2023/11/01 - 2023/11/02
1679位(同エリア5998件中)
魚屋No1さん
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- 旅行記68冊
- クチコミ45件
- Q&A回答216件
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- フォロワー20人
今日からは奈良の観光です。
メインは正倉院展。加えて、修復工事に入るために令和13年まで見られなくなる興福寺の五重塔。それに私の好物の東大寺法華堂(三月堂)と新薬師寺の十二神将ほかです。
○行程
1日目、10月30日(月) 京都へ 歩行:16.2km、20,102歩
・将軍塚、建仁寺、六波羅蜜寺 ・泊:アパホテル京都祇園で2泊
2日目、10月31日(火) 京都観光 歩行:16.9km、20,925歩
・桂離宮、法輪寺、渡月橋、嵐山の竹林(激混み)
3日目、11月1日(水) 奈良へ 歩行:22.4km、27,777歩
・京阪祇園四条⇒丹波橋乗換え⇒近鉄丹波橋⇒大和西大寺⇒近鉄奈良⇒
猿沢の池⇒ホテルパゴダ(荷物預)⇒元興寺⇒荒池⇒東大(転害門、正
倉院、大仏殿、ミュゼ、手向山神社、三月堂、二月堂)
・昼飯:東大寺門前夢風広場「わらべ 喜庵」で蕎麦 ・ホテルで昼寝
・正倉院展 奈良博 16時からのレイト割りで2千円⇒1500円に
・泊:HOTEL・PAGODA ツイン28㎡ 10,688円/泊
猿沢の池の直ぐ近く ・夕飯:ホテルで「たなかの柿の葉鮨+α」
4日目、11月2日(木) 奈良観光 歩行:15.7km、19,482歩
・ホテル⇒バス⇒春日大社⇒原生林の小道⇒新薬師寺(十二神将)
・バス⇒興福寺(国宝館、工事中の五重塔と金堂、北円堂の特別拝観)
・バス⇒平城宮跡⇒バス⇒近鉄奈良⇒昼食(うどん)と土産⇒近鉄京都
・京都⇒新幹線⇒自宅 夕飯:新幹線車中で「いずうの鯖寿司+α」
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 新幹線 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
近鉄奈良駅です。
今晩泊まる「HOTEL・PAGODA」は猿沢の池の少し先にあるので、東向商店街⇒三条通⇒猿沢の池の順に歩きました。 -
東向商店街のダイソーでは鹿のカチューシャを売っています。
修学旅行の中学生には大人気のようで、大勢が着けていました。 -
東向商店街の奈良漬け屋です。
ウィキペディアの奈良漬けの項では、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも「進物(たてまつりもの)加須津毛瓜(かすづけけうり)加須津韓奈須比(かすづけかんなすび)」と記された貢納品伝票がある。正倉院文書にも生姜と瓜の粕漬が記されていることなどから、起源は7世にまで遡れる。但し、奈良漬けを販売している業者はいずれも江戸時代末期から明治時代の創業等とあります。
私が土産を調達したこの店も、創業は不明ですが、会社は1952年の設立です。 -
三条通にある高速餅搗きで有名な中谷堂です。
売り物は、黄粉でまぶした草餅ですが、菓子としてはテキ屋のレベル。 -
猿沢の池です。ホテルパゴダは、この池の向い側です。
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奈良のランドマークといえる、興福寺の五重塔も見えてきました。
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私達の宿の「ホテル・パゴダ」は、猿沢の池に面した高級感漂う、左の「さるさわ池 よしだや」と、右の「ホテル大和路」の間にある路地の奥です。
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この路地には、柚子皮の甘露煮を芯にして干し柿で堅く巻き上げた『柿寿賀』というお菓子を商う、株式会社 総本店柿寿賀があります。
店の感じからすると老舗のように見えますが、設立は2008年です。 -
外観はこんな感じ。
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干し柿が好きな人には良いかも。ただ、柚子の砂糖煮が緩く感じました。素材とアイデアは良いので少し残念。
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ホテル・パゴダの玄関です。
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建物はこんな感じ。選んだ理由は、猿沢池の直ぐ近くという立地なのに10,688円/泊と安いこと、ツインで28㎡と広いこと。ただ、ドミトリーもあることで想像できるように、高級感を求める宿ではありません。
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荷物を置いたら奈良の街散歩を始めます。
最初に向ったのは、ホテルから550m南の元興寺です。 -
元興寺へ行ったのは、奈良で最古の寺院だということに興味を持ったためです。ただ、此処の宝物は、極楽堂、禅室、五重の小塔の3つの国宝と、重文の平安時代の仏様です。この時、私が興味を持っていたのは、様式が様々な奈良時代までの仏様なので、門の外から本堂を覗いただけで済ませました。
この後、東大寺の転害門へ向ったのですが、元興寺へ行ったのは失敗。南に行ってから北に戻るので、歩行距離が無駄に多くなったためです。 -
直進すれば転害門へ至る国道195号線へ出るために、奈良ホテルの駐車場を通り抜けました。
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駐車場とはいえ、立派な庭でした。
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国道195号線へ出て、北上します。
写真を撮ったのは荒池の脇。興福寺の五重塔が見えます。 -
上の写真の近傍で取った奈良ホテルです。
貧乏な旅行者は横目に見て通り過ぎるだけです。 -
早速、鹿に出会います。
奈良で鹿が大切にされている理由は、767年(天平神護3年/神護景雲元年)に春日神社を創建するに当たり、その主神として藤原氏の守護神である現茨城県の鹿島神宮の 武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請した際、武甕槌命が白鹿に乗って来たためです。 -
国宝の東大寺『転害門』です。何故か行ったことがないので、今回の東大寺で立ち寄る最右翼の場にしました。
『転害門』は天平宝字年間(757~765年)の建立で、正倉院の西にあります。転害門の名前は、東に碾磑(てんがい、石臼)があったことに因むというのですが何故かは不明。また、平城京の一条通り(佐保路)に面していたので佐保路門ともいうそうです。 -
美しい木組みです。
奈良時代は、丸太を輪切りにする鋸は存在しましたが、板状に製材する縦引きの鋸はありませんでした。そのため、これらの材は、所定の長さに切った丸太に楔を打ち込んで割った後、槍鉋で仕上げるという手間をかけて製作したものです。
なお、東大寺は、治承4年(1181年)の平重衡による南都焼討、永禄10年(1567年)の三好三人衆と松永久秀による東大寺大仏殿の戦いで、大仏殿を含む堂宇の大部分が焼けています。そのため、現存する奈良時代の建物は、この転害門と、正倉院、法華堂(三月堂)、本坊経庫(国宝、非公開)程度だといいます。 -
転害門の脇を通って一条通りを進みます。
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一条通りには、奈良市立鼓阪小学校が面しています。
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歩き疲れてきたので戒壇院はパスして、正倉院へ向います。
戒壇院には、奈良時代の塑像の最高傑作の一つという塑造四天王立像(国宝)がおられることを、帰宅後に思い出しました。失敗です。次回は必ず訪れるつもりです。 -
正倉院の見学者入り口からは、大勢の修学旅行生が出てきました。
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運良く、誰も入り込まない正倉院を撮せました。
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では、私の大好物の三月堂へ、大仏殿の裏にある「東大寺二月堂裏参道」を通って向いましょう。この道も私の好きな場所です。正面の建物は二月堂です。
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二月堂の懸崖造りは後でゆっくりと。
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今回は、先に手向山八幡宮を参拝したいので、国宝の法華堂(三月堂)は通過。
でもこの位置からは、向かって左半分(北側)が奈良時代、右半分(南側)が鎌倉時代の建築だということがよく判ります。 -
とは言うものの、朝から歩き続けてていたのでトイレへ行きたくなりました。そこで、境内の案内図場所で坂の途中にトイレがあることを確認してから坂を下ったのですが、見つかりません。
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結局、大仏殿まで行ってしまい、その脇のトイレへ入ったため、先に大仏様を参拝することにしました。
東大寺は、奈良時代(8世紀)に45代聖武天皇が国力を尽くして建立した華厳宗のお寺です。創建時は、大仏殿(金堂)に加え、高さが70m以上あったという東西2つの七重塔などを擁する大伽藍でしたが、先にも書いたように、2回の兵火で殆どの建物が失われました。 -
大仏殿(国宝)は、いつ見ても格好の良い建物です。
現在の大仏殿は、江戸時代中期の宝永6年(1709年)に再建・落慶した寄棟造り・本瓦葺きの建物です。間口57m、高さ46.8mは創建時と同じですが、奥行は約3分の2の50.5mに縮小しています。とはいえ、見れば見るほど巨大さを感じます。 -
この窓は観相窓といいます。
この窓が開いて大仏様のお顔を大仏殿の外から拝めるのは、元日の0時から翌朝8時と、お盆の8月15日の夜19時から22時の年に2回だけです。何時かは拝見したいと思っているのですが、関東人にとっては厳しいものがあります。 -
大仏殿の正面にある金堂製の八角燈籠(国宝)です。何回も修理されていますが、創建時の状態を保っているといいます。高さは464cmです。
八角形の火袋には、4枚の羽目板と、開閉用の4枚の扉が付いています。羽目板には、横笛、尺八、鈸子、笙を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)が、扉には雲中を駆ける4頭の獅子が、それぞれ格子と唐草文様の透かし時の上に浮彫で表されています。ただ、南東と北東の羽目板はレプリカ。東南面は早くに盗難にあったため(時期は不明)。東北面の羽目板は1962年(昭和37年)に盗難に遭うも直後に発見されたがオリジナルは別途保管することにしたためです。 -
大仏様(国宝)の正式な名称は『『盧舎那仏』。像高14.7m。
大仏様も2度の兵火によって、創建時の状態は、台座、袖、脚などの一部に残るだけで、体の大部分は鎌倉時代の、頭部は江戸時代の補修です。
盧舎那仏は、『華厳経』が説く「蓮華蔵世界」という世界観の中心にいる仏様です。右手は、畏れることは無いという意味の”施無畏印(せむいいん)、 左手は、人々の様々な願いを叶えて挙げることを表わす与願印(よがんいん)という印相(いんそう)を結んでいます。
なお、大仏前にある高さ207cmの銅製大華瓶には8本脚の揚羽蝶がとまっています。見逃さないように。でも由来ははっきりしません。 -
虚空蔵菩薩像(重要文化財) 高さ約7m。
大仏様の向って左側にいらっしゃる脇侍です。後で示す如意輪観音とはセットで盧舎那仏をお守りしています。
虚空とは、「広大な世界」のこと。そのため、虚空蔵菩薩は、広大な世界に例えられるほどの巨大な知恵と慈悲をもって人々の様々な願いを叶えてくれる仏様です。
なお、虚空蔵菩薩像の多くは右手に剣、左手に宝珠(知恵&慈悲)を持っていますが、東大寺では、持物は持っておらず、大仏様とは左右反対の印相を結んでいます。 -
大仏殿の左奥にいる広目天像(北西隅)
堂内の北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像が安置されています。この2躯は江戸時代の作で、寛政11年(1799年)までに完成しましたが、残りの持国天、増長天は未完成で、頭部だけが大仏殿内に置かれています。
でも何故、国の重要文化財に指定されていないのでしょうか。菩薩様と同じ時代の作なのに不思議です -
光背の厚さで、大仏様の大きさが実感できます。
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大仏殿の右奥にいらっしゃる多聞天像。穴くぐりの近くです。
それにしても、どこのお寺の四天王像も、踏んづけている邪鬼が可愛いのは何故なんでしょうか。 -
如意輪観音(重要文化財)
先に示した虚空蔵菩薩像と対になる脇侍ですが、印相は大仏様と同じ、虚空蔵菩薩像とは逆のパターンです。
如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろ、虚空蔵菩薩像は宝暦2年(1752年)に、30年近くかけて完成した江戸時代の代表的な仏様だそうです。 -
大仏殿の拝観が済んだので、法華堂へ向おうと思ったのですが、近くの東大寺ミュージアムには、2011年(平成23年)の大修理時に法華堂から移された、塑造の伝日光菩薩、伝月光菩薩(国宝)、吉祥天・弁財天(重文)の4躯と、木造で重文の地蔵菩薩坐像(鎌倉)と不動明王二童子像(南北朝)がいらっしゃいます。そのため、ミュゼに寄ってから法華堂へ向うことにしました。
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伝日光菩薩 国宝。塑造。像高207.2cm ミュゼで購入したファイルのコピー。
法華堂では、本尊の不空羂索観音立像が立つ八角仏壇上の右側に日光菩薩が、その反対側には月光菩薩が対になる形で安置されていました。
しかし、日光・月光菩薩は、薬師如来の脇侍が本来の形で、観音像の脇隊は他に類例がありません。そのため、この2躯は、薬師如来の脇隊として、どこかのお堂として安置されていた梵天・帝釈天ではないかという説が存在します。また、衣装が菩薩像とも天部像(天の名称が付く)とも異なる俗形でもあるため、正式な名前は判っていません。この2躯の仏様の名称に『伝』が付けられているのは、以上の理由によります。 -
伝月光菩薩。国宝。塑造。像高204cm ミュゼで購入したファイルのコピー。
法華堂では、伝日光菩薩の対となる形で本尊が立つ八角仏壇上の左側に立っていました。2011年(平成23年)の法華堂の修理後に戻さなかった4躯の塑像は、粘土で作った1300年前の仏様なので、倒れれば全壊することは明らかです。納得はできますが、やっぱり寂しそうに感じるのは私だけではないと思います。
木造の地蔵菩薩坐像と不動明王二童子像も戻さなかったのは、塑造と同様、地震で倒れた際の被害を減らすためだったと考えられます。実際、現在の法華堂に残っている仏様は、塑造でも流石に法華堂の外には出せない秘仏の執金剛神立像以外は全て頑丈で軽い乾漆造なので、この考えは当たらずとも遠からずと言えるでしょう。 -
では、三月堂方面に向いましょう。
坂道の途中にあるこの建物は、承元年間(1207-1211年)に再建された鐘楼(国宝)です。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の作で、高さ385cm、口径271cmは中世以前の最大の梵鐘だそうです。 -
三月堂でマッタリする前に、今回の旅行計画を作成中に気になった三月堂近くの手向山八幡宮に立ち寄りました。
この神社は、1871年(明治4年)の神仏分離の時まで東大寺の鎮守社でした。創建は、東大寺の創建とほぼ同じ天平勝宝元年(749年)で、宇佐神宮から勧請されました。祭神は、宇佐神宮と同じ八幡三神の15代応神天皇(誉田別命)、比売神、応神天皇の母である神功皇后の神功皇后に加えて、夫の14仲哀天皇と16代仁徳天皇の計五神です。社格等は旧県社。 -
手向山八幡宮では『月次祭 雅楽奉納』が行なわれていました。
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三月堂と手向山八幡宮の間にある、平安前期の校倉造りの法華堂経庫(重文)です。何が納められていたのでしょうか。出処が明らかな情報は見つかりません。
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『法華堂』、通称『三月堂』の正面です。
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堂内は撮影禁止ですが、スンバラシイ仏様ばかりなので、法華堂のパンフを借用して、一部を紹介します。
表紙は、内陣中央の須弥壇上に安置されている本尊の不空羂索観音立像(国宝)です。額に縦に第3の目があり、8本の腕を持つ三眼八臂の像で、高さは3.62mです。 -
右手前は、須弥山の四方を守る四天王のうち、東方を受け持つ持国天。
その左側の武者装束の像は、金剛力士吽形。
この両像の間の後ろに見えるのは梵天。
左奥に見える像は、本尊の不空羂索観音立像。
以上、全て国宝です。また三月堂にいらっしゃる10体の仏様は、先に記したように、秘仏の執金剛神立像は塑造ですが、他は全て乾漆像です。なお、日光・月光菩薩を移動したことで、観音様の脇隊を正規の配置の梵天と帝釈天に置き換えられたため、宗教上の整合ができたことは寺にとって好都合でだったのではないでしょうか。
でも、以前を知っている者にとっては、仏様がスカスカになってしまい、寂しくなっていることは否めません。 -
ということで、2006年のパンフレットもコピーさせてもらいました。
本尊の『不空羂索観音立像』の両脇には、伝日光・月光菩薩がいらっしゃいました。
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殆ど国宝の仏様がぎっしり並んでいるのは壮観でした。
それなのに、別途料金が必要なためか、入堂する者が著しく少なくて静寂に包まれていました。そのためもあって、衆生を漏らさず救済するという不空羂索観音と奈良時代の仏様を見ながらにマッタリしとしていると、心が1300年前へと飛んでいくようでした。そこへ時折、外にいる修学旅行生の甲高い声が耳に入ってきて現在に引き戻されます。そのため、三月堂は過去と現在を往復する感覚を得られる不思議な空間でした。今回は、常時10人ほどが入堂していて少しワサワサしていましたが、それでも以前の雰囲気は、いくらかは残っていて満足しました。 -
三月堂の仏様に満腹できたため、隣の二月堂へ移動します。
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懸崖造りの脇の階段を上ります。
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眺望は、東大寺でNo1です
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屋根付きの階段は、修二会の時に11名の練行衆が利用する登廊。
その下の建物の右半分は練行衆が宿舎にする参籠所、左半分はその食堂だそうです。とはいうものの、情報が少なすぎて詳細は判りません。大きな寺なのに東大寺のホームページは雑で困ります。 -
二月堂と同じ高さで隣接する建物には無料の茶所があります。
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茶所では無料のお茶が提供されます。トイレもありました。
寺は何にでも料金を取るのに珍しい場所です。 -
茶所の奥には、この様な立派な信者用の参籠所があります。
此処を利用できるのはどの様な方達なのでしょうかね。 -
登廊を下ります。
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二月堂は、見事な懸崖造りです。ただ、カッコの良さでは逆サイドから見た方が上です。
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東大寺の拝観完了。昼を食べるために境内の外に出ます。
途中の南大門(国宝)の金網の中には木造金剛力士立像(国宝)が安置されています。写真は、門の向かって右側なので口を閉じた吽形です。高さ8.4mの巨大なこの木像は、建仁3年(1203年)にわずか69日で造られたといいます。 -
今まで気が付きませんでしたが、金剛力士像の裏側、大仏殿に面した側には、石造獅子像(重文)があります。
ウィキペディアには、建久7年(1196年)に宋人の字六郎が作った。元は大仏殿中門に置かれていたが、室町時代に南大門に移された。日本の石材では造像が困難であったため、宋より石材を購入した。元々彩色が施されていたようで、現在でもわずかに痕跡が残っている等とあります。 -
南大門の周辺はいつも賑やかです。
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では、南大門を後にして、お昼を食べに行きましょう。
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昼飯は、東大寺の門前脇の大きな駐車場に併設された飲食店街にある『わらべ 喜庵』という蕎麦屋でとりました。連れと私がそれぞれ注文したのは、冷やおろしソバ950円、それに一口稲荷5個300円をシェアしました。普通以上に美味しかったのでお薦めです。
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正倉院展のチケットは、2千円⇒1500円になる16時からの「レイト割り」なので、それまでホテルで休憩。ツインの部屋は28㎡と広い(実感はもっと広い)のですが、寝室には窓がありません。
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風呂も異例なほど広いのですが、窓はありません。そのため、寝室に入る外光は洗面所の此処からだけです。また、床はPタイルで、ソファーの付近に小さなラグが敷いてあるだけです。
これらが、料金の安い理由だと判りました。もっとも、居心地は悪くありませんでしたよ。 -
さて、今回の旅行の目的の一つの正倉院展です。
時刻指定なので、定刻の10分ほど前に到着しましたが、入館までには20分ほどかかりました。人気なのですね。 -
75回(2023年)正倉院展の正倉院展のポスターに使われた『楓蘇芳染螺鈿槽琵琶』です。映っているのは背面の螺鈿細工の部分。なお、正倉院関係の写真と解説文は正倉院のホームページからのコピペです。
・名称:楓蘇芳染螺鈿槽琵琶 第1号
(かえですおうぞめらでんのそうのびわ)
・用途:楽器・楽具、 技法:木竹工、 倉番:南倉 101
・寸法 :全長97.0 最大幅40.5
・材質・技法 : 槽・転手・覆手は楓 蘇芳染 海老尾・絃門は黄楊木
腹板は散孔材 螺鈿 玳瑁(伏彩色) 琥珀
捍撥・落帯は革
彩絵(白下地・緑・青・橙・赤・金箔) 油塗
・解説文:
長梨形の胴と曲がった頚を持つ四絃の琵琶。螺鈿や玳瑁を用いて飾り、捍撥〈かんばち〉には白象に乗って楽器を奏でる人物を描いた革を貼る。正倉院宝物の螺鈿の中で、唯一アワビ貝が用いられており、日本製の可能性が高い。 -
プレスリリースの写真に使われたのは、この「南倉 平螺鈿背円鏡」です。ただし、宮内庁の正倉院のホームページでは、『円鏡 平螺鈿背 第2号』をキーワードにして検索しないと出てきません。博物館ともあろう者が、追いかけられない名称を使うのはいかがなものですかね。
・名称:円鏡 平螺鈿背(えんきょう へいらでんはい) 第2号
・用途 : 調度、 技法 : 金工、 倉番 : 南倉 70
・寸法 : 径39.3 縁厚0.9 重重5410
・材質・技法 : 青銅(銅72%・錫23%・鉛6%)鋳造
螺鈿 琥珀(伏彩色)トルコ石
・解説:
鏡背に螺鈿で花文をあらわした鏡。花心や花弁、葉の中心には赤い琥珀を嵌め、文様の間地は黒い樹脂様の物質に水色や白色、緑色のトルコ石の細片を散りばめる。 -
美しい工芸品は多数ありましたが、千葉県人の私達が最も反応したのは、古代税制の租庸調のうちの調として、天平勝宝2年(750年)に上総の国(現木更津近辺)から納められた、この赤い布です。
理由は、粗く織った麻布の貲〈さよみ〉布を紅花で染めたこの赤布が、天平勝宝4年(752年)の大仏開眼会に際して大仏殿の上敷として用いられたためです。つまり、奈良時代で最大のイベントに使われたレッドカーペットは、千葉県産だったということ。
・名称:紅赤布(べにあかのぬの)其1(函装 第1号)
・倉番:南倉 148
・寸法:長1255cm 幅67cm、材質・技法:麻布(苧麻) -
奈良博の仏像館では、金峯山寺の金剛力士像(重文)の特別展示が行なわれていました。こちらは、いうまでもなく阿形。
金峯山寺は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山修験本宗(修験道)の総本山で、開基は役小角と伝わっています。本尊は蔵王堂に安置される約7mもあるという秘仏の蔵王権現立像3躯です。 -
こちらは吽形。それにしても、大迫力です。
これら2躯の金剛力士像は、高さ約5m、延元4年(1339年)の作で、通常は仁王門(国宝)に安置されています。此処で公開されているのは仁王門が修理中のためで、期間は令和3年(2021年)~修理完了予定の令和10年度までの予定です。
なお、隣の青銅器館には、大量の鼎が展示されています。この時は時間がなくて流しただけですが、鼎は黄河文明の華とも言える遺物なので、次回はもっとゆっくり見ていきたいと思っています。ただ、あの程度の説明書きでは、素人の私だと大して理解できるとは思えませんがね。 -
疲れたことももあって、晩ご飯はホテル飯にしました。
メインは、東向商店街の「柿の葉すし本舗 たなか」で購入した柿の葉鮨(2268円、税込み)です。 -
近頃は、具にサケやタイを使っているものもありますが、私が好きなのは、薄くて貧乏くさい身が張り付いているサバです。
追加のおかずは、コンビニの唐揚げとサラダ+ビール・焼酎。のんびりと食べて飲んだお陰で、元気回復ができました。 -
奈良2日目 11月2日
奈良公園は、午前9時30分でもこの人出です。
本日は、春日大社⇒新薬師寺⇒興福寺⇒平城宮跡を巡ってから京都へ出て帰路につく予定です。今日も沢山歩くので、血糖値を温存するために、春日大社までは奈良公園前からバスに乗りました。 -
春日大社の参道です
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春日大社の正面に当たる本社南門です。
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釣り燈籠が下がっている有名な回廊です。
なお、一説によると、この燈籠のを下げるには、約200万円の寄進が必要だそうです。 -
夜の雰囲気を経験させてくれるスペースもあります。
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御蓋山浮雲峰遙拝所 (みかさやまうきぐものみねようはいじょ)
*春日大社の解説から
春日大社第一殿のご祭神、鹿島の武甕槌命様が白鹿の背にお乗りになり天降られた神蹟、御蓋山頂上浮雲峰の遥拝所です。この遥拝所は浮雲峰から春日大社御本殿を通り平城京大極殿まで続く尾根線上にあります。平城京の東端に位置する御蓋山より、宮廷の正殿である大極殿へと神様のお力が伝わる大変尊い場所なのです。 -
では、新薬師寺へ向いましょう。
写真の鳥居は、春日大社の二の鳥居です -
新薬師寺へ行くには、二の鳥居の直ぐ先の此処、杉の舎という茶店を左に曲がります。
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歩き始めると直ぐに、志賀直哉旧宅へと続く「下の禰宜道」(ささやきの小道)への分岐があります。
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こんな原生林の中を快適に散歩できました。
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小道の終わり近くで、近所の保育園児と行き違いました。
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小道を出ると、こんな標識がありました。
山辺の道は、天理の辺りだろうと漠然と思っていましたが、意外なので調べてみると、ウィキペディアには、日本の古道の代表的な一つ。大和の古道の一つ。古代大和の山辺に通した道である。日本史上(記録上)最古の道、日本現存最古の道として知られる。奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に走るとありました。
でも、これでは起点が具体的に何処なのか判りません。 -
上の標識の近くには、写真の山の辺の道の標識もありました。この2つは、どの様な関連があるのでしょうか。
ということで、奈良市側の起点は具体的にどこだろうかと調べましたが、歴史上の裏付けのある資料は見つかりません
ただ、奈良県観光局観光戦略課が出している「奈良盆地周遊型ウォークルート」では、写真の此処が奈良パートと奈良~天理パートの境目になっていました。でも、他のサイトと全くリンクしていないので、これ以上の追跡はできません。戦略と戦術の言葉の区別もつかない者が製作したので仕方ないとは思えますが、こんなレベルの作業ではお金の無駄としかいいようがありません。 -
知らないお寺なので、スマホで調べてみたところ、不空院は、真言律宗の寺で、本尊は不空羂索観音(重文)。かつては「かけこみ寺」であった歴史から縁切り寺として知られるとありました。
ただ、拝観料が600円なのに、文化財は重文の木造不空羂索観音坐像だけです。しょぼいのでパス。 -
シュールな土塀が続く道を歩きます。
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新薬師寺にやっと到着しました。しかし、此処は参拝者入り口ではありません。
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参拝者の入り口はこっちです。
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国宝の本堂です。
新薬師寺は、東大寺と同じ華厳宗です。本尊は薬師如来。開基は光明皇后または聖武天皇だと伝わっています。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられるほどの大寺院だったものの、平安時代に華厳宗が衰退したため、当寺も衰微。でも、本堂、木造薬師如来坐像 、塑造十二神将立像(宮毘羅大将像を除く)は国宝です。腐っても鯛ですね。 -
入り口は、本堂左側の此処。
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拝観券は自販機で購入します。 600円/人でした。
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堂内は撮影禁止なので、新薬師寺のホームページから借りてきました。
拝観するのは、実質的に本堂の中だけなので、ある意味、地味なお寺なのですが、此処の十二神将は半端ない迫力で迫ってきます。そのため私は、わざわざ足を運ぶ価値があると思っています。 -
新薬師寺⇒徒歩10分⇒バス破石町⇒奈良県庁前(220円)で興福寺まで戻ってきました。目に入る人数は、新薬師寺の100倍以上に増えてます。
奥は、解体修理が始まった五重の塔。手前は東金堂です。
興福寺は、飛鳥時代末から奈良時代、平安時代まで、最大の権力を握った藤原氏の氏寺です。そのため、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺で構成される南都七大寺の一つとして強大な勢力を誇っていました。現在の宗派は三重塔で有名な薬師寺と同じ法相宗です。本尊は、中金堂に安置されている文化8年(1811年)に仏師・赤尾右京によって作られた5代目の釈迦如来です。 -
取りあえず、八部衆に会うため、国宝館に入りました。
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興福寺のホームページから借りてきた八部衆です。
有名なのは阿修羅ですが、他の七躯も少年と少女の間の感じの可愛い仏様です。 -
解体工事が始まった五重の塔です。
素屋根は1階の軒下まででしたので、外観は十分観察できました。
工事完了予定は令和12年度末(2030年度末)です。この頃、私は80歳を超えているので、改修後の建物を見る旅行を行なう気力を保っていられるのか不安です。 -
東金堂です。此処も、五重塔の工事が終わるまで拝観できないのかな。
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五重塔の美しい木組みは、少しすると見えなくなります。
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北円堂(国宝、承元4年(1210年)再建)の特別拝観を行なっていたので入ることにしました。
堂内の仏様は、本尊の木造弥勒仏坐像と木造無著菩薩・世親菩薩立像とは運慶一門の作、木心乾漆四天王立像は平安初期の作で、これらの7躯は国宝。無指定の木造法苑林菩薩と大妙相菩薩半跏像も室町時代の作という豪華な配置です。
此処で珍しかったのは、四天王像のうち、2躯が草履を履いていたこと。草履を履いた仏様は珍しいので、案内の女性に聞いたところ、多くの人から聞かれるが、由来は判らないとのことでした。 -
今回、平城宮跡へ行ったのは、実物大に復元したという遣唐使船を直接観察するためです。
というのも、日本の船は、5世紀の船形埴輪も、吉備大臣入唐絵巻(13世紀初め、ボストン美術館蔵)、蒙古来襲絵詞(13世紀末)などに描かれた船も、その船首は全て、戸立造りという扉を貼付けたような平らな形状をしています。一方、エジプトのクフ王のピラミッドから出土した4千年以上前の船ですら、現在の船のように船首が尖っています。航洋性はエジプトの方が圧倒的に優れているはずなのに、何故にこんな形の船を使い続けたのかを知りたかったためです。
・近鉄奈良駅⇒100円の「ぐるっとバス」⇒朱雀門ひろば前下車
到着したのは13時です。観光交流施設や平城宮誘い館などの観光施設があるので、此処で昼にしようと思ったのですが、飲食店は、魅力を感じないイタメシ屋とカフェしかありません。空腹で見学したので、感想は辛口になっています。 -
復元した遣唐使船です。
奈良時代に外洋を航行した船は、丸木舟を前後に接合して長くし、更にその両舷に舷側板を貼りつけて積載量と耐航性を大きくした「準構造船」というタイプのものだけです。しかし、この船の船体は、幅の狭い板を何枚も打ち付けて綺麗な曲線を出しています。この曲線はヨーロッパの船のように竜骨という骨格を持っていないと作り出せません。また、この船の船首は、戸立造りの様な恰好をしていますが、船首の下部が尖っています。似せさせてはいますが、再現したとは到底言えないレベルなので、全く参考になりませんでした。平城宮跡歴史公園は国営なのに、こんな疑問だらけの船を看板代わりに作るとは情けない限りです。 -
朱雀大路の先には復元した朱雀門があります。
左側は、物産販売とレストランが入る朱雀門ひろば、右側は、展示施設の平城宮いざない館ですが、中はがらんどうに近い状態です。当然、野外の状態は見てのとおり。建物内も、小学校の校外学習の小集団が僅かにいるだけです。
ところで、案内図を見ると、この先には第一次大極殿があり、その右側には第二次大極殿があるとあります。これは何を意味するのでしょうか。ということで、この謎解きをします。
○飛鳥から平城京へ
671年 38代天智天皇は、太政大臣に息子の大友皇子(39代弘文天皇)
を指名。弟の大海人皇子(40代天武天皇)は皇太子に指名され
るが、大海人皇子は政争を避けるために辞退し、吉野へ隠棲
(後の41代持統天皇は、天智天皇の娘だが、夫の大海人皇子と共
に吉野へ)
672年 大海人皇子は壬申の乱に勝利。飛鳥に大極殿を建てて40代天武天
皇として即位
壬申の乱:大海人皇は、大友皇子(39代弘文天皇)が命を狙って
いると知り挙兵。近畿の豪族を味方にして勝利。大友皇子は自殺
経緯は日本書紀に詳しい。なお、39代弘文天皇は、明治3年
(1870年)に追号されるまで天皇として認知されていない
686年 天武天皇崩御 3年間の服喪中に子供の草壁皇子が死亡
690年 41代持統天皇即位 軽皇子(42代文武天皇)は当時7歳のため
(持統天皇は天武天皇の皇后、天智天皇(中大兄皇子)の子)
(軽皇子は、天武天皇の子の草壁皇子と43代元明天皇の子)
697年 持統天皇は、14歳の42代文武天皇に譲位
707年 文武天皇は25歳で崩御。文武天皇の生母は43代元明天皇とし
て46歳で即位。残された首皇子(45代聖武天皇)は数えの
7歳のため (元明天皇は、38代天智天皇第四皇女、40代天武
天皇と41代持統天皇の子の草壁皇子の正妃で、42代文武天皇と
44代元正天皇の母、45代聖武天皇の祖母)
708年 和銅の発見
710年 43代元明天皇は平城京に遷都 -
朱雀門に到着するまでには発掘現場がありました。
○第一次平城京
710年 43代元明天皇は平城京に遷都
712年 古事記が完成、 713年 風土記の編纂開始
715年 43代元明天皇は譲位、44代元正天皇は35歳で即位
(母は元明天皇、未婚、42代文武天皇の姉、45代聖武天皇は甥)
720年 日本書紀が完成
724年 44代元正天皇は譲位、45代聖武天皇が24歳で即位
(42代文武天皇の子、43代元明天皇の孫、元正天皇の甥)
729年 長屋王の変:皇族で実力者の長屋王は、藤原四兄弟の奸計で自害
730年 藤原氏系が政権を握る。藤原系の光明皇后は聖武天皇の皇后に
737年 天然痘が大流行し、藤原四兄弟など政権中枢部の貴族も多数死亡
740年 大宰府で起きた藤原広嗣の乱の最中、伊勢国、美濃国へ行幸を
始める 『彷徨五年』の始まり -
復元した朱雀門です。
○彷徨五年
740年 行幸中、平城京に戻らないまま恭仁京(京都市木津川市)へ遷都
741年 国分寺と国分尼寺を造営する詔を出す。
742年 未完の恭仁宮を捨てて紫香楽宮(滋賀県甲賀市)へ移転
744年 副首都として整備してきた難波京(大阪城の南)へ移転。
745年 再度、紫香楽宮に移転。
745年 平城京へ都を戻す
それにしても、九州での反乱に怯えるような臆病な天皇の気まぐれに付き合って、これだけの無駄な出費をしても経済的に破綻しなかった大和朝廷は、実に豊かだったのですね。 -
2022年に完成した第一次大極殿。その奥には第一次大極殿の屋根が見えます。
○第二次平城京
745年 平城京へ都を戻す
747年 東大寺で大仏の鋳造の詔を発する
748年 病弱な聖武天皇を後見していた元正太上天皇が崩御
749年 聖武天皇は独断で出家 娘が46代孝謙天皇として即位
752年 東大寺大仏の開眼供養
754年 唐から来日した鑑真に、東大寺での戒壇の設立と受戒の勅命
756年 聖武天皇崩御 天武天皇の孫の道祖王を皇太子にする遺言を
残すも、道祖王は素行不良の理由で46代孝謙天皇に廃される
天武天皇の皇后だった光明皇太后は夫の聖武太上天皇の七七
忌(49日)に際し、天皇遺愛の品約650点と60種の薬物を東
大寺に奉献する。光明皇太后は、その後も献納を続ける。
これらの献納品が正倉院御物。
758年 46代孝謙天皇が譲位、47代淳仁天皇が即位(天武天皇の皇子・
舎人親王の七男) 即位は藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の推挙
759年 鑑真が唐招提寺を建立
764年 藤原仲麻呂の乱:47代淳仁天皇は、仲麻呂と共に孝謙太上天皇
が寵愛した道鏡と対立したために廃される、46代孝謙天皇が
48代称徳天皇として重祚、
770年 48代称徳天皇崩御。天武天皇系が絶えたため、672年の壬申の
乱で敗北した天智天皇系の49代光仁天皇が62歳で即位
(38代天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6皇子)
以降、天皇家は天智天皇の系統が続く
760-770年 万葉集を編纂
781年 病気の光仁天皇は50代桓武天皇に譲位(光仁天皇の第一皇子)
784年 長岡京へ遷都
794年 平安京へ遷都 平安時代へ -
平城宮跡の真ん中を近鉄が突っ切っているのは有名。
○平安京
794年 50代桓武天皇は、長岡京から平安京へ遷都
806年 桓武天皇崩御、51代平城天皇が即位(桓武天皇の第一皇子)
809年 病気の平城天皇は在位3年で弟に譲位し、平城宮へ移住する。
52代嵯峨天皇(桓武天皇の第五皇子)が即位
810年 平城上皇は、寵愛していた藤原薬子と兄の仲成にそそのかさ
れて平安京を廃して平城京へ再び遷都する詔を出すも、嵯峨
天皇は、兵を動かして対処。
*薬子の変:平城上皇は剃髪して蟄居、薬子は自殺
864年 この頃、平城旧京の道路は耕されて田畑になって現在へ到る
以上のことから、古すぎる飛鳥⇒天武天皇系の平城⇒臆病な45代聖武天皇の彷徨5年⇒天智天皇系の平安京が、遷都の理由だと判りました -
近鉄奈良駅まで戻ってきたのは14時30分です。店を選んでいる暇が無いほど空腹だったので、東向い商店街にある「うどんごはんむぎの蔵」という、観光客用が見え見えの店でランチにしました。
私の注文は、写真の「和牛のミニ牛丼とミニキツネうどん」のセット(1480円)、連れは、エビ天冷やしつけ麺(1280円)。
やたら元気の良いインド人のマネージャーと、外国訛りの店員が殆どという店でしたが、普通以上に美味しくて当りの店でした。 -
帰りの新幹線は、京都⇒17:39発のぞみ436号⇒東京19:54です。
なので、晩飯は、久しぶりの「いずう」の鯖寿司+αにしました。
とはいっても、我々にとってフルサイズは重いので、ハーフにしました。 -
でも残念。サバも、昆布も厚さが以前の半分しかありません。
これではクオーターです。
以上、我々の旅行は、いつものとおりの竜頭蛇尾で終わりました。チャンチャン!
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この旅行記へのコメント (1)
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- 横浜臨海公園さん 2024/07/25 09:58:52
- 復元遣唐使船
- 魚屋No1さま、はじめてメッセージを差し上げます。
旅行記を興味深く拝見させて頂きました。
それにしても、復遣唐使船には驚くより呆れさせられました。
小生、船舶に関しては全くのド素人ながら、どの様な観点からみても、資料を基にした筈も無く、あれが遣唐使船だったとは考えられず、よくも恥も外聞もなく復元したと大言壮語したものだと思いました。
奈良も外国人、特に隣国人の暴虐無人ぶりは京都だけに止まらず、奈良をも土足で荒らされている様で不愉快極まりません。
今後とも何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
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