2024/02/28 - 2024/02/28
241位(同エリア626件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1779冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,477,492アクセス
- フォロワー169人
2日目の朝も温泉からスタートします。朝食のメニューは普通でしたが、へしこ茶漬けは絶品で、友人にもお土産に買い求めるほどでした。この東尋坊温泉の「三国オーシャンリゾート&ホテル」からは「東尋坊」までは近く、すぐに「東尋坊タワー」が見えてきます。ここへ来るのは4回目ですが、3回目は妻と弟と3人で来た覚えがあります。北海道から小学生の姪と甥が遊びに来るので富士サファリパークへ行くツアーを探していて、見つけた1万円のツアーが面白そうだったので参加しました。都庁からバスで飛騨高山経由で郡上八幡の郡上おどりを見てから福井に宿泊し、翌日は東尋坊と白川郷に寄って東京へ戻るというものでした。それ以来14年振りの訪問でしたが、その後各地で柱状節理も見ているので懐かしさだけが感じられます。以前であれば越前ガニでもお土産にするところですが、両親も亡くなった現在では送り先もありません。次に立ち寄ったのは「九谷萬月」という九谷焼の店ですが、徳田八十吉代々の作品など良いものをいろいろ見せていただきました。ただ販売している値段は非常に高いので手が出ません。ヤフオクがポピュラーになった現在では骨董店で正規の値段で買い求めるのは難しいです。バスは金沢に入り、近江町市場の近くの駐車場に停車します。ここで自由昼食になりますが、駐車場のある十軒町の「旅館すみよし」の隣の骨董店に向かいます。以前ここで加賀人形と伊万里の手塩皿を5枚買ったことがありました。店に入ると初代徳田八十吉の杯がお手頃だったので現代の作家の白磁の片口と共に買い求めました。市場は水曜日ということもあり、店の多くが閉まっていましたが、目的の「あまつぼ」は開いていたのでここで金沢の美味しいものをいただきます。再集合の後はバスで「兼六園」に向かい、入場したところでフリータイムになります。以前行けなかった「成巽閣」に行きたかったのですが、ここも水曜日で休みでした。梅がちょうど見頃だったので良しとします。金沢の観光は「ひがし茶屋街」でのフリータイムで終わり、バスで富山を目指します。途中「海老源 海遊亭」で寒ブリ尽くしのフルコースをいただきます。元々ぶりはあまり好きな魚ではなかったのですが、歳のせいなのかここ数年前からおいしく感じられるようになりました。お腹もいっぱいになったところでこの日の宿の富山駅前の「アパホテル」に到着です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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夜中に目が覚めて表を見るときれいな月が見えました。
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さすがに冬の日本海側は空気がきれいなのだと感じます。
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三国防波堤灯台が白く浮かび上がっています。この防波堤の根本には重要文化財になっている「三国港(旧阪井港)突堤」、日本初の西洋式防波堤でもある通称「エッセル堤」があります。
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オランダ人土木技師のG・A・エッセルが設計したと伝えられていた龍翔小学校を模した「坂井市龍翔博物館」の建物も朝日に浮かんできました。
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G・A・エッセルはだまし絵版画家であるマウリッツ・エッシャー の父です。そんなことを考えていると三国の海が遠くオランダのデン・ハーグの北海に見えてきます。妻と旅したベルギーとオランダの美術館巡りの旅で行ったハーグのライヘ・フォールハウト宮殿の中に「エッシャー美術館」が素晴らしかったことを思い出します。
エッシャー美術館:https://4travel.jp/travelogue/11025521 -
平泉寺(へいせんじ)の白山権現が衆徒の前に示現され、その尊像を川に浮かばせたところ一身九頭の竜が現れ、尊像を頂くように流れに下って黒龍大明神の対岸に着いたことから古名は「黒龍川」(くつれうかわ)と呼ばれ、転じて九頭竜川になったと言われます。永平寺町を流れていた小さな流れは大河となっています。
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九頭竜川の河口の三国港から白い漁船が1艘沖に向かっていきました。この日は穏やかな日本海です。
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永平寺の方角から朝日が昇ってきます。この日も天気は良さそうです。
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周囲が明るくなるとホテルに隣接している「成田山福井別院」の建物が見えました。ちょうど1年前からリスタートした海外旅行の1回目は台湾の旅でしたが、全国旅行支援もあったので、成田で前泊して美味しいうなぎを食べました。コロナ禍も数年経つと何もなかったような気になってしまうのが恐ろしいです。
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早朝の一番風呂は他にお客さんも無く、朝日が当たってとても気持ち良かったです。
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畳が敷いてあるから胴という訳ではないのですが、面白いアイディアだと思います。
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ゆっくり温泉で温まってツアー2日目に備えます。
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朝食は特に特徴も無いビュッフェの料理でした。それでも泊まるホテルによって違いがあるようで、ベーコンや鮭は少し良い材料を使っているようです。
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昔は朝ご飯を食べない方が体の調子が良かったのですが、歳を重ねたせいか旅先ではしっかり朝食を摂らないとお昼前には動けなくなってしまいます。
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一通り食べた後にへしこ茶漬けをいただきます。本当はこういった料理を朝ごはんに食べたいのですが。10日前に行った横手のホテルの食事が良かったのでついつい比較してしまいます。この出汁茶漬けはとても美味しく、ホテルの売店で友人のためにへしこのフレークをお土産に買い求めました。
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午前9時に「三国オーシャンリゾート&ホテル」を出発して、目的の「東尋坊」までは10分ほどの移動です。
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松林の先に波ひとつない日本海が広がっています。
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バスは「東尋坊タワー」の駐車場に停車します。ここで1時間ほどのフリータイムになります。ここへ来るのは4回目ですが、3回目は妻と弟と3人で来た覚えがあります。北海道から小学生の姪と甥が遊びに来るので富士サファリパークへ行くツアーを探していて、見つけた1万円のツアーが面白そうだったので参加しました。ここへ来るのは4枚目ですが、3回目は妻と弟と3人で来た覚えがあります。北海道から小学生の姪と甥が遊びに来るので富士サファリパークへ行くツアーを探していて、見つけた1万円のツアーが面白そうだったので参加しました。
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都庁からバスで「飛騨高山」経由で「郡上八幡」の郡上おどりを見て、福井に宿泊した翌日は「東尋坊」と「白川郷」に寄って東京へ戻るというものでした。それ以来14年振りです。
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「東尋坊」を構成する岩は輝石安山岩の柱状節理で、これほどの規模を持つものは世界に3ヶ所だけしかないそうです。残り2つは朝鮮半島の金剛山とスカンジナビア半島の西海岸だそうです。5月にはノルウェーのフィヨルドクルーズがあるので見られるかもしれません。
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「東尋坊」という地名は永平寺の奥の勝山市にある平泉寺(へいせんじ)の僧侶の名前に由来するといわれています。数千人僧侶の中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに民に対して悪事の限りをつくし、暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかったそうです。
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好き勝手に悪行を重ねていたので当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていました。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合いました。
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寿永元年の1182年4月5日、平泉寺の僧たちは皆で相談し東尋坊を海辺見物に誘い出します。一行が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まります。その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝って、次第に酒がすすみ、その内に東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めました。
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東尋坊のその様子をうかがうと一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送ります。真柄覚念はここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落としました。それから49日の間海は大荒れとなったといいます。
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4月5日は妻の誕生日でもありますが、結婚して以来一緒に旅行をして雨が降ったことがほとんどありません。逆に我が家が旅行に出かけると東京が荒天になると友人たちからは言われています。
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状節理(ちゅうじょうせつり)は節理と呼ばれる両側にずれの見られない規則性のある割れ目を持つ地質構造で、割れ目によって多角柱の規則的配列構造が形成されます。柱状節理は多くの種類の火成岩で起こり、岩が冷えて収縮することにより形成されます。
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初めてこの柱状節理を見たときはその不思議さに魅了されましたが、その後に旅した北海道の層雲峡や知床半島の花咲の海岸など数多く見てきました。ここ数年はコロナ禍のために日本国内を巡りましたが、青森の五能線の沿線や紀伊半島でも見ることが出来ました。そうするとあまり珍しくも無いのだということも分かってきます。
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北アイルランドの北アントリム海岸にある「ジャイアンツ・コーズウェー」の柱状節理はいつか見てみたいと思います。
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「東尋坊」の沖合いに浮かんでいるのが1300万年前の溶岩でできた周囲約2キロの「雄島」です。「雄島」へ渡る真っ赤な「雄島橋」の先には鳥居が見えます。急な石段の先に「大湊神社」があるのですが、ここからでは確認できません。
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次に来る機会があったら「雄島」を周遊するのと遊覧船に乗ってみたいと思います。
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14年前に来たときは同じバスツアーの人と集合写真をここで撮りました。写真を見てみたら同じクラブツーリズムでした。現在は個人情報とかが厳しくなって記念の集合写真など撮ることは無くなりましたね。時代の流れを感じます。
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何も変わらないのは巨大な岩に彫られた「名勝 東尋坊」くらいでしょうか。
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両親が健在だったら越前ガニでも買って送るのですが、昨日食べたばかりなのであまり興味も湧きません。
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バスの駐車場の脇でおばあさんが店開きしていたので見てみることにします。すると届いたばかりの「ほたるいか素干」がありました。
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1パック500円でしたが、2パック買ったらパック一杯におまけしてくれました。これは翌日の帰りがけに友人へのお土産にしましたが、焙って食べたら最高に美味しかったです。
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「東尋坊」を出たバスは金沢へと向かいます。芦原温泉を抜けた途中に見掛けたのは「ファーマーズ・マーケットきららの丘」。真っ赤な屋根はスイカのデザインです。
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北潟湖の畔に建つ「eXcafe吉崎鳳凰閣」です。京都の嵐山に本店があるカフェがここにもありました。この後「九谷萬月」という施設に立ち寄り、九谷焼の見学がありました。見学といってもセールスなのですが。徳田八十吉の代々の作品が並んでいましたが、やはり初代や2代の伝統的な作品に惹かれます。
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IRいしかわ鉄道線の上を通過します。加賀市熊坂町の大聖寺駅から石川県河北郡津幡町の倶利伽羅駅までを結ぶ元々は北陸本線の一部です。
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「大観音加賀寺」の菩薩像が見えてきました。高さ73メートルの大観音像はかつて巨大レジャー施設「ユートピア加賀の郷」としてオープンしていたそうです。
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北陸新幹線を見守るような姿が遠くなった昭和の時代を思い出させます。淡路島にあった平和観音寺の高さ80メートルの観音像も廃墟になって国家管理となった後に撤去されました。
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片山津ICから北陸自動車道に乗って金沢を目指します。
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左手には穏やかな日本海が眺められます。
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右手の車窓には白山の山並みが見えます。今回のツアーで一番楽しみにしているのが「雨晴海岸」から富山湾越しの立山連峰を見ることでもあります。
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波打ち際以外ほとんど波も無い日本海を北上していきます。
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昨年の夏はダイヤモンド・プリンセスで横浜から反時計回りに秋田、青森に戻ってから釜山へのルートでしたが、朝鮮半島に台風が向かい釜山港が閉鎖になったために太平洋を高知に向かいました。今年こそは日本海側のルートを通って釜山に入りたいものです。
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この一番美しく見えたのが白山でしょうか。白山は富士山と立山と並び、日本三名山および日本三霊山に数えられています。白山連峰の最高峰は2702メートルの御前峰で、そこに並ぶ剣ケ峰と大汝峰の3峰をはじめ、四塚山や別山などの峰々で構成されています。
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北陸自動車道を降りて金沢市内には午後0時30分に到着しました。この後は「近江町市場」で自由昼食になります。駐車場でフェイドアウトして先に立ち寄りたい店に向かいます。
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十軒町のこの辺り数軒は同じ時期に建てられた建物で、屋根の上に明り取りの櫓があるのが特徴だそうです。弁柄格子に暖簾が掛かった店が「石黒商店」という骨董店です。
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ここへは2年前の能登半島の旅でも来たことがあり、その時は加賀人形と伊万里の兜皿を5枚買い求めました。普段はヤフオクで買うことが多いですが、旅の思い出も必要です。早朝に能登の朝市に立ち寄り、空港から東京へ戻るだけの日程でしたが、悪天候で東京からの便が欠航になり、迷走したツアーは金沢に立ち寄り、結果的には小松空港から東京に戻ることになりました。
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今回は「九谷萬月」でも見せてもらった徳田八十吉初代の寿郎人の杯を購入しました。それと合わせて水野克俊という作家の帯しのぎの片口です。九谷青窯を独立して以来、白磁一筋に造られている作家のようです。
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2年前は白い乗れんでしたが、今回は黄色に変わっていました。お手頃な値段で良い作品が買えたのでお土産が出来ました。
迷走する能登の旅:https://4travel.jp/travelogue/11745546 -
金沢にも1週間ほどの日程で妻と2人旅したいと考えていて、この「浅田屋旅館」にも来たいと思っていますが、店の前を通過するだけで一向に計画は実現しません。
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コロナ禍での救済措置で溜まりに溜まったマイルに期限がこの3月から毎月のようにやってきます。前の秋田の旅で飛行機を使ったのもそのためですが、国内線では埒があきません。金沢にも小松空港を使うと妻に行ったら絶対に新幹線と言われてます。
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買い物も済んだので近江町市場でお昼をいただくことにします。この日は水曜日だったために店の多くは休みでした。
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目的はこの「あまつぼ」という居酒屋だったので問題も無く、店も空いていたのですぐに座ることが出来ました。
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まずは冷たいビールで乾杯です。切子のグラスが何となく嬉しいです。
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前回は食べなかった金沢おでんもいただいてみます。車麩や梅貝、ふかし、源助大根などの加賀野菜といった金沢にゆかりのある具を使用したものが金沢おでんであると定義されているそうです。ここには梅貝は入っていませんでした。
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カニ味噌甲羅焼きは卓上コンいただきます。ロで火加減を見ながらいただきます。
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ガスエビの唐揚げと白魚の唐揚げはビールによく合います。あまりお腹が空いていなかったので、酒のつまみのような料理ばかりでした。
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食事の後はまだ時間があるので市場の中を歩いてみますが、休みの店も多くてあまり活気はありませんでした。
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前回は箱入りの原木椎茸を買って友人たちと分けましたが、今回はあまり購買意欲が湧いてきません。椎茸は網焼きにしたらフワフワで美味しかったし、蓮根もすりおろして粉とキャベツとひき肉を炒めたものを入れて、ホットプレートでお好み焼きのように焼いたら美味しかったです。
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近くに「森八」もあったので立ち寄ってみます。ウインドウには工芸菓子が展示されていました。日本の鑑賞用菓子の歴史は江戸時代の元禄-享保のころに大奥で鑑賞された「献上菓子」にはじまります。明治時代には白砂糖が輸入されるようになって、白砂糖にヤマノイモなどをまぜて練った「雲平」が作られるようになり発達していきます。
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再集合した後はバスに乗って「兼六園」の桂坂口に移動します。妻と「兼六園」を散策するのは初めてのことです。添乗員さんがチケットを買い求め、パンフレットが配られた後は1時間ほどのフリータイムになります。
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桂坂口からエッチら坂道を登って「霞ヶ池」に着きました。雪の兼六園は今回もお預けになりました。遠くに「内橋亭」の建物が見えます。
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「徽軫灯籠(ことじとうろう)」も能登地震で倒れたり影響があったのではないかと心配していましたが無事のようです。水面を照らすための雪見灯籠が変化したもので、形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたと言われています。二股の脚は元々同じ長さでしたが、何かの原因で折れてしまい、石の上に片脚を乗せてバランスを保っています。
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「霞ヶ池」は園のほぼ中心部に位置する最も大きな池です。周辺には「徽軫灯籠」「虹橋」「唐崎松」「蓬莱島」「栄螺山」「内橋亭」などの名勝や銘石や植木が配され、廻遊しながら四季折々の庭景を楽しめるよう配慮されています。池の中程に浮かぶ「蓬莱島」は不老長寿を表しており、形が亀に似ていることから「亀甲島」とも呼ばれています。
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「唐崎松」の前で添乗員さんにシャッターを押してもらいます。13代藩主の前田斉泰(なりやす)が近江八景の1つである琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松です。今回の旅を終えると日本国内で旅行記をアップしていないのが滋賀県だけになります。近いうちに訪れないとなりません。
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雪の重みによる枝折れを防ぐために施される雪吊りは冬の訪れを告げる風物詩としても有名で、円錐型のシルエットが美しいです。横手でもそうでしたが、今年は雪が少なくて少々残念な風景です。
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「内橋亭」は池の上に立つ水亭と手前の部屋の間に橋が掛かっていることから呼ばれました。もとは兼六園の始まりとなった蓮池庭内にあった四亭の中の1つで、「鯰之亭(なまずのてい)」とも呼ばれた歴史のある建物です。
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「月見灯籠」は曲水が霞ヶ池に流れ落ちる少し手前にかかる「月見橋」のたもと
にある、園内唯一の「月見灯籠」です。高さは210センチで石材は御影石です。満月をイメージしているのか笠や中台、火口も円形となっています。 -
「兼六園」は5代目藩主の前田綱紀が別荘を建てその周辺を庭園としたのが始まりと言われています。その後の加賀藩前田家の歴代藩主により長い歳月をかけて形作られ、現在のような一大庭園となったのは嘉永4年の1851年、幕末のことでした。明治7年の1874年より「兼六園」は金沢市民に開放されています。
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「兼六園」は水戸の「偕楽園」と岡山の「後楽園」と並ぶ日本三名園の1つであり、日本を代表する大名庭園でもあります。中国の宋の時代の書物「洛陽名園記」に記載のある「 宏大(こうだい)」「幽邃(ゆうすい)」「人力(じんりょく)」「蒼古(そうこ)」「水泉(すいせん)」「眺望(ちょうぼう)」 という相反するすぐれた景観の六勝を兼ね備えていることから1822年に「兼六園と名付けられました。」
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「七福神山」は12代藩主の前田斉広(なりなが)が造営した「竹沢御殿」に附帯していた庭園の一部で、「福寿山」とも呼ばれるこの山は、曲水、築山、雪見灯籠など当時の雰囲気をそのままに伝えています。また七福神になぞらえた7つの自然石を配置しているのも大きな特徴です。
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「雪見橋」は文政5年の1822年に完成した竹沢御殿の御居間の庭先から「七福神山」ヘ架けられた橋で、卯辰山の峰々の遠景は七福神山の借景になっています。特に橋を介して眺める卯辰山の雪景色は格別だったらしく、別名に望雪橋とか観雪橋と言われていること、橋の脇に雪見灯篭が設えてあることからも名称の由来を窺い知ることができます。
できます。 -
「曲水」には「雪見灯籠」が見えます。園内の石灯籠は全部で24基あり、そのうち雪見灯籠で最も多いそうです。曲水の宴は水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事です。そのためには水が少ないように思えました。
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「雁行橋(がんこうばし)」は並べられた11枚の石が雁(かり)の列が飛んでいく様に見えることから名付けられました。別名「かりがね橋」やその形から「亀甲橋」とも呼ばれています。昭和44年から石の保護のために通行が禁止されていますが、昔はこの橋を渡ると長生きすると言われていました。
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この石灯篭は七福神の中の毘沙門天を表し、毘沙門塔と呼ばれるそうです。
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「明治紀念之標」は「兼六園」を見下ろすようにそびえ立つ日本武尊(やまとたけるのみこと)の像で、富山県高岡で造られた日本最古の銅像で、身長は5.5メートルあります。西南戦争で戦死した郷土軍人を祀るために、明治13年の1880年に建てられました。
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台石のうちの大きな石を「大蛇」「ナメクジ」「蝦蟇(がま)」に見立てて、それらが互いににらみ合い「三すくみ」の状態にあるので崩れないと言われています。また銅像の成分を嫌い、カラスなどがとまらないらしいとの一説もあります。
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金沢大学理学部計算科学科の廣瀬幸雄教授が「兼六園」にある日本武尊の銅像だけにはハトが寄り付かないことに気づき、そこからヒントを得てカラス除けの合金を開発し、「ハトに嫌われた銅像の化学的考察」でイグノーベル化学賞を受賞しています。
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「根上りの松」は40本以上の根が土から盛り上がったように見える松で、13代藩主斉泰が植えたと言われています。松の根は地表近くに成長するという性質を用いて、盛り土をしてその上に松を植え、 後で土を取り除いて根上にしたと言われています。約2メートルも地上部分にせり出した松の根の壮観な立ち姿が有名です。
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根上がりと聞いては手を合わせないわけにはいきません。「根上がり」は「値上がり」ですから。投資の利益だけしか収入が無いので旅行を続けるためにも神頼みでも何でもします。
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この辺りは5月になると花菖蒲などがきれいなようですが、2月末では花は期待できません。この「辰巳用水」は寛永9年の1632年に3代藩主の前田利常が「金沢城」の防火用水を確保するためなどに設置した用水で、後に「兼六園」の曲水として用いられることとなりました。用水の取り入れは金沢の南を流れる犀川の上流で、本園から約10キロ離れた上辰巳町にあります。今も昔も変わらず園内に水を運んで、渓流や滝や池泉など美しい庭景を保っています。
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前々回に仕事で金沢に来た際は仕事仲間と「兼六園」を散策しました。その時に入れなかった「成巽閣」に入れると楽しみにしていたのですが、この日は水曜日で休みでした。文久3年の1863年に加賀藩13代藩主の前田斉泰が母である真龍院の隠居所として建てた歴史的建造物で、建築当時は「巽御殿(たつみごてん)」と呼ばれましたが、後に「成巽閣」と改められました。1階は書院造で2階は数奇屋造になっており、江戸時代末期の大名屋敷の代表的建築として、国の重要文化財に指定されています。
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ここからはしばらく梅園を見ることにします。「兼六園」の梅林は昭和43年の明治百年記念事業として、北野天満宮、大宰府や湯島天神、水戸偕楽園などの協力により、全国の名梅を集めて造成されました。約20種200本の梅が植えられているそうです。
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通年は3月が見頃のようですが、今年は暖冬のせいなのか2がちゅまつでも満開の様に咲き誇っています。もっとも梅は咲く時期がまちまちなので桜のように一斉には咲きません。
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一昨年は水戸偕楽園と筑波山、昨年は成田山新勝寺とこのところ毎年梅を観に行くことが増えました。
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「舟之御亭」で少し休憩をします。新庭園のなかに明治の初め取り壊された「時雨亭」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が再現されたのは平成12年の2000年のことのようです。
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「摩耶紅」という梅は八重中輪のピンクの波打つ花弁が美しい花を咲かせ、豊臣秀吉が紅梅を愛で「摩耶紅梅」と名付けたと言われています。その名前からも釈迦の母親である摩耶夫人からとられたと分かります。
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「時雨亭」は5代藩主の前田綱紀が「兼六園」を作庭した頃からあった園内の別荘で、主に茶の湯に利用されていました。廃藩の後の明治初期に惜しくも取り壊されてしまいましたが、平成12年の2000年に新しい庭園の完成とともに復元されました。亭内は抹茶やお菓子がいただけるようでしたが、庭園側の石橋には「結界石」が置かれて入ることが出来ませんでした。ただ、最近の若い人やインバウンドの外国人はこれが立ち入り禁止の印だと分かるのだろうかと疑問を感じます。
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「瓢池」までやってきました。園内で最も古い時代に作庭されたと言われる池で、中程がくびれて瓢箪のような形をしていることからこの名前が付けられました。そのため周囲を一回りすると同じ池とは思えない表情が見られます。
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対岸には「三芳庵水亭」という明治8年創業の料理屋さんが見えます。お茶もいただけるようですが、ここも水曜日は休みでした。
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池の中には不老長寿の島である「神仙島」をかたどった大小2つの島があります。中には加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰ったと言われる「海石塔」と枝垂桜があります。ここにはたくさんのカメラマンがいたので何を撮っているのか見ているとカワセミのようでした。インドで毎日飲んでいたキングフィッシャーというビールを思い出します。
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「翠滝(みどりたき)」からは涼しげな水音が聞こえてきます。「霞ヶ池」から流れ出て「瓢池」に注ぎ込む園内最大の滝です。高さ6.6メートル、幅1.6メートルで水量も豊富で滝音も大きく、目と耳を楽しませてくれます。兼六園の中でも特に優れた庭景の1つで、別名「紅葉滝」とも呼ばれています。
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「夕顔亭」は安永3年の1774年に建てられた園内最古の建物です。瓢池周辺にあった四亭の1つで、当時のままの姿を今に伝える茶亭です。その名は茶室の次の間の壁に夕顔(瓢箪)の透彫りがあることから名付けられました。
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「竹根石手水鉢」は竹の化石のように見える手水鉢ですが、昭和27年にヤシの木の化石であることがわかりました。和名は「マエダヤシ」で、平成元年には犀川上流の約1700万年前の地層からも化石が見つかっているそうです。
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妻は一番なだらかなお堀通りに沿った足元の良い坂を登りますが、せっかくなので庭園の中の道を進むことにします。
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「栄やってきました。螺山」をまわって「内橋亭」までやってきました。池の周りに沿って歩き、再びスタート地点に戻ります。
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「唐崎松」も見納めです。
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「徽軫灯籠(ことじとうろう)」も見ておきます。そして何か1つ見落としていることに気が付きます。
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文久元年の1861年に造られた日本最古と言われる「噴水」です。藩政末期の金沢城内の二ノ丸に水を引くため試作されたものと伝えられています。噴水より高い位置にある「霞ヶ池」を水源とし、池の水面との高低差を利用した自然の水圧で吹き上がっています。水の高さは通常約3.5メートルありますが、「霞ヶ池」の水位の変化によって変わります。江戸時代の技術レベルの高さに驚かされます。
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ヨーロッパの王侯貴族の庭園には必ず噴水が設けられています。どこも高低差を利用した同じような仕組みになっています。シーズンオフでサンクトペテルブルグのペテルゴフの噴水が見られなかったのは残念です。
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集合時間にまだ間があったので「金沢城」にも入ってみます。せいぜい三の丸広場までです。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった城です。
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元々この地は加賀一向一揆の拠点で、浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう)」でした。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもありました。
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織田信長は一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置き、後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を前田利家に与えます。利家は文禄元年の1592年から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重6階の天守や櫓を建て並べます。
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明治6年の1873年に布告された廃城令によって存城処分され、陸軍省の財産となったあとは陸軍歩兵第7連隊が置かれ、明治14年の火災の後は陸軍第9師団司令部が置かれます。戦後新設された金沢大学の丸の内キャンパスとなりますが、平成8年の1996年に石川県が国から金沢城址を取得し、金沢城址公園として整備を開始します。
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「石川門」から城内へ向かいます。重要文化財に指定されている現在の「石川門」は天明8年の1788年に再建されました。金沢城の搦手(からめて)門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門です。名前の由来は石川郡の方向を向いていたことによるそうです。
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「石川門」は枡形になっていて、最初の門をくぐると四角く囲まれた空間になっています。その先に右に折れ曲がって更に門があるという囲まれた空間を設けることで、守りを厳重にしています。攻め込んだ敵はこの枡形で集中攻撃を受けることになります。
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近世城郭の石垣はだいたい次の3種類に分けられます。1つは「野面積み」という自然石に近い石を積み上げたもので、1つは「打ち込みハギ積み」という形や大きさを揃えた割り石を積み上げたもの、1つが「切り込みハギ積み」という石を削り、隙間なく積み上げたもので、「金沢城」にはこの3種類とも使われています。
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「打ち込みハギ積み」の面もよく見ると細かい細工が施されています。
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卍の印など記号がいくつも読み取れます。これは「刻印」や「刻紋」とも呼ばれるもので、大名に関わる記号および文字や奉行など作業グループ、丁場の範囲や順番を示すもの、石の寸法や個数、石材切り出しの地名を表します。
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これは大阪城を見に行ったときにも「刻印」や「刻紋」を読み解きましたし、伊豆の稲取では「畳石」と呼ばれる巨大な岩が残されていました。詳しく調べていくと面白そうですが沼にハマりそうなのでこれくらいにしておきます。
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右に折れて城内に向かいます。「兼六園」もさほど混んでいませんでしたが。「金沢城」も空いていました。やはり能登地震の影響があるように思えます。
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隙間を空けて鉄板を張ったものを「筋鉄門(すじがねもん)」と呼びます。門扉は肘壺(ひじつぼ)と呼ばれる金具を使って門に取り付けられます。肘壺は肘金(ひじがね)と壺金(つぼがね)の2つからなります。壺金は扉に、肘金は柱に付けられます。肘金の突き出た先には乳金物(ちちがねもの)というまんじゅう型の金物で隠されます。鏡柱は門の正面を長辺とする長方形をしていますが、それは肘金を通すためにそのような形になっています。壺金は扉1枚につき2か所から3カ所に取り付けられ、肘金の芯棒を壺金の穴に通して扉を吊ります。
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「三の丸広場」まで上がってきました。以前来た時よりも修復が進んでいるのでm、先へ進みたいところですが時間がありません。
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「河北門」は金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。「石川門」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火の後、安永元年の1772年に再建されました。明治15年頃に無くなった後に平成22年4月に復元されました。
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「兼六園」の桂坂口に迎えに来たバスに乗って次は「ひがし茶屋街」に向かいます。浅野川が見えてくると間もなくです。駐車場でバスを降りた後はフリータイムになります。
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ここのは以前来たことがありましたが、ものすごい観光客の数に圧倒された記憶があります。ところがこの日は思ったほどの人出ではありませんでした。
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以前もきんつばを買った「中田屋」にも立ち寄ってみます。妻はここへ来るのは初めてなので興味津々です。
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一般的に右手を挙げているものがお金招き、左手を挙げているものが人 (客) 招きとされます。その由来は定かではないですが、多くの人が利き手である右手でお金を扱うことが多いことから、右手を上げている招き猫をお金招きと呼ぶようになったともいわれています。両手を挙げるとお手上げになるということから片手なのだそうです。
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「金澤しつらえ 茶房 やなぎ庵」という店も昔は由緒あるお茶屋さんだったのだと思います。
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時代は変わってお座敷遊びをする人も少なくなったのだと思います。そういう自分ももう30年近く京都のお茶屋さんに行っていないことに気が付きます。
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昔は関西での仕事終わりには立ち寄ったりしたものですが。祖父の友人が女将さんをしていた辰巳橋のお茶屋さんもずいぶん前に甘味屋さんになっています。叔母の清元のおけいこが終わるまで待っていた座敷でパフェなど食べると悲しくなってきます。
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上七軒では夏のビアホールも楽しかったですが、水上勉のエッセーに出てくるケイコさんにはいろいろなことを教えてもらいました。祖父にもらった大樋焼きの座興盃のサイコロが無いので、金沢に来れば何とかなるかと思いながら叶えられていません。
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江戸時代に城下町近郊を流れる犀川と浅野川両界隈に多くの茶屋が立ち並び、文政3年の1820年に加賀藩の許可を得て犀川西側に「にし」の茶屋町、浅野川東側に「ひがし」の茶屋町が開かれて大いに賑わったそうです。
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良い感じの宿屋もあるようです。次に来るときはこんな旅館に泊まってみるのもいいかもしれません。横手の増田町で見たような大きな扉もカッコいいです。
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帰ったらうちのみずほさんに写真を見せてあげましょう。
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「志摩」は文政3年の1820年に建てられたお茶屋の建物で、これまで手を加えることなく、江戸時代そのままに残っており、学術的にも貴重な文化遺産となっているそうです。お茶屋は2階を客間とし、押し入れや物入れ等は作らず、あくまでも遊興を主体とした粋な造りとなっているそうです。
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アンティーク「山屋」も気になりましたが、ここでハマったら時間が無くなりそうなので諦めます。
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奇跡の1枚といっても良いと思います。このメインストリートに誰も歩いていないのです。
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現在も伝統を守ってお茶屋さんが成り立っているのだと感じられる店構えです。打ち水も終えてあるので今晩もお客さんが来るのでしょう。
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一度金沢でもお茶屋遊びしてみたくなってきました。20代の頃に叔母がきっかけで京都の北野の上七軒で遊びましたが、思ったほど高くはないので、夏冬のボーナスで遊べました。
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色づいた南天の葉と赤い実が格子戸に映えます。
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脇道に入っても観光客の姿は少なく、いくつかの店を覗きながら先へ進みます。
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「ひがし茶屋街」を歩くと軒先に乾燥したとうもろこしを吊るしているのをよく見かけます。これは門守(かどもり)と呼ばれる風習で、魔除けの効果があるものを軒先に飾って、家内安全を祈念するものです。とうもろこしは豆が多いことから「まめまめしく健康に働ける」ことや子孫繁栄のお守りとして喜ばれるほか、ふさふさとした毛は「儲け」や「厄除け」につながるともいわれています。
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「ひがし茶屋街」のとうもろこし、卯辰山のふもとの長谷山観音院で祈祷をうけたものです。これは年に一度の四万六千日(しまんろくせんにち)と呼ばれる縁日にて買うことができます。観音菩薩をご本尊とする寺では功徳日と呼ばれる日に縁日がひらかれます。中でも最大の功徳日が旧暦の7月9日の四万六千日の日です。
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子供の頃に京都の愛宕山の千日参りに行くのは毎年の夏休みの楽しみでした。7月9日と10日の浅草寺境内を彩るほおずきの屋台は、浅草の夏の風物詩です。この両日は四万六千日の縁日で、縁日にともなってほおずき市が催されます。仲良くしていただいた屋台の方々も代変わりして、もう送られてくることも無くなりました。
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再集合した後はこの日宿泊すると山へ向かいますが、その途中で晩御飯をいただきます。昨晩の越前ガニに続いてこの日は寒ブリ尽くしのメニューです。
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到着したのは「海老源 海遊亭」という店でした。ずいぶん高級そうな料理屋さんです。
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テーブルのは到着に合わせて料理が並べられています。
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ブリしゃぶ用の切り身も大きいです。以前はブリは好きではなかったのですが、天橋立の料理屋で食べたらおいしかったので、それ以来好きになりました。
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ブリのぬたは湯引きした内臓も使っているようで、コリコリして美味しいです。
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お造りはブリと車鯛とマグロと甘えびです。
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焼物はブリの西京焼きです。
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まずはビールで喉を潤して、すぐに地酒も注文します。
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「おわら娘」という玉旭酒造の大吟醸です。すっきりしていてブリ料理によく合います。
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揚げ物は白エビの天婦羅と茄子としし唐の天婦羅です。
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ブリのしゃぶしゃぶは軽く湯にくぐらす程度にしないと熱が入りすぎて美味しくありません。
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カニご飯とお吸い物と漬物でお腹いっぱいになりました。
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オレンジゼリーまでいただいて再びバスに戻ります。
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すっかり陽が落ちました。ここから富山駅前までラストスパートです。
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この日の宿泊は「アパホテル富山駅前」でした。
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アパホテルにはあまり泊まることは無いので興味がありました。そう言えばアパホテルは金沢片町が第1号でした。
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ロビーでカードキーを受け取り、翌日の出発などの確認を済ませます。
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部屋はかなり小さいツインルームです。もう寝るだけなのであまり気になりません。
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テーブルとミラーとテレビが凝縮されています。必要ない著作本などが並んでいます。
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無事に2日目が終わりました。翌日は出発が遅いのでと多摩駅周辺の鱒ずし屋巡りをしようと考えています。
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