2025/02/26 - 2025/02/26
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gianiさん
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この旅行記のスケジュール
2025/02/26
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光復節、大韓民国建国を経て、世界史渦中の出来事や生活の変化を見ていきます。
名称
日本では朝鮮動乱と呼ばれたが、アメリカの朝鮮戦争という呼び方が普及した。韓国では韓国戦争/6.25戦争、北朝鮮では祖国解放戦争と呼ばれます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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仁川駅から水仁線(水原方面)に乗ります。路線カラーは黄色です。行き止まり式ホームが地下にあります。
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仁川駅舎にある韓国案内所がオープンしたので、郊外の情報を収集します。
観光案内所 (仁川) 散歩・街歩き
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地上に乗り入れる京仁線は、今もターミナル(線路が行き止まり)形式で、開業時の歴史を踏襲しています。現在はソウル地下鉄1号線と表記されます。路線カラーは青。
仁川駅 駅
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地下ホームから水仁線に乗り込みます。
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松島駅で下車
仁川上陸作戦記念館を目指します。松島駅 駅
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大通りを渡って、対岸のマクドナルドへ。マクドナルド横の大きな路地をずっと進みます。
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野外展示がお出迎え。
LVT-1水陸両用装甲車
海兵隊の主要上陸装備。沖縄戦で実戦投入され、仁川上陸作戦やソウル奪還作戦(漢江渡河)で活躍、1951年以降韓国海兵隊にも投入された。 -
無料です。日本語解説が完備しているので分かりやすいです。
朝鮮戦争の経緯
日本がポツダム宣言を受諾すると、朝鮮半島は北緯38度線を境に北側をソ連/南側を米陸軍が統治します。朝鮮半島では独立の機運はなく、民意と懸け離れた亡命勢力が米ソと接触、最終的に親米派かつキリスト教徒の李承晩と満州抗日パルチザンで朝鮮共産党下っ端の金日成が担ぎ出されます。米ソ不和の下で1948年8/15には大韓民国、9/9には朝鮮民主主義人民共和国が建国、軍事顧問団を残し年末にはソ連軍、1949年には米軍が撤収します。金日成は武力統一を目指しスターリンに再三軍事支援を求めますが、時期尚早と釘を刺されます。1949年にソ連も核実験に成功し、中ソ友好同盟相互援助条約が締結されるとスターリンは一転して前のめりになります。仁川上陸作戦記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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朝鮮戦争(第1ステージ)
6/25…38度線を越境
6/28…ソウル陥落
7/1…米陸軍第24師団上陸
9/14…国土のほとんどを占領される。 -
開戦時の戦力比較
第二次世界大戦後の軍縮と米軍の南北衝突は無いだろうという楽天的な観測により、韓国はスカスカでした。戦車は無し、航空機(22)はすべて練習機で実戦には用が足りません。銃火器も質量ともに劣ります。士官は日本軍出身で、実戦経験が足りませんでした。農繁期で兵士は休暇を取り、総選挙も近く注意が逸れていました。
一方の人民軍(北朝鮮軍)はソ連の支援を受け、訓練を重ね万全の状態で臨みました。 -
写真は、米国在ソウル駐韓大使がワシントンへ送った電報。現地時間で6/25午前4時に38度線のあちこちで戦闘が始まったことを第一報として報告しています。在韓米人の避難等は一切言及せず、事態に未確定要素が多い内容です。
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極東軍司令官マッカーサー元帥は朝鮮半島に無頓着で、足を踏み入れたことさえありませんでした。海戦後も状況を把握できず、ソウルが陥落する頃に事態を把握します。
6/29にバターン号で水原飛行場に着陸し(写真)、漢江防衛線が見える丘の上で戦況を眺めて、速やかに米地上軍を上陸させて敵主力を水原付近で食い止める一方で、仁川付近に米陸軍騎兵第1師団を上陸させて敵の背後に回って挟み撃ちする作戦の構想を練ります。
※騎兵は名称だけで、実際は装甲部隊です。
※極東軍は1947-57に存在し、日本/朝鮮/フィリピンを管轄しました。 -
写真は、マッカーサーが現地視察後に東京からワシントンへ送った電報です。6/30の日付で、韓国軍は軽装備(戦車/戦闘機なし)で兵站も機能せず、北朝鮮軍と対峙する準備ができていないこと、釜山から2個師団を上陸させたいといった内容です。
報告に基づきトルーマン大統領は、速やかに在小倉の第24歩兵師団投入を発表します。 -
北朝鮮軍は、釜山制圧を早期目標とし、南進軍団に兵力を集中させました。
38度線に近いソウルには1個師団(5000名)、京畿道(地方名。近畿地方的)には、仁川市街には87連隊(500名)と月尾島(400名)900名を含む2000名を留守居隊として配備しました。国連軍は仁川ではなく日本海側の元山に上陸すると判断していました。 -
ブルーハート作戦
マッカーサーの命令を受けて極東軍参謀長アーモンド少将が策定、7/4に在朝霞の第1騎兵師団に下達。第1騎兵師団が仁川に上陸し、補給路の要衝ソウルを制圧し、敵を挟み撃ちにする作戦。
7/22頃の決行予定でしたが、釜山に上陸した第24歩兵師団と続く第25歩兵師団が北朝鮮軍に押されて急速に戦況が悪化したので、7/10に計画を断念します。第1騎兵師団は(釜山から北に100kmの)浦項へ上陸し、洛東江前線へ派遣されます。 -
洛東江戦線
洛東江は韓国最長の河川で、釜山を河口とします。下流では図のように南北に流れ、南東部へ追い詰められた韓国軍の最期の砦でした。大邱は臨時首都として7/16-8/17まで政府が置かれました。しかし北朝鮮軍の攻撃が進むと遷都し、釜山に臨時首都を置きます(赤吹出)。大邱は政府に逃げられましたが、青吹き出しにあるようにアメリカ第8軍の司令部は撤退しませんでした。9/15の時点で戦線はデビッドソンラインまで縮小し、北朝鮮軍の14個師団に取り囲まれ、危機的な状況でした。国連軍は、最前線の第一騎兵師団を始め、9個師団が対峙します(第24師団はすでに壊滅)。
※大邱(テグ)は、ソウル/釜山に次ぐ韓国第3の都市。 -
クロマイト作戦
マッカーサーの命令で7/23に統合戦略計画作成班にが発案、第1海兵師団と第2歩兵師団を敵の背後に上陸させるというもので、仁川上陸は100-B計画、群山は100-C計画、注文律は100-D計画と呼ばれました。
北朝鮮軍による「8月大攻勢」で前線が後退して大邱/釜山が危うくなったので、どちらの部隊も第8軍増援のため釜山へ派遣されます。マッカーサーは8/12に100-B作戦を発動し、決行日は9/15とされます。 -
仁川上陸作戦
全ての道はソウルへ通ず。韓国の道路網はソウルを中心に各方向へ延びており、ソウルを制圧することは敵の補給路を分断することを意味しました。ソウルの外港である仁川に上陸して京仁街道を確保した後、速やかにソウルを奪還することで敵の補給線を断ち、洛東江戦線へ軍を進めることで敵を背後から挟み撃ちにする内容でした。 -
8/23に東京で行われた会議では、北朝鮮軍の背後に上陸する内容は同意を得たものの、上陸地点を仁川とすることは強い反対を受けます。
陸軍参謀総長コリンズ大将(写真左)は、群山案を支持します。仁川は洛東江戦線から遠すぎて、第8軍と第10軍団の連携が上手く行くか疑問を呈します。海軍作戦部長シャーマン大将(写真右)は、狭い水路と激しい潮の干満差を理由に仁川案に反対します。2人は、北朝鮮軍の補給路を断つには群山の方が良いと主張します。
一方のマッカーサー(写真中央)は、敵の兵站線は伸び切っているためソウルで速やかに断つことができ、敵の戦力は洛東江戦線に集結しているためにソウルの防御が手薄であることを指摘します。そして速やかな仁川上陸によって第8軍と第10軍団がそれぞれ槌と金床(ハンマーとハンマー台)の役割を果たせると主張(金床戦術)。仁川の負の自然条件は敵の油断を突く奇襲作戦には最適であり、海軍には十分な遂行能力があり、味方の犠牲を10万人減らすこともできると説得します。 -
第7統合任務部隊
クロマイト作戦(仁川上陸作戦)のために、8/23に極東海軍司令官叙位中将によって「第7統合任務部隊」が編成され、第7艦隊司令官ストラブル中将が司令官に任命されます。
第90任務部隊(攻撃部隊 司令官:ドイル少将)、第92任務部隊(上陸部隊 司令官:アーモンド少将)、第91任務部隊(援護)、第99任務部隊(偵察/哨戒)、第77任務部隊(空母)、第79任務部隊(兵站)より成ります。上陸部隊は、第1海兵師団/第7歩兵師団/韓国軍海兵隊/韓国陸軍第17連隊で構成されます。
9/5まで洛東江戦線にいた第1海兵師団を呼び戻します。 -
徳積島/霊興島奪還(8/18-20)
仁川港へ接近するには、幅2km全長90kmに及ぶ飛魚水道の安全を確保する必要がありました。
韓国海軍艦艇9隻による砲撃の下で、8/18にはチャン・グンソプ中尉率いる中隊が仁川沖50kmに浮かぶ徳積島を、8/20には仁川沖22kmに浮かぶ霊興島を奪還します。8/24に中隊は引揚げ、代わりに咸明洙少佐率いる海軍諜報部隊が霊興島へ上陸し、島内に青年義勇隊を組織して治安を確保します。9/1には極東軍諜報部のクラーク中尉一行も上陸し、夜間に仁川を偵察します。また義勇隊を本土と陸続きの月尾島へ派遣して、要塞の状況を偵察させます。 -
月尾島制圧
仁川沖1kmの月尾島(1923年の堤防建設で市街と陸続きになっている)は標高105mで、港と市街に対峙する防衛の要となっています。9/10~12にかけて護衛空母から出撃したF4U機による焼夷爆撃を行い焦土化させます。9/13には駆逐艦6隻/巡洋艦4隻による砲撃を行い、砲撃施設をほぼ壊滅させます。 -
9/14までに仁川へ終結
第7統合任務部隊は釜山/佐世保/神戸/横浜へ終結し、9/11以降仁川へ向けて出航します。第7統合任務部隊司令官のストラブル中将は9/12に佐世保から旗艦ロチェスターで、国連軍司令官マッカーサー/第10軍団司令官アーモンド少将/太平洋艦隊司令官シェバード中将らは第90任務部隊司令官ドイル少将と旗艦マウント・マッキンレーで9/12夜に佐世保から、第1海兵師団は9/11に神戸から、第7歩兵師団は9/11に横浜から、第5海兵連隊と韓国海兵隊は9/12に釜山から出航し、9/14には全艦艇が徳積島沖に集結(Point California)します。 -
仁川上陸作戦の決行に当たり、敵を欺く様々な行動(陽動作戦)を採ります。米マスコミには10月以降に反撃が始まり、群山を中心に軍事行動を行うと伝えて、時期と上陸地点を誤判断するよう誘導します。
9/12…英海兵隊コマンド部隊を群山に上陸させ、陽動を目的とした威力偵察を行う。
9/13…元山一帯で英米艦隊が群山をモデルに予行演習を行うことで味方を欺き、群山上陸を意識させた。北朝鮮領の三陟/南浦(平壌の外港)一帯に艦砲射撃と爆撃を行った。
9/14…群山の海岸周辺に避難勧告のビラを撒き、群山周辺50km圏内を空爆します。浦項北側の盈徳郡長沙に学徒兵772名を上陸させ、国道7号線を封鎖して敵の補給路を分断します(帰還船が座礁し198名が犠牲になった)。 -
空爆
9/13に空母4隻/駆逐艦6隻/巡洋艦5隻から成る空母打撃団が仁川沖に現れ、月尾島(写真右枠外)/仁川市街(写真)/仁川周辺を空爆しました。
事前砲撃は、機密保持のために黄海沿いの平壌~群山の各都市に加えられ、敵を欺くために群山を徹底的に攻撃しました。仮に敵が仁川が上陸地だと悟られても、上陸の2日前なら対応が不可能という判断がありました。 -
9/15仁川上陸作戦決行(1st step)
深夜に、クラーク中尉が八尾島灯台に潜入し、上陸部隊が安全な進路を取れるよう誘導します。
5:00…空母から出撃した海軍機が月尾島を焼夷爆撃、続いて巡洋艦と駆逐艦が一斉砲撃します。空爆/艦砲射撃で敵は壊滅します。
6:33…最初の満潮時刻に合わせて第1海兵師団第5連隊第3大隊が、月尾島北西岸(グリーンビーチ)に上陸(写真)、22分後には島頂に星条旗を立てます。 -
7:50…島を掌握して掃討戦を実施、空爆と砲撃で生き残った108名を射殺/138名を捕虜にします。写真左の火炎放射器が威力を発揮します。
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作戦決行(2nd step)
2度目の満潮時刻に合わせて上陸が行われます。それに合わせて、90分間隔で空爆を行って援護します。8機の海兵隊機(写真)は仁川市内、12機の海軍機は仁川付近の遮断攻撃を行いました。艦載機はF4Uで、一世代前の戦闘機でしたが、エンジンと機体に余力がある設計なので、作戦では爆撃機として運用されました。 -
上陸に当たっては敵の反撃が伴いましたが、巡洋艦/駆逐艦による援護砲撃が大きな効果をもたらします。
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作戦決行(2nd step)
17:31…第1海兵師団第5海兵連隊第1大隊と第2大隊が仁川駅北側の岸壁(レッドビーチ)に上陸し、ビーチ沿い3平方kmの安全を確保します。堤防道路の対戦車地雷も撤去し、グリーンビーチに上陸した戦車/月尾島の第3大隊が合流します。
17:32…第1海兵師団第1海兵連隊が仁川港南側の干潟(ブルービーチ)に上陸し、周囲の安全を確保します。
18:00…韓国海兵隊がレッドビーチに上陸します。
北朝鮮軍の防衛線は失われ、米海兵隊はソウル奪還のため京仁街道を進み、韓国海兵隊は仁川市街地掃討戦を行います。 -
レッドビーチの防波堤に揚陸艇を接岸するも、岸壁まで1m足りず、梯子を掛けて上陸します。写真は、防波堤をよじ登るバルドメロ・ロペス中尉率いる小隊。上陸後まもなくロペスは市榴弾の上に覆い被さって隊員を庇い、命を落とします。
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屋外には北朝鮮が使用したソ連製兵器が展示してあります。
陸上の人民軍は、こんな装備で対抗しました。 -
海兵隊(Marine)
海外での武力行使(⇔本土防衛)が任務で、外征専門の軍。独自の航空隊/戦車隊/輸送船団を持ちます。先鋒隊として敵地に上陸し、現地で陸海空軍が安全に上陸できるような下地作りをします。仁川上陸作戦では第10軍団(最終的に65000名)が安全に上陸できるように、ソウルまでのルートを安全に進軍できるように、市内や路上の北朝鮮軍を鎮圧しました。
写真は、干潟の傾斜で滑る戦車を揚陸する海兵隊(9/16:ブルービーチ)。 -
上陸作戦は、261隻の艦艇と14か国75000名の体制で実行されました。
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いざソウルへ
9/16早朝、第5連隊と第1連隊はそれぞれソウル(赤線)を目指し、途中で合流します。歩兵第7師団は水原(青線)を経て、釜山を目指します。 -
9/17には敵の機甲部隊と遭遇しますが、戦車6両は海兵隊のF4U機により爆破されます。200名以上の損害を与え、部隊を壊滅させます。
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金浦飛行場制圧
9/17夕方に第5連隊は金浦飛行場(現:金浦国際空港)に到着、500名の部隊が守っていましたが、滑走路は無傷のまま翌朝までに制圧します。これにより第5空軍の展開と物資空輸が可能になりました。
陸軍第2工兵隊はグリーンビーチにドックを建設、地雷撤去や京仁鉄道の修理を行い、9/22までに6,629台の車両と53,882人の兵士、25,512トンの物資補給が行われました。
※現在はソウル市に編入されています。 -
9/19以降、第7連隊はソウル盆地の北側を確保、第5連隊は西側を確保します。漢江を挟んだ南側には、第1連隊が9/22に永登浦市街を制圧し、対岸のソウル市街奪還を目指します。三方向から海兵隊が侵攻し、市街戦が繰り広げられます。
9/26には、水原を制圧した第7歩兵師団第32歩兵連隊と洛東江戦線から来た韓国陸軍第17歩兵連隊が渡河、市街地に面する南山を占領します。 -
ソウル奪還
9/26-28にかけて、海兵隊は市街でバリケード戦を繰り返し、国防軍を掃討します。ソウルは奪還され、9/29には臨時政府もソウルに帰還します。
仁川は1日で制圧した一方で、ソウル奪還までは2週間近くを擁し、当初5,000名だった人民軍守備兵は2万人まで膨れ上がっていました。 -
スレッジハンマー作戦
仁川上陸と並行して、洛東江戦線の第8軍にスレッジハンマー作戦が指示され、9/16朝より実行されます。戦線は硬直し目立った戦果は上がりませんでしたが、兵站の遮断等が功を奏し、9/19から攻撃に転じ、9/22には38度線を目指して北進します。 -
朝鮮戦争(第2段階)
9/15…仁川上陸作戦
9/28…ソウル奪還
10/1…38度線突破
10/19…平壌占領
10/26…韓国陸軍第6師団楚山到達(中国国境)
11/21…米陸軍第7歩兵師団恵山到達(中国国境) -
武力統一を目指す李承晩の暴走を機に10/1に国連軍は38度線を越えて、純粋な国防から侵略へ転換します。西側の第10軍団と東の第8軍はバラバラに行動し、それぞれ中国国境の鴨緑江へ到達します。
毛沢東は38度線を突破するなら派兵すると宣言しますが、マッカーサーは気に留めず、中国は義勇軍(実態は人民解放軍)を派遣します。 -
その後
義勇軍は人海戦術を用い、国連軍を圧倒します。太鼓や銅鑼を鳴らして注意を引き、別方向から進行する戦術にも戸惑います。元日攻勢を経て、1951年1/4にはソウルを奪還され、1/25には北緯37度線まで侵攻します。
マッカーサーは核兵器発言で司令官を解任され、戦線は膠着します。1953年7月27日に休戦に至ります。 -
総括
仁川上陸作戦は、駕籠の中の鳥だった国連軍の劣勢を挽回するファインプレーでした。しかし日本統治に集中するあまり朝鮮半島の実情を全く把握していなかったゆえの初動の躓きであり、ソウル奪還後も中国の評価を見誤って38度線を越えた故に帳消しになりました。客観的にみて、マッカーサーは米極東軍/国連軍司令官としては失格でした。
写真は、揚陸指揮艦マウント・マッキンリーより上陸作戦を観戦するマッカーサー(中央)、第10軍団アーモンド少将(右)、GHQ民政局局長ホイットニー少将(左)。
仁川上陸は、75000名が関わる大作戦でした。 -
仁川上陸作戦最高司令官
ダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)
1903年に陸軍士官学校を首席で卒業、1930年には陸軍トップ(陸軍参謀総長)に就任し、1937年に大将として退役。第二次世界大戦の勃発に伴って復帰し、1941年に南西太平洋方面最高司令官、1945年にGHQ最高司令官。1947年に創設された極東軍司令官、1950年には国連軍司令官を兼任するも1951年に解任。1944年に元帥。 -
第7統合任務部隊司令官
アーサー・ストラブル中将(1894-1983)
1915年に海軍兵学校を卒業し、海軍作戦副部長としてノルマンディー上陸作戦に参画。1944年に第7艦隊司令官、仁川上陸作戦では、実行部隊である第7統合任務部隊司令官として参加。1951年に第1艦隊司令官、1956年退役。
※第7艦隊は太平洋艦隊の隷下で、現在の司令部は横須賀。 -
第90任務部隊司令官
ジェームズ ・ドイル少将(1897-1981)
1919年に海軍兵学校を卒業、ガダルカナル/ソロモン諸島/フィリピン戦線で上陸作戦実行を担当、1947年に少将、仁川上陸作戦では第7統合任務部隊指揮下の第90任務部隊司令官として上陸部隊の輸送を支援し、上陸拠点を確保するまで指揮、および上陸作戦中、上陸部隊に対する近接航空支援と艦砲支援の統制も担当した。1952年退役。 -
第92任務部隊(第10軍団)司令官
エドワード・アーモンド少将(1892-1979)
1915年に陸軍士官学校を卒業、1942年少将、1947年極東軍参謀長、朝鮮戦争では国連軍参謀総長、仁川上陸作戦では上陸部隊である第92任務部隊(第10軍団:第1海兵師団/第7歩兵師団等)の司令官としてソウル奪還、1953年退役。人種差別擁護派。 -
第1海兵師団長
オリバー・スミス少将(1893-1977)
1917年に少尉、1950年6月に第1海兵隊師団の司令官、仁川上陸作戦では第10軍隷下で、上陸とソウル奪還の先頭に立って活動。義勇軍を危惧して鴨緑江進軍に疑問を呈し、部隊の撤退に成功、1953年中将、1955年退役。 -
第7歩兵師団長
デイビッド・バー少将(1895-1970)
仁川上陸作戦では第10軍隷下でソウル奪還に参加し、中国国境まで進軍。 -
海軍少将 孫元一 (1909-1980)
韓国海軍を創設し、初代海軍作戦部長に任命。マッカーサーを補佐し、仁川上陸作戦とソウル奪還作戦を成功に導いた。1952年に海軍中将を退役して初代国防大臣に就任、国防力の構築と強化に貢献し、1957年に初代駐ドイツ大使を務めた。 -
韓国海兵隊司令官
申鉉俊大佐(1915-2007)
韓国海兵隊を創設し、1949年に初代司令官に任命。第92任務部隊の一員として、仁川上陸作戦とソウル奪還作戦の先頭に立つ。1961年に退役しモロッコ/バチカン市国大使を務める。 -
韓国陸軍第17連隊長
白仁燁大佐(1923-2013)
1950年に第17連隊長、洛東江防衛線で北朝鮮の洛東江侵攻を撃退するのに貢献しました。8月には首都機械化歩兵師団の指揮官として永川の戦いでさらなる勝利の基盤を築きました。第17連隊のメンバーとともに地上部隊を率いて仁川上陸作戦に参加し、敵軍からソウルを奪還し、敵の補給線を遮断するのに貢献しました。彼は陸軍参謀総長の白善燁の弟でした。退役後には汚職による服役を経験しています。 -
向かいには、市立博物館があります。こちらも無料です。
仁川市立博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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松島は、郊外の遊園地として日本によって開発されました。
現在は、松島国際都市として商業/観光開発された計画都市となっています。 -
1904年頃の干潮時の仁川港の様子が、パノラマで展示されています。
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岸壁が丸見えです。
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上陸作戦決行時の様子を類推できます。
では、現地へ赴きます。 -
旧市街の丘の上に有る自由公園には、マッカーサー像があります。
仁川上陸作戦で、敵の占領から自由をもたらしたということで、西公園は1957年に自由公園へ改称されました。海兵隊が上陸して、星条旗を掲げた丘です。マッカーサー将軍銅像 モニュメント・記念碑
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王朝時代の甲板をイメージした展望台から、港方向を見下ろせます。
仁川自由公園 展望スペース 散歩・街歩き
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現在の景観
開発と埋立が進んで、大きく変わっています。特に港湾部は激変です。仁川自由公園 広場・公園
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公園の敷地は、かつての欧米共同租界(1884-1914)でしたが、その当時の面影が残る建物があります。
済物浦倶楽部 建造物
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麓には、日本統治時代に置かれた行政単位仁川府の旧庁舎が残ります。現在は仁川広域市中区区役所として活用されています。
建国の翌1949年に仁川市となり、1981年には広域市に指定され、京畿道を離れます。
※広域市:中国/ベトナムの直轄市と同義で、市部と郡部から成る。日本では都道府県/政令指定都市に近い特権を獲得する。仁川中区庁 現代・近代建築
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開港博物館や近代建築博物館が並ぶ通りには、中区歴史展示館があります。大仏ホテルの展示棟の先は、生活史展示館となっています。朝鮮戦争で大きな被害を受けた仁川が復興し、古き良き時代の面影が淘汰された1960年代の姿を中心に展示しています。
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左の写真は、1960.8.22に自由公園から撮影した市街、右は1961.8.2に撮影したもので仁川で最初に設置された信号機。同時期の日本の大都市と比較すると、大きな差を感じます。
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1960~70年代の国家経済開発5カ年計画(1st:1964-,2nd:1969-,,,)で仁川港が強化されます。中核は、仁川内港のドック拡張(1966~75)です。
左の写真は第2閘門の造営、真ん中はソウォルミド(小月尾島)の埋立、右は内港の竣工式(1974)の様子です。 -
月尾島/小月尾島/堤防道路等は埋め立てが進んで、第2閘門(赤矢印)以外に出入口のない大きな内港となっています。それに伴い、第1閘門は撤去されています。
仁川港は内港/北港/南港/新港等で構成されます。水深16mの岸壁が整備されている松島国際都市の新港が、現在はメインとなっています。 -
機能強化
京仁高速道路の建設(左下:1967~68)、火力発電所竣工(左上)、仁川橋の拡張(中上)、京仁国道の拡張(右上)などが挙げられます。主要道路 以外はアスファルト舗装されていませんでしたが、1970年度以降生活道路等も舗装が進みました(中下/右下)。 -
仁川では1953年の休戦後、北からの避難民流入による都市化現象が顕著に現れます。1970年代は、公営アパート/地下街などが整備されます。仁川の地下街は1971年の新仁川を皮切りに、74年に東仁川/77年に中央路/80年に仁現/83年に新浦まで続いています。
東仁川駅 駅
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一般住宅
1970年代セマウル運動が展開されると、伝統的な茅葺き屋根(写真下)から瓦葺(写真上)へ急速に変化しました。 -
パン屋・粉食屋
当時の中高校生は飲食店への出入りが自由ではなかったため、学生目当てのお店が存在した。
・仁川ドナス:1960年代の中高校に思い出深い店。即席ドナスは、粉砂糖やチョコソースをコーティングした代表メニューで米軍から流出した洋盆に盛られた。冬季に出された小豆粥(ぜんざい)は、今のシニアにとって忘れがたい味。70年代に閉店。
・ヨンイルダン(龍一堂):仁川ドナスと似たラインナップだった。現在のクラウンベーカリーチェーン。
名物堂:他店と似たメニューだが、特にうどんが美味しかった。
シンポウリマンドゥ(新浦ウリ饅頭):現在は全国にチェーン展開されている。 -
往時の街並みが再現されています。
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水仁鉄道
仁川と水原を結ぶ鉄道は、1937年にナローゲージ(762㎜)で開業しました。仁川港が拡張されると市街部が廃止され、1995年に消滅します。都市化に伴い、2016年に首都圏鉄道として再開業、2020年に盆唐線と直通運転しています。 -
仁川市立博物館には、往時の水仁線の車両が展示されています。
※JRの軌間幅は1067mm、新幹線/韓国鉄道公社の軌間幅は1435mm(標準軌)です。 -
京仁線
1965年に複線化、1974年には電化とソウル地下鉄1号線と乗入を開始、2005年に東仁川まで複々線化が完了しています。年間輸送量10億人/300億トンの一大幹線です。
1999年には市営地下鉄が開業し、現在は2路線が運行中です。 -
空の玄関
2001年に開業した仁川国際空港は、金浦国際空港に代わる韓国の空の玄関口のみならず、アジアのハブとして機能しています。永宗島と龍遊島の間を埋め立てたエリアに建設され、2010年にはソウルと鉄道で繋がります。 -
月尾島には、韓国海軍第2艦隊の軍事施設がありましたが、2001年に移転し、観光開発が進んでいます。
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ドーナツ化と観光開発
李承晩の独裁政治の反動として、クーデターで軍事独裁政権が確立され、華僑への政治的弾圧が生じ、多くの名店が消える等、中華街は寂れます。現在は観光地として日本租界跡や中華街が生まれ変わろうとしています。 -
西洋人が多く住んだ松月堂は、童話村としてメルヘンチックな街づくりをしています。
松月洞童話村 文化・芸術・歴史
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路地裏では、韓国らしい町並みがさりげなく残っていたりします。
仁川は、今も魅力的でディープな街です。
次は水原(スウォン)を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11970107
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