2021/04/03 - 2021/04/03
280位(同エリア415件中)
ちふゆさん
2021年4月3日(土)1時50分頃、明石浜光明寺からさらに南に進む。すぐ南に架かる錦江橋を渡る。江戸初期にはもう少し西に架かっており、お茶屋橋と呼ばれていた。その後大黒橋と改められ、さらに数回架替えが行われ、1911年(明治44年)にこの場所に架け替えられ、名前も錦江橋となった。その名は中国の名に由来し、光り輝く美しい海湾の様子を表している。
橋を渡った先はかつての淡路フェリーの発着所。明石海峡大橋架橋以前は淡路島へ渡るフェリーや旅客船が頻発していたが、架橋後は旅客が大きく落ち込んで航路廃止が相次ぎ、2010年に明石淡路フェリー(通称たこフェリー)が運行を停止し、全てのカーフェリーがなくなった。現在このフェリー乗り場には高層アパートが建っている。
このフェリー乗り場があったところは、東向かいの鉱産品(砂利)を取り扱う公共ふ頭と併せて東外港と呼ばれているが、戦後に沖に防波堤を築いて新たに作られた港。元々は明石城築城時に錦江橋を渡った先の中崎を埋め立てて作った内港しかなかった。
錦江橋の西側が元々の港で、その西端の船溜まりの手前に現在残る唯一の淡路島(岩屋)航路の淡路ジェノバラインの発着所がある(下の写真1)。このジェノバラインは人だけでなく、自転車や125cc以下の原付やバイクも乗ることが出来(原付やバイクは乗船できる船が限られている)、自走で淡路島に渡る唯一の道となっている。なお、錦江橋の東も船溜まりになっている(下の写真2)。
この内港、東外港の他にこの2つの港の出入口となる西防波堤灯台のすぐ西に中外港、さらにその西に西外港もあり、沖に防波堤も造られている。これらの外港では主に水産物が取り扱われている。ちなみに明石での水揚げの約1/3が鰯類で、次いで鯛類と蛸類がそれぞれ17%程度でこの3類で約2/3を占める。さらについでだが、鰯類の兵庫県の漁獲量は全国11位(1位は千葉県)、鯛類は6位(1位は長崎県)、蛸類は2位(1位は北海道)。
錦江橋を南に渡ると道は左に曲がり、東に進む。すぐに中崎橋を渡るが、東外港が整備された際に掘られた水路で、江戸時代に埋め立てられてから戦後まで中崎地区は本土と地続きだった。
中崎橋から100mほど西の中崎1丁目の変則交差点から両サイドより1段高くなった道が続くが、これは築港時に築かれた堤防で、元々は南側は海で、北側は船溜まりが続いていた。明治以降は明石海峡や淡路島を望む景勝地として観光開発が進み、北側は埋め立てられて住宅地となり、南側は埋め立てられて明石市役所などが置かれている。
この堤防の北側の斜面が整備されて中崎遊園(地)と云う林の続く公園になっている。国に召された明石公園の代替として、明石町が港湾付属堤塘(堤防)地を県から無償借地し、1903年(明治36年)に明石中崎遊園地として発足したもの。
1911年(明治44年)には海水浴場などが整備されるが、大正初期から海岸の浸食が進行し、1922年(大正11年)にはすっかり浜がなり、その4年後にに海岸堤防の修繕が行われる。戦後は海岸用地になっていたが、地先の埋め立てが進み、1985年に公園整備を完了した。
堤防を東に進むと「ラヂオ塔」と書かれたベージュ色の四角い塔。1937年(昭和12年)に建てられた塔でラジオで街頭放送を流していた施設。鉄筋コンクリート造一部石造、一辺1.2m、高さ3.4mの方形の塔で、頂部を燈籠状にしてラジオの台とし、軒反りをつけた宝形造の屋根が乗っている。建設当時の社会の様相とラジオの普及の過程を物語っている。昭和初期には各地の公園などに設置されていたもので、今でも関西を中心にいくつかが残っているそうだ。
堤防は400mほど続く。左手、北側は松が植えられた斜面が続き、右手、南側は少し進むとマンションなどが建ち並んでいるが、その中には焼きあなご丼やたこ天が評判の「かね正」と云う食堂もある。
堤防の東端あたりに近づくと明石遊園の碑。ここから道を下って行くと分かれた道に挟まれて日露戦争の忠魂碑が建つ。周囲よりも一段高いところに台座を設け、その上に忠魂碑が建っているので相当大きく見える。彫られた文字は東郷平八郎の筆によるもの。1919年(大正8年)に帝国在郷軍人会明石市分会が建立したもの。
そして忠魂碑の少し先の南側に中崎公会堂。 1911年(明治44年)に明石郡公会堂として建築された多目的ホール。建てられた当時にはこの建物の南側はすぐ海だった。現在国道28号線となっている辺りが海岸で建物は海岸をバックに建てられた。
奈良・鎌倉時代の建築様式を取り入れた木造平屋建で建築面積499平方m、入母屋造桟瓦葺。4周に下屋を廻らし、正面に唐破風造の車寄を付した玄関を張出す。小屋をトラス組として広い空間を作る、建築技術史的にも貴重な建造物。寺院風の外観が特徴的な市内で現存最古の公共施設で、明石市の都市景観形成重要建築物、国登録有形文化財に登録されている。
設計・監督を務めたのは、明石郡伊川谷出身の加護谷祐太郎。東京帝国大学を出た後、奈良県の技師となり、東大寺大仏殿の保存修理などにも携わった人物。
こけら落としに夏目漱石が講演した他、菊池寛や佐藤春夫などの講演も開催された。講演当時の漱石は44歳。すでに「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」などを発表して大作家となっていたが、同時に東京朝日新聞の社員として専属的に連続小説を書くという立場でもあり、この時は大阪朝日新聞の依頼で明石、和歌山、堺、大阪で連続講演会を開いた。販促イベントと思われる。連日の移動・講演にもかかわらず毎回テーマを変えており、明石での講演内容は「道楽と職業」だった。この様子は内田百閒が随筆で記述している。
公会堂の北東には門を構えた玄関口(写真桜の木の右奥)と木の装飾が特徴の老舗温泉旅館の人丸花壇も見える。1950年創業。現在の女将は松平家の子孫にあたり、皇族方もご来店された由緒ある老舗。松本清張氏や内田康夫氏も訪れ、「Dの複合」に登場している他、「須磨明石殺人事件」のテレビドラマ化ではロケ地となっている。
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国道を渡って元々は海だったところに向かうが、続く
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