2024/02/26 - 2024/02/28
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tenkoさん
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J社のツアーで広島、山口、島根の3県を2泊3日でまわりました。ツアーならではの超過密スケジュール。
楽しみは多いけど疲れもそれなりに。
コロナで旅行から遠ざかっていたので計画が面倒になり、いろいろ連れていってくれるツアーに参加。
歴史の勉強を再度したくなるような旅でした。
旅の思い出として、iPhoneでいいかげんに撮った写真なのであしからず。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 観光バス ANAグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- JTB
PR
-
羽田空港ANA725便 8:40発
萩・岩見空港 10:25着
左側座席から富士山が美しい -
萩・岩見空港からバスで広島県宮島へ。
日本海を北上し益田を通過、浜田インターから浜田自動車道を南下。
広島ジャンクションから山陽自動車道へ。
廿日市インターで出て宮島口へ。2時間半くらい乗りました。途中トイレ休憩あり。
宮島松大汽船フェリーで宮島へ。 -
静かな瀬戸内をフェリーは宮島に向かって進みます。
鳥居が見えてきました。
干潮か満潮かで鳥居や神社の在り方が変わります。
さて今はどっちでしょう。 -
約10分でフェリーは到着。片道200円。
大きな鳥居をくぐって海沿いの参道を歩きます。 -
朱塗りの大鳥居が現れました。
ぎりぎり海水に浸っています。今の鳥居は9代目。
びっくりしたのは海に埋まっているのではなく、柱の下に数百本の杭を打ち地盤を固めて石を敷き、その上に立っているとのこと。
そして鳥居の最上にある島木というのですが、この中に5~7トンの石が敷き詰められ、その重みで鳥居が立っているそうです。 -
ゆっくり歩いていたら、潮が引いてきて土が見えてきました。説明のガイドさんが気の毒に思ったのか、「干潮だから見えます」と言って鏡の池を紹介してくれました。
昔の手鏡の形が現れていて、丸い鏡の部分から水が湧いています。
写真が下手で見にくいですが・・・
厳島神社の神殿入口からすぐの左側です。 -
厳島神社御本社。この奥に本殿、拝殿があります。
ここでお参りしました。
手前の工事中の部分は高舞台といって毎年春と秋に舞楽が舞われ、音楽の奉納行事も行われるところ。
見学は一方通行で回廊のようになっているところを歩いて出口。
その間には他に平舞台、能舞台があります。 -
厳島神社の東の小高い場所に端正な五重塔があります。
室町時代1407年に創建、重要文化財に指定されている。
神社が有名すぎて、こちらはひっそり建っていました。 -
五重塔の向かいにある建物。
豊国神社、別名千畳閣。
豊臣秀吉をまつっており、約857畳の広さがあるので千畳閣と呼ばれている。
1587年、秀吉が創建、完成を見ないまま没してしまい未完のまま今に至っている。
厳島神社、五重塔、豊国神社すべて1996年世界文化遺産に登録されている。 -
お土産店が並ぶにぎやかな通りの横筋を入ると静かな町屋が並んでいる。
見上げるとさっきの五重塔。 -
表参道商店街にある「だいこん屋」
今日の昼食はここでいただきます。
もみじ饅頭も作って売っていて、1つずつ味見用に配られました。
中の餡はこし餡、クリーム、チーズ、チョコ、瀬戸内レモンなど多種あり。 -
メニューは穴子ご飯とカキフライ
広島名物です。
穴子は広島湾にそそぐ中国山地の栄養分をたっぷり受けて、瀬戸内海の潮流の速さと良質なえさで「瀬戸の穴子」として人気。
カキは実がプリプリして、濃厚。生産量は全国の6割を占め日本一。 -
山口県岩国市の錦帯橋にやってきました。
山の上のお城がわかりますか?
岩国城です。
1608年初代岩国藩主、吉川広家が築城。しかし幕府の一国一城令により、7年後に取り壊しになる。吉川広家は毛利元就の孫。
錦帯橋は3代藩主の吉川広嘉がかけた。錦川は何度も流されていたので、流されない橋を造りたいとの思いで5連アーチの橋が完成した。 -
1950年の洪水までの276年間掛け替えを繰り返しながら存続した。
流失後は鉄筋で、という案も出たが市民の強い要望で1953年木造の錦帯橋が再建された。
いつの時代も市民の力は素晴らしい!! -
岩国城の再建も市民の力が動いた。
1961年復元工事が始まり翌年に4層6階の天守が鉄筋コンクリートで再建された。
天守最上階から眺める錦帯橋や瀬戸内海の島々は素晴らしいとのこと。 -
今日の観光は終了。
お宿はグランドプリンスホテル広島
去年G7広島サミットをしたホテルです。
周りを瀬戸内海に囲まれて、警備がやりやすそうです。 -
サミットの飾り付け?がそのままロビーに。
大浴場は3階。「瀬戸内海の情景を楽しみながらの入浴を」ということで何と有料。大人2000円、子供1000円。宿泊者割引もなく。
腑に落ちません。私はパスしてお部屋の小さなお風呂に入りました。
入浴した方の情報では、有料にもかかわらずとても混んでいたそうです。
私は明日の温泉にかけます。
夕食はビュッフェ。牡蠣を蒸し、焼き、アヒージョ、牡蠣ご飯で。カニ、広島牛など。 -
2日目
広島市内見学です。
バスを原爆ドーム近くで降り公園方面まで歩きます。
原爆ドーム(旧広島県産業激励館)
1945年8月6日原子爆弾投下
数えきれないほど画像や画面で見ているけれど、実際のドームを見て初めて感じるものがありました。 -
慰霊の碑の前で深く一礼。
思いがどんどん湧いてきます。早く立ち去りたいような、もっとここにいたいような自分でも分からないような気持になりました。 -
原爆ドームから元安橋を渡って平和記念公園へ。
この元安川も被爆で焼けた体を冷やそうと、たくさんの人で埋め尽くされたそうです。
後で見る資料館の写真や絵が物語っています。 -
原爆の子の像
-
像のモデルは佐々木禎子さん。
原爆による白血病で1955年10月に12歳で死去。
「禎子さんを始め、原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を造ろう」と禎子さんの同級生たちによって提案、全国の小、中、高校から寄付金が寄せられた。
1958年5月完成。 -
原爆死没者慰霊碑
原爆ドームと平和の灯、資料館を結ぶ直線状に設置。
中央の石室に死亡した被爆者全員の氏名を記帳した名簿が納められている。
丹下健三氏の設計
「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」 -
慰霊碑の真後ろに広島平和祈念資料館が見えます。
-
資料館では原爆の威力、恐ろしさ、怒り、平和って・・・・訪れる人それぞれが様々な思いを抱くでしょう。
-
この日の広島は青空の元、気持ちの良い朝を迎えています。
興味津々に観光する私たちとすれ違う通勤者。
毎日ここを通っているのかしら。
穏やかな朝の空気に包まれて、平和ってどういうことなんだろうと考えさせられました。何事もなかったみたいで怖い。忘れてはいけない、繰り返してはいけない。 -
どきどきした広島を後にしてバスは島根県津和野へ向かいます。昨日通った道を戻りつつ中国自動車道に乗り、六日市インターでおりて清流日本一の高津川に沿って走ります。高津川はダムがない一級河川。車窓から見える川に水はキラキラ輝いていました。
津和野といえば掘割の鯉。
江戸初期、津和野城主坂崎直盛の頃、掘割に鯉を放したのが始まりとか・・・ -
この辺りは白壁の塀、掘割、鯉と津和野の観光のメイン。
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武家屋敷が並び、津和野の城下町の風情を残している。
1601年坂崎直盛が3万石で初代津和野藩主となる。
1617年鹿野城主亀井政矩が4万3千石で入城。以来明治維新まで続く。
殿町通りは伝統的建造物群保存地区に選定されている。 -
津和野藩校養老館
8代藩主亀井矩賢が1786年に創設。
儒学、漢学、医学、礼学、数学、兵学、国学、蘭医学などの学科があった。
ここから西周、森鴎外など俊才を輩出。
建物は老朽化したため修復が繰り返され2019年に竣工し一般公開している。 -
津和野鷺舞
1542年11代津和野城主吉見正頼が山口の祇園会から移し入れたもの。
元は京都の八坂神社祇園会に伝えられたもので、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられた。京都から山口へは室町時代に大内氏がそっくり移したのが起源。
白鷺の被り物を付けて舞う風流の芸能。 -
鷺の頭巾をかぶり、板を連ねて作った羽を肩につけた舞人2人が笛、太鼓、鼓、鉦のお囃子に合わせて舞う。
弥栄(やさか)神社で祇園祭の7月20日と27日に行われる。
ユネスコ無形文化遺産に登録されている。 -
太鼓谷稲成神社
稲成と書く。願望成就のためとのこと。荷ではなく成。
写真に写っていないが後ろの城山の麓から中腹にかけて約1000本の鳥居が立ち並んでいる。
山頂に津和野城跡が見える。石垣だけ。 -
津和野カトリック教会
明治元年1868年から明治6年1873年までに、長崎の隠れキリシタン153名が津和野に送られる。
残酷な拷問を受け、その中36人が殉教した。
1931年、イエズス会のドイツ人司祭パウロ・ネーベル神父によって建てられる。
殉教者の冥福を祈っている。 -
昼食は「沙羅の木」
レストランは2階。1階はお土産屋さん。
津和野藩の家老屋敷跡に建てられたそうです。名物お菓子「源氏巻」はこし餡、抹茶餡、白餡の3種の餡を香ばしく焼いた薄いカステラ状の生地で包んだもの。諸説ある一つが藩主を救うため、その時の指南役吉良上野介への賄賂として小判を風呂敷に巻いて渡した形を模している。 -
津和野の郷土料理「うずめ飯」
日本5大名飯の一つで、丼にご飯が入って運ばれてきました。
何とご飯の中に具が。
セリ、ニンジン、シイタケ、鯛、かまぼこ、豆腐、焼き海苔、わさびなどがご飯の下にうずめられていて、上から温かいだし汁をかけて食べます。わさびは香り高く美味。
江戸幕府の倹約令で役人の目をすり抜けるために、ご飯の下に具材を隠したのが始まり。 -
ご飯のほかにお蕎麦とてんぷらなどのおかずが付いて、3段重ねのお重で出てきました。
ご飯はだし汁をかけるのでお茶漬けみたいになりました。
名物に旨い物なしの感あり。 -
バスは山口県萩の町に入りました。
萩といえば白壁に瓦、そこから見える夏みかん。
明治の初め廃藩置県で失業した士族を救おうと、武家屋敷に夏みかんの苗木が植えられたのが始まり。
士族が、いなくなった今でも夏みかんは萩を象徴している。 -
2015年世界文化遺産に登録された。
萩城址、旧上級武家地、旧町人地、萩反射炉、松下村塾など。 -
高杉晋作誕生地は旧町人地にあり、玄関、母屋、井戸などを見ることができる。
-
1839年に生まれ、藩校明倫館で学び、19歳の時吉田松陰の松下村塾に入門する。
その後毛利定弘の小姓役を命ぜられ、藩命で上海に渡航。海外の諸事情をつかんで帰国、尊王攘夷の急先鋒として活躍。24歳の時奇兵隊を組織し総督になる。長州藩の軍事的基盤として活躍する。藩内部の保守派に危機を感じ騎兵隊を指揮して藩を討幕派に統一する。長州征伐の際は幕府軍を撃沈し大活躍する。
しかし1867年4月、体調が悪化し下関で病死。29歳でした。 -
木戸孝允旧宅
旧町人地にあり高杉晋作宅から近い。
1833年長州藩の藩医の子として生まれ8歳の時桂家に養子に入る。桂小五郎となる。
16歳で吉田松陰に学び、1852年19歳で剣術修行のため江戸に留学。留学中にペリーの黒船を見た衝撃から長州藩を西洋式に変え、高杉晋作や伊藤博文のイギリス留学を助け、倒幕に向けて長州藩のリーダーとして活躍。
1866年33歳の時薩長同盟を結ぶなど倒幕に尽力する。
1968年35歳の時、明治新政府で五か条のご誓文を書き、1871年からは岩倉使節団で欧米を視察。日本と欧米の国の差を見せつけられ征韓論に対して、国内政策を優先するように主張。憲法制定を提言するも大久保利通に受け入れられず新政府内では孤立気味だった。西南戦争中の1877年、出張先の京都で病死。43歳だった。 -
萩の町並みをゆっくり歩くと、今がいつの時代で私は何者なのか分からなくなります。
長く続く白壁は武家屋敷の頃のまま。
現在、その中に住んでいるのは武士ではなく普通の市民。
萩の町全体を市民がしっかり守って歴史を伝えているのが分かりました。 -
旧三の丸の北の総門筋にある旧周布家長屋門。
-
萩藩1530石の周布家。市の指定文化財で国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。
江戸中期の代表的な武家屋敷の様式を残している。
平屋建て本瓦葺きで、下見板張りと白漆喰の外観が特徴的。 -
角を曲がると中が見えました。
今は門だけが残って、母屋などはありませんでした。 -
萩の夏みかん
和名は「なつだいだい」
夏みかんの木は実を付けたまま冬を越し、前年の実を付けたまま翌年の花が咲き実がなる。
「だいだい」は「代々実がなる」ことから縁起が良いとされている。 -
散歩の途中で見つけた石州瓦。400年前から島根県の岩見地区で生産される。
1300度の高温で焼き上げる、良い土と釉薬を使うので非常に強くいろんな耐性に優れている。赤茶色は出雲地方で採れる来待石から作られた来待釉薬の色。
石見地方の町並みは赤茶色の屋根がたくさん見られる。 -
松陰神社
1907年明治40年、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となり創建。 -
松下村塾
長州藩の藩校明倫館の師範を務めた吉田松陰が教えた塾。 -
松下村塾は松陰の叔父、玉木文之進が1842年(天保13年)に自宅で開いた私塾に「松下村塾」と名付けたのが始まり。その後塾は閉鎖。
1855年松陰が幽囚の身となり家族や親族に対して自宅で講義をするようになり、ここに近隣の子弟が参加。8畳1間の塾が開かれ、閉鎖された松下村塾が引き継がれた。 -
この塾から多くの優れた人材が巣立ち、明治日本の礎となる。
尊王攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学など広範な学問が教えられ、活発な議論もくり広げられた。
門下生は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、野村靖、品川弥二郎など約90名。 -
吉田松陰は1830年萩藩士杉百合之介の次男として誕生。貧しい半農半士の下級武士で学問に熱心な家風だった。9歳で萩藩の山鹿流兵学師範の吉田家に養子に入る。
10歳の時藩校明倫館に出仕し11歳で藩主毛利敬親の前で講義をし、19歳で独立の師範となる。22歳で江戸に遊学佐久間象山に師事し、その後脱藩、藩士の身分を?奪される。この時藩主から10年の遊学許可が出され再度江戸へ。1853年浦賀でペリー来航に衝撃を受ける。アメリカ密航を企てて失敗、国元で野山獄に繋がれる。
1855年獄を出て自宅の小屋で講義をする。この小屋が現存する松下村塾。 -
境内は早咲きの桜が満開。
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「学は人たる所以を学ぶなり」
松陰は人はどのように生きるべきかを学ぶことこそが学問であると言う。
人はどう生きるべきか・・・人はいかにあるべきか・・・・
愚かな人生を歩んでいる私には重すぎるお言葉。 -
「親思うこころにまさる親心けふの音づれ何ときくらん」
松陰が肉親に宛てた最後の書簡の中に出てくる歌。
子が親を思う心よりも、親が子を思う心はさらに深い。
一昨年亡くなった母を思い出し、親心の深さをかみしめました。 -
松陰神社鳥居
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1940年に新社殿が起工、1942年に桧皮葺の社殿が竣功。第二次世界大戦のため御遷座できず、1955年10月屋根を銅板に葺き替え御祭神が遷座された。松下村塾の塾生、門下生、のご祭神とする。現在のご祭神は53柱。
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宿の周りは旧上級武家地。
どこを見てみても絵になります。
現在もこの塀の中で普通に暮らしていることが不思議に思えてならない。
朝宿を出る時、送迎のマイクロバスに暖房が入ってなくて、どうしたのかと思ったら、「住宅地の中なので長時間エンジンをかけられないのですみません」と謝っていた。
この地区は大型バスは入れず、マイクロバスに乗り換えて宿まで来たのだった。 -
2日目のお宿は萩城三の丸、世界遺産旧上級武家地内にある「北門屋敷」。
古地図を見るとここは毛利出雲守の屋敷だったようだ。 -
「北門屋敷」の道向こうは萩高校と萩中学校。
萩のシンボル白壁が学校をぐるりと囲っています。
何だかすごいなぁと思ってしまう。 -
宿の前の道は石垣や白壁、生垣の長い塀が続く。
令和の今を感じるものはほとんど見当たらない。 -
宿の入り口は武家屋敷の門になっている。
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宿の日本庭園
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宿の洋風庭園
季節に合わせて植え替えをしているとのこと。 -
長い廊下が続き、所々に灯りや盆栽、鉢植えなどが置かれている。
それらの置物を目印に自分のお部屋を行ったり来たりしました。 -
お部屋の上り口
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左の窓からお庭が見える。
テレビは東芝。
応接セットは英国調デザイン。
日本旅館の縁の間にすごくマッチしてました。 -
和室に低層ベッド
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お部屋から庭園を臨む。
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夕食のおしながき
写りが悪すぎですね。
山口の名物をいただきました。
次の2枚の写真のほかにふく刺し、黒毛和牛のしゃぶしゃぶ、五宝蒸し銀あんかけ、清汁仕立て、ご飯、プリンなど。 -
前菜 立春の彩り、葛寄せ豆腐
向附 萩の旬の地魚盛り合わせ
焚合せ 季節野菜と穴子信田巻 -
鯛蕗味噌焼き
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朝食
-
3日目の観光の始まりは秋吉台。
日本最大級のカルスト台地で、国の特別天然記念物に指定されている。
面積は1.384ha。
景観をつくっている石灰石はおよそ3億5千年前に南方の海でサンゴ礁として誕生し、それから長い年月を経て現在のカルスト台地を形成した。 -
特別天然記念物の指定は1964年(昭和39年)7月。
長径約17km、短径約7.5km、広さは約130?、海抜200mの台地。
台地の石灰岩中には、紡垂虫、サンゴなど種々の化石を多量に産し、なおこれに大規模な地層逆転構造がある秋吉台はわが国のカルストのうち最大の規模をもつものであり、学術上の価値はきわめて高い。と記されている。 -
秋吉台の地下は秋芳洞と呼ばれる大きな洞窟になっている。
入口に続く商店街。 -
屋並みを抜けると正面入り口があり、そこを過ぎてせせらぎを歩く。
-
秋芳洞の入り口が見えてきました。
洞窟の反対側から入ればここは出口になります。全部歩くと約1km。
私は3分の1くらいまで入って引き返しました。 -
中は手すりのある歩道があり安全。
洞窟の中です。 -
百枚皿
天井から落ちる石灰分の水滴がこういう風景を造るのです。
外国にもありますね。 -
天井からタケノコみたいな形です。
小さな1滴が長い間にこういう景色を造るんですね。 -
さてこれは何でしょう!
今日の昼食です。
熱い瓦の上に茶そば、牛肉、錦糸卵、ネギ、レモンの輪切り、紅葉おろし。
山口名物「瓦蕎麦」山口のソウルフード。
熱した瓦の上でおそばや具を焼いて温かいつゆにつけて食べます。
焼けた茶そばがパリパリして面白い感覚。普通の焼きそばとちょっと違う感じ。
西南戦争で薩摩軍の兵士が野戦の合間に瓦を熱して肉や野菜を焼いて食べていたと聞いたのが誕生のきっかけとか。 -
最後の観光、山口市の瑠璃光寺
ここは確か五重塔が修復工事中のはず。 -
五重塔、しっかり工事用の仕様になっていました。
NHKで桧皮葺の屋根の掛け替えのドキュメントを放送していました。
しっかり観てきました。あの囲いの中で、宮大工さんが素晴らしい技術でお仕事をしていると思うと、見られなくて残念だけど「頑張ってください」と思わずにはいられません。
70年に1度の修理。「この姿を見たかったら70年後しか見られませんよー」などど説明のボランティアガイドさんが言っていました。
25代大内義弘が応仁の乱で戦死、その菩提を弔うため弟の盛見が塔を建立。高さ31.2m、奈良の法隆寺、京都の醍醐寺とともに日本三名塔の一つ。 -
枕流亭(ちんりゅうてい)
1867年(慶応3年)9月、薩摩の西郷隆盛、大久保利通と長州の木戸孝允らが薩長連合に関して協議を行った所。 -
大内弘世の像
南北朝時代の武将で守護大名。大内氏第24代当主、大内義弘、盛見の父。
周防、長門の守護職を務め、最終的には山口開府の父となる。 -
この辺りは香山公園と呼ばれ、瑠璃光寺や毛利家墓所、大内氏関連のものなどが点在している。
梅も咲きのどかな雰囲気がある。 -
保寧山瑠璃光寺
曹洞宗で永平寺(福井)と総持寺(鶴見)が本山。
室町時代1471年に建立。陶氏6代弘房の菩提寺。
応仁の乱で戦死した夫弘房の菩提を弔うため夫人が建立。 -
姿をすっかり隠している瑠璃光寺五重塔を背にこのツアーを終えました。
島根、広島、山口の3県をバスで巡り、2泊3日とは思えない数の観光をしました。
広島の朝の青空が悲しく辛かった。
日本の過去を学んだ旅になりました。
まじめで面白くない旅行記になってしまいました。次回はもっと楽しい旅行記を書きたいなあ~
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