2022/11/27 - 2022/11/27
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ドクターキムルさん
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旧跡 懐嶋山の碑(えな塚)は茅ヶ崎JTC橋下にある。同じ西久保にあるここから300mほど離れた宝生寺が祀っている。
「旧跡 懐嶋山」の碑は、「えな塚」とも呼ばれ、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣(えな))が納められたと伝えられている。
頼朝の子を身籠った丹後局は、実台所(晩年は北条政子)に知られてしまったことから、懐嶋郷の領主・大庭景能(景義)の館(懐嶋館)に匿われ、その後、西久保の桜屋敷に移って男子を出産した。
三郎と名付けられ、文治元年(1185年)、7歳のときに頼朝と対面し「忠久」と名乗った。
この忠久が、のちに薩摩国を本拠地とした島津氏の祖なのだという。
この忠久の頼朝ご落胤説は江戸時代になると島津家が吹聴し、安永8年(1779年)には島津重豪が勝長壽院から供養塔を運び、頼朝墓を整備し、その御礼にと11代将軍・徳川家斉に娘を嫁がせ、その後は島津斉彬が分家の娘・篤姫を13代将軍徳川家定に嫁がせ、まんまと頼朝公墓前祭の祭祀権を手に入れた。それは武家の棟梁である源頼朝の祭祀を執り行うのが徳川将軍家から島津家家主に変更され、その後、明治になると徳川幕府に代わって大江広元の四男の血筋の毛利家の萩藩と島津忠久を家祖とする島津家の薩摩藩の出身者が主となって明治政府が成立している。
この場所からは富士山が見える。
(表紙写真は旧跡 懐嶋山の碑(えな塚))
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