台になったところ。<br />第一次世界大戦下のウォータールー橋のたもとで<br />出会った将校とビビアン・リー扮する娘が出逢い<br />再会を誓う有名なシーン。<br /><br />前に、沢木耕太郎の「達人かく語りき」というエッセイに<br />淀川長治さんとの対談での話として<br />『皇居で美智子さまにお会いした時<br />「どんな映画がお好きですかとお聞きした時<br />「哀愁」です。とお答えになられました。』<br />とそんな事などを思い出しながら<br />これからウォータールー橋へ立ってこようと思っています。<br /><br />

    「ウォータールー駅」
    ウォータールーと言えば
    ABBAのヒット曲「ウォータールー」

    クラッシックの名画「哀愁」の舞台になったところ。
    第一次世界大戦下のウォータールー橋のたもとで
    出会った将校とビビアン・リー扮する娘が出逢い
    再会を誓う有名なシーン。

    前に、沢木耕太郎の「達人かく語りき」というエッセイに
    淀川長治さんとの対談での話として
    『皇居で美智子さまにお会いした時
    「どんな映画がお好きですかとお聞きした時
    「哀愁」です。とお答えになられました。』
    とそんな事などを思い出しながら
    これからウォータールー橋へ立ってこようと思っています。

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