2024/06/22 - 2024/06/26
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akitaineさん
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カラコルム第2日目です。
ユーラシア大陸のほぼ真ん中に位置し、紀元前から多くの民族の攻防がなされた地は、13世紀にモンゴル帝国の首都になりましたが、それ以前も大陸の交通の要衝として付近には突厥やウイグルが覇を競いました(共にトルコ系)。
ツアー4日目、本日は、カラコルムから1時間半ほどのウイグル王宮があったハル・バルカス(カラバルバスン)と、オルホン河畔にある突厥第二帝国第三代王であるビルゲとその弟でキョル・テギンの碑の現場と碑文現物が収められているツァイダム博物館に行きます。時代的には700年~850年頃繁栄した地です。これらもオルホン渓谷文化遺産として世界文化遺産に登録されています。
【日程】
6月22日(土)関空ーウランバートル
6月23日(日)ウランバートル東南50㎞にあるトニュクク遺跡→ウランバートル市内博物館3か所
6月24日(月)ウランバートル→ハラホリン(カラコルム) ハラホリン博物館→エルデニー・ゾー→メルヒントルゴイ
6月25日(火)ハラホリン→ハルバルカス→オルホン河畔(ツァイダ博物館・ビルゲカガン碑文・キョルテギン碑文)→ハラホリン→ウランバートル
6月26日(水)ウランバートル市内・スフバートル広場→ノミンデパート→カシミヤ売店→チンギスハーン国際航空→関空
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
最初の訪問地、ハル・バルカスを目指します。突厥滅亡(745年)後、当地の覇者となったウイグルの首都です。850年頃キルギスに攻め滅ぼされます。その後870年頃からモンゴルの覇者は渤海、契丹(遼)へと移り、突厥、ウイグル、キルギスと続いたトルコ系民族の東ユーラシア覇者の時代は終わります。
ハラホリン集落のはずれには、豊かな水をたたえたオルホン川が流れています。
しばらく舗装道路を進み、その後、未舗装の草原を約12㎞、揺られながら北上しました。 -
ハル・バルカスに到着。
745年に東突厥が滅び、その後東ユーラシアの覇者となったのはウイグル人(トルコ系)でした。ハル・バルカスを首都として、お城を築いたのです。
バスを降りた目の前には版築(土を叩き固めたレンガのようなもの)の城壁跡が等間隔に並んでいました。
手前の土台が堀の外。奥が少し小高くなっていて壁が残っています。その間には堀の跡も見られました。まさしくお城です。 -
10mほどの斜面を登り、城壁の上から外部を見ます。
私たちが乗ってきたバスが草原の中にたたずんでいます。
舗装道路もない、ただただ草原の中にポツンとあるバス。
かつて、ここが都であったとは。
手前に見える筋のような浅い溝は、かつてのお堀跡です。 -
城壁の高台より城の内部を見る。対角に見えるのは、唯一残る塔の跡です。塔の後ろに城壁が見えます。ぐるっと四角く囲まれ、中の低地に建物がありました。西北ー東南414m~420m、東北ー西南326m~336mの大きさです。
建物の跡もはっきりわかります。宮殿もこの囲いの中にあったと考えられます。 -
何となく建物が想像できそうな跡がついています。
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城の内部を横切り、対面の塔まで歩いて登りました。ちゃんと道がついていました。
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塔の頂上には、昨日見たチベット仏教の五色旗(オポー)が建てられていました。
この城を作ったウイグル・カガン国は、仏教を信仰していました。この塔は仏塔であったらしい、ということですが、結論は未だ出ておらず、今後の研究が待たれます。
塔の上に登ると、とても爽快です。草原にはほとんど何もない。 -
城壁の上は大体歩ける幅があるので城壁に沿って歩きました。
大きな鳥がとまっています。コンドル。
このあたりは留鳥や渡り鳥がたくさん飛来している草原で、来るときも鶴が見えた、とガイドさんが言っていましたが、私は見過ごしてしまいました。何も無いような草原ですが、豊かな生き物が暮らす地です。
人間は、とても少ないけど。 -
名残惜しいが、ハル・バルガスを後にして、バスで少し南下し、オルホン河畔にある突厥第二帝国(東突厥682年~744年)三代目ハーンのビルゲ廟に来ました。
この碑文と近くにある弟のキョル・テギン碑文があるお蔭で、唐と突厥の関係がより明らかになりました。
ビルゲ・ハーンは在位716年~734年。2日前に見たトニュクク碑のトニュククはビルゲまで三代にわたりハーンに仕えた宰相でした。
廟内では、金銀製品などが発掘されています。それらの遺物と石碑現物は、近くにあるホショーツァイダム博物館に展示されています。 -
廟内。礎石や石が転がっていました。
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左がビルゲ廟の塀。右に小さく見えるのがキョル・テギン廟です。約1㎞くらい離れています。
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入り口にある看板。文化財保護活動をトルコ政府とモンゴルが協同で行っていると説明。
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キョル・テギン廟入口。普段は開いていないようです。ホショーツァイダム博物館の管理人さんが鍵を持ってきて開けてくれました。
キョル・テギンはビルゲ・ハーンの弟にして兄を補佐する英雄でしたが、兄より早く戦死しました。当時、幾度も戦いを交え、時には和合していた唐の玄宗皇帝は、キョル・テギンの死を悼み、自らの追悼文と石工を派遣し、碑文を作らせました。
碑文は、玄宗皇帝の手による漢文と裏には古代トルコ語で書かれた文字が彫られています。
ビルゲ廟と造りはほぼ同じでした。
では、内部に入りましょう。 -
かつては、このような感じで碑が建てられていたのでしょう。
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碑文の表は漢文で玄宗皇帝がキョル・ヒデンを悼む言葉が常識的に書かれていますが、裏は、突厥文字で、本音を言いたい放題書いている。写真は、博物館に収蔵されている本物の碑文。上の漢字は私でも読める。
突厥は、552年に帝国を樹立しましたが、583年東西に分裂。西はアルタイ山脈西部やトルコ方面へ移動、現在のトルキスタンやトルコに国家を樹立しています。
東突厥は、630年~682年唐の支配下で属民として苦しみました。ビルゲは、再興した東突厥(突厥第二帝国)三代目のハーンです。
碑文東側7~8行目を引用させてもらいます。
【(本来は成長して突厥の支配貴族たる)ベグとなるべき男子たちは、唐の民への奴隷になり、ベグ夫人となるべき女子たちはその女奴隷になってしまった。突厥のベグたちは突厥風の名前を放棄し、唐にいるベグたちは唐風の名前を帯びて唐皇帝に服属したという。50年間労力を捧げたという。前方(東)へ日出づる所には、高句麗可汗にまで出征したのだという。後方(西)へは、(ソグディアナ(ソグド人が住んでいた地。現在のサマルカンド周辺)とトハリスタン(現在のアフガニスタン北部)の境界にある)鉄門まで出征したのだという。・・・】
この他、唐への警戒心をあらわにする内容盛りだくさん。玄宗皇帝の政治儀礼(お金を出して石碑を立ててあげた)も、積年の恨みには勝てないってことですか。
注目は、唐は配下の外国の兵を使って戦争をしており、高句麗まで行っていたということです。日本にはお馴染みの高句麗。
ちなみに、高句麗は668年唐と新羅連合軍によって滅ぼされますが、その後唐の大将軍の一人として、高句麗出身の高仙芝(玄宗皇帝時代、756年没)という英雄がいます。
唐にしろ元にしろ、民族を問わず優秀な人材が活躍することができる、これは大陸的感覚でしょう。
高仙芝は西方にも従軍していたので、カラコルムにも来ていたのでは、と考えると面白い。 -
キョル・テギン廟の中のほうが石がたくさん残っていました。
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さて、ビルゲ兄弟の廟と碑文を見たので、現物が保管されているホショーツァイダム博物館を見学します。ここもトルコ政府の援助でできたそうです。
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ビルゲとキョル・テギン、二つの碑。
手前にいる縦縞のシャツを着ている人は、数名のグループでトルコから来たそうです。私がトルコ人なら、やはり来るな。 -
ビルゲ陵から出土した金製のベルト飾り
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ビルゲ碑文の一部。ビルゲの碑文にも高句麗が出てくる。「Bokli」。(赤字部分)
この言葉の意味が謎だったのですが、多くの学者の研究で高句麗のことであると判明しました。
唐の時代、唐は突厥と戦うこともしましたが、周囲にはその他多くの異民族の敵がいて吐蕃(チベット)や高句麗とも戦っていました。突厥とは、時には共同戦線を張って、チベットや高句麗に侵攻したそうです。 -
ビルゲとキョル・テギンの石棺。
名残惜しいですが、すでに1時を回っています。
ウランバートルまでバスで7時間かかるので、カラコルムを後にしました。
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