2024/11/22 - 2024/11/22
5414位(同エリア5995件中)
旅四郎さん
2024年度の秋の散策は「古都奈良の庭園と文豪の邸宅、クラッシクホテルを巡る」と銘打って、奈良公園に点在する庭園の美しい紅葉を楽しみながら、芸術家が集った文豪志賀直哉の旧宅、戦前の歴史の1ページを刻んだクラシックホテルを見学した。
11月22日(金)午前10時に近鉄奈良線奈良駅に集合。少し歩いて奈良公園の北側にある吉城園、さらに北に行って正倉院を見学。奈良公園を南に歩いて仏教美術資料研究センターに行く。ユニークな建物で一見の価値がある。さらに南に行き鷺池に到着、ここで浮見堂を見ながら昼食。昼食後は近くにある瑜伽山園地を見学。志賀直哉旧居の内部をゆっくりと見て回った。旧大乗院庭園を見学する予定だったが、時間がないので奈良ホテルに向かう。奈良ホテルはなかなか見応えがあった。天気が良く、晩秋の割には暖かく過ごしやすいい1日だった。近鉄線奈良駅解散。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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11月22日(金)午前10時に近鉄奈良線奈良駅の東改札に集合。駅を出て東に歩き、奈良県庁を過ぎて、最初の角を北に行くと吉城園が見えてくる。ここは無料で見学できる。吉城園は興福寺の子院である摩尼珠院があったところにあったことが「興福寺古絵図」に記されている。
吉城園 公園・植物園
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吉城園の受付を通って園内に入ると、大正時代に建てられた近代和風住宅の旧正法院家住宅が見える。その前には池を中心とする庭が広がる。2011年に奈良県の指定有形文化財に指定されている。
吉城園 公園・植物園
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さらに行くと池の東側に茅葺き屋根の落ち着いた離れ茶室の建物が見える。茶室玄関の床仕上げ材の三和土の上に羅浮山と書かれた扁額が飾られ見ごたえのある。羅浮山という名は中国の仙術修行の山である。
吉城園 公園・植物園
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羅浮山と名付けられた茅葺木造平屋建ての茶室の前には苔の庭がある。杉苔の庭が続く。地下水脈のおかげで1年中青々とした苔が育つ。
吉城園 公園・植物園
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苔の庭の奥に、茶室のお茶の席を飾る草花を栽培する茶花の庭がある。明治に正法院家の所有となり、1919年に現在の建物と庭園が作られた。企業の迎賓施設の時代を経て、昭和の終わりから奈良県が所有し庭園を公開している。吉見園を出て北へ向かって正倉院へ。
吉城園 公園・植物園
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奈良・平安時代の中央・地方の官庁や大寺には、重要物品を納める正倉が設けられていた。 そして正倉が集まっている一廓が正倉院と呼ばれた。東大寺正倉内の正倉一棟だけが今日まで残った。倉には1200年前からの伝世品があり、世界的にも貴重である。中国にも唐時代の遺物が西安や洛陽にもたくさんあるがすべて出土品であり、多くは腐ってしまっている。
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北倉と南倉は校倉造り、中倉は板壁。宝庫内は気象の影響を受けるが、杉の唐櫃が宝物を守った。現在は24時間空調。皇室関係の品は北倉、寺宝類は南倉、北倉の出納する時に仮収納するのが中倉。大多数は東大寺の寺宝。明治以後は全て皇室のもの。戦後になっても正倉院宝物は御物であり、国宝でも重文でもない。現存する奈良時代の校倉は,正倉院のほか東大寺に3棟,手向山神社に1棟,唐招提寺に2棟ある。
正倉院正倉 名所・史跡
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正倉院を出て仏教美術資料研究センターへ向かう途中、鹿が角を突き合わせて喧嘩をしていた。外国人観光客も多く、珍しそうに見学していた。
奈良公園 公園・植物園
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正倉院を南に歩いて行くと仏教美術資料研究センターの建物が見える。建築史学者で当時奈良県技師として古社寺保存修理事業に尽力した関野貞の設計で奈良県物産陳列所として1902年に竣工した。同年に開館し、県下の殖産興業と物産の展示販売をおこなう施設として利用された。事前に予約して内部を見学した。建物の内部を見学して、古美術や歴史についての多くの本が閲覧できる。
仏教美術資料研究センター 美術館・博物館
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仏教美術資料研究センターからさらに南に歩いて、浅茅ヶ原園地、梅岡梅林を通って鷺池に到着。池に浮かぶ美しい浮見堂を見ながら昼食。
浮見堂 名所・史跡
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浮見堂を南の出口近くに写真の洞水門がある。「地中に伏瓶を埋めるなど空洞を作り、そこにしたたり落ちる水が反響して琴の音色に聞こえるようにした仕組みです。別名、水琴窟とも呼ばれています。水が奏でる音色をお楽しみください」と説明されている。
浮見堂 名所・史跡
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浮見堂の向かいに瑜伽山園地がある。明治から大正にかけてこの場所を所有した大阪の財閥山口家が作庭した庭園。志賀直哉など、日本を代表する文化人も訪れた。
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瑜伽山園地を出て最初の道を東に歩くと、大きな家が建ち並ぶ住宅地に志賀直哉旧居がある。緩やかな曲線を描く石畳のアプローチの先に玄関口がある。戦後は米軍宿舎となり、その後厚生省の保養所「飛火野荘」、1978年に奈良学園に譲渡され、公開が始まった。2008年に昭和初期の姿に復元された。
志賀直哉旧居 名所・史跡
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中に入ると受付で2階から見学するようにとのこと。写真の奥が客間で、右に書斎がある。1925年に京都山科から奈良に移り住み、1929年に志賀直哉自身が設計した邸宅。武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄などの文化人が移り住むようになった。
志賀直哉旧居 名所・史跡
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2階の書斎で志賀直哉の代表作『暗夜行路』の後編を完結させた。この書斎はあまり使われていないそうだ。壮年期の13年間をここで過ごした。
志賀直哉旧居 名所・史跡
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1階には写真の約20畳の台所がある。部屋の中央部は木製モールディングで化粧された円形の折り上げ天井になっている。モダンな照明器具が印象的。右には庭に面したサンルームがある。高畑サロンと呼ばれ、谷崎潤一郎や武者小路実篤が来て交流を深めた。
志賀直哉旧居 名所・史跡
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志賀直哉は小説を書くための仕事場として奈良の高畑を選んだという。日当たりの良い2階の書斎より、北側の日差しの変化が少ない1階の書斎を好んだ。ここがメインの仕事場だった。
志賀直哉旧居 名所・史跡
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サンルームに面した南側に大きな庭がある。ここには細長い池のように見える子ども用のプールがある。木製の屋根が付いている
志賀直哉旧居 名所・史跡
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志賀直哉旧居から西に向かって、大乗院庭園を回っていくと奈良ホテル入口がある。入ると聖ラファエル教会がある。奈良ホテル附属教会として1997年に完成。煉瓦造りで、3連の縦長のアーチ窓が美しい。
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さらに中に入ると、写真の荒池放水トンネルがある。奈良では珍しい煉瓦造の水路トンネル。建設年は不明だが奈良ホテル建設時の明治40年代に設けられた可能性が高いと思われる。現在は荒池の洪水調節機能を付与されている。
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奈良ホテル駐車場の横に、写真の防空壕がある。戦争中に空襲警報が出た時に防空壕に誘導したそうだ。
奈良ホテル 宿・ホテル
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鉄道院が運営するホテルとして建てられ1909年に創業。本館の建築は、東京駅などを手掛けた建築家辰野金吾が担当し、桃山御殿風檜造りの建物で大和の街並みとの親和性も高く美しい佇まいが特徴。満州国の皇帝溥儀が来日、当時鉄道省の管轄であった奈良ホテルに滞在しました。溥儀を歓迎しろとの指令がありホテルをあげて歓迎したそうだ。
奈良ホテル 宿・ホテル
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奈良ホテルの本館には木造漆喰壁が使われ、大屋根の上には望楼と左右に鴟尾が置かれていて、和洋折衷の近代和風建築として建てられた。鴟尾は魚の尾の形をした装飾瓦で、大屋根の線は水面を表している。その下の木造建築は水中にあるので燃えないという火除けのまじないになっていて、14基の鴟尾が置かれている。とにかく見どころが多く、館内は気持ちよく見学できる。
奈良ホテル 宿・ホテル
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銅鑼は1929年に購入され、現在のフロント売店付近に置かれていた。宿泊客への食事の合図に使われていたが、戦争中に空襲警報の役割を果たしていた。現在は大階段の踊り場に置かれている。
奈良ホテル 宿・ホテル
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奈良ホテルは独特な造りになっていて、春日灯籠風のシャンデリア、柱のデザインは神社の欄干風で擬宝珠が載っている。春日大社を思わせるような趣向が凝らされている。
奈良ホテル 宿・ホテル
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食堂に行くと創業時に設置された暖炉であるマントルピースが随所に残っている。上に仏像が載っているところが奈良らしい。
奈良ホテル 宿・ホテル
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ホセ・ラウエルは、日本のフリィピン占領後の1943年に日本軍政の傀儡政権フリィピン第二共和国の大統領となった。大東亜会議にフリィピン共和国代表として出席した。日本の敗戦が濃厚となった1945年3月にフリィピンを脱出して奈良で亡命生活を送った。奈良ホテルは極秘にかくまった。像は奈良ホテル応接室に設置。
奈良ホテル 宿・ホテル
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