2018/07/11 - 2018/07/21
2位(同エリア14件中)
ミランダさん
皆さま、お久しぶりです。
長らく、続かなかった2018年のジョージア旅の続きです。
欧州では昨年半ばから行き来ができるようになり、待ってましたとばかりに旅行を再開したため、何かと忙しく、書く余裕がなかったというのが言い訳です。
さて、カズベギから軍用道路を下り、この日はスターリンの出生地として有名なゴリに行きました。
スターリンと言えば、ヒトラーと並ぶ極悪人と理解していましたが、立派なスターリン博物館があり、意外にも地元では英雄視されているのが分かりました。
直接、被害にあっていない私は「へえ~」と驚いただけでしたが、被害にあった人には憤懣やるかたない様子だったのがココロに残っています。
そんな話を写真を中心に残したいと思います。
我々夫婦は旅行好きで、これまでに50カ国超を訪れています。割と最近の旅も含め、よろしかったら、こちらからご覧ください:https://mirandalovestravelling.com/ja/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 5.0
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すっかりジョージアの観光名所となっているカズベキでは、翌朝、6時に目覚ましをかけて5047メートルのカズベキ山を見ました。
早朝には見られるという予報だったからです。
確かに、ほんのり朝焼けに染まった大きな山が、前日訪れたゲルゲティ・サメバ教会の背後に見られました。
それで見たつもりになって、もう一度、ベッドに戻りました。 -
イチオシ
ところが、その後、しっかり起き上がった時に窓を見たら、もっと巨大な山が、教会の右側にそびえているのが見えました。
カズベキ山はこっちだったのでした。 -
朝食後に前日上ってきた軍用道路を下って行き着いたのは、この日の目玉はゴリのスターリン博物館です。
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私達が着いた時には、ちょうど英語のガイド付きツアーが始まっていたところで、これはその最初に聞いたベリヤに関する説明の部分。
ベリヤも悪名高い人物ですが、スターリンと共に、ジョージア出身だとのこと。
「粛清」を率いたベリヤですが、後年はスターリンから不信感を持たれたそうです。
この写真の絵の一番右の白塗りにされている人物がベリヤ。
ベリヤがスターリンを殺したという説もあるそうです。 -
この写真の中で一番、大きく写っているのは、スターリンの最初の奥さんとの間の息子で、第二次大戦中にドイツ側に捕まりました。
ドイツは、捕虜にされていた自国の将軍と彼を交換することを提案しましたが、スターリンは「自分の息子だからと特別扱いするのは間違いだ」として断りました。
この息子はドイツで死亡したそうです。
スターリンには2人目の妻との間に息子と娘がいました。
この奥さんはずっと若かったそうですが、自殺したそうです。
息子はアル中、娘は父の死後、インド経由で米国に渡ってそちらで暮らしたそうです。
私達の運転手がアル中の息子のひ孫を個人的に知っていて、その彼もアル中だったとか。 -
一番の見ものは、スターリンのデスマスクでしょう。
ここにあるのは、存在する9つの彼のデスマスクの6番目だそうです。
訛の強いガイドさんの英語は、彼女の真っ赤な唇をようく見ないと、分かりづらかったです。 -
この写真は、スターリンの生家を博物館の敷地内に移築したものの内部です。
木造の家ですが、周りに石造りの屋根が付いていて、まるでお堂のようでした。
スターリンの父親は靴屋で、スターリンをよく殴ったそうです。
母親はお針子で、スターリンを宗教学校に入れたとか。
宗教学校で禁じられていたマルクスの本を読んでいたため、スターリンは追放され、活動家に。
7回もシベリア送りになり、脱出。
最後にはボコボコに殴られ、そのせいで片腕が短いという話でした。 -
それにしても、立派な博物館。
ちょっとした宮殿のようでした。 -
2010年になって初めて「彼の悪い面を示す部屋を地下に作った」(ガイドさん)とのこと。
それを聞いた、ツーリストの一人が「彼の良い面なんてあるの?」。
この彼女は、スターリンがウクライナ人を飢えさせた話の部分で、少し、うるうるしていたと夫が言っていたので、ウクライナ人だったのかもしれません。 -
庭には、スターリン専用の列車の車両が。
スターリンは高所恐怖症だったので、飛行機に乗れなかったのだそうです。
私達のガイドのアナは、ゴリの出身。
彼女によると、祖父母の世代は今でもスターリンを英雄視し、誕生日を祝ったりするそうです。
実際のところ、スターリン時代、ジョージア(グルジア)は比較的、優遇されていたという話。
市役所前に巨大なスターリンの像があったそうですが、サーカシビリ(第3代ジョージア大統領)が取り除いたそうです。
でも、今もこの町の目抜き通りはスターリン通りという名前。
町の若者たちが、ヨーロッパ通りにしようと運動したそうですが、聞き入れられなかったそうです。 -
話は変わり、博物館の後、ウプリスツィヘという洞窟都市へ。
紀元前2世紀から1世紀のもので、かつては、700もの穴があり、2万人が暮らしていたところだそうです。
今でも250ほどの洞窟が残っています。
なぜ穴が減ったかというと、モンゴルの襲撃と地震のせいだそうです。 -
キリスト教以前の異教徒の神殿跡や、病院の跡、ワイナリーの跡などを見学しました。
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この洞窟都市は高台にあり、上からはこんな景色が見られました。
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丘のてっぺんには、10世紀に建てられたというバジリカが。
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イチオシ
昔はろうそく立てがなく、ろうそくを壁にくっつけていたそうで、その跡が残っていました。
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バジリカの中は今はこんな具合ですが、昔はフレスコ画で満ちていたそうです。
19世紀にロシアの支配下に入ってから、ロシア人が白く塗りつぶしてしまったという話でした。
なぜ?という部分は聞けませんでしたが。 -
洞窟都市からは、こんな「秘密の通路」を通って、下界に下りました。
このトンネルは幅3メートル、長さ64メートルだそうです。 -
これは、単に町なかでみかけたバス。
この後は、ゴリを後にして、ジョージア第3の都市、クタイシに向かいました。
3時間ほどの道のりで、途中、寝たり起きたり。
ところで、ゴリは、2008年の5日間戦争(ジョージア対ロシアの戦争)の際、最初に攻撃を受けた都市だそうです。
当時、ゴリに住んでいた9歳だったガイドのアナも当時のことは覚えていて、地震かと思ったと言っていました。
ここのすぐ北がジョージアから独立したがっている南オセチアです。
この戦争の時にはEUの代表として当時のサルコジ仏大統領が来て、調停したそうですが、南オセチアとアブハジアはロシアの物となったとアナは話していました。
一般には「事実上、独立」と言われますが。
アナによると、「EUの調停がなければ、ジョージア全体がロシア傘下に入ることになっていたかもしれない」とのことです。 -
やっと着いたクタイシでは、世界中どこにでもあるBest Westernホテル。
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ごく普通~のホテルでしたが、この町では結構、目立つ存在でした。
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窓からの景色はこんな感じ。
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一休みの後、アナに教わったPalatyというレストランへ。
ちょうどサッカーのワールドカップの決勝戦中で、入った時には、皆、テレビにかじりついていました。
ちなみに勝ったのはフランスでした。
試合が終わった後は、ジャズの生演奏がありました。 -
ここでは、こんなワインを飲み、
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ホウレンソウとクルミの肉団子と、
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クルミ・ソースと言いながら、カレーの味がするソースにどっぷり漬かったチキンと、
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チキンのタバカ焼きを食べました。
このタバカ焼きは逸品!
昔からタバカ焼きは好きなのですが、ここのはまさに、私好みの味でした。 -
そして、ここで初めてチャチャに挑戦。
これはワインを作った残りかすで作ったウォッカです。
強いばかりで、美味しいとは思わなかったですけれど。 -
ほろ酔い加減で、こんなクタイシの夜の風景を見ながら、ホテルに戻りました。
翌日はまた、山の中に入ります。
(つづく)
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