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功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。<br /><br />高杉晋作らは功山寺にて挙兵した。 高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われ、死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託している。 功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけであった。<br /><br />紺糸威の少具足を身に付け桃形の兜を首に下げた格好の高杉は、兵を引き連れ功山寺へ赴き五卿への面会を請うた。 五卿を奉じる脱藩浪士がこれを取り次ぎ、寝所から三條実美が現れる。 高杉は三條へ挙兵を告げ出陣の盃を欲した。 三條実美は冷酒を注いでこれを与えた。 高杉は注がれた盃を飲み干し、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をして立ち上がった。 三條は高杉の決起を止めるつもりであったが、話を切り出すタイミングが掴めずそのまま行かせてしまったという。このように高杉は功山寺で決起し、馬関の会所ならびに海軍局を襲撃したが、どちらもほぼ無抵抗で占領を許し死亡者を出さなかった。<br /><br />功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。<br />仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。<br /><br />慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。<br />幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。<br />(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)<br /><br />高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉)は、日本の政治家、軍人。幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けた。<br /><br />高杉氏は戦国時代以来、代々毛利氏に仕え藩政に関わる要職を歴任した家である。<br />晋作は通称で、諱は春風(はるかぜ)。号は楠樹、東行(とうぎょう)。<br />長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士の長男として生まれる。3人の妹がいるが男子は晋作のみで跡取りとして大切に育てられた。<br />漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。万延元年(1860年)11月に帰郷後、雅と結婚する。<br /><br />文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は和議交渉を任される。晋作が24歳のときであった。<br />幕府による第一次長州征伐が迫るなか、下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。<br />再度の長州征討に備え、晋作は防衛態勢の強化を進めた。幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還へとつながることとなった。<br />下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日(1867年5月16日)深夜に死去。享年29(満27歳8ヶ月)。<br />(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)<br /><br /><br />

下関18 城下町長府-7 功山寺b 高杉晋作‐挙兵騎馬像 ☆回天義挙-討幕維新の幕あけ

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2022/03/29 - 2022/03/29

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功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。 回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。

高杉晋作らは功山寺にて挙兵した。 高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われ、死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託している。 功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけであった。

紺糸威の少具足を身に付け桃形の兜を首に下げた格好の高杉は、兵を引き連れ功山寺へ赴き五卿への面会を請うた。 五卿を奉じる脱藩浪士がこれを取り次ぎ、寝所から三條実美が現れる。 高杉は三條へ挙兵を告げ出陣の盃を欲した。 三條実美は冷酒を注いでこれを与えた。 高杉は注がれた盃を飲み干し、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をして立ち上がった。 三條は高杉の決起を止めるつもりであったが、話を切り出すタイミングが掴めずそのまま行かせてしまったという。このように高杉は功山寺で決起し、馬関の会所ならびに海軍局を襲撃したが、どちらもほぼ無抵抗で占領を許し死亡者を出さなかった。

功山寺(こうざんじ)は、山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。
仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されている。

慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元の没後、功山寺に改名された。
幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉)は、日本の政治家、軍人。幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けた。

高杉氏は戦国時代以来、代々毛利氏に仕え藩政に関わる要職を歴任した家である。
晋作は通称で、諱は春風(はるかぜ)。号は楠樹、東行(とうぎょう)。
長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士の長男として生まれる。3人の妹がいるが男子は晋作のみで跡取りとして大切に育てられた。
漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。万延元年(1860年)11月に帰郷後、雅と結婚する。

文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は和議交渉を任される。晋作が24歳のときであった。
幕府による第一次長州征伐が迫るなか、下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。
再度の長州征討に備え、晋作は防衛態勢の強化を進めた。幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還へとつながることとなった。
下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日(1867年5月16日)深夜に死去。享年29(満27歳8ヶ月)。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス JALグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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