2021/11/19 - 2021/11/19
48位(同エリア115件中)
naoさん
大阪府南河内郡太子町は、奈良県の香芝市や葛城市と隣接する府東南部に位置し、町の東には、万葉集で『ふたかみやま』と詠われた、北側の雄岳と南側の雌岳によって形作られた二上山(にじょうさん)が美しい姿を見せる、緑豊かな自然と数多くの歴史ロマンに彩られた町として知られています。
「太子町」の地名は、わが国最初の成文法として推古天皇12年(604年)に制定された「十七条憲法」や、「遣隋使」の派遣などにより、歴史上重要な人物の一人として最もよく知られている、聖徳太子の墓所が伝承されていることから名づけられたもので、現在、「十七条憲法」の最初に記された『和を以って貴しと為す』の精神をモットーとして町政運営にあたっておられます。
太子町南部一帯に分布する磯長谷(しながだに)古墳群には、伝承する聖徳太子墓をはじめとして、「敏達」、「用明」、「推古」、「孝徳」の各天皇陵など、7世紀飛鳥時代の大型墳墓が点在しており、「王陵の谷」とも呼ばれています。
和銅5年(712年)に口述筆記された「古事記」に『近つ飛鳥』という記述がありますが、これは履中天皇の弟にあたる反正天皇(はんぜいてんのう)が、難波から大和の石上神宮に参詣する途中に宿泊した二か所の土地に名前を付けるにあたり、近い方を『近つ飛鳥』、遠い方を『遠つ飛鳥』と名付けたものです。
『近つ飛鳥』は現在の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域を、また、『遠つ飛鳥』は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさしたもので、『近つ飛鳥』は推古天皇21年(613年)に整備された日本最古の官道といわれる竹内街道沿いに位置しています。
現在の堺市大小路から羽曳野市を経て太子町を通り、二上山南麓の竹内峠を越えて奈良県当麻町の長尾神社へ至る全長約26kmの竹内街道は、今も人々の往来に供されています。
現在の太子町には、農村集落の面影を留める町家が点在する町並みが広がっていますが、この地の町家の大きな特徴の一つに、白漆喰で塗籠められた持ち送りの水切り庇が付けられていることが挙げられます。
私の記憶では、高知県室戸市吉良川や奈半利町の町並みでよく似た水切り庇を見ましたが、近畿圏では全く目にしたことはありません。
なお、今回の太子町散歩では相当広範囲を歩き回ったので、字(あざ)名別を目安に、複数の旅行記に分割することにしました。
この稿では、「春日」と「山田」という字(あざ)にまたがる竹内街道の町並みを一編にまとめました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「春日」と「山田」にまたがる竹内街道にやって来ました。
この「緑の一里塚」は、平成25年に竹内街道が整備されて1400年を迎えることを契機に取り組まれている、「竹内街道・横大路(大道)1400年活性化プロジェクト」の一環として整備されたものです。
では、ここから竹内街道を歩きます。 -
まずは「春日」の竹内街道から。
現代風にスチール製の駒留をめぐらせた町家です。 -
紅カナメモチの赤い色が町並みに潤いを与えています。
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玄関前にこんなにゆったりしたオープンスペースが取れるなんて、羨ましい限りです。
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こちらのお屋敷は、敷地内にお地蔵様が安置されています。
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奥への通行を確保するため、2階に上がる渡り廊下が設けられています。
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町角に設けられた常夜燈。
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緩やかに曲がりながら続く道が・・・
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ここが古い街道であることを教えてくれます。
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こちらの町家も、急勾配の茅葺屋根と、それより一段低い緩勾配の瓦葺屋根で構成される大和棟の姿をとどめる建物です。
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つい足を踏み入れたくなるような路地の先へ続く町並みがあります。
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ハナミズキの紅葉と赤い実が秋の風情をたたえています。
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かつてここは竹内街道といづみ道が交差する三叉路だったところで、今は更地になっていますが、以前は旅籠「角屋」があったそうです。
古い道標には、正面「右 たへま(當麻)、つぼさか、いせ よしの 高野、道」が、左面「すぐ たへま(當麻)、よしの、はせ(初瀬) 道」が・・・ -
また、右面には「右 大坂、さかい 左 たいし、いづみ(和泉) 道」の文字が見えます。
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白漆喰塗り籠めの、瓜型の虫籠窓のある町家です。
さて、この辺りが竹内街道の「春日」と「山田」の分岐点になります。 -
ここから先は「山田」の竹内街道に入ります。
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特徴的な水切り庇と白漆喰塗り籠めの虫籠窓のある町家です。
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大きな分岐路には、竹内街道の石標が置かれています。
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こちらには、「近つ飛鳥の里」太子町の案内図と竹内街道の石標が設けられています。
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竹内街道の町並みです。
「如何にも」といった風情が漂っています。 -
こちらは、江戸時代中期から街道を行く人々を見守ってきた「しもの地蔵尊」です。
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とてつもなく頑丈そうな、太い持ち送りが町家の下屋を支えています。
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竹内街道の町並みです。
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小ぶりながらも、こちらの町家には大和棟の特徴が見て取れます。
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白漆喰で塗籠められた・・・
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持ち送りの水切り庇をめぐらせた土蔵が続きます。
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大きな石碑が置かれている町家には、煙出しの越屋根が設けられています。
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大和棟の姿をとどめる町家の軒下ギャラリーには、家主さんの趣味かと思われる写真が展示されています。
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黒漆喰塗りの壁と、白漆喰塗籠めの瓜型の虫籠窓の対比が鮮やかな町家です。
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竹内街道に面して設けられた池には、かわいい梅花藻の花が咲いています。
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曲がりながら続く竹内街道。
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玄関先に何気なく植えられた草木が、歩き疲れた身に安らぎを与えてくれます。
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大和棟の姿をとどめる主屋のあるお屋敷です。
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茅葺屋根が現代風の瓦に葺き替えられていますが、決して大和棟の佇まいを損ねてはいません。
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土塀をめぐらせたお屋敷には、瓜型の虫籠窓のある主屋がありました。
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こちらの町家も、黒漆喰塗りの壁と、白漆喰塗籠めの虫籠窓のコントラストが鮮やかです。
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竹内街道の町並みです。
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幅の広い片引きの玄関戸がはまった町家です。
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こちらの町家も元は茅葺屋根だったようですが、大和棟の様式ではありません。
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「大道旧山本家住宅」と書かれた看板が立てられたお屋敷が見えてきました。
こちらの「大道旧山本家住宅」は、叡福寺の門前にある「山本家住宅」と区別するためにこう名付けられているのではないかと思われます。 -
「大道旧山本家住宅」の前には・・・
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周辺一帯の磯長谷(しながだに)古墳群に分布する、「敏達」、「用明」、「推古」、「孝徳」の各天皇陵などを示す道標が立てられています。
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「大道旧山本家住宅」は、茅葺きの切妻屋根の両側を本瓦葺きとする大和棟の主屋と、庭をはさんで主屋と渡り廊下で連なる入母屋造瓦葺きの離れ家からなり、さらに東側には土蔵も配置されています。
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ほぼ完全な姿で残る大和棟の主屋は、その構造手法から江戸時代末期の建築と推定されています。
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また、右手の離れ家には大正元年(1912年)の棟札が残されています。
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「大道旧山本家住宅」は春と秋の特別公開のほか、各種イベントなどの際には屋内を見学することが可能です。
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主屋の右手(西側)にわずかに見えているのが離れ家、左手(東側)が土蔵になります。
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主屋の手前(東側)に見える土蔵は昭和27年(1952年)に建て替えられたもので、当初は広場を囲んで他に2棟の米蔵もあったそうです。
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竹内街道の町並みです。
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こちらの町家は、茅葺屋根が金属板で葺き替えられていますが、大和棟の特徴は十分残っています。
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こちらの町家は、木製の格子がはまった虫籠窓が開けられています。
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くねくねと曲がりながら続く竹内街道。
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文字は読み取りにくいですが・・・
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この辺りには二基の道標が立てられています。
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「右」、「左」の字が読めることで、辛うじて道標だということが理解できます。
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竹内街道と道標の位置関係。
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こちらは、国道166号線沿いに設置されている、「大地の耳・万葉の耳」と名付けられたモニュメントです。
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地中から伸びるステンレスパイプに耳をあてると、大地と風の音が聞こえるそうです。
では、ここでUターンして、「山田」の町並みへ向かいます。 -
木々の紅葉がお日様に照らされて、より一層鮮やかさを増しています。
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こちらは陶芸の窯元さんのようです。
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餅屋橋は、「大道旧山本家住宅」の前の道標にその名が刻まれていました。
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見えている大和棟の建物は、餅屋橋から見た「大道旧山本家住宅」の主屋になります。
では、餅屋橋を渡って「山田」の町並みに入ります。
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