2022/03/02 - 2022/03/02
1132位(同エリア1708件中)
mumuさん
鎌倉に入った頼朝は、佐賀見を倒すために西へ向かいます。
平家も討伐に軍隊を派遣しており、富士川で対峙します。
そう、これが有名な「富士川の合戦」。
由来する場所を回ることにしました。
しかし、現在の富士川の場所とは、かなり離れているようです。
イメージですと、川を挟んで両者が対峙していたと思っていたのですが。
この地を歩いて、湧水があちこちにある事がわかりました。
平安時代には、かなり広い範囲に湿地帯が広がっていたと思われました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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最初に、何はともあれ平家軍の陣があったとされる場所に行きました。
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かなり、綺麗に整備されています
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平家越の歴史的な説明板もあります
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裏をみると、大正13年1月26日、皇太子殿下御成婚記念とありました。
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西側には、沼川が田子の浦へと流れています。
平家は、富士川の西に陣をとっていたのでは??
少し不思議な感じがします。
沼川の上流に「和田義盛神社」があり、和田軍が陣を構えたとされていました。
謎は深まります。 -
次に、頼朝の伝説がある「鎧が淵親水公園」に行ってみました。
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一応、富士市の幟旗も立っています。
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最初の4行に、ここで、頼朝が鎧を脱いで体を洗ったとありました。
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湧水の水量がとても豊富です。
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ここから、富士の湧水が勢いよく出ていました。
付近をあるきましたが、あちこちから豊富な湧水が出ていて、当時は富士沼とも呼ばれ、かなり広い範囲を富士川と捉えていたようです。 -
「鎌倉殿の13人」の幟旗があります。
近くに、源氏の兵糧を置いたとされる「飯盛浅間神社」や「源軍物見の松」がある「御崎神社」がありましたが、頼朝の名はないので、甲斐武田源氏軍の陣かもしれません。
頼朝が戦勝祈願をしたとされる「諏訪神社」があるので、頼朝がこの辺りに立ち寄ったのは確かと思われました。 -
頼朝伝承がある「横割八幡宮」に行ってみました。
ここが、現在の富士川の一番近くです。 -
ここにも「鎌倉殿の13人」の幟旗がありました。
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ここでの伝承だと、この地に頼朝は陣をとり戦勝を祈願したところ、その夜平家軍が退散したとなっていました。
そして、地名をよろこびの島「賀島」と名付けたそうです。
もしかすると富士川の河川敷のあちこちにある中洲に、平家軍は西の端から平家越の辺りまで、源氏軍はその周りを東から囲むように陣取っていたのかもしれません。
平家越の辺りの軍が水鳥に驚き退散が始まり、平家全軍の退散に繋がったのかも。。 -
合戦に勝利した頼朝は、「上差しの矢」と「馬」を奉納したそうです。
平家軍を追ってきたが、ここで諦めて、装備品を奉納して戻ったという事でしょうか。
富士川の合戦の詳細は、不明なようです。 -
この辺りには、かぐや姫伝説もあるようです。
富士山が綺麗に見える美しい場所です。 -
富士市から、沼津方面に向い、清水町にある「八幡神社」に行きました。
今は、綺麗なバイパス道がありますが、当時の旧道だとかなり道は悪そうです。
頼朝軍の「黄瀬川の陣」がここだとすると、「富士川の合戦」に参戦というよりは、後陣の守りのようです。
しかし、東からの大庭軍や伊東軍の参戦を阻む役割は果たしたでしょう。 -
頼朝義経対面石をかなり前面に出している八幡神社の案内板です。
八幡神社は沢山あるので、迷わなくて助かります。 -
八幡神社の正面
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左にある「白旗社」に頼朝が祀られているそうです。
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本殿の左に「対面石」がありました。
頼朝と義経の感動的な対面が、大河でも描かれていました。
この先皮肉な運命が待っているのですが。。。 -
たまたま、奥州から駆けつけた義経、と書かれていました。
ねじり柿の伝承もあるようです。
どうも頼朝の伝承には、ねじれた植物が多い気が。。
今回、富士川の合戦地を歩いて巡り、当時の地形との違いが良くわかりました。
富士の湧水の凄さも肌で感じることができて良かったです。
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