2023/08/28 - 2023/08/29
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ばねおさん
前に『モンパルナス界隈(7)モンパルナス墓地』の中で、日本人7名が埋葬されていることに触れて、内3名に登場していただいた。
今回はその続編となる。
紹介する人物は以下の4名。
没年順に挙げると、
1875年(明治 8年) 楢崎頼三(元長州藩士、兵部省派遣留学生)
1878年(明治11年) 入江文郎(元松江藩士、フランス学者)
1880年(明治13年) 鮫島尚信(元薩摩藩士、駐仏公使)
1882年(明治15年) 林研海 (元幕臣、陸軍軍医総監)
鮫島尚信については以前にも書いて重複するため簡潔にとどめた。
7名の内、残る一名については今までのところ確認できていない。
また、7名とはしているものの、幕末~明治期にパリで亡くなった日本人で墓所が不明な人物は少なくないので、あくまで暫定的な数字である。もしかしたら後世に伝わらぬままで、この地に眠っている人もおられるかも知れない。
日本の近代化を急務とする明治の前半期に、諸分野の基礎づくりのために使命を負って渡航し、あるいは任務の途中で異郷で没してしまったサムライたち。
その存在は、今では関係者以外の口にのぼることは少ないであろう。
志半ばで倒れ、やがては歴史の厚い地層に埋もれてしまうであろう先人たちの無念な気持ちを思い、甦らすことは叶わぬまでも墓所というところから鎮魂の光をあててみたい。
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
墓所探しにはパリ市関係当局のお世話になった。
1824年に開設したモンパルナス墓地には埋葬者の膨大な管理台帳があって、旧い記録もデータベース化されてはいるものの、もともとは手書きの台帳を読み込んでいるので、文字の判読に迷う場合もある。
140年以上も前の日本人の名前の欧文表記はどのようになっているのか、埋葬時に届け出た名前が正しく反映されているのか、いくつかの留意点を頭に置きながらたどり着いた。 -
まずは148年前に亡くなった楢崎頼三(1845-1875年、弘化2年5月15日ー明治8年2月17日)享年30歳。
墓所は第6区画の北6列目に位置している。(従来、「街区」としていたが「区画」に表現を改めたい)
名前の読みはナラザキなのかナラサキなのか、つまり欧文表記ではNARAZAKIかNARASAKIなのか、ということになるが、墓碑は NARASSAKIであった。
長州藩士であった楢崎は旧幕府側との戦いで各地に転戦し、会津攻略では中隊長として指揮をとった。
1870年(明治3年)、前年に新設された兵部省からフランスに派遣された10名の留学生の一人で兵学の研究が目的とされる。留学生の取締役に任じられていたことから、留学生たちのまとめ役であり、代表格であったことが分かる。
派遣された10名のうち、4名が同地で亡くなっているが、モンパルナスに埋葬されたことが確認できたのは楢崎のみであった。
17歳から26歳の身体強健であったであろう若者たちがこれほど多く倒れてしまうということは、4ヶ月以上もの負荷のかかる渡航や、慣れぬ異国生活の中での苦難というものが多くあったことを想像できる。
日本は明治10年代後半から、フランスからドイツ(プロシア)に大きく舵を切ったため、日本の軍制もドイツ式となって以後はフランスへの留学は無くなっている。 -
石柱の正面。
上方にやや薄れてはいるが日本國陸軍士官と刻され、楢崎頼三之墓と大書きされている。
楢崎のフランス渡航後に兵部省は陸軍省と海軍省に分かれているので、楢崎は陸軍省の所属となったことになるが、軍隊の階級名ではなく「士官」としているのは、まだ兵制が整う前であるゆえなのか任官前であるためか。 -
裏へ回ると一面に文字(漢字)が彫られているのだが、石材が剥離していたり傷みが多く下方の部分はほとんど判読できない。
明治八年二月十七日とあるのは死去日であることがかろうじて読み取れる。
専門家であればもっと解読することは可能だろうが、そうした知識のない自分には手に余る。 -
台座裏には墓地の管理番号等があり、1876と読み取れる数字から埋葬の翌年に建立したと解される。
つまり埋葬したあとで、後日になって台座を据えて石柱を建てたという順序ではないだろうか。 -
中段の墓石には、薄れてはいるが仏文で文字が刻まれている。
氏名表記はRAIZO NARASSAKI とある。
出生はNAGATO。これは長門であろう。
出生2505、死去2535とあるのは皇紀年号を採ったものと推定される。 -
楢崎頼三には、会津白虎隊の唯一の生存者である飯沼貞吉との逸話が知られている。
会津攻略に新政府軍の中隊長として指揮をとった楢崎は、会津の降伏調印に立ち会い、その後、東北列藩の捕囚者たちの護送にも携わった。
猪苗代で謹慎中の捕囚者たちの中に、白虎隊で自刃を試みたものの命をとりとめた15歳の飯沼貞吉がいた。
この貞吉少年の資質に目を留めた楢崎は勉学の機会を与えたいと、故郷長門に戻る際に貞吉を同道し、その身を庄屋の高見家に託した。
飯盛山で自決した白虎隊の生き残りとしての負い目と、宿敵長州の地に行くことの貞吉の葛藤は想像するに余りあるが、楢崎の人間力に感じたのであろう、あるいは世間の誹りから逃れたい思いもあったのであろう。
長門でも周囲の心無い言葉で再び自刃を試みるなどしたようだが、楢崎の説諭に、会津でも長州でもない「日本」のために勉学を修めるべきことを次第に悟っていった。そして電信技術を学び、やがて日本の電信電話技術の構築に多大な貢献をする人物となった。
その貞吉は、ある日一通の公電を目にして思わず落涙した。それは楢崎がパリで死没したとの電文であった、という。
この最後の話は、どこまでが史実であるのかは不明だが、楢崎の死亡日と貞吉の当時の勤務に照らせば容易に判断できる問題だろう。
ただ、この楢崎と貞吉の話は虚構である、と頑なに否定する強い会津魂の人々が一部にいるようである。
一方では、楢崎の出身地である現在の山口県美祢市には頼三と貞吉の関係を讃える「恩愛の碑」というものが建てられているという。
いずれにしても興味深い話である。 -
墓石の下段前方にガラス製の容器が数個置かれていた。
小さな容器は香炉の代わりだろうか、円筒形の容器は花を挿したものであろう。
新しくもないがそれほど遠い昔ではない日に、どなたかが墓参に来られた折のものと思われる。 -
入江文郎(1834年5月16日(天保5年4月8日) - 1878年(明治11年)1月30日)の墓所は13区画にある。
松江藩医の家に生まれ、初めは江戸で蘭学を修めていたが、その後仏学に転じた。幕末のいつ頃からフランス語を学び始めたのかは不明だが、まだ蘭学が大勢を占め、次いで英学が頭をもたげてきた時期の少数派の仏学者のひとりである。
フランス学の先駆者の一人であることには間違いないが、フランス語の実力はNo.1であったと思われる。
横浜にフランス公使館が開設されると、ここに通ってフランス語を学んで、生きたフランス語を身につけ、数える程しかいなかった当時の仏学者の中で抜きん出た実力を持っていた。
その勤勉ぶりには松江藩主から学資が提供されたほどである。
新政府の大学教官として1871年(明治4年)フランスに派遣され、予定の派遣期間後は延長滞在を願って許可されたが、その後の官制改革を機に所属していた文部省を辞め、一私人として残留した。
フランス留学にあたり、松江藩からも700両が与えられたとのことで、多くは日本に送った膨大な書籍代等に費やされたであろうが、私人として残留した生活費の原資にもなったのであろうと推察する。 -
墓には楢崎頼三の墓所と極めて似通った石柱が建てられ、正面に「博士入江文郎之墓」と刻されている。
側面には漢字で死去日と死去地が刻まれている。
「明治十一年一月三十日卒」、死亡地は「巴黎」と表されている。
社会学の創始者オーギュスト・コント(1798 - 1857年)に傾倒していた入江だが、残念ながら師オーギュスト・コントはモンパルナスではなくペール=ラシェーズ墓地に眠っている。
できることならば師と同じ墓園に埋葬されたかったであろう。 -
その台座には仏文が刻まれている。
FUMIO IRIE
DOCTEUR EN LETTRES (文学博士)
DECEDE A PARIS (パリで死去)
LE 30 JANVIER 1878 (1878年1月30日)
実は入江の姓名の呼び方、欧文表記は、イリエ ブンロウ Iriye Bounrou の可能性もあったのだが墓碑は上記のようになっていた。 -
入江は在仏弁理公使鮫島尚信から栗本貞次郎の後任として留学生総代を命じられ、以後フランス留学生たちの世話に当たったという。
入江が総代として書いたと思われる資料には、西園寺望一郎(公望)以下の留学生の一覧書きがあり、その中には「楢嵜頼三」の名もある。
後から渡仏した西園寺が筆頭にあるのは明治政府の右大臣の公家の息子であるからだろう。
楢崎頼三については、
「兵学寮生徒 楢嵜頼三 甲26歳 佛國着 明治三年十一月廿八日 学科 隊外士官 学務 当時所学 普通学 教師 サンルイ島」と記述されている。
その鮫島公使の墓は10区画にあり、台座の側面には日仏交流史を研究している一フランス人が私費で鮫島の事績を紹介するプレートを設置している。 -
1882年8月30日に没した林研海 (1844年7月30日(弘化元年6月16日) - 1882年(明治15年)8月30日)の墓所は、鮫島尚信と同じ第10区画にある。
名前の検索で少々手間取った。
墓地の登録簿には「HAYASHI ISUMA」とある。
「ISUMA」ではなく「TSUMA」と読み取れる
データベース化されているとはいえ、もともとが手書きの台帳なのでフランス人でも文字が「 I 」なのか 「T 」なのか判読できず、一応 「 I 」と判断した。
その前に日本人名を正確に反映しているのか、という問題もあるので、いくつもの「かもしれない... 」を頭に置いておく必要がある。
HAYASHI姓と没年が合致するので墓所に来てみたら、ISUMAでもTSUMAでもなく、TSUNAであることが分かった。
研海には別名として「紀 つな」があった。 -
研海の墓は柵が巡らされている。
一部は破損しているものの、145年経過してもなお原形をとどめているのは驚きだ。
楢崎頼三の墓にも支柱の跡とみられる凹みが残されているので、かっては同様の柵があったものと思われる。 -
名前の「研海」と「紀」の使い分けがどのようにされていたのかは不明だ。
幕府の御典医の家に生まれた研海は、幕末に榎本武揚等の海軍留学生とともに選抜されてオランダへ渡り、同地で医学を学んだ。
いわゆる幕末オランダ留学生団の一員である。
オランダで建造した開陽丸を受け取り、研海より一足先に帰国した榎本は土方歳三らと五稜郭に立てもこり官軍に抗戦した。
林が帰国した1868年12月時点では、もう幕府は瓦解していて明治政府となっていた。
維新後、徳川将軍家が駿府に移った際に藩立駿府病院が設立された。その後、駿府は静岡と改称し藩名も静岡となったため、病院名も藩立静岡病院となった。
研海はその初代の病院長となっている。 -
その後明治政府に出仕した研海は、ロシア帝国のアレクサンドル3世の載冠式に天皇の名代として出席する有栖川宮熾仁親王の侍医を命じられ随員として加わったが、パリで腎臓炎を発して急死した。38歳であった。
-
林研海の肖像写真 (東京大学史料編纂所の所蔵史料より、使用許諾済み)。
写真はパリで撮影されたことになっているのだが、時期不詳。
1862年(文久2年)、幕府は優れた若手の幕臣を留学生としてオランダに送り込んだ。軍艦操練所から赤松則良、内田恒二郎、榎本武揚、沢太郎左衛門、田口俊平、蕃書調所から西周と津田真道、長崎養生所から伊東方成と林研海、それに船大工職人の上田寅吉等である。
同年9月長崎から蘭船で出帆したものの、途中で難破し、オランダに到着したのは1863年(文久3年)4月であった。各人それぞれが専門とする分野で学び、1865年(慶応元年)から1868年(慶応4年)にかけて、順次帰国している。
帰国を前に記念で撮られたものなのか、1865年に撮影されたオランダ留学生9名の集合写真が残されている。もちろん全員洋装姿である。
この写真は断髪に小袖、袴、羽織そして大小の刀の侍姿であるが、洋装の上に着用しているようにも見える、
パリで撮られたものであれば、その経緯を知りたいところである。 -
林研海の墓所からは木立を通して鮫島尚信の墓所の石柱が望まれる。
林は、後の森林太郎(鴎外)、藤田嗣章(画家藤田嗣治の父)へつながっていく軍医総監の系譜の先輩という位置にいる。
妹の一人はオランダ留学仲間でもあった榎本武揚に、またもうひとりは赤松則良と結婚し、その赤松の娘は森鴎外の最初の妻となっている。
この辺りの人の交差には意外な発見があり、表向きの歴史では見えてこない人のつながりというものに気づかされる。
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