2018/02/09 - 2018/02/14
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noriyosiさん
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今では古い話で恐縮ですが、2018年2月9日から2月14日の予定でフランス旅行をした時のブログになります。2回目の海外旅行ですが、ほぼ初心者でした。
今日は2018年2月10日
午前中シャルトル大聖堂を訪問してきました。
午後はシャンボールシャトウです。
ツアー旅行のため、入場しない下車観光が多いですが、今回はなんとシャンボールシャトウも入場観光になっております。レポートしますので、楽しんでね。
(あんたは楽しいわ。他の人はシュールや。)
そんなこと言わずに楽しんでね。
(写真はシャンボールシャトウ北面1)
フランス王国の復習です
4世紀から6世紀に約200年に及ぶゲルマン人の大移動がありました。西ゴート人はイベリア半島(スペイン)、東ゴート人はイタリア、ブルグンド人は南西フランス、フランク人は北西フランス、アングロ=サクソン人はブリテン島に入りました。(以降めちゃくちゃなので略)西ゴート王国がそのまま支配するかと思われましたが、飛んでもないことが起こりました。西ゴート王国は507年、クロヴィス王が率いるフランク王国に敗れてしまいます。以後次第に勢力を失い713年には滅亡するのですが、民族が滅亡したのでもなく同化、吸収されたのです。その後メチャクチャなことが起こり、フランス王国になるのは987年からです。
(あんたがめちゃくちゃや。理解不足減点-10点)
私の能力ではこれが限界です。つまり優れた武器を持った狩猟民族が土着民族を圧倒していくのですが、やがては同化吸収して国が構成されていくのです。ゴート族といえば・・・
午前中行ったシャルトル大聖堂。ヴァザリーがゴシック野郎の建築と言って褒めていたゴシック建築で、すごく良かったですよね。
(当時は蔑称だったのよね。)
話がそれましたが、時代は移り、1494年、シャルル8世がイタリア戦争を始め、1495年無抵抗のナポリ王国に入り、ナポリ王になりますが、反対勢力の同盟軍に包囲され撤退しました。莫大な負債を抱えることになりましたが、後でシャンボール城やパリ市庁に関わるドメニコ・コルトーナ(ボッカドール)など、技術者を連れ帰ります。1498年アンボワーズ城でうっかり鴨居に頭を打ちつける自損事故で亡くなりました。
(‘うっかり‘話が飛び過ぎや-10点)
私の能力ではこれが限界です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 徒歩 飛行機
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
(写真はシャンボールシャトウ北面2)
2代後のフランソワ1世がイタリア戦争を継続し、1515年にマリニャーノの戦いに勝利、多額の賠償金を得ました。ミラノ公国を占領しスフォルツァ家を追放し、スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチを、翌年アンボワーズ城界隈のクロ・リュセに居住させました。
フランソワ1世は居城の改築に莫大な金額を注ぎ込みました。アンボワーズ城の仕事を引き継ぎ、ブロワ城の改修も始めました。ルーブル宮殿を再建し、中世の要塞からルネッサンス様式の豪華さの建物に変えました。パリの新しい市庁舎(オテル・ド・ヴィル)の建設に資金を提供しました。ブローニュの森にマドリード城を建設し、サンジェルマン・アン・レー城を再建しました。最大のものは、フォンテーヌブロー城の再建と拡張でした。
(話が長いよ。どうなっているの。-10点)
1519年ブロワ城に付属する新しい狩猟施設として機能することを意図してシャンボールシャトウを建設することを命令しました。
(それよ。)
工事は、既存のブロワ伯爵の旧城や村の教会など、いくつかの建物の破壊から始まりました。
「シャンボールは、サントル・ヴァル・ド・ロワール地方(フランス)のロワール・エ・シェール県のブロワから17km離れたところにある地名です。」
Chambordという名前は、ガリア語のcambo-ritoに由来し、「曲線の通過」を意味します。川の曲がり角にある浅瀬のことです。建物周辺は沼地の湿地帯でした。
軟弱地盤のため、そんなに簡単ではありません。
古い建物は取り壊され、中世の基礎の深さ約4mの基礎の上に、約1.5mの高さまで小さな通常の石を再び厚いモルタルの層で敷いて1524年までには新しい基礎が完成しましたが、シャンボールシャトウはまだ地上に現れていません。第六次イタリア戦争(1521-1526)を始めたものの、1525年カール5世が率いる神聖ローマ帝国軍にパヴィアの戦いに敗れ、命は長らえたものの、捕獲され、捕虜生活を余儀なくされた。釈放されたものの、身代金200万エクア?(金4トン分とか、今のレートでいくと約540憶、大谷さんの契約金1000憶より安い。)を1530年に払い終わるまで代わりに2人の息子(病弱の長子と後のアンリ2世)が捕虜になりました。その後もこの二人はいがみ合い、争うのですが続きはイタリア編で。
(いらん。-10点)
1525~1526年工事は中断されましたが、ほどなく再開され、主棟が落成したあと、1539年にカール5世を招いて自慢しました。その後も翼棟などの工事が続きましたが、1547年フランソワ1世死去、1559年アンリ2世(HenriⅡフランス語ではHを発音しない)死去により、礼拝堂翼搭までででひとまず工事を終えました。 -
前置きが長くなりましたが、
昼食後1時間雪の道をドライブして、シャンボール駐車場に着きました。
おしゃれな看板ですが、北を上にして川とお堀を水色に塗ればもっとわかりやすい。 -
La boutique est ouvertre(売店開いてます。)
左は有料トイレ。雪がまだ残っています。 -
(あんた誰)
煙のもくさんです。
(曇りのくもさんでしょう。)
森とお堀に囲まれた
シャンボール・シャトウ
きっと冬には寒すぎて
暖炉をがんがん
焚くでしょう
雪のガウンに包まれて
凍(こご)えるような
シャンボール・シャトウ
シャン、シャン、ボール、シャトウ
きっと煙突も暖炉の煙が苦しくて
煙をおえっと吐くでしょう
煙突掃除も大変な
お城のような
シャンボール・シャトウ
ぶるぶるブル、シャトウ
(ぶるぶる、ブル、寒いわ -10点)
ありのままよ
少しも寒くないわ +10点
(うるさい。行くよ。)
行ってらっしゃい。これこれ、待って下され。 -
(図面はパブリックドメインPlan.chateau.Chambord 右はルイ14世のお抱え宮廷史家フェリビアンがブロア城で見つけたドメニコ・コルトーナの木製模型から復元した主棟平面図)
「シャンボール城には、敵からの防御を意図した構造物は何もない。壁や塔、堀の一部は華麗に装飾され、当時としても時代錯誤なほどであった。」
「煙突や階段塔がたくさんある天守閣と城の上部の装飾は、要塞化された城の様式の特徴を思い出させるが、これらの伝統的な中世建築の形式は時代遅れであると考えられるようになっていた。」
château-fortは要塞化した城になりますが、château(シャトウ)は辞書では中世の城から宮殿 館 (やかた) 大邸宅まで幅が広い。
時代錯誤でも、時代遅れでもありません。フランソワ1世が目論んだ当時としても最先端のルネサンス建築です。
森の周辺32kmの石塀(平均高さ3.25m)は密猟を防ぐためのもので、ここには当時45%が森林と残りは農場、農民村があるだけで、守るべき街はなく、敵が略奪を望むようなものはないので、戦場になったことはありませんでした。地形を利用した山城や高台崖地のアンポワーズ、平地でも石灰岩地層に建つヴァンセンヌのような要塞化された城が沼地に建つシャンボールにいるでしょうか。フランソワ1世の主戦場はイタリア各地です。(知らん)
シャンボールシャトウは城か狩猟小屋かといえば、お城のような狩猟時宿泊施設,王立カントリーハウスです。あんな大きな小屋はありません。
(そんなこと言っていいの。)いけません。ここだけの話です。
pavillon de chasseを狩猟小屋と機械的に訳すのが間違い。訳するなら狩猟館です。 -
(パンフレットを開いて プランを見ているところです。
rez-de-chaussée 0階ではありません。rezは古語で地面すれすれの意、連語で地上階=1階です。premier étage または1er étage 1階ではありません。序数をつかって地上階から見て1番目の階=2階です。同様に Deuxième étage 2番目の階=3階 3ème étage 3番目の階=4階 toit 屋上 )
(建物は31キロメートルの石壁に囲まれた52.5 平方キロメートルの森林公園と動物保護区の中にあります。)
現在は85%が森林で保全地域となっているので、道路と川、池、キャンプ場、旧村の保存遺構、教会、付属建屋、庭園を除けば建築用地としては5%もないかもしれません。
(イタリアのルネッサンス建築から借用した、開いた窓、ロッジア、最上部の広大な屋外エリア、広い部屋、開いた窓、高い天井のため、建築の一部の要素は、寒くて湿気の多いフランス北部ではあまり実用的ではありません。)
狩猟民族の血が流れています。狩猟シーズンの冬場は寒くても、きっと暖炉で我慢できます。夏場は工事中も、後年ここに住む人も川が整備されるまではマラリアに苦しめられました。
(復元した主棟平面図と実施図面が違うのは現場責任者、建築家のピエール・ネプヴー等によって設計変更がされたから)といいますが、現場責任者の一存で勝手に変えられるわけではないので、フランソワ1世の意向でしょう。(そりゃそうでしょう。)
(部屋は400室以上、77の階段、282の暖炉、高さは56mです。屋根の塔などのレイアウトなど左右対称ではありません。)
部屋は440,階段は84という人もいます。1階は非公開の部分が隠れているので、先のパブリックドメインを使ってせっかくだから数えてみましたが、私の能力では数が合いません。(疑い深いから-10点)日によって数が違います。
(こら)一度数えてみてください。
後年マンサード屋根で有名なマンサールが低層部を増築しましたが、現状は取り壊されて平屋になっています。
最盛期から室も、屋根裏部屋に上がる階段も減らされている様です。主棟の中2階も撤去されています。直通階段は最大16か所ですが、階段も室として各階何個と数えたのでしょうか。たとえば中央階段を1か所と数えるのか、2か所と数えるのか、3階まで6個と数えるのかで違います。
4階の屋根部屋は3層ありますので、この建物は6階建てになります。ますます分かりません。 -
南翼棟王の門棟
(パブリックドメインとぼかしパンフレット外観 )
マンサールが低層部を増築した絵が残っていますが、現状は取り壊されて平屋になっています。
窓の位置が1か所ちがいますがほぼ対称にみえます。
東の翼塔は厨房に使っていたようですが、厨房は主棟に移されたようです。
東、西に要塞塔を作る計画あったようですが、実現していません。
外壁壁立上がり部はカルケア ラクストルと呼ばれる密度が高く、硬い石灰岩ですが残りの外壁はホワイトタフォーと呼ばれる石灰岩で建てられました。シュノンソーと同じクリーム色で多孔質の軽く柔らかく傷がつきやすい石です。 -
南主棟
こちらは対称性が欠損しています。間仕切りが違うためです。 -
西翼棟
こちらには外廊下があります。 -
東翼棟
こちらにはないので両翼棟は対称というわけにはいきません。 -
(写真は北主棟、翼棟です。)
北通路棟東と王の搭、北通路棟西と礼拝堂搭は対称ではありません。北通路棟東には半屋外階段が付いているので通路棟の窓の数も違います。
(礼拝堂の屋根は1681年にはまだ完成していませんでした。)
煙突らしきものに色を付けました。暖炉と煙道の数は同じかもしれませんが、煙突は暖炉の数と同じではありません。最大9本の煙道を束ねた集合煙突です。
(フェリビアンがコルトーナの木製模型から復元したファサード)
かなり見直しがされたようです。
両翼棟までは156m(芯で128m?)ですが、主棟は1辺44mの正方形に直径20mの円搭が4か所ついています。高さは中央階段塔で56m、屋上テラスまでは23mです。
主棟の屋根は複雑です。「11種類の塔と 3種類の煙突が付いていますが、左右対称ではありません。」中央階段塔が一番高い塔。4隅円搭のとんがり屋根は木造スレート貼で上部装飾塔が附きます。3層の屋根裏部屋があります。飾り窓、小階段塔が絡んで複雑です。それに主棟にも搭屋に屋根裏部屋があり、すべて煙突が絡んできます。
(別の屋上写真をみても煙突は30基もないように見えました。) -
(写真は中庭から見た南円塔西と主棟です。)
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(写真は中庭から見た南円塔東と主棟です。)
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(写真は中庭から見た南円塔西と西主棟です。)
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(写真は中庭から見た西主棟と北円塔と通路棟です。)
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(写真は中庭から見た東翼棟です。)
煙突の数を数えるのは難しいです。100本も200本もあるでしょうか? -
(1階 2重螺旋階段前の写真に中央階段塔略断面をアレンジしてぼかしました。)
「中央の階段は上がる人と下がる人がすれ違うことなく行き交うことができる。」
推理小説としてならもっと注意深く読むのですが、
二重らせん階段は1つの階段空間のシャフトに2個の階段が巻き付いているイメージです。
仮にA階段、B階段と名前をつけると.
A階段を上り、B階段を下り専用にすればそうなります。
A階段とB階段は別の階段ですから、普通にすれ違いません。すれ違う方がミステリーです。 -
例えば、大谷さんがA階段で上がり、藤井君がB階段で降りた場合、二人はすれ違いません。
noriyosiさんがB階段で上がればどうなりますか?
(藤井君に会えるね。) -
両階段とも上り専用、下り専用の物理的な区別はありませんので、ご覧の通り同じ階段では登り降りの人がごく普通にすれ違います。
(大人げないので-10点)
大谷さんがA階段で上がり、藤井君がB階段で上がった場合、二人はすれ違いませんがnoriyosiがA階段で降りた場合どうなりますか?中央の階段は上がる人と下がる人がすれ違うことなく行き交うことができることに破綻していませんか?
(大谷さんと藤井さんがA階段で上がり、noriyosiがB階段で降りればいいじゃろ。)
参った参った、マイケルジャクソン。 -
(2階に着きましたが、そのまま上がります。)
そうです。最初から言っているように、上がり専用下り専用の階段として使えばいいのです。
昔、貴族と召使い従者とに分けて使うことかあったようですが、今、別の階段を別々に上がり開口でお互いの顔を見て喜ぶとか、先に階段を下りてもらって、別の階段で先回りをして驚かせて喜ぶとかそんなことを階段でしてはいけません。か?(面白そうだけど、いけません。やりたいでしょうがいけません。)
迷惑にならないように顔をみせあうとか(階段で遊んではいけません。) -
3階に着きましたが、今日は屋上まで上がれないようです。
(残念だね。誰かと、煙は上に上がりたがるのにね。)
なぬ。(褒めているいるのよ。煙が上がれば為になるよね。)ね。?
2重螺旋構造を持つ建物も日本にあります。さざえ堂といいますが、寛政8年(1796)に飯盛山に建立された、高さ16.5m、平面六角形1辺3.4mの三層のお堂で、正式名称は「円通三匝堂」です。内部は板張り斜路回廊になっており、右回りで上がり1.5回転(540°)で頂上に着きます。太鼓橋をわたり今度は左回りで1.5回転下りて出口から出られます。斜路で滑り止めのため桟木を打っています。芯側に西国三十三観音像が安置され、上り下りしながらお参りすることが目的でした。(一方通行です。危険ですのでくれぐれも後ずさりなどして下りてお怪我をなさらないようにしてください。今は観音様は別の所に移されていますので、外国の方が楽しいけど、上がって下りるだけで意味が分からないと投稿されていましたが。) -
(いいけど、階段の周りをぐるぐる回るのはやめたれ。不審者と思われるやろ。)
3階を見学した後、この階段で2階まで降りました。
(3階のレポートはこの後すぐしますのでお待ちください。) -
シャフトの開口が光窓のようになっていますな。ここから顔を出して…なんでもありません。
-
2階を見学した後、1階まで降りています。
(2階のレポートもこの後すぐしますのでお待ちください。)
1階まで降りている途中ですが、
どちらの階段で降りているでしょう? -
(何か様子が違う。)
なぜか南玄関の左扉がみえない。 -
シャフトを通り抜けると。
-
南玄関に出ました。
(何で)
B階段で降りたからです。 -
ダヴィンチのパリ手稿には建築関係の記載も残っています。
(パブリックドメインが無いので上から2重螺旋のスケッチをトレースしました。)
ダヴィンチのスケッチは反時計回りで、アウトスケールのうえ、階段の受け方があいまいで、建築に重要なデザインの要素もありません。実際には八本の柱と内シャフト壁で支持されています。検討図でも設計図でもありませんがイメージはよくわかります。
裏に回って、B階段も見てみました。
(階段の周りをぐるぐる回るのはやめたれと言っとるやろ。)
ぐるぐるまわっても外からみると、何処から見ても階段は左上がりで右(時計)回り。らせんは同じ方向に回転するしかないのでね。
(それでは聞くけどこの階段はどちらよ。階段の周りをぐるぐる回ったから分からなくなっているでしょう。)
しまったしまった島倉千代子、困った困ったこまどり姉妹。あー麻雀台があるからA階段。(ほら間違えた。これは東ホールのビリアード台じゃ。B階段です。偉そうには言えんじゃろ。-20点)ごめん、色塗ったろ。 -
当時の図面を残していないので、ダヴィンチが設計したか分かりません。今見ているのは後の人の実測図です。
「この階段には、互いに交差する4つの入り口または上り口があり、4人が出会っても、着地するまで小さな抜け穴を通って決して視界に入らないように工夫されています」(2か所だね。)
これは実際には見ていないひとの記載のようで、屋上まで23m、各階の階高約7.8mでは四重らせん階段は普通では無理です。階段スラブの厚みがあるから螺旋階段でよく間違えるのは頭が当たる設計をすることです。
石は重たいし。む!これは違う。計画図の説明だったのかな?これは芯柱なし壁付片持ちスラブ内部吹き抜け型。石では持ち出し幅(階段幅員)が制限されます。
-
(写真は Minaret_of_jam_2009_ghorパブリックドメイン、Pozzo di San Patrizioは看板、Scala del Bramanteは掲示板、Roma_S.Pietro_in_Vaticano_(zzg)パブリックドメイン)
2重螺旋階段で知られているのは12世紀ジャムのミナレットです。(イスラム教の宗教施設に付随する尖塔)芯柱と外壁(レンガとタイル)の間に階段があるのですが、上がる階段と降りる階段の二重螺旋になっているので、効率的に工事が出来た様です。階段が塔の強度を高めているそうですが、最近地震によって倒壊の恐れがでて保存活動が進められています。文献では15世紀のオスマン帝国では階段板を120度ずつ組み込む三重の螺旋階段が出現したそうですが、写真を見たことはありません。
一般公開をしていなかったので実際には見られませんでしたが、バチカン宮殿に芯柱なし螺旋階段として1505年のブラマンテ階段があります。壁付で吹き抜け側に32本の石柱を支柱にして支えています。これは斜路にしてロバか馬も行けるようにした、荷役用の階段でもあります。
バチカン宮殿のもう一つの、1932年モモの変体ブラマンテ階段(変態とちゃうよ)は柱の要らない鋼製2重螺旋階段です。ほぼ斜路ですが、巻貝を逆さまにしたようで下に降りるごとに直径が小さくなるので勾配がやや急になります。
(表現が悪い。面白いから実際に行ってみてください。)ルーブルのはシングル螺旋階段ですが、床と上の梁で固定した、壁と支柱の要らない自立型の鋼製階段です。(階高が高くないから。)
後一つ、オルヴィエートのポッツォ・ディ・サン・パトリッツィオ(聖パトリックの井戸)は、イタリア中部のウンブリア州オルヴィエートにあります。この井戸は、1527年から1537年にかけて、神聖ローマ皇帝カール5世によるローマ略奪の際にオルヴィエートに避難して、包囲が長引くとオルヴィエートへの天然の水供給が不十分になることを恐れていた教皇クレメンス7世の要請により、サンガッロ・ザ・ヤンガーによって建設されました。井戸が完成したのは、教皇パウロ3世の教皇時代の1537年になってからです。サンガッロは、井戸を2重の筒にしてその間に二重らせん階段を配置しました。一方通行で、下り専用の階段で、ロバが空容器を運び、容器を満杯にして、井戸の橋を渡って同じ階段を使用せずに上がり専用の階段を使えば、干渉せずに継続的に水を運ぶことが出来ました。円筒形の井戸の深さは53.15m、直径は13mです。248段の階段があり、70の開口穴が窓として光が入ります。 -
(写真はサンピエトロ大聖堂です。サンガッロのファサードとはまったく違うでしょう。)
ジュリアーノ・ダ・サンガッロ(叔父)の弟子はブラマンテですが、コルトーナも弟子です。ブラマンテの弟子にアントニオ・ダ・サンガッロ・ザ・ヤンガー(Antonio da Sangallo the Younger)がいます。ブラマンテとダビンチは面識があります。そこでシャンボールの2重螺旋階段の設計者としてダビンチが期待されるのですが、すでに高齢で依頼主から訴訟されることもしばしばの融通が利かない孤高のダビンチがどの段階まで関与できたか興味があります。そんなに簡単ではありません。建築プロジェクトはチームでやります。コルトーナとピエール・ネプヴ―はアンポワーズとブロア城で働いていました。見積が出来なければ予算が組めません。積算が出来ないと材料の調達が出来ないのです。
サンガッロ・ザ・ヤンガーの説明、
1506年彼が設計に取り組んだ彼の最も人気のあるプロジェクトの1つは、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂です。ブラマンテはサンガッロを製図家として評価し、いくつかのマイナーなプロジェクトのデザイン作業を任せた。1514年にブラマンテが亡くなると、サンガッロはラファエロ等とともにサン・ピエトロ大聖堂の建設を監督するよう任命された。彼の設計プロジェクトの進め方は、一番最初に、予定敷地と既存の構造物を実測し、プロジェクトに資金を提供するパトロンに説明用のスケッチを描きました。納得してもらえるまでフイードバックの検討をして、平面図と立面図のスケッチを描いた後、さらに発展させて、パトロンに提示する詳細な平面図、断面図、および立面図を作成しました。承認用に、アトリウム、階段の吹き抜け、窓などの空間について、木製のプレゼンテーションモデルと詳細図面を作成しました。見積や積算をするのは当然です。契約の上現場監督まで任されれば最終段階では、1:1の縮尺で原寸作業図面を準備し、建設作業員に設計の作り方を指示しました。
もしラファエロ、サンガッロ(若い方)が存命であればサン・ピエトロ大聖堂は今と変わったものになっていたでしょう。サンガッロのサン・ピエトロ大聖堂の正面ファサードを見てください。かなりシュールでしょう。
湿地帯で仕事をしていたサンガッロ(若い)が1546年にマラリアで亡くなった後、ミケランジェロが主任建築家になりました。ブラマンテの構造欠陥の見直しから始め、ク-ボラ(ドーム)の設計までこぎつけましたが、完成前に亡くなりました。自分の死後は設計変更をしないことと条件をつけましたが、ギリシャ十字からラテン十字に替えられたことは周知のことです。正面ファサードの鐘楼はベルニーニが地盤の強度の検討を怠って失敗した後は、教皇がクーポラが隠れるのを嫌って実現しませんでした。詳しくはイタリア編で。
(いらん。話が長すぎるし、それているよ。) -
(いきなり話変わって3階ホール東)
気を取り直して3階主棟南の扉を開けると -
(南円塔東)
バルコニー通路に出ます。 -
さらに進むと扉で通路行き止まり
-
左の扉からはいりますか。
狩猟の間前室1 -
狩猟の間前室2
-
狩猟の間前室3
展示のケースを見ないの? -
(狩猟の間1)
天井が石のヴォールトでなく、木組みに塗装しているのが分かります? -
(狩猟の間2)
窓に内戸付いているいるの分かります?風が強いからでしょうか? -
(狩猟の間3)
ねえ奥さん、タペストリが壁について…(見たらわかる。)
怒ってます?(うん) -
3階ホール ヴォールトの間南
展示の間にいきますか。 -
バルコニー通路南
雪の庭園と森が良い感じに見えました。 -
バルコニー通路を進むと
-
(展示の間)
展示品は年毎変わるようです。 -
3階ホール ヴォールトの間北をみると、
螺旋階段は半周先行するB階段が上、A階段はそれを追いかける感じ。
一部修正しました。
石のヴォールトは格天井になっていてサラマンダーとFの紋章が入っています。
ザナドゥではサラマンダーは楽勝でした。シルバードラゴンに苦戦しましたけど。何でフランソワ1世さん、ドラゴンにしなかったんやろ。
(なかなか終わらんけど、後いくら残っている?)あと50枚程度。
(いかん。強制終了。みんな知ってるシャンボール城の情報はいらん。次回では写真そのものの説明をもっと分かり易くしなさいな。今回は有難うございました。)いつも見ていただいて有難うございます。訳分からんでいやでしょうが、じっくり読みこめば(分ってきますか?)
こういう試練を乗り越えて明るい明日が来るのです。よかったらまた見てください。
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