2014/03/12 - 2014/03/13
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OE-343さん
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青森県津軽地方、そして秋田県や山形県と上野を直結していた寝台特急あけぼのが2014年3月14日の運転を持って運転を終了しました(臨時ではその後何回かありましたが)。
最後の1年となった2013年は、私はこの列車と新幹線を使って、毎月、弘前近くの自宅から信濃町の慶應義塾大学病院まで通院していた年であります。そして、いろいろあって、2014年3月に東京に行く移住することになってしまいました。
1年間の東京までの長距離通院は、体調が悪い中での移動です。なので、相当な疲労がありました。しかしながら、それにも増して私に対して大きなストレスを与えたのは、周囲の人々でした。弘前大学病院では出せないお薬「漢方薬の煎じ薬」を、その分野の世界的専門家(WHOの委員もしています)の先生からもらっているのに、それはだめだと、弘前大学で治療をしなければならないと言うのです。そして、東京に病院通いに行ってもいいんじゃないか、と言ってくる人たちも、そちらとしては親切心でお金のことを気にしてくれているのでしょう、私に対し「深夜バスに乗って行きなさい」ときつく怒ってきます。会うたびに、深夜バスに乗りなさいと怒鳴り声を浴びせます。「寝台特急は疲れるでしょう?新幹線は金がかかるだろう」と。寝台車とバスなならバスが疲れるに決まっていますが。。。
あるいは、東京に行くには列車とホテルのびゅうプラザのパック商品を買っていました(往復寝台特急あけぼののB寝台車を利用すると、往復18,000円で行けたのですが。。。)が、「そんな不正乗車はせずに普通乗車券を買いなさい」と怒鳴られたり。。。。
そして、それをかわすために、私は、やりたくないことにも手を出したりとか、いろいろ大変でした。なので、最初のうちは、どんどん元気になっていった私の症状も、そういったストレスが増えた夏ごろからは、回復が止まるようになりました。
そんな中で入ってきた、寝台特急あけぼの廃止。
もうどうしようにもならない位嫌になりました。
そして、人生も詰まって来たように感じました。
そして、夏ごろに一旦決めた来年の予定を変えることにしたのですが、それを他人に言うことができず、そして、自分を自分で押し付けるが如く、当初予定に基づいて引っ越し先を決めたり、引っ越しのための貨物列車の手配とかに奔走するようになりました。
そして、なんとなく引っ越しが決まったのです。そして、廃止2日前の寝台特急あけぼのの寝台券を、何とびゅうプラザ秋田への電話事前受付で苦労せずに取ることができまして、それで、移住の列車が、寝台特急あけぼのへの、最後の乗車となりました。
なんかモヤモヤした感覚で乗車したこの列車、その焦燥感は、あけぼの廃止ということへの悲しみとともに、翌月に私を襲う辛い出来事を予感していたのだと、今更ながら思います。
この頃の写真は見返すのも辛かった時期が続きました。しかし最近、私は、自身の辛い過去に向き合い始めました。私は少しずつ、私は過去を振り返ることを許容する様になったのです。
今もこの写真も見るのは嫌です。なので、コメントは一部カットでささっと行きます。
この一年前、慶應大学病院での診察の帰りに乗車した2013年2月2日の寝台特急あけぼの、3号車7番下段、オハネ24-3は、2006年以来の不幸な人生から、私を連れ出してくれた列車でした。
しかし、私も周囲もそれを読み違え、気づけばもう一つの不幸な人生へと再び向かっていったのです。
そして、この日のあけぼのは、私にとって、もうひとつの不幸へと向かう決定的な旅となったのでした。
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3月12日
知人に車で送ってもらって青森駅に来ました。
普段なら弘前から乗りますが、今回は最後なので、始発駅から乗ります。 -
首都圏ほどではないですが、撮影隊です
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ピンボケ写真がこの先続きます。この頃はスマートフォンとか持っていなくて、2009年から使っていたデジカメも動かなくなり、4000円で買った富士フィルムの格安デジタルカメラを使っていました。
性能も悪いし、前の日まで貨物列車に積み込む引越しで日通が来たりとかで大変だし、もうフラフラな状態でした。 -
いろいろお世話になった海峡線の特急列車とも、これがお別れとなりました。
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D E10牽引で客車が入線
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白帯メインでした
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これも最後。。。
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星マークは消されずに残ってました
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EF81も続いてやってきました
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慌ただしく撮影。これが、最後になるのです。。。
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なお、青森の24系は、銀帯車が白帯の塗装になってた車両があったはずです
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電源車は金帯
博多あさかぜの名残です。 -
みんな、消えちゃいました
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コイツとも、結局、お別れでした
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乗り込んで40分
地元駅の弘前です。
同じ寝台区画には、明星大学の学生さんがいたことを思い出します
8月ごろには、青森まで乗った後18で山形まで折り返すという東京薬科大学の学生さんがいて、漢方薬の薬剤師になりたい、と言っていたので煎じ薬をお見せしたり、もちろん列車の話 - あけぼのに新車入れるならどんなのがいいか?みたいな話をしました。 -
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さて、この写真がある秘密はといいますと。。。
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この列車、全面的に満席だったはずなのですが、上野よりも1号車、レディースゴロンとシートには空席があったんです。
それで、機関車交換の際の通路通り抜けを車掌に相談したところ、「それより私が写真撮ってきてあげる」と車掌さんがおっしゃいました。 -
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朝の寝台車
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この通路も好きでした
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終わりです。。。
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自分の寝台
煎じ薬を詰めたペットボトルを保管するクーラーバックが見えます。中には、「あけぼの用」として導入した、大型保冷剤が入っています。 -
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この枕、首が痛くて大変な私の身体にすごくあってました。
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カーテン閉じた状態ー
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この朝はもうありません
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振り返るといろいろ考えます。
きっかけになったのは、1991年に、ソ連からテルアビブへと向かうアエロフロート機(?)に乗り込んだであろう方のお話です。
私は外国への突然の移住ではないので、自宅から東京に「国鉄コンテナ一個分」の荷物を運んできました。それでも、なんか変な感覚でした。
家財道具は出したのに、なんとなくすぐに帰って来るような気もしたり。
あるいは、その逆の気持ちだったり。
結果、この後、5年間帰ることはありませんでした。これは、決して戻ってこない片道切符です。
地元での生活は身体的にも精神的にも大変なことばかりで我慢できることではありませんでした。東京暮らしは病院も近づきますからいい話です。しかし、それにも関わらず、「新天地」への高揚感とかは一切なくて、重い空気の中にいました。そして、今理解するところでは、恐ろしく精神的に追い詰められていた気がします。そして、この先降りかかる不幸を予感していたんだと思います。
この苦しみが解けたのは最近のこと。テルアビブに行くツポレフ154?に乗った方が、会ったこともないのに、解いてくれました。 -
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タバコ臭い個室。。。ソロには結局乗りませんでした
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もう大宮。。。
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同区画の方々は寝台も最初で最後です。
何度もカーテン開けて閉じて。。。 -
この機能的なテーブルも見納め
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上野についちゃいました
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うちの母にとっても、上野駅地平ホームは大事な場所でした。
私にとっても大事な場所。
ですが、この光景も、もうありません。。。。 -
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推進回送で尾久へ
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ぼろぼろです。。。
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東京に移住したら、次の旅行では北斗星にとりあえず乗りたいと思っていましたが、それも叶いませんでした。681系はくたかも無理でした。
これが私にとって、最後の国鉄型寝台列車の旅となりました。そして、私が一瞬、幸せを感じた一年も終わり、私は、また4年間続く不幸な人生へと、向かっていったのでした。
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