2022/11/02 - 2022/11/02
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たびたびさん
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今回の旅の目的は唐津くんちと佐賀バルーンフェスティバル。唐津くんちに行ったのは調べるともう15年以上前だし、佐賀バルーンフェスティバルも列車の窓から見たくらい。二つ合わせて、これもまたリベンジの旅に近いのかな。
さて、両方のイベントともお天気じゃないと見栄えが悪いので、三泊四日にして、そのうちちゃんと天気がいい日を二つに充てるという目論見でしたが、幸いなことに四日とも晴れとなったので、これもお天気じゃないとどうにもならない糸島半島と能古島を組み合わせることに。当初の目論見とはちょっと違いますけど、いやいや、これはますますもって理想形じゃないですか。
一日目の本日は糸島半島の周遊。筑前前原駅を出てすぐの糸島市観光協会でレンタサイクルをして回ります。最近、糸島半島はインスタ映えするスポットとして評判。二見ヶ浦の夫婦岩や芥屋の大門が人気なんですが、一方で伊都国の遺跡等多くの遺跡があってそれも捨てがたい。直前までどっちにしようかかなり迷いましたが、ここしばらくの旅の流れからするとやっぱり遺跡の方になるのかな~
ところで、糸島にあったとされる伊都国ですが、その理解の前提として、まずは日本史における最大の謎といわれる「空白の4世紀」のこと。弥生時代から古墳時代の日本については中国の文献を頼るしかないのですが、それは、下記の通り、1世紀の「後漢書東夷伝」、3世紀末の「魏志倭人伝」、5世紀の「宋書」が柱。ただ、もう一つ、414年に建てられた広開土王碑によれば倭国は百済・新羅と交流を持ちつつ高句麗と激しく戦ったとしていて、どうやらヤマト政権は4世紀には成立していることが分かっているのですが、その時期はつまり「魏志倭人伝」と「宋書」の間の時代。文献が全くないことから「空白の4世紀」と呼ばれ、長く論争を生んできたわけです。
その論争の中心はご存じのとおり邪馬台国。糸島の伊都国や唐津の末盧国、春日市の奴国ほか多くのクニを率いる存在だったのですね。伊都国は王のいる有力なクニだったのですが、邪馬台国からの官(一大率)が常駐し、やはり邪馬台国に従う立場だったに過ぎません。ということで、多くのクニの中でも邪馬台国は別格だったのですが、それがヤマト政権につながる存在なのかそうではないのかは今もって不明。ちなみに、いわゆる九州説と畿内説でいうと、もし九州にあったとすればその勢力範囲は九州の北部程度であり、畿内であればその勢力範囲はヤマト政権につながっていてもおかしくないくらいの広域となってきますから、九州か畿内では大違い。論争が熱を帯びるのは当然といえば当然かもしれませんね。今のところ、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳や邪馬台国ではないかとされる纒向遺跡の存在で、畿内説は大いに盛り上がっているようですが、ただ、それでもヤマト政権を弥生時代のクニが進化したものとする見方の範囲内であって九州説と同じです。これに対し、4世紀は中国でも五胡十六国時代という混乱の時代。その混乱の中、中原の有力な部族が日本列島に逃れてきたことが古墳時代を開く契機になったのではないかという説があるよう。ゲノム解析の進歩による新たな説なのですが、縄文時代から弥生時代の流れも大陸からの弥生人の流入によるものですから、弥生時代から古墳時代の流れもこれと似たようなことが起きている可能性はないとは言えない。とても興味深い説だと思います。
<倭・倭人関連の中国文献>
〇後漢書東夷伝:建武中元2年(57年)、倭奴国からの朝賀使を受け、後漢の光武帝が金印を授けたという記述です。
〇魏志倭人伝:「三国志」中の「魏書」に書かれた部分。「三国志」は西晋の陳寿により書かれ、280年(呉の滅亡)~ 297年(陳寿の没年)の間に書かれた正史です。
朝鮮半島の南部から倭国が始まる。使者と通訳を接触させているのは三十国。対馬、壱岐、末廬国、伊都国の存在と邪馬台国との関係や行程、2世紀後半に起きた倭国大乱を収めた卑弥呼が景初3年(239年)魏に使節を派遣、翌年、魏の使節が邪馬台国を訪れた等々の記述です。
〇宋書倭国伝:「宋書」は中国南北朝時代の南朝の国、宋(420年~479年)の正史。5世紀初頭から末で、倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武が遣使入貢し官職を得たという記述があり、ほか、中国の北朝、北魏と接近する高句麗、南朝、宋に接近して高句麗に対抗する倭国、百済の関係もダイナミックなところ。なお、武王は21代、雄略天皇ではないかとされています。
ちょっと先走りすぎたかもしれませんが、もう一度糸島半島のことに話を戻すと。今回のルートの見どころは、三雲・井原遺跡、曽根遺跡群と伊都国歴史博物館。
三雲・井原遺跡は、伊都国の中心地であったと推定される集落跡で、中でも多数の銅鏡が発見された三雲南小路遺跡は二つの王墓が発見された場所。これに対して、曽根遺跡群の方は、ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳の3基の古墳と平原遺跡で構成される遺跡で、わが国最大、直径46.5㎝大型内行花文鏡が発見された平原遺跡は三雲南小路遺跡の後の時代の女王墓です。銅鏡はいずれも漢鏡であり、内行花文鏡は後漢の初期のもの。銅鏡の存在は前漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島に楽浪郡など三郡を置いた以降の交流があったことを示しているし、そもそも、銅鏡は中国では王侯の所持するものであることから三つの墓がいずれもが王墓とされる所以となっています。
そして、伊都国歴史博物館は、これらの遺跡からの出土品の展示と解説を行う施設。伊都国が糸島にあったと推定される根拠となった三雲南小路遺跡、平原遺跡の大量の銅鏡は圧巻ですが、ただ、それだけではなく、中国貨幣まで含まれる青銅器や鉄器も前漢との交流が濃厚にあったことが窺われるもの。また、多様な土器類からは朝鮮半島、国内では中国地方、畿内、東海地方とのつながりも指摘されるほか、クニとしての活発な経済活動が想像される水銀朱、ヒスイや玉、船に関係する木製品などの出土品もジャンルが幅広くて豊富。時代は少し後になると思いますが、甕棺に刻まれた文字や硯の発見も早い時期から文字を理解する人がいたという証拠ですから、かなり重要ですね。弥生時代というと竪穴式住居に暮らして稲作をするという素朴なイメージがありますが、文化的な水準はこんなに高かったんだなと改めて実感できる内容です。吉野ケ里遺跡の施設や同じ王墓の遺跡を有する春日市奴国の丘歴史資料館、桜馬場遺跡の末盧館と比べても比較にならない構えと内容だと思います。しかし、一方で、伊都国のことがこれだけ分かっているのに、何か一抹の寂しさがなくもない。地元の研究者が大型内行花文鏡を天皇の三種の神器の一つ、八咫鏡と同じものだとか、埋葬された女王を神武天皇の母、玉依姫と唱えたりしていたようですが、その気持ちは分からないでもないですね。ただ、冷静に考えるとやっぱりちょっと無理があって、何か特別の存在としたくなる気持ちが強すぎたかもしれません。王のいるクニは限られていたにしてもそれでも当時倭国にクニは30以上あったわけで、こんなに高い文化のあった伊都国でも大きく見れば一例の範囲内。それ以上のものではないような気もします。
それと、私的には新町遺跡展示館がよかったかな。縄文時代と弥生時代のちょうど境目の遺跡。考古学ではむしろこっちの方がホットなくらいですからね。翌日は、これも縄文時代と弥生時代のちょうど境目、唐津の菜畑遺跡に行く予定なので、いい前哨戦になったと思います。
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朝一で、博多駅から向かうのは筑前前原駅。
地下鉄空港線から筑肥線にそのまま乗り入れるので、行き方はとても単純です。 -
糸島市観光協会は、筑前前原駅を出てすぐの駅前ロータリーに面したところ。レンタサイクルで糸島観光をしようとして調べたら、ここのレンタサイクルがヒットしたんですよね。スタッフも何人かいるし自転車も多数。なにかと充実していて、まさにここは糸島観光の拠点ですね。ここしかないくらい頼りになる施設です。
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イチオシ
出発してまずは近場から。
丸田池公園は、糸島市役所の裏手。市役所の敷地内に整備された公園なのかなと思うくらいの場所ですが、もともとあった農業用のため池の丸太池を公園としてリニューアルしたものだとか。市街の中なのに水を満々とたたえて潤いを感じる眺めが新鮮です。 -
筑前前原駅のそばを走る国道202号線から北側に入った旧道沿いは、唐津街道 前原宿。少し蛇行した道の感じがかつての唐津街道の面影かな。建物はあんまり変わった感じではないのですが、博多人形の工房があったりしてやっぱりそれなりに少し歴史もあるような。
ちなみに、前原宿は福岡藩領の最西端に位置する宿場。関番所も置かれていたということです。 -
国道202号線に戻ってそのまま西に進みます。前原中央公園は、国道沿いに入口があって中に入ると、上町向原遺跡とその説明板。
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古墳や遺跡が多い地域だけになんかこれも自然に馴染んでいるような。園内には伊都郷土美術館もあるので、そちらにも寄ってみます。
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伊都郷土美術館は、これ。美術館といっても重たい内容ではなくて、この日も地元の子供たちが描いた絵の展覧会が開かれていたりして、地域のコミュニティ施設といった感じ。和やかでアットホームな雰囲気を感じました。
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絵画教室を主催する館秀夫とその生徒さんの作品展。
館秀夫の作品は別途。これは伊都国歴史博物館にあったものです。 -
JA糸島 伊都菜彩は、地元のJAが運営する産直施設。
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ただ、その他の惣菜とかお弁当類などの食料品も充実しているので、食品スーパー的な役割もあって、かなりの活気を感じます。
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この後、古墳回りをした後にもう一度来てお弁当を買いました。ただ、ベンチとかが少ししかなくて、お弁当を買っても食べるところはかなり限られる。順番を待って座らせてもらうくらいの感じです。
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さて、遺跡巡りの始まりは、遺跡公園である平原歴史公園から。
その一角にはこんな古民家もありまして。旧藤瀬家住宅。江戸時代の建物で、藤瀬家というのは糸島にあった中津藩領で庄屋を務めていた家だとか。 -
内部の豪壮さとかも含めてちょっと勿体のある構えですが、遺跡公園の中だけにちょっととってつけたような感は否めなくもない。おまけに全体が傾きかけていてそれも気になりました。
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改めてですが、平原歴史公園は、冒頭に述べた弥生時代後期から晩期の古墳、平原遺跡の周辺を整備した公園。
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広い園内には
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コスモス畑があって、
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イチオシ
芝生の広場も美しい長閑な公園です。
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で、これが復元された平原1号墳(2世紀末前後)。ここから40面分もの銅鏡の破片が発見され、それが王墓とされる所以なのですが、その中に日本最大、直径46.5cmの大型内行花文鏡が含まれていたというのが特筆すべきこと。多くのクニの一つではなくて特別な存在と考えたくなる気持ちは分からないでもないですね。
近隣には三雲南小路遺跡という王墓もあって、それらと合わせてこの一帯に伊都国があったという根拠となっているのですが、一方で、巨大古墳のようなインパクトはないですから、これがそこまで重要な遺跡とは気が付かない人も多いのではないかと思います。 -
少し移動して、今度は古墳群。
ワレ塚古墳は、王墓である平原遺跡をはじめとする曽根遺跡群を構成する国の史跡、古墳。畑の中にもっこりとありまして、古墳時代中期に造られた帆立貝形前方後円墳で、墳丘部が全長42m。円筒形や朝顔形埴輪や馬形の形象埴輪が出土し、埴輪を用いた祭祀の様子が分かるのが貴重なのだそうです。 -
銭瓶塚古墳も曽根遺跡群を構成する国の史跡、古墳。
ワレ塚古墳と同じく帆立貝形前方後円墳ですが、全長60m、幅50mと一回り以上こちらの方が大きいです。形は少し崩れていますが、やはりそれなりの見応えはあると思います。 -
最後の狐塚古墳も曽根遺跡群を構成する国の史跡、古墳。墳丘径33m、高さ4mの大型円墳。今の外観ではあまりはっきりしませんが、三段に土を築き固め、格段の斜面に葺石を施しているのだとか。横穴式石室からは2本の鉄矛が出土しています。
ところで、同じ曽根遺跡群といっても、平原1号墳は弥生時代の後期で、後の三つは古墳時代。違う時代であっても、同じエリアにあるのでまとめて曽根遺跡群なんでしょうが、本当は弥生時代にあった伊都国がその後、古墳時代になっても存在していたのかどうかはかなり気になるところなんですけどね。ただ、前方後円墳が含まれることからすると、邪馬台国の支配下にあった伊都国ですが、少なくともこの地域は改めてヤマト政権の影響下に入っていることにはなりますね。 -
今度は三雲地区へ。
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こちらの目玉は、三雲南小路遺跡。銅鏡31面以上が発見されるなどしたことから、王墓と推定されています。時期的には同じく王墓と推定されている平原1号墳より前のようですが、平原1号墳と合わせて、この辺りに伊都国があったとされる根拠となっているもの。
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芝生の平地に説明板が建っているだけの姿なので、ここも価値が分かりにくいと思います。
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イチオシ
近くには大型の前方後円墳が二基ありまして。
築山古墳は、もともとは全長60mあったと推定される帆立貝式の前方後円墳。斜面には葺石が施されています。 -
すぐそばの端山古墳は、さらに大きくて推定全長80mです。古墳時代前期で、築山古墳より先に造られたということですが、いずれにしてもヤマト政権の影響下にあったことは明らかですね。
ただ、弥生時代の遺跡と古墳時代の遺跡がこんなに隣り合わせであっても、この古墳を造った古墳時代の豪族と弥生時代の伊都国の王との関係は手がかりらしいものすらないようです。弥生時代から古墳時代、ヤマト政権の誕生までの軌跡をどう考えるのかはまだまだハードルが高そうです。 -
ここから、いよいよ伊都国歴史博物館ですが、その前に隣にあるファームパーク伊都国へも。
子供が遊ぶにはちょうどいいような芝生の広場と -
傍らには道の駅のような産直の施設も。伊都国歴史博物館の陰に隠れていてあんまり目立ってはいませんが、伊都国歴史博物館に行ったらちょっと寄ってみてもいいでしょう。
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イチオシ
これが伊都国歴史博物館。想像していたよりずっと立派な施設ですね。
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玄関のところには「国際交流都市・伊都国」のパネル。
朝鮮半島には、漢の設置した楽浪郡、帯方郡。紀元前108年、前漢の武帝が設置したのが楽浪郡。後漢の公孫氏が設置したのが帯方郡。帯方郡は魏志倭人伝の魏に引き継がれ、当時、倭国の朝貢は帯方郡から行われていました。 -
王墓誕生前夜
弥生時代に入って貧富の差が生まれ、有力者が現れます。 -
磨製石剣、碧玉製管玉。
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細形銅戈、細形銅剣。
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彩画鏡。
いずれも権力者の証です。 -
伊都国の出土品はけっこう膨大。
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そして、地域間交流も広範囲です。
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朝鮮半島からは無紋土器、楽浪土器。
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国内だと東海、畿内、中国地方の土器も見られます。
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精緻な加工の木製品、
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準構造船の部品も縄文時代からすると長足の技術の進歩が見られます。
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で、ここからは平原遺跡の出土品。
当館のメイン展示ですね。 -
弥生時代中期前半の弥生土器。
弥生土器でも国宝って何が違うのかな。 -
カンナ、ノミ、矢じりはすべて鉄製。農耕文化は鉄の文化と一体なのですが、それを如実に示すもの。これに価値があるのはよく分かります。
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そして、銅鏡のシリーズですね。
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方格規矩鏡。
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これは数が多くて
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40面出土しています。
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割られていたものですが、原型はよくとどめていて、
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これも漢で作られた漢鏡です。
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イチオシ
平原遺跡では漢鏡もこのような形で出土しました。
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そして、これが大鏡。
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わが国最大、直径46.5㎝大型内行花文鏡なんですが、
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イチオシ
4面あるようですね。
地元の考古学者、原田大六氏はこれが天皇の三種の神器の一つである伊勢神宮の御神体八咫鏡と同型の鏡であると主張していたのですが、どうなんでしょうか。埋葬者の女王を神武天皇の母であるとも主張していた人ですから、かなり無理はあるようにも思いますけどね。 -
こちらは鉄矛、鉄太刀。
古墳時代の中期のものですけど、鉄の武器は軍事力の切り札だったでしょう。だんだん、国内でも鉄の生産ができてきたころかなと思います。 -
引き続き、朝鮮半島からもたらされたもの。
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弥生時代の大規模集落。
今回、大規模集落の遺跡は見ませんでしたが、このパネル説明によれば当地の集落は吉野ケ里の2倍くらい。かなりの大型集落だったということが分かります。
だいたいこんな感じです。 -
もう少し周辺散策で、これは怡土城跡。
奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて造られた中国式山城です。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い直後に築城された山城とは違うし、吉備真備の手によることも面白いですね。今は土塁のような小山には木々が立って、独特の雰囲気です。 -
この奥にそびえるのが高祖山。福岡市と糸島市の境に位置する高さ416mの山です。西の麓に高祖神社があって、古代の怡土城や中世の高祖城もあったとされる歴史もある場所。怡土城跡の脇に高祖神社への上り口があって、こんな石碑も建っていました。
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もう一つは志登支石墓群。弥生時代の前期から中期と推定される遺跡で、支石墓というのは、朝鮮半島で全盛期を迎え、日本では縄文時代の晩期から見られ、弥生時代の前期辺りから消滅するという様式ですから、朝鮮半島とのつながりが濃かったことを示すものということですね。
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ただ、遺跡の痕跡としては、一角に平たい石がいくつか見られてそれくらいです。
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イチオシ
では、平原遺跡の辺りから離れて、もう少し海側。今度は糸島半島の中央部です。
これは、九州大学 伊都キャンパス。大学のキャンパスなんて観光スポットなのかなあと思っていましたが、辺りを見下ろす高台に建つ一連の建物は巨大で美しくて、これは一見の価値あり。 -
進入路をしばらく上がって行く必要はありますが、こんなところで学生生活を送るってどういう気分なんでしょうね。別天地といった雰囲気です。
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けっこう高台にあるんですが、分かりますか。
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伊都キャンパスからは西に向かいます。
六所神社の大樟は、樹齢千年を越えるクスノキの大木。六所神社の境内には本殿の前と後ろに2本あって、そのこんもりとした枝葉だけで神社は森の中にあるような感じになっています。 -
イチオシ
本殿の前の方のクスノキは下から見上げた時の枝ぶりもまた美しいですよ~
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こっちは本殿後ろ側の楠です。
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続いては志摩中央公園。
ところで、糸島は、それまでの怡土郡(いとぐん)と志摩郡(しまぐん)を合併してできた名前なんですが、その際、別の字をあてて糸島となったもの。志摩中央公園の志摩は旧郡名を冠したものです。園内には志摩歴史資料館があるので、そちらにも寄ってみます。 -
資料館は、旧志摩町から出土した考古資料を対象とする施設。糸島市としては伊都国歴史博物館が市を代表する施設なんでしょうが、こちらはもう少しローカルな感じですね。
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中に入って、右手が展示室。
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伊都国歴史博物館が伊都国に特化している分、
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こちらの方が全体のバランスはいいような。
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係の人と話をしていて、志摩郡を代表する遺跡ということで新町遺跡展示館の紹介を受けました。縄文時代と弥生時代の境目辺りの遺跡だそう。今の考古学ではホットな分野じゃないですか。いい情報をもらって、これは行かないといけないですね~
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さらに西へと進みますよ~
小富士梅林は、道路沿いに標識もあって糸島半島ではそれなりの観光スポットだと思いますが、下の神社の辺りから歩いて上ると何というか普通のなんでもない裏山みたいなところ。 -
そこにちょっとした梅林がありますが、そんなにきれいに整備されているわけでもなくてざっとした感じ。海を見下ろすロケーションなので花の時期にはそれなりに格好がつくのかもしれませんが、そこまで期待はしない方がいいと思います。
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さてさて、これが紹介を受けた新町遺跡展示館です。予想よりちょっと遠かったですね。
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扉を開けて中に入ると、これはすごい。
遺跡は稲作をはじめとする朝鮮半島からの文化を受け入れた時期。弥生時代の早期から前期のものということですが、発掘された人骨の特徴は縄文人に近いもののよう。 -
イチオシ
一方の墓の形式、支石墓は朝鮮半島の影響を受けたもので、渡来人の墓と見なせなくもない。あくまで弥生時代の遺跡としていて、遺跡の現場をそのまま保存したような建物の中のパネル解説にはそれ以上の言及はありませんでしたが、想像するといろんな可能性が浮かんでくるように思います。
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可能性としては、
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①新町遺跡の集団は縄文人であり、この遺跡は日本で最初に稲作を学んだのは縄文人だという証拠になるのではないか。
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②一方で、縄文人と同じ特徴を持つ集団はかつて朝鮮半島にもいたことがわかっていて、その縄文人の集団は朝鮮半島で稲作を学び日本に渡来したのではないかといったこと。
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現在の朝鮮人のDNAには縄文人のDNAは含まれていないので、朝鮮半島では民族浄化が起きた可能性がありますが、いろんな仮説が成り立つ遺跡だと思います。
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ここからは船越漁港の方を回って帰ります。
可也山は、こうして自転車で走っていると正面にそびえる標高365.1mの山。小富士梅林のところにも登山口がありましたが、ちゃんと準備しないと登れる山ではないですね。ただ、海沿いの道路からでもその悠々とした姿はよく見えて、この辺りのシンボル的な存在のように感じました。 -
船越漁港の集落に入って。
これは生松天神社。なんでも、寛仁3年(1019)に起きた女真族による”刀伊の入寇”にかかる神社なのだとか。 -
即ち、対馬、壱岐を経て来襲した賊徒の退散祈願社として創建されたということ。船越漁港にほど近い集落の中に普通にある古社ですが、とんでもない歴史を秘めているものです。
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船越漁港の向かい側には、海軍航空隊玄海基地之跡。こんな辺鄙な田舎町に海軍の基地があったなんて信じられませんが、太平洋戦争の末期、水上飛行機も配備され本土決戦に備えた秘密基地だったのだそう。いずれにしても、碑は納骨堂のような建物も背後に控えていて、戦争の記憶をとどめるもの。十分な遺構だと思います。
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イチオシ
船越漁港は、糸島半島の南西側。半島からさらに細く突き出した場所にはこじんまりとした集落もあって、この漁港はその中心です。紹介した生松天神社や海軍航空隊玄海基地之跡。ひっそりと歴史をとどめているのも面白いところです。
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船越漁港から湾を回って箱島神社を目指します。糸島半島から西に向かう海沿いの国道脇。海側の小さな島の箱島に鎮座しています。ただ、加布里公園の辺りで歩道は切れているし、国道は大型トラックなどがビュンビュン走ってこれ以上近づくのは危険な感じ。遠目で夕陽に照らされる神社を拝むだけにしておきました。
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ここからは筑前前原の駅にまっすぐ帰るだけなんですが、ついでに近くの加布里公園へも。公園は国道の脇から急な坂を上って行った先。小高い山の上なので本来は海の方まで見晴らしがいいはずなのですが、木々が大きくなっていて視界がややさえぎられてスカッとはしませんね。あまり訪れる人もいないかもしれません。
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そして、最後は釜塚古墳。住宅地の間にある小さな公園のような場所に段を持った形のいい大型の円墳がありました。
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円墳としては福岡県下では最大級の規模だそうですが、普段の生活の場にこうしてあっけなくあるんですね。あんまり段々の形はなじみがないですが、きれいによく残っていると思います。
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さて、明日は唐津くんち。
福岡市内まで帰って、今日は平和台ホテル5で泊まりです。
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