1993/04/01 - 1993/04/22
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ちびのぱぱさん
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「飛んでイスタンブール」「異邦人」と、1970年代の終わりに相次いで出された中東のイメージを形作るニューミュージック。
憧れて旅に出たものの、中東にはそう易々と達することができず、ヨーロッパをウロウロして帰ってきた1982年。
そうなると、もうどうしても行きたくなるのが人情。
「地球の歩き方」やリクルートが発行する学生向けのツアーガイドで、あれこれ情報を収集し、一回アメリカに浮気をした後、ようやくトルコ旅行を実現したのが1986年の11月。
それから数年の間に、都合3回もかの国に行っちゃいました。
リクルートのその雑誌はその後「ABロード」と名前を変えて私も愛読していましたが、いつの間にかネットのサイトになって、ついに今年2021年3月いっぱいでサービスを終了。
当時「秀インターナショナル」として格安航空券を扱っていた会社は、今ではHISという大会社に。
もうとうの昔に、海外旅行は冒険でもなんでもなくなっていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
南回りだとか北回りだとか、海外旅行に行くには当時強烈な威圧感で存在していたソ連を避けるためのルートをどちらか選択しなければなりませんでしたね。
南回りの航空券が貧乏旅行者にとっては唯一の選択肢であるわけで、各駅停車みたいにあっちこっちの都市を寄り道しながら行くわけです。
なぜか、フライトごとに機内食が提供されて、最初は喜んで食べるのですが、そのうちウンザリする。
あ、写真はエフェソスです。 -
その1986年頃になると、かつて領空を飛ぶことを固く拒んでいたソ連の航空会社アエロフロートが、ヨーロッパに行く格安航空券の主流になりました。
格安航空券と言っても、当時は機内食にキャビアが普通に出て「何だこりゃ!」とか言いながら生まれて初めて食べる高級食材に、目を白黒したものです。
モスクワでトランジットでしたが、コロナ渦中の隔離政策並みにホテルに軟禁状態に置かれました。
あ、写真は同じくエフェソスで、こちらのおうちにお茶に呼ばれました。
日本人の旅行者はまだ珍しかったみたいです。 -
アエロフロートの美人スチュワーデス(今のキャビンアテンダントですね)さんが、世話してくださいました。
-
初めてのイスタンブールは、緊張しながら空港からタクシーでスルタンアフメトの宿に到着。
まあ、ボラれたと思います。
その夕方、宿の主人に勧められて、羊毛のジャケットを新調しました。
迷路を彼の後に付いてゆくと、小さな仕立て屋さんがあって、サイズを測って翌日には仕上げて持ってきてくれました。
写真ですが、キオスクというのは、こういう売店のことを言いまして、これが日本の駅のキオスクの原型とか。
何でも売っていて便利ですよね。 -
夢中でさまよう旧市街。
疲れると、一杯5円くらいのチャイをもらって一休み。
頭の中を、庄野真代さんや久保田早紀さんの歌声が響き渡り、夕暮れになるとそれがアザーンにとって代わる。
大音響で流れるコーランの朗読。 -
街角で、順番を待つ荷物運びの労働者。
ビデオで撮っっていたら「つまらん物を撮るな」とこの男性に大声で怒鳴られました。 -
トルコは、この後、1989年と1993年に旅をしました。
イスタンブールには、毎回立ち寄る雰囲気の良いレストランがあって、通りを眺める二階の同じ席に毎回旅の初めと終わりに座ったものです。
その出窓のところに鳥かごがあって、コビトバトのような小さな鳥がクー、クーと寂しげに鳴いていました。
勝手に「ブルブル」と名付けておりました。
あ、写真はエフェソスの遺跡です。 -
初めてのトルコは一週間レンタカーを借りることにしていまして、日本人の奥さんがいるスルタンアフメトのじゅうたん屋さんでレンタカーの店を紹介してもらいました。
しかし、中東の大都市というのはとんでもないカオスな交通事情でして、そんなところを運転するのはとんでもなく憂鬱なものです。
それをくだんのじゅうたん屋の主に愚痴ると「それなら、夜中に街を出ればよい。」と目からうろこ的なアドバイス。
もちろん、素直にこのアドバイスに従ったことは言うまでもありません。
あ、写真はパムッカレです。 -
夜中にレンタカーを借りて、静まり返ったイスタンブールのハイウェイを走り、途中のドライブインで休憩。
明け方に、見知らぬ街で困ったことに気づきました。
その車のバックのギアの入れ方がわからんのです。
当時、トルコは自国で自動車の生産を開始して、フィアットとはなっていましたが、外人が運転するトルコ産の自動車はトルコ人の注目の的。
すぐに人が寄ってきて「どうだい、トルコの車は。よく走るだろう。」的なことを言ってきます。
「よく走るけど、一つ聞いていいかい。バックはどうやって入れるんだい。間違って君のうちに入ったのはいいが、これでは戻ることもできないよ。」
「? なんだ、そんなことも知らないのか。」
と言って、ギアの頭をくいっと上げてバックに入れてくれました。
ちなみに、トルコ語は「一部屋空いていますか」「いくらですか?」「すごい高い!安くして。」しか知らないので、会話はすべて身振り手振りでしのいだものを勝手に翻訳しています。 -
トルコの郊外を走るのは、きわめて快適な経験です。
出会う人々はみな優しく、とくに日本人は大歓迎されました。
あ、写真は綿を積んだトラックです。 -
途中で会った羊飼いのオジサンは、シャイな感じですが、なぜが私がイスタンブールで注文したジャケットのようなものにスラックスをはいていて、オシャレです。
こんな格好で羊を追って歩くのだろうか。
例によって身振り手振りで聞いたところによると、牧草を求めて羊の群れと旅をし、夜になればフェルトのマントをテントの代わりにして夜露をしのぎ、どんぐりの木を見つけると太い杖で幹を叩いて実を落とし、羊に与えるのだそうです。
その羊飼いの写真と文章を「旅」という雑誌に掲載してもらい、うれしかったのを覚えています。
JTBで出していた雑誌で、大好きだったのですが、2003年に廃刊になりました。 -
トルコは、最終的に東のはずれ、アナトリアのドウバヤジットという町に行ったのがゴールのようになり、それが最後になりました。
その街で、アララト山という聖書に出てくる山を見に行きました。
ノアの箱舟が一年の漂流の末に到着したという山です。
手前のヴァンという町でツルツルのタイヤをはいたタクシーを雇い、前日に15㎝も雪が積もった標高2000mの峠を越え、何とかたどり着きました。
峠の手前で車が滑って進まなくなると「降りてくれ」と言われました。
「???」
「降りて押してくれ。」
なるほど、それは名案だ。
車は何とか抜け出しましたが止まらずにどんどん進んでゆくので(止まるとまた滑る)、伴走車に導かれるマラソンランナーのように後を追いかけました。
あ、写真はペルガモンの遺跡ですね。 -
これは遺跡から見たベルガマの町。
-
これはローマ時代の水道橋だったかな。
まあ、トルコは旅をするのにほんとによいところでした。
思い出話を書くと、きりがないのでこの辺でやめます。
しかし、書いていると結構思い出しますね。
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