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台湾 台北 馬場町や新店渓付近の河川敷エリアは今でこそ整地されサイクリングロード、ランニングを楽しむ場所として市民の憩いの場です。<br /><br />1945年の日本敗戦と撤退後、新たに台湾に乗り込んで来た中華民国側による時代が始まり、ほどなく二二八事件から始まる暗く、長い台湾の暴政時代が幕をあけました。そして、そのことは長い間伏せられ、また今も多くを語られない形で開示されている事が見てとれるので記録に残します。<br /><br />馬場町の銃殺現場となる土丘が在るこの場所は2000年8月26日、ようやく新店渓河川敷に石碑等が残されました。<br />但し、この看板も古びたままです、一方で兵隊さんの交代式はピカピカのメッキ帽に糊のきいたシワひとつないズボンです。<br /><br />対してこちらは周りも殺風景で、誰もが気軽に来れるような交通事情にはなっていません。そんなこんなも含めての場所として、見て頂けると宜しいかと思われます。<br /><br />台湾旅行、台北巡りにはこうした角度からの見方もある、としてご了解くださいね。

台湾 台北 馬場町紀念公園 ニニ八事件

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2023/09/19 - 2023/09/19

16525位(同エリア30168件中)

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BO/M

BO/Mさん

この旅行記のスケジュール

2023/09/19

この旅行記スケジュールを元に

台湾 台北 馬場町や新店渓付近の河川敷エリアは今でこそ整地されサイクリングロード、ランニングを楽しむ場所として市民の憩いの場です。

1945年の日本敗戦と撤退後、新たに台湾に乗り込んで来た中華民国側による時代が始まり、ほどなく二二八事件から始まる暗く、長い台湾の暴政時代が幕をあけました。そして、そのことは長い間伏せられ、また今も多くを語られない形で開示されている事が見てとれるので記録に残します。

馬場町の銃殺現場となる土丘が在るこの場所は2000年8月26日、ようやく新店渓河川敷に石碑等が残されました。
但し、この看板も古びたままです、一方で兵隊さんの交代式はピカピカのメッキ帽に糊のきいたシワひとつないズボンです。

対してこちらは周りも殺風景で、誰もが気軽に来れるような交通事情にはなっていません。そんなこんなも含めての場所として、見て頂けると宜しいかと思われます。

台湾旅行、台北巡りにはこうした角度からの見方もある、としてご了解くださいね。

  • さて、今回の馬場町紀念公園へは、MRTだとなかなかたどり着けません。<br />MRT オレンジラインとグリーンラインが交わる「古亭駅」が、最寄りと言えば最も距離的に地図上では短そうな場所でしたので、そこで降り立ちます。<br />行き方は手書きでキレイではありませんが、オレンジで示した通りですが、地図で見切れているところから更に延々徒歩、<br />12:00 駅を出で時間確認<br />12:45 馬場町紀念公園到着<br />健脚なオッサンの脚でも45分は掛かりました・・・自転車借りたらよかったのですが、実はイマイチ使い方が不慣れで手を出さず、と反省しております。<br />9月中旬の炎天下、延々歩いての45分はかなりシンドイ道行きではありましたが、そんな歩くのがシンドイ、などと言う場合ではない歴史が、新店渓の古亭河浜公園あたりから青年公園トイメンにある馬場町紀念公園辺りまでの途中中正橋を挟み、あった事を感じに行きました。

    さて、今回の馬場町紀念公園へは、MRTだとなかなかたどり着けません。
    MRT オレンジラインとグリーンラインが交わる「古亭駅」が、最寄りと言えば最も距離的に地図上では短そうな場所でしたので、そこで降り立ちます。
    行き方は手書きでキレイではありませんが、オレンジで示した通りですが、地図で見切れているところから更に延々徒歩、
    12:00 駅を出で時間確認
    12:45 馬場町紀念公園到着
    健脚なオッサンの脚でも45分は掛かりました・・・自転車借りたらよかったのですが、実はイマイチ使い方が不慣れで手を出さず、と反省しております。
    9月中旬の炎天下、延々歩いての45分はかなりシンドイ道行きではありましたが、そんな歩くのがシンドイ、などと言う場合ではない歴史が、新店渓の古亭河浜公園あたりから青年公園トイメンにある馬場町紀念公園辺りまでの途中中正橋を挟み、あった事を感じに行きました。

  • 道行きです。<br />同安街、と言う道をひたすら紀州庵、と言う文学記念館的な建物側に向かって歩いて行きます。どうやら日本統治時代の面影を残す日本家屋で料亭的な建物だった様子です。仮に同じルートで行かれたい方がおられましたら途中のコンビニで必ず飲み物ご購入される事をお勧めします。

    道行きです。
    同安街、と言う道をひたすら紀州庵、と言う文学記念館的な建物側に向かって歩いて行きます。どうやら日本統治時代の面影を残す日本家屋で料亭的な建物だった様子です。仮に同じルートで行かれたい方がおられましたら途中のコンビニで必ず飲み物ご購入される事をお勧めします。

  • 多少クネクネしますが、とりあえずひたすら真っ直ぐ行き、紀州庵を左手に見た突き当りに昇降機(エレベータ)があり、車路専用道路を跨いで右折、階段を降りて新店渓河川敷の方に向かいます。

    多少クネクネしますが、とりあえずひたすら真っ直ぐ行き、紀州庵を左手に見た突き当りに昇降機(エレベータ)があり、車路専用道路を跨いで右折、階段を降りて新店渓河川敷の方に向かいます。

  • 車路専用道路を下に見ながら跨ぎ、仰ぎ見る向こうの果てに・・・馬場町紀念公園が在るハズです。(この時点ではかけらも見えない)

    車路専用道路を下に見ながら跨ぎ、仰ぎ見る向こうの果てに・・・馬場町紀念公園が在るハズです。(この時点ではかけらも見えない)

  • 右折し河川敷側に下りて行き、あとはひたすら真っ直ぐ歩いて行きます。<br />この日は午後15時頃に土砂降りのスコールが小一時間程来ましたが、ラッキーにもこの時間帯(12時から14時半頃)は灼熱の炎天下・・・大汗かいて徒歩、でした。<br />ここまでで、大体20分くらいだったでしょうか。

    右折し河川敷側に下りて行き、あとはひたすら真っ直ぐ歩いて行きます。
    この日は午後15時頃に土砂降りのスコールが小一時間程来ましたが、ラッキーにもこの時間帯(12時から14時半頃)は灼熱の炎天下・・・大汗かいて徒歩、でした。
    ここまでで、大体20分くらいだったでしょうか。

  • 案内板が見えて来ました、馬場町紀念公園、の文字も確認できます

    案内板が見えて来ました、馬場町紀念公園、の文字も確認できます

  • そして、到着したのが墳墓のような土丘と、その手前の記念碑です、炎天下45分間の徒歩となりました。<br /><br />閑散とした殺風景が広がります

    そして、到着したのが墳墓のような土丘と、その手前の記念碑です、炎天下45分間の徒歩となりました。

    閑散とした殺風景が広がります

  • 堤防車路側には、大き目な横長の石碑が見えます

    堤防車路側には、大き目な横長の石碑が見えます

  • 墳墓型土丘の手前に、車路を背に、河に向かって石碑が地面にあります。<br />彫った字の上に金色を乗せているのですが、それが剥げてところどころ分かり難いのを直していない・・・2000年8月26日に建てられた、と言う事はこの四半世紀程で漸くこうした史実が曲がりなりにも遺されるようになったのだと言う事と、<br /><br />「誰が、どう」など語り手としての主語が曖昧な石碑には為政者側の意図を感じるのは僕だけでしょうか?<br /><br />社会正義や政治改革を追求した熱血志士たちが銃殺された場所である、そうした史実を石碑にし、未来に馬場町刑場土丘を「台湾で犠牲になった幾多の英魂を追悼」し遺すという曖昧模糊とした話法に違和感を抱いてしまいました。<br /><br />この石碑を見ても日頃から整備清掃され大切に扱われているのかは疑問です

    墳墓型土丘の手前に、車路を背に、河に向かって石碑が地面にあります。
    彫った字の上に金色を乗せているのですが、それが剥げてところどころ分かり難いのを直していない・・・2000年8月26日に建てられた、と言う事はこの四半世紀程で漸くこうした史実が曲がりなりにも遺されるようになったのだと言う事と、

    「誰が、どう」など語り手としての主語が曖昧な石碑には為政者側の意図を感じるのは僕だけでしょうか?

    社会正義や政治改革を追求した熱血志士たちが銃殺された場所である、そうした史実を石碑にし、未来に馬場町刑場土丘を「台湾で犠牲になった幾多の英魂を追悼」し遺すという曖昧模糊とした話法に違和感を抱いてしまいました。

    この石碑を見ても日頃から整備清掃され大切に扱われているのかは疑問です

  • 登ってはいけません<br /><br />実際には、たまりにたまった台湾人側の不満が爆発し、意見をしに行ったり抗議行動に出たり、或いはラジオ局を占拠して現況を全国に知らしめたり、雑誌、新聞社に勤める方々が広く台湾人一般市民に情報を流し、中華民国側の暴政(と言うか野蛮な強権)に抗議した事による凄まじい力による封じ込め結果、多くの命が奪われたのが二二八事件であり、そうして捕らわれた方々が銃殺された現場がここ馬場町河川敷の土丘でもあった(他にも河川敷沿いに何か所も)訳です。

    登ってはいけません

    実際には、たまりにたまった台湾人側の不満が爆発し、意見をしに行ったり抗議行動に出たり、或いはラジオ局を占拠して現況を全国に知らしめたり、雑誌、新聞社に勤める方々が広く台湾人一般市民に情報を流し、中華民国側の暴政(と言うか野蛮な強権)に抗議した事による凄まじい力による封じ込め結果、多くの命が奪われたのが二二八事件であり、そうして捕らわれた方々が銃殺された現場がここ馬場町河川敷の土丘でもあった(他にも河川敷沿いに何か所も)訳です。

  • 看板、奥に土丘、そして横長の大きく、黒い馬場町紀念公園、とする文字が見えます。<br /><br />生々しい描写は避けますが、とても凄惨な出来事が1950年代、日々此処及び新店渓河川敷では起こっていました。詳しくお知りになりたい方は、Youtubeで多く二二八事件について日本語でも語られていますのでお調べ頂けると幸いです。<br /><br />台湾の近現代、為政者がかわる度に台湾に元々住む方々が多く犠牲になり、命すら奪われる(いとも簡単に)、或いは青春時代の全てを牢獄で過ごすなどの酷い時代があった事も、是非知っておきたいことだと感じています。<br /><br />日治時代 = 日本植民地時代 (1895-1945)・・・日本語が母語でしたから、その時代は現地語としての台湾語、客家語、各原住民言語の他、政府教育言語としての「国語」は日本語でした。日本語で生活もし、教育も受けた者は「模範家庭」とされ、現地言語しか話せない者は首から板切れを掛けさせたりもした時代だったと言います。<br /><br />1945年 日本は敗戦により台湾を後にします。そこに戦勝国アメリカ側が中華民国を入れて来ますが、暫定的な管理代行としての立ち位置で中華民国側が台湾に来たのです。<br /><br />1947年 二二八(前日の事件による翌日の蜂起、から始まる一連の二二八事件)勃発、入って来た中華民国は酷い!、と言う抗議が台湾全土を揺らします。大慌てした中華民国側は急いで制圧の為の援軍をまだ中国共産党軍と戦っていた蒋介石(国民党軍)に要請し、基隆港にきた援軍は上陸前から機関銃掃射を始め海辺が赤く染まった、などの話が残っています。<br /><br />その後、多くの台湾知識人を中心に、抗議したもの、怪しいと(勝手に)判断された者、タレコミされた者などが大量に逮捕され、うち直ぐに銃殺処刑された者が多く、この河川敷でそれは行われ続けました。<br /><br />ある日、連れ去られ、訳も分からないまま留置され、罪を着せられ、そして新たな為政者に亡き者にされてしまう。そんな方々が大勢居た事や、その後続いた恐怖政治時代(白色恐怖、と台湾では言います)が更に40年強、見ない、聞かない、知らないふりをして生きる、と言う隣人も信用できない生活が続きました。<br /><br />また、言語の分断もあり、日本語話者は高等教育者だったのが一変して反政府の植民地の奴隷、などと罵倒され、日本語を禁止し中国語が国語に変わったのです。<br />日本だと、「国語」は当たり前に日本語となりますが、それがここ150年程で大きく2度、ガラリとある日を境に変って行った経験は我々日本人の想像を超えた大変化でしょう。<br /><br />ちょっと古い時代に戻って話をします。<br /><br />台湾語が入り始めるより前は、いわゆるオーストロネシア語属言語が中心で、各原住民個別に発展した言語で緩く自身の縄張りを守りながら暮らしていた。<br />その後、オランダが、更に福建省南部を中心とする漢民族が入り込み、それでも台湾本島の真ん中を貫く山脈の台湾海峡側のみで、その手が届く範囲は終わっていた。<br />更にその後、日本植民地となり山岳部族などを山から降ろして全島統治を進め、日本語教育により部族間の言語交流も進んだ。(それはクレオールとして残っている部分はあるらしい)<br />そして、日本敗戦後、中華民国がアメリカの代理人として台湾島にやってきて、あたかも自身の領地領土の如く振る舞い、台湾知識人を中心に黙らせ(実際に亡き者として黙らせ)その他を古来からの同様手口で恐怖政治で黙らせた。<br /><br />その物語の最初のインパクトとして、「従うか、亡き者とされるか」を見せしめ的に行ったのが、暴動制圧と言う名の二二八事件であり、その刑場がここであり、この付近一帯となります。

    看板、奥に土丘、そして横長の大きく、黒い馬場町紀念公園、とする文字が見えます。

    生々しい描写は避けますが、とても凄惨な出来事が1950年代、日々此処及び新店渓河川敷では起こっていました。詳しくお知りになりたい方は、Youtubeで多く二二八事件について日本語でも語られていますのでお調べ頂けると幸いです。

    台湾の近現代、為政者がかわる度に台湾に元々住む方々が多く犠牲になり、命すら奪われる(いとも簡単に)、或いは青春時代の全てを牢獄で過ごすなどの酷い時代があった事も、是非知っておきたいことだと感じています。

    日治時代 = 日本植民地時代 (1895-1945)・・・日本語が母語でしたから、その時代は現地語としての台湾語、客家語、各原住民言語の他、政府教育言語としての「国語」は日本語でした。日本語で生活もし、教育も受けた者は「模範家庭」とされ、現地言語しか話せない者は首から板切れを掛けさせたりもした時代だったと言います。

    1945年 日本は敗戦により台湾を後にします。そこに戦勝国アメリカ側が中華民国を入れて来ますが、暫定的な管理代行としての立ち位置で中華民国側が台湾に来たのです。

    1947年 二二八(前日の事件による翌日の蜂起、から始まる一連の二二八事件)勃発、入って来た中華民国は酷い!、と言う抗議が台湾全土を揺らします。大慌てした中華民国側は急いで制圧の為の援軍をまだ中国共産党軍と戦っていた蒋介石(国民党軍)に要請し、基隆港にきた援軍は上陸前から機関銃掃射を始め海辺が赤く染まった、などの話が残っています。

    その後、多くの台湾知識人を中心に、抗議したもの、怪しいと(勝手に)判断された者、タレコミされた者などが大量に逮捕され、うち直ぐに銃殺処刑された者が多く、この河川敷でそれは行われ続けました。

    ある日、連れ去られ、訳も分からないまま留置され、罪を着せられ、そして新たな為政者に亡き者にされてしまう。そんな方々が大勢居た事や、その後続いた恐怖政治時代(白色恐怖、と台湾では言います)が更に40年強、見ない、聞かない、知らないふりをして生きる、と言う隣人も信用できない生活が続きました。

    また、言語の分断もあり、日本語話者は高等教育者だったのが一変して反政府の植民地の奴隷、などと罵倒され、日本語を禁止し中国語が国語に変わったのです。
    日本だと、「国語」は当たり前に日本語となりますが、それがここ150年程で大きく2度、ガラリとある日を境に変って行った経験は我々日本人の想像を超えた大変化でしょう。

    ちょっと古い時代に戻って話をします。

    台湾語が入り始めるより前は、いわゆるオーストロネシア語属言語が中心で、各原住民個別に発展した言語で緩く自身の縄張りを守りながら暮らしていた。
    その後、オランダが、更に福建省南部を中心とする漢民族が入り込み、それでも台湾本島の真ん中を貫く山脈の台湾海峡側のみで、その手が届く範囲は終わっていた。
    更にその後、日本植民地となり山岳部族などを山から降ろして全島統治を進め、日本語教育により部族間の言語交流も進んだ。(それはクレオールとして残っている部分はあるらしい)
    そして、日本敗戦後、中華民国がアメリカの代理人として台湾島にやってきて、あたかも自身の領地領土の如く振る舞い、台湾知識人を中心に黙らせ(実際に亡き者として黙らせ)その他を古来からの同様手口で恐怖政治で黙らせた。

    その物語の最初のインパクトとして、「従うか、亡き者とされるか」を見せしめ的に行ったのが、暴動制圧と言う名の二二八事件であり、その刑場がここであり、この付近一帯となります。

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