
2024/06/04 - 2024/06/04
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hijunoさん
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高槻市を歩きました。
ヴォーリズの建築が残っていると聞いていた、大阪医科薬科大学の校舎を訪ねました。
あらかじめ、電話で見学日程の予約を取って、当日は担当の方が1時間ほどかけて建物内部を丁寧に説明してくれました。
内部は撮影は禁止でした。
今も講義などに使われている校舎だそうですが、階段状になった当時の講義室も再現され、学校に関しての古い資料なども展示され、興味深かったです。
窓も大きく明るい校舎でした。
外の装飾も幾何学模様が面白く、独特の雰囲気でした。
校内のヴォーリズが手掛けたほかの校舎などはもう今はありません。
こちらの校舎は今も大切に使われ保存されている建物でした。
しろあと歴史資料館では、江戸時代を中心として、高槻の人々の生活の様子などがよくわかる展示でした。
高槻城主だった高山右近に関しての資料もあり、波乱万丈の生涯がよくわかりました。
高槻城跡には高山右近の像もあります。また近くには高山右近記念聖堂といわれている高槻カトリック教会もあり、その入り口にも高山右近の像がありました。高山右近が城主だったころは、天主堂を中心とした城下町が形成されていたことを想像しました。
小さな遺蹟も沢山あり、歴史豊かな街でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 自家用車 徒歩
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大阪医科大学、創立100周年だそうです。
ここにヴォーリズの建築が残っていると聞いていました。
見学の申し込みがあらかじめ必要でした。 -
見学時間まで少しあるので、構内をぶらり。
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これもヴォーリズの建築だった校舎ですね。
もう、いまはありません。 -
イチオシ
こちらの建物が別館、見学できる歴史資料館です。
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昭和5年に竣工した学舎。
ヴォーリズが設計した学舎で唯一残ったのがこちらの別館だけ。 -
裏のあたりもキョロキョロします。
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裏口のドア。
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建物には、面白い装飾。
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イチオシ
イスラム様式のアーチ、アラベスク装飾という独特なユニークな装飾と、おパンフレットにもありました。
こちらが正面玄関です。大阪医科薬科大学歴史資料館 名所・史跡
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イチオシ
正面ドアあたり。
ドアの上の装飾、独特。 -
優雅な雰囲気の窓。
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説明にもありますが、
昭和5年から昭和49年までは、講堂、講義室として使われていたそうです。
今も中は、資料館と、実際に看護師さんたちの講義にも使われているそう。
見学の時間になり、大学の職員の方が案内してくれました。
日程は前もって予約が必要です。
内部は写真撮影が禁止です。
建物のなかは、資料展示室があり、大学創立からの貴重な資料や当時の写真が多く展示されていました。
階段講堂という教室もあり、当時の講義室を再現していました。
現在も同窓会や研究会などに利用されていますが
階段状に椅子机が並び、当時、解剖などの講義で、上の席までが見えやすいようになっていたそうです。
廊下も明るく、階段も広く、昇り降りしやすい高さ。
ヴォーリズ建築の実用性があちこちに光っていました。 -
外回り、細かな装飾があちこちにあります。
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およそ、1時間ほど、案内していただきました。
とても丁寧でわかりやすい説明でした。感謝です。 -
こちらの別館のほかは、いまは、すっかり現代的な建物が新しくなっています。
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別館、いまでも、使い続けられている建物です。
大切に保存されていることがよくわかりました。 -
見学を終えて、歩きだします。
次の目的はしろあと歴史館です。
たかつきのマンホールの蓋、自然を表しているのですね。 -
途中、まちかど遺産という表示。
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説明があります。
火のかみさま、愛宕信仰。
毎年、代表者が1,2回、京都の愛宕神社からのお札をもらい、家内安全や無病息災を願う信仰。 -
道端に、たわわな紫陽花、重みで傾いてます。
このころは、まだ梅雨前。
だんだん、暑くなってきました。 -
高槻市しろあと歴史館へ到着。
高槻城主だったキリシタン大名の高山右近の資料もあります。高槻市立しろあと歴史館 美術館・博物館
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歴史館のまえにもまちかど遺産。
思案石。
お城のあたりにあった石だそうで、生活に困窮した人がお堀に身を投げようかと案じて腰かけたといわれる石だそうです。
もとは、お城の石垣に使われた石?
切り崩した跡が残っています。 -
大きな石垣の一部も展示されていました。
高山右近の時代のお城の石垣だそうです。 -
説明板があります。
高槻城の石垣が発掘される様子。 -
歴史館まえ、水車なども展示されています。
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館内、とても広くて、二階部分にも展示がありました。
ビデオ紹介もありましたよ。
見学もフリーです。 -
入口。
お城風に。 -
高槻城のつくりの説明
三層の天守閣があったそうです。
地盤が軟弱だったため、様々な工夫があり、高度の土木技術があった、と説明にあります。 -
透明ガラスの下に、地下の様子を再現。
当時としては、軟弱な土地に対しての最新のような対策。 -
お城の詳しい説明板。
当時の畿内での最先端の技術を駆使したお城だったそうです。 -
イチオシ
高山右近像。
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芥川城跡の説明もあります。
芥川城も高山右近ゆかりのお城、山城でした。
1516年までに管領の細川高国が三好山に築城、初代城主は能勢頼則、1553年には三好長慶が7年間、城主となっています。
三好氏のあとは、和田惟政や、高山右近が入城したという記録があるそうです。
天然の要害で、主郭、土塁、大手の石垣も残っているようです。 -
年表があります。
1552年~53年ころに誕生した高山右近。
父の高山飛騨守が1563年に洗礼を受けたころに右近や家族も洗礼を受けます。
1573年に高山父子は高槻城に入り、お城の修復に努めます。
1585年には高山右近は明石に転封、船山城の城主となります。
1587年にはバテレン追放令により、右近も追放されます。
その後は、小西行長の庇護を受けたり、加賀にも預けられます。
1614年にはキリシタン国外地追放令でマニラへ。到着から1か月と少しで、亡くなってしまいます。
高槻城は室町時代にまでさかのぼり、城主が代々かわり、入江氏から和田惟政、高山右近へと続きます。
その後、永井氏の統治も長く、幕末まで13代にわたって続いていきます。
左下のほうに、書状に残っている署名があるのですが、右近はジュストという
洗礼名が漢字に直されていました。 -
右近の一生の説明がありました。
波乱の一生です。
信長~秀吉~家康の時代に、戦いに参戦しつつ、時代の流れに逆らわず、信仰も最後まで捨てなかった高山右近。 -
イチオシ
高槻城のキリシタン墓地から出土した、木製のロザリオ。
右近の父もキリシタン大名ですが、宣教師に聞いてロザリオを造らせていたようです。 -
イチオシ
隠れキリシタン、、
能勢妙見の木造の後ろに隠されてあったレリーフです。
マリアの像が見えるようですが・・・・ -
城下町のくらしについて。
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高槻藩主だった永井氏に関しての資料。
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江戸時代の資料。
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真ん中にある、掛け軸、藤井竹外とありました。
藤井竹外、、よく知らなかったのですが、調べましたら高槻藩の武家の家に生まれ、幕末の漢詩人で、頼山陽に師事して、七言絶句が得意で「絶句竹外」といわれるそう。
武家の出身で、鉄砲の名手だったそうです。 -
写真がよくないのですが、
左から二番目の掛け軸、巌桂。
庭の木犀を観て、その様子と香りを伝えたものだそうです。 -
短冊「吉野」も竹外の作品。
奈良の吉野の晩春を描いたもの。 -
高槻の水のようす。
地下水に恵まれたところだったようです。 -
井戸もいろんな形態があるんですねぇ~
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上水道の設備も城内にあったようです。
水はいつの時代も貴重。 -
城下の生活。
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西国街道の様子。
芥川宿もあったのですねー。
西国街道は京都から、西宮で山陽道と交わるまでの64キロの道。 -
参勤交代、大名行列の再現。
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芥川宿の説明があります。
17世紀のはじめに、徳川幕府によって整備された宿。
参勤交代の本陣、伝馬が置かれたそうです。
東西二十メートルといいます。
とてもにぎわっていた宿だそうで、19世紀の初めには旅籠も33軒、家も253軒あったようです。
歩いてみたいなぁ~ -
淀川の水運も発達。
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高槻城内の絵図です。
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二階に上がります。
ここにも展示がありました。 -
ここにも淀川と舟運。
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淀川、多くの物資を運んで、人々の暮らしを支えてきました。
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面白い船!
「くらわんか舟」
三十石船の乗客などに食事を提供していた茶船だそうですが、
「くらわんか くらわんか」と食べ物を売っていたそうです。
説明によると、柱本が発祥の地。
夏の陣で徳川に協力し兵糧米などを運び、特権を得て、朝鮮通信使の接待や大雨や台風の救助活動、幅広い奉仕の活動もしています。
そういえば、くらわんか餅もどこかで聞いたような、、
船で売っていたお餅。
今でもあるかな、、食べてみたい。 -
茶船の営業許可証がありました。
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現在の高槻市古曽部町で造られていた焼き物、古曽部焼き。
江戸時代の後期から大正まで続いていたそうです。 -
素朴な絵柄。
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窯跡からの出土品。
発掘調査されていました。 -
高槻市冨田の酒造り。
最盛期の江戸時代初めには24軒の造り酒屋があったそうです。
現在は2軒が残るのみです。
お米とお水が美味しい土地なんですねー。 -
1780ころから高槻でも、寒天づくりが盛んになります。
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寒天づくりの工程。
昔の古い道具が展示されていました。
とても手のかかる作業なですねー。 -
高槻城の絵図、ここにもありました。
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1階のエントランスあたりには、次からの展示が用意中でした。
芥川城と三好一族だそうです。。
高槻城や高山右近、江戸時代の高槻の様子がよくわかる博物館でした。 -
外に出ます。
高槻城の跡へ行ってみます。 -
そばの学校の石塀なんですが、これって、お城の石垣だったものでしょうか。切りだした跡が残っています。
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古い門がありました。
元工兵第四聯隊の兵舎があったところです。
現在は、平和のモニュメントとして残されている営門です。 -
現在は学校や公園の建物が建っていますが、兵舎は明治42年から昭和20年まで使われていたそうです。
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今は、平和。
公園があります。 -
高槻城跡に向かいます。
大きな石は石垣だったもの? -
今は、高槻城公園に名前が変わっています。
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広い公園のようです。
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入ってすぐに、高槻城主だった高山右近の像があります。
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高い場所から、お城の跡を見下ろしています。
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若い高山右近像。
シュッとしています。
凛々しい。高山右近像 名所・史跡
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説明板もあります。
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子供たちが造った看板もありましたよ。
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こちらにも。
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公園内をぐるりと一周。
石垣もお城の当時のものはあまり残っていない、、と聞きました。 -
奥のほうへ。
日本庭園風になってました。高槻城公園 公園・植物園
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高槻市立民俗資料館がありました。
高槻市立歴史民俗資料館 美術館・博物館
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説明板があります。
旧笹井家住宅が資料館になっています。
江戸時代の中頃の建築。
笹井家は乾物、瀬戸物、米の商いをしていたそうで、家は妻入り、屋根も本瓦葺きです。 -
見学は無料。
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中に入ります。
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商家の雰囲気。
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奥に座敷が続きます。
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欄間がなんだかお洒落です。
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当時、使われていた道具などが展示されていました。
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生活の道具が色々。
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農機具なども展示。
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天井の梁も太くて、がっしりとした家づくり。
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入口あたりに説明。
屋根瓦は縁起の良い宝珠や福を招く小槌の鬼瓦、軒丸瓦は防火の意味があり、水を意味する巴文が使われていて、興味深いです。 -
公園から出ました。
石垣に使われていた大きな石がありました。 -
新しくできた建物が綺麗です。
高槻城公園、広い範囲で。 -
このあたりは二の丸御殿跡。
発掘もされています。 -
案内板。
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可愛い~
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お堀もきれい。
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刻印もあるみたいです。
石垣がマンションの3階くらいの高さに相当していたといいます。 -
綺麗に整備されていました。
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ここにも石垣。
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枡形門の石垣。
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イチオシ
すぐ近くに、高山右近高槻天主教会堂跡の石碑と説明板がありました。
1574年に高山右近とその父飛弾守が池や庭園のある教会堂を建て、そこを中心に布教を行ったそうです。 -
高槻商工会議所の一角にありました。
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野見神社にやってきました。
野見神社 寺・神社・教会
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説明板。
由緒は古く、880年代の宇多天皇の時代、疫病がはやったので、おつげにより社殿を造り、牛頭天王を祀ると疫病は収まったと言われています。
その後は高槻城の歴代城主に信仰されたそうです。 -
永井家家紋の説明がありました。
テッセンを用いた美しい家紋です。
摂末社の永井神社のあちこちにみられるようです。
永井直清が徳川家光よりテッセンの家紋が与えられ、高槻藩主永井家のみが使用を許された家紋だそうです。 -
永井神社。
立派な唐門があります。
よくみましたら、あのテッセンの家紋がありました。
美しいです。 -
永井神社。
1793年、高槻藩主永井直清が創建。
11代藩主 永井直輝のときに、本殿と拝殿を修復、唐門を建立しています。 -
野見神社の拝殿。
2003年に改修されています。 -
高槻えびす神社。
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境内。
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小島神社。
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創建は不明だそうです。
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カラスの思い出、、、
このあたり、この時期、カラスの巣があり、ヒナが下に落ちてしまって、
それを見守るカラスが超警戒しており、この近くを通ると襲われてしまいます。この時期はカラスは子育ての時期なので、危険だそうです。
知らなかったので、歩いていましたら、高いところから頭を二回ほどつつかれました、、、、というより、叩かれた?みたいな衝撃。
幸い麦わら帽子をかぶっていたので、大丈夫でしたが、あのカラスの勢い、スピード~めちゃくちゃ怖かった~。
その後、カラスが近くにいると、身体に力が入ります。笑
緊張してしまう今日この頃なのでした。トラウマになって。
それにしても、カラスがわが子を守ろうとするその強さ、必死さに
ちょっと感動もしてしまいます。
カラスの歌にも、かわいい―かわいいーと、カラスは鳴くの、、っていいますものね~
自然豊かな神社でした。 -
四社明神。
福神社、稲荷神社、磐神社、大正時代にひとつにまとめたそうです。 -
沢山の石燈籠、、見たいけれど、カラスの襲撃を受けるので、あきらめました。
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神社から少し歩くと、藤井竹外邸跡の説明板と石碑がありました。
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歴史資料館でも見学しましたが、
藤井天外、高槻出身、幕末の漢詩人です。 -
漢詩の「澱江」が書かれていました。
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武家の出身です。
鉄砲の名手でもあったそうです。 -
更にさらに、少し歩いて、カトリック高槻教会に来ました。
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別名、高山右近記念聖堂といわれています。
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イチオシ
ドームがありますが、高山右近はマニラでその生涯を終えますが、マニラ郊外のアンティポロの聖母大聖堂を模して造られたものだそうです。
高山右近記念聖堂 (高槻カトリック教会) 寺・神社・教会
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イチオシ
入口付近に、高山右近の像がありました。
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像の下には聖書の一句が書かれていました。
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イチオシ
教会のなか。
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黄色のステンドグラスがより明るく光を照らしていました。
-
入口にも可愛いステンドグラス。
葡萄模様です。 -
外にも立派な石碑がありました。
高山右近の洗礼名 ジュストという文字が見えました。 -
温かい雰囲気の教会でした。
今回も長くなってしまいました。
最後までお付き合いいただいて、ありがとうございます。^^
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