2024/05/20 - 2024/05/20
168位(同エリア546件中)
gianiさん
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中村は、公家の中の公家である一条教房が居を移し、一時代を築いた雅な街です。土佐藩でも、破格の知行地が存在し、独特の文化が花開きます。
陸運の発達で、東京/大阪から離れた僻地として、多くのものが残されます。
災害で街並みが破壊されたとはいえ、土佐で唯一の小京都です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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平田で土佐一条氏ゆかりの地を訪れた後は、中村駅で下車します。
土佐くろしお鉄道本社があります。幡多地域の中心にもかかわらず、1970年になって鉄道が通じた高知県の僻地。 -
駅前には、一般宅を使用した観光案内所。
とりあえず市街地の地図は役に立ちます。
市街地の飲食店マップがないのが、大きな欠点です。
旧市街入口までは、駅から1kmほどです。 -
四万十市郷土博物館
山の上の城の天守閣内にあります。
不便なロケーションです。
まずは簡単な歴史から。四万十市郷土博物館「しろっと」 美術館・博物館
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一条教房下向(1468)
応仁の乱で京都が戦場になると、先の関白一条教房(1423-80)は、数ある所領の中で幡多荘(中村)へ避難/移住します。
都の外は田舎、畿内の外は野蛮な土地と認識していた時代に、摂関家の当主が土佐へ行くのは破格な出来事でした。人心を掌握し、死に際しては多くの家臣が出家します。中村には、京都の洗練された文化が伝播します。 -
幡多荘
中村を本荘とする幡多荘は、藤原北家(道長の家系)の関白忠通が12世紀半ばに寄進を受け、平氏/源氏の手に渡った後、1250年に忠通の六男で後に関白を務める九条兼実/良経/道家と相続されます。その後道家の三男で後に関白を務める一条実経に相続され、代々一条家の荘園となります。不在地主として、現地の管理を地元の豪族に委ねました。 -
一条房家(1475-1539)
教房は、中村下向時には家督を長男政房に譲っており、土佐では地元豪族加久見宗孝の娘を後妻として房家が誕生します。家臣団の支持を得て18歳で元服し、中村を拠点に土佐一条氏の祖として権力を拡大します。京の都へも赴き、中央政界では大納言を務めます。中国の明との貿易も行い、大いに栄えます。次男の房通(1509-56)は、跡継ぎのいない宗家を継ぐために京都へ養子入りしています。
私見:教房は跡取り息子のために、年貢の滞っていた幡多へ乗り込んで地盤を整備するつもりだったと思われます。下向(=余生)時には土佐で子孫を作ることは想定せず、房家が生まれても出家させて相続争いが起きないようにしたと考えられます。しかし家臣団が房家擁立を熱望し、政房は弟の分家を認めたのが実情かと思われます。 -
一条教房が亡くなったとき、息子の房家は4歳で仏門に入っていました。しかし家臣団の総意で還俗、18歳で土佐一条家を創設します。京都の本家に世継がいなかったので、次男の房通が本家に養子入りし関白も務めます。
明との私貿易で蓄財し、朝廷への貢ぎ物も欠かしませんでした。年始には和紙や扇、ほかにも鯨など貴重な品を朝廷に献じます。 -
一条房冬(1498-1541)
房家と前参議藤原資冬の娘を両親とし、伏見宮邦高親王の娘である玉姫を娶ります。京と中村を行き来し、朝廷や堺商人との関係を築きます。本家を経済的に支えつつ、領土も幡多郡/高岡郡を手中にします。
中村は土佐の小京都と呼ばれ、大文字焼など都の風物詩ももたらされました。 -
一条房基(1522-49)
妻として豊後の戦国大名大友宗麟の妹を迎え、地域のパワーバランスを保ちます。
一条兼定(1543-85)
妻に大友宗麟の娘を迎えるも、百姓娘に現を抜かす等して家臣団に追放され、宗麟の下へ亡命します。 -
1570年頃の勢力図
大内氏は滅びて毛利氏に、土佐七雄は長宗我部元親だけが生き延び、土佐一条氏と二分しています。東九州は鎌倉時代より守護を務めた大友氏が台頭しています。 -
幡多郡で地道に地盤を強化した土佐一条氏は、摂家という圧倒的家柄ゆえに土佐で一番の影響力を持ちます。1504年に本山氏に攻められて居場所を失った6歳の長宗我部国親を庇護し、1518年には本山氏との和睦を仲介して国親を岡豊城主に返り咲かせます。
国親の息子元親は、土佐東部中部を統一し、遂に一条兼定と決戦に挑みます。 -
渡川の合戦(1575)
領地が長宗我部元親にされ始めると、一条兼定は1573年に家臣のクーデターに遭って隠居させられます。翌74年に義父大友宗麟を頼って豊後へ亡命します。加久見左衛門は挙兵してクーデター分子を掃討しますが、中村は長曾我部元親に占領されます。翌75年に宗麟の援助で兼定は土佐へ戻って元親と渡川(四万十川)を挟んで対峙しますが、敗北し土佐一条氏は歴史から姿を消します。 -
土佐/四国を統一した長宗我部元親は1585年に豊臣秀吉に従い、引き続き土佐を治めます。
江戸幕府が開かれると、土佐は山内一豊が封じられます。実弟の康豊は、一豊の名代として一足先に土佐入りして領地全体を回って地盤を整えます。 -
一豊は、沿道の佐川/窪川/中村/宿毛に一族/重臣を配します(東部は安芸1500石の五藤氏のみ)。中村には、弟の康豊を配し2万石を委ねます。息子の政豊には子がなく、中村は1626年に土佐藩に復帰します。
2代目土佐藩主山内忠義は、城下と中村を結ぶ宿毛街道(26里)を整備するよう沿道の村に命じます(写真)。木塚~入野村の名前が見えます。忠義が康豊(父と同名)と名乗った珍しい書状です。 -
中村支藩(1656-89)
2代藩主山内忠義が1656年に中村3万石を次男の忠勅へ分与し、中村支藩が成立します。豊定/豊明と相続されますが、1689年に豊明が将軍綱吉の怒りを買って召し上げられ、土佐藩領に戻ります。この時期は野中兼山の執政と重なり、土木事業で水田が広がり経済に裏打ちされた文化が育まれます。 -
敵討優曇華亀山図(部分)
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中村支藩時代の城下町絵図
南が上で、北が下になっています。 -
島村小湾(1829-81)
四万十川河口の下田地区出身の画家。高知城下で河田小龍に学び、様々な作品を残します。維新後は県庁で地図作成に携わります。 -
土佐藩では幕末に土佐勤王党が結成され、過激な活動で藩政を翻弄します。樋口真吉も中村で幡多勤王党の盟主になりますが、薩土密約の参画等の成果を出しつつも穏健な路線を進み、粛清の嵐の城下主力派とは一線を画します。
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中村は四万十川河口から9kmほど遡った場所にあり、河口部の下田は外港として繁栄しました。鎌倉時代に幡多荘の年貢を京都へ発送する積出港として、船所職が設置されました。
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島村小湾により下田浦絵図でも、繁栄ぶりが分かります。
大阪から購入したレンガ資材を用いた構築物は、その名残です。
明治以降も海運/川運は健在でした。 -
幸徳秋水(1871-1911)
中村出身の有名人と言えば、この人。帝国主義を批判し、社会主義論を展開します。思想は無政府主義/行動論へ変化し、大逆事件(明治天皇暗殺未遂)で処刑されます。 -
水運から陸運へ
明治以降道路整備が始まり、高知/松山方面との往来も改善され、物流は陸運へシフトします。下田を起点とする水運が役割を終え、四万十川には次々と沈下橋が架けられます。現在の景観には、こうした背景があります。
1954年には中村市が誕生し、70年には鉄道が開通しますが、人口流出を促進し過疎化、2005年の合併で四万十市が誕生します。 -
四万十川の漁撈
流域にダムがなく、流路を人工的に直線化することもなく(四国最長196km)、川本来の姿が観られる生物の宝庫です。漁の観点から紐解きます。 -
アユ
晩秋に孵化して海へ下り、春頃に遡上を始めます。漁が解禁になる6月ごろから若いアユを友釣りや投網で狙い、秋口は夜間に灯りでアユを追う火振り漁がおこなわれます。12月に産卵を終えると1年間の生涯を終えます。この時期は落ち鮎(写真左上)と呼ばれ、河口域では好んで投網や針掛けで狙います(写真左下)。 -
ビク
竹製で、釣ったアユを入れます。シャビキ漁等で使われ、背面には腰につける紐通しがあります。 -
シャビキ漁の竹竿
丸節竹を用い、先端に向かって節が徐々に狭くなる。曲がりは加熱して調整し、水分を抜くために2年ほど寝かせます。 -
シャビキ漁の仕掛け
下流域の竿漁で、アユを引っ掛けて釣ります。錘の先に二股の針を4,5本付けます。 -
漁具:右から順に解説します。
投網:円錐状に拡がる網。主に舟で使用し、水深が深い所の鮎も捕まえられる。
大正網:徒歩で川を歩いて設置。追い込み漁で使用し、網の長さは25m。
投げ網:徒歩で投げて使い、主に瀬張り漁で使用、全長20m。
建網:火振り漁で使用し、船で設置。全長30m、連結して使用。
シャクリ竿:箱メガネで見ながらアユを引っ掛ける。シャクリ漁で使用。
ヤス:アユを突く道具で、現在は使用禁止。 -
延縄(はえなわ)
網から多数の針を分岐させる漁法。全長100-300m、一定間隔に石錘を付けて沈める。 -
分岐した針の部分を拡大。
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箱メガネ
水中メガネを使用した漁は禁止されているので、シャクリ漁等では水面に箱メガネを当てる。木製のものは使用者が口で噛んで使用し、葉型が残っています。 -
友がけ(友釣り)の仕組み
アユは縄張りを持ち、侵入者を攻撃する習性を利用します。囮のアユを針につけて投入すると、攻撃して針にかかったところを釣り上げます。 -
投げ網と投網の違い
投げ網は水深の浅いところで使い、長方形をしていて下側に錘が付いています。周囲を囲い込むように投げるのがコツです。遠くに投げられて早く沈むので漁獲上げやすい反面、流れには弱いです。
投網は、水深の深いところを狙えます。円錐状に開いて、窄(すぼ)まります。近くの魚を一網打尽に捕れますが、ゆっくり沈むので逃げられることもあります。 -
ウナギ
冬場に稚魚(写真左上)のシラスウナギが海から遡上し、川底の石の隙間に潜んで小魚を好んで捕食します。
石を積み上げてウナギを誘い込むイシグロ漁(写真左下)や、ウナギ筒漁、灯りで誘うシラスウナギ漁がおこなわれます。 -
(左)ウバシ:ウナギを掴む道具
(右)ハグ:ウナギを掴む道具。流れの緩やかなところで使われ、土の中に隠れているウナギを引っ掛けて捕まえます。使用時は竹で持ち手を付けます。 -
ウナギ籠
捕まえたウナギを入れておく篭。 -
ツガニ(モズクガニ)
秋に産卵のために川を下って来る時期が漁期で、浅瀬の通り道にウエ(籠)を設置して獲る方法や、餌を入れた籠を深場に沈めておびき寄せる方法があります。餌には、魚のアラを用います。 -
カニカゴ
餌を入れて、淵に仕掛けます。昔は円錐形や円筒型の竹籠が用いられましたが、現在はナイロン網に代わっています。 -
テナガエビ
ミナミテナガエビ(写真)/ヒラテテナガエビ(写真左上)は、生まれてすぐ汽水域へ下り、そこで成長します。体長が3cmになると、川岸近くを上流へ遡上を始めます。漁では、餌を入れた筒を川下側に口を向けて仕掛けます。 -
エビコロバシ
エサ(米糠)を入れ、入り口を下流に向けて仕掛けます。現在はエスロンパイプに代わってきています。 -
入口側から見た内部
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(左)プッシュリ:手長エビを突いて捕まえます。狭い所に入ったエビも捕まえられる。
(右)エビタマ:被せるようにして、手長エビを捕まえます。 -
エビ玉は、驚いたエビが後退する習性を利用する一番手軽な漁具です。
石の隙間にいるを見つけたら、エビの後ろ側にそっとエビ玉を構え、エビの正面の石をどかす等して驚かせて網に逃げ込ませます。 -
少ない労力で大きな成果を上げることが漁の本質で、漁具も絶えず進化しています。かつて松明を振った火振り漁はLEDランプに代わり、竹で編みこんだ竹籠はナイロン製に代わります。一見伝統が失われたように見える事柄も、漁の本質を考えると健全であるといえます。
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ブッタイ
手で持って魚の逃げる方向に口を設置し、足で川底を攪乱して追い込みます。現在は延縄漁で餌にするゴリを捕まえるために用いられます。 -
テナガエビの料理
雄は鋏が大きく立派なので、素麺のトッピングに用いられます。雌や稚エビは殻が柔らかく食べやすいので唐揚げにされ、おつまみにします。また、大きく育ち過ぎたキュウリと一緒に煮ると美味で、出汁としても用いられます。 -
ウナギの料理
天然ウナギは、体が黄色味を帯びて身が締まり歯応えがあります。昔は本流のみならず水路等でも多く見られました。捕獲後、水のきれいな小川等で数日間泥を吐かせ、臭みを取ってから調理します。 -
アユ料理
季節感を強く感じさせ、祝いやもてなしの場でも重用されます。初夏の若いアユは唐揚げや塩焼きにされることが多いです。河口に近い中村付近では、産卵後の落ち鮎も食され、水煮/甘露煮/乾物に加工して冬場の蛋白源とします。 -
ツガニ料理
上海蟹と同種で、美味です。塩茹でや殻ごと潰して味噌と混ぜたガネ味噌等にされることが多く、ツガニ汁など汁物の出汁にも使われます。生きたまま炊飯器に入れて米と一緒に炊くなど、様々な料理法があります。 -
ゴリ料理
川底に住むハゼ科の魚で、ヌマチチブの呼び名です。春の訪れを感じる食材として、卵とじ/唐揚げ/佃煮にします。
続いて、天守台から街を眺めます。 -
南方向
四万十川支流の後川と城山に挟まれた細長い土地に中村市街が広がります。 -
東方向
後川の先には、京都に因んだ東山がそびえます。後川は鴨川になぞらえています。 -
北方向
後川上流方向で、水田(農村)が広がります。 -
西方向
城山が立ちはだかり、その先には四万十川と対岸の具同地区が見えます。
では、城から街へ下りてみます。 -
中村城
天守閣は国宝犬山城を模したデザインで鉄筋コンクリート造り、しかも二の丸に位置しており、史実を全く無視しています。 -
中村城址
一条教房が中村へ下向した際に、地元豪族の為松氏が家老に取り立てられて築城したとされます。それゆえ本丸は為松城と表現されます。中村城跡 名所・史跡
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麓から登り始めると、桜の段に突入します。谷を挟んだ先には東ノ城が見えます。
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東ノ城跡
土佐一条氏一門の西小路氏が守りました。200平方メートルほどの曲輪(平地)があります。 -
全体構造からすると、三の丸に相当します。
一条氏滅亡後には田畑となり、当時とは異なる地形になっています。 -
土塁跡
博物館のある二の丸は、三方に土塁を築いて防備を強化していました。上から敵を攻撃し、隠れて身を護るために使用されました。幅3.5m高さ3.7mと、地域では際立った大きさです。為松公園 公園・植物園
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土塁の切れ目を抜けて空堀を越えると本丸。現在は為松公園の核となっています。
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御城と呼ばれる西エリアとの境目にも土塁が残っています。中村は日本屈指の多雨地なので、土の塁壁は雨で崩れやすい欠点があります。後に石垣に改められます。
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御城(西エリア)
戦後の宅地開発で痕跡が完全に消えています。道路の傾斜(緩い坂道)が、山を崩した唯一の痕跡と言えます。 -
一条教房墓
先の関白で、1468年10月に中村入りして、以後5代にわたって地域を支配する礎を築きました。妙華寺境内に葬られましたが、後代の退転に伴い、現在は境内を外れています。一條教房の墓 名所・史跡
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その横には奥御前宮が。
承久の乱(1221)に伴う土御門上皇(1196-1231)の幡多遷幸の際の御在所です。光源氏の須磨退去と同じく、自ら遠くへ退いた「自主遠流」です。19か月間滞在した後、阿波へ移され生涯を終えています。 -
地域の名門県立中村高校に面した十字路を右折すると、城山沿いに南北に貫く道があり、水路も通ります。
※現在は中高一貫校。 -
現在の地図に歴史スポットをプロットすると、こんな感じです。
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土佐山内家土居跡
1615年の一国一城令で中村城は破棄され、山内康豊は城の麓に土居(防衛機能が強化された領主居館)を築きます。廃藩後幕府から土佐本藩に返却されると幡多郡奉行所として、地域支配の中心地となります。
現在は法務省中村拘置支所となっています。 -
南進すると、幕末の藩校跡を示す石碑があります。中村小学校の前身です。
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中村大神宮には、中村小学校跡という石碑が。
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江戸時代の絵図と同じく、通りには水路(桜川)が流れています。
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木戸明が自宅で開いた私塾「遊焉堂」の跡地
勤王運動家として活躍し、自費(実家吹田屋の財力)でモルチール砲38基を鋳造して藩へ献上します。高知や中村で教員となる傍ら、維新後は遊焉堂を開塾し、ここで幸徳秋水が学んでいます。
※モルチール砲:射程距離が短く命中率は低いが、砲身が極短で弾道が高い。 -
安岡良亮邸跡
幡多勤王党を組織し、薩土密約に参画/戊辰戦争では近藤勇を処刑する。1876年に熊本県令になるも、同年の神風連の乱で襲撃に遭い死去。 -
西小路氏土居跡
土佐一条氏の政権下で、一門の西小路氏が屋敷を構えていました。屋敷に隣接する中村城を運用する任務を負っていました。
中村目代屋敷跡
鎌倉時代に幡多荘が一条家に相続されると、荘園を管理する私的代官(目代)を任命して経営に当たらせました。 -
樋口真吉邸跡
剣術師範として知られ、江戸の佐久間象山/長崎の高島秋帆から洋式砲術を学びます。藩士として幡多郡の砲台設置等の防衛に携わる傍ら、幡多勤王党のリーダーとして国政にも絡み、中村の藩校で多くの門弟を輩出します。新政府で公務に就くも明治3年に病死。
高知桂浜の龍馬資料館には、樋口が龍馬へ1円貸した際の借用書が展示されています。 -
実は、今までの史跡は鎌倉~明治まで混ざっており、中村支藩時代はすべて藩主の屋敷(土居)でした。
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中村城へ続く車道を渡ると、2代目中村藩主山内政豊墓の入口が。病弱で、藩主を務めたのは1625-29まで。世継がいなくて中村藩は一度消滅します。当時は妙因寺境内でしたが、明治4年に廃寺になり現地は雑草が生い茂り、アプローチできませんでした。
政豊の父は康豊で、兄の忠義は男子のいなかった一豊に養子入りして土佐藩主になっています。山内政豊(良豊)の墓 名所・史跡
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良く整備された公園を目で楽しんで、
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検察庁の前には、正福寺跡の石碑が。周囲一帯が境内でしたが、明治4年に廃寺。土佐/薩摩は、廃寺が多いです。
1208年の法然(浄土宗の祖)配流に備えて急遽整備されたお寺です。
※実際は、讃岐に配流されました。 -
正福廃寺には、木戸明の墓が。
教えを受けた3000余名の中には、高知時代の生徒で後の首相浜口雄幸も含まれます。 -
横には、弟子の幸徳秋水墓が。
幸徳秋水の墓 名所・史跡
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天神町商店街に突入します。
中村の中心で、幡多地域唯一のアーケードです。
古地図を見ると宮田小路に相当し、桜川を横断する天神橋が架かっています。四万十市 天神橋商店街 市場・商店街
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商店街の広場には、窪川発祥のじゃん麺を味わえる店があります。癖になります。
まんしゅう 四万十中村店 グルメ・レストラン
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脇道から市役所を眺めると、階段が見えます。江戸時代の絵図にある天神山の名残です。
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市役所に隣接する飲食店街
かつては、桜川が流れ込む天神池/八面池でした。居酒屋千里は、知る人ぞ知る穴場店です。 -
市役所の3階、図書館内には秋水資料室があります。
こちらはフラッシュを使用しなければ撮影可能です。四万十市立図書館 美術館・博物館
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幸徳秋水(1871-1911)は本名を伝次郎と云い、かつての豪商俵屋で出生します。1歳で父を亡くし家系は苦しくも、神童と呼ばれ8歳で木戸明に師事します。
10歳で中村中学に入学し、飛び級で同輩を追い越します。 -
民権少年
県下で自由民権運動(自由党)が盛んな中、中村は帝政派(政府寄り)が優勢で伝次郎の親戚も例外ではありませんでした。
10歳の伝次郎は自由民権運動に傾倒し、「絵入自由新聞」の愛読者となります。教育の限られた読者層のために仮名が振られ、絵入でした。14歳の時に中村を訪れた林有造(宿毛編参照)の演説を聞き、15歳の時は党首板垣退助の前で祝辞を読んでいます。 -
遊学と挫折
中村中学は高中学へ統合されますが、経済事情で引っ越せず同輩に追い越されます。15歳で高知中学へ転校するために、同校で教員をしていた木戸明宅へ住み込みますが、病気で半年休学した末に落第も経験します。
写真は中村中の卒業証書。第2学年後期修了時に閉校になったために不完全な内容になっています。
実家の蔵書を売った資金で16歳で上京、林有造の書生をしながら英語を学びますが、伊藤博文が保安条例を発令し、自由民権活動家の伝次郎は東京を追放されます。僅か4カ月の滞在でした。 -
中江兆民
17歳で再び東京を目指しますが、途中の大阪で出会った中江兆民の書生となります。兆民は土佐藩士の出で、東洋のルソーと呼ばれる人物です。18歳で兆民に従って上京を果たし、英語を学びます。
22歳の時に、生涯の師である兆民から秋水の雅号を拝します。
兆民は、伝次郎が物事の筋道を割り切り過ぎることを諫め、世の中(人付き合い)を渡る一番の方法は朦朧(ぼんやり)とすることだと説き「春靄」と号することを薦めますが、伝次郎が断ったために正反対の意味の「秋水」を贈ります。 -
ジャーナリスト/社会主義者
秋水は新聞社に就職し、論説と翻訳を担当します。日本は日清戦争後に産業革命と資本主義が進行し、労働問題/社会問題が顕在化します。
自由民権運動を主導した自由党の潮流は軟化し、1900年に(系譜を引く憲政党が)伊藤博文らの立憲政友会と合流すると心は完全に離れ「自由党を祭る文」(弔辞)を寄稿します。
翻訳を通して海外の文献に触れた秋水は社会主義へ傾倒し、翌年30歳にして社会民主党を結成しますが、政府に解散させられます。 -
反戦と平民社創設
三国干渉以降、政府/世論は打倒ロシアへ傾きます。秋水や内村鑑三の所属した「萬朝報」は数少ない反戦論でしたが、経営上開戦支持へ回ります。退社した秋水は平民社を創設し、1903年に「平民新聞」を創刊し反戦を主張します。 -
平民社解散(1905)
開戦後、新聞条例違反で2カ月の禁固と発行禁止処分を受けます。資金難に陥り、1905年1月に平民新聞は廃刊、翌2月には5か月の禁固刑を受け、出獄後の10月に平民社は解散します。写真は出獄直後の7/28に撮影されたもの。獄中で無政府主義者の著作に触れて、傾倒していきます。 -
無政府主義と直接行動論
11月に渡米し、サンフランシスコに半年間滞在します。無政府主義者のコミュニティと交わり、アルバート・ジョンソンらと親交を深めます。サンフランシスコ大地震にも遭遇し、無政府状態で市民の自助で復興していく様子を目にします。
1906年に帰国すると、平民社/平民新聞を再興し、無政府主義と直接行動論を主張します。普通選挙を目指す議会政策論者と対立し、分裂が発生します。 -
帰郷
1907年に帰郷し、無政府主義者クロポトキン著作の翻訳等に励みますが、赤旗事件で同志が大勢逮捕されると、運動再建のために帰京します。帰郷は9か月間で終わりを告げます。政府は「過激思想」の持ち主を警戒し、常時監視を受けます。合法的活動ができなくなると郊外の湯河原へ拠点を移し、療養と執筆に励みます。 -
大逆事件
政府は、社会主義者/無政府主義者を一斉検挙します。1910年5月に発覚した明科事件(社会主義者が天皇暗殺用に爆弾を製造)をダシに、関係者/首謀者という容疑をでっち上げます。秋水も6月に湯河原で拘束され、証拠不十分のまま翌1911年1月28日に処刑(秋水と他10名)されました。先述の幸徳秋水の墓は、戦前は鉄格子が填められていました。 -
私生活
25歳で結婚するも即離婚、28歳に糟糠の妻となる千代子と結婚します。浪費癖が強く、千代子は家計のやりくりに苦労します。アナーキストの菅野スガとW不倫の末、千代子と離婚します。湯河原ではスガと共に拘束され、スガは1/29に処刑されます。スガは夫の荒畑寒村が赤旗事件で服役中に秋水と不倫し、一方的に離縁状を送り付けたこともあり、社内や運動家内で不協和音が生じました。これも真実です。 -
大逆事件の生き証人
坂本清馬(1885-1975)は、1907年に幸徳秋水の書生となり、1909年には秋水著作の発行名義人となって秘密出版に尽力します。秋水に菅野スガとの関係を疑われて仲たがいするも、7/28に逮捕され大逆事件で死刑宣告/転じて無期懲役になります。1934年に仮釈放、1947年に復権し中村町会議員も務めます。大逆事件の再審請求/特別上告するも棄却されます。一連の出来事がメディアで取り上げられ、秋水を含む大逆事件関係者の冤罪の可能性が社会に広く認知されます。 -
清馬は、正福寺墓地に眠っています。
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天神橋商店街へ戻って東口を出ると、
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こんな感じで一条神社の唯一の入口となっています。
一條神社 寺・神社・教会
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中村御所跡
実は、一条教房が下向した際に居館とした場所でした。参道を挟んで左側が御殿、右側が政所でした。 -
藤遊亭跡
参道左の藤棚は、藤見の館「藤遊亭」の跡です。藤は、土佐一条家の家紋にも描かれており、当主がこよなく愛した花でもあります。一条兼定が舅の大友宗麟のいる日向へ亡命する際に、
据え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな
と歌って離れたといいます。心が通じたのか300年ほど花を咲かせず「咲かずの藤」と呼ばれましたが、1861年に再び咲き始め一条神社建立の契機となりました。 -
御化粧の井戸
階段の踊り場を左に行くとあります。御所には7つの井戸がありましたが、こちらは女官や侍女たちが化粧するために鏡の代わりに使用したことに因みます。井戸枠は一枚岩をくり抜いたもので、一条家の権勢を伝えます。水深は5mで、現在も使用しています。 -
階段の上は森山もしくは愛宕山で、一条神社の社殿が建ちます。幕末の1862年に再建されました。1480年に一条教房の廟所として始まり、教房の父兼良以降代々の当主を祀る祠でした。
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森山から西を眺めると、中村城天守が小さく見えます。麓は御殿でした。
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土佐一条家土居跡
上の写真の右下に写るアパートには、こんな石碑が立っています。北御殿と呼ばれる居館の一部です。江戸時代には、上級家臣の屋敷に代わっています。 -
市街の真ん中を占める京町へ移動します。
町屋が並ぶ商人町でした。 -
幸徳秋水生家跡
実家は、薬種/酒造業を営む俵屋でした。4人兄弟の末っ子として生まれ、少年時代は自由民権運動に、その後は社会主義、晩年は無政府主義者となります。 -
中村小学校の向かい、教会の隣には玉姫の墓があります。
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玉姫
一条房冬に嫁ぐために、1521年に中村へ下向。伏見宮邦高親王王女で、平たく言えば天皇の孫という家柄。一条房冬が中央政界と密な関係を保っていた証左。現地は、玉姫が夫の死後出家して入った真蔵院跡。
市街南の市役所まで戻ります。玉姫の墓 名所・史跡
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市役所の向かいには丘が遺ります。天神山は交通の障害になるので切り崩され、県道346号線が開通します。西側(写真手前枠外)には城下町への西入口がありました。
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かつての西入口には、四万十川に赤鉄橋が架かります。1926年に開通し、幡多地区では、当時としては格別のインフラです。
当時、橋の両側を挟んで、長宗我部7000/一条氏3500の決戦が行われました。赤鉄橋 (四万十川橋) 名所・史跡
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渡川の戦い(1575)
西詰、渡川古戦場の石碑があります。
渡川は四万十川のことで、長曾我部元親は弟が守る中村城を拠点にして、四万十川を横断します。
※1994年まで、正式名称は渡川でした。 -
西側の栗山城を拠点に、大友宗麟の支援を受けた一条兼定が陣を敷き、川を渡った長宗我部勢を攻撃します。長宗我部騎馬隊は上流で川を渡って一条勢を攻めると功を奏し、敢無く敗北。土佐は長曾我部元親に統一されます。
※栗山城麓の具同地区は遺跡の宝庫で、当初平田だった波多国庁が移転してきました。 -
橋を渡って市街のある東岸へ戻り、下流へ移動します。写真の正面の山(城山)の背後に、中村市街があります。
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宿泊先で借りた自転車で移動しています。
市内のレンタサイクルは結構高いですが、ビジネスホテル一條は宿泊費も安く、自転車も無料です。 -
不破八幡宮
一條教房が石清水八幡宮から勧請した神社。八幡宮は戦勝と結び付けられ、武家の信仰が篤い神社です。不破八幡宮大祭 祭り・イベント
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拝殿の上には、山内家の家紋(丸に土佐粕。三菱みたいな紋)が。土佐藩/中村支藩の信仰も篤かったようです。
※三菱は山内家をモデルに作成され、こちらが本家です。 -
拝殿奥の正殿は1559年に再建されたもので、京都から宮大工を呼び寄せて製作。土佐一条氏の雅な文化を感じます。国の重文指定。
大文字の送り火 祭り・イベント
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不破八幡宮の対岸、栗山城のある具同地区には、一条教房の庇護で栄えた香山廃寺(写真左の山)があります。現在は公園として整備されます。
香山寺市民の森 公園・植物園
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太平寺
中村駅の近くにあります。壁には、山内氏が築いた銃口(▲)が開いています。
有事の軍事拠点としても機能しました。 -
山門の階段は、結構きついです。高台にあることが分かるかと思います。
次は、後川を遡上して江戸初期の土木遺産を見学します。 -
中村市街の対岸には、安並水車の里があります。
さらに国道439号線を2.5km遡上すると、麻生堰があります。 -
麻生堰
野中兼山(1615-63)によってつくられた全長160m幅11mの曲線斜め堰です。
川の両岸から糸を張って水に流した際にできる曲線に沿って造られました(糸流し工法)。
建設当時の姿のまま現役で活用されている、同時代のものとしては唯一の土木遺産です。 -
灌漑用の水路の取水口の水位を上げるために、後川を堰き止めました。
前日に降雨があったので構造物が水に隠れていますが、普段は堰の全容が見えます。 -
川まで降りられます。
こうしてみると、幅11mも納得です。船や魚が行き来する船越が見えます。 -
こちらが取水口。左岸にあります。
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灌漑目的で麻生堰から取水した水路は、秋田/安並/佐岡/古津賀の4か村の田畑を潤したので、四ヶ村溝と呼ばれます。
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国道から分岐する旧道は集落を結び、旧道に沿って四ヶ村が流れます。写真は旧秋田(あいた)村の光景
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護岸されていない昔ながらの姿が残るエリアに、(観光目的でない)唯一の水車が遺っていました。
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水車は、水路より高い所に位置する田畑へ給水する構築物です。
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安並水車の里を目指します。右が藩政時代の四か村溝、左が現代の用水路。現在は、電動ポンプが水車の役目を担っており、水位は田圃よりも数メートル下です。
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山羊が放し飼いされていました。
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水車の羽に沿って設置された樋筒は底面で水を汲み、頂上では中央の水槽に汲み出す構造です。
安並水車の里 名所・史跡
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水槽から延びた樋を通して水田に水を流します。こちらは役目を終えて観光用になっているので、道路わきの水路に流しています。
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こちらは、よりシンプルな竹筒で樋を製作したもの。
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アジサイは早すぎました。昨日から地域では田植えラッシュです。
麻生堰及び四ヶ村溝 名所・史跡
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旧佐岡村の光景
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旧古津賀村
この先は岩盤が堅く、ここで水路は終わります。
古津賀古墳など、中村周辺では一番歴史のある地域です。
土佐国誕生前の波多国庁は、平田/具同/古津賀/大方(入野駅周辺)の順に東遷しました。古津賀古墳 名所・史跡
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中村駅に隣接する駅が、国鉄時代に開業しました。
このまま窪川/須崎と高知方面へ戻ります↓
https://4travel.jp/travelogue/11914374古津賀駅 駅
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