2025/02/25 - 2025/02/25
587位(同エリア913件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記238冊
- クチコミ54件
- Q&A回答0件
- 804,752アクセス
- フォロワー16人
ソウルと仁川は、東京(江戸)と横浜の関係に似ています。封建制度末期に開港した寒村は、首都の外港として様々な文物が入る窓口となります。人口はソウル/釜山に次いで3位ですが、あくまでソウルの衛星都市扱いで三大都市には数えられないところも似ています。
韓国第二の港を擁しつつも、釜山港との格差は深まるばかりです。
一方で2001年には韓国の空の玄関口となる仁川国際空港も開業し、アジアのハブとして機能を増しています。
露館播遷
1883年:開港
1897年:宗主国(清)の影響を離れ、大韓帝国となる。
1905年:日本の保護国となる
1910年:日韓併合
1945年:アメリカ統治
1948年:大韓民国建国
1950年:朝鮮戦争勃発
1953年:休戦協定
1987年:軍事独裁政権より脱却
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
-
第1ターミナル
建物端のAとF付近に市営バス乗り場があります。
出入口は、2と14辺りになります。 -
深夜は約1時間間隔なので、建物内で暖を取ってバスを待ちます。
-
307系統で、仁川駅を目指します。
-
路線図
外も明るくなってきました。 -
1時間ほどで、道路を挟んで駅舎の向かい側に停車します。
バスの終点ではないので、要注意。仁川駅 駅
-
駅前には、中華街の入口が。
朝鮮王朝は厳しい鎖国政策を施行していましたが、開国を迫られ、1883年に仁川が開港されると入植がはじまり、中華街が形成されました。仁川チャイナタウン 散歩・街歩き
-
坂を上りきると、こんな光景。
韓国唯一のチャイナタウン光景です。 -
ここが発祥の国民食ジャージャー麺など、食文化を発信しました。
1911年に共和春で誕生します。伝説のお店です。ジャージャー麺博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
仁川が開港した1883年には、義善堂が建てられました。堂内は5区画に分かれ、観音菩薩/関羽/媽祖など、仏教/道教混在の信仰が体現されています。
義善堂 寺院・教会
-
丘の頂上へ登る口には、善隣門がそびえます。
善隣門 建造物
-
港方向へ続くメインロードには、三国志の場面を描いた壁画が一面に描かれます。
チャイナタウンは、清国の租界だった場所に拡がります。三国志壁面通り 散歩・街歩き
-
歩いて行くと、坂道ではなく階段が登場。
清日租界地境界階段と呼ばれ、階段を挟んで右が清国、左が日本租界でした。清日租界地境界階段 旧市街・古い町並み
-
下から見るとこんな感じ。
左側が仁川駅から続く旧清国租界、右が旧日本租界です。左右で街灯や灯篭のスタイルが異なっています。仁川歴史文化通り 史跡・遺跡
-
ハングルでチャイナタウンと書かれています。
-
麓には、華僑の歴史を扱った施設もあります。
開港以降、朝鮮の貿易の52%は清国相手のものだったので、貿易の実務を担ったのが華僑でした。
大韓民国は華僑の土地所有を著しく制限する等の迫害を行い、華僑の多くは外国へ移動しました。韓中文化館 博物館・美術館・ギャラリー
-
清国租界時代の光景
-
港に面するのは仁華門です。
では、向かいの旧日本租界を歩きます。仁華門 現代・近代建築
-
租界の境界線には1888年築の旧日本郵船仁川支店が。韓国に現存する最古の洋風オフィスビルです。
1883年の仁川開港後、すぐに郵便汽船三菱釜山支店仁川出張所が開設、1885年に共同運輸と合併して日本郵船となると仁川支店に格上げされました。仁川アートプラットフォーム 現代・近代建築
-
周囲には支店長社宅/倉庫等も建てられました。日露戦争の際には日本軍の司令部として使用され、現在は仁川アートプラットフォームの一部として活用されています。
旧日本郵船株式会社 仁川支店 史跡・遺跡
-
旧五十八銀行仁川支店
1892年築、フランス風のレンガ造りで2階のバルコニーが印象的な建築です。1893年に釜山/1895年にはソウルにも支店が設立しています。戦後は韓国赤十字社によって使用され、現在は仁川レストラン事業協会によって使用されています。旧日本第58銀行 仁川支店 史跡・遺跡
-
旧十八銀行仁川支店
1903年築、石の土台/柱とレンガ壁より成ります。戦後は韓国の銀行によって使用され、現在は仁川開港近代建築博物館として使用されています。
長崎を本店とする現在の十八親和銀行が、初の海外支店として1890年に設立しました。仁川開港場近代建築展示館 博物館・美術館・ギャラリー
-
旧第一銀行仁川支店
1899年築。第一銀行は1883年に仁川に進出、翌84年には関税取扱業務を行います。日本の支配が強まると中央銀行の役割を果たし朝鮮銀行へ引き継がれます。現在は開港博物館として使用されています。仁川開港博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
内部は吹き抜けになっており、街の略史が分かります。
仁川という名称は1413年に始めて登場しますが、港は長らく済物浦と呼ばれていました。鎖国を続けた朝鮮王朝において、仁川は様々な「朝鮮初」が誕生する特異な場所になります。 -
1875年の「江華島事件」後に締結した1876年の「日朝修好条規」で、釜山と他2カ所の開港が決まり、1880年に日本海側の元山/1883年に黄海側の仁川が開港します。条約港に居留する日本人には、治外法権が与えられることになりました。
※元山は現在北朝鮮領で、新潟に入港していた万景峰号の母港です。 -
壬午事変/済物浦条約(1882)
江華島条約締結後の日本への米輸出による米価の上昇、重税負担に対する不満、日本人の影響力拡大に対する懸念が国民の不満を招きます。1882年には軍が蜂起、日本公使館を焼き討ちして日本人に死傷者が出ます。
日朝で「済物浦条約」が結ばれ、日本が公使館に軍隊を駐留させることになります。遅れていた仁川の開港が決定します。 -
仁川開港と欧米進出
1882年には「米朝修好通商条約」を締結し、それを機に清国や列強も続々と朝鮮へ進出します。人口4700人の閑漁村だった仁川は、西洋文明の玄関口として韓国の近代化に重要な役割を果たしました。 -
開港に伴い、最初に領事館が開設されます。2 階建ての木造建物には警察署と刑務所も併設されていました。
1906年に道庁、1910年に仁川府庁に改組されます。跡地には元府庁舎(現仁川市中区役所)が建っています。仁川中区庁 現代・近代建築
-
英国領事館
英国は日本に続いて領事館を設置 、移転を経て杭洞1街に赤レンガ造の公館を建設します。租界返還後の1915年から空家になり、朝鮮戦争で焼失します。模型写真は、近代建築博物館のものです。 -
矢印の場所、行き止まりになっている仁川駅に隣接する地区です。
-
税関
1883年6月に設立された仁川税関は、10月設立の元山税関と11月設立の釜山税関に先立つ初の税関でした。貿易に不可欠な施設で、仁川駅に隣接する杭洞1街(当時は海に面していた)にありました。
同じ年に第一銀行(事業資金提供/為替業務)、郵便汽船三菱(海運)も進出しています。 -
清国領事館
1884年に開設され、当時は清国理事部と呼ばれます。和風瓦の継ぎ目を中国風の弓字型アーチで飾った地上1階のレンガ造りの建物でした。跡地は、華僑学校の中山学校になっています。 -
租界
外国商人や貿易商が流入すると租借協定を結び、済物浦地域を商人や貿易商の居住地として貸与します(=租界)。 1883年に日本租界、1884年に清国/共同租界が誕生します。自由公園の南側3.3haの面積で、公館が0.7haを占めます。日本の統治下に入って1914年に租界制度は終焉します。 -
ジャーディン マセソン商会(怡和洋行)
極東における英国最大の商社で、1832 年に広州で設立。清から茶/生糸を買付け、アヘンを密輸して伸し上がります。1883年に仁川支店を設立し、運送/牛革/鉱業に参入するも、事業不振で翌年に撤退します。
H.E.マイヤー商会(世昌洋行)
1884年に設立、鉄鋼/医薬品/機械/武器など取引に携わり、大きな利益を上げました。従業員宿舎(写真左)は、朝鮮初の西洋建築でした。中央は現地で出した広告、右は事務所。
釜山/元山と違い、仁川には欧米商社も参入します。その殆どは、上海支店の出張所として仁川に進出しています。 -
最初の洋館
世昌洋行社宅(1884年築)はイタリア式の2階建レンガ造。白い外壁が際立ち、1階にはアーチ型の柱と四角塔が印象的です。 1922年に仁川府立図書館として使用されますが、朝鮮戦争で焼失します。 跡地は自由公園に編入され、マッカーサー像が立ちます。 -
郵便制度
1883年の高宗の勅令に基づき、1884年にソウル~仁川間で手紙/荷物を扱い始めました(写真左)。切手(写真右)は日本に外注しました。ところが甲申政変が起き、わずか20日間で停止します。
11年後の1895年に再開され、間もなく主要都市に郵便局が設置されます。9時に京仁各郵便局から郵便袋を運び、13時に中間点で両者が袋を交換して17時に局へ戻りました。
1905年の日韓共同通信条約により、郵便通信機関は日本に従属します。 -
日本の郵便事業の朝鮮進出
日本は1876年の釜山領事館に設置と同時に海外郵便業務を行っており、日本の郵便需要が増加すると1890年には日本の郵便切手を使用して年間200万個の小包の規模に拡大します。
清国も1889年から仁川租界と母国の間で海外郵便を開始し、清国の郵便切手を使用しました。 -
港湾整備(1884-85)
港湾設備の全くない状態でしたが、潮位に関係なく船舶が自由に停泊できるようにしました。税関前の海岸には海岸線の突出部に石の堤防を築き、貨物ヤードと、満潮時/干潮時それぞれに船舶を停泊させる 2 つの岸壁を整備しました。 -
キリスト教再伝来
1885年にメソジスト派の宣教師アペンゼラー(写真左)等が仁川に到着し、1891 年に内里(ネリ)教会を建設します。写真は1901年に建て替えた教会で、現在は鉄筋コンクリート造りです。真ん中の写真は、朝鮮人初の牧師キム・ギボム。
アペンゼラーが開設した培材学堂は、李承晩を輩出します。 -
学校教育
韓国初の私立小学校である永化(ヨンファ)学校は、福音派のジョーンズ牧師と妻のマーガレット女史/李樹廷に等によって1892年に設立されました。当時は男子学校と女子学校に分かれました。 -
初の近代公園
1888 年に共同租界内の鷹峰山は公園として開発され、公共庭園と名付けられました。日本統治下では東公園と西公園に分かれ、西公園は1957年に自由公園と改名されます。仁川自由公園 広場・公園
-
済物浦クラブ
1901年築の2階建てレンガ造の建物は、共同租界の欧米人が1891年に設立した社交クラブが使用しました。欧米外交官の情報収集の場でもありました。でビリヤード室/図書館/屋外テニスコートなどがありました。
日韓併合後は日本退役軍人会/日本人女性協会/米軍将校クラブなどに変遷します。済物浦倶楽部 建造物
-
西洋式ホテル
1888年の大仏ホテルが、朝鮮初の洋式ホテルです。一方、ソウルにソンタグホテルが開業するのは1902年です。当時はソウル~仁川の移動が馬車で12時間かかり、仁川で一泊する必要があったからです。大仏ホテルは、第一銀行/第十八銀行の並びにありました。煙突のある建物です。 -
鉄道建設
先駆けとしては1877年に日本を視察した金基洙(下段左)、1880年の金弘集(下段中)が挙げられるが、より実用的なレベルで鉄道を朝鮮に導入したのは、在米代理公使を務めた李夏英(下段右)でした。
李は鉄道の持つ輸送能力を目の当たりにし、鉄道模型を持ち帰って国王高宗(上段)を説得します。独立開化を目指す国王と家臣たちによって、京仁線(ソウル~仁川)の鉄道敷設が決まります。
※ソウルの漢字表記は、京城です。 -
技術/資金の不足により、1896年に敷設権をアメリカのJ.R.モールスに譲渡します。1897年の起工式には官僚と各国の在仁川領事が出席して盛大に行われますが、当初から懸念された資金調達に難航し、工事の半分を終えた時点で中止に追い込まれます。
写真は開通時の仁川駅で、左:開通式・中央:構内・右:駅前広場です。 -
敷設権は1899年に日本へ移り、9月18日に仁川~鷺梁津33.2kmが運行を開始します。1900年には漢江に鉄橋が架かりソウル(現在の西大門)駅まで全通します。
-
京仁線は開通したものの、宣伝不足と運賃高騰のため利益が上がらず、人々は従来通り水運あるいは駕籠(写真)や馬を利用しました。川が凍って船が出航できないときだけ、人々は鉄道を利用しました。京仁鉄道合弁会社は各駅に職員を配置して乗客と貨物を誘致し、月1,500ウォンの売上を達成した者には飲み物をおごる社内制度や、朝鮮で初めて公共広告を使って乗客を誘致します。1903年には京釜鉄道に吸収されます。
-
朝鮮唯一の米穀取引所
開港後は米の輸出が盛んになり、1896に日本によって開設されます。先物取引に似ているものの、現物取引もできました。投機的な側面と価格操作のため、市場の運営過程でさまざまな副作用が発生し、主導権は日本人にありました。写真は1920年頃の建物と取引の風景。 -
港の見える高台(ハイランド)は高級住宅地となります。写真は1900年頃に日本人実業家の河野武之助の邸宅で、市長公邸を経て歴史写真館となっています。日本の建築が多く残る一方で、欧米の建築は聖堂を除いてほぼ焼失しています。
仁川歴史資料館 博物館・美術館・ギャラリー
-
ジョンストン邸宅
仁川のランドマークとして広く知られ、仁川税関長を務めた英国人ジェームズ・ジョンストンの別荘で1905年築の4階建て欧風石造建築です。仁川の西洋建築で最大の延べ床面積を誇りましたが、朝鮮戦争で焼失しました。 -
呉礼堂邸宅
1909年築で仁川唯一のドーム建築で、西洋建築の延べ床面積では、ジョンストン邸に次ぐ広さを誇りました。呉は、清国外交官/仁川海関通訳官を経て不動産業で財を築きますが、完成後すぐに亡くなり、商工会議所会長だった吉田秀次郎の手に渡ります。赤レンガが印象的な外観でした。1968年に焼失。 -
国際情勢の変化
朝鮮王朝は清を宗主国とする属国でした。1895年の日清戦争終戦で下関条約が結ばれ、朝鮮は清の属国ではないことが確認され、1897年に大韓帝国が誕生します。三国干渉以降、ロシアの影響力が増します。1896年に国王一家がロシア公館へ駆け込んだ露館播遷が一例です。1902年には仁川にも領事館を開設し、日本の権益を牽制します。 -
1905年に日露戦争が終わると日本は大韓帝国を保護国とし、外交権を剥奪します。欧米は大韓帝国での権益を制限され、仁川から撤退し始めます。1910年の日韓併合で植民地となると、華僑にも逆風が吹きます。
-
仁川港は小型船しか岸壁に接岸できず、大型船は沖合に停泊して艀を介する必要がありました。堆積が進んで水深が浅くなり、1906年には帆船しか接岸できない有様でした。陸揚げに時間とコストがかさみ、元山/釜山へシフトし始めました。
写真は、1903年に撮影された桟橋での乗船風景。 -
築港工事(1906~18)
干満差が最大10mに達する悪条件を克服すべく築港工事が行われますが、瀕死の大韓帝国下で工事は全然進まず、朝鮮総督府の下で1911年以降に進展します。沖合を埋め立てて、二重閘門で仕切られた巨大なドック型の港が建設されます。 -
二重閘門
写真は干潮時の入港で、外側の閘門を閉めて海水を注入してドックの水位と合わせ、その後内側の閘門を開いてドックへ停泊します。 -
上の写真は通水前の工事中の光景で、閘門の全容が写ります。
ドックの面積は10haで、7.87mの水深を常時確保しました。閘門へ通じる水路は干潮時でも4.2mの水深が確保できるように浚渫され、4500t級船舶も受け入れられました。従来の設備では、荷揚げできる潮位が月あたり80時間だったので、処理能力が大きく改善されました。 -
副産物
ドック建設は、仁川に思いがけない食文化をもたらします。
1911年以降、数千人の工事関係者が流入すると、手早くお腹を満たせる料理が求められ、ジャージャー麵が考案されます。評判を聞きつけ、他店も一斉に真似して仁川の定番となりました。現在は、国民食となっています。 -
旧山東会館(1905年築)
花崗岩の石垣の上にレンガを積み重ねた2階建て建築。ホテル兼食堂として使用され、1911年に入居した于希光が中華料理店を開業し、翌年には辛亥革命にあやかって店名を「共和春」に改称、地元山東省の家庭料理を参考にしたジャージャー麵を提供します。肉味噌を大量に仕込み、刻んだタマネギと季節の野菜を混ぜてさっと炒め、茹で上がった麺に載せました。
建物は現在、ジャージャー麵博物館になっています。 -
1918年に完成した閘門式ドックは、アジア初にして現在も唯一の設備です。ドックの岸壁には線路が敷かれ、船から直接貨車へ積み込めました。取扱貨物量の増加が凄まじく、翌1919年には計画時の処理能力をオーバーします。1925年には桟橋を増設して、貨物処理能力を2倍に増やします。
-
第二次築港整備(1918-25)
土砂の堆積を防ぐために、仁川沖1kmに浮かぶ月尾島と仁川駅入口の間に防波堤を築き、港を外海から遮断します。1923年には、防波堤に2車線の道路を通します。
写真は1916年の地形図で、鉄道が赤線で表示されています。ドックが形を現し、防波堤の計画が点線で記入されています。海岸部の埋立が進行する前の貴重な姿です。
築港工事のお陰で、商機を得た華僑は勢いを取り戻します。 -
観光開発
月尾島は以前から景勝地だったので、陸続きとなったことで観光開発が促進されます。南満州鉄道公社は、海水の成分に近い地下水を汲み上げて加熱した万能塩湯温泉と海水プールを目玉とする保養施設を建設します。筋肉疲労の回復に効果があり、評判となりました。1924年には月尾島レクリエーション公社となり、遊園地と動物園が建設されました。 -
所要時間1時間40分という鉄道の利便性は徐々に認められ、京仁線は収益を上げます。仁川港利用者の殆どがソウルを目的地にしていたので、ホテル業は仁川からソウルへシフトします。月尾島の温泉や海水プールが人気になると、月尾島遊園地まで鉄道が敷かれ、直通列車が乗り入れて(写真)全国から観光客が訪れるようになります。
-
虹霓門
日本の陸軍工兵隊によって1908年に開通した切通とトンネルです。完成当時の姿が残る貴重な近代文化遺産です。 -
旧日本租界を中心に日本人町が広がります。
-
仁川での貨物取扱量が増えると、旧日本租界の沿岸部が倉庫街として繁栄します。
-
このエリアには、1930,40年代の倉庫や運送会社の建物が残っています。
最大の貿易相手は中国でしたが、日中戦争勃発の1937年をピークにメインは満州国へシフトし、衰退していきます。 -
現在は路上モニュメントやアートスペースとしてリノベされています。
-
銀行建築が並ぶ通りには、観光用に往時の街並みが再現されています。右手前が、再現された大仏ホテルです。現在は中区生活史観覧館の大仏ホテル展示室となっています。入城料2000KRW也。
-
「大仏ホテル」
釜山へ渡った長崎出身の堀久太郎が1883年に仁川へ移住し、貿易/海運を生業とする堀商会を開く傍らで1887年に木造2階建ての和風旅館として開業します。1888年には、西洋人をターゲットに赤レンガ3階建ての建物をオープンします。堀の大きな耳から大仏というあだ名で呼ばれていたことが名前の由来です。外壁57cm/内壁45cmの豪華な造りです。 -
1890年頃の宿泊料は上等室2ウォン50チョン/一般室(写真)2ウォンでした。 当時、韓国人労働者の日給は23チョン、日本旅館の宿泊料は38チョンでした。
設備だけでなく、多言語対応や本格的な西洋料理等の評判も良く、他に西洋式ホテルが開業しても最上級の評価を受けました。
西洋式ホテルが開業するまで、入国者は紹介状を持参して自分の国の公使館で接待を受けました。「最も楽しい公務の一つは、故国の訪問客を接待することだった。」とホース・アレン駐朝米国公使は述懐しています。 -
日本旅館
大仏ホテルの向かいには花屋旅館(写真)が営業していました。仁川では10軒以上の旅館が営業していました。 -
日露戦争後の欧米人訪問者減少と鉄道開業に伴いソウルが西洋ホテルの中心となったことで大仏ホテルも経営難に陥り、1918年に「中華楼」という北京料理専門店となります。ソウルでもよく知られるほど評判の名店でしたが、韓国政府の政策で中華街が衰退していく中で1970年頃に廃業し、建物は1978年に解体されました。
-
現在の仁川港と租界跡の眺め
-
1911年の光景
山頂に仁川のランドマークだったジョンストン邸が写っています。 -
朝鮮人居住区(現新浦洞)
メインストリートからカトリック教会を北東方向に望む構図。一等地は外国人に奪われ、周囲に家を建てました。
次回は、日本統治解放後の仁川を訪れます。
朝鮮戦争でも、仁川は大きな役割を果たします↓
https://4travel.jp/travelogue/11967634
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
仁川(韓国) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
75