2022/02/01 - 2022/02/01
522位(同エリア7302件中)
愛吉さん
今年の大河ドラマは”鎌倉殿の13人”、ドラマはスタート直後で未だ鎌倉には到着していませんが、先回りをして武家の古都鎌倉の史跡を訪ねます。
歴史に登場する現場のみを選びました。
初回は二階堂永福寺跡をスタート、途中史跡を訪ねて鎌倉駅迄歩きます。
鎌倉駅からはバスで出発。
表紙の写真は段蔓から見た鶴ヶ岡八幡宮。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル
-
バスは鎌倉宮前で下車、バス停は鳥居の前です。
鎌倉宮参詣は後回しにして、先ず永福寺跡に向います。
鎌倉宮を回り込むように細い杣道を進むと。 -
一気に目の前が広がります。
着いた処が永福寺跡。
復元された池の向こうに二階建の仏閣が建っていました。 -
案内板があります、頼朝が1189年、奥州征伐で亡くなった多くの将兵の為に建てた寺、平泉の二階大塔長寿院を模して造った2階建寺院で2階堂と呼ばれました。
二階堂の名は現在も地名として残っています。
永福寺は当時幕府の迎賓館として使用された寺院です。
尚現在史跡公園として整備中ですが、土地の買収が進展せず、開設時期は未定との事でした。 -
裏山の中腹に設けられた展望台から見た跡地。
しばし往時を偲びます。 -
今度は殿舎跡より復元された池を望みます。
砂州(石)が敷かれ豪壮な庭を予感させます。 -
庭の外れには鑓水も発掘されました。
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鑓水の跡。
資料によると数々の名石が配置されていましたが、発掘調査では一つも発見されませんでした。
現在は普通の石を並べています。 -
二階堂(本堂)を中心に南に阿弥陀堂、北に薬師堂、鶴翼の先には夫々釣殿が設けられた堂々たる造り、発掘後は建物跡に基段が設けられ、礎石も置かれています。
これで永福寺跡を終了し鎌倉宮に戻ります。 -
鎌倉宮に戻って来ました、拝殿です、先ずはお参り。
祭神は後醍醐天皇の第3皇子、大塔宮護良親王、建武中興で活躍、その後足利氏の讒言によりとらえられ、鎌倉のこの地にあった東光寺に幽閉、最後に足利氏により殺害されます。
明治天皇はこれを哀れに思い、明治2年東光寺跡にこの社を創建、自ら鎌倉宮と命名しました。
本殿の後方に護良親王が幽閉された土牢が残ります。 -
社務所の脇には、鎌倉宮の代表的お守り獅子頭が飾られていました。
これは大塔宮が獅子頭をいつも兜に忍ばせていた故事によるもので、家内に飾る大きなものから、財布に付ける小さなものまであります。 -
本殿の裏に回って来ました。
土牢の説明板。 -
護良親王が幽閉されていた土牢。
二重構造になっており、この奥にもう一つ土を掘り下げた牢が存在します、深さは4米、広さは約8畳との事。 -
御首塚
大塔宮の首は元竹藪であったここに捨てられました。 -
護良親王墓。
鎌倉宮から250米程離れた山の中腹にありますが、現在道が壊れ入山禁止、これは2013年に写したものです。 -
道を鎌倉駅に向って歩き始めます。
先ず荏柄天神、大楠が鳥居代わりです。 -
長い石段の先に楼門。
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石段を登って拝殿。
祭神は菅原道真公、創建は1104年と伝わり、大宰府天満宮、北野天満宮と並び三古天満宮に数えられます。
尚当時幕府の鬼門を守る社として崇高を集め、頼朝も参拝したと思います。 -
道真公は学問の神様、多くの絵馬が奉納されています、梅はチラホラ咲き。
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境内の奥に絵筆塚。歴代漫画家達が一枚ずつ河童の絵を奉納しています。
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それではアップで。
お目当ての漫画家を探して下さい。 -
絵筆塚より拝殿。
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道を下って来ると角に大倉幕府の旧跡碑が。
頼朝が幕府を開いた処、武家政治が始まった処です。 -
反対側には道案内。
次は頼朝公の墓を目指しましょう。 -
頼朝公の墓所。
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石段を上がると五輪の塔、頼朝公の墓です。
江戸時代薩摩島津氏によりここに建てられました。
島津氏の始祖は頼朝に始まるといわれます。 -
一方石段の手前左側に鳥居が見えます、白旗神社です。
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頼朝が亡くなった直後は、ここに阿弥陀堂を建てて位牌を安置し墓所としました。
その阿弥陀堂の跡地に建つのがこの白旗神社です。(白旗は源氏のシンボル)
頼朝が死ぬと、北条氏は有力御家人を次々に滅ぼし、2代将軍頼家も幽閉暗殺、3代将軍実朝も暗殺、そして最後に残った三浦氏を攻め滅ぼします。
世に言う宝治合戦ですが、三浦氏が最後に籠ったのがこの阿弥陀堂、一族530人程が自刃しています、北条氏はこれにより幕府の執権職を確立しました。 -
白旗神社から山裾を回り隣の山に向います。
登った処は2代執権でドラマで活躍する北条義時の阿弥陀堂跡。
義時の位牌を治めた処で、白い杭で囲まれています。
その先に白い柱が2本見えますが、これは鳥居。 -
鳥居の先は石の階段、古い階段で崩れ傾き、幅は狭く、手摺は有りません。
草の根に掴まり漸く登ります。 -
登った先に有るのは大江広元の墓、幕府の文官で13人の1人です。
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中を覗いてみましょう。
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墓の横に建つのは広元の顕彰碑。
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その隣の墓は、広元の4男で長州毛利家の祖となる毛利季光の墓。
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5米程間を置いて、北条氏に攻められ、頼朝の阿弥陀堂で自害した三浦泰村一党の墓。
恨みが籠っていると思います、安らかにと念じながら山を下ります。 -
7~8分歩いて宝戒寺、北条執権家の屋敷跡です。
幕府滅亡時、多くの婦女子、郎党が自害した処、政変後後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、其の跡に一寺を建立、菩提を弔った寺です。 -
宝戒寺の参道。
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境内。
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又5分程歩いて東勝寺跡。
北条氏の菩提寺で,新田義貞の鎌倉攻めで幕府滅亡時、最後の執権北条高時以下870名がここで自害しました。 -
今は草の生い茂る草原と化し、やぐらを残すのみ、未だ北条一族の怨念が漂っています。
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奥の山際には、怨念を示すかのように草に埋もれた石碑が。
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”夏草や 兵共が 夢の跡”
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腹切やぐらに続く道。
ここから先は道が悪く現在通行止めです。 -
鶴ヶ岡八幡宮に到着。
太鼓橋から写しました、手前が舞殿、後方が山門になります。
舞殿は静御前が頼朝の前で舞を披露し、夫義経を慕うこの歌を歌ったと伝えられます。
”しずやしず しずのおだまき繰り返し 昔を今に成すよしもがな”
”吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき” -
山門前の大階段。
建保7年(1219)2月13日 雪の夜、3代将軍実朝が右大臣拝賀の式を終え退出する際、この階段を降りきった処で公暁に暗殺されます。
首はまだ見つかっていません。 -
段蔓を歩き鎌倉駅に向います。
この段蔓は頼朝が政子の懐妊を知り、その安産を願って八幡社に奉納しました。
そして生まれたのが頼家です。
鎌倉殿の13人、第1回史跡巡りの旅もこれで終了です。
ものの哀れを感じる旅となりましたが、これも武家の古都鎌倉の宿命なのでしょうか。
2回目はどんな旅になるのでしょう。
終
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