1969/08/14 - 1969/08/17
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kojikojiさん
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小学生の頃に父が出張で沖縄に行ったことがありました。1969年8月14日から17日の4日間でした。沖縄の返還は1972年5月15日のことですからその3年前の「アメリカ世」と呼ばれるアメリカの統治時代のことです。父は長年共同通信社に勤めており、その当時の支社の多くは地方の新聞社の建物の中にあったようです。沖縄にもある支社を訪れたようですが、詳しいことは分かりませんが、残された写真を見ると「琉球タイムス」の建物の中にあったようです。当時はパスポートのような身分証明書も必要で、その当時のものが日本航空の航空券と共に残されていました。出張ではありましたが、那覇市内の「守礼之門」や「龍淵橋」、「円鑑池」「弁財天堂」などを散策したようです。さらに南部の「ひめゆり学徒隊の慰霊塔」にも訪ねたようです。少し海水浴も楽しんだようですが、ガンガゼというウニのとげが刺さったまま東京に帰ってきて、痛がっていたことを覚えています。その当時のパスポートや航空券、写真が残っていたので返還50周年んに当たって旅行記にしてみました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- JALグループ 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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1972年5月15日なので、それ以前に沖縄へ行くには身分証明書が必要でした。その当時のパスポートとは違った身分証明書が残っていました。
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1ページ目には顔写真の貼られた現在のパスポートのような表示があります。
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次ページには羽田から出国した日にちと帰国した日にちのスタンプ、そして琉球政府の出入国のスタンプが貴重だと思います。。
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当時の共同通信のメインバンクの第一銀行の日比谷支店で700ドルを両替して持って行ったようです。1973年に変動相場制に移行する前なので、1ドル360円の時代です。当時の金額で252,000円です。
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次のページは英文の申請書がホチキスで止められています。A4サイズが折りたたまれています。読み込んでいくと琉球タイムスの建物内にある共同通信の那覇支局長からの招へいでの出張と書かれてあります。
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裏表紙には注意事項がありました。複数回使う身分証明書ではなさそうです。
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当時の日本航空の航空券の綴りも残っていました。30年くらい前の航空券はみんなこんな感じでした。
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8月14日午前9時30分に羽田発那覇行きのJL905便で出国し、帰国は8月17日午後5時50分のJL912便です。往復の料金が151ドルで日本円で54,400円です。正規料金であれば現在はこの2倍くらいですが、この料金では沖縄には行かないなと思う金額です。
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8月14日の那覇空港は晴れていたようです。アメリカ本土からもノースウエストが乗り入れていたようです。
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NAHA空港のターミナルも現在とは全く違います。この当時はバスにも乗らずに徒歩でターミナルを移動したようです。カルテックス(Caltex)は1936年にスタンダード・オイル・オブ・カリフォルニアとテキサコの合弁で設立された石油会社です。
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那覇空港は現在も自衛隊と共同で使用していますが、この当時は米軍と共同で使用していると思います。1971年の「第12回日米安全保障会議」で自衛隊の配備が決定される前の時代です。
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その当時の共同通信社の那覇支局は那覇市久茂地1-51番地にあった「琉球タイムズ」の社屋の中にあったようです。横にはRBC琉球放送の文字も見えます。
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共同通信社那覇支局の事務所の写真です。
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父は日本国内のいくつかの支社の事務所の写真を残していて、どこも同じような雰囲気だったようです。
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その当時の社宅の写真も残っていたりします。
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こちらは1969年当時の「琉球新報」の社屋です。
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那覇市内の国際通り付近だと思いますが、どこだか確認のしようもありません。島本ベーカリーを頼りに探してみましたが。
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仕事の合間に多少の観光もしていたようです。ここだけだと現在とあまり変化がありません。一緒に来たわけではないので特に思い入れが無かったようですが、父がここへ来た46年後に母を沖縄へ連れてくることが出来ました。
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首里城側から撮った写真は現在と比べてみても周囲に建物が全くありません。
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「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」です。琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所です。形は門になっていますが人が通る門ではなく、神への「礼拝の門」の意味合いがあります。
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門の上部に掛けられている扁額の内容から1519年の尚真王(しょうしんおう)の時代に建てられたことが分かるようです。
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「円鑑池」は1502年に造られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水や雨水が集まる仕組みになっています。ここからあふれた水が隣「龍潭(りゅうたん)」へ流れていきます。沖縄戦で破壊されましたが、1968年に修復されました。この写真の1年前のことです。
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首里城周辺には仏教の寺院や御殿(うどぅん)が多数あり、屋敷を囲む石垣や鬱蒼とした樹木と相まって王都の雰囲気を醸し出していました。その中でも寺院の代表的なものが「円覚寺」です。
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この写真は建てられた看板の内容が気になったのだと思います。「!!南米自営開拓住民大募集?」とあります。パラグアイのイグアスとボリビア国内の移住地とあり、渡航費用は全額補助されたようです。
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この写真も場所が特定できるものが何も写っていません。
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米軍基地の近くで撮った父の写真です。飛行場の奥にB-52ストラトフォートレス(stratofortress)の姿が見えます。「成層圏の要塞」と呼ばれたこの機体は現在でも運用されています。
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B-52はグアム島や当時アメリカ統治下の沖縄本島のアメリカ軍基地から、北ベトナムまで長距離飛行し、絨毯爆撃を行っていました。北爆に向かうB-52の進路や機数はグアムや沖縄沖で、ソヴィエトや中華人民共和国のレーダーを搭載した偽装漁船から逐次、北ベトナム軍の司令部に報告されていたという時代でした。
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名は近くの軍港の脇にはヘリポートもあったようです。フェンスも何もないのが驚きです。
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H-21 ワークホース/ショーニー(H-21 Workhorse/Shawnee)は、1940年代にアメリカ合衆国のパイアセッキ・ヘリコプター社(後のボーイング・バートル社)で開発されたタンデムローター式ヘリコプターで、「空飛ぶバナナ(flying banana)」とも呼ばれていました。
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B-52とC-130でしょうか。フィルムの状態があまりよくないので機種までは確認できません。
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前年の1968年には離陸しようとしたB-52が上昇しきれず飛行場内の東側弾薬搬入ゲート近くで炎上し、炎上と同時に十数回大爆発を起こし、現場は一面焼け野原になった事故がありました。
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この海岸もどこだか分かりませんが、フィルムの続きが南部の戦跡なので近くの海岸だと思われます。
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8月だというのに海水浴を楽しんでいる人の姿は少ないです。
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この海岸で泳いでいてガンガゼというウニのとげが刺さってしまい、家に帰って来てから痛がっていたのを覚えています。
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「ひめゆり学徒隊の慰霊塔」にも立ち寄ったようです。沖縄県立第一高等女学校を「乙姫」、沖縄模範学校女子部を「白百合」と名付けられていたそうで、その両方の名前を合わせて「姫百合」と名付けられ、戦後からひらがなで「ひめゆり」と使うようになったそうです。
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慰霊塔の前に穴があいている洞窟が沖縄陸軍病院第三外科壕跡です。
洞窟や壕のことを沖縄の方言で「ガマ」と呼ばれ、ひめゆりの塔がある「ガマ」に当時はひめゆり学徒を含む病院関係者や住人などおよそ100名がおり、解散命令後の6月19日に米軍のガス弾攻撃を受けて80人余りが亡くなられたそうです。 -
父の行った15年後くらいに沖縄を社員旅行で訪れたことがありました。その当時ともだいぶ雰囲気が違うようです。
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こういった空港の写真などが残っていると現在と比較できて面白いと思います。ちょうど今年の5月15日で沖縄の返還50周年なので残っていた写真や資料を旅行記にしてみました。
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