2018/07/31 - 2018/07/31
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あの街からさん
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美術館・教会を訪ねエル・グレコの祭壇画を鑑賞
そして、スペインが世界の覇権国であった頃の
目も眩むばかりの金・銀財宝と
大聖堂を始めとする中世の建物を存分に楽しんだ後
旧市街の中心となる広場のその中心に在るレストラン で
なんだかなぁと、思えた(⌒-⌒; ) 遅いランチを食べて
さぁ、残るは
パラドールからの絶景をと眺めようとタクシーを拾って
パラドールへ向かいました。
帰路、ミラドール・デル・バジェ展望台からの
トレドの旧市街地の絶景の眺望も忘れられません。
わずか7から8時間程の滞在時間でしたが
マドリード・トレドを往復した列車旅も
併せて、これぞ旅と思える充実した楽しいトレドの旅でした。
それでは、トレドの街とエル・グレコのコラボ物語を
楽しんでいただければ、(⌒▽⌒) うれしいです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
美術館・教会そして旧市街地のお土産屋も回りも終えて
なんだかなぁと、思えたお店で遅いランチを食べて -
さぁ、残るは
パラドールからの絶景をとタクシーを拾って -
パラドールに向かいました。
雲ひとつない快晴で
テラスからの景色はどんなだろう。と
ワクワクしました。
設立 1968年 20室で開業。
以後、増築を繰り返し現在に至る。 -
昔、【RONDA】のパラドールに行った時に
買い求めた
『スペインパラドール紀行』を久しぶりに本棚から引っ張り出してみたら
発行元が日本交通公社(⌒-⌒; )ってありました。
カッコしてJTBとあって 少し安心しました。(⌒▽⌒) -
パラドールの愛称は【Parador Conde de Orgaz】は
サント・トメ教会の寄進者
ドン・ゴンザロ・ルイスの埋葬の伝説に基づき
1586年にエルグレコが教会内部に描いた
〈オルガス伯爵の埋葬〉にちなんだもの。
〈皇帝の丘〉に立つパラドールは薄茶色の瓦葺
外壁は日干し煉瓦の二階建てに造られている。 -
ロビーは太い梁が組み合わされた
カスティージャ風で、天井は2階までの吹き抜け
で、やや低い。 -
こんな風に「JTB出版」の本では
紹介されていた。
まぁ みた通りだな。と
その先に紹介文を待ちかねるようにパラドール デ トレド ホテル
-
トレドの街全体が眺められる
バルコニーには外来者の姿が多い。
と紹介してあるテラスに
早速、行ってみた。 -
レストランからは古い家並みが眺められ
あたかも一切の営みが止まったかの様な
静けさだ。 -
まだ、先程食べた〈うどん〉のような
スパゲッティが残っていて
スイーツは2人でひとつ(⌒▽⌒)
しかし、付け合わせの
オリーブの実の方美味かった。
と思い出されます。 -
この絶景を目の前にして
相方さんも、とうとうビール(⌒▽⌒)
会計は、しめて13,30EUR プラスTax
でした。
当時のレートは1Euroが130円程ですから
1730円程。 -
宿泊客の70%は、外国で
その内日本人は10%。
スペインを訪れる外国高官がヘリコプターで
飛来し、パラドールの丘から対岸のパノラマに
見入る状況が、テレビで時折り報道される。
中曽根元首相もその一人だった。
と
日本交通公社のガイドブックに掲載されていました。 -
いったい ここから
幾人の人が
この感動を共有したのだろう。 -
噂どおり
噂に違わず
絶景かな 絶景でした。
2時近く過ごした後
パラドールにさよならをしました。 -
パラドールの正面玄関広場には
ついさっきまで、宿泊客を乗せた
タクシーが次々やって来ていたのですが
はて、一台のタクシーも停まっていません(;゜0゜) -
少しだけ待ってみたのですが
タクシーはやって来ません。(⌒-⌒; )
それじゃ、絶景を眺めながら
ゆっくりと歩いて下ろう。
そのうちタクシーがやって来るさ
と二人で歩き出しました。 -
イチオシ
この絶景を見渡す丘の上から
降りながら、いつしか
トレドの街とエルグレコについて思い浮かべていました。 -
エルグレコがトレドに移り住み活躍をしていた頃
トレドに暮らしている人々の5%は、聖職者であり
2,000人は修道司祭で、700人は在俗司祭でした。 -
イチオシ
※在俗司祭はその功績によって上位の長司祭(archpriest) や
首司祭 (protopresbyter) に昇叙される。
在俗司祭には妻帯が許されるが、結婚を望む者は
輔祭に叙聖される前に婚姻をしなければならない。
そして再婚することはできない。
また再婚者が司祭になることも禁止される。
正教会においては、在俗司祭のほとんどが妻帯している。
※輔祭(ほさい)は正教会における神品(聖職者)の
職分のひとつ。
主教・司祭の許(もと)で、主教・司祭を奉神礼(祭礼)
において補佐する。男性の正教徒が主教による神品機密に
よって叙聖(新たに神品に任ずること)されることにより
輔祭職に就く。
※は、Wiki 参照。 -
範囲を広げて管轄区域をみると、管区の六つの町と
およそ300の村からできており、60万人程の住民
がいて、そのうちの5000人程が聖職者でした。
大きな組織で、力を持った大司教区であったことが
うかがえます。
ですから、スペインの首座に位置するトレド大司教は
ローマとスペインの教会とを公的に結んでいる
スポークスマンの役割りをも、していました。 -
その結果、一定時期トレドはスペインで最も人口の多い
最も金持ちの町のひとつなのでした。
また、織物業、絹や羊毛、ローマと対戦した
ハンニバル将軍がトレド産の剣を使用していることで
人気となったといわれている剣を始めとする武具、
ダマスキナードと呼ばれる金・銀の細工等など産業も
盛んでした。 -
そのような環境の時代背景にあったトレドにギリシア出身の
画家エルグレコが移り住んできたのは、スペインの首都が
マドリードに移って15年程経った頃でした。
※エルグレコは、36歳から73歳(1577~1614年頃)
トレドで暮らしていました。 -
イチオシ
幾らトレドが賑わっていたとしても、人々はだんだんと
首都マドリードに集まってゆくのは自然の成り行きでした。
トレドに館を構えていた貴族たちもやがて、マドリードへ
マドリードへと移り住むようになっていきました。
そして、空き邸宅がトレドに増えていったのでした。
中には、邸宅を手放す貴族もいましたが、邸宅の管理を
人に任せることにした貴族も多かったのです。
そのような貴族たちは、誰に邸宅の管理を任せたのでしよう。
それは、教会や修道院でした。 -
イチオシ
教会や修道院は、新たに邸宅の管理者になったことで、
信仰に関した絵を飾ろうとしました。
一方、マドリードに首都が移動した後も、トレドを活躍
の場とした貴族たちは、「政治の中心がマドリードなら、
トレドは、信仰の中心である。そうねばならない。」と
強く考えました。
そのために、立派な祭壇やそれを飾る絵を必要としました。
まさに、エルグレコの活躍の場とするに適した街なのでした。 -
イチオシ
エルグレコがローマからスペインへ移り住んだ訳は、単に
トレドの修道院から仕事のオファーがあったことばかり
ではありませんでした。
「スペインでは、エル・エスコリアルという巨大な修道院を
建設中らしい。大きな聖堂に掲げる絵は、私の絵が似合う。」
と意欲を満々。
ヴェネツィアでもローマでも今ひとつ上手くいかなかった
エルグレコは、今度こそは!と勇んで海を渡ったのでした。トレドの展望台 観光名所
-
1494年フランス王が突如南下政策を取りナポリに
侵攻してきたことから対フランスとスペインの両国間
には、くすぶっては時に激しくという長い戦いが始まりました。
時は流れて1557年、スペイン国王フェリペ2世と
フランス国王アンリ2世の戦いにスペイン軍が勝利。
ミラノ・ナポリ・シチリアがスペイン領となり
3代に渡る長い戦いにひとまず決着がついたのでした。 -
この戦いに勝利した8月10日は〈聖ラウレンティウスの日〉
でした。聖ラウレンティウスは、258年、当時まだローマ帝国
においてキリスト教信仰が禁じられていたが、教皇シクストゥス
2世のもとで助祭となって活躍。逮捕され殉教した教皇の遺言
どおり教会の財産を貧しい人々に寄付し自らも逮捕され
「貧しい人たちこそ永遠の宝ものです。」の述べ殉教した聖人
ですが、フェリペ2世は、「巨大な修道院を造り、聖ラウレンティウスを祀ろう」と考えたのでした。 -
首都マドリードから50km程離れたエル・エスコリアルの地
に建設された修道院は、ハプスブルク家の偉大さを示すかの
ように、世界各地から集められた数多くの貴重な書物や絵画
が収められ宮殿であり仕事場ともなり、霊廟・図書館の他
美術館も兼ね備え文字通り巨大な修道院でした。
そして、1563年から21年の歳月をかけ完成しました。トレドの展望台 観光名所
-
エルグレコがスペインに渡る頃、この修道院の建設が半ばを
過ぎ聖堂の建設が始まっていました。聖堂には、祭壇画が
必要になります。
エルグレコは、「自分にスペイン国王から依頼があるに
違いない。やがて、スペイン宮廷の画家となる日もやって
くる。」と自信満々でした。 -
1579年、修道院は完成に近づいていました。その頃
エルグレコは、トレドで大聖堂の聖具室やサント・ドミンゴ
・エル・アンティグオ修道院の礼拝堂祭壇画を描いていて
トレドで注目される画家となっていました。
そんな折、フェリペ2世が〈聖体の祝日〉を過ごす為に
トレドを訪れることになりました。
その際、フェリペ2世は完成した大聖堂などのエルグレコの
絵画は、幸運にも完成した状態になっていました。 -
その頃、建設間近な修道院では、当時の宮廷画家のトップ
ともいえるエル・ムードが亡くなり予定の枚数には30枚程
未完成となっていました。
フェリペ2世は、期待を抱いてエルグレコにエル・エスコリアル
修道院の礼拝堂ひとつに、先の〈聖ラウレンティウス〉の絵では
なく、「聖マウリティウスの殉教」の絵画をオファーしました。 -
オファーを快諾したエルグレコは、フェリペ2世肝入りで
絵の具の特殊な色も費用もたっぷりという申し分のない
制作環境を整えてもらいました。そして、2年を費やして
マニエリスムで描いた自信作に仕上がり、宮廷からは
絵の代金が支払われました。
しかし、出来上がった絵を見たフェリペ2世は「上手く
描けているが、祈る気にはならない!」という一言で、
礼拝堂に置かれないことになりました。 -
それは
エル・エスコリアル修道院とういうハプスブルク家の
霊廟を置こうという場所のひとつの礼拝堂で、置かれる
絵は、単純明快に、地上での苦しみと天上での栄光という
構図を求めていたフェリペ2世の意向に反してエルグレコが
最も重要と考え絵の中心に据えたのが殉教の場面ではなく、
会話の場面ということが難解で理解のはんちゅうを超えて
いました。
こうして宮廷画家への道も絶たれてしまったエルグレコ。 -
首都がマドリードに移りトレドの街は少しずつ衰退し始め
貴族たちが残した宮殿の様な邸宅も、やがて貸家になった
り宿屋となったりしましたが、それでもトレドの大学には
1000人程の学生も住んでいたといいます。
その頃、ルターたちの唱えたプロテスタントの宗教改革に
対して、危機感を覚えたカトリック教徒側も宗教改革を始め
これが〈反宗教改革〉と呼ばれ、トレド大聖堂の大司教
ガスパル・デ・キローガは、就任早々に教区会議を招集。
公会議の会則を順守させました。 -
このことで、自宅に宗教画を飾ろうとする人が増え
エルグレコに絵を注文する知識人たちが増えてゆきました。
エルグレコ自身も〈大きな祭壇画〉以外にもこういった
絵画を描くことに気持ちが向いてゆきました。
こうして、エルグレコは〈反宗教改革〉を描く画家として
注文が増えていきました。 -
彼の描く絵は、体制側の求めにも、知識階級の求めにも
合致していたのでした。
こうして、エルグレコは、このトレドの地で次々と
傑作を描き続け、やがて、ゴヤ・ベラスケスと共に
スペイン3代画家の1人に数えられる画家となりました。 -
大急ぎで、トレドの街とエルグレコの物語をエルグレコが
トレドの街で暮らしていた時分を並べてみました。 -
以上のトレドとエル・グレコの物語は、
旅行記『トレドのきらめき サンタクルス美術館・大聖堂
サント・トメ教会』編にこの時期に描いたエルグレコ
絵画の解説を併せてご覧いただくと
https://4travel.jp/travelogue/11801960
エル・グレコの作品の数々が描かれた背景を
より掘り下げて楽しむことができると思います。 -
それにしても、待ちわびたタクシーは
ついに来ずじまい(;゜0゜)
もはや、正午過ぎの今を盛りの太陽こそ
徐々に翳りがありましたが
「暑い 暑いなぁ」といいながらも
結局は丘を降りきり
麓のバス停からバスに乗って
トレドの駅まで戻ることになりました。 -
今思い返してみると、暑いかったことと
トレドの思い出として強烈に残ったのが
パラドールから絶景を眺めながら歩いて
降った道々の体験です。
暑いとはいえ、天気に恵まれたことは
幸いでした。
まぁ雨降りならば嫌でもタクシーを
パラドールで呼んでもらったのでしようね。(⌒-⌒; )
自分としては、歩くのも悪くなかった。と
今では自信を持ってそう答えられます。(⌒▽⌒) -
それにしても、夏の日暮れは
ゆっくり。
この時ですでに21:00は回っていました。トレド駅 駅
-
さぁ マドリードへ戻ります。
-
発車まであと15分
日本のようにベルとかは鳴りませんから
時間がくるとホームから滑るように
走り出します。
安心したのか列車に乗り込んだら
空腹に気がつきました。(⌒-⌒; )
パラドールから歩き始めてから
水以外口にしていないことに
初めて気がつきました。 -
30分で、大都会の喧騒の中へ
-
マドリードにやって来たその晩に
食事をした店が美味かったので
この旅、最後のディナーもその店ですることにしましたー。
マヨール通りにある
『ムセオ・デル・ハモン』
スペイン語でハムの博物館という名のレストランです。 -
行く種類もの生ハムやチーズが
一階のショーケースに飾られています。 -
2階がレストラン になっていて
ランチの
始まる少し前から午前零時近くまで
お客さんがひっきりなしにやって来る
超人気店です。 -
お腹が空き過ぎて(⌒-⌒; )
早速、生ハムメロンオーダー。
生ハムの量が、半端ではなくを
白ワイン飲みつつ
交互に食べました。(⌒-⌒; ) -
スペインオムレツ、サラダ、ポテトフライ
どの皿も量がはんぱではなく
初めてアメリカでドライブして
町はずれの小さなダイナーで
ランチをした時を思い出しました。 -
昨夜、Hotelに戻ったのは
このところの私たちの旅には珍しく
午前さま。(;゜0゜)
幸いHotelは治安の良いところで助かりました。(⌒▽⌒)
僅か数時間の眠りから
モーニングコールで起こしてもらい -
マドリード空港へ。
旅行鞄は、イビサ島のホテルで
パッキングしたまま
香港乗り継ぎもスルーで
成田まで乗せていってもらいました。 -
とうとう今回の旅も終わりかぁ。
と
少しだけセンチになったけれど
直ぐに爆睡。 -
気がつけば香港上空まで来ていました。
香港で一時間半程のトランジット
再び香港を飛び立つ窓からの景色を眺め
もう直ぐで日本と安堵感と
今回も旅の終わりの一抹の寂しさを感じながら。
今年こそあの大地へ行けるかな。
どうだろう。
ありがとうございました。
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