2022/05/10 - 2022/05/12
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旅 夢太郎さん
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今回の旅の目的は良寛の史跡を尋ねる事にありました。その最初は出雲崎です。良寛が生まれ育った所はどのようなところか? また、18歳で剃髪したとされる光照寺はどんな寺なのか? 等々興味はつきません。そして今回訪れて知った「出雲崎の妻入りの街並み」という古風な街並みも魅力一杯のところでした。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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柏崎から次の目的地出雲崎に向かいます。その途中の長閑な農村風景です。農村部での家屋は殆どが木造で、新建材の造りはあまり見受けませんでした。
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途中,赤茶けた道路が延々と続いていました。降雪に起因するものとは思いましたが、原因は分かりません。
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雪国らしく信号は縦です。赤茶けの道路が気になるので、途中ガソリンスタンドに立ち寄り原因を聞いてみました。
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店の人の話によると「道に積もった雪を除雪するため、道にスプリンクラーを埋めて地下からの水で雪解けを行っています」「その地下水に鉄分が多く含まれているため、このように赤茶けた状態になります」また「白い車はこまめに洗車しないと1年でこんな色になります」とのことでした。
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国道402号線に沿って出雲崎に向かう途中、「魚のアメ横」といわれる寺泊市場に立ち寄りました。活きのいい魚介類がとにかく安い!!。またイカやホタテ、旬の魚を焼いた「浜焼き」が名物だそうで、店内には香ばしいかおりが満ちていました。市場の向かいには、大きな駐車場があり多くの観光客で賑わうようです。
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寺泊を後に、やがて遠くに出雲崎が見えてきました。
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遠くには佐渡の島も見えます。
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出雲崎に到着しました。
出雲崎町は「妻入りの街並み」で知られ、約10kmの海岸線を持つ海あり、山ありの風光明媚な町です。「にいがた景勝百選」で1位に輝いたそうです。また日本海に沈む夕日の美しさは圧巻だそうです。町の人口は約4000人だそうですが、江戸時代の最盛期には3万人いたというから驚きです。 -
出雲崎では民宿を利用しました。民宿は町の中心地にあり、早速良寛の生誕地を訪ねてみました。そこには「良寛生誕地橘屋跡」の碑が立っていました。細長い敷地でしたが、実際はこの倍の敷地だったそうです。民宿の女将さんは大変明るい方で「出雲崎には何もありませんが、真っ赤に染まる夕陽はとても綺麗ですよ」とのこと、夕食には食べきれない程の魚料理でした。
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良寛は宝暦8年(1758)ここ出雲崎で4男3女の長子として生まれました。父の橘以南はこの地の名主でした。良寛は16歳で名主見習いを始めましたが、18歳の時、両親の反対をおしきり突如として出家し、子供の頃学んだ光照寺において修行を始めたそうです。出家の理由については、諸説いろいろあって定かではありませんが、村人の争いを調停したり、盗人の処刑に立ち会わなければならず、この世は救いのない人間がいる哀れな世界と感じたことによるものとされています。
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「いにしえに かはらぬものは ありそみと むかひに見ゆる 佐渡の島なり」
(ありそみ=荒れる海のこと)
亡き母を偲んで佐渡を眺める歌とされています。
諸説によると「良寛の母は秀子といい、佐渡相川の山本家から越後出雲崎の名主橘屋の養女となり、与板の新木家から養子を迎え(後の橘以南)、天明3年49歳で亡くなっている。」とあります。 -
「妻入りの街並み」を散策
江戸時代の出雲崎町は越後で一番人口密度が高く、多くの人が居住出来るように、間口が狭く奥行の長い妻入りの形式がとられていました。また当時は間口によって税金が掛けられていたとのことで、二間や三間の家が多く並んでいました。この全国でも珍しい「妻入りの街並み」の散策に訪れる人も多く、街並み景観保存事業も進んでいるそうです。 -
出雲崎代官所跡
(観光案内掲示板より)
ここは戦国の上杉氏時代から陣屋が置かれた場所で、名主橘屋(良寛さんの生家)に近く、秋田屋敷と呼ばれて大きな役割を果たしていた。出雲崎は元和2年(1616)徳川幕府の天領となり、町の中央に位置するこの場所が江戸時代最初の代官所となった。佐渡の金銀の陸揚地であり、北前船の寄港地、北国街道の宿場町として物資の交流も盛んであった・・・・・ -
妻入りの街並み
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妻入りの街並み
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妻入りの街並み
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芭蕉園
「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」
元禄2年(1689)この北陸路に、奥の細道の行脚をしていた芭蕉は、ここ出雲崎で1泊したと言われています。 -
妻入りの街並み
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妻入りの街並みにはこうした「出雲崎よもやま話」が随所に掲出されており、観光客を楽しませてくれているようです。
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妻入りの街並み
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金銀御用小路
(観光案内掲示板より)
佐渡鉱山から大量の金銀が産出され、出雲崎に荷揚げされました。ここより車馬に積み替えられ「御用」の札を立てて大名行列以上に華やかに、この小路より信濃路を経て江戸幕府に上納されたそうです。 -
栄蔵青年(後の良寛)は18歳で家督をついで、名主見習いとなったが、争いごとの調停も上手くゆかず、あげくの果ては「昼行燈」と揶揄されるありさま。この他いろんな理由あって、ここ光照寺に出家したそうです。家族からは橘屋に帰るよう幾度となく説得されたが、応じることはなかったそうです。
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22歳の時、備中玉島(現倉敷市)円通寺の国仙和尚が光照寺を訪れ、授戒会が開かれ、栄蔵は剃髪授戒し「大愚良寛」と名乗ったそうです。そのあと国仙和尚に随って玉島円通寺に移ったとされています。
(ここ円通寺は路から少し奥まった所にあり、看板もなく探すのに一苦労しました) -
妻入りの街並み
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町の中心地から少し離れた所に「良寛記念館」があるので訪ねてみました。入口には五合庵のレプリカがありました。
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「この里に 手まりつきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」
記念館から少し登った丘に「良寛と子供達が遊ぶ像」がたっていました。
(表紙の写真は別の角度から撮ったもの) -
記念館の丘から眺めた出雲崎です。遠くに見える山が弥彦山で、その右手に国上山があり、五合庵はその麓にあります。
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良寛記念館から次の目的地「尼瀬獄門跡」に向かう途中の村の風景です。田植えが終わったばかりの田んぼ風景がとても綺麗でした。
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尼瀬獄門跡
(観光案内掲示板より)
出雲崎町は元和2年(1616)徳川幕府の直轄地となり、代官所が置かれた。付属機関として牢屋もつくられた。ここは極刑の執行をする形場であった。おそらくは幾千もの斬首がなされたことであろう。特に重罪人の生首は浜辺のほうにさらされたと伝えられている。供養塔は天明年間の建立であり、数体の地蔵尊と老榎は当時を偲ばせるものである。地元では現在も毎年9月1日に供養祭を行っている。
良寛は名主見習い時、処刑の立ち合いが嫌で出家したとも言われている。 -
尼瀬獄門跡
こんな所に生首がさらされていたのかと思うと、寒気がします。 -
尼瀬獄門跡
続いて国上寺にある五合庵に向かいます。
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