2022/08/20 - 2022/08/20
864位(同エリア17023件中)
ばねおさん
8月の下旬、パリの南東ヴァンセンヌの城に出かけてみた。
ずいぶん前のことだが、城の修復工事が行われていて見学が叶わず諦めたことがあった。それ以来、行く機会もないままでいたところ、TVでヴァンセンヌ城の考古学的調査や修復作業の状況を詳しく取り上げていた。第二次大戦以降のプロジェクトが今だに続いていることに驚いたが、この機会にあらためて行って見ることにした。
一般に城砦は市街地から離れた場所に多いが、ヴァンセンヌ城はメトロ1号線の始発終着駅である「シャトー・ドウ・ヴァンセンヌ Château de Vincennes」の目の前にあり、これほど交通の便の良い城も珍しい。
パリ中心部からは20~30分しかかからない。
それでいながら嬉しいことには、ここは観光客が少ない穴場でもある。パリを旅行して少々時間が余った際にも、行くには最適の場所とも言える。
ただ、ここは防衛を目的とした中世の城塞なので、ブルボン王朝時代の豪華絢爛さを期待するとがっかりするに違いない。王宮としての役割を担った時代もあったが、鑑賞するような家具調度類はほとんど残っていない。
この城の魅力は、何世紀にもわたる建築の様式や意匠の変遷に触れ、中世から第二次大戦時までの歴史の重層をめくっていく楽しさにあると思う。
もともとは12世紀に王の狩猟の館として作られたのが始まりとされるヴァンセンヌ城だが、14世紀の100年戦争時代に賢王シャルル5世によって要塞化した王宮となった。
建物としては中世ヨーロッパで最も高い主塔(ドンジョン)のほか、16世紀に完成したサント・シャペルがあり、17世紀にヴェルサイユ宮殿に先立って建てられたルイ14世の王と王妃のパビリオンがある。
王宮としての役割を終えたのちは、王権に反する重要人物たちを収監する牢獄として用いられた時期が続いた。
ここに投獄された有名な人物としては、ナヴァラのアンリ(後の国王アンリ4世)、ポールロワイヤル修道院のジャンセニズム指導者サン・シラン、フロンドの乱に加担した大コンデ公、レッツ枢機卿、ルイ14世の財政長官ニコラ・フーケ、啓蒙思想家のデイドロ等がいる。
サデイズムの由来者マルキ・ド・サド侯爵やミラボーもここに収監されていた。
その後は、のちにセーヴルに移った陶器工場としての利用、ナポレオン時代の兵器廠と砲台の設置、そして第二次大戦下のナチスドイツの占領と、さまざまな歴史舞台に使われてきたヴァンセンヌ城は、どの場面を切り取っても興味が尽きることはない。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ヴァンセンヌ城へのアクセスはメトロ1号線の利用がもっとも便利なのだが、15区の住まいからトラムとバスを乗り継いで行ってみた。
トラムはT3a号線の「Porte Doree」で バス201番に乗り換える。
バスはヴァンセンヌの森沿いを通っていくので、車窓から途中の森の様子を眺めながら行くという楽しみもある。 -
四つ目のバス停「Pyramide - Park Floral 」で下車。
停留所の手前から左側にヴァンセンヌ城の城壁が見えてくるので間違えることはない。停留所名のPark Floral(花の公園)は、チュイルリーやリュクサンブルク公園と並ぶパリの10大公園の一つで、下車した全員が自分以外は公園に向かって行った。
降りた場所は城の南側にあたり、入場口は北側にあるので、ぐるりと半周して回る必要があるが、城の外周を歩くことで城郭全体のイメージをつかむことができる。
今回は左回り(時計回り)で歩いてみた。
写真に見えるのはヴァンセンヌの森に接する城門「森の塔」。
後世になって高さを削られてしまったので、今では「塔」という感じではない。 -
「森の塔」の城門。
入り口に短い跳ね橋があるが、腕木の収納部分をみると初期にはもっと長さがあったであろうことが想像できる。 -
南側の景観。
高い城壁の外側には深くて幅のある堀が廻らされている。
現在は空堀であるが、かっては水が湛えられていたという。 -
南西側の城壁の様子。主塔(ドンジョン)の頭が見える。
多くの城がそうであるように、狩猟のための館が設けられたのが始まりとされるヴァンセンヌ城の歴史は12世紀のカペー朝の時代に遡る。
考古学的調査によって城内からは初期の館跡などの貴重な遺構が発見されていて、当時の生活の様子などの解明が進められている。 -
西面沿いの外郭から覗ける城内の一部。
フランボワイヤン (flamboyant) 様式の初期の傑作といわれるサント・シャペルの正面が見える。
ステンドグラスの美しさで知られるシテ島のサント・シャペルが有名だが、こちらはそのヴァンセンヌ版である。 -
数多くの物語を刻む主塔(ドンジョン)。
主塔を守るように城壁が方形に廻らされ、四隅には円塔が置かれている。
「天守閣」との訳語もあるが、日本の城郭とは仕組みも機能も異なる点が多いので、やはりここは主塔もしくはドンジョンと言ったほうがふさわしい気がする。
14世紀に入って幸運王フィリップ6世が建築に着手し、その息子善良王ジャン2世が引き継ぎ、さらにその子である賢王シャルル5世(1364-1380 治世)が完成させた。
善良王とか賢王とか、フランスの王様にはあだ名が付けられている例が多く、敬愛の気持ちもあればからかい半分のものまでさまざまであるが、ヨーロッパには同名の王侯も多いので、あだ名がついていると区別がしやすいという利点がある。 -
城を背景に外郭の北西の木陰に立つのは、フランスの王の中で唯一、聖人に列せられたカペー朝のルイ9世(在位1226ー1270)の彫像。
一般的には聖ルイ( サン・ルイ Saint Louis )と呼ばれている。
ヴァンセンヌ城を王宮の一つとして用い、定期的に滞在していたようである。サン・ルイ伝には、ヴァンセンヌをたびたび訪れてオークの木陰で民の調停をしたという記述がある。
ルイ9世以降の王はヴァンセンヌとの関わりが多くなり、結婚式を挙げたり、生涯をここで過ごしたりしている。
この像は、第8回十字軍遠征中にチュニジアで病没したルイ9世の遺灰がフランスに帰って700周年にあたる1971年にパリ市からヴァンセンヌに寄贈されたもの。もしかしたら像の周囲の木はオークだろうか。
その名を冠したサン・ルイ島には、ルイ9世を守護聖人とする教会(サン・ルイ・アン・イル教会 L’église Saint-Louis-en-l’Île)がある。
ちなみにアメリカの地名セント・ルイスもこの方の英語読みに由来している。 -
サン・ルイ島のサン・ルイ教会にある聖ルイの立像。
キリストの聖遺物として最高位の宝である茨の冠を、コンスタンティノープルの皇帝ボールドウィン2世から購入したのはこのお方である。
茨の冠は、もともとはビザンチン帝国の至宝であったものなのだが、十字軍が征服した後、新たに皇帝の位に就いたフランス貴族出身のボールドウィンが国の運営資金に行き詰まり、これをを担保にヴェネチアから借金をした。
ところが返済ができず、いわば質流れとなったのをルイ9世が大枚をはたいて買い取ったといったほうが分かりやすい。
それにしても、聖遺物をカタに借金するとは何とも罰当たりなことよ -
ルイ9世は、茨の冠を安置する場所として、シテ島にサント・シャペルを新築したのだが、大革命の際にこの宝物は叩き壊されて捨てられてしまったようだ。
だが、こっそりと誰かがこれを拾い集め、後に修復されてノートルダムの宝物庫に置かれることになったという。真実は神のみぞ知ると言えるだろう。
2019年4月のノートルダム大聖堂の火災時には宝物庫から持ち出され、パリ市庁舎に厳重に保管されるようになったが、その場所は極秘となっている。
聖人に列せられたルイ9世の靴先は、長年にわたって信者が触れたのであろう綺麗に磨かれたようになっている。 -
聖ルイ像に別れを告げて進んでいくと北側の城門「村の塔」がある。
「森の塔」はヴァンセンヌの森に面し、「村の塔」はヴァンセンヌの街に面している。とても分かりやすいネーミングだ。
城門としては、この2か所の他に東側に「礼砲の塔」があるが、見学者を含め通常の出入りはこの門に限られている。 -
この城には3つの城門の塔のほか、側面塔が6つあって、いずれも40~42mの高さがあったのだが、ナポレオンの時代に砲台を設置するために上部が削られてしまい、この塔だけが当初からの高さを残している。
全ての塔が高さを維持していたらさぞかし威容を誇ったに違いない。 -
「村の塔」の城門の前の跳ね橋。
跳ね橋は、籠城時には腕木で橋を引き上げて外からの進入を遮断するとともに、引き上げた橋が開口部の蓋をする役割となる。 -
現在では専ら車両の出入りに用いられ、両側には転落防止の柵が付けられている。上から覗いてみると堀底までの高さはかなりある。
見学者(歩行者)は、並行してある細身の跳ね橋(この写真を撮っている立ち位置)を利用することになる。こちらは通用口あるいは忍び口ということになるのだろう。
城内入場に際し、橋を渡った先で荷物検査がある。 -
「村の塔」の城門を入った先の城内風景。
正面に小さく見えるのはルイ14世時代の凱旋門で、その先の「森の塔」へと一直線に続いている。凱旋門の左側にあるのがサント・シャペルである。
写真右手の建物内に入場券窓口とグッズ売り場がある。
城内の入場は無料だが、主塔(ドンジョン)とサント・シャペルの見学には入場料が必要となる。 -
全国各地のモニュメントを利用できる年間パスを持っているおかげで、その都度入場券は買わずに済むのだが、どんな品々が置かれているのか興味本位で入場券売り場兼グッズコーナーをちょっと覗いてみた。
書籍や定番のお土産類が多いが、奥には騎士や兵士の衣装やら模擬剣などいかにも城塞らしい品が並んでいた。
また、日本語版の案内リーフレットも用意されてあって、コンパクトにヴァンセンヌ城の説明がまとめられている。日本人の来場がそれだけあるということだろうか。 -
まずは主塔(ドンジョン)から。
正面のシャトレ(小城塞)から城壁が延びて、主塔を守っている様子がよく分かる。こうして見ると城の中に、もう一つの城があるといった感じだ。
主塔へアクセスできるのは、今も昔もシャトレの門からだけなのだが、あいにくそのアプローチ部分が修復工事中で、仮設の通路を利用しなければならないのがとても残念だ。 -
本来であれば、衛兵の詰所の先に堀を跨ぐ跳ね橋があって、そこを通ってシャトレ(小城塞)の門、すなわち主塔への玄関口に到達するところ、作業台のような味気ない仮通路を使い、迂回するようにシャトレの下に出た。
見上げると左右に塔を配した堂々たる構えである。
防衛を最優先とした造りではあるが、主塔は王夫妻の居住スペースも兼ねていたので、この玄関口もかっては素晴らしい装飾がされていたという。
この小城塞の西側3階にある小さなスペースをシャルル5世は執務室として用いていた。西側に設けた理由は、シャルル5世ができるだけ日光の恩恵に浴することができるようにとの配慮であるという。 -
シャトレ(小城塞)入り口の門の手前で入場券チェックがあり、いよいよ門をくぐると、シャトレと主塔を結ぶ通路である架け橋が頭上に見えてくる。
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一旦中庭に入り、見上げたシャトレと主塔を繋ぐ架け橋(写真右側がシャトレ、左が主塔)。
中世ではこれが主塔へ出入りできる唯一の通路で、防御機能を最優先したため主塔の1階部分に出入り口はなかった。(現在は1階に開口部がある)。
ここから主塔に行くにはシャトレの螺旋階段を上り、主塔へ通じる架け橋を通らなければならない。 -
シャトレの階段を上る前に、中庭から見上げた主塔(ドンジョン)。
フィリップ6世の1340年頃に建設が始まり、その息子ジョン2世が引き継いだが100年戦争でイングランドの虜囚となってしまった後は王太子であったシャルル5世が城館を要塞化するプランに変更して1367年に完成した。
一辺の長さ16.2mの正方形で5層構造となっており、高さ52mは中世ヨーロッパの城郭では最も高い塔となる。
四隅の塔の頂上にはカタパルト投石機が備わっていたということなので、反撃体制もかなり有していたということだろう。 -
17世紀になって、ルイ14世がヴェルサイユに宮殿を造営してから以降は、王宮としての役割を担うことは無くなったが、14世紀のシャルル5世はをここに執務と居住の場という二つの機能を持たせた。
最優先されるのは防御体制であるのだが、王の居城であることもあって建物内外の意匠は多くの彫刻装飾で飾られ、オリジナルもしくは復刻版を見ることができる。 -
主塔の各窓下にはそれぞれ装飾性の高い彫刻が施されている。
こちらは、音楽を奏でる人魚と天使の像。
その他いろいろな図像が見られるが、いずれも宗教的意味合いを含んでいる。 -
中庭から見上げた、主塔(ドンジョン)を囲む防御壁の様子。
主塔も正方形だが、それを囲むシャトレから延びる防御壁も正方形である。
壁の長さは一辺が50mであるという。 -
この防御壁を外側から眺めた様子。
壁の上の回廊沿いに石落としの穴が続いている。
シャルル5世がヴァンセンヌ城を単なる王宮ではなく、堅固な要塞にしたのは王太子時代にパリの反乱を経験し、100年戦争というフランスの歴史の中でも極めて困難な時代にあっては絶対的に必要な条件であったのだろう。 -
さて、シャトレ(小城塞)のエスカルゴのような狭い螺旋階段を使って上へと向かう。
中世の城は、右手に武器を持って上ってくる敵を想定して、上りは時計回りが原則と聞いているが、ここはなぜか反時計回り。これはちょっと不思議だ。 -
そして、この石造りの円階段をどうやって作るのか、階段が天井になった部分を見上げてはこれも不思議に思うこと。
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シャトレの螺旋階段を上り切った場所は四方を見渡せるテラス(展望塔)になっている。
このテラスからは、左手に村の塔、中央にサント・シャペル、右手に森の塔と17世紀のル・ヴォー(Louis Le Vau)作のポルティコとルイ14世の王と王妃のパビリオンを見渡すことができる。 -
テラス(展望塔)から眺めたサント・シャペルと王妃のパビリオン。
サント・シャペルの左手には「礼砲の門」も見える。
もっとも、シャルル5世が眺めた頃にはまだサント・シャペルも王と王妃のパビリオンもなかったことになるが、9つの塔が聳え立つ景観が見えたはずである。
主塔完成後の1369年、シャルル5世はテラスの上に鐘楼を追加することを命じ、シャトルの王の執務室の上にあって、主塔の居室と同じ高さに設置された鐘は祈祷書に対応する一定の時間に規則的に鳴らされた。
シャルル5世は1日を8時間づつの3つに区分して生活したという。
1つは祈りと知的作業の時間、もう1つは王国の仕事、そして最後は個人的な娯楽と休息に充てた時間である。
この一年後にシャルル5世はシテ島に大時計を設置して、1日の活動を正確な時間の区切りで生活できるようにとパリ市民に贈り喜ばれている。
今では有名な観光スポットとなっているこのシテ島の大時計は、14世紀後半からヨーロパの各地に登場する都市時計の先駆け的存在とも言われているが、シャルル5世の篤い宗教心と合理的精神から発していると言っても良い。
現在の鐘は複製で、オリジナルはサントシャペル内に保存されている。
ちょうどテラスにいる時に鐘が鳴らされたが、近くに居たためその音の大きさには飛び上がるほど驚いた。これなら城内だけでなく、城外の住民たちの耳にも届いたに違いない。 -
シャトレのテラス(展望塔)から見下ろした主塔(ドンジョン)に通じる架橋。
こうして見ると主塔(ドンジョン)の入り口の狭さもよくわかる。
仮に敵が架橋を渡ったとしても、複数人が同時に突入するのは難しかろう。 -
テラス(展望塔)を下り、シャトレの城壁上の回廊へ。
シャルル5世の時代には、通路に覆いはなく、四隅の櫓(角塔)の上にのみ屋根があった。 -
四隅にある小塔の天井。
シャトレ(小城塞)に隣接する2つの塔には秘書が控えていて、シャルル5世の執務を補助したという。 -
一辺が50mの囲壁上の通路は衛兵の見張り場所というだけでなく、王の散歩道でもあったという。なるほど、ここなら安全だし、ぐるりと一周すれば200m余になるので運動量を測るにも便利であろう。
もっとも何mと言っても、それは今の時代の話で、メートルという長さの単位が確立する前の当時は足の長さや歩数であったかもしれない。 -
シャトレ(小城塞)の回廊通路から眺めたテラス(展望塔)と鐘楼。
鐘楼の左下に見える円形部分がテラスで、先ほど上って周囲を見渡した場所である。 -
さて、いよいよシャトレから主塔(ドンジョン)へ向かう。
中世において主塔への唯一の通路である架橋は、いざとなれば取り外して敵の侵入を遮断することになる。
主塔には矢狭間がこちらに向けて開けられている。 -
王が公式のレセプションを開いたり、顧問官と会議を持ったりした主塔(ドンジョン)2階の広間。
十字形アーチが曲面天井を支え、その重量の多くが中央の円柱にかかっているという構造で、主塔の各階はいずれも同じ造りとなっている。
壁面は石材が剥き出しの状態であるが、中世においては装飾と断熱を兼ねて塗装された羽目板が廻らされ、タペストリーで飾られていたという。 -
天井アーチのリブの先には必ず象徴彫刻が添えられている。
部屋の四隅にあるのは4人の伝道者を表わす彫刻となっている。
すなわち、
aigle St.Jean 聖ジョン(ヨハネ)の鷲
lion St.Marc 聖マルクの翼のライオン
taureau St.Luc 聖ルカの翼の雄牛
homme St.Mathieu 聖マタイの翼のある人間
これらは主塔の各階に共通している。 -
こちらは、翼のあるライオン。
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天使の音楽家。
いずれも、中世後期によく見られる図像で宗教的に大きな意味を持っているという。 -
3階には王の部屋。
特大の暖炉がある王の居室は、要塞化された王宮の中で、とりわけ装飾性豊かであったことが感じられる。
この部屋は王の礼拝室、宝物室、書斎、トイレなどの小部屋とつながっている。 -
天井や柱には650年前の彩色と模様が残っていて、復元すればかなり色彩豊かな雰囲気になりそうである。
-
リヴの先にある彫刻。
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こちらは「伝道者」ではなく、イザヤ、エレミヤ、ダニエル、エゼキエルらの「預言者」を表しているのかもしれない。
一つひとつの像が素人にはなかなか判別しにくい。 -
リブがクロスする場所にも宗教的彫刻が見える。綺麗な様子をみると、こちらは復刻したものであろう。
-
主塔(ドンジョン)には牢獄として用いられた時代の痕跡が色濃く残っている。
シャルル5世は後の世に王宮がこのような使われ方をされようとは夢にも思わなかったであろう。
扉の向こうは「ミラボーの独房」。
1777年から1780年にかけて、ミラボー伯爵は債権者の追及を免れるため父親の要請でヴァンセンヌに幽閉されている。借金取りの目を誤魔化すために志願入牢するとは呆れるが、入れさせる方も入れさせる方で、いったいどのような話のつけ方をしたのであろうか。
ミラボーは貴族出身ながら大革命の初期段階において第三身分の代表として大活躍し、市民から絶大な人気を得ている最中に病死してしまった。
亡くなった後、国家の偉人としてパンテオンに祀られる最初の人物になったが、後年になって隠されていた政治上の裏取引が明らかになり、パンテオンから追放となった。 -
ミラボーの独房には、色彩豊かなフレスコ画 が残っているが、「Fresque de la cellule de Mirabeau ミラボーの独房のフレスコ画」であって、ミラボーが描いたということではない。
作者は、1810 年に投獄されたナポレオン の告白者であるモンセニョール・ ド ・ブローニュ Monseigneur de Boulogneとされている。 -
牢獄として用いられるようになってから、従来の窓はこのように閉鎖されたり鉄格子が入れられた。
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天井近い小さな窓がある場所では乏しい光を頼りにしてだろうか、窓辺に近い壁に囚人たちの落書きが残されている。
-
年代やら名前やら、絵や図形など、時代を異にする人々のさまざまな内容が壁に刻まれている。
この牢獄でもっとも長く留め置かれたのは ジャン・シャルル・ギョーム・ル・プレヴォスト・ド・ボーモン Jean-Charles-Guillaume Le Prévost de Beaumont という、とても一度では覚えきれない長~い名前の持ち主ではないだろうか。
今回の見学を機に初めて知った存在なのだが、小麦の買い占めをしている「飢餓協定」なるものを社会に告発したかどで捕らえられ、なんと22年間を獄中で過ごしたという。その内、ヴァンセンヌでは15年間(1769年から1784年)、あとはバスチーユなどであったという。
もっと知られてもよい存在(自分が知らないだけかもしれないが)だと思うのだが、あまり資料が見当たらない。革命後に解放され、97歳まで生きたというのであるから監獄生活も過酷な処遇ではなかったのかも知れない。 -
一階に下り、「井戸のある部屋」へ。
井戸は主塔(ドンジョン)建立当初からのものであるという。
部屋の奥には見学者の理解を助けるために、フランス王朝、国王の系図一覧がパネル表示されていた。
たしかに、この城の見学にはフランスの王家の知識が多少あると面白さも倍増すると思う。リーフレットに簡略図でも載せてくれればよいのだが。 -
当然のことながら、城塞に井戸は不可欠の存在であり、水がなければ籠城することができない。
そもそも、王宮の日常生活を維持するためにも無くてはならない。
城内には聖職者、大貴族、王に仕えるさまざまな職種の人々が生活していて、その数は約500人であったという。さらには王妃に仕える人々も200人は居たという。
時代によって人数は変化したであろうが、水は調理場や入浴や鍛冶場で必要とするだけでなく、多くの馬にも与えなければならず、相当な量が必要とされていたであろうことは容易に想像できる。 -
「井戸のある部屋」の井戸をのぞいてみるとかなり深く、はるか下に水面が認められる。
この井戸と城内にある2つの井戸だけでは十分な量が確保できないため、パリに隣接するモントルイユから水を引き、城囲いの堀にも水を供給できるようにしたという。 -
「井戸のある部屋」の隣室には、ヴァンセンヌ城に収監された重要人物一覧もパネル表示されていた。
その説明文に従えば、
- 後のアンリ4世は、宗教戦争の最中の1754年にヴァンセンヌの牢獄に収監された。
- ブルボン家のコンデ公アンリ2世は、ルイ14世の少年時代に摂政アンヌ・ドートリッシュに対して有力貴族たちが率いるフロンドの乱に参加したため、1616年にヴァンセンヌで幽閉された。
- 財政監督官であったニコラ・フーケは、公金横領の罪に問われ、1661年9月に逮捕され、ルイ14世の命令でダルタニャンによって地下牢に幽閉された。
フーケを捕らえたのがダルタニャン(『三銃士』に登場する人物)であったというのがミソで、ルイ14世が本来の警察官吏を用いず、腹心のダルタニャンを使ったことには逃亡を阻止するという強い意思があったとみられている。 -
18世紀に入り、
- ドゥニ・ディドロは、『 盲人に関する書簡 La Lettre sur les aveugles à l'usage de ceux qui voient 』を書いたために、1749年7月24日から11月3日まで拘置された。
- ジャン・シャルル・ギョーム・ル・プレヴォスト・ド・ボーモン Jean-Charles-Guillaume Le Prévôt de Beaumontは、「飢饉協定」の存在を発見し報告したため、22年間を獄に繋がれ、うち1769年から1784年までの15年間をヴァンセンヌで獄中で過ごすことになった。云々 -
牢獄として用いられた時代の名残であろうか。
いかにも頑丈そうな錠通しが壁に埋め込まれていた。 -
ルイ16世一家が幽閉されたタンプル塔の頑丈な木製扉が一枚こちらに移設されているという話を耳にしたことがあるのだが、探してもそれがどれなのかが分からなかった。(いわゆる展示物品がないゆえか、入場時のチェック係員以外は城内に監視兼案内員もいないので、ここでは尋ねようもない)
-
主塔(ドンジョン)の見学を終えてサント・シャペルへ。
主塔の中に小さな礼拝所を設けて、日々祈りを欠かさなかったシャルル5世は、晩年になってヴァンセンヌにサント・シャペルを建てることを決意した。
サント・シャペルと呼べるのは5つの条件を具備する必要があるとされている。
1. 宮廷礼拝堂であること。
2. サン・ルイまたはその子孫によって創設されること。
3. パリのサント・シャペルの建築様式に従うこと。
4. パリのサント・シャペルと同時に聖刻を刻むこと。
5. キリスト受難の聖遺物の断片を含んでいること。
聖遺物の断片を含んでいる、ということはシテ島のサント・シャペルに預けてある茨の冠の棘をここの礼拝堂に納めようとする考えがあってのこと。1379年に礼拝堂に仕える15人の修道士から成る神学校を設立して受け入れ体制の準備にかかっている。 -
長さ40m、幅12m、高さ20mのこの礼拝堂は、モデルとなったシテ島のサント・シャペルと非常によく似た建築構成となっている。
1379年にシャルル5世が建設を決め、次のシャルル6世が建設を進めたものの1410年頃に側壁の段階で工事は停止してしまった。その後、100年以上もの間は屋根も天井もない状態であったが、礼拝は休むことなく行われていたという。雨の日はどのようにしていたのだろうか。
1520年になってシャルル5世の曾孫であるフランソワ1世が礼拝堂の完成を命じて建設は再開されたものの、実際に落成したのは次のアンリ2世の時代1552年になってからであった。 -
工事の最終段階に建てられたファサードは中央のバラ窓と華やかなスタイルの破風で飾られていて、15~16世紀の石造物の技術の高さがよく示されている。
18世紀にも一部が改造されたようであるが、ルネッサンス以降の建築様式に変えることなくゴシックスタイルを踏襲したのは、この礼拝堂の本来の様式を守り、王権の連続性を示すという政治的メッセージも込められているという。 -
バットレスの上部のピナクル(小尖塔)には、フランソワ1世を示すFの文字と象徴であるサラマンダーがある、とのことなのだがサラマンダーは発見できたものの、Fの文字が見つからなかった。
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小尖塔にあったフランソワ1世の象徴であるサラマンダーのオリジナルが礼拝堂内に展示されていた。傷みが激しいため、1900年代に入ってレプリカと交換されているという。
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シテ島のサント・シャペルが二層作り(2階)であるのに対して、この礼拝堂の内部は、一層造りで、バラ窓の下側にだけテラスが設けられている。
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バラ窓の内側にある 2階のテラス部分。
西日が差し込んで、バラ窓を通した柔らかな光が落ちている。 -
シテ島のサント・シャペルの圧倒的な色彩のステンドグラスと比べるとまるで地味である。ここでは色彩ではなくフォルムを求めたとも言われるが、いささか物足りなく感じる人もいるだろう。
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奥の祭壇付近もいたって簡素である。
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建物はシテ島のサントシャペルをモデルにしているとはいえ、ステンドグラスなどはここでのオリジナリティを見出したほうが良いような気がする。
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ヨハネの黙示録を表したステンドグラス
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アーチの頂点にある要石の装飾
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リブの下を象徴彫刻が飾る
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シャペル内には王と王妃の礼拝室がそれぞれ設けられている。
こちらは王妃のための礼拝室。
入り口の上部にはシャルル5世の妻であったジャンヌ・ド・ブルボン Jeanne de Bourbon の紋章が掲げられている。 -
1643年にルイ13世が亡くなったあと、まだ4歳であった幼王ルイ14世の摂政として権力を掌握した毋后アンヌ・ドートリッシュ(『三銃士』に登場する王妃アンヌ)と組んで国政を担ったマザランの胸像が王家の紋章を背景に置かれていた。。
横に置かれていた説明書きにはこのように記されている。
「マザラン枢機卿の胸像。
ルイ14世の大臣でヴァンセンヌの総督ジュール・マザラン(1602-1661)は、国王に城の建設を開始するように説得しました。彼はヴァンセンヌで亡くなり、棺は1684年までここの聖具室に保管されていました。」
アンヌとマザランの関係については諸説ふんぷんで、今であれば週刊誌ネタとなって世間を賑わせるに違いないのだが、両者ともに歴史を左右する政治的手腕を発揮したことには間違いない。 -
サント・シャペルの南側。
マザランの命により作られたルイ・ル・ルヴォー Louis Le Vau のポルティコ(柱列の続くポーチ)と凱旋門。
ルヴォーはフーケのヴォー・ル・ヴィコント城も同時期に手がけ、この後、ヴェルサイユ宮殿の造営にあたる事になる。
こうしてみると、ポルティコを境にして、左側は旧時代、右側は新しい時代と区分したかのようにも思えてくる。 -
凱旋門をくぐった先には、古典様式の堂々たる2つの館が広い空間をはさんで左右対称に向かい合っている。
こちらは東側の王妃のパビリオン。 -
西側の王のパビリオン。
館が完成した翌年の1659年にルイ14世とスペイン王家のマリア・テレジア・ドートリッシュとの婚姻が取り決められている。 -
見学開始のはじめに見た「森の塔」の内側。
ルイ14世時代にはサント・シャペル側の凱旋門と併せてこちらも凱旋門と位置づけていた。つまりは2つの凱旋門がヴァンセンヌ城に出来たことになる。
王権を制限しようとする貴族の反乱「フロンドの乱」を勝ち抜き、ルイ14世の絶対王政の確立を宣言するかのような二つの凱旋門である。
やがてルイ14世は、ルーヴル宮の改修に着手したが完成を目前にしながらこれを放棄して、新たにヴェルサイユに壮大な宮殿を造営した。
ヴァンセンヌ城はルイ15世がここで幼少年時代を過ごしたのを最後に、ルイ16世治下の1784年には王宮のリストからも抹消された。
歴代の王が王権の象徴として、非常時の在所として忘れることなく頼りにしてきたヴァンセンヌの城塞だが、1789年の大革命によってギロチンにかけられたルイ16世は一度もヴァンセンヌに足を踏み入れたことがなかった。
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