2024/05/21 - 2024/05/21
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gianiさん
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高知県高幡地域は、土佐国高岡郡中西部に該当し、津野氏の勢力範囲とほぼ重なります。
交通の要所で土居があった窪川、
現在高幡地域の中核を為す須崎市、
どちらも郷土博物館がなく観光のハードルが高いですが、実際に訪れると地味な中に面白さが隠されていました。
プラスαで、西川きよしが8歳まで生活した高知市朝倉も訪問します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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中村を発った列車は、
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黒潮町に突入
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1970年開通とあって、
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ワイルドな車窓です。
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土佐湾を堪能すると
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佐賀漁港が見えます。
ここが黒潮町の中心です。
1963年に窪川~土佐佐賀間が一次開通しました。 -
横浜地区の津波避難タワー
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伊与木川の対岸には、佐賀地区津波タワー。
18mの津波を想定し、床面は22m高さ25m。驚くべきは基礎杭は30mの深さまで到達することです。土佐佐賀駅 駅
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トンネル内のループ線を抜けると、JR予土線に合流します。
※歴史的には、国鉄中村線の方が先に開業しています。 -
窪川駅
合併で誕生した四万十町の中心地です。
※紛らわしいですが、四万十市とは別の自治体です。 -
歴史
窪川市街には、四万十川が流れます。写真は、R381に架かる窪川橋。
歴史:
仁井田五社(現高岡神社)が6世紀にできたのが始まりで、9世紀に空海が五社境内に五寺を開基し、五社五寺を合わせて福円満寺とします。四国88霊場第37番札所となります。窪川を含む高岡郡は、戦国時代に土佐七雄の一角を為す津野氏の勢力範囲でした。 -
一条氏は鎌倉時代に九条家から分家し、幡多荘を相続しました。13世紀は図の範囲でしたが、一条教房が京都から下向すると勢力を拡大し、幡多郡全域と四万十町町域全域を領有します。1543年に津野基高は、一条房基に下ります。一条兼定は1575年に長宗我部元親に敗れます。
窪川の実効支配は仁井田五人衆で争われ、1500年に相模から来在し茂串城を築いた山内宣澄が勝ち進み窪川姓を名乗ります。窪川氏は津野/一条/長宗我部とその時々の地域支配者に従いますが、朝鮮出兵(文禄の役)際に一門が戦死し、窪川氏は断絶します。 -
古渓城(1601-15)
土佐藩主となった山内一豊は、窪川を重要視し林勝吉を配置します。藩随一の中村街道沿い(現R56)で、宇和島への道(現R381)が分岐する交通の要所です。勝吉の父と一豊は旧知の間柄で、林勝吉は山内一吉の名を賜り、窪川/仁井田郷の5,000石を与えられます。古渓城を築き、家老/志和浦代官(仁井田東方の港)を兼任します。 -
幕府は1615年に一国一城令を出され、古渓城は棄却されます。1604年に父の跡を継いだ勝久は、城の麓に土居と呼ばれる土塁で囲まれた屋敷を築きます。現在の新開町です。
写真は、窪川橋を渡った先からの光景。国道を挟んで左の山に古渓山、右に土居が築かれました。 -
土居
吉見川と古渓山に挟まれた三角形のエリアでした。現在は新興住宅地ですが、地元の人は新開町ではなく御土居と呼んでいます。 -
土居の境界線には吉見川が流れ、板橋で武家町と通じていました。現在は殿町歩道橋が架かっています。木立の間にちょっと写っています。現地には賃取橋という説明もあります。
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吉見川は、直ぐ先で四万十川に合流します。
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四万十川(全長197km)河口から120km以上遡った中流域ですが、標高216mの窪川は海(興津浜)までの直線距離が僅か8kmという不思議なロケーションです。隆起準平原地形の為せる業です。
蛇行が多いので、峠を越えるたびに流路が逆になり、旅人を迷わせた迷河川です。 -
窪川旧市街の地図
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旧市街にはR381が縦断し、右が商人町(現住所:本町)、左が武家町(現住所:茂串町)という境界線でした。
武家町の真ん中には、目抜き通りが土居/板橋から通じていました(写真撮り忘れました)。 -
こちらは武家町の端で、茂串山に面した通り。左側は寺院が並び、右側は武家屋敷が建ちました。とはいえ、半分以上は田畑というのどかな景色でした。通りを進むと四万十川岸に舟渡があり、対岸の大井野村へ行けました(現在は窪川橋が用を果たしています)。
この並びには、2014年まで窪川/四万十町役場が立地しました。 -
岩本寺
元々は、福円満寺の宿坊として建てられました。尊快親王(1204-46)が宿泊した際に、岩本坊と命名します。時経つうちに福円満寺は衰退し、宿坊は17世紀後半に寺へ昇格し、四国霊場第37番札所を引き継ぐことになります。岩本寺 寺・神社・教会
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大師堂は築200年超で、境内で一番歴史ある建物です。明治時代に廃寺を経験し、再興されます。
岩本寺の東隣には窪川氏菩提寺の浄照寺、その隣には窪川山内氏菩提寺の東光寺がありましたが、明治に廃寺になっています。 -
門前には日本的光景。
六代117年に亘った窪川山内家は家系が断絶し、土佐藩の直轄地として在番所が設置されます。 -
都築家別宅(1901)
土佐藩は、窪川/仁井田郷での新田開発を奨励し、1822年には成功者に郷士の身分を与えることにします。大勢の開拓者が藩内から移住します。農家の次男坊の都築半平(1848-1912)も開拓に参加し、一方で酒造業も始め、地域の豪商となります。贅を尽くした建物が誕生しました。旧都築家別邸 名所・史跡
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彼の名を付した古民家カフェになっています。
古民家カフェ 半平 グルメ・レストラン
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細部にも意匠が織り込まれています。
新田開発で郷士になった第一号は、山内一豊の治世に浦戸の酒屋を畳んで25名を引き連れた宮内市蔵です。仁井田郷は50名の郷士を輩出し、仁井田米は現在日本最高級のブランドです。 -
谷干城生誕の地
本町にあります。谷干城(1837-1911)は板垣退助の片腕として倒幕運動に参加し、西南戦争時は熊本鎮台司令官、陸軍中将を務めつつも第一次伊藤内閣では農商務大臣を兼任。政府の長老として影響を与える一方で、言論の自由や国民主体の政治、足尾鉱毒被害者救済など、藩閥政治と対立します。
1675年の絵図では田圃でした。谷干城生誕地 名所・史跡
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生誕地向かいの店。
窪川は、乙な喫茶店が多いです。 -
岩本寺から続く遍路道を進むと、吉見川にぶつかります。手前が本町で、先が琴平町です。
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橋には、増水時にゲートが閉まる構造です。
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住所の由来となる琴平神社。
窪川山内家三代目の山内丹波守勝政が勧請しました。 -
遍路道沿いの琴平町は戦後まで田園地帯でしたが、1951年の鉄道開通に伴い、商店が増えました。大場たばこ店は昭和30年代の開店。
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十字路には、創業800年以上の伝統を持つ薬屋武田金草堂薬局があります。
みなくち天ぷら店も、60年以上の歴史を持ちます。 -
この交差点を左折します。
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居心地の良い喫茶店が。
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昭和です。
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価格も昭和。
思わぬ名店です。 -
窪川駅へ戻ります。
跨線橋は、町役場庁舎の一部です。線路を挟んで東庁舎と西庁舎に分かれている面白い構造です。 -
東庁舎は榊町。他に警察署もあります。
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2014年竣工
1889年に窪川村が誕生し、1925年には窪川町になりました。 -
榊町には中村街道が通り、現在も国道56号線が通ります。鉄道開通時は、5軒の農家があるだけの地区でした。吉見川もワイルドです。
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吉見川の横には、国道56号線沿いに満洲軒があります。
ジャン麺発祥の店ですが、臨時休業していました。
州ではなくサンズイ付きの洲なのがミソです。
このまま中村街道を進むと、江戸時代に市が立った古市町です。ここから興津峠を越えると海があり、120km近く四万十川を下って運ぶよりも便利でした。満洲軒 グルメ・レストラン
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線路を潜り、旧市街へ。
ここは東町で、のどかな場所でした。 -
右折して、駅へ戻ります。
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JR窪川駅
1951年に土讃本線が伸張して、鉄路で結ばれました。窪川駅 駅
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高幡地域の中心である須崎市を目指します。
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寄り道
四万十川は、野地橋~佐賀取水堰にかけて全長2.7kmの調整池となっています。四万十川にダム(堰高15m以上)はないことになっていますが、佐賀取水堰は高さ8.7mなのでダムと呼ばれません。佐賀発電所は軍需工場の電力供給が目的で1937年に竣工しました。佐賀取水堰から7.4kmの導水路(うち6841mがトンネル)を市野々川と衣川に挟まれた山中に通し、147m下の発電機を回します。 -
発電で使用した水は市野々川を通して伊与木川に流して土佐湾に注ぎます。土佐佐賀駅手前津波タワーの見える写真は、伊与木川の光景です。四万十川の流量の3割が佐賀堰を通して伊与木川へ流れます。窪川の下水は四万十川に垂れ流されるので、清流の維持に一役買っています。1997年までは発電優先の水利だったので、堰から下流にかけての16kmは、川が枯れることもよくありました。「最後の清流」という美辞麗句の裏にある事実です。
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窪川発の列車旅は、幡多荘の飛び地である久礼(中土佐町)を経由して、須崎の一つ手前の土佐新荘で下車です。
土佐新荘駅 駅
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シンプルな無人駅です。
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駅の名前になった新荘川と新荘漁港が見えます。
先述の津野氏は、津野荘(吾桑駅周辺)および津野新荘の地頭として力を蓄え、新荘川上流の姫野々城を拠点とする国人勢力となりました。1530年には、荘園のオーナーになっています。
※下賀茂神社は潮江荘を寄進されましたが1100年の津波で消失し、代わりに津野荘を寄進されました。遅くとも13世紀中に津野新荘を開発しています。 -
酒屋が多い情緒ある道を進みます。
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大善寺の向かいには、海中に突き出た岬の跡が。現在は内陸化しています。二つ岩の大師さんと呼ばれ、ミラクルな逸話が遺ります。
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こんな道をさらに進みます。
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実は、鍋焼きラーメン店の2大名店があります。
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橋本食堂
メニューは鍋焼きラーメン一つの有名店。
個人的には、ごく普通の味。橋本食堂 グルメ・レストラン
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もう一つの有名店は、まゆみの店です。
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旧市街は、概ね土佐新荘~須崎駅間に拡がります。背後には須崎城のあった山がそびえ、海に挟まれています。新荘川の河口に土砂が堆積した洲が発達し、洲の先に町ができ、中世から津野荘の外港として発達しました。姫野々城を本拠地とした津野氏は、須崎城を構築して地域支配の拠点としました。長宗我部元親は津野勝興に勝利し、三男親忠を送り込み津野親忠を擁立します。堺商人と交易するなど、栄えた街でした。
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津野親忠(1572-1600)
四国を統一した長宗我部元親の三男として生まれ、幼くして攻略した津野氏へ養子入りします。1585年に秀吉の軍門に下ると人質として大坂へ送られる経験もします。兄2人の死に伴い家督争いに巻き込まれ、元親の死後まもなく弟の盛親に毒殺されます。家康はこの件を重視し、関ケ原後に盛親を改易します。
津野神社は、本拠地を姫野々から須崎に移して町を支えた親忠を祀っています。 -
須崎城のあった城山の麓に建つ須崎小学校/裁判所は、津野親忠や家老の山内右衛門大夫の屋敷跡でした。山奥の姫野々から沿岸の須崎へ本拠地を移します。長宗我部氏の浦戸城とは、海を通して繋がっていました。
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須崎小学校前の立札を見ると、山内氏の藩政時代には高岡郡の中心地として郡奉行所が置かれ、浦奉行も兼ねていました。幕末には重要性が増し、2名に増員されます。関税等を徴収する分一番所、さらに地域の武士子弟を教育するための文武館も開設されます。文武館では間崎哲馬(滄浪)が教鞭を奮い、吉村虎太郎らが巣立っています。
写真は、小学校右隣の裁判所。 -
須崎駅前周辺の原町は、武家屋敷街となっていました。現在は観光協会などが建ちます。
須崎市観光協会 名所・史跡
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池田堀跡
武家町と商人町を隔てる防衛を兼ねた水路。掘られた時期は、慶長年間/野中兼山と2つの説があります。現在は川端シンボルロードの一部となっています。 -
一般には堀川と呼ばれ、眼鏡橋等10の橋が架かっていました。魚が豊富で、春には小舟を浮かべて花見をしたそうです。
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村庄屋屋敷跡
土佐藩の領民支配は、町奉行(城下町)/浦奉行(海を生業とする人)/郡奉行(その他主に農民)に分かれ、須崎村は郷浦でした。村庄屋は郡奉行の管轄下で、川渕家が幕末まで世襲します。屋敷は池田堀(堀川)に面しています。
藩政後期は適所適材に基づき転勤制になり、幕末には吉村虎太郎が赴任します。
須崎にキリスト教が到達したのは1882年で、1906年に屋敷跡に教会が建てられ現在に至ります。 -
坂本龍馬首切り地蔵
土佐勤王党の活動が盛んだった幕末、郡奉行所の隣に位置する発生寺は高岡郡の中心として近隣の郷士/庄屋たちの会合の場となりました。龍馬も2回訪れ、議論がヒートして境内の地蔵の首を木刀で斬り落としました。 -
砲台跡
黒船が来航した1863年に、須崎浦にも砲台が3か所に建設されました。アヘン戦争後から45箇所に建設された藩の砲台の中では、最期の部類です。
須崎湾は水深が深く、大型の蒸気船も停泊できるために、1867年にはイギリス軍艦も来航しています。現在も、須崎港は県下最大の貨物港です。土佐藩砲台跡 名所・史跡
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西砲台
7門の大砲が据えられ、良い状態で保存されていることから国史跡に指定されています。扇形の堤防状に塁台が築かれ、塁台の上には胸牆(きょうしょう)と大砲が交互に配置されました。
実際に見てみます。 -
砲台の端
右が内側で、左が外側(海側)。外堀で守られていました。
塁台を土で作るのは、飛んできた敵砲弾の衝撃を吸収するためです。海側には、敵砲弾を跳ね飛ばす目的で傾斜が付けられています。 -
砲台の内側
塁台の陸側は敵の砲撃を直接受けないので、石積になっています。大砲の位置に呼応して、塁台の壁には薬室(×7)があり、砲弾や火薬が格納されました。各薬室の右隣には、それらを大砲まで運ぶための石階段が付属します。石階段は公園整備で撤去され、1箇所のみ残っています。 -
上の写真だと石階段が見辛いので古写真を見ると、階段がばっちり写っています。
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胸牆(きょうしょう)
大砲と砲手を守るための土塁で、胸牆同士の隙間に大砲を設置します。大砲が7門なら、胸牆は8か所です。内側は階段状になっており、砲手が上って命中したかを目視します。 -
砲台は海に沿って造られましたが、現在は埋め立てが進んで、目の前はJRが走っています。
西浜公園 公園・植物園
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中砲台跡
明治維新後まもなく民間に払い下げられ、大西旅館が建ちます。1901年には寺田虎彦が8か月間療養しました。現在は社会福祉センターになっています。塁台の跡は、市道と駐車場の高低差として遺っています。 -
微妙な痕跡
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当時の図を見ると4門の大砲が設置されていました。
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東砲台跡
何も痕跡が残っていません。3門の大砲が設置されました。 -
外堀の内側に大砲が3門設置されました。現在の魚市場の近くです。
以上が、歴史にまつわるスポットです。 -
お馬神社
城山沿いにあります。よさこい節でお馴染み、坊さん(純信)がかんざしを買って贈った相手がお馬です。駆け落ちを試みますが国境の番所で捕まり、城下郊外へ追放され須崎に住みます。17歳で大工の米之助と結婚し、4人の子供をもうけ1885年に東京へ移転します。縁結びの神様として祀られています。 -
その横には宝永大地震(1707)犠牲者の供養碑が。土佐最大の天災で、南海地震よりも数メートル高い津波が押し寄せました。
土佐全体を襲った天災は、宝永/南海地震/室戸台風がダントツで、次いで安政地震です。県内の沿岸部には津波避難タワーが見られます。 -
東/中/西台場を結ぶ線上には、1301年分祀の須崎八幡宮があります。宝永大地震の際に神輿が津波で流され、伊豆まで漂着しました。後に取り戻され帰還を果たします。
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同じ線上には、住吉神社があります。航海安全を司る漁業の神様です。当時台場の並ぶ線が、海岸線だったことの名残です。
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住吉神社先の現在の海岸線には、漁港/魚市場があります。鰹節の名産地でした。県下最大の漁獲量を誇り、車で一時間ほどの距離の高知市の食卓は、安くて豊富な須崎産の海産物で養われています。須崎は、戦後高知市にウツボを定着させた土地です。グロテスクで小骨の多いウツボの包丁さばきと調理法を確立しました。
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須崎湾はきれいな弧を描き、沖から見ると富士山の稜線に似ているので、富士の浜と呼ばれます。新荘川右岸には、巨大な工場が見えます。
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日鉄鉱業鳥形山事業所
八幡製鉄所の原材料部門として創業し、須崎には1971年に開設。愛媛県境にある国内最大の石灰岩採石現場までは、60kmの道のりです。石灰石は溶鉱炉に投入して、鉄鉱石から鉄を取り出す際にスラグ(不純物)と分離させます。
須崎湾の反対側には、大阪セメント時代の1961年創業の住友大阪セメント高知工場があります。須崎が良港のために発達しました。市内の2大事業所です。 -
須崎駅
高知県下初の鉄道は、1924年に開業した須崎~日下間25kmです。翌年に高知まで伸張(+17km)します。高知まで普通列車が毎時運行と、県下で一番便利な区間です。
土讃本線は、1935年に徳島/松山/高松と繋がり、須崎以西は1934年に久礼(中土佐町)、1951年に窪川まで伸張します。 -
土讃本線発祥の地
鉄道建設は須崎側から始まりました。当時外国からの鉄道資材を運搬できる県下唯一の貿易港だったからです。高知市の外港は浦戸ですが、大物は須崎という歴史のあらわれです。鉄道/国道整備で、1954年に市制を施行するも、高知市一極化の影響を受け、人口減に悩まされています。
では、高知へ向かいます。 -
仁淀川を渡り、仁淀川地域はスルー。
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朝倉駅で途中下車
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朝倉神社
土佐国二の宮扱いで、藩主の庇護が篤いです。 -
とさでんが伊野まで延びます。
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こんな案内に従って進むと
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朝倉古墳
住宅街にあり、明治初期に発見。古墳時代後期(7世紀前半)のもの。 -
内部はこんな感じ
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朝倉神社参道向かいには、宿毛の回で紹介した野中婉(1661-1726)宅跡があります。
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父兼山の罪を負って、物心ついた時から40年間宿毛で幽閉され、1703年に42歳で赦免。宿毛の医師安田道玄医術を学び、朝倉で開業。朝倉の山野で薬草を摘みつつ、糸を用いて橈骨動脈を診る「おえんさんの糸脈」という診断法で名医の評判をとり、藩から8石の扶持を与えられます。後に岩下志麻主演で映画化されています。
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宿毛で展示されている婉の墓に副葬された遺品と、自筆の短冊。
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婉宅に迫る山には、朝倉城が存在しました。本山氏の支城で、長浜の戦いでは本拠地となり、初陣の長曾我部元親に敗北しています。
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駅前には国立大学法人高知大学のキャンパスが。
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高大沿いの旧道を路面電車が走ります。
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路面店パラダイスのバイパスと対照的に、のんびりとした光景です。
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鏡川を渡ります。
国道33号線下り線が鏡川橋(219m)、真ん中が鉄道橋、上り線が新鏡川橋(219m)です。 -
鏡川を渡ると、城下町です。
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鏡川橋電停から先は複線で、運転本数が激増します。というわけで折り返し電車がたくさん滞留しています。
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夕方は数分間隔。道路も混みます。
高知県民の半数は、高知市内に住んでいます。 -
車両には、日経の連載記事のようなタイトルが。
631号は都電7000型モデルで、1964年製造のとさでん一筋の人生です。1974年に廃止された安芸線にも乗り入れていました。 -
空港バスに乗り換え、国分川を渡ります。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11915516
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