2023/01/17 - 2023/01/17
128位(同エリア747件中)
愛吉さん
成田街道歩きも佳境に入りました、今回は臼井から佐倉藩堀田家11万石の城下町佐倉迄を歩きます。
距離は約16KM 歩数21千歩になりました。
尚途中佐倉城址公園、国立歴史民俗博物館、佐倉武家屋敷等にも立寄ります。
表紙は印旛沼越しに見る筑波山
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 私鉄
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京成臼井駅に午前10時に集合、参加は9名。
出発します。 -
歩いて程なく臼井の道しるべに到着。
街道脇に新旧四つの道しるべが立っています、近くにあった道標をここ一か所に集めたものと思われます。
右から古い順、右端は半分欠けて読めません、次は柱で隠れていますが、大乗妙典六十六部日本廻国と記され、その次は正面に「さくら道」とあります、江戸時代中頃まで佐倉道と呼ばれていた名残が感じられる古い道標。
左端の大きな道標は正面に「西 江戸道」、側面に文化三年(1806)建立とあります。 -
それでは、一番大きな道標をアップで。
正面に 西 江戸道 裏側に東 成田道 と書かれています。
尚臼井は成田街道の宿場町として栄え、当時戸数は180軒あったそうです。 -
光勝寺に到着、地元臼井氏の菩提寺として建立されました。
門をはじめ建物が新しくなったようです。 -
本堂の前に開祖一遍上人像。
奥に鐘楼,「光勝晩鐘」として臼井八景に数えられる名鐘です。 -
境内から眺めた風景。
手前に印旛沼、先に筑波山が望めます。 -
佐倉藩の江原処刑場跡、街道筋にあります。
今も寂しさが漂います。 -
刑死者を弔う供養碑。
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成田まで15KM、佐倉市街迄3KM。
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道の脇に八幡神社。
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角来馬頭観音。
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印旛沼から流れ出る鹿島川に掛かる鹿島橋を渡ります。
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国立歴史民俗博物館に到着、旧佐倉城址です。
江戸時代、東からの江戸防御の為、堀田家11万石が治めた城跡。
幕末には蘭学が招聘され、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれ、房総における政治文化の中心地でした。
維新後は城址に帝国陸軍の軍隊が置かれ軍都となりますが、終戦後兵舎等軍関連施設は取り壊され、その址に出来たのがこの歴史民俗博物館です。
後で見学します。 -
一体は佐倉城址公園となっています。
軍隊駐屯時に城址は平坦化され、昔の面影を残すものは少数です。 -
城址らしい痕跡を留める数少ない場所、空堀跡。
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本丸跡、今は雑木林。
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正岡子規の歌碑
”常盤木や 冬されまさる 城の跡”
明治27年、開通した総武電車で佐倉を訪れた時の句。 -
三之丸址に立つ幕末の老中、堀田正睦の銅像。
正睦は開国論者、当時の老中首座、安政4年(1857)米国日本駐在公使ハリスと交渉して日米通商条約締結を内定、朝廷の勅許を得ようとしますが失敗、首座を井伊直弼に譲ります。
翌年直弼は大老として勅許を得ないまま条約を締結、安政の大獄が始まります。
この像は日米通商条約締結150年を記念して、平成18年に建てられました。
正睦の言葉 ”開国せねば食ってはいけぬ”
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隣に堀田の交渉相手ハリスの像。
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城址は現在発掘調査中。
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竹藪の小径、ひよどり坂(サムライの小径)を登り、武家屋敷に向います。
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ひよどり坂を登る仲間達。
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武家屋敷に到着。
佐倉藩では家老格は城内に屋敷を構えていたので、ここは中クラスの武家屋敷と思われます。 -
何軒か公開されているので覗いてみましょう。
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昔の建物が残っています。
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同じような家が続きます。
敷地は広く3百坪~5百坪は有ると思います。 -
当時の井戸を残す家。
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麻賀多神社に到着。
佐倉藩の総鎮守として藩主、藩士、住民の信仰を集めます。
社殿は1843年堀田正睦が再建したもの。 -
拝殿。
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境内に祀る三峰神社、福禄寿。
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疱瘡神社、恵比寿。
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神社の向かいに”佐倉養生所跡碑”
慶応3年全国に先駆けて西洋式病院をここに開設しました。 -
海隣寺に到着。
先代千葉氏の菩提寺。
今回はここが終点、京成佐倉駅に向かいます。 -
京成佐倉駅,帰途に着きます。
終
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