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2021年4月23日(金)お昼前、連れ合いの病院での定期健診の後、同志社大学京田辺キャンパスの南側を流れる普賢寺川沿いを歩く。<br /><br />奈良県生駒市から玉水橋を渡って京都府井手町まで続く奈良県道・京都府道65号生駒井手線の元ウェルサンピア京都(京都厚生年金休暇センター)、その後同志社大学の多々羅キャンパスへ経て、現在はカゴヤ・ホールディングスになっているところと普賢寺川を挟んだ北側の山の中腹に新宮社がある。同志社キャンパスの中にある軟式球場のすぐ下で、正式には同志社の敷地内だが、キャンパスからは行けず、下の道から階段で上がるのみで、ここは出入り自由。<br /><br />この辺りは6世紀半ば、第29代の欽明天皇の時代に、渡来系の百済人が住み着いたと云われる場所。この時代に仏教が伝来したと云われているが、それ以外にも多くの高度な技術が朝鮮半島からもたらされた。この地に来た人々は製鉄技術に長けており、その功績により朝廷から多々羅の姓を下賜された。現在では多々羅は、昔ながらの伝統的な製鉄のことを指す言葉として使われているが、この辺りの地名としても残っている。<br /><br />この社はその渡来人の子孫が繁栄を祈り祀るために、祖神と仰ぐ百済国余璋王を祭神として祀った氏神社だったと考えられている。創建年代は不明だが、7世紀から8世紀辺り、おそらく天平から奈良時代あたりに掛けてと云われる。また、元々は多々羅田中山にあり、田中山宮と称したとも云う。ただし、現在は西の山の上の天王地区にある朱智神社の境外末社となり、そのためか素盞鳴命(すさのおのみこと)を祭神としている。<br /><br />参道の階段を登っていくと、新宮社の扁額を掛けた鳥居があり、林に囲まれた狭い境内があり、その中に小さな祠がある。何度も建て替えられたと思われ、現在の祠は結構新しそうに見えた。また、境内に置かれた灯篭には、お茶の産地らしく、茶器や茶筅、まるでハートのように見える茶葉などお茶にゆかりのある彫刻が施されている。<br /><br />この地はこの社の存在そのもの以上に、残された地名とともに渡来系の人々が開拓に大きな役割を果たしたという意味で、非常に貴重な場所とも云われている。<br /><br />この時期、八重桜(下の写真1)や山藤(下の写真2)が満開でとても綺麗だった。また、戻り道、桜が実をつけていたり、ツツジ(下の写真3)も満開で綺麗だった。民家には鯉のぼりもはためいており、季節を感じさせた。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5600442746692370&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上

京田辺 多々羅 新宮社(Shingu-sha Shrine, Tatara, Kyotanabe, Kyoto, JP)

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2021/04/23 - 2021/04/23

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年4月23日(金)お昼前、連れ合いの病院での定期健診の後、同志社大学京田辺キャンパスの南側を流れる普賢寺川沿いを歩く。

奈良県生駒市から玉水橋を渡って京都府井手町まで続く奈良県道・京都府道65号生駒井手線の元ウェルサンピア京都(京都厚生年金休暇センター)、その後同志社大学の多々羅キャンパスへ経て、現在はカゴヤ・ホールディングスになっているところと普賢寺川を挟んだ北側の山の中腹に新宮社がある。同志社キャンパスの中にある軟式球場のすぐ下で、正式には同志社の敷地内だが、キャンパスからは行けず、下の道から階段で上がるのみで、ここは出入り自由。

この辺りは6世紀半ば、第29代の欽明天皇の時代に、渡来系の百済人が住み着いたと云われる場所。この時代に仏教が伝来したと云われているが、それ以外にも多くの高度な技術が朝鮮半島からもたらされた。この地に来た人々は製鉄技術に長けており、その功績により朝廷から多々羅の姓を下賜された。現在では多々羅は、昔ながらの伝統的な製鉄のことを指す言葉として使われているが、この辺りの地名としても残っている。

この社はその渡来人の子孫が繁栄を祈り祀るために、祖神と仰ぐ百済国余璋王を祭神として祀った氏神社だったと考えられている。創建年代は不明だが、7世紀から8世紀辺り、おそらく天平から奈良時代あたりに掛けてと云われる。また、元々は多々羅田中山にあり、田中山宮と称したとも云う。ただし、現在は西の山の上の天王地区にある朱智神社の境外末社となり、そのためか素盞鳴命(すさのおのみこと)を祭神としている。

参道の階段を登っていくと、新宮社の扁額を掛けた鳥居があり、林に囲まれた狭い境内があり、その中に小さな祠がある。何度も建て替えられたと思われ、現在の祠は結構新しそうに見えた。また、境内に置かれた灯篭には、お茶の産地らしく、茶器や茶筅、まるでハートのように見える茶葉などお茶にゆかりのある彫刻が施されている。

この地はこの社の存在そのもの以上に、残された地名とともに渡来系の人々が開拓に大きな役割を果たしたという意味で、非常に貴重な場所とも云われている。

この時期、八重桜(下の写真1)や山藤(下の写真2)が満開でとても綺麗だった。また、戻り道、桜が実をつけていたり、ツツジ(下の写真3)も満開で綺麗だった。民家には鯉のぼりもはためいており、季節を感じさせた。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5600442746692370&type=1&l=223fe1adec


以上

  • 写真1 八重桜

    写真1 八重桜

  • 写真2 山藤

    写真2 山藤

  • 写真3 ツツジ

    写真3 ツツジ

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