2024/02/27 - 2024/02/27
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昨年の11月にふと考えたのが4トラベルにアップしている旅行記でまだ訪れていない県が2つありその1つが福井県でした。もちろん過去に何度も行ったことはあるのですが、旅行記や口コミにはなっていませんでした。そこでいくつかの旅行会社のツアーを比較して、越前ガニのフルコースと寒ブリを食べられるクラブツーリズムのツアーを予約しました。行ったことの無い氷見漁港と富山市内に宿泊するというのもポイントの1つでした。ところが予約を入れた後の1月1日の夜に能登半島の地震があり、ツアーもどうなるか分からない状態でした。キャンセルも考えましたが、迷惑にならない範囲であれば旅することが復興への手助けになると考えて参加することにしました。旅行会社の基準で被災地に含まれる氷見漁港が外れたのは仕方ないことでした。当日は早朝に東京駅に向かい、北陸新幹線で金沢まで向かいます。3月16日の東北新幹線延伸の2週間ほど前の旅となりました。この時終点の金沢駅で新幹線を降りて、バスで「永平寺」に向かいました。ここへ来るのは初めてのことでしたが、妻は修学旅行できたことがあるらしく2回目だということです。蕗に覆われた冬の「永平寺」を想像していたのですが、1週間前の横手の旅と同じく雪は全くありませんでした。当初はスノーブーツを考えていましたが、直前でメレルのモカシンにして良かったです。「永平寺」の参拝は自由だったこととお寺の中の写真撮影も出来たのは良かったです。また修学旅行生が1組来ているくらいで空いていたのも良かったです。「永平寺」からは「越前そばの里」に立ち寄り、夕食は越前海岸の「料理旅館平成」で越前ガニのフルコースです。以前の旅では鳥取砂丘会館でカニのフルコースを食べたことがありますが、同じタグ付きのカニでもこちらの方が美味しかったです。この日の宿泊は東尋坊温泉の「三国オーシャンリゾート&ホテル」でした。一応全室オーシャンビューというのが売りのようです。遅い時間に温泉に行くと貸し切り状態で、露天風呂や畳敷きの風呂を楽しむことが出来ました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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横手から帰ってすぐですが、延伸前の北陸新幹線に乗って金沢を目指します。今回のツアーは各社比較してクラブツーリズム社の「世界遺産五箇山と東尋坊・永平寺・金沢3日間」というもので1人69,900円でした。
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出発日は2月27日で北陸新幹線の延伸日の3月16日より前のことです。「かがやき」や「はくたか」も金沢が終点になっています。
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次に北陸新幹線に乗るときは終点が変わっているの野で案内板の写真も撮っておきます。ツアーの場合に問題なのは新幹線の座席が3人掛けと2人掛けになっているということで、JRからは人数で仕訳けられるので2人参加の多いツアーではどうしても一緒に並べないという問題が出てきます。これは運に任せるしかありません。
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金沢までは「かがやき509号」で、途中の停車駅は大宮と長野と富山だけというものでした。上野にも停車しない新幹線があるのは初めて知りました。
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お昼は新幹線の車内で摂らなければならないので駅構内の「韓美膳」の牛プルコギの彩り膳」を買っておきました。もちろん檸檬堂もロング缶を2本用意してあります。
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車窓からは赤城山がきれいに見えました。カルデラを持つ関東地方で有数の複成火山で、小学生の頃に父とスケートに行ったことがあります。立ち入り禁止の近くに足を踏み入れた瞬間に氷が割れて肩まで水に浸かりました。とっさに両手を広げたので頭まで沈むことはりませんでした。父と旅行していると何度か死を感じることがありましたが、この時もその1つの思い出です。
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右端から二つ岳、相馬山、中央の山頂が平らなのが榛名山です。榛名富士の脇にもカルデラ湖があり、ここでスケートをしたことがあります。この時は湖に落ちることはありませんでしたが、氷上でカートに乗った記憶があります。昭和30年代から40年代は東京から夜行バスも出ていましたが、現在は結氷することはあるのでしょうか。
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そして浅間山です。昭和42年の1972年に家族で山頂まで登りました。下山途中で弟が蛇を捕まえて、小諸の「懐古園」で指を咬まれ、通りがかりの方にマムシだと教わって緊急手術と入院をしました。我が家の家族旅行は今から思えば命がけだった気がします。
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トンネルを越えて長野方面に抜けると風景は一変して雪景色になりました。
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長野駅を出ると車窓からは長野電鉄沿線のリンゴ畑の風景が見えてきます。志賀高原へもスキーで何度も通いましたが、近年では2年前に湯田中温泉と小布施を旅した記憶が新しいです。
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その後は雲が低く垂れこめて山の姿も霞んでしまいました。
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そして新幹線は糸魚川を渡り、日本海の海岸線を走ります。
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久し振りに眺める日本海です。今回の旅の3日間も天気は良さそうなので最終日の富山湾越しの立山連峰の景色が楽しみです。
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金沢駅では東口に降りましたが「鼓門」が見えない場所だったのが残念です。舗無からはガラス越しにわずかに見えましたが、妻はまだ見たことがありません。
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この日のバスは30名ほどで満席ではありませんでした。初日は最前列だったので妻と一緒に座りましたが、2日目と3日目は後方の開いている席に分かれて座れました。
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この日は添乗員さんのすぐ後ろの席なので視界が開けています。金沢駅を出たバスはすぐに北陸自動車道に入り、福井方面に向かいます。
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右側の車窓からは荒々しい日本海の荒波が見えます。
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ロシアの画家イワン・アイヴァゾフスキーの「第九の怒涛」という絵を思い出します。船乗りの間では嵐のなかの九番目に来る波は最も激しく強力で、そして最も破壊的な波であると言い伝えがあると聞きました。
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バスは1時間ほど走って「永平寺」の門前の「ほっきょ荘」というお土産物屋の駐車場に停車します。ここで1時間少々の見学が始まりますが、まずは添乗員さんについて参道を歩きます。
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2月の永平寺のイメージは雪が積もった中を歩くものだとばかり思っていました。ところが事前に調べてみると全く雪が無いという情報でした。2月中旬の秋田の豪雪地帯の横手の旅でも全く雪が無い状態でした。それは北陸の福井でも同じでした。
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右の石柱には「杓底一残水」左の柱には「汲流千億人」と書かれてあります。「杓底の一残水、流れを汲む千億人」の意味は永平寺を開いた道元禅師は日頃から仏前に供える水を門前を流れる川から柄杓で水を汲み、その際に必要な分の水を使ったら残りの水を元の川に戻していたという故事によるものです。
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川には水が豊富にあり無くなる心配は無いのですが、どんなに水が豊かにあったとしても一滴の水も粗末に扱わない、その一滴を川に戻せば下流で水を使う人、またその先の子孫の為になるという教えです。
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「永平寺」は曹洞宗の仏教寺院で、「總持寺」と並んで日本における曹洞宗の中心的な寺院、大本山です。山号を吉祥山と称し、開山は道元で本尊は釈迦如来と弥勒仏、阿弥陀如来の三世仏です。横浜の「大本山總持寺」へは行ったことはありませんが、2年前の能登の旅では「總持寺祖院」を参拝しています。
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今から思えば2年前に能登半島を旅しておいて良かったと思います。最終日に行った輪島朝市はもうあの姿のままを見ることは出来ません。
輪島朝市:https://4travel.jp/travelogue/11745543 -
三世(さんぜ)とは仏教でいう過去世と現在世と未来世のことを指します。過去仏を「阿弥陀如来」現世仏を「釈迦如来」未来仏を「弥勒菩薩」とするのが代表的な習わしで、弥勒菩薩は釈迦牟尼仏の入滅後に56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされます。
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道元は出家して比叡山延暦寺に上った後に宋に渡り、寧波にある天童山景徳寺の如浄に入門し、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」の禅風を継いで帰国します。初めは京の建仁寺に住し、後には郊外の深草に興聖寺を建立して説法と著述に励観みますが、旧仏教勢力である比叡山からの激しい迫害に遭います。
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道元は信徒の1人であった鎌倉武士の波多野義重の請いにより寛元元年の1243年に興聖寺を去って、義重の領地のあるた越前国志比庄に向かいます。義重は当初道元を吉峰寺へ招きました。この寺は白山信仰に関連する天台の寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここで一冬を過ごし、翌寛元2年の1244年に吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺を建立しました。これが「永平寺」の開創であり、寛元4年の1246年に山号寺号を吉祥山永平寺と改めています。
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寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢の明帝のときの元号「永平」からであり、意味は文字通り「永久の和平」です。添乗員さんの手続きが終わり、ここから1時間のフリータイムになり、それぞれが自分のペースで参拝します。
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傘松閣(さんしょうかく)は昭和5年の1930年の二祖国師・孤雲懐奘650回忌を記念して建築されました。道元禅師と「永平寺」の名は永平寺最初の山号「傘松峰」に由来します。
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222畳敷きの大広間はすごい迫力があります。これだけの大広間には柱1本もないことに驚きます。天井は組み上げ格天井になっています。
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格天井には10列×23列の230枚の絵が組み込まれています。その1枚1枚を観ていく時間はありません。
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そのほとんどが花鳥画ですが何枚かには動物の姿も見られます。11の7は蔦谷龍岬(つたやりゅうこく)の描いた虎の絵です。画業半ばにしての早逝した大正から昭和初期を代表する大和絵風画家です。
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15の5は田村彩天(たむらさいてん)の描いた獅子です。金沢市裏安江町に生まれた画家ですが、やはり若くして45歳で亡くなっています。
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天井画は小室翠雲らの尽力により、荒木十畝、伊東深水、鴨下晁湖、川合玉堂、島田墨仙、野田九浦、益田玉城、水上泰生、山田敬中、山本昇雲など計144名の画家によって描かれています。
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その1枚1枚が誰の作品化は廊下に掲げられたこのパネルで確認することが出来ます。
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永平寺の伽藍は創建以来焼亡と再建を繰り返しているようです。一山の多数の建物を失った火災は江戸時代だけでも数度が記録されています。江戸時代後期までは大半の建物の屋根が槍皮や板、茅という植物性の材料で屋根が葺かれていたことに加え、主要な建物を結んでいた廻廊が煙突の役割をして火勢を拡大することにもなったようです。
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伽藍は吉祥山を背にした南向きの斜面に石垣を積んで階段状に平地を造成し、南北の中心軸線上に「山門」「仏殿」「大殿」が南から北に並び、「山門」の左右から「大殿」の左右に廻廊が伸びています。廻廊前半部の東西に接続して「大庫裡」と「僧堂」が対向し、山門前の伽藍外縁に「浴室」と「東司(とうす・便所)」が建っています。
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永平寺門前には本山の建築を担当する大工が集任する大工村があり、江戸時代中期には50人から7人の大工がいたことが知られているようです。彼らは「永平寺大工」「志比大工」と呼ばれ、本山の建築をはじめ、末寺や他宗派の寺などの建築にすぐれた技傾を発揮してきました。活動の地域も越前にとどまらず、越中、加賀、近江など広い範囲に及びました。
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回廊には雪除けの囲いが施されていますが、今年の雪の少なさでは無用なようです。透明ポリカーボネートの波板が使われているのは、いろいろ試した最後に一番使い勝手が良かったのではないかと感じます。
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禅宗寺院であっても塔頭を重視する傾向の強い臨済宗の寺院においては廻廊を有するものは現在見られません。対して曹洞宗の寺院では宋様式を伝承して廻廊を備えている例が多いようです。
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深雪地の「永平寺」の廻廊が半開放的な構造になっているのは廻廊の機能や構造が風雪を凌ぐことだけでなく、本来は一般人の寺内参入を制限するものだったのかもしれません。
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雪の積もった永平寺の姿は年末のNHKの「ゆく年くる年」で見る事しかありませんでしたが、今年の暖冬は本当に異常だと思います。
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承陽殿(じょうようでん)は道元禅師の御真廟で、明12年1879年5月に焼失、同14年9月に再建されたのが現在の建物でです。正面壇上奥には開山道元禅師(承陽大師)、本山第2世孤雲懐奘(懐弉)禅師の御尊像と御霊骨が安置されています。
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正面の「承陽」の額は明治天皇より道元禅師へ贈られた物です。
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軒下の細部の装飾も凝っていて永平寺大工らの力量が発揮されています。
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禅宗様建築に用いる「木鼻」の獏の彫刻が見事です。
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永平寺宮大工大久保家は大工を代々家業とし、永平寺の造営や修理を担う「志比(しい)大工」の一員だったようです。明治中期に永平寺門前から大野に移住し、大正末期まで岐阜県などの社寺の建築に当たっています。
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「法堂(はっとう)」は左右の廻廊に導かれて最高所に建っています。本来は土間式須弥壇で、中央に住職が上がって説法をする法座(須弥壇)が設けられます。「吉祥山永平寺全図」には前面に土間をもつと推測されるように描かれていますが、現在の法堂は堂内すべて畳敷きになっています。
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書院造りの意匠を基調とする一方で堂内の柱は円柱になっています。3室が前後2列に配列された建具のない開放的な6間取りの方丈形式で、四周の緑も畳敷きとして堂内に取り込み、全休で380帖を数える広さは江戸期の法堂として宗門最大を誇ります。
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三界萬霊(さんがいばんれい)と書かれた位牌が置かれてあります。仏教語で三界は欲界・色界・無色界をいい、萬霊というのは欲・色・無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界を差しています。この位牌が祀られている意味は3つの世界のすべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。
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伽藍の左手から回廊の階段を登り、「法堂(はっとう)」を参拝した後は右側から階段を降りる事にします。
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回廊から「仏殿」を俯瞰します。
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「法堂」は天保14年の1843年の再建で、住持が教えを説く所として禅宗寺院ではもっとも重要視される堂です。正面には有栖川宮幟仁親王の「法王法」の扁額が架かっています。
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「法王法」は中国の宋時代の従容録という公案集の百則あるうちの1つ「世尊一日堕座(しんざ)したもう。文殊白槌(びゃくつい)して云く、諦観法王法、法王法如是と。世尊便(すなわち)下座(あざ)したまう」からの引用です。
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釈迦がある日説法の座に上がると、文殊菩薩が槌を打って申されます。「法王の法ははっきりと確認してみると、法王の法はかくのごとし」釈迦は説法の座から下りたということです。
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「仏殿」は明治35年の1902年に道元の650回大遠忌記念で改築されたとされます。本尊の釈迦牟尼佛像を祀り、「仏殿」には3つの須弥壇が設けられており、中央須弥壇の上部には縦書きで「祈祷」と書かれた扁額を掲げています。壇上には釈迦牟尼佛像を中尊に、向かって左側には阿弥陀如来坐像を、向かって右側には弥勒菩薩坐像を安置します。左より順に過去、現在、未来の三世を現わす「三世仏」になります。
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1階には食事を作る「典座寮(てんざりょう)」と呼ばれる台所があるようです。京都の宇治の「萬福寺」にもあった「雲版(うんぱん)」がありました。鉄または青銅製の金属板で、雲の形をしていることからこの名があります。もともとは中国の官署で使用が始まり、宋の時代に現在の形が成立したとみられます。鎌倉時代に禅宗の伝来とともに日本に持ち込まれ、「庫裡」や「斎堂(食堂)」で粥座(朝食)を知らせるのに用いられるほか、座禅の合図に用いられることもあります。雲の形をしているのは火を用いる「庫裡」などにおいて鎮火の縁起担ぎのための意味もあります。
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この建物は昭和5年の1930年の再建です。台所の近くの祭壇には寺の守護神であり、四天王の1人である増長天に仕える韋駄尊天の像が安置されています。 釈迦牟尼仏の死後、火葬された遺骨の一部が鬼に盗まれたと言われ、韋駄尊天は鬼を追いかけ仏舎利を取り戻したことから韋駄尊天は護法神として優れた走者として知られています。
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「大庫院(だいくいん)」の入口付近に巨大な「すりこぎ棒」が掲げられていました。これは明治時代の寺院の建設工事中に地面を叩いて平らにするために使用された道具から彫り出されたものです。これは僧侶が修行中に困難にあっても、他の人々の役に立つよう努めることを思い出させるために保存されています。
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「中雀門」は嘉永5年の1852年の道元禅師600回遠忌に建てられました。
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「中雀門」からは「仏殿」を真正面から見上げることが出来ます。
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下を見ると「山門」が真正面に見えます。
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最後に長い階段を下ることになります。伽藍は広大ですが、高校生の修学旅行生や同じツアーの方々、他にも観光客がいましたが、ほとんど人には出会いませんでした。その分厳かな雰囲気に浸ることが出来ました。
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「松平公廟所」の葵の紋の門を入ると越前藩3代目で福井松平家の祖である松平忠昌(まつだいらただまさ)公の五輪塔があるそうです。
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「浴室」は「僧堂」「東司」とともに三黙道場の1つで、私語の禁じられた修行道場です。ここには跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)が祀られ、この菩薩に三拝し入浴する際には清規(しんぎ=生活規則)によって入浴作法が定められています。跋陀婆羅菩薩はパドラ・パーラというインドの聖人で、中国に伝わったときにこの漢字が当てられました。「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」という経の中で登場する菩薩で、16人の菩薩が信者から風呂の供養を受けて入浴していた時に跋陀婆羅菩薩を始め菩薩達が忽然として「自己と水が一如であること」を悟ったと記されてあります。
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ようやく「山門」まで下ってきました。山門は永平寺への公式の入り口であり、寺の中心である七堂伽藍の中で最も古い建物です。1749年に地元の大工たちによって伝統的な木材接合技術のみを使用して建設され、木材を固定するために釘は1本も使用されなかった。永平寺の僧侶たちは寺院に入る時と、修行が終了した時の2回だけしかこの門を通ることはありません。公開されていませんが「山門」の上層階には釈迦牟尼仏の直弟子である五百羅漢を納めた広間があるそうで、 月に2回僧侶たちは急な階段を上って広間で経を唱和します。
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「中雀門は本来の姿は1層が開放されていてとても美しい姿をしていますが、冬場は雪除けのポリカーボネートの囲いが取り付けられています。
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門の中には多聞天、増長天、持国天、広目天の四天王像が収められています。四天王は東西南北四方の守護者として知られており、仏教の宇宙観の中心に聳え立つ須弥山を取り巻く四大陸に住んでいるといわれています。
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上の写真の東方持国天と北方多聞天が山門の片側を護っています。持国天は仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則で、その姿には様々な表現がありますが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表されます。多聞天は四天王としてだけでなく、中央アジアや中国など日本以外の広い地域でも独尊として信仰の対象となっており毘沙門天とも呼ばれます。
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西方広目天は仏堂内では本尊の向かって左後方に安置するのが原則で、三昧耶形は三鈷戟や羂索ですが、平安時代の姿を模したようで、筆を持ち巻物に何かを書き留めている姿で表現されています。
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南方増長天は仏堂では本尊の向かって左手前に安置するのが原則で、持物は戟の場合が多いです。体色は赤肉色で左手で胸の前で戟を持ち、右手は拳にして右腰に置く姿で描かれています。
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ようやく参拝が終わりました。後は門前に戻ってお土産を買うことにします。
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野と自信の影響があるのか越前方面の観光客は少なかったように思います。
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バスはこのお土産物屋さんの駐車場に止めてあるので、割引券が配られていました。ここまでの道中も胡麻豆腐の店などが見えたので気になっていました。ちょっと奮発して胡麻豆腐をお土産に買い求めました。
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今回4社の北陸ツアーを比較していました。永平寺には参拝した買ったのですが、どこを選んでもここに来る運命だったのだと感じます。
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「永平寺」からは一度北陸自動車道に戻り、武生ICで一般道に降ります。
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到着したのは「越前そばの里」です。工場見学ということですが、ガラス張りの廊下を通って、掃除するところを覗いたくらいです。
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そして小さなカップに入った越前そばの試食です。これだけでは美味しいのかも分かりません。蕎麦は毎年新そば粉を取り寄せて自分でも打つので、自分で売った方が美味しいと感じます。
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ここではサバのへしこをお土産に買いました。本当は母が大好きだったものなのですが、もう食べさせることは出来ません。翌朝のホテルの朝食でへしこのほぐし身のお茶漬けを食べたらおいしかったので、ここで買っておいて良かったです。
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3週間後に開通する北陸新幹線の延伸部分に当たる「越前たけふ駅」が見えました。
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山の中の武生から若狭湾に出て、海岸線をかなり北上して「料理旅館平成」にバスが停まりました。
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今回のツアーは観光も目的でしたが、越前ガニフルコースと寒ブリ尽くしフルコースの夕食も楽しみでした。1日目の夕食は越前海岸でカニをいただきます。
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ちょうど日が落ちる少し前で、夕焼けにはなりませんでしたが新海誠の映画のワンシーンみたいな空を見ることが出来ました。
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隣は白浜(城崎)漁港で、港の灯台も見えます。他の皆さんはすぐに見せには行ってしまいましたが、この風景を見ないのはもったいないなと思います。
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入口には大きな水槽が置かれ、たくさんのカニがお客に食べられるのをじっと待っています。
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妻の口もとも気のせいか緩んでいるようです。こんなカニを目の前にしたら、思わず微笑んでしまいます。
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添乗員さんが写真を撮ってくれました。
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小さい脚が2本無いのは気になりますが、細かいことは気にしません。
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ビールで乾杯します。もちろん途中から地酒に移るつもりでいます。
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まずは焼きガニを片身いただきます。あまり焼き過ぎないように注意を払います。プリプリで美味しいです。
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刺身は足1本なのがちょっと残念です。
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すぐに「一本義 生貯蔵酒」に切り替えます。すっきりとした中辛口の酒はカニによく合います。
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カニの甲羅に入ったグラタンもコンロで温めましょう。
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甘えびの入った茶碗蒸し。
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じっくり時間をかけて1杯をむき終わりました。お店の仲居さんにきれいにむきましたねと褒められると嬉しくなります。
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カニの身の入った味噌汁もいい具合です。
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カニ汁と一緒にいただくのは。
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酢飯にカニの身の乗ったご飯です。カニの身は自分で剥いたものから少し増量しました。
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カニみそは日本酒に浸して、コンロで少し温めていただきました。カニ2杯分の食事を堪能しました。ツアーで使う店にしては美味しかったと思います。
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妻がカニと何か話しているようですが、聞こえなかったことにします。
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この日の宿泊は「三国オーシャンリゾート&ホテル」です。食事をしてから1時間ほどの移動で、午後8時を過ぎていました。隣には「成田山福井別院」もあるようです。
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反対側には「坂井市龍翔博物館」の建物も見えます。三国の自然と歴史風土や文化遺産を紹介する施設のようです。
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明治9年の1876年にオランダ人土木技師のG・A・エッセル(だまし絵版画家であるマウリッツ・エッシャー の父)が坂井港(三国港)の改修調査のためにこの地を訪れ、三国港突堤(エッセル堤)を建設しています。明治12年の1879年に木造5階建ての擬洋風建築である龍翔小学校が竣工しますが、G・A・エッセルと言われていました。この建物はその小学校の建築を模したもののようです。
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「三国オーシャンリゾート&ホテル」は全室オーシャンビューが売りになったホテルです。元々は「東尋坊温泉 三国観光ホテル」でしたが、2023年6月に名称が変更されています。
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ロビーで簡単なミーティングを行い、翌朝まで自由な時間になります。
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ロビーには三国祭りで使われた巨大な伊達政宗の像が置かれてありました。富山県高岡市の御車山祭、石川県七尾市の青柏祭(せいはくさい)と合せて北陸三大祭と呼ばれる祭りだそうです。
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町内を練り歩く山車巡行が圧巻で、町内には18基の山車があり、山番にあたった6基または7基が町内を巡行するそうです。北前船の交易などで三国湊が隆盛するとともに最盛期には山車が高さ10メートルを超えるような武者人形が出来栄えを競うようになりましたが、明治に入って電線が敷設されたために現在は5メートルに制限されているそうです。歌舞伎の鏡獅子の像もありましたが、平櫛田中の像を小学生の時に見て感動しているのでちょっと可愛らしく見えます。
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部屋は広めのツインルームでした。残念ながら外は真っ暗なので海は見えません。
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シンプルなビジネスホテルのような造りです。
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ユニットバスも部屋に組み込まれています。
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このホテルは温泉ホテルなので部屋の風呂は使いませんでした。
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部屋で檸檬堂を飲んでいると午後11時を過ぎてしまい、その時間から大浴場に行きました。袖に誰もいないので貸切風呂のような感じです。
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八角形の「龍翔の湯」の石材は福井県産の笏谷石(しゃくだにいし)を使用しているそうです。
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その奥には畳を敷いた「和畳の湯」です。ビニール製の畳表ですが、足裏の触感は畳なので不思議な感じがします。
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露天風呂の「風月の湯」でくつろいで翌朝に備えます。
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