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メサ・ヴェルデ国立公園(Mesa Verde National Prak)とフォー・コーナーズ(Four Corners)を見学して来ました。本旅行記は「アメリカ グランドサークル アーチーズ国立公園」(https://4travel.jp/travelogue/11678778)の続きです。メサ・ヴェルデ国立公園は面積212.4 km^2(21,240 ha、東京23区の約1/3)で、コロラド州南西角近くに位置し、約600の岩窟住居を含む5,000以上の遺跡があり、米国で最大の考古学的保護区です。メサ・ヴェルデ(スペイン語で「緑の台地」)は、北アメリカで最大の岩窟住居であると考えられているクリフ・パレスなどの建造物で最もよく知られています。これらの遺跡はアメリカ先住民*)族であるプエブロ(Pueblo、ペイン語で「村」や「民衆」)の先祖である先祖プエブロ人(Ancestral Pueblo people、Ancestral Puebloans)によって残されたものであり、彼らの歴史は公園内にあるチェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archeological Museum)で見ることができます。 <br />フォー・コーナーズはメサ・ヴェルデ国立公園の西南西約50 kmにあって、米国で唯一4州(コロラド州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、ユタ州)の共通のコーナーを示すの場所で、モニュメントがあります。  <br /><br />*) 「アメリカ先住民」は英訳すると「Native American、ネイティブ・アメリカン」となります。ウィキペディアには「現在では、「インディアン」、「インディオ」という呼称は用いられなくなってきており、アメリカ合衆国では「ネイティブ・アメリカン」」と書かれていますが、プエブロの人々によれば、「ネイティブ・アメリカン」はアラスカ、ハワイの先住民、極端に言えばアメリカ生まれの人は全て「ネイティブ・アメリカン」となり、これでは自分たちのアイデンティティが保たれないとの理由から、「ネイティブ・アメリカン」よりは「インディアン」を好むとのことですので、彼らの主張に敬意を表して、以下では「ネイティブ・アメリカン」は使わず、必要に応じて「インディアン」を使うことにします。<br /><br />付録に、メサ・ヴェルデ国立公園の1.地理、2.住民の歴史と3.地質について記載しましたので、お時間とご興味のある方はご覧ください。<br />

アメリカ グランドサークル メサ・ヴェルデ国立公園 フォー・コーナーズ

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2019/06/19 - 2019/06/19

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bunbun

bunbunさん

メサ・ヴェルデ国立公園(Mesa Verde National Prak)とフォー・コーナーズ(Four Corners)を見学して来ました。本旅行記は「アメリカ グランドサークル アーチーズ国立公園」(https://4travel.jp/travelogue/11678778)の続きです。メサ・ヴェルデ国立公園は面積212.4 km^2(21,240 ha、東京23区の約1/3)で、コロラド州南西角近くに位置し、約600の岩窟住居を含む5,000以上の遺跡があり、米国で最大の考古学的保護区です。メサ・ヴェルデ(スペイン語で「緑の台地」)は、北アメリカで最大の岩窟住居であると考えられているクリフ・パレスなどの建造物で最もよく知られています。これらの遺跡はアメリカ先住民*)族であるプエブロ(Pueblo、ペイン語で「村」や「民衆」)の先祖である先祖プエブロ人(Ancestral Pueblo people、Ancestral Puebloans)によって残されたものであり、彼らの歴史は公園内にあるチェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archeological Museum)で見ることができます。
フォー・コーナーズはメサ・ヴェルデ国立公園の西南西約50 kmにあって、米国で唯一4州(コロラド州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、ユタ州)の共通のコーナーを示すの場所で、モニュメントがあります。 

*) 「アメリカ先住民」は英訳すると「Native American、ネイティブ・アメリカン」となります。ウィキペディアには「現在では、「インディアン」、「インディオ」という呼称は用いられなくなってきており、アメリカ合衆国では「ネイティブ・アメリカン」」と書かれていますが、プエブロの人々によれば、「ネイティブ・アメリカン」はアラスカ、ハワイの先住民、極端に言えばアメリカ生まれの人は全て「ネイティブ・アメリカン」となり、これでは自分たちのアイデンティティが保たれないとの理由から、「ネイティブ・アメリカン」よりは「インディアン」を好むとのことですので、彼らの主張に敬意を表して、以下では「ネイティブ・アメリカン」は使わず、必要に応じて「インディアン」を使うことにします。

付録に、メサ・ヴェルデ国立公園の1.地理、2.住民の歴史と3.地質について記載しましたので、お時間とご興味のある方はご覧ください。

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  • モアブ バレーイン(Moab Valley Inn)の朝。

    モアブ バレーイン(Moab Valley Inn)の朝。

  • モアブ バレーインから国道191号線(US 191)を南東に8 km程走ったところで南西に見えた絶壁。

    モアブ バレーインから国道191号線(US 191)を南東に8 km程走ったところで南西に見えた絶壁。

  • US 191を南東にさらに5 km程走った南西側。<br />絶壁は続きます。<br />

    US 191を南東にさらに5 km程走った南西側。
    絶壁は続きます。

  • US 191をさらに12 km程南下した南西側。<br />侵食から取り残された岩。<br />

    US 191をさらに12 km程南下した南西側。
    侵食から取り残された岩。

  • US 191をさらに14 km程南下した西側。<br />写真はありませんがこの東側にウィルソン・アーチ(Wilson Arch)があります。<br />

    US 191をさらに14 km程南下した西側。
    写真はありませんがこの東側にウィルソン・アーチ(Wilson Arch)があります。

  • US 191をさらに6 km程南下して西に見えた岩。

    US 191をさらに6 km程南下して西に見えた岩。

  • 少し南下して見えた1つ上の写真の岩の南側。

    少し南下して見えた1つ上の写真の岩の南側。

  • US 191をさらに6 km程南下した西側の風景。

    US 191をさらに6 km程南下した西側の風景。

  • US 191をさらに15 km程南下した西側の風景。

    US 191をさらに15 km程南下した西側の風景。

  • モンティセロ(Monticello)でUS 191を左折してUS 491の入り、東に30 km程走ってユタ州からコロラド州に入りました。<br />南側の風景。一面の草原です。牧草地ですね。<br />US 491はこの付近から南東に方向を変えます。<br />

    モンティセロ(Monticello)でUS 191を左折してUS 491の入り、東に30 km程走ってユタ州からコロラド州に入りました。
    南側の風景。一面の草原です。牧草地ですね。
    US 491はこの付近から南東に方向を変えます。

  • US 491をさらに南東へ65 km程走り、コーテズ(Cortez)で左折してUS 160に入って、さらに東へ7 km程走りました。<br />車窓から見えた木。コットンウッド(Cottonwood、ヤナギ科ヤマナラシ属)です。ポプラの仲間で、花が咲き終わると大量の綿毛付きの種子が風に飛ばされて空を舞います。<br />

    US 491をさらに南東へ65 km程走り、コーテズ(Cortez)で左折してUS 160に入って、さらに東へ7 km程走りました。
    車窓から見えた木。コットンウッド(Cottonwood、ヤナギ科ヤマナラシ属)です。ポプラの仲間で、花が咲き終わると大量の綿毛付きの種子が風に飛ばされて空を舞います。

  • US 160をさらに10 km程東に走り、メサ・ヴェルデ国立公園(Mesa Verde National Park)北端の入口近くにあるメサ・ヴェルデ・ビジター&リサーチ・センター(Mesa Verde Visitor and Research Center、以下「ビジター&リサーチ・センター」と略します。)脇の駐車場に着きました。<br />ビジター&リサーチ・センターの前にある、モニュメント。<br />このモニュメントはアメリカの有名な芸術家・彫刻家・発明家で、アメリカ西部の歴史に関する多くの作品を制作しているエドワード・J・フラフトン(Edward J. Fraughton、1939年-)作の ”The Ancient Ones” (直訳すると「古代の人々」)*) で設置は2012年です。この地域に住んでいた人々は「アナザジ(Anasazi)」と呼ばれますが、これはナバホ語で「古代の人々」を意味し、このモニュメントはまさに「アナサジ」を意味します。<br /><br />*) モニュメントの名板より。この名称はナバホ語の「アナサジ(Anasazi)」からきたもので「アナサジ」という名称も時々使われますが、この言葉は「古代の敵(Ancient Enemy)」の意味も有するため、プエブロ(Pueblo)の人々が嫌います。そこで現在は、先祖(祖先)プエブロ人(Ancestral Pueblo people、Ancestral Puebloans)と言う名称が使われるようになってきています。プエブロは「村」や「民衆」を表すスペイン語“pueblo”から来た言葉で、アメリカ先住民の部族の1つです。<br />

    US 160をさらに10 km程東に走り、メサ・ヴェルデ国立公園(Mesa Verde National Park)北端の入口近くにあるメサ・ヴェルデ・ビジター&リサーチ・センター(Mesa Verde Visitor and Research Center、以下「ビジター&リサーチ・センター」と略します。)脇の駐車場に着きました。
    ビジター&リサーチ・センターの前にある、モニュメント。
    このモニュメントはアメリカの有名な芸術家・彫刻家・発明家で、アメリカ西部の歴史に関する多くの作品を制作しているエドワード・J・フラフトン(Edward J. Fraughton、1939年-)作の ”The Ancient Ones” (直訳すると「古代の人々」)*) で設置は2012年です。この地域に住んでいた人々は「アナザジ(Anasazi)」と呼ばれますが、これはナバホ語で「古代の人々」を意味し、このモニュメントはまさに「アナサジ」を意味します。

    *) モニュメントの名板より。この名称はナバホ語の「アナサジ(Anasazi)」からきたもので「アナサジ」という名称も時々使われますが、この言葉は「古代の敵(Ancient Enemy)」の意味も有するため、プエブロ(Pueblo)の人々が嫌います。そこで現在は、先祖(祖先)プエブロ人(Ancestral Pueblo people、Ancestral Puebloans)と言う名称が使われるようになってきています。プエブロは「村」や「民衆」を表すスペイン語“pueblo”から来た言葉で、アメリカ先住民の部族の1つです。

  • 人の部分をズームイン。 <br />トウモロコシがいっぱい詰まった篭を背負って、崖の洞窟住居に戻るところですね。<br />

    人の部分をズームイン。
    トウモロコシがいっぱい詰まった篭を背負って、崖の洞窟住居に戻るところですね。

  • ビジター&リサーチ・センター入口横にある説明板<br />和訳を以下に示します。これ以降も説明板の和訳をいくつか示しますが、和訳部分は「 」で囲います。物理量(長さ、質量等)の単語で書かれた単位は自然科学で使われるアルファベットの単位に変換してあります。年は「紀元前」そのまま付けますが、「西暦」は省略します。大部分の( )内は英語表記もしくは著者の補足です。<br /><br />写真上の部分<br />「メサ・ヴェルデ国立公園へようこそ<br />メサ・ヴェルデ国立公園は、1906年6月29日にセオドア・ルーズベルト大統領によって設立されました。これは、先祖プエブロ(Pueblo)文化と先史時代の建築を保護するために作成された、米国で唯一の国立公園です。 公園には、550年から1300年までの750年以上にわたって、メサ・ヴェルデを故郷にしたこれらのプエブロの人々の並外れた記録が保存されています。」<br />写真下の部分<br />「メサ・ヴェルデ国立公園には、私達があなた方や将来の世代を鼓舞するであろうことを願う遺産を保護・保存する特権があります。」<br />

    ビジター&リサーチ・センター入口横にある説明板
    和訳を以下に示します。これ以降も説明板の和訳をいくつか示しますが、和訳部分は「 」で囲います。物理量(長さ、質量等)の単語で書かれた単位は自然科学で使われるアルファベットの単位に変換してあります。年は「紀元前」そのまま付けますが、「西暦」は省略します。大部分の( )内は英語表記もしくは著者の補足です。

    写真上の部分
    「メサ・ヴェルデ国立公園へようこそ
    メサ・ヴェルデ国立公園は、1906年6月29日にセオドア・ルーズベルト大統領によって設立されました。これは、先祖プエブロ(Pueblo)文化と先史時代の建築を保護するために作成された、米国で唯一の国立公園です。 公園には、550年から1300年までの750年以上にわたって、メサ・ヴェルデを故郷にしたこれらのプエブロの人々の並外れた記録が保存されています。」
    写真下の部分
    「メサ・ヴェルデ国立公園には、私達があなた方や将来の世代を鼓舞するであろうことを願う遺産を保護・保存する特権があります。」

  • 1つ上の写真の横にあった、北から見たメサ・ヴェルデ国立公園の鳥観図と主要観光ポイントの説明板。<br />現在地は左下の黒地の枠に白抜きで “Visitor and Research Center” と書かれた場所です。<br /><br />写真は左上から右へスプルース・トリー・ハウス(Spruce Tree House)、スクウェア・タワー・ハウス(Suare Tower House)、ステップ・ハウス(Step House)、中央下はモアフィールド・キャンプグラウンド(Morefield Campground)、右下はファー・ヴュー・サイト(Far View Sites)です。<br />この後、この図な上端(メサ・ヴェルデ国立公園の南端)まで行きます。<br /><br />各写真とその説明は小さくて身にくいと思いますので、拡大版を以下に示します。<br />

    1つ上の写真の横にあった、北から見たメサ・ヴェルデ国立公園の鳥観図と主要観光ポイントの説明板。
    現在地は左下の黒地の枠に白抜きで “Visitor and Research Center” と書かれた場所です。

    写真は左上から右へスプルース・トリー・ハウス(Spruce Tree House)、スクウェア・タワー・ハウス(Suare Tower House)、ステップ・ハウス(Step House)、中央下はモアフィールド・キャンプグラウンド(Morefield Campground)、右下はファー・ヴュー・サイト(Far View Sites)です。
    この後、この図な上端(メサ・ヴェルデ国立公園の南端)まで行きます。

    各写真とその説明は小さくて身にくいと思いますので、拡大版を以下に示します。

  • 「チェイピン・メサ(Chapin Mesa)*)<br />チェイピン・メサは、多くの先祖プエブロの遺跡を訪れる機会を提供しています。公園で最も有名な崖の住居、クリフ・パレス(Cliff Palace)、バルコニー・ハウス(Balcony House)、スプルース・ツリー・ハウス(Spruce Tree House)がここにあります。ハイキングコースを探索し、チェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archeological Museum)を訪れてください。」<br /><br />写真はスプルース・ツリー・ハウスです。<br /><br />*) この名称はこの地域をコーカソイドとして初めて探検した米国人:Frederick Hastings <br />Chapinにちなんでいます。ネット検索すると「チャピン」とか「チェイパン」とかいった言葉も出てきますが、前者はアルファベットのローマ字読み、後者は多分「地球の歩き方」あたりからとってきたものと思います。”i”を「ア」と発音するのは、私の知る言語ではフランス語だけ(似た言葉には”Chopin(ショパン)”があります)ですが、だとすると“Chapin”の発音は「シャパン」となります。「地球の歩き方」は嘘が多くてどうも信用できません。<br />

    「チェイピン・メサ(Chapin Mesa)*)
    チェイピン・メサは、多くの先祖プエブロの遺跡を訪れる機会を提供しています。公園で最も有名な崖の住居、クリフ・パレス(Cliff Palace)、バルコニー・ハウス(Balcony House)、スプルース・ツリー・ハウス(Spruce Tree House)がここにあります。ハイキングコースを探索し、チェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archeological Museum)を訪れてください。」

    写真はスプルース・ツリー・ハウスです。

    *) この名称はこの地域をコーカソイドとして初めて探検した米国人:Frederick Hastings
    Chapinにちなんでいます。ネット検索すると「チャピン」とか「チェイパン」とかいった言葉も出てきますが、前者はアルファベットのローマ字読み、後者は多分「地球の歩き方」あたりからとってきたものと思います。”i”を「ア」と発音するのは、私の知る言語ではフランス語だけ(似た言葉には”Chopin(ショパン)”があります)ですが、だとすると“Chapin”の発音は「シャパン」となります。「地球の歩き方」は嘘が多くてどうも信用できません。

  • 「メサ・トップ・ループ・ロード<br />この 10 kmのドライブ・ツアーでは、舗装された短い遊歩道をたどって行くと、地表の場所や崖の住居の展望台など、簡単にアクセスできる 12 の場所を訪れることができます。ハイライトには、サン・ポイント・展望台(Sun Point Overlook)、スクエア・タワー・ハウス(Square Tower House)、サン・ポイント(Sun Point)とサン・テンプル(Sun Temple)の展望台からのクリフ・パレスの眺めなどがあります。」<br /><br />写真はスクエア・タワー・ハウスです。<br />

    「メサ・トップ・ループ・ロード
    この 10 kmのドライブ・ツアーでは、舗装された短い遊歩道をたどって行くと、地表の場所や崖の住居の展望台など、簡単にアクセスできる 12 の場所を訪れることができます。ハイライトには、サン・ポイント・展望台(Sun Point Overlook)、スクエア・タワー・ハウス(Square Tower House)、サン・ポイント(Sun Point)とサン・テンプル(Sun Temple)の展望台からのクリフ・パレスの眺めなどがあります。」

    写真はスクエア・タワー・ハウスです。

  • 「ウェザーリル・メサ【季節限定】<br />ウェザーリル・メサは、チャイピン・メサよりも静かな公園体験を提供します。 訪問者は、情報キオスクの近くに車を駐車し、遺跡にアクセスするにはハイキングコースまたは自転車コースを利用する必要があります。ハイライトには、公園で 2 番目に大きい崖の住居であるロング・ハウス(Long House)とステップ・ハウスがあります。バジャー・ハウス・コミュニティ(Badger House Community)では、600 年の先祖プエブロ文化にまたがるいくつかのメサ上の遺跡を通って、ガイド付きの小道を歩きます。<br /><br />写真はステップ・ハウスです。<br />

    「ウェザーリル・メサ【季節限定】
    ウェザーリル・メサは、チャイピン・メサよりも静かな公園体験を提供します。 訪問者は、情報キオスクの近くに車を駐車し、遺跡にアクセスするにはハイキングコースまたは自転車コースを利用する必要があります。ハイライトには、公園で 2 番目に大きい崖の住居であるロング・ハウス(Long House)とステップ・ハウスがあります。バジャー・ハウス・コミュニティ(Badger House Community)では、600 年の先祖プエブロ文化にまたがるいくつかのメサ上の遺跡を通って、ガイド付きの小道を歩きます。

    写真はステップ・ハウスです。

  • 「ファー・ヴュー・サイト<br />ファー・ヴュー・サイトは、900 年から1300 年頃までのメサで最も人口密度の高い地域の 1 つでした。50 近くの村が 2.6 km^2で確認されています。 今日では、いくつかの遺跡が短い歩行距離のトレイル網で結ばれています。 これらの地上遺跡には、ファー・ヴュー・ ハウス(Far View House)、パイプ・シュライン・ハウス(Pipe Shrine House)、コヨーテ村(Coyote Village)、ファー・ヴュー・リサーヴァー(Far View Reservoir)、メガリシック・ハウス(Megalithic House)、ファー・ヴュー・タワー(Far View Tower)が含まれます。」<br /><br />写真はファー・ヴュー・タワーです。<br />

    「ファー・ヴュー・サイト
    ファー・ヴュー・サイトは、900 年から1300 年頃までのメサで最も人口密度の高い地域の 1 つでした。50 近くの村が 2.6 km^2で確認されています。 今日では、いくつかの遺跡が短い歩行距離のトレイル網で結ばれています。 これらの地上遺跡には、ファー・ヴュー・ ハウス(Far View House)、パイプ・シュライン・ハウス(Pipe Shrine House)、コヨーテ村(Coyote Village)、ファー・ヴュー・リサーヴァー(Far View Reservoir)、メガリシック・ハウス(Megalithic House)、ファー・ヴュー・タワー(Far View Tower)が含まれます。」

    写真はファー・ヴュー・タワーです。

  • 「モアフィールド・キャンプグラウンド<br />公園の6 km内側の、ガンベル・オーク、在来種の花、鹿、および野生の七面鳥で満たされた典型的な草の多い峡谷を通る環状道路沿いには、250 以上のキャンプ場があります。公園の最高のハイキングのいくつかはモアフィールドから出発し、周囲の谷や山々の壮大な景色が見える高台に至ります。季節限定のキャンプは、テント、自走式もしくは牽引式キャンピングカーに開放されています。」<br /><br />写真はモアフィールド・キャンプグラウンドです。<br />

    「モアフィールド・キャンプグラウンド
    公園の6 km内側の、ガンベル・オーク、在来種の花、鹿、および野生の七面鳥で満たされた典型的な草の多い峡谷を通る環状道路沿いには、250 以上のキャンプ場があります。公園の最高のハイキングのいくつかはモアフィールドから出発し、周囲の谷や山々の壮大な景色が見える高台に至ります。季節限定のキャンプは、テント、自走式もしくは牽引式キャンピングカーに開放されています。」

    写真はモアフィールド・キャンプグラウンドです。

  • 駐車場から南に見えたポイント・ルックアウト(Point Lookout)。モニュメント・バレー(Monument Valley)にあるような単独のメサに見えますが、南北に延びる頁岩の丘の北端に載る砂岩のメサです。トレイルがあって登ることができますが今回は行きません。 <br />今後の参考に現在地の標高を示すと、2120 mです。<br />

    駐車場から南に見えたポイント・ルックアウト(Point Lookout)。モニュメント・バレー(Monument Valley)にあるような単独のメサに見えますが、南北に延びる頁岩の丘の北端に載る砂岩のメサです。トレイルがあって登ることができますが今回は行きません。
    今後の参考に現在地の標高を示すと、2120 mです。

  • ビジター&リサーチ・センターを出てメサ・トップ・ルインズ・ロード(Mesa Top Ruins Road)を南に進みます。標高2350 mと高くなってきました。<br />西にポイント・ルックアウトが見えます。<br />

    ビジター&リサーチ・センターを出てメサ・トップ・ルインズ・ロード(Mesa Top Ruins Road)を南に進みます。標高2350 mと高くなってきました。
    西にポイント・ルックアウトが見えます。

  • 1つ上の写真の位置から16 km程走りました。道路はこの間に西に向きを変えます。<br />標高は2500 mとさらに高くなりました。<br />北東の風景。左下に来るとき通ったUS 160の走る平地が見えます。<br />

    1つ上の写真の位置から16 km程走りました。道路はこの間に西に向きを変えます。
    標高は2500 mとさらに高くなりました。
    北東の風景。左下に来るとき通ったUS 160の走る平地が見えます。

  • さらに500 m程西に走りました。<br />北西の風景。中央やや右遠方に見える街は来るとき通ったコーテズです。<br />

    さらに500 m程西に走りました。
    北西の風景。中央やや右遠方に見える街は来るとき通ったコーテズです。

  • 1つ前の写真の位置からメサ・トップ・ルインズ・ロードを12 km程南下してスプルース・ツリー・ハウスが見えるチェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archaeological Museum)脇までやって来ました。<br />博物館南から始まるスプルース・キャニオン・トレイルを東に下って、博物館の下付近から見たスプルース・ツリー・ハウス*)。<br /><br />*) 詳細は以下で説明します。<br /><br />数年前に天井の崩落があったため、スプルース・ツリー・ハウスの見学は禁止されています。<br /><br />

    1つ前の写真の位置からメサ・トップ・ルインズ・ロードを12 km程南下してスプルース・ツリー・ハウスが見えるチェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archaeological Museum)脇までやって来ました。
    博物館南から始まるスプルース・キャニオン・トレイルを東に下って、博物館の下付近から見たスプルース・ツリー・ハウス*)。

    *) 詳細は以下で説明します。

    数年前に天井の崩落があったため、スプルース・ツリー・ハウスの見学は禁止されています。

  • スプルース・ツリー・ハウス、ズームイン。

    スプルース・ツリー・ハウス、ズームイン。

  • スプルース・ツリー・ハウスをさらにズームインして右に振っていきます。

    スプルース・ツリー・ハウスをさらにズームインして右に振っていきます。

  • スプルース・ツリー・ハウス。<br />上の写真の右側。<br />

    スプルース・ツリー・ハウス。
    上の写真の右側。

  • スプルース・ツリー・ハウス。<br />上の写真の右側。<br />

    スプルース・ツリー・ハウス。
    上の写真の右側。

  • スプルース・キャニオン・トレイルを西に戻って、チェイピン・メサ考古学博物館を見学します。<br />博物館の外にあったスプルース・ツリー・ハウスの説明板<br />左上<br />「これらの人々はメサ・ヴェルデに700年間住んでいました。彼らは最後の100年間だけ大きな崖の住居を建てました。その後、彼らは徐々にこの地を去りました。」*)<br /><br />右上<br />「竪穴住居(pithouse)、550年<br />最初、先祖プエブロ人(Ancestral Pueblo people、Ancestral Puebloans)は、泥で固めた木枠で覆われた、小さくて部分的に地下となっている家を建てました。」<br /><br />左中の3つの円形竪穴<br />「竪穴住居は徐々に儀式用の部屋であるキヴァ(kiva)に進化したと思われます。」<br /><br />右中の3つの箱型住居<br />「その後、家は地上に建てられました。<br />建材は泥から石に変わりました。」<br /><br />左下の写真<br />「1988年に発見されたスプルース・ツリー・ハウス。114の部屋*) と8つのキヴァがあります。 その高さで約100人から150人**) が住んでいたと思われます。」<br /><br />右下の写真<br />「メサ・ヴェルデの大きな崖の住居は、短期間の文化の開花を表しています。」<br /><br />*) 700年間は付録1.のペコス分類のプエブロI期間~プエブロIII期間の<br />**) 現地で購入した解説書:<br />Ed. Barbara Kono, “MESA VERDE: THE STORY BEHIND THE SCENERY”, 15th Print., 2016・Newest Version. ISBN 978-0-88714-075-4 <br />“The Only Series fully reviewed and approved by the National Park Service.”<br />にはそれぞれ「130の部屋」、「54人から90人」と書かれています。<br />また英語のウィキにはそれぞれ「130の部屋」、「60人から80人」と書かれています。<br />これらの数はどれを部屋とするかによっても変わりますし、住人の数は証拠が残っていた訳ではないので、ある仮定から算出した推定値で、バラツキはあります。<br />

    スプルース・キャニオン・トレイルを西に戻って、チェイピン・メサ考古学博物館を見学します。
    博物館の外にあったスプルース・ツリー・ハウスの説明板
    左上
    「これらの人々はメサ・ヴェルデに700年間住んでいました。彼らは最後の100年間だけ大きな崖の住居を建てました。その後、彼らは徐々にこの地を去りました。」*)

    右上
    「竪穴住居(pithouse)、550年
    最初、先祖プエブロ人(Ancestral Pueblo people、Ancestral Puebloans)は、泥で固めた木枠で覆われた、小さくて部分的に地下となっている家を建てました。」

    左中の3つの円形竪穴
    「竪穴住居は徐々に儀式用の部屋であるキヴァ(kiva)に進化したと思われます。」

    右中の3つの箱型住居
    「その後、家は地上に建てられました。
    建材は泥から石に変わりました。」

    左下の写真
    「1988年に発見されたスプルース・ツリー・ハウス。114の部屋*) と8つのキヴァがあります。 その高さで約100人から150人**) が住んでいたと思われます。」

    右下の写真
    「メサ・ヴェルデの大きな崖の住居は、短期間の文化の開花を表しています。」

    *) 700年間は付録1.のペコス分類のプエブロI期間~プエブロIII期間の
    **) 現地で購入した解説書:
    Ed. Barbara Kono, “MESA VERDE: THE STORY BEHIND THE SCENERY”, 15th Print., 2016・Newest Version. ISBN 978-0-88714-075-4
    “The Only Series fully reviewed and approved by the National Park Service.”
    にはそれぞれ「130の部屋」、「54人から90人」と書かれています。
    また英語のウィキにはそれぞれ「130の部屋」、「60人から80人」と書かれています。
    これらの数はどれを部屋とするかによっても変わりますし、住人の数は証拠が残っていた訳ではないので、ある仮定から算出した推定値で、バラツキはあります。

  • 博物館の外にあった本部と博物館エリアの説明板<br />左上の説明文<br />「メサ・ヴェルデの修正プエブロ再生建築<br />1920年、公園の訪問者は、この地域の一連の荒廃した建造物に迎えられました。新しい公園管理者のジェシー・ヌスバウム(Jesse Nusbum)と彼の妻であるアイリーン(Aileen)にとっての最初の課題の1つは、新しい施設を建設することでした。 着想は、有名な南西部の建築家、ジョン・ゴー・ミーム(John Gaw Meem)、メアリー・J・コルター(Mary J. Colter)、アイザック・ハミルトン・ラップ(Issac Hamilton Rapp)から来ました。 彼らが完成させたスタイルは、オリジナルのプエブロの建物に基づいていました。 滑らかな砂岩とモルタルの壁、装飾的な木製の梁(beam)、建物の外側と内側にある釿で加工された木の特徴が含まれていました。 それぞれの細部は、近くの崖の住居や周囲の風景と調和した構造を作成するように設計されました。<br /><br />右上の写真<br />「建設工事が順調に進み、1936年にチェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archaeological Museum)が追加されました。石工のハリー・ボックスストロム(Harry Boxstrom)とバーチ・バスケット(Birch Baskett)が公園の石造りの建物の多くを建設しました。公園の大工アルウィン・モエルナー(Alwin Moelnar)は、1930年代後半に、多くのドアや窓を彫刻し、建物の家具を製作しました。」<br /><br />左下の地図<br />「①チェイピン・メサ考古学博物館<br />②スプルース・ツリー・ハウス<br />③チーフ・レンジャーズ・オフィス(応急処置)<br />④事務局<br />⑤郵便局<br />⑥チャピン円形劇場<br />⑦フュークス・キャビン(Fewkes Cabin)*)(オフィス)<br />⑧レンジャー・クラブ(オフィス)<br />⑨トイレと水<br />⑩スプルース・ツリー・テラス・カフェ&ギグトショップ<br />⑪ピクニックエリア<br /><br />太い点線:舗装トレイル<br />細い点線:未舗装トレイル」<br /><br />*) 著者注 フュークス・キャビンは元々レンジャーステーションとして建設されましたが、代わりに博物館として使用されました。このキャビンの名前は、メサ・ヴェルデで働いた最初の考古学者の一人であるジェシー・ウォルター・フュークス(Jesse Walter Fewkes)に因んだものです。<br />

    博物館の外にあった本部と博物館エリアの説明板
    左上の説明文
    「メサ・ヴェルデの修正プエブロ再生建築
    1920年、公園の訪問者は、この地域の一連の荒廃した建造物に迎えられました。新しい公園管理者のジェシー・ヌスバウム(Jesse Nusbum)と彼の妻であるアイリーン(Aileen)にとっての最初の課題の1つは、新しい施設を建設することでした。 着想は、有名な南西部の建築家、ジョン・ゴー・ミーム(John Gaw Meem)、メアリー・J・コルター(Mary J. Colter)、アイザック・ハミルトン・ラップ(Issac Hamilton Rapp)から来ました。 彼らが完成させたスタイルは、オリジナルのプエブロの建物に基づいていました。 滑らかな砂岩とモルタルの壁、装飾的な木製の梁(beam)、建物の外側と内側にある釿で加工された木の特徴が含まれていました。 それぞれの細部は、近くの崖の住居や周囲の風景と調和した構造を作成するように設計されました。

    右上の写真
    「建設工事が順調に進み、1936年にチェイピン・メサ考古学博物館(Chapin Mesa Archaeological Museum)が追加されました。石工のハリー・ボックスストロム(Harry Boxstrom)とバーチ・バスケット(Birch Baskett)が公園の石造りの建物の多くを建設しました。公園の大工アルウィン・モエルナー(Alwin Moelnar)は、1930年代後半に、多くのドアや窓を彫刻し、建物の家具を製作しました。」

    左下の地図
    「①チェイピン・メサ考古学博物館
    ②スプルース・ツリー・ハウス
    ③チーフ・レンジャーズ・オフィス(応急処置)
    ④事務局
    ⑤郵便局
    ⑥チャピン円形劇場
    ⑦フュークス・キャビン(Fewkes Cabin)*)(オフィス)
    ⑧レンジャー・クラブ(オフィス)
    ⑨トイレと水
    ⑩スプルース・ツリー・テラス・カフェ&ギグトショップ
    ⑪ピクニックエリア

    太い点線:舗装トレイル
    細い点線:未舗装トレイル」

    *) 著者注 フュークス・キャビンは元々レンジャーステーションとして建設されましたが、代わりに博物館として使用されました。このキャビンの名前は、メサ・ヴェルデで働いた最初の考古学者の一人であるジェシー・ウォルター・フュークス(Jesse Walter Fewkes)に因んだものです。

  • 博物館南側外壁にあったステーブン・ティン・マザー(Stephen Tyng Mather)の記念レリーフ<br />「ステーブン・ティン・マザー<br />1986年7月4日―1930年1月22日」<br /><br />「彼は国立公園局の基礎を築き、その地域が将来の世代のために損なわれることなく開発され保存される方針を定義し確立しました。彼が成し遂げた善行に決して終わりはありません。」<br /><br />*) 著者注 ステーブン・ティン・マザーは1917年に任命された初代米国国立公園局長です。<br />

    博物館南側外壁にあったステーブン・ティン・マザー(Stephen Tyng Mather)の記念レリーフ
    「ステーブン・ティン・マザー
    1986年7月4日―1930年1月22日」

    「彼は国立公園局の基礎を築き、その地域が将来の世代のために損なわれることなく開発され保存される方針を定義し確立しました。彼が成し遂げた善行に決して終わりはありません。」

    *) 著者注 ステーブン・ティン・マザーは1917年に任命された初代米国国立公園局長です。

  • 博物館南側外壁にあった世界遺産登録のレリーフ<br />「世界の文化・自然遺産の保護に関する協定の原則の範囲内で表明された部族社会の共同承認を通して、メサ・ヴェルデ国立公園は世界遺産(文化遺産)に指定され、その卓越した自然・文化資源が全人類の共通の遺産を形成する世界の保護地域の選択リストに加わりました。 <br />1978年9月8日」<br />

    博物館南側外壁にあった世界遺産登録のレリーフ
    「世界の文化・自然遺産の保護に関する協定の原則の範囲内で表明された部族社会の共同承認を通して、メサ・ヴェルデ国立公園は世界遺産(文化遺産)に指定され、その卓越した自然・文化資源が全人類の共通の遺産を形成する世界の保護地域の選択リストに加わりました。
    1978年9月8日」

  • チェイピン・メサ考古学博物館の中に入りました。<br />以下、展示品を順番に示しますが、これらはガラスのショーケースの中にあるため、写真に撮るとガラス板の反射で見にくくなります。ご容赦ください。<br /><br />「北米での初期の居住<br />10,000~15,000年前*)<br />アメリカの最初の住民は狩猟採集民でした。考古学者は、ニューメキシコ州フォルサム(Folsom)**) 近くの場所で、30頭のバイソンの骨の中に19個の溝のある槍先を発見しました。フォルサムの狩猟で使用された投槍には、現在「フォルサム・ポイント」として知られている溝付きの石の投槍が付いています。この大型動物猟は約1万年前に行われました。<br />ハンターは、腕の長さを伸ばすことによって、てこの力を大きくしたアトラトル(atlatl、槍投器)***)を使用したと思われます。<br />現在絶滅しているフォルサム・バイソン(Bison antiquus figginsi)は、現代のバイソン(Bison bison)よりも大きく、角は大きく広がっていました。ハンターはしばしば水穴や水たまりでフォルサム・バイソンを殺しました。ハンターは動物の皮を剥き、必要な肉を切り落とし、死骸を残しました。深く埋め込まれた槍先はハンターによって取出されず、考古学者にバイソンの殺害の記録を提供しました。<br />炭素14****) などの考古学的な年代測定法は、キャンプ場が占領され、これらの古代の狩猟が行われた時期を特定するのに役立ちます。これらのテクニックは、30頭のバイソンがフォルサムで殺されるずっと前に人々がアメリカに住んでいたことを示しています。人々は少なくとも15,000年前にアジアから北アメリカにベーリング海峡を横断し始めました。 彼らは南に移動し、象、マンモス、ラクダ、そしてこれらのバイソンを狩りました。これらはすべて、数千年の間に大陸からいなくなりました。<br />この時期にさかのぼるメサ・ヴェルデでは、居住の痕跡は見つかっていません。南西部の他の多くの場所では、1万年前にこの地域に住んでいた人々の遺物が見出されています。いつの日か、そのような痕跡はメサ・ヴェルデで見つかるかもしれません。」<br /><br />*) 付録もご参照ください。<br />**) 所在地はメサ・ヴェルデ国立公園の東約400 kmです。<br />***) 後でも説明文がでてきますが、文章の説明では分かりにくいと思いますので、ご興味のあるかたはSpear-thrower - Wikipediaの絵をご覧ください。<br />****) 14C(数字は上付きです)。自然界の炭素の99%を占める12Cより中性子が2つ多い放射性同位体で、半減期は5,740年です。<br />

    チェイピン・メサ考古学博物館の中に入りました。
    以下、展示品を順番に示しますが、これらはガラスのショーケースの中にあるため、写真に撮るとガラス板の反射で見にくくなります。ご容赦ください。

    「北米での初期の居住
    10,000~15,000年前*)
    アメリカの最初の住民は狩猟採集民でした。考古学者は、ニューメキシコ州フォルサム(Folsom)**) 近くの場所で、30頭のバイソンの骨の中に19個の溝のある槍先を発見しました。フォルサムの狩猟で使用された投槍には、現在「フォルサム・ポイント」として知られている溝付きの石の投槍が付いています。この大型動物猟は約1万年前に行われました。
    ハンターは、腕の長さを伸ばすことによって、てこの力を大きくしたアトラトル(atlatl、槍投器)***)を使用したと思われます。
    現在絶滅しているフォルサム・バイソン(Bison antiquus figginsi)は、現代のバイソン(Bison bison)よりも大きく、角は大きく広がっていました。ハンターはしばしば水穴や水たまりでフォルサム・バイソンを殺しました。ハンターは動物の皮を剥き、必要な肉を切り落とし、死骸を残しました。深く埋め込まれた槍先はハンターによって取出されず、考古学者にバイソンの殺害の記録を提供しました。
    炭素14****) などの考古学的な年代測定法は、キャンプ場が占領され、これらの古代の狩猟が行われた時期を特定するのに役立ちます。これらのテクニックは、30頭のバイソンがフォルサムで殺されるずっと前に人々がアメリカに住んでいたことを示しています。人々は少なくとも15,000年前にアジアから北アメリカにベーリング海峡を横断し始めました。 彼らは南に移動し、象、マンモス、ラクダ、そしてこれらのバイソンを狩りました。これらはすべて、数千年の間に大陸からいなくなりました。
    この時期にさかのぼるメサ・ヴェルデでは、居住の痕跡は見つかっていません。南西部の他の多くの場所では、1万年前にこの地域に住んでいた人々の遺物が見出されています。いつの日か、そのような痕跡はメサ・ヴェルデで見つかるかもしれません。」

    *) 付録もご参照ください。
    **) 所在地はメサ・ヴェルデ国立公園の東約400 kmです。
    ***) 後でも説明文がでてきますが、文章の説明では分かりにくいと思いますので、ご興味のあるかたはSpear-thrower - Wikipediaの絵をご覧ください。
    ****) 14C(数字は上付きです)。自然界の炭素の99%を占める12Cより中性子が2つ多い放射性同位体で、半減期は5,740年です。

  • 「バスケットメーカー時代(The Basketmaker Period)*)<br />1600年前<br />狩猟採集民のグループは、1年頃から550年頃までフォー・コーナーズ地域に定住しました。メサ・ヴェルデにこれらの人々の痕跡はありませんが、彼らは睡眠と避難のために周辺地域のたくさんある崖の窪みを使用しました。農業の導入により、これらの初期の農民は小さな畑でトウモロコシやカボチャを栽培することができました食用作物を育てるこの能力は、彼らが季節とともに移動するのではなく、一箇所にとどまることを可能にしました。人々は鹿やウサギを狩り、種、ナッツ、果物を採集しました。陶器作りはまだ発達していなかったので、織りは非常に重要でした。細かいバスケット、バッグ、サンダル、エプロン、ベルトを織り上げる能力が、これらの人々とこの全期間に「バスケットメーカー」という用語が適用される理由です。<br />ほとんどのバスケットメーカーの岩陰遺跡**) には、内部が石で覆われた貯蔵庫の残骸があります。貯蔵庫は洞窟の床に掘られ、石板や草や樹皮が並んでいました。これらの貯蔵庫の屋根は、棒、草、樹皮、泥でできていました。食料や私物はこれらの貯蔵庫に保管され、一部は埋葬に使用されました。<br />衣服は一般的に小動物の皮から作られていました。ユッカ繊維のサンダル、犬の毛で織られたベルト、そして縄とウサギの毛皮で作られた毛布が一般的でした。人間の髪の毛も織物に使われました。宝石は、石、貝殻、骨、種、そしてトルコ石から作られました。<br />バスケットメーカーは、アトラトルまたは投げ棒で狩りをしました。アトラトルによって推進された投槍は、1.2~1.5 mの長さでした。それは石の槍先が付いた取り外し可能な硬い木製の柄を持っていました。投槍は、アトラトルの素早いオーバーハンド推力を使用して大きな力で推進され、ハンターに増大したてこの力を提供しました。<br />バスケットメーカー時代はメサ・ヴェルデには示されていませんが、フォー・コーナーズ地域の全体的な文化的発展の舞台を設定しました。」<br /><br />*) ペコス分類の後期バスケットメーカーII時代に相当します。(付録参照)<br />**) いわかげいせき。張り出した岩盤を屋根代わりに利用したことを特徴とする、先史人類の生活の痕跡としての遺跡です。<br />

    「バスケットメーカー時代(The Basketmaker Period)*)
    1600年前
    狩猟採集民のグループは、1年頃から550年頃までフォー・コーナーズ地域に定住しました。メサ・ヴェルデにこれらの人々の痕跡はありませんが、彼らは睡眠と避難のために周辺地域のたくさんある崖の窪みを使用しました。農業の導入により、これらの初期の農民は小さな畑でトウモロコシやカボチャを栽培することができました食用作物を育てるこの能力は、彼らが季節とともに移動するのではなく、一箇所にとどまることを可能にしました。人々は鹿やウサギを狩り、種、ナッツ、果物を採集しました。陶器作りはまだ発達していなかったので、織りは非常に重要でした。細かいバスケット、バッグ、サンダル、エプロン、ベルトを織り上げる能力が、これらの人々とこの全期間に「バスケットメーカー」という用語が適用される理由です。
    ほとんどのバスケットメーカーの岩陰遺跡**) には、内部が石で覆われた貯蔵庫の残骸があります。貯蔵庫は洞窟の床に掘られ、石板や草や樹皮が並んでいました。これらの貯蔵庫の屋根は、棒、草、樹皮、泥でできていました。食料や私物はこれらの貯蔵庫に保管され、一部は埋葬に使用されました。
    衣服は一般的に小動物の皮から作られていました。ユッカ繊維のサンダル、犬の毛で織られたベルト、そして縄とウサギの毛皮で作られた毛布が一般的でした。人間の髪の毛も織物に使われました。宝石は、石、貝殻、骨、種、そしてトルコ石から作られました。
    バスケットメーカーは、アトラトルまたは投げ棒で狩りをしました。アトラトルによって推進された投槍は、1.2~1.5 mの長さでした。それは石の槍先が付いた取り外し可能な硬い木製の柄を持っていました。投槍は、アトラトルの素早いオーバーハンド推力を使用して大きな力で推進され、ハンターに増大したてこの力を提供しました。
    バスケットメーカー時代はメサ・ヴェルデには示されていませんが、フォー・コーナーズ地域の全体的な文化的発展の舞台を設定しました。」

    *) ペコス分類の後期バスケットメーカーII時代に相当します。(付録参照)
    **) いわかげいせき。張り出した岩盤を屋根代わりに利用したことを特徴とする、先史人類の生活の痕跡としての遺跡です。

  • 「修正バスケットメーカー時代(The Modified Basketmaker Period)*)<br />1300年前 <br />550年から750年の間に、プエブロの人々は現在メサ・ヴェルデ国立公園として知られている地域に住み始めました。考古学者は、これらの人々の文化を説明するために「修正バスケットメーカー」という用語を使用します。初期のバスケットメーカーのこれらの子孫は、遊牧民のライフスタイルを放棄して、農業にもっと依存していました。ウェザーリル・メサ(Wetherill Mesa)のステップ・ハウス・アルコーブ(Step House alcove)は、アルコーブ**)からメサの頂上に上がる珍しい階段にちなんで名付けられました。<br />この時期、人々は竪穴住居として知られる恒久的な半地下の家をアルコーブとメサの上に建て始めました。竪穴住居のグループは小さな村を形成し、人々が彼らの畑の近くに住むことを可能にしました。典型的な竪穴住居は、床面を囲むベンチと角にあって屋根を支えるための4本の木材を備えたメインのリビングルームで構成されていました。屋根の孔は換気と入り口の両方の役割を果たしました。壁または控えの間の下に掘られた換気口は、住居に新鮮な空気を供給しました。<br />この時期に人々はいくつかの重要な技術を身につけました。彼らは南部の人々から陶器を作ることを学び、水壺、ボウル、水差し、おたま、そして良質の調理鍋を作りました。陶器は食品加工と調理をより効率的にし、食事はより栄養価が高く食欲をそそるようになりました。 弓と矢がアトラトルに取って代わり、狩猟がより簡単かつ正確になりました。織りは引き続き重要な技術です。大型の色とりどりのキャリー・バスケットと収納バスケットは、その後に生産された物の品質を上回りました。<br />人々は七面鳥と犬の両方を飼育し、飼いならしました。犬はハンターを助け、子供達の素晴らしいペットになりました。七面鳥は、別の食料源となることに加えて、暖かいローブや毛布を織るための羽を提供しました。重要なタンパク源である豆の導入により、カボチャ、トウモロコシ、豆の主食がそろいました。」<br /><br />*) ペコス分類のバスケットメーカーIII時代に相当します。(付録参照)<br />**) 壁面の一部を後退させてつくった窪み状の部分=崖面の窪み。西洋建築で、彫像などを置くため壁面に設けられ小さなアルコーブはニッチ(niche、壁龕(へきがん))と呼びます。<br />https://4travel.jp/travelogue/11198227<br /><br />

    「修正バスケットメーカー時代(The Modified Basketmaker Period)*)
    1300年前
    550年から750年の間に、プエブロの人々は現在メサ・ヴェルデ国立公園として知られている地域に住み始めました。考古学者は、これらの人々の文化を説明するために「修正バスケットメーカー」という用語を使用します。初期のバスケットメーカーのこれらの子孫は、遊牧民のライフスタイルを放棄して、農業にもっと依存していました。ウェザーリル・メサ(Wetherill Mesa)のステップ・ハウス・アルコーブ(Step House alcove)は、アルコーブ**)からメサの頂上に上がる珍しい階段にちなんで名付けられました。
    この時期、人々は竪穴住居として知られる恒久的な半地下の家をアルコーブとメサの上に建て始めました。竪穴住居のグループは小さな村を形成し、人々が彼らの畑の近くに住むことを可能にしました。典型的な竪穴住居は、床面を囲むベンチと角にあって屋根を支えるための4本の木材を備えたメインのリビングルームで構成されていました。屋根の孔は換気と入り口の両方の役割を果たしました。壁または控えの間の下に掘られた換気口は、住居に新鮮な空気を供給しました。
    この時期に人々はいくつかの重要な技術を身につけました。彼らは南部の人々から陶器を作ることを学び、水壺、ボウル、水差し、おたま、そして良質の調理鍋を作りました。陶器は食品加工と調理をより効率的にし、食事はより栄養価が高く食欲をそそるようになりました。 弓と矢がアトラトルに取って代わり、狩猟がより簡単かつ正確になりました。織りは引き続き重要な技術です。大型の色とりどりのキャリー・バスケットと収納バスケットは、その後に生産された物の品質を上回りました。
    人々は七面鳥と犬の両方を飼育し、飼いならしました。犬はハンターを助け、子供達の素晴らしいペットになりました。七面鳥は、別の食料源となることに加えて、暖かいローブや毛布を織るための羽を提供しました。重要なタンパク源である豆の導入により、カボチャ、トウモロコシ、豆の主食がそろいました。」

    *) ペコス分類のバスケットメーカーIII時代に相当します。(付録参照)
    **) 壁面の一部を後退させてつくった窪み状の部分=崖面の窪み。西洋建築で、彫像などを置くため壁面に設けられ小さなアルコーブはニッチ(niche、壁龕(へきがん))と呼びます。
    https://4travel.jp/travelogue/11198227

  • 「発達プエブロ時代(The Developmental Pueblo Period)*)<br />1200年前<br />750年から1100年までの期間は、今日の南西部に存在するスタイルに似た真のプエブロ、つまり村の建築の発展を見ました。この「プエブロ発達期」の間に、陶器作りが盛んになり、新しい農業技術が出現し、貿易が重要になりました。<br />プエブロの人々は、建築が実験段階にあった850年頃にこの村を建設しました。人々は、南または南西に面した、接続する一連の垂直壁のリビングルームと保管室を建築しました。彼らは住居の前に、生活や儀式の目的で使用された深い縦穴式の部屋(pit room、ピットルーム)を掘りました。これらの地下室には、今日のプエブロの建造物にも見られる多くの形式状の特徴がありました。個々の家は、コンパクトな村、つまりプエブロの建設時に集結したため、ほとんど姿を消しました。現在一般的に使用されている溝付きの斧は、建設をはるかに容易にしました。<br />水は、峡谷上端の湧水から得られました。貯水池は、雨や雪解け水を貯えるために建設されました。農業用の台地や小谷に造られた小さなダムが広く使用されていました。これらは、流水を受け取り、水によって運ばれる豊かな表土を捕らえたので、理想的な農地の小地所を作りました。カボチャ、豆、トウモロコシの畑がこの地域に点在していました。<br />バスケットはまだ一般的に使われていましたが、陶器が支配的な工芸品となりました。陶芸家は、新しい形や種類の表面仕上げや装飾を試しました。考古学者は発掘調査で多くの容器や奇妙な形の破片を発見しました。後期発達プエブロ(Late Developmental Pueblo)時代の人々は、外側の領域全体に波形の(指でつまんで粗い表面パターンを作成する)調理鍋をデザインしました。そのような器は実用品として機能しましたが、滑らかに塗られた陶器はより芸術的であり、特別な機会に使用された可能性があります。<br />頭部の変形もこの時期の特徴でした。人々は、パッド入りのゆりかごボードを、乳児の頭の後ろを常時平らにする堅いゆりかごに交換しました。この慣行は数世紀にわたって続きました。<br />綿はこの時期に南部のグループとの貿易を通じて導入されました。その後、本物の綿織物を織機で織ることができました。他の人々との貿易は、さまざまな種類の陶器と新種のトウモロコシを提供しました。これらの新しい品々は、この時期の急速な人口拡大に貢献しました。」<br /><br />*) ペコス分類のプエブロI期~プエブロII期に」相当します。(付録参照)<br />

    「発達プエブロ時代(The Developmental Pueblo Period)*)
    1200年前
    750年から1100年までの期間は、今日の南西部に存在するスタイルに似た真のプエブロ、つまり村の建築の発展を見ました。この「プエブロ発達期」の間に、陶器作りが盛んになり、新しい農業技術が出現し、貿易が重要になりました。
    プエブロの人々は、建築が実験段階にあった850年頃にこの村を建設しました。人々は、南または南西に面した、接続する一連の垂直壁のリビングルームと保管室を建築しました。彼らは住居の前に、生活や儀式の目的で使用された深い縦穴式の部屋(pit room、ピットルーム)を掘りました。これらの地下室には、今日のプエブロの建造物にも見られる多くの形式状の特徴がありました。個々の家は、コンパクトな村、つまりプエブロの建設時に集結したため、ほとんど姿を消しました。現在一般的に使用されている溝付きの斧は、建設をはるかに容易にしました。
    水は、峡谷上端の湧水から得られました。貯水池は、雨や雪解け水を貯えるために建設されました。農業用の台地や小谷に造られた小さなダムが広く使用されていました。これらは、流水を受け取り、水によって運ばれる豊かな表土を捕らえたので、理想的な農地の小地所を作りました。カボチャ、豆、トウモロコシの畑がこの地域に点在していました。
    バスケットはまだ一般的に使われていましたが、陶器が支配的な工芸品となりました。陶芸家は、新しい形や種類の表面仕上げや装飾を試しました。考古学者は発掘調査で多くの容器や奇妙な形の破片を発見しました。後期発達プエブロ(Late Developmental Pueblo)時代の人々は、外側の領域全体に波形の(指でつまんで粗い表面パターンを作成する)調理鍋をデザインしました。そのような器は実用品として機能しましたが、滑らかに塗られた陶器はより芸術的であり、特別な機会に使用された可能性があります。
    頭部の変形もこの時期の特徴でした。人々は、パッド入りのゆりかごボードを、乳児の頭の後ろを常時平らにする堅いゆりかごに交換しました。この慣行は数世紀にわたって続きました。
    綿はこの時期に南部のグループとの貿易を通じて導入されました。その後、本物の綿織物を織機で織ることができました。他の人々との貿易は、さまざまな種類の陶器と新種のトウモロコシを提供しました。これらの新しい品々は、この時期の急速な人口拡大に貢献しました。」

    *) ペコス分類のプエブロI期~プエブロII期に」相当します。(付録参照)

  • 「グレートまたはクラシック・プエブロ時代(The Great or Classic Pueblo Period)*)<br />800年前<br /><br />1100年から1300年にかけて、メサ・ヴェルデ地域でプエブロ発展のクライマックスが訪れました。この期間中、人々はメサの上にある小さくてコンパクトな村から、ここに示されている1200年代後半の秋の日のスプルース・ツリー・ハウスのような、彼らが崖の住居を建てたアルコーブへと移動しました。<br />自然のアルコーブは家を建てるのに理想的な場所でした。壁は泥のモルタル上に形を整えた砂岩のブロックで作られ、屋根は柱、樹皮、泥で作られました。家は、おそらくほとんどの日常の活動が行われた開かれた中庭の周りにグループ化されました。今日のプエブロ村のキヴァに似た中庭の下の円形の部屋は、社会的行事の儀式に使用されたと思われます。<br />先祖プエブロ人は、乾燥地の農業技術を使用してメサの頂上で農業を続けました。良い年には、何年にもわたる不作期間に使用するために大量の農産物が保管されていました。水は、アルコーブの北100 yards(90 m)にある峡谷の上端の泉から運ばれました。<br />こん棒、わな、弓矢は狩猟に使用されました。斧、ナイフ、ドリル、ハンマーストーンなどの石、木、骨の道具は、人々の生存に不可欠でした。<br />調理と保管用の表面に凹凸模様がある陶器と、その他の目的のために白地に黒の装飾が施された器の2種類の陶器が作られました。食べ物は瓶に入れて茹でたり、平らな石板で焼いたり、灰や石炭で焼いたりしました。<br />綿はアリゾナ州南部からこの地域に取引され、優れた織物の綿布を作るために使用されました。トルコ石、貝殻、塩、そしてパイプ石のように見える赤い石である粘土質岩は、南西部と太平洋岸から取引されました。<br />プエブロの人々による発展にもかかわらず、建築と生活様式の変化は、1200年代後半までに問題を引き起こします。深刻な24年間の干ばつが1276年で始まりましたが、人々は水不足を乗り越えました。しかし、土壌、木材資源、狩猟動物の枯渇が痛手になりました。人々は1300年までにメサ・ヴェルデを去り、南に移動してアリゾナとニューメキシコの他のプエブロの人々に加わりました。」<br /><br />*) ペコス分類のプエブロIII期に」相当します。(付録参照)<br />

    「グレートまたはクラシック・プエブロ時代(The Great or Classic Pueblo Period)*)
    800年前

    1100年から1300年にかけて、メサ・ヴェルデ地域でプエブロ発展のクライマックスが訪れました。この期間中、人々はメサの上にある小さくてコンパクトな村から、ここに示されている1200年代後半の秋の日のスプルース・ツリー・ハウスのような、彼らが崖の住居を建てたアルコーブへと移動しました。
    自然のアルコーブは家を建てるのに理想的な場所でした。壁は泥のモルタル上に形を整えた砂岩のブロックで作られ、屋根は柱、樹皮、泥で作られました。家は、おそらくほとんどの日常の活動が行われた開かれた中庭の周りにグループ化されました。今日のプエブロ村のキヴァに似た中庭の下の円形の部屋は、社会的行事の儀式に使用されたと思われます。
    先祖プエブロ人は、乾燥地の農業技術を使用してメサの頂上で農業を続けました。良い年には、何年にもわたる不作期間に使用するために大量の農産物が保管されていました。水は、アルコーブの北100 yards(90 m)にある峡谷の上端の泉から運ばれました。
    こん棒、わな、弓矢は狩猟に使用されました。斧、ナイフ、ドリル、ハンマーストーンなどの石、木、骨の道具は、人々の生存に不可欠でした。
    調理と保管用の表面に凹凸模様がある陶器と、その他の目的のために白地に黒の装飾が施された器の2種類の陶器が作られました。食べ物は瓶に入れて茹でたり、平らな石板で焼いたり、灰や石炭で焼いたりしました。
    綿はアリゾナ州南部からこの地域に取引され、優れた織物の綿布を作るために使用されました。トルコ石、貝殻、塩、そしてパイプ石のように見える赤い石である粘土質岩は、南西部と太平洋岸から取引されました。
    プエブロの人々による発展にもかかわらず、建築と生活様式の変化は、1200年代後半までに問題を引き起こします。深刻な24年間の干ばつが1276年で始まりましたが、人々は水不足を乗り越えました。しかし、土壌、木材資源、狩猟動物の枯渇が痛手になりました。人々は1300年までにメサ・ヴェルデを去り、南に移動してアリゾナとニューメキシコの他のプエブロの人々に加わりました。」

    *) ペコス分類のプエブロIII期に」相当します。(付録参照)

  • 「アルカイック期?紀元前5500年~1年*)」<br /><br />中央上の飾り枠内の説明文<br />「アルカイックは時期であると同時にメサ・ヴェルデで実践されていた生活様式で、先祖プエブロ文化に先行するものです。」<br /><br />中央やや上の説明文<br />「人々は恒久的な村に住んでいませんでしたが、環境を最大限に活用するために頻繁に移動しました。 彼らは多くの野生植物の食糧の収集や、鹿、オオツノヒツジ、カモシカ等、さまざまな小動物などの狩猟を行っていました。アルカイックの終わりまでに、人々は狩猟や採集への依存を減らし始め、トウモロコシやカボチャを育て始めました。」<br /><br />中央やや右下の説明文<br />「南西部にあるいくつかの既知のアルカイック洞窟には、外に露出した状態では生き残れなかった腐りやすい物が含まれていました。 そのような物には、小枝の置物、バスケット、繊維サンダル、ウサギの毛皮の毛布が含まれていました。 先祖プエブロの人々は、これらの物を多く作り、使用し続けました。」<br /><br />*) ペコス分類のアルカイック?初期バスケットメーカー時代~初期バスケットメーカーII時代に相当します。(付録参照)<br />

    「アルカイック期?紀元前5500年~1年*)」

    中央上の飾り枠内の説明文
    「アルカイックは時期であると同時にメサ・ヴェルデで実践されていた生活様式で、先祖プエブロ文化に先行するものです。」

    中央やや上の説明文
    「人々は恒久的な村に住んでいませんでしたが、環境を最大限に活用するために頻繁に移動しました。 彼らは多くの野生植物の食糧の収集や、鹿、オオツノヒツジ、カモシカ等、さまざまな小動物などの狩猟を行っていました。アルカイックの終わりまでに、人々は狩猟や採集への依存を減らし始め、トウモロコシやカボチャを育て始めました。」

    中央やや右下の説明文
    「南西部にあるいくつかの既知のアルカイック洞窟には、外に露出した状態では生き残れなかった腐りやすい物が含まれていました。 そのような物には、小枝の置物、バスケット、繊維サンダル、ウサギの毛皮の毛布が含まれていました。 先祖プエブロの人々は、これらの物を多く作り、使用し続けました。」

    *) ペコス分類のアルカイック?初期バスケットメーカー時代~初期バスケットメーカーII時代に相当します。(付録参照)

  • 「アルカイックの人々は、ハックベリー、セイヨウネズ(juniper)、ピニヨン(pinyon、北米南西部に育つ低木松の総称)、ウチワサボテン(prickly pear)、インディアン・ライスグラス(Indian ricegrass)*)など、さまざまな野生植物を利用していました。彼らは多くの植物性食品を準備するために重い石のチョッパーと薄片状の石へら(scraper)**)を使用しました。いくつかの植物は、砂岩スラブ(石皿)上で小さな砥石(マノス、manos)***)を用いて種子を粉砕することによって処理されました。これらの道具は、後に同様の方法でトウモロコシを粉砕するために使用されました。」<br /><br />*) 右下<br />**) 中央上<br />***) 左下<br /><br />別の説明板より<br />「アルカイック後期の農業への移行は、多くの考古学者を困惑させてきました。今日、現代の狩猟採集民は、年間の労働時間が少なく、ほとんどの農業従事者よりも健康であることが知られています。狩猟採集民は、他の生存選択肢が失敗した場合にのみ農業を採用するようです。<br />考古学者は、アルカイック期に人口が徐々に増加したと信じています。最終的に、周辺環境はもはや多くの人々をサポートできなくなりました。これは、長期間の自然収量の低下と組み合わされたことも考えられます。これらの条件は、人々が十分な食糧を提供するために作物を育てることを奨励したでしょう。正確な原因が何であれ、農業は1年までに重要な活動となり、先祖プエブロ文化の始まりを示しました。」<br />

    「アルカイックの人々は、ハックベリー、セイヨウネズ(juniper)、ピニヨン(pinyon、北米南西部に育つ低木松の総称)、ウチワサボテン(prickly pear)、インディアン・ライスグラス(Indian ricegrass)*)など、さまざまな野生植物を利用していました。彼らは多くの植物性食品を準備するために重い石のチョッパーと薄片状の石へら(scraper)**)を使用しました。いくつかの植物は、砂岩スラブ(石皿)上で小さな砥石(マノス、manos)***)を用いて種子を粉砕することによって処理されました。これらの道具は、後に同様の方法でトウモロコシを粉砕するために使用されました。」

    *) 右下
    **) 中央上
    ***) 左下

    別の説明板より
    「アルカイック後期の農業への移行は、多くの考古学者を困惑させてきました。今日、現代の狩猟採集民は、年間の労働時間が少なく、ほとんどの農業従事者よりも健康であることが知られています。狩猟採集民は、他の生存選択肢が失敗した場合にのみ農業を採用するようです。
    考古学者は、アルカイック期に人口が徐々に増加したと信じています。最終的に、周辺環境はもはや多くの人々をサポートできなくなりました。これは、長期間の自然収量の低下と組み合わされたことも考えられます。これらの条件は、人々が十分な食糧を提供するために作物を育てることを奨励したでしょう。正確な原因が何であれ、農業は1年までに重要な活動となり、先祖プエブロ文化の始まりを示しました。」

  • 「バスケットメーカーの期間? AD1~450年」<br /><br />中央上の飾り枠内の説明文<br />「初期の農家はバスケットメーカーとして知られています。この時期のサイトはメサ・ヴェルデでは見つかりませんでした。」<br /><br />左上の飾り枠内の説明文<br />「住まい<br />バスケットメーカー時代の人々は崖のアルコーブに住み、畑の近くに灌木の住まいを建てました。アルコーブの乾燥は、彼らの持ち物の多くを優れた状態で保存しました。」<br /><br />右上の飾り枠内の説明文<br />「農業<br />1年頃、この地域では農業が採用されました。トウモロコシとカボチャは灌漑なしで栽培されました。作物はアルコーブの床に掘られた穴に保管され、大きな石の厚板で覆われていました。」<br /><br />中央下の飾り枠内の説明文<br />「狩猟<br />狩猟は引き続き重要であり、食事に肉を、道具に骨を、衣服やバッグに皮を提供しました。」<br />「ラップボードは、太ももに配置したときに良好な切断面を提供しました。表面に石刀の跡が見られます。」<br /><br />左中央の説明文<br />「溝のあるクラブは、ウサギ(ホピ族のように)やアトラトルに対する防御に使用された可能性があります。 アトラトルによって投げられた槍はゆっくりと動き、そのようなクラブを使用して着陸することができます。これは、かつて中央アメリカのマヤによって実践されていたテクニックです。」<br /><br />右下部、槍を持った人物の説明文<br />「アトラトルと槍は、狩猟やおそらく戦争で一般的に使用されていました。 アトラトルは腕の機械的な延長装置でした。腕を突然前方にスイープすると、アトラトルの後部から投げ槍が投げられました。それは大きな力で投げ槍を放ちましたが、弓と比べるとその射程と正確さに欠けていました。」<br /><br />右下のバッグの説明文<br />「このバッグは、オオツノヒツジの皮をむいてなめして作られました。バッグの口となる首を除いて、すべての開口部が縫い付けられました。」<br />

    「バスケットメーカーの期間? AD1~450年」

    中央上の飾り枠内の説明文
    「初期の農家はバスケットメーカーとして知られています。この時期のサイトはメサ・ヴェルデでは見つかりませんでした。」

    左上の飾り枠内の説明文
    「住まい
    バスケットメーカー時代の人々は崖のアルコーブに住み、畑の近くに灌木の住まいを建てました。アルコーブの乾燥は、彼らの持ち物の多くを優れた状態で保存しました。」

    右上の飾り枠内の説明文
    「農業
    1年頃、この地域では農業が採用されました。トウモロコシとカボチャは灌漑なしで栽培されました。作物はアルコーブの床に掘られた穴に保管され、大きな石の厚板で覆われていました。」

    中央下の飾り枠内の説明文
    「狩猟
    狩猟は引き続き重要であり、食事に肉を、道具に骨を、衣服やバッグに皮を提供しました。」
    「ラップボードは、太ももに配置したときに良好な切断面を提供しました。表面に石刀の跡が見られます。」

    左中央の説明文
    「溝のあるクラブは、ウサギ(ホピ族のように)やアトラトルに対する防御に使用された可能性があります。 アトラトルによって投げられた槍はゆっくりと動き、そのようなクラブを使用して着陸することができます。これは、かつて中央アメリカのマヤによって実践されていたテクニックです。」

    右下部、槍を持った人物の説明文
    「アトラトルと槍は、狩猟やおそらく戦争で一般的に使用されていました。 アトラトルは腕の機械的な延長装置でした。腕を突然前方にスイープすると、アトラトルの後部から投げ槍が投げられました。それは大きな力で投げ槍を放ちましたが、弓と比べるとその射程と正確さに欠けていました。」

    右下のバッグの説明文
    「このバッグは、オオツノヒツジの皮をむいてなめして作られました。バッグの口となる首を除いて、すべての開口部が縫い付けられました。」

  • 「バスケットメーカー織り」<br /><br />中央上の飾り枠内の説明文<br />「バスケットメーカーという名前は、彼らの織りの卓越した品質のためにこれらの人々に付けられました。陶器を持たない織工は、日常生活に必要なものを生み出しました。」<br /><br />左上のロープの輪の説明文<br />「罠は獲物の通り道にぶら下がっていました。走っている動物がゆるい網にぶつかると、その首を罠が締めつけました。」<br /><br />左やや上の網の説明文<br />「野生の亜麻を紡ぎ、この網バッグの口の引き紐を作りました」。<br /><br />右側部分は次に説明します。<br />

    「バスケットメーカー織り」

    中央上の飾り枠内の説明文
    「バスケットメーカーという名前は、彼らの織りの卓越した品質のためにこれらの人々に付けられました。陶器を持たない織工は、日常生活に必要なものを生み出しました。」

    左上のロープの輪の説明文
    「罠は獲物の通り道にぶら下がっていました。走っている動物がゆるい網にぶつかると、その首を罠が締めつけました。」

    左やや上の網の説明文
    「野生の亜麻を紡ぎ、この網バッグの口の引き紐を作りました」。

    右側部分は次に説明します。

  • 上の3つ並んだサンダルの説明<br />「この時代のサンダルは、しばしば縁取られた四角いつま先を持っていました。それらは通常ユッカ繊維と、そのいくつかはセイヨウネズ(ジュニパー、juniper)の樹皮でできた撚り紐で織られていました。サンダルを足に固定するために、つま先とかかとに輪縄を追加しました。」<br /><br />左のサンダルの説明文<br />「ユッカの葉を丸ごと作ったサンダル。」<br /><br />中央のサンダルの説明文<br />「隙間なく織られた、かかとがすり減ったユッカの撚り紐サンダル。」<br /><br />右のサンダルの説明文<br />「押しつぶしたユッカ繊維から作られたサンダル。」<br />

    上の3つ並んだサンダルの説明
    「この時代のサンダルは、しばしば縁取られた四角いつま先を持っていました。それらは通常ユッカ繊維と、そのいくつかはセイヨウネズ(ジュニパー、juniper)の樹皮でできた撚り紐で織られていました。サンダルを足に固定するために、つま先とかかとに輪縄を追加しました。」

    左のサンダルの説明文
    「ユッカの葉を丸ごと作ったサンダル。」

    中央のサンダルの説明文
    「隙間なく織られた、かかとがすり減ったユッカの撚り紐サンダル。」

    右のサンダルの説明文
    「押しつぶしたユッカ繊維から作られたサンダル。」

  • 「修正バスケットメーカー時代<br />  450~750年」<br /><br />左上の飾り枠内の説明文<br />「先祖プエブロ文化は広範囲*) わたって発展しました。ただし、地域全体で同時に変化が起こった訳ではありません。」<br /><br />右上の飾り枠内の説明文<br />「450年頃、先祖全体に新しいタイプの建造物、道具、家庭用機器、衣類、貿易資材が登場し始めました。」<br /><br /><br />*) 中央の地図にその範囲が示されていますが、小さくて分かりにくいと思いますので拡大版を以下に示します。<br />

    「修正バスケットメーカー時代
    450~750年」

    左上の飾り枠内の説明文
    「先祖プエブロ文化は広範囲*) わたって発展しました。ただし、地域全体で同時に変化が起こった訳ではありません。」

    右上の飾り枠内の説明文
    「450年頃、先祖全体に新しいタイプの建造物、道具、家庭用機器、衣類、貿易資材が登場し始めました。」


    *) 中央の地図にその範囲が示されていますが、小さくて分かりにくいと思いますので拡大版を以下に示します。

  • 先祖プエブロの文化圏<br />太い黒線囲まれた部分が先祖プエブロの文化圏で、ユタ州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州にまたがり、北はメサ・ヴェルデを含むコロラド州およびユタ州南部から南はコロラド州およびユタ州南まで、西はグランドキャニオンを含むアリゾナ州およびユタ州西部から東はコロラド州およびニューメキシコ州東部までの広大な領域です。<br />

    先祖プエブロの文化圏
    太い黒線囲まれた部分が先祖プエブロの文化圏で、ユタ州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州にまたがり、北はメサ・ヴェルデを含むコロラド州およびユタ州南部から南はコロラド州およびユタ州南まで、西はグランドキャニオンを含むアリゾナ州およびユタ州西部から東はコロラド州およびニューメキシコ州東部までの広大な領域です。

  • 上下方向中央<br />腕が持っているものはアトラトルです。<br />説明文<br />「狩猟<br />弓矢はこの時期の後半に最初に登場し、狩猟ゲームの主要なツールとしてアトラトルに取って代わったと考えられています。」<br /><br />弓を持った人物の右の説明文<br />「弓はアトラトルよりも正確で、射程が長く、素早く撃つことができました。」<br /><br />中央やや右下の飾り枠内の説明文<br />「住まい<br />メサ・ヴェルデ内で見つかった「竪穴住居」と呼ばれる最も初期の住居は、550年にさかのぼります。竪穴住居は、おそらくバスケットメーカー時代の初期にアルコーブの床に掘られた貯蔵ピットを起源としています。」<br /><br />左下の飾り枠内の説明文<br />「農業<br />農業への依存は、修正バスケットメーカー期間中に増加しました。しかし、狩猟採集は依然として重要でした。」<br /><br />下中央やや左の飾り枠内の説明文<br />「貿易<br />貿易は原材料と食料の追加の供給源でした。」<br /><br />下中央やや右の説明文<br />「構築ツール<br />溝のある斧と槌はこの時期の初めに現れました。それらは家を建てたり、石を成形するの重要でした。」<br />左の黒い石が斧、左が槌です。<br />

    上下方向中央
    腕が持っているものはアトラトルです。
    説明文
    「狩猟
    弓矢はこの時期の後半に最初に登場し、狩猟ゲームの主要なツールとしてアトラトルに取って代わったと考えられています。」

    弓を持った人物の右の説明文
    「弓はアトラトルよりも正確で、射程が長く、素早く撃つことができました。」

    中央やや右下の飾り枠内の説明文
    「住まい
    メサ・ヴェルデ内で見つかった「竪穴住居」と呼ばれる最も初期の住居は、550年にさかのぼります。竪穴住居は、おそらくバスケットメーカー時代の初期にアルコーブの床に掘られた貯蔵ピットを起源としています。」

    左下の飾り枠内の説明文
    「農業
    農業への依存は、修正バスケットメーカー期間中に増加しました。しかし、狩猟採集は依然として重要でした。」

    下中央やや左の飾り枠内の説明文
    「貿易
    貿易は原材料と食料の追加の供給源でした。」

    下中央やや右の説明文
    「構築ツール
    溝のある斧と槌はこの時期の初めに現れました。それらは家を建てたり、石を成形するの重要でした。」
    左の黒い石が斧、左が槌です。

  • 「陶器の始まり」<br /><br />中央の飾り枠内の説明文<br />「陶器はメキシコで最初に登場し、紀元前300年までにアリゾナ州南部とニューメキシコ州南部で生産されていました。南西部北部で見つかった最も初期の陶器は400~500年にさかのぼり、陶器の南部起源を示唆しています。」<br /><br />上部左の説明文<br />「混合物のない陶器<br />最初、バスケットメーカーは純粋な粘土から陶器を作ろうとしました。この陶器は乾くとひびが入り、あまり役に立ちませんでした。陶器が乾いたときに割れないように、砂や砂などの混合物が必要です。」<br /><br />上部中央の説明文<br />「草とわらの混合物<br />粘土を一体化するために何かが必要であることに気づき、陶工は粘土の中に草とわらを混ぜました。これは粘土を一体化しましたが、容器が火の上に置かれたときに燃え尽き、穴でいっぱいになりました。」<br /><br />上部右の説明文<br />「雲母質の砂利?完璧な混合物<br />バスケットメーカー時代の人々は、メサ・ヴェルデ地方で見つかった雲母質の砂利が完璧な混合物になることを発見しました。細かく砕いた砂利を粘土と混ぜることによって、割れを防ぐことができました。」<br /><br />中段の陶器については次で説明します。<br />

    「陶器の始まり」

    中央の飾り枠内の説明文
    「陶器はメキシコで最初に登場し、紀元前300年までにアリゾナ州南部とニューメキシコ州南部で生産されていました。南西部北部で見つかった最も初期の陶器は400~500年にさかのぼり、陶器の南部起源を示唆しています。」

    上部左の説明文
    「混合物のない陶器
    最初、バスケットメーカーは純粋な粘土から陶器を作ろうとしました。この陶器は乾くとひびが入り、あまり役に立ちませんでした。陶器が乾いたときに割れないように、砂や砂などの混合物が必要です。」

    上部中央の説明文
    「草とわらの混合物
    粘土を一体化するために何かが必要であることに気づき、陶工は粘土の中に草とわらを混ぜました。これは粘土を一体化しましたが、容器が火の上に置かれたときに燃え尽き、穴でいっぱいになりました。」

    上部右の説明文
    「雲母質の砂利?完璧な混合物
    バスケットメーカー時代の人々は、メサ・ヴェルデ地方で見つかった雲母質の砂利が完璧な混合物になることを発見しました。細かく砕いた砂利を粘土と混ぜることによって、割れを防ぐことができました。」

    中段の陶器については次で説明します。

  • 1つ上の写真の右側<br />上部右から2番目の説明文<br />「よく焼かれた陶器<br />粘土の雲母質の砂利から作られた陶器は丈夫で使い勝手が良いものでした。焼かれた後、この容器は多くの家庭用に使用できました。」<br /><br />上部右端の説明文<br />「飾られた陶器<br />バスケットメーカー時代の人々が作った陶器は灰色の無地の陶器で、黒と赤のシンプルな装飾が施されていました。」<br /><br />右中央上の説明文<br />「実験<br />陶器のアイデアは北に向かって広まりましたが、正確なルートと手段は不明です。 しかし、バスケットメーカー時代の人々は、陶器を作るための手順を完成させるために、すべての実験段階を経たことが知られています。」<br /><br />右中央下の説明文<br />「陶器の形の起源:ひょうたん容器の模倣<br />陶器がこの地域に入る前に、ひょうたんは容器として到着しました。陶器が発達するにつれて、おなじみのひょうたんの形がコピーされました。この棚の陶器は、このひょうたん容器の模造品から得られたさまざまな形を示しています。」<br />

    1つ上の写真の右側
    上部右から2番目の説明文
    「よく焼かれた陶器
    粘土の雲母質の砂利から作られた陶器は丈夫で使い勝手が良いものでした。焼かれた後、この容器は多くの家庭用に使用できました。」

    上部右端の説明文
    「飾られた陶器
    バスケットメーカー時代の人々が作った陶器は灰色の無地の陶器で、黒と赤のシンプルな装飾が施されていました。」

    右中央上の説明文
    「実験
    陶器のアイデアは北に向かって広まりましたが、正確なルートと手段は不明です。 しかし、バスケットメーカー時代の人々は、陶器を作るための手順を完成させるために、すべての実験段階を経たことが知られています。」

    右中央下の説明文
    「陶器の形の起源:ひょうたん容器の模倣
    陶器がこの地域に入る前に、ひょうたんは容器として到着しました。陶器が発達するにつれて、おなじみのひょうたんの形がコピーされました。この棚の陶器は、このひょうたん容器の模造品から得られたさまざまな形を示しています。」

  • このショーケースには「トウモロコシの人々」が展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは右側部分です。<br /><br />上部中央の飾り枠内の説明文<br />「トトウモロコシは、何世紀にもわたる遺伝的選択を通じてアメリカ先住民によって栽培されました。15世紀にスペインに輸送され、すぐにヨーロッパの食生活に受け入れられました。 今日、世界で3番目に価値のある食用作物として、トウモロコシは、これまでで最も注目に値する植物栽培の成果と見なされています。」<br /><br />上部右側の飾り枠内の説明文<br />「今日、プエブロの人々は、トウモロコシが彼らの生活の中心的な要素の1つであると考えています。 メサ・ヴェルデで見つかったトウモロコシの工芸品は、先祖から現在に至るまでそのつながりが途切れていない文化の物語です。<br />「母なるトウモロコシは私たちの始まりです」<br />                サン・ファン・プエブロ(San Juan Pueblo)」<br />

    このショーケースには「トウモロコシの人々」が展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは右側部分です。

    上部中央の飾り枠内の説明文
    「トトウモロコシは、何世紀にもわたる遺伝的選択を通じてアメリカ先住民によって栽培されました。15世紀にスペインに輸送され、すぐにヨーロッパの食生活に受け入れられました。 今日、世界で3番目に価値のある食用作物として、トウモロコシは、これまでで最も注目に値する植物栽培の成果と見なされています。」

    上部右側の飾り枠内の説明文
    「今日、プエブロの人々は、トウモロコシが彼らの生活の中心的な要素の1つであると考えています。 メサ・ヴェルデで見つかったトウモロコシの工芸品は、先祖から現在に至るまでそのつながりが途切れていない文化の物語です。
    「母なるトウモロコシは私たちの始まりです」
    サン・ファン・プエブロ(San Juan Pueblo)」

  • 右側部分です。左半分は1つ上の写真と重複します。<br /><br />右上の説明文<br />「食事と準備<br />メサ・ヴェルデでは、砕いたトウモロコシ、コーンミール、コーンフラワー、ケーキが、バスケットメーカー時代からプエブロIII期までの間に発見されています。炉床、調理用の石、陶器は、食品の調理方法の手がかりを与えてくれます。これらのことから、今日食べられている多くの伝統的なトウモロコシ料理は先祖の時代に始まったことは明らかです。」<br /><br />

    右側部分です。左半分は1つ上の写真と重複します。

    右上の説明文
    「食事と準備
    メサ・ヴェルデでは、砕いたトウモロコシ、コーンミール、コーンフラワー、ケーキが、バスケットメーカー時代からプエブロIII期までの間に発見されています。炉床、調理用の石、陶器は、食品の調理方法の手がかりを与えてくれます。これらのことから、今日食べられている多くの伝統的なトウモロコシ料理は先祖の時代に始まったことは明らかです。」

  • このショーケースには「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」が展示されています。1枚の写真に納まりませんでしたので、いくつかに分けます。<br />これは左上の部分です。<br /><br />左上のイラストの説明文<br />「1.洞窟の自然の土と岩の床。<br />2.これら修正バスケットメーカーの竪穴住居は洞窟の床に掘られ、600年から700年頃に使用されました。<br />3. 修正バスケットメーカーの人々がこの洞窟を使用していた数年間に蓄積したゴミの層。<br />4.洞窟が使用されていない期間に、天井から落ちた砂や岩の層。<br />5.典型的なプエブロ期の小さな崖の住居。 1100年から1276年頃まで使用されていました。<br />6.プエブロインディアンが洞窟に住んでいる間に蓄積したゴミと七面鳥の糞の層。<br />7.プエブロインディアンが洞窟に家を出た後に蓄積した砂と岩の層。<br /><br />ステップ・ハウス洞窟は、1891年にスウェーデンの考古学者、バロンG.ノルデンスキールド(Baron G.  Nordenskiöld)によって部分的に発掘され、1926年に管理者:ジェシーL.ヌスボウム(Jesse L. Nusboum)によって完全に発掘されました。」<br />左下の説明文<br />「層序<br />上の図に示されているように、考古学的遺跡はしばしば層状に見られます。 どのサイトでも、最も古い層が一番下にあり、最も新しい層が一番上にあります。 これは常に、異なる文化のそれぞれの年齢の最も明確な証拠です。 「層序」という用語は、これらの重なった層に適用されます。」<br /><br />

    このショーケースには「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」が展示されています。1枚の写真に納まりませんでしたので、いくつかに分けます。
    これは左上の部分です。

    左上のイラストの説明文
    「1.洞窟の自然の土と岩の床。
    2.これら修正バスケットメーカーの竪穴住居は洞窟の床に掘られ、600年から700年頃に使用されました。
    3. 修正バスケットメーカーの人々がこの洞窟を使用していた数年間に蓄積したゴミの層。
    4.洞窟が使用されていない期間に、天井から落ちた砂や岩の層。
    5.典型的なプエブロ期の小さな崖の住居。 1100年から1276年頃まで使用されていました。
    6.プエブロインディアンが洞窟に住んでいる間に蓄積したゴミと七面鳥の糞の層。
    7.プエブロインディアンが洞窟に家を出た後に蓄積した砂と岩の層。

    ステップ・ハウス洞窟は、1891年にスウェーデンの考古学者、バロンG.ノルデンスキールド(Baron G. Nordenskiöld)によって部分的に発掘され、1926年に管理者:ジェシーL.ヌスボウム(Jesse L. Nusboum)によって完全に発掘されました。」
    左下の説明文
    「層序
    上の図に示されているように、考古学的遺跡はしばしば層状に見られます。 どのサイトでも、最も古い層が一番下にあり、最も新しい層が一番上にあります。 これは常に、異なる文化のそれぞれの年齢の最も明確な証拠です。 「層序」という用語は、これらの重なった層に適用されます。」

  • 「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース右上の部分。<br /><br />左の絵の下の説明文<br />「ステップ・ハウス洞窟:修正バスケットメーカー時代の人々が600年頃占領したときに見られたと考えられています。」<br /><br />左下の飾り枠内の説明文<br />「ステップ・ハウス洞窟の重要性<br />ステップ・ハウス洞窟は、実際には修正バスケットメーカー文化のタイプのサイトです。ここでは、崖の住居を占領した人々の文化よりも古い文化が最初に認められました。 スウェーデンの考古学者、バロンG、ノルデンスキオールド(Baron G, Nordenskiold)は、1891年に洞窟で2つの修正バスケットメーカー陶器を見つけた後、次のように述べています。「これらの陶器は両方とも、岩窟住居の残りの陶器よりも古い可能性があります。おそらく、崖の村が建てられる前にステップ・ハウス洞窟に住んでいた人々の作品である可能性があります。」。」<br /><br />「今日のステップ・ハウス洞窟<br />この写真は、現在のステップ・ハウスの様子です。 左は修正バスケットメーカーの 3 つの竪穴住居跡で、右はグレートプエブロ時代の小さな崖の住居跡です。これらの関係は左図*) に示してあります。」<br /><br />*) 1つ上の写真の左図のことです。<br />

    「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース右上の部分。

    左の絵の下の説明文
    「ステップ・ハウス洞窟:修正バスケットメーカー時代の人々が600年頃占領したときに見られたと考えられています。」

    左下の飾り枠内の説明文
    「ステップ・ハウス洞窟の重要性
    ステップ・ハウス洞窟は、実際には修正バスケットメーカー文化のタイプのサイトです。ここでは、崖の住居を占領した人々の文化よりも古い文化が最初に認められました。 スウェーデンの考古学者、バロンG、ノルデンスキオールド(Baron G, Nordenskiold)は、1891年に洞窟で2つの修正バスケットメーカー陶器を見つけた後、次のように述べています。「これらの陶器は両方とも、岩窟住居の残りの陶器よりも古い可能性があります。おそらく、崖の村が建てられる前にステップ・ハウス洞窟に住んでいた人々の作品である可能性があります。」。」

    「今日のステップ・ハウス洞窟
    この写真は、現在のステップ・ハウスの様子です。 左は修正バスケットメーカーの 3 つの竪穴住居跡で、右はグレートプエブロ時代の小さな崖の住居跡です。これらの関係は左図*) に示してあります。」

    *) 1つ上の写真の左図のことです。

  • 「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケースの中段左部分。<br /><br />左<br />「1.占領時に現れた竪穴住居<br />修正バスケットメーカーの期間中、メサ・ヴェルデのメサトップと洞窟の両方に、何百ものこれらの竪穴住居が建設されました。それぞれが一軒家の家でした。」<br /><br />右<br />「2.焼けた竪穴住居の遺跡<br />メサ・ヴェルデで発見されたすべての竪穴住居は火事で破壊されました。人々が日常生活で使用する多くの物は、焼けた竪穴住居で発見されました。しかし、焼けた人間の遺体は発見されていません。」<br />

    「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケースの中段左部分。


    「1.占領時に現れた竪穴住居
    修正バスケットメーカーの期間中、メサ・ヴェルデのメサトップと洞窟の両方に、何百ものこれらの竪穴住居が建設されました。それぞれが一軒家の家でした。」


    「2.焼けた竪穴住居の遺跡
    メサ・ヴェルデで発見されたすべての竪穴住居は火事で破壊されました。人々が日常生活で使用する多くの物は、焼けた竪穴住居で発見されました。しかし、焼けた人間の遺体は発見されていません。」

  • 「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース中央部分。<br /><br />中央右の説明文<br />「3.発掘前の竪穴住居<br />何世紀もの間に、竪穴住居の残骸は土で覆われるようになりました。今日のそれらの唯一の証拠は、表面に残っている火で赤くなった数個の砂岩です。」<br /><br />「4.発掘後の竪穴住居<br />竪穴住居が発掘されたとき、竪穴は無傷で発見されました。屋根の残りは焦げた棒と焼かれた粘土だけです。 崩落した屋根に押しつぶされることが多い竪穴には、かつての住民の道具、器具、調理用具があります。」<br /><br />

    「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース中央部分。

    中央右の説明文
    「3.発掘前の竪穴住居
    何世紀もの間に、竪穴住居の残骸は土で覆われるようになりました。今日のそれらの唯一の証拠は、表面に残っている火で赤くなった数個の砂岩です。」

    「4.発掘後の竪穴住居
    竪穴住居が発掘されたとき、竪穴は無傷で発見されました。屋根の残りは焦げた棒と焼かれた粘土だけです。 崩落した屋根に押しつぶされることが多い竪穴には、かつての住民の道具、器具、調理用具があります。」

  • 「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース中段左部分。<br /><br />中央奥の説明文<br />「竪穴住居の燃焼<br />メサ・ヴェルデで発見された竪穴住居のほとんどは、火事で破壊されました。この場合の物体の多くは、ステップ・ハウス洞窟の3つを破壊した火の影響を示しています。この燃焼の理由は不明です。」<br /><br />上の写真の「4.発掘後の竪穴住居」除いた左端<br />「指跡<br />建造者の指跡は、この屋根の粘土ではっきりと示されています。赤みがかった変色は、燃えている屋根の梁の熱によって引き起こされました。」<br /><br />左から2番目 <br />「熱変色<br />この陶器の赤みがかった部分の色は、燃えている屋根の熱によって生じました。」<br /><br />左から3番目<br />「焼けた屋根の粘土<br />この焼けた屋根の粘土には、漆喰で塗られた葦の跡があります。」<br /><br />左から4番目<br />「黒焦げになったサンダル<br />これらのサンダルの10枚が山積みで見つかりました。まだ見える織りの模様に注意してください。」<br /><br />右端<br />「黒焦げになったバッグ<br />このバッグには、特定はできませんが何か食材が入っていたようです。」<br /><br />

    「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース中段左部分。

    中央奥の説明文
    「竪穴住居の燃焼
    メサ・ヴェルデで発見された竪穴住居のほとんどは、火事で破壊されました。この場合の物体の多くは、ステップ・ハウス洞窟の3つを破壊した火の影響を示しています。この燃焼の理由は不明です。」

    上の写真の「4.発掘後の竪穴住居」除いた左端
    「指跡
    建造者の指跡は、この屋根の粘土ではっきりと示されています。赤みがかった変色は、燃えている屋根の梁の熱によって引き起こされました。」

    左から2番目
    「熱変色
    この陶器の赤みがかった部分の色は、燃えている屋根の熱によって生じました。」

    左から3番目
    「焼けた屋根の粘土
    この焼けた屋根の粘土には、漆喰で塗られた葦の跡があります。」

    左から4番目
    「黒焦げになったサンダル
    これらのサンダルの10枚が山積みで見つかりました。まだ見える織りの模様に注意してください。」

    右端
    「黒焦げになったバッグ
    このバッグには、特定はできませんが何か食材が入っていたようです。」

  • 「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース下段中央部分。<br /><br />やや左奥<br />「焦げたコーンミール<br />壷の底に残ったこのコーンミールは、燃えている家の熱で固まりました。」<br /><br />中央奥<br />「カボチャ<br />多くのカボチャの茎と皮は、修正バスケットメーカー時代の竪穴住居で見つけられました。 大きな曲がった首が一般的だったようです。」<br /><br />中央手前<br />「豆<br />豆は、この地域で修正バスケットメーカー時代の人々によって最初に栽培されました。 それらは一般的なメキシコの豆に似ていました。」<br /><br />中央やや右<br />「クッキングストーン<br />今日のインディアンは今でもこのような石の上でトウモロコシのケーキとパンを焼いています。」<br />

    「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース下段中央部分。

    やや左奥
    「焦げたコーンミール
    壷の底に残ったこのコーンミールは、燃えている家の熱で固まりました。」

    中央奥
    「カボチャ
    多くのカボチャの茎と皮は、修正バスケットメーカー時代の竪穴住居で見つけられました。 大きな曲がった首が一般的だったようです。」

    中央手前
    「豆
    豆は、この地域で修正バスケットメーカー時代の人々によって最初に栽培されました。 それらは一般的なメキシコの豆に似ていました。」

    中央やや右
    「クッキングストーン
    今日のインディアンは今でもこのような石の上でトウモロコシのケーキとパンを焼いています。」

  • 「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース下段右端部分。<br /><br />中央手前<br />「壺カバー<br />この粘土の壺のカバーには、8つのトウモロコシの穂軸の痕跡*)があります。」<br /><br />*) 1つ上の写真の方が分かり易いかも知れません。<br /><br />右の2つ<br />「陶器<br />ステップ・ハウス洞窟のアースロッジからの陶器は、典型的な修正バスケットメーカー時代の陶器です。 簡素なグレーで、滑らかでなく、雲母の混合物があります。光沢のある雲母の粒子が容器の壁に見られます。」<br />

    「ステップ・ハウス洞窟 修正バスケットメーカーサイト」ショーケース下段右端部分。

    中央手前
    「壺カバー
    この粘土の壺のカバーには、8つのトウモロコシの穂軸の痕跡*)があります。」

    *) 1つ上の写真の方が分かり易いかも知れません。

    右の2つ
    「陶器
    ステップ・ハウス洞窟のアースロッジからの陶器は、典型的な修正バスケットメーカー時代の陶器です。 簡素なグレーで、滑らかでなく、雲母の混合物があります。光沢のある雲母の粒子が容器の壁に見られます。」

  • このショーケースには「プエブロ建築の発展」に関する写真、スケッチ、模型が展示されています。<br />情報量が多いので、ここでは写真とスケッチはタイトルにとどめ、模型のみの説明を示します。<br />また、1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは左側部分です。<br /><br />全体説明<br />「プエブロの建築は、数世紀にわたってゆっくりと発展しました。最初のステップは粗野な竪穴住居でしたが、着実な進歩があり、最終段階で大きな町が建設されました。プエブロとして知られているこれらの構造物は、整形された砂岩のブロックを日干しレンガ用モルタルで積み上げて作られました。建物は日干しレンガと柱からなる床と屋根を有し、高さは1階から4階建てでした。<br />プエブロのサイズは、6つまたは8つの部屋と1つのキヴァから、200を超える部屋と多数のキヴァまで様々でした。技術の素晴らしさは、700年後でもそのいくつかは素晴らしい保存状態にあるという事実によって証明されます。屋根の多くはまだ残っており、元の漆喰と絵画はまだ壁に残っています。」<br /><br />左上の写真:初期の家<br />その下のスケッチ:縦穴住居集落の一部<br /><br />右上の写真:最初のプエブロ<br />その下のスケッチ:平面図。アルカリ・メサ(Alkali Mesa)<br /><br />左下の右側に2つの矢印がでている説明板<br />「最初の家<br />初期の建造物は、400年頃に出現した単純な竪穴住居でした。 これらの初期の半地下の部屋から、右のモデルに示されているように、発展は2つの方向に進みました:<br />1.居間。収容されたピットは地下の特徴を失い、居間になりました。*)<br />2.儀式用の部屋。いくつかの竪穴住居はより深く成長し、キヴァと呼ばれる完全に地下の部屋に発展しました。**)」<br /><br />*) 右上に発展していきます。<br />**) 右下に発展していきます。<br /><br />左下の模型<br />「浅い竪穴住居<br />1.この地域で最も初期の建造物は、浅い竪穴住居でした。居間と儀式室の両方を兼ねていました。」<br /><br />1.の右上隣の模型<br />「2.日干しレンガの家<br />しばらくすると、家はより精巧になりました。壁は垂直になり、樹皮、草、棒、その他の植物材料で強化された日干しレンガで作られました。」<br /><br /><br />1.の右下隣の模型<br />「2.浅い竪穴住居<br />これは、1.に示されている浅い竪穴住居の地下部分です。これは主に居間でしたが、儀式にも使用されました。儀式は、この地下の円形の部屋に合うように標準化されました。」<br /><br />右下の模型<br />「3.深い竪穴住居<br />上記のモデルNo.2に示すように、居住区が長方形の地上の部屋に変わったとき、司祭たちは問題に直面しました。 彼らは新しい家に合うように儀式を変えるか、儀式のために古いスタイルの竪穴住居を維持しなければなりませんでした。彼らは後者の方法をとりました。そして竪穴住居は徐々に深くなりました。」<br />

    このショーケースには「プエブロ建築の発展」に関する写真、スケッチ、模型が展示されています。
    情報量が多いので、ここでは写真とスケッチはタイトルにとどめ、模型のみの説明を示します。
    また、1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分です。

    全体説明
    「プエブロの建築は、数世紀にわたってゆっくりと発展しました。最初のステップは粗野な竪穴住居でしたが、着実な進歩があり、最終段階で大きな町が建設されました。プエブロとして知られているこれらの構造物は、整形された砂岩のブロックを日干しレンガ用モルタルで積み上げて作られました。建物は日干しレンガと柱からなる床と屋根を有し、高さは1階から4階建てでした。
    プエブロのサイズは、6つまたは8つの部屋と1つのキヴァから、200を超える部屋と多数のキヴァまで様々でした。技術の素晴らしさは、700年後でもそのいくつかは素晴らしい保存状態にあるという事実によって証明されます。屋根の多くはまだ残っており、元の漆喰と絵画はまだ壁に残っています。」

    左上の写真:初期の家
    その下のスケッチ:縦穴住居集落の一部

    右上の写真:最初のプエブロ
    その下のスケッチ:平面図。アルカリ・メサ(Alkali Mesa)

    左下の右側に2つの矢印がでている説明板
    「最初の家
    初期の建造物は、400年頃に出現した単純な竪穴住居でした。 これらの初期の半地下の部屋から、右のモデルに示されているように、発展は2つの方向に進みました:
    1.居間。収容されたピットは地下の特徴を失い、居間になりました。*)
    2.儀式用の部屋。いくつかの竪穴住居はより深く成長し、キヴァと呼ばれる完全に地下の部屋に発展しました。**)」

    *) 右上に発展していきます。
    **) 右下に発展していきます。

    左下の模型
    「浅い竪穴住居
    1.この地域で最も初期の建造物は、浅い竪穴住居でした。居間と儀式室の両方を兼ねていました。」

    1.の右上隣の模型
    「2.日干しレンガの家
    しばらくすると、家はより精巧になりました。壁は垂直になり、樹皮、草、棒、その他の植物材料で強化された日干しレンガで作られました。」


    1.の右下隣の模型
    「2.浅い竪穴住居
    これは、1.に示されている浅い竪穴住居の地下部分です。これは主に居間でしたが、儀式にも使用されました。儀式は、この地下の円形の部屋に合うように標準化されました。」

    右下の模型
    「3.深い竪穴住居
    上記のモデルNo.2に示すように、居住区が長方形の地上の部屋に変わったとき、司祭たちは問題に直面しました。 彼らは新しい家に合うように儀式を変えるか、儀式のために古いスタイルの竪穴住居を維持しなければなりませんでした。彼らは後者の方法をとりました。そして竪穴住居は徐々に深くなりました。」

  • 中央上のイラスト:ユニット型プエブロ<br />その下のスケッチ:ユニットハウスの平面図<br /><br />右上の写真:グレート・プエブロ<br />その下のスケッチ:クリフ・パレスの平面図<br /><br />上側左端の模型の説明文<br />「3. 日干しレンガ、柱、スラブの家<br />発達プエブロ時代の一般的なタイプの家は、壁の基部の周りに薄いスラブの列がある場合とない場合で、日干しレンガと垂直の柱で構成されていました。」<br /><br />上側中央の模型の説明文<br />「4. 日干しレンガと石の家<br />これが石積みへの第一歩でした。最初は数個の石しか使われていませんでしたが、壁はまだ主に日干しレンガでした。薄いスラブはしばしば壁の基部に置かれました。」<br /><br />上側右端の模型の説明文<br />「5.水平石積み<br />多くの実験の後、真の石積みが完成しました。インディアンは石が最も満足のいく材料であり、強い堅固な壁がグレートプエブロ時代の大きくてコンパクトな村の建設を可能にすることを見出しました。」<br /><br />下側左から2番目の模型の説明文<br />「4。キヴァ機能の発展<br />しばらくすると、深いピットルームは居住区として使用されなくなり、儀式に必要な特定の標準機能が開発されました。 重要な変更は、屋根の支えが元の4つから置き換わり、壁に隣接して移動され、部屋の周りを走る棚に置かれたことです。<br /><br />下側右から2番目の模型の説明文<br />「5.標準的なメサ・ヴェルデのキヴァ<br />グレートプエブロ時代、メサ・ヴェルデのキヴァのほとんどは円形の地下の部屋で、6つの石積みの屋根の支柱が棚または「バンケット(banquette)*)」の上に置かれていました。 換気塔は通常南側にあり、それに沿ってキヴァの壁、デフレクター、炉、そして床の小さな儀式用の穴である「シパプ(sipapu)」の深い窪みがありました。」<br /><br />*) 壁際の長椅子<br /><br />下側右端の模型の説明文<br />「6.キヴァの屋根<br />キヴァの屋根は丸太と日干しレンガでできており、周囲の地表と同じ高さでした。 中央の艙口は入り口と煙孔として機能し、右側の小さな穴は新鮮な空気がキヴァに引き込まれる窓でした。」<br />

    中央上のイラスト:ユニット型プエブロ
    その下のスケッチ:ユニットハウスの平面図

    右上の写真:グレート・プエブロ
    その下のスケッチ:クリフ・パレスの平面図

    上側左端の模型の説明文
    「3. 日干しレンガ、柱、スラブの家
    発達プエブロ時代の一般的なタイプの家は、壁の基部の周りに薄いスラブの列がある場合とない場合で、日干しレンガと垂直の柱で構成されていました。」

    上側中央の模型の説明文
    「4. 日干しレンガと石の家
    これが石積みへの第一歩でした。最初は数個の石しか使われていませんでしたが、壁はまだ主に日干しレンガでした。薄いスラブはしばしば壁の基部に置かれました。」

    上側右端の模型の説明文
    「5.水平石積み
    多くの実験の後、真の石積みが完成しました。インディアンは石が最も満足のいく材料であり、強い堅固な壁がグレートプエブロ時代の大きくてコンパクトな村の建設を可能にすることを見出しました。」

    下側左から2番目の模型の説明文
    「4。キヴァ機能の発展
    しばらくすると、深いピットルームは居住区として使用されなくなり、儀式に必要な特定の標準機能が開発されました。 重要な変更は、屋根の支えが元の4つから置き換わり、壁に隣接して移動され、部屋の周りを走る棚に置かれたことです。

    下側右から2番目の模型の説明文
    「5.標準的なメサ・ヴェルデのキヴァ
    グレートプエブロ時代、メサ・ヴェルデのキヴァのほとんどは円形の地下の部屋で、6つの石積みの屋根の支柱が棚または「バンケット(banquette)*)」の上に置かれていました。 換気塔は通常南側にあり、それに沿ってキヴァの壁、デフレクター、炉、そして床の小さな儀式用の穴である「シパプ(sipapu)」の深い窪みがありました。」

    *) 壁際の長椅子

    下側右端の模型の説明文
    「6.キヴァの屋根
    キヴァの屋根は丸太と日干しレンガでできており、周囲の地表と同じ高さでした。 中央の艙口は入り口と煙孔として機能し、右側の小さな穴は新鮮な空気がキヴァに引き込まれる窓でした。」

  • このショーケースには「発展期のプエブロ陶器」が4段にわたって展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは右側部分です。<br /><br />左側の縦方向に、以下に示す全体説明、上から1段目、2段目、3段目、最下段の説明があります。<br /><br />全体説明<br />「発展期のプエブロ時代の350年は、陶器の技術、形、表面仕上げ、装飾に多くの変化が見られました。ここに展示されている陶器は、750年頃から1100年頃までの発展過程を示しています。」<br /><br />1段目<br />「ミニチュア」<br /><br />2段目<br />「成形された容器<br />これは、多くのエキゾチックな形が生み出された実験期間でした。ここに展示されているすべての形態は、メサ・ヴェルデ地域で製造されました。」<br /><br />3段目 <br />「食料、水、貯蔵<br />水と種の瓶、ボウル、水差し、おたま、水筒は一般的な容器の種類でした。形態は、バスケットメーカー時代から発展プエブロ期まで基本的に同じままでした。」<br /><br />最下段<br />「表面に凹凸模様のある容器」<br /><br />中央1段目のミニチュア<br />「製造の理由は不明ですが、ミニチュアは窯のテストに使用されたり、おもちゃとして使用されたり、陶芸家の練習の結果であるかも知れません。」<br />

    このショーケースには「発展期のプエブロ陶器」が4段にわたって展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは右側部分です。

    左側の縦方向に、以下に示す全体説明、上から1段目、2段目、3段目、最下段の説明があります。

    全体説明
    「発展期のプエブロ時代の350年は、陶器の技術、形、表面仕上げ、装飾に多くの変化が見られました。ここに展示されている陶器は、750年頃から1100年頃までの発展過程を示しています。」

    1段目
    「ミニチュア」

    2段目
    「成形された容器
    これは、多くのエキゾチックな形が生み出された実験期間でした。ここに展示されているすべての形態は、メサ・ヴェルデ地域で製造されました。」

    3段目
    「食料、水、貯蔵
    水と種の瓶、ボウル、水差し、おたま、水筒は一般的な容器の種類でした。形態は、バスケットメーカー時代から発展プエブロ期まで基本的に同じままでした。」

    最下段
    「表面に凹凸模様のある容器」

    中央1段目のミニチュア
    「製造の理由は不明ですが、ミニチュアは窯のテストに使用されたり、おもちゃとして使用されたり、陶芸家の練習の結果であるかも知れません。」

  • 「発展期のプエブロ陶器」のショーケースの左側部分<br />各段は1つ上の写真の段に相当します。<br /><br />上から1段目のミニチュア<br />「大きな容器の形を模倣した小さな容器は、発展プエブロ期のメサ・ヴェルデで一般的です。」<br />

    「発展期のプエブロ陶器」のショーケースの左側部分
    各段は1つ上の写真の段に相当します。

    上から1段目のミニチュア
    「大きな容器の形を模倣した小さな容器は、発展プエブロ期のメサ・ヴェルデで一般的です。」

  • このショーケースには「ユッカの価値」関連物が展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは左側部分です。<br /><br />右上の全体説明<br />「ユッカは非常に多様な用途があり、南西部の先祖プエブロや現代のインディアンにとって最も重要な非栽培植物のグループを構成しています。」<br /><br />ここでは、「縄類」、「ユッカの繊維」、「織物」について展示されています。<br />

    このショーケースには「ユッカの価値」関連物が展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分です。

    右上の全体説明
    「ユッカは非常に多様な用途があり、南西部の先祖プエブロや現代のインディアンにとって最も重要な非栽培植物のグループを構成しています。」

    ここでは、「縄類」、「ユッカの繊維」、「織物」について展示されています。

  • これは1枚の写真の右側部分です。<br />ここでは「食べ物と医薬品」、「ユッカの花のグループ」、「芸術」について展示されています。<br />

    これは1枚の写真の右側部分です。
    ここでは「食べ物と医薬品」、「ユッカの花のグループ」、「芸術」について展示されています。

  • このショーケースにはロックアートが展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは左側部分です。<br /><br />右上の説明文<br />「スパイダー祖母(Spider Grandmother、Gogyeng Sowuhti)*) が話しました。彼女は、「あなたは長い移動を続けるでしょう。あなたは村を建設し、新しい移住のためにそれらを放棄します。休憩するときはいつでも、岩や崖に跡を残して、後から来た人々が彼らの前に誰がいたかを知ることができるようにしてください。」<br /><br />*) 正式な和訳は分かりませんのでとりあえずこうしておきます。アメリカ南西部の神話に登場する重要人物です。<br /><br />左上の説明文<br />「ペトログリフ(petroglyph、岩絵)はロックアートの最も一般的な形式です。画像は、つつき石、アブレイダー、彫刻刀、ドリル、ノミのようなツールを使用して、自然の岩の表面をつつくか彫刻されます。」<br /><br />左上の手形<br />「手形は一般的なロックアートの画像であり、多くの場合、神聖な場所の署名またはマーカーと見なされます。」<br /><br />右下の4つの工具<br />左から「ドリル」、「アブレイダー」、「彫刻刀」、「つつき石」です。<br />

    このショーケースにはロックアートが展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分です。

    右上の説明文
    「スパイダー祖母(Spider Grandmother、Gogyeng Sowuhti)*) が話しました。彼女は、「あなたは長い移動を続けるでしょう。あなたは村を建設し、新しい移住のためにそれらを放棄します。休憩するときはいつでも、岩や崖に跡を残して、後から来た人々が彼らの前に誰がいたかを知ることができるようにしてください。」

    *) 正式な和訳は分かりませんのでとりあえずこうしておきます。アメリカ南西部の神話に登場する重要人物です。

    左上の説明文
    「ペトログリフ(petroglyph、岩絵)はロックアートの最も一般的な形式です。画像は、つつき石、アブレイダー、彫刻刀、ドリル、ノミのようなツールを使用して、自然の岩の表面をつつくか彫刻されます。」

    左上の手形
    「手形は一般的なロックアートの画像であり、多くの場合、神聖な場所の署名またはマーカーと見なされます。」

    右下の4つの工具
    左から「ドリル」、「アブレイダー」、「彫刻刀」、「つつき石」です。

  • これは1つ上の写真の右側部分です。<br /><br />上部の説明文<br />「メサ・ヴェルデ国立公園には2つの主要なペトログリフパネルがあります。」<br /><br />左上のペトログリフパネル<br />「ペトログリフポイントパネルは、ホピ族によって、起源と移住の物語、および一族と精神の象徴を描いていると解釈されています。」<br /><br />右上の2枚*) のペトログリフパネル<br />「一般に公開されていないサイトであるバトルシップ・ロック(Battleship Rock)は、1996年のチェイピン5火災(Chapin 5 Fire)**) で深刻な被害を受けました。」<br /><br />*) 左が火災前、右(窓の外の空が反射して程んど見えませんが)が火災後です。<br />**) 1906年に国立公園に指定されて以降起こった2番目の規模の火災です。<br /><br />中央の大きなペトログリフパネル<br />「これは、バトルシップ・ロックのペトログリフの複製です。一部の考古学者は、これが出産シーンを表していると示唆しています。」<br /><br />上記ペトログリフパネル左横の説明文<br />「画像は何を意味しているのでしょうか? 同じ文化の中でも象徴には複数の意味があることが多いため、ロックアートの解釈は困難です。画像は抽象的または現実的であり、日常生活のシーンを描いたり、一族の移動、至点、超自然的または異常な自然の出来事などの重要な出来事を記念しています。」<br /><br />上記ペトログリフパネル下の説明文<br />「ロックアートは、風や水の浸食、日光、表面の剥離、大気汚染、酸性雨、破壊行為などの自然と人工の両方の作用による劣化に対して脆弱です。」<br />

    これは1つ上の写真の右側部分です。

    上部の説明文
    「メサ・ヴェルデ国立公園には2つの主要なペトログリフパネルがあります。」

    左上のペトログリフパネル
    「ペトログリフポイントパネルは、ホピ族によって、起源と移住の物語、および一族と精神の象徴を描いていると解釈されています。」

    右上の2枚*) のペトログリフパネル
    「一般に公開されていないサイトであるバトルシップ・ロック(Battleship Rock)は、1996年のチェイピン5火災(Chapin 5 Fire)**) で深刻な被害を受けました。」

    *) 左が火災前、右(窓の外の空が反射して程んど見えませんが)が火災後です。
    **) 1906年に国立公園に指定されて以降起こった2番目の規模の火災です。

    中央の大きなペトログリフパネル
    「これは、バトルシップ・ロックのペトログリフの複製です。一部の考古学者は、これが出産シーンを表していると示唆しています。」

    上記ペトログリフパネル左横の説明文
    「画像は何を意味しているのでしょうか? 同じ文化の中でも象徴には複数の意味があることが多いため、ロックアートの解釈は困難です。画像は抽象的または現実的であり、日常生活のシーンを描いたり、一族の移動、至点、超自然的または異常な自然の出来事などの重要な出来事を記念しています。」

    上記ペトログリフパネル下の説明文
    「ロックアートは、風や水の浸食、日光、表面の剥離、大気汚染、酸性雨、破壊行為などの自然と人工の両方の作用による劣化に対して脆弱です。」

  • このショーケースには「衣類」が展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは左側部分です。<br />

    このショーケースには「衣類」が展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分です。

  • これは1つ上の写真の右側部分です。

    これは1つ上の写真の右側部分です。

  • このショーケースには「食料となる野生植物と動物」が展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。 <br />これは左側部分で、弓矢、矢尻、矢尻の原石等の狩猟用具です。<br /><br />拡大写真を下に示します。<br />

    このショーケースには「食料となる野生植物と動物」が展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分で、弓矢、矢尻、矢尻の原石等の狩猟用具です。

    拡大写真を下に示します。

  • これは1枚の写真の右側部分で、食料となる野生動物の絵と植物です。<br /><br />「崖の住人は農民でしたが、トウモロコシ、豆、カボチャなどでんぷん質の食事に多様性を加えようとしたのでしょう。 この地域では、大小さまざまな狩猟動物が多かれ少なかれ一般的であり、インディアンは弓矢と罠を巧みに操り、食事にかなり安定した肉を加えていました。 ごみの山からは、多くの動物の骨が発見されています。」<br /><br />絵の動物は左上が山羊(Mountain sheep)、その右がミュールジカ(Mule deer)、その下の段は左からリス、ウッドラット(Wood rat)、うさぎ、プレーリードッグ(Prairie dog)、<br />アオライチョウ(Dusky grouse)です。<br /><br />野生植物食品<br />「メサ・ヴェルデに生育する多くの食用植物によって、崖の住人の食生活にも多様性が加えられました。 食用の根、果実、ナッツ、葉物野菜、サボテン、種子、果物はかなり一般的であり、それらの食品特性はよく知られていました。 何年にもわたる不作の中で、インディアンは獲物と野生の植物を手に入れることで、かなりの期間生きることができたと考えられます。」<br /><br />上の段は左から、ユッカのさや(ユッカの果実が乾燥したもので中に実があります。)、ユッカの果実、悪魔の爪サボテン(Devil’s claw cactus)、ウチワサボテンの葉と実(Prickly pear)、<br />下の段は左から松の実、ウチワサボテンの葉と実が乾燥したものです。<br />

    これは1枚の写真の右側部分で、食料となる野生動物の絵と植物です。

    「崖の住人は農民でしたが、トウモロコシ、豆、カボチャなどでんぷん質の食事に多様性を加えようとしたのでしょう。 この地域では、大小さまざまな狩猟動物が多かれ少なかれ一般的であり、インディアンは弓矢と罠を巧みに操り、食事にかなり安定した肉を加えていました。 ごみの山からは、多くの動物の骨が発見されています。」

    絵の動物は左上が山羊(Mountain sheep)、その右がミュールジカ(Mule deer)、その下の段は左からリス、ウッドラット(Wood rat)、うさぎ、プレーリードッグ(Prairie dog)、
    アオライチョウ(Dusky grouse)です。

    野生植物食品
    「メサ・ヴェルデに生育する多くの食用植物によって、崖の住人の食生活にも多様性が加えられました。 食用の根、果実、ナッツ、葉物野菜、サボテン、種子、果物はかなり一般的であり、それらの食品特性はよく知られていました。 何年にもわたる不作の中で、インディアンは獲物と野生の植物を手に入れることで、かなりの期間生きることができたと考えられます。」

    上の段は左から、ユッカのさや(ユッカの果実が乾燥したもので中に実があります。)、ユッカの果実、悪魔の爪サボテン(Devil’s claw cactus)、ウチワサボテンの葉と実(Prickly pear)、
    下の段は左から松の実、ウチワサボテンの葉と実が乾燥したものです。

  • 以下、ガラスケースの反射が少ない方向から撮影した個々の写真を示します。<br /><br />この図は「矢と矢作り」に関する説明です。<br /><br />「矢<br />矢には2つのタイプがあります。<br />○A単一の木材で作られた自己矢(self arrows)と○Bアシの矢柄と硬い木製の前方矢柄(fore shaft)で作られた複合矢<br />どちらのタイプも南西部のインディアンによって使用されました。<br /><br />A. 自己矢の矢柄<br />B. アシの矢柄<br />C. 硬い木製差し込み軸<br />D. アシの矢柄の先端に接着剤または樹脂で取り付けられた石の矢尻を有する前方矢柄<br />E. 矢柄の根元に筋で取り付けられた、2つに裂いた鳥の羽<br />F. 矢柄の端に矢尻を装着する方法。」<br />

    以下、ガラスケースの反射が少ない方向から撮影した個々の写真を示します。

    この図は「矢と矢作り」に関する説明です。

    「矢
    矢には2つのタイプがあります。
    ○A単一の木材で作られた自己矢(self arrows)と○Bアシの矢柄と硬い木製の前方矢柄(fore shaft)で作られた複合矢
    どちらのタイプも南西部のインディアンによって使用されました。

    A. 自己矢の矢柄
    B. アシの矢柄
    C. 硬い木製差し込み軸
    D. アシの矢柄の先端に接着剤または樹脂で取り付けられた石の矢尻を有する前方矢柄
    E. 矢柄の根元に筋で取り付けられた、2つに裂いた鳥の羽
    F. 矢柄の端に矢尻を装着する方法。」

  • これは「矢の種類」です。<br /><br />「1. 自己矢<br /><br />2. 複合矢<br /><br />世界中の矢には、上記のように自己矢と複合矢の 2 つのタイプがあります。 この画一性は、矢の発明の後、そのアイデアが1つのグループから別のグループに広がったことを示していると思われます。<br />(上記の2つの完全な矢は、古いユト(Ute)*) 矢です)。」<br /><br />*) ユタ州東部からコロラド州南西部に居住するアメリカ・インディアンの一部族。ユタ州のユタはこのユトから来ています。<br />

    これは「矢の種類」です。

    「1. 自己矢

    2. 複合矢

    世界中の矢には、上記のように自己矢と複合矢の 2 つのタイプがあります。 この画一性は、矢の発明の後、そのアイデアが1つのグループから別のグループに広がったことを示していると思われます。
    (上記の2つの完全な矢は、古いユト(Ute)*) 矢です)。」

    *) ユタ州東部からコロラド州南西部に居住するアメリカ・インディアンの一部族。ユタ州のユタはこのユトから来ています。

  • この図は「矢尻の作り方」です。<br />絵を見れば分かると思いますので、説明は省きます。<br />詳細をお知りになりたいかたは、英文をお読みください。<br />

    この図は「矢尻の作り方」です。
    絵を見れば分かると思いますので、説明は省きます。
    詳細をお知りになりたいかたは、英文をお読みください。

  • この写真は種々の矢尻とその作成道具です。<br /><br />左上<br />「グレートプエブロ時代の典型的な矢尻<br />崖の住人の矢尻は、上に示したように、いくつかの種類がありました。それらは通常かなり小さく、しばしば作りが不十分でした。崖の住人は農民だったので、矢尻は狩猟生活を営む人々ほど重要ではありませんでした。」<br /><br />左下<br />「木の矢尻<br />矢尻は必ずしも石でできていたわけではありません。時には、硬い木製の前方矢柄を尖らせて矢尻として機能させました。これらの木製の矢尻は、おそらく小さな獲物に狩猟に使用されたものと思われます。」<br /><br />右上<br />「黒曜石の矢尻<br />黒曜石はメサ・ヴェルデでは見つかりませんでした。それは長距離を運ばれ、おそらく崖の住人の高い評価を得たものと思われます。」<br /><br />右下<br />「硬石製切削道具<br />これらの強くて丸みをおびた道具は、石の矢尻やナイフを削るのに使われました。それらには大きな圧力がかったものと考えられます。」<br />

    この写真は種々の矢尻とその作成道具です。

    左上
    「グレートプエブロ時代の典型的な矢尻
    崖の住人の矢尻は、上に示したように、いくつかの種類がありました。それらは通常かなり小さく、しばしば作りが不十分でした。崖の住人は農民だったので、矢尻は狩猟生活を営む人々ほど重要ではありませんでした。」

    左下
    「木の矢尻
    矢尻は必ずしも石でできていたわけではありません。時には、硬い木製の前方矢柄を尖らせて矢尻として機能させました。これらの木製の矢尻は、おそらく小さな獲物に狩猟に使用されたものと思われます。」

    右上
    「黒曜石の矢尻
    黒曜石はメサ・ヴェルデでは見つかりませんでした。それは長距離を運ばれ、おそらく崖の住人の高い評価を得たものと思われます。」

    右下
    「硬石製切削道具
    これらの強くて丸みをおびた道具は、石の矢尻やナイフを削るのに使われました。それらには大きな圧力がかったものと考えられます。」

  • このショーケースには「栽培食物―食品加工」が展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは左側部分です。<br /><br />右上の説明文<br />「メサ・ヴェルデに住んでいたプエブロインディアンは農民でした。彼らはメサの上の小さな畑でトウモロコシ、豆、カボチャを育てました。<br />メサ・ヴェルデは乾燥農業に最適な地域です。赤い土は肥沃で、成長期は長く、年間平均降雨量は約500 mm*) です。<br />インディアンは入手可能なすべての野生の食用植物を集め、狩猟によって彼らの食事に肉を加えましたが、彼らの食糧は主に農産物に依存しました。収穫による食糧の安定供給により、彼らはこの地域に約1000年間住むことができました。」<br /><br />*) 東京の約1/3、マドリードとほぼ同じです。<br />

    このショーケースには「栽培食物―食品加工」が展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分です。

    右上の説明文
    「メサ・ヴェルデに住んでいたプエブロインディアンは農民でした。彼らはメサの上の小さな畑でトウモロコシ、豆、カボチャを育てました。
    メサ・ヴェルデは乾燥農業に最適な地域です。赤い土は肥沃で、成長期は長く、年間平均降雨量は約500 mm*) です。
    インディアンは入手可能なすべての野生の食用植物を集め、狩猟によって彼らの食事に肉を加えましたが、彼らの食糧は主に農産物に依存しました。収穫による食糧の安定供給により、彼らはこの地域に約1000年間住むことができました。」

    *) 東京の約1/3、マドリードとほぼ同じです。

  • ショーケースの右側部分<br /><br />展示物はガラスケースの反射光で見えにくいので、別の角度から撮影した写真を以下に示します。<br />

    ショーケースの右側部分

    展示物はガラスケースの反射光で見えにくいので、別の角度から撮影した写真を以下に示します。

  • 2つ上の写真の左端の絵です。<br /><br />「植え付け時間<br />農業は男性の仕事でした。彼らは、おそらく木々や低木を焼き払うことによって、メサの上の小さな畑を一掃しました。彼らが持っていた唯一の農具は、単純な掘り棒でした。この道具で、彼らはトウモロコシ、豆、カボチャの盛土をほぐしました。」<br />

    2つ上の写真の左端の絵です。

    「植え付け時間
    農業は男性の仕事でした。彼らは、おそらく木々や低木を焼き払うことによって、メサの上の小さな畑を一掃しました。彼らが持っていた唯一の農具は、単純な掘り棒でした。この道具で、彼らはトウモロコシ、豆、カボチャの盛土をほぐしました。」

  • 1つ上の写真の右側の絵です。<br /><br />「収穫<br />農作業の大部分は男性が行ったと考えられていますが、女性と子供たちも収穫を手伝ったと思われます。農産物は村に運ばれ、完全に乾燥され、ネズミ、湿気から安全な場所に保管されました。干ばつで作物が不作となった年のために、おそらく穀物は大量に保管されていました。」<br />

    1つ上の写真の右側の絵です。

    「収穫
    農作業の大部分は男性が行ったと考えられていますが、女性と子供たちも収穫を手伝ったと思われます。農産物は村に運ばれ、完全に乾燥され、ネズミ、湿気から安全な場所に保管されました。干ばつで作物が不作となった年のために、おそらく穀物は大量に保管されていました。」

  • 1つ上の写真の右側の絵です。<br /><br />「料理<br />女性は暖炉の直火で調理しました。オーブンについてはよく分かっておりません。パンは灰の中または薄い石の鉄板の上で焼かれました。肉は直火で焼いたり、大きな鉢で煮込んだりしました。スープ、ブイヨン、シチュー、お茶は間違いなく一般的でした。マスタード、ソルトブッシュ、野生のタマネギなどの多くの野生植物は、さまざまな調味料として使われました。おそらく清潔さには欠けていましたが、食べ物は間違いなく調理されました。」<br />

    1つ上の写真の右側の絵です。

    「料理
    女性は暖炉の直火で調理しました。オーブンについてはよく分かっておりません。パンは灰の中または薄い石の鉄板の上で焼かれました。肉は直火で焼いたり、大きな鉢で煮込んだりしました。スープ、ブイヨン、シチュー、お茶は間違いなく一般的でした。マスタード、ソルトブッシュ、野生のタマネギなどの多くの野生植物は、さまざまな調味料として使われました。おそらく清潔さには欠けていましたが、食べ物は間違いなく調理されました。」

  • 1つ上の写真の右端の絵です。<br /><br />「トウモロコシ挽き<br />パンを焼くためには、棚に展示されているような石臼でトウモロコシを挽く必要がありました。 現在のプエブロインディアン女性にとって、多くの場合これは最も厄介で不快な仕事です。」<br />

    1つ上の写真の右端の絵です。

    「トウモロコシ挽き
    パンを焼くためには、棚に展示されているような石臼でトウモロコシを挽く必要がありました。 現在のプエブロインディアン女性にとって、多くの場合これは最も厄介で不快な仕事です。」

  • 上と同じショーケースの左下部。<br /><br />左から、カボチャ、マメ、トウモロコシです。<br />左下は後で使い方が出てくる石臼です。<br />

    上と同じショーケースの左下部。

    左から、カボチャ、マメ、トウモロコシです。
    左下は後で使い方が出てくる石臼です。

  • このショーケースには「ジュエリー」が展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは左側部分です。<br /><br />右下の全体説明文<br />「バスケットメーカー時代から現在に至るまで、プエブロの人々はジュエリーを高く評価してきました。 メサ・ヴェルデ地域では、さまざまな地元の素材が装飾品の製造に使用されました。 貝殻やトルコ石などの他の素材は、貿易によって入手されました。ここに展示されているのは、メサ・ヴェルデの地元住民が使用する典型的なジュエリーです。」<br />

    このショーケースには「ジュエリー」が展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分です。

    右下の全体説明文
    「バスケットメーカー時代から現在に至るまで、プエブロの人々はジュエリーを高く評価してきました。 メサ・ヴェルデ地域では、さまざまな地元の素材が装飾品の製造に使用されました。 貝殻やトルコ石などの他の素材は、貿易によって入手されました。ここに展示されているのは、メサ・ヴェルデの地元住民が使用する典型的なジュエリーです。」

  • 「ジュエリー」ショーケースの右側部分

    「ジュエリー」ショーケースの右側部分

  • このショーケースには「メサ・ヴェルデの一般的な樹木」の写真と幹の実物が展示されています。<br />以下、ガラスケースの反射が少ない方向から撮影した個々の写真を示します。<br /><br />この写真は<br />カロリナポプラ(Quaking Aspen、Carolina Poplar)<br />学名:Populus tremuloides<br />です。<br /><br />「先祖プエブロ人は、薪、火起こし、木製パレットにこの木を使用していました。」<br />

    このショーケースには「メサ・ヴェルデの一般的な樹木」の写真と幹の実物が展示されています。
    以下、ガラスケースの反射が少ない方向から撮影した個々の写真を示します。

    この写真は
    カロリナポプラ(Quaking Aspen、Carolina Poplar)
    学名:Populus tremuloides
    です。

    「先祖プエブロ人は、薪、火起こし、木製パレットにこの木を使用していました。」

  • ベイマツ(Douglas-fir、ダグラスファー)<br />学名:Pseudotsuga menziesii<br /><br />「崖の住人は、屋根材やフットドラムのような特別な品物にダグラスファーを使用しています。屋根材は、年輪年代学*) で利用することができます。」<br /><br />*) 年輪からその木が生育していた年代やその時代の環境変動等を調べる学問。<br />

    ベイマツ(Douglas-fir、ダグラスファー)
    学名:Pseudotsuga menziesii

    「崖の住人は、屋根材やフットドラムのような特別な品物にダグラスファーを使用しています。屋根材は、年輪年代学*) で利用することができます。」

    *) 年輪からその木が生育していた年代やその時代の環境変動等を調べる学問。

  • カロリナポプラ(左)とベイマツ(右)の幹

    カロリナポプラ(左)とベイマツ(右)の幹

  • コロラド・ピニオン・パイン(Colorado Pinyon Pine)<br />学名:Pinus edulis<br /><br />「ピニオンは、崖の住人にとって貴重な木でした。彼らはその樹脂を使って鉢や防水バスケットを修理し、実は食糧として栄養価が高いものでした。木の幹や枝は屋根の建材となりました。これらの梁は現在、年輪年代学に使用されています。」<br />

    コロラド・ピニオン・パイン(Colorado Pinyon Pine)
    学名:Pinus edulis

    「ピニオンは、崖の住人にとって貴重な木でした。彼らはその樹脂を使って鉢や防水バスケットを修理し、実は食糧として栄養価が高いものでした。木の幹や枝は屋根の建材となりました。これらの梁は現在、年輪年代学に使用されています。」

  • ポンデローサマツ(Ponderosa Pine)<br />学名:Pinus ponderosa<br /><br />「ポンデローサマツは年輪年代学にとって理想的であり、年輪年代学の発展において重要でした。」<br />

    ポンデローサマツ(Ponderosa Pine)
    学名:Pinus ponderosa

    「ポンデローサマツは年輪年代学にとって理想的であり、年輪年代学の発展において重要でした。」

  • コロラド・ピニオン・パイン(左)とポンデローサマツ(右)の幹

    コロラド・ピニオン・パイン(左)とポンデローサマツ(右)の幹

  • ユタネズ(Utah Juniper)<br />学名:Juniperus osteosperma、syn. Juniperus utahensis<br /><br />「崖の住人は、屋根の建設にユタネズを頻繁に使用していました。多くの場合、保存状態は良好ですが、年輪が狭く、成長が不安定なため、年輪年代学には使用できません。」<br />

    ユタネズ(Utah Juniper)
    学名:Juniperus osteosperma、syn. Juniperus utahensis

    「崖の住人は、屋根の建設にユタネズを頻繁に使用していました。多くの場合、保存状態は良好ですが、年輪が狭く、成長が不安定なため、年輪年代学には使用できません。」

  • ユタネズの幹(右)。左は上にも示したポンデローサマツです。

    ユタネズの幹(右)。左は上にも示したポンデローサマツです。

  • このショーケースには化石が展示されています。<br />1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。<br />これは左側部分です。<br /><br />カキ(左上、中央やや右)、アサリ(中央上)、アンモナイト(左下、中央下)等の化石です。<br /><br />カキ、アサリ、および2つの殻を持つすべての親戚は、二枚貝綱(生物分類における階級のひとつで上は門、下は目です。)に属しています。<br /><br />アンモナイトは、タコ、イカ、オウムガイと同じ仲間の頭足類(軟体動物門頭足綱、5億年前頃~)ですが、白亜紀末(恐竜が絶滅した6,600年前頃)に絶滅しました。これらは、渦巻き状、部分的な渦巻き状、および真っ直ぐな形で見られます(中央下)。<br />

    このショーケースには化石が展示されています。
    1枚の写真に納まりませんでしたので、2つに分けます。
    これは左側部分です。

    カキ(左上、中央やや右)、アサリ(中央上)、アンモナイト(左下、中央下)等の化石です。

    カキ、アサリ、および2つの殻を持つすべての親戚は、二枚貝綱(生物分類における階級のひとつで上は門、下は目です。)に属しています。

    アンモナイトは、タコ、イカ、オウムガイと同じ仲間の頭足類(軟体動物門頭足綱、5億年前頃~)ですが、白亜紀末(恐竜が絶滅した6,600年前頃)に絶滅しました。これらは、渦巻き状、部分的な渦巻き状、および真っ直ぐな形で見られます(中央下)。

  • 化石のショーケースの右側部分<br /><br />左下からツバキ科の一員の葉、セコイアの古代の種、古生代石炭紀から中生代白亜紀後期(3億年前~6600万年前)にかけて生存した針葉樹のブラキフィルム等の植物、ヤシの葉、<br />右下からアサリの一種のシンボフォラ(Cymbophora)、腹足類のヴォリュート(Volute)、一般的なアサリの一種である、エスモカーディアム(Ethmocardium)、硬骨魚網の硬骨魚であるエンチョダス(Enchodus)の歯と上顎の一部(A)とエラカバー(B)、アサリと爬虫類の断片を持つ渦巻き状のアンモナイト等の海洋生物の化石です*)。<br /><br />*) 何故海洋生物の化石が出るかは、付録3.地質、https://4travel.jp/travelogue/11546130の付録1をご覧ください。<br />

    化石のショーケースの右側部分

    左下からツバキ科の一員の葉、セコイアの古代の種、古生代石炭紀から中生代白亜紀後期(3億年前~6600万年前)にかけて生存した針葉樹のブラキフィルム等の植物、ヤシの葉、
    右下からアサリの一種のシンボフォラ(Cymbophora)、腹足類のヴォリュート(Volute)、一般的なアサリの一種である、エスモカーディアム(Ethmocardium)、硬骨魚網の硬骨魚であるエンチョダス(Enchodus)の歯と上顎の一部(A)とエラカバー(B)、アサリと爬虫類の断片を持つ渦巻き状のアンモナイト等の海洋生物の化石です*)。

    *) 何故海洋生物の化石が出るかは、付録3.地質、https://4travel.jp/travelogue/11546130の付録1をご覧ください。

  • このショーケースは家の建設に関する展示です。<br />全体説明<br />「開発プエブロ時代に、メサ・ヴェルデの住人は家を建てる方法を進化させ、この手法はその後にくるグレートプエブロ時代に引き継がれました。私たちがプエブロと呼んでいるこれらの建物は石で建てられました。それまでの砂岩の大きなブロックは、硬い石器で整えられ、泥のモルタルに置かれました。建物は 1~4 階建てで、間に入る床と柱と泥でできた屋根がありました。ドアは小さく、窓はほとんどありませんでした。<br />村の部屋の数は、6 または 8 から 200 を超えるものまでさまざまでした。すべての部屋がコンパクトにまとめられ、1 つの大きな構造を形成していました。メサ頂上の村は南に面し、 洞窟住居の村は谷に面していました。キヴァ、つまり儀式用の部屋は、通常、家の前にある開けた中庭に建てられました。」<br /><br />ショーケース左上の写真の説明<br />「地表のプエブロ<br />1000 年から 1100 年代にかけて、メサの上や、大きな峡谷の広く浅い地面上には、このような村が数百点在していました。」<br />

    このショーケースは家の建設に関する展示です。
    全体説明
    「開発プエブロ時代に、メサ・ヴェルデの住人は家を建てる方法を進化させ、この手法はその後にくるグレートプエブロ時代に引き継がれました。私たちがプエブロと呼んでいるこれらの建物は石で建てられました。それまでの砂岩の大きなブロックは、硬い石器で整えられ、泥のモルタルに置かれました。建物は 1~4 階建てで、間に入る床と柱と泥でできた屋根がありました。ドアは小さく、窓はほとんどありませんでした。
    村の部屋の数は、6 または 8 から 200 を超えるものまでさまざまでした。すべての部屋がコンパクトにまとめられ、1 つの大きな構造を形成していました。メサ頂上の村は南に面し、 洞窟住居の村は谷に面していました。キヴァ、つまり儀式用の部屋は、通常、家の前にある開けた中庭に建てられました。」

    ショーケース左上の写真の説明
    「地表のプエブロ
    1000 年から 1100 年代にかけて、メサの上や、大きな峡谷の広く浅い地面上には、このような村が数百点在していました。」

  • ショーケース右側<br />上の写真の説明<br />「崖のプエブロ<br />崖の住居は、洞窟に建てられた単なるプエブロです。1200 年以降、地表のプエブロのすべてではないにしても、ほとんどが放棄され、洞窟や崖の棚のより防御しやすい場所に移されました。」<br /><br />下のイラストの説明<br />「壁画<br />スプルース・ツリー・ハウスの壁に描かれた絵画の複製。」<br />

    ショーケース右側
    上の写真の説明
    「崖のプエブロ
    崖の住居は、洞窟に建てられた単なるプエブロです。1200 年以降、地表のプエブロのすべてではないにしても、ほとんどが放棄され、洞窟や崖の棚のより防御しやすい場所に移されました。」

    下のイラストの説明
    「壁画
    スプルース・ツリー・ハウスの壁に描かれた絵画の複製。」

  • 1つ上の写真の左側下部<br /><br />「石膏*)(plaster)<br />キヴァの壁はしばしば何度も石膏で覆われていました。時々堆積したすすを覆うために石膏の塗装が追加されました。儀式で使用され絵画を終了後に覆うために追加されることもありました。ここに示されている 3 つの石膏は、ファー・ヴュー・ハウス(Far View House) の キヴァ からのもので、時々積み上げられた非常に厚い石膏を示しています。左から右に、それぞれ 32 層、25 層、42 層の石膏でできています。」<br /><br />*) ここでは石膏としておきましたが、plasterは硫酸カルシウムからなる石膏と水酸化カルシウム・炭酸カルシウムからなる漆喰の両方の意味があります。<br /><br />後方にイラストに一部が見えていますが、<br />「壁画<br />クリフ・パレスの壁からの絵画。そのような絵の意味は不明です。」<br />とのことです。<br />

    1つ上の写真の左側下部

    「石膏*)(plaster)
    キヴァの壁はしばしば何度も石膏で覆われていました。時々堆積したすすを覆うために石膏の塗装が追加されました。儀式で使用され絵画を終了後に覆うために追加されることもありました。ここに示されている 3 つの石膏は、ファー・ヴュー・ハウス(Far View House) の キヴァ からのもので、時々積み上げられた非常に厚い石膏を示しています。左から右に、それぞれ 32 層、25 層、42 層の石膏でできています。」

    *) ここでは石膏としておきましたが、plasterは硫酸カルシウムからなる石膏と水酸化カルシウム・炭酸カルシウムからなる漆喰の両方の意味があります。

    後方にイラストに一部が見えていますが、
    「壁画
    クリフ・パレスの壁からの絵画。そのような絵の意味は不明です。」
    とのことです。

  • 1つ上の写真の右側です。<br />左の土<br />「白土<br />これは石膏や家屋やキヴァの壁に絵を描くのに使われました。」<br /><br />右の土<br />「灰色の土<br />石垣のモルタルは通常この灰色の土でできていました。」<br />

    1つ上の写真の右側です。
    左の土
    「白土
    これは石膏や家屋やキヴァの壁に絵を描くのに使われました。」

    右の土
    「灰色の土
    石垣のモルタルは通常この灰色の土でできていました。」

  • 1つ上の写真の右側です。<br />「赤土<br />多くの家の壁は、この赤土で塗りつぶされていました。モルタルに使用されることもありました。」<br />

    1つ上の写真の右側です。
    「赤土
    多くの家の壁は、この赤土で塗りつぶされていました。モルタルに使用されることもありました。」

  • ショーケースの上から2段目の左側。<br />このイラストは2種類の屋根部分の説明です。<br />左は灌木(BRUSH)、右は割った木(SPRIT POLE)を使った屋根です。<br /><br />下に「屋根の泥」の説明がありますが、意味不明です。<br />

    ショーケースの上から2段目の左側。
    このイラストは2種類の屋根部分の説明です。
    左は灌木(BRUSH)、右は割った木(SPRIT POLE)を使った屋根です。

    下に「屋根の泥」の説明がありますが、意味不明です。

  • 1つ上の写真と同じ段の右側です。<br /><br />左<br />「割木<br />屋根の1つのタイプでは、屋根の泥を支えるために割られたセイヨウネズが使用されました。」<br /><br />中<br />「石の斧<br />家の建築に使われる梁はすべて石の斧で切断されています。斧は鋭くなく、切断はゆっくりとした工程だったに違いありません。」<br /><br />右<br />「屋根梁<br />これらの屋根の梁の断片は、加工が石の斧で行われたことを示しています。」<br />

    1つ上の写真と同じ段の右側です。


    「割木
    屋根の1つのタイプでは、屋根の泥を支えるために割られたセイヨウネズが使用されました。」


    「石の斧
    家の建築に使われる梁はすべて石の斧で切断されています。斧は鋭くなく、切断はゆっくりとした工程だったに違いありません。」


    「屋根梁
    これらの屋根の梁の断片は、加工が石の斧で行われたことを示しています。」

  • 以下、家の建設に関するショーケース最下段の展示物を左から順番に示します。<br />左端<br />「ドア板<br />寒い時期には、家の出入り口は薄い砂岩の板で閉じられました。」<br /><br />

    以下、家の建設に関するショーケース最下段の展示物を左から順番に示します。
    左端
    「ドア板
    寒い時期には、家の出入り口は薄い砂岩の板で閉じられました。」

  • 手前<br />「荒いハンマーストーン<br />固い岩の小さな破片を拾い上げて、石の整形道具として使用することがよくありました。」<br /><br />奥<br />「ニッチカバー<br />小さな収納ニッチは、しばしば家の壁に作られました。このような薄い板は、これらのニッチを閉じるために使用されました。」<br />

    手前
    「荒いハンマーストーン
    固い岩の小さな破片を拾い上げて、石の整形道具として使用することがよくありました。」


    「ニッチカバー
    小さな収納ニッチは、しばしば家の壁に作られました。このような薄い板は、これらのニッチを閉じるために使用されました。」

  • 「ハンマーストーン<br />このタイプの石には取っ手がありませんでした。これらは手に持って、建築用の石を整形するために使用されました。」<br />

    「ハンマーストーン
    このタイプの石には取っ手がありませんでした。これらは手に持って、建築用の石を整形するために使用されました。」

  • 「石のハンマー<br />これらのハンマーには、上の斧に似た持ち手が付いていました。このタイプのハンマーは、家の建設に使用される石を砕くのに使用されました。」<br />

    「石のハンマー
    これらのハンマーには、上の斧に似た持ち手が付いていました。このタイプのハンマーは、家の建設に使用される石を砕くのに使用されました。」

  • 「重い大槌<br />大槌は、さまざまな目的で石を砕くために使用されました。」<br />

    「重い大槌
    大槌は、さまざまな目的で石を砕くために使用されました。」

  • 「建築用の石<br />インディアンは家を建てる際に、砂岩の大きな直方体のブロックを使用しました。石を整形した後、通常小さなくぼみになるまで、鋭利な石で表面を刻み込みました。」<br />

    「建築用の石
    インディアンは家を建てる際に、砂岩の大きな直方体のブロックを使用しました。石を整形した後、通常小さなくぼみになるまで、鋭利な石で表面を刻み込みました。」

  • 「砂岩ブロック<br />粗い砂岩のブロックは、メサの上や峡谷の壁に沿ってよく見られます。これらのブロックを建築用の石に加工するのに必要な作業はわずかです。」<br />

    「砂岩ブロック
    粗い砂岩のブロックは、メサの上や峡谷の壁に沿ってよく見られます。これらのブロックを建築用の石に加工するのに必要な作業はわずかです。」

  • このショーケースは「表面に凹凸模様のある陶器」の展示です。<br />以下、ガラスケースの反射が少ない方向から撮影した個々の写真を示します。<br /><br />最上段はこの陶器の作成法です。<br />左から順番に示します。<br /><br />「1.材料を混ぜる<br />粘土と添加材*) はきれいに洗われ、細かく砕かれ、混合されます。現代のプエブロの女性は、約1/3の添加材と2/3の粘土を使用し、乾いている間にそれらを完全に混ぜます。」<br /><br />*) 収縮や割れを防ぐために粘土に添加される非プラスチック材料<br /><br />「2.ペーストを練る<br />混ぜ終わったら、パン生地と同じように水を加えてしっかり練っていきます。 ペーストがパテの固さになったら、すぐに使用できます。」<br />

    このショーケースは「表面に凹凸模様のある陶器」の展示です。
    以下、ガラスケースの反射が少ない方向から撮影した個々の写真を示します。

    最上段はこの陶器の作成法です。
    左から順番に示します。

    「1.材料を混ぜる
    粘土と添加材*) はきれいに洗われ、細かく砕かれ、混合されます。現代のプエブロの女性は、約1/3の添加材と2/3の粘土を使用し、乾いている間にそれらを完全に混ぜます。」

    *) 収縮や割れを防ぐために粘土に添加される非プラスチック材料

    「2.ペーストを練る
    混ぜ終わったら、パン生地と同じように水を加えてしっかり練っていきます。 ペーストがパテの固さになったら、すぐに使用できます。」

  • 「3. コイルを巻く<br />ペーストの小片を滑らかな石の上に置き、手で長く細いロールに丸めます。ロールの太さによって、作られる容器の厚さが決まります。」<br /><br />「4. 巻き工程<br />粘土のこの長いロールは巻き付いており、それ自体が容器の底の中心になります。」<br />

    「3. コイルを巻く
    ペーストの小片を滑らかな石の上に置き、手で長く細いロールに丸めます。ロールの太さによって、作られる容器の厚さが決まります。」

    「4. 巻き工程
    粘土のこの長いロールは巻き付いており、それ自体が容器の底の中心になります。」

  • 「5. コイルを一緒にプレスする<br />各コイルが追加されると、内側の次のコイルに対してしっかりと押し付けられます。 この圧力により、柔らかいペーストに指跡が付きます。これらの指跡は外側にのみに残り、内側は潰されて平になります。」<br /><br />「6. リムの追加<br />巻きが完了すると、滑らかな縁が追加されます。その後、容器はゆっくりと乾燥し、焼成の準備が整います。波形の指跡のため、これは凹凸模様のある陶器と呼ばれます。」<br />

    「5. コイルを一緒にプレスする
    各コイルが追加されると、内側の次のコイルに対してしっかりと押し付けられます。 この圧力により、柔らかいペーストに指跡が付きます。これらの指跡は外側にのみに残り、内側は潰されて平になります。」

    「6. リムの追加
    巻きが完了すると、滑らかな縁が追加されます。その後、容器はゆっくりと乾燥し、焼成の準備が整います。波形の指跡のため、これは凹凸模様のある陶器と呼ばれます。」

  • 以下、個々の凹凸模様陶器を示します。<br /><br />概説<br />「凹凸模様陶器<br />大小の凹凸模様の壷は、通常、すすで黒くなっています。これは、それらが目的の料理に使用されたことを示しています。これらの壷で煮込んだ食品は、おそらく根、果実、野生の果物、野菜、野生の植物、スープ、シチュー、スープなどでした。<br />これらの例に示すように、メサ・ヴェルデの凹凸模様陶器はサイズが大きく異なります。それらは球形または卵形で、口が広く、縁が広がっています。波形の凹凸は細かく規則正しく、くぼみは等間隔で、壁は薄いです。波形を変化させることで装飾的なパターンが作られることもありました。小さな壷には持ち手が付いている場合がありました。」<br /><br />この陶器の説明<br />「指紋<br />これらの壷のくぼみは、造り手の親指による圧力によって引き起こされました。この壷には、皮膚の細かい線が見られる場合があります。」<br />

    以下、個々の凹凸模様陶器を示します。

    概説
    「凹凸模様陶器
    大小の凹凸模様の壷は、通常、すすで黒くなっています。これは、それらが目的の料理に使用されたことを示しています。これらの壷で煮込んだ食品は、おそらく根、果実、野生の果物、野菜、野生の植物、スープ、シチュー、スープなどでした。
    これらの例に示すように、メサ・ヴェルデの凹凸模様陶器はサイズが大きく異なります。それらは球形または卵形で、口が広く、縁が広がっています。波形の凹凸は細かく規則正しく、くぼみは等間隔で、壁は薄いです。波形を変化させることで装飾的なパターンが作られることもありました。小さな壷には持ち手が付いている場合がありました。」

    この陶器の説明
    「指紋
    これらの壷のくぼみは、造り手の親指による圧力によって引き起こされました。この壷には、皮膚の細かい線が見られる場合があります。」

  • 「突起状持ち手付きの小さな壷<br />壷の周りにらせん状のパターンを形成する窪みの均一性に注目してください。」<br />

    「突起状持ち手付きの小さな壷
    壷の周りにらせん状のパターンを形成する窪みの均一性に注目してください。」

  • これだけを展示したショーケース<br /><br />「有史以前*) のトウモロコシ<br />7 世紀前、このトウモロコシは小さな洞窟に隠されていました。陶器製容器にとうもろこしと小石を入れ、 容器の首だけを露出させて洞窟の床に埋められました。上下逆さにして口の上に被せられた小さな容器は蓋として機能し、昆虫、ネズミからトウモロコシを保護しました。トウモロコシの重さは 約14 kg、堆積は 22  Lです。これは、この地域で見つかったトウモロコシの最大量です。<br />2 つの陶器は 1200 年~1276 年に作られたタイプなので、トウモロコシはその時代のものである必要があります。とうもろこしの元の色を特定するのは難しいですが、黄色と赤色の粒が混ざっているように見えます。<br />この発見は、1955 年 2 月に、コロラド州マッケルモ・キャニオン(McElmo Canyon)の Robert と Eugene Ismay によって行われました。2 人の男性は、公園の訪問者が見たり楽しんだりできるように、資料を博物館に貸与しました。」<br /><br />*) これはPrehistoricの訳です。Prehistoricは文書記録のない時代のことで、アメリカ大陸については、コロンブスの到達以前をこのように呼ぶことがあります。<br />

    これだけを展示したショーケース

    「有史以前*) のトウモロコシ
    7 世紀前、このトウモロコシは小さな洞窟に隠されていました。陶器製容器にとうもろこしと小石を入れ、 容器の首だけを露出させて洞窟の床に埋められました。上下逆さにして口の上に被せられた小さな容器は蓋として機能し、昆虫、ネズミからトウモロコシを保護しました。トウモロコシの重さは 約14 kg、堆積は 22 Lです。これは、この地域で見つかったトウモロコシの最大量です。
    2 つの陶器は 1200 年~1276 年に作られたタイプなので、トウモロコシはその時代のものである必要があります。とうもろこしの元の色を特定するのは難しいですが、黄色と赤色の粒が混ざっているように見えます。
    この発見は、1955 年 2 月に、コロラド州マッケルモ・キャニオン(McElmo Canyon)の Robert と Eugene Ismay によって行われました。2 人の男性は、公園の訪問者が見たり楽しんだりできるように、資料を博物館に貸与しました。」

    *) これはPrehistoricの訳です。Prehistoricは文書記録のない時代のことで、アメリカ大陸については、コロンブスの到達以前をこのように呼ぶことがあります。

  • チェイピン・メサ考古学博物館の見学を終えて外にでました。<br />道路脇にあったサボテン。<br />北米南西部の砂漠地帯に自生し、名前はバックホーン・チョーラ(Buckhorn Cholla)だそうです。<br />

    チェイピン・メサ考古学博物館の見学を終えて外にでました。
    道路脇にあったサボテン。
    北米南西部の砂漠地帯に自生し、名前はバックホーン・チョーラ(Buckhorn Cholla)だそうです。

  • 近づいてもう一枚。<br />バックホーン・チョーラ。<br />花は散ってますね。<br />

    近づいてもう一枚。
    バックホーン・チョーラ。
    花は散ってますね。

  • チェイピン・メサ考古学博物館から、メサ・トップ・ルインズ・ロード(Mesa Top Ruins Road)、MV10、メサ・トップ・ループ(Mesa Top Roop)を南下し、谷を隔ててクリフ・パラスが見えるクリフ・パレス・ヴュー・カメラ・ポイントにやって来ました。

    チェイピン・メサ考古学博物館から、メサ・トップ・ルインズ・ロード(Mesa Top Ruins Road)、MV10、メサ・トップ・ループ(Mesa Top Roop)を南下し、谷を隔ててクリフ・パラスが見えるクリフ・パレス・ヴュー・カメラ・ポイントにやって来ました。

  • 説明板です。<br />「結ばれる絆<br />現在は静かですが、クリフ・パレスは、これらの崖、峡谷、メサの上に一時的に定住し、さらに南に新しいコミュニティや地域を確立するために移住した人々を思い起こさせます。 ここで 700 年にわたり、彼らは技術、伝統、芸術性、知識を世代から世代へと伝え、現代のプエブロ文化の基礎を形成してきました。精巧な口頭の歴史を通じて、ほとんどのプエブロの人々は、祖先をフォー・コーナーズ地域にさかのぼり、時折、過去、祖先、祖先の故郷に敬意を表して戻ってきます。」<br /><br />「少なくとも 150 の部屋を備えた崖の宮殿は、非常に大きな崖の住居です。それは、活気に満ちた活発なコミュニティに囲まれた、非常に特別な場所に建設されました。いくつかの特徴から、ここが重要な集合場所であり、おそらくこれらの峡谷を中心とした先祖プエブロ人社会の行政または政府の中心地であったことが示唆されています。この地域に住んでいた人々は、村から村へと続く数十の歩道、貯蔵施設、農地、水源、太陽寺院や崖の宮殿を含む公共の建物に慣れていました。」<br /><br />「“物理的に離れても、私の(私たちの)先祖の霊はまだここにいます。 少し立ち止まって耳を傾けてみると、子供たちの笑い声や、女性たちの話し声が聞こえてきます。犬の鳴き声と七面鳥の食いしん坊の声が聞こえます。ドラムのビートと歌声を聴いて、感じることができます。調理の火の香りがします。彼らの存在、暖かさ、コミュニティの感覚を感じることができます。” <br />T J アサイ、ラグーナ・プエブロ(T J Atsye, Laguna Pueblo)」<br /><br />*) 彼女は現在パーク・レンジャーです。<br />

    説明板です。
    「結ばれる絆
    現在は静かですが、クリフ・パレスは、これらの崖、峡谷、メサの上に一時的に定住し、さらに南に新しいコミュニティや地域を確立するために移住した人々を思い起こさせます。 ここで 700 年にわたり、彼らは技術、伝統、芸術性、知識を世代から世代へと伝え、現代のプエブロ文化の基礎を形成してきました。精巧な口頭の歴史を通じて、ほとんどのプエブロの人々は、祖先をフォー・コーナーズ地域にさかのぼり、時折、過去、祖先、祖先の故郷に敬意を表して戻ってきます。」

    「少なくとも 150 の部屋を備えた崖の宮殿は、非常に大きな崖の住居です。それは、活気に満ちた活発なコミュニティに囲まれた、非常に特別な場所に建設されました。いくつかの特徴から、ここが重要な集合場所であり、おそらくこれらの峡谷を中心とした先祖プエブロ人社会の行政または政府の中心地であったことが示唆されています。この地域に住んでいた人々は、村から村へと続く数十の歩道、貯蔵施設、農地、水源、太陽寺院や崖の宮殿を含む公共の建物に慣れていました。」

    「“物理的に離れても、私の(私たちの)先祖の霊はまだここにいます。 少し立ち止まって耳を傾けてみると、子供たちの笑い声や、女性たちの話し声が聞こえてきます。犬の鳴き声と七面鳥の食いしん坊の声が聞こえます。ドラムのビートと歌声を聴いて、感じることができます。調理の火の香りがします。彼らの存在、暖かさ、コミュニティの感覚を感じることができます。”
    T J アサイ、ラグーナ・プエブロ(T J Atsye, Laguna Pueblo)」

    *) 彼女は現在パーク・レンジャーです。

  • クリフ・パレス

    クリフ・パレス

  • クリフ・パレス、ズームイン。

    クリフ・パレス、ズームイン。

  • さらにズームインして左から右に振っていきます。<br />クリフ・パレス左(北)側。<br />

    さらにズームインして左から右に振っていきます。
    クリフ・パレス左(北)側。

  • クリフ・パレス中央。

    クリフ・パレス中央。

  • クリフ・パレス右(南)側。

    クリフ・パレス右(南)側。

  • バスに戻る途中にあったサン・テンプル(Sun Temple)の一部。<br /><br />現代のプエブロ・インディアンによると、サン・テンプルの特徴はそれを儀式の構造として分類します。日用品も屋根の梁もサン・テンプルの考古学者によって発見されなかったため、対称的に計画された「D」字型の建物は完成しなかったと考える人もいます。しかし、その大きさだけでも、その建設に費やされた労働の量を示しています。細かい石積みの壁の石は、建設者によって形作られ、削られた平らな表面をもってました。発掘中に取り除かれた落石の量から、壁の高さはおそらく 3.5~4.3 m と推定されます。厚い壁は二重構造で、間は砂利で満たされていました。現在はコンクリートが壁の上部を覆い、壁の間に置かれた砂利に湿気が入らないようにしています。<br />

    バスに戻る途中にあったサン・テンプル(Sun Temple)の一部。

    現代のプエブロ・インディアンによると、サン・テンプルの特徴はそれを儀式の構造として分類します。日用品も屋根の梁もサン・テンプルの考古学者によって発見されなかったため、対称的に計画された「D」字型の建物は完成しなかったと考える人もいます。しかし、その大きさだけでも、その建設に費やされた労働の量を示しています。細かい石積みの壁の石は、建設者によって形作られ、削られた平らな表面をもってました。発掘中に取り除かれた落石の量から、壁の高さはおそらく 3.5~4.3 m と推定されます。厚い壁は二重構造で、間は砂利で満たされていました。現在はコンクリートが壁の上部を覆い、壁の間に置かれた砂利に湿気が入らないようにしています。

  • 1つ上の写真の左側。

    1つ上の写真の左側。

  • MV10を北に戻り、メサ・トップ・ルインズ・ロードを南下して谷の反対側のクリフ・パレス側に回り込み、クリフ・パレス・オーバールック(Cliff Palace Overlook)に入って、クリフ・パレスが下に見える展望台に来ました。<br /><br />説明板です。<br />上に年表がありますが、ここが使われたのは1200年から全住民が移住した1300年頃までです。<br /><br />「このコミュニティでの生活はどうでしたか?<br />ここで生き抜くために、老若男女すべての人が、四季を通じて懸命に働きました。」<br /><br />左写真内部の説明<br />「プエブロの建設者は、より硬い川床の石で作られた道具を使って、砂岩を建築用ブロックに形作りました。」<br />「モルタルを作るための水は、湧水により沢山ありました。」<br /><br />右写真の説明<br />「1888年に 2 人のカウボーイ、リチャード・ウェザリルとチャーリー・メイソンが雪の降る 12 月の日にクリフ・パレスを発見したとき、それは1891年のこの写真と同じように見えました。」<br /><br />補足<br />クリフ・パレスは、先祖プエブロ(Ancestral Puebloans)によって建てられた建造物では、北米で最大の崖の住居です。<br />年輪年代測定は、クリフ宮殿の建設と改修が1190年から1260年まで続いたことを示していますが、建物の大部分は20年以内に完成しました。メサ・ベルデ(Mesa Verde)でこの崖の住居やそのような他の住居を建設した祖先プエブロは、「変化する気候条件の中での競争の激化」によってこれらの防御的な立場に追いやられました。クリフ・パレスは1300年までに放棄され、この原因に関して議論が残っているものの、一部の人々は食料生産システムを中断している一連の巨大干ばつ(megadroughts)が主な原因であると信じています。 1888年、クリフ・パレスは、野良牛を探している間に、リチャード・ウェザリル(Richard Wetherill、1858?1910)とチャーリー・メイソン(Charlie Mason)によって再発見されました。<br />クリフ・パレスは、主に砂岩、モルタル、木製の梁で作られていました。砂岩はより硬い石を使って形作られました、そして、土、水と灰のモルタルはすべてをまとめるために使われました。隙間を埋めて安定性を提供するために、「塞ぎ」石がモルタル内に置かれました。多くの壁は色のついた土製の漆喰で装飾されており、時間が経つにつれて最初に侵食されました。多くの訪問者は、クリフ・パレスの比較的小さな出入り口のサイズについて不思議に思います;説明では、平均的な男性は1.68 m未満でしたが、平均的な女性は1.5 m近くでした。クリフ・パレスの23のキヴァ(kiva、儀式的な重要性を有した丸く落ち込んだ部屋) と150の部屋を有し、人口は約100人です。遺跡の中央にある1つのキヴァは、出入り口や他の出入り口のない一連の壁で全体の構造が仕切られているところにあります。このキヴァの壁は片側に1色、反対側に異なる色で塗りつぶされていました。「クリフ・パレスは、儀式的な用法が多い社会的、行政的な場所であったと考えられています。」考古学者は、クリフ・パレスには周辺のメサ・ベルデ・コミュニティよりも多くの氏族(clan)が含まれていたと信じています。この考えは、部屋とキヴァの比率が高いことに由来します。クリフ・パレスは9対1の部屋対キヴァ比を持っています。メサ・ベルデ・コミュニティの平均部屋対キヴァ比は12:1です。このキヴァと部屋の比率は、クリフ・パレスが周囲の小さな共同体を含む大きな政治の中心であったかもしれないことを示唆しているかもしれません。<br />大きな正方形の塔が右側にあり、洞窟の天井にほぼ達しています。それは1800年代までに廃墟になっていました。国立公園局は慎重にそれをおおよその高さと格好に復元し、クリフ・パレスで最も記憶に残る建物のひとつにしました。これは、メサ・ヴェルデで最も高い構造で、高さ7.9 m、他に4つのレベルがあります。それが修復物であることを示すために、わずかに異なる色の材料が使用されました。<br />

    MV10を北に戻り、メサ・トップ・ルインズ・ロードを南下して谷の反対側のクリフ・パレス側に回り込み、クリフ・パレス・オーバールック(Cliff Palace Overlook)に入って、クリフ・パレスが下に見える展望台に来ました。

    説明板です。
    上に年表がありますが、ここが使われたのは1200年から全住民が移住した1300年頃までです。

    「このコミュニティでの生活はどうでしたか?
    ここで生き抜くために、老若男女すべての人が、四季を通じて懸命に働きました。」

    左写真内部の説明
    「プエブロの建設者は、より硬い川床の石で作られた道具を使って、砂岩を建築用ブロックに形作りました。」
    「モルタルを作るための水は、湧水により沢山ありました。」

    右写真の説明
    「1888年に 2 人のカウボーイ、リチャード・ウェザリルとチャーリー・メイソンが雪の降る 12 月の日にクリフ・パレスを発見したとき、それは1891年のこの写真と同じように見えました。」

    補足
    クリフ・パレスは、先祖プエブロ(Ancestral Puebloans)によって建てられた建造物では、北米で最大の崖の住居です。
    年輪年代測定は、クリフ宮殿の建設と改修が1190年から1260年まで続いたことを示していますが、建物の大部分は20年以内に完成しました。メサ・ベルデ(Mesa Verde)でこの崖の住居やそのような他の住居を建設した祖先プエブロは、「変化する気候条件の中での競争の激化」によってこれらの防御的な立場に追いやられました。クリフ・パレスは1300年までに放棄され、この原因に関して議論が残っているものの、一部の人々は食料生産システムを中断している一連の巨大干ばつ(megadroughts)が主な原因であると信じています。 1888年、クリフ・パレスは、野良牛を探している間に、リチャード・ウェザリル(Richard Wetherill、1858?1910)とチャーリー・メイソン(Charlie Mason)によって再発見されました。
    クリフ・パレスは、主に砂岩、モルタル、木製の梁で作られていました。砂岩はより硬い石を使って形作られました、そして、土、水と灰のモルタルはすべてをまとめるために使われました。隙間を埋めて安定性を提供するために、「塞ぎ」石がモルタル内に置かれました。多くの壁は色のついた土製の漆喰で装飾されており、時間が経つにつれて最初に侵食されました。多くの訪問者は、クリフ・パレスの比較的小さな出入り口のサイズについて不思議に思います;説明では、平均的な男性は1.68 m未満でしたが、平均的な女性は1.5 m近くでした。クリフ・パレスの23のキヴァ(kiva、儀式的な重要性を有した丸く落ち込んだ部屋) と150の部屋を有し、人口は約100人です。遺跡の中央にある1つのキヴァは、出入り口や他の出入り口のない一連の壁で全体の構造が仕切られているところにあります。このキヴァの壁は片側に1色、反対側に異なる色で塗りつぶされていました。「クリフ・パレスは、儀式的な用法が多い社会的、行政的な場所であったと考えられています。」考古学者は、クリフ・パレスには周辺のメサ・ベルデ・コミュニティよりも多くの氏族(clan)が含まれていたと信じています。この考えは、部屋とキヴァの比率が高いことに由来します。クリフ・パレスは9対1の部屋対キヴァ比を持っています。メサ・ベルデ・コミュニティの平均部屋対キヴァ比は12:1です。このキヴァと部屋の比率は、クリフ・パレスが周囲の小さな共同体を含む大きな政治の中心であったかもしれないことを示唆しているかもしれません。
    大きな正方形の塔が右側にあり、洞窟の天井にほぼ達しています。それは1800年代までに廃墟になっていました。国立公園局は慎重にそれをおおよその高さと格好に復元し、クリフ・パレスで最も記憶に残る建物のひとつにしました。これは、メサ・ヴェルデで最も高い構造で、高さ7.9 m、他に4つのレベルがあります。それが修復物であることを示すために、わずかに異なる色の材料が使用されました。

  • ここは下りて見学することができますが、私達は展望台からの見学のみとなります。<br /><br />展望台から見たクリフ・パレス。<br />基本的に、丸い穴はキヴァ、角形の建物は住居です。<br />

    ここは下りて見学することができますが、私達は展望台からの見学のみとなります。

    展望台から見たクリフ・パレス。
    基本的に、丸い穴はキヴァ、角形の建物は住居です。

  • ズームインして左から右に振っていきます。<br />クリフ・パレス左(北)側。<br />

    ズームインして左から右に振っていきます。
    クリフ・パレス左(北)側。

  • クリフ・パレス中央。

    クリフ・パレス中央。

  • クリフ・パレス右(南)側。<br />右側の洞窟の天井にほぼ達している角型の高い建物がメサ・ヴェルデで最も高い構造物です。<br />

    クリフ・パレス右(南)側。
    右側の洞窟の天井にほぼ達している角型の高い建物がメサ・ヴェルデで最も高い構造物です。

  • さらにズームイン。<br />キヴァ。<br />

    さらにズームイン。
    キヴァ。

  • これはヨーロッパの教会建築に使われる、壁を補強するバットレス(Buttress、控え壁、https://4travel.jp/travelogue/11198227参照)のようですねえ。

    これはヨーロッパの教会建築に使われる、壁を補強するバットレス(Buttress、控え壁、https://4travel.jp/travelogue/11198227参照)のようですねえ。

  • キヴァと住居。

    キヴァと住居。

  • クリフ・パレスの南側。

    クリフ・パレスの南側。

  • クリフ・パレス前の谷。<br />上部の岩はクリフ・ハウス砂岩です。<br />右端の崖の上がさっきまでいた、クリフ・パレス・ヴュー・カメラ・ポイントです。<br />

    クリフ・パレス前の谷。
    上部の岩はクリフ・ハウス砂岩です。
    右端の崖の上がさっきまでいた、クリフ・パレス・ヴュー・カメラ・ポイントです。

  • クリフ・パレスから谷を隔てた反対側までのパノラマ写真。

    クリフ・パレスから谷を隔てた反対側までのパノラマ写真。

  • 谷を隔てた反対側のクリフ・ハウス砂岩。

    谷を隔てた反対側のクリフ・ハウス砂岩。

  • クリフ・パレスの見学を終えてバスに戻ります。<br /><br />駐車場脇にあったユッカ。<br />

    クリフ・パレスの見学を終えてバスに戻ります。

    駐車場脇にあったユッカ。

  • 来た道を北上してメサ・ヴェルデ国立公園を出、フォー・コーナーズ(Four Corners)をめざします。<br />メサ・ヴェルデ国立公園の入口まで約11 km の位置まで来ました。<br />右(東)側の車窓の風景。<br />

    来た道を北上してメサ・ヴェルデ国立公園を出、フォー・コーナーズ(Four Corners)をめざします。
    メサ・ヴェルデ国立公園の入口まで約11 km の位置まで来ました。
    右(東)側の車窓の風景。

  • メサ・ヴェルデ国立公園の入口まで約4.5 km の位置まで来ました。<br />右(東)側の車窓の風景。<br />

    メサ・ヴェルデ国立公園の入口まで約4.5 km の位置まで来ました。
    右(東)側の車窓の風景。

  • メサ・ヴェルデ国立公園を出て、来るとき通ったUS 160を西に進み、コーテズでUS 491に入って30 km程南下して再びUS 160に入り、また30 km程西に進んでフォー・コーナーズ手前までやって来ました。<br /><br />車窓の風景。<br />

    メサ・ヴェルデ国立公園を出て、来るとき通ったUS 160を西に進み、コーテズでUS 491に入って30 km程南下して再びUS 160に入り、また30 km程西に進んでフォー・コーナーズ手前までやって来ました。

    車窓の風景。

  • フォー・コーナーズの駐車場に着きました。

    フォー・コーナーズの駐車場に着きました。

  • 土産物店で囲まれたフォー・コーナーズ・モニュメントに向かいます。

    土産物店で囲まれたフォー・コーナーズ・モニュメントに向かいます。

  • 説明板と奥はフォー・コーナーズ・モニュメントです。<br /><br />説明板の上部<br />「フォー・コーナーズ-共通の境界<br />ここは、コロラド州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、ユタ州の 4 つの州または共通のコーナーを示す米国で唯一の場所です。」<br /><br />中央の十字はユタ州(左上)、コロラド州(右上)、アリゾナ州(左下)、ニューメキシコ州(右下)の州境を示しており、ユタ州に書かれた「ローリン・リーブス(Rollin Reeves) 1878」、アリゾナ州に書かれた「ハワード・カーペンター(Haward Carpenter) 1901」、ニューメキシコ州に書かれた「エフド・ダーリン(Ehud Darling) 1868」と「チャンドラー・ロビンズ(Chandler Robbins) 1875」、および矢印はその場所を調査した人物とその年を示しています。<br /><br />十字の右の説明<br />「インディアンの土地<br />フォー・コーナーズ地域はインディアンの土地に囲まれています。 ナバホ・ネイションは、ニューメキシコ、アリゾナ、ユタにあります。ユト・マウンテン・ユト・ネイションはコロラド州に位置します。フォー・コーナーズ地域の文化と伝統を尊重しましょう。<br /><br />説明板の下部<br />「889年、米国の測量士ヒューバート・ペイジ(Hubert Page)とジェームス・レント(James Lentz)は、フォー・コーナーズ・モニュメントが乱されて壊れていることを発見しました。彼らは印を付けて、元の場所に新しい石を置きました。1931年、土地局局長のエヴェレット・キンメル(Everett Kimmell)はページ-レンツ石をコンクリートと真鍮(黄銅)製に変えた記念碑に再建しました。1962年、国土管理局とインディアン事務局はキンメルの記念碑の周りにコンクリート舗装ブロックを流し込みました。1992 年、地籍調査員のダリル・ウィルソン(Darryl Wilson)とジャック・イーブス(Jack Eaves)は、劣化したキンメル・マーカーをアルミニウム青銅のディスクで公式に記念しました。今日見られる構造は、国土管理局によって再建されたものです。」<br /><br />紋章のようなマークがいくつかありますが、左上はアメリカ合衆国内務省(U. S. Department of the Interior)の印章、左下はアメリカ合衆国公有地測量システム(U. S. Public Land Survey System)のマーク、右上は、アメリカ合衆国内務省土地管理局(U. S. Department of the Interior Bureau of Land Management)の標章、右下左はナバホ・ネイション(Great Seal of the Navajo Nation)の印章、右はユト・マウンテン・ユト族(The Great Seal of the Ute Mountain Ute Tribe)の印章です。<br />

    説明板と奥はフォー・コーナーズ・モニュメントです。

    説明板の上部
    「フォー・コーナーズ-共通の境界
    ここは、コロラド州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、ユタ州の 4 つの州または共通のコーナーを示す米国で唯一の場所です。」

    中央の十字はユタ州(左上)、コロラド州(右上)、アリゾナ州(左下)、ニューメキシコ州(右下)の州境を示しており、ユタ州に書かれた「ローリン・リーブス(Rollin Reeves) 1878」、アリゾナ州に書かれた「ハワード・カーペンター(Haward Carpenter) 1901」、ニューメキシコ州に書かれた「エフド・ダーリン(Ehud Darling) 1868」と「チャンドラー・ロビンズ(Chandler Robbins) 1875」、および矢印はその場所を調査した人物とその年を示しています。

    十字の右の説明
    「インディアンの土地
    フォー・コーナーズ地域はインディアンの土地に囲まれています。 ナバホ・ネイションは、ニューメキシコ、アリゾナ、ユタにあります。ユト・マウンテン・ユト・ネイションはコロラド州に位置します。フォー・コーナーズ地域の文化と伝統を尊重しましょう。

    説明板の下部
    「889年、米国の測量士ヒューバート・ペイジ(Hubert Page)とジェームス・レント(James Lentz)は、フォー・コーナーズ・モニュメントが乱されて壊れていることを発見しました。彼らは印を付けて、元の場所に新しい石を置きました。1931年、土地局局長のエヴェレット・キンメル(Everett Kimmell)はページ-レンツ石をコンクリートと真鍮(黄銅)製に変えた記念碑に再建しました。1962年、国土管理局とインディアン事務局はキンメルの記念碑の周りにコンクリート舗装ブロックを流し込みました。1992 年、地籍調査員のダリル・ウィルソン(Darryl Wilson)とジャック・イーブス(Jack Eaves)は、劣化したキンメル・マーカーをアルミニウム青銅のディスクで公式に記念しました。今日見られる構造は、国土管理局によって再建されたものです。」

    紋章のようなマークがいくつかありますが、左上はアメリカ合衆国内務省(U. S. Department of the Interior)の印章、左下はアメリカ合衆国公有地測量システム(U. S. Public Land Survey System)のマーク、右上は、アメリカ合衆国内務省土地管理局(U. S. Department of the Interior Bureau of Land Management)の標章、右下左はナバホ・ネイション(Great Seal of the Navajo Nation)の印章、右はユト・マウンテン・ユト族(The Great Seal of the Ute Mountain Ute Tribe)の印章です。

  • フォー・コーナーズ・モニュメントにやって来ました。 <br />人がいない写真を撮らなかったので、恐縮ですが私の写真を示します。<br />私が立っている所がフォー・コーナーズ・モニュメントです。<br /><br />私の右足はコロラド州とユタ州の上、左足はニューメキシコ州とアリゾナ州の上にあり、私の体はこれら4州の上に同時にあることになります。<br /><br />そのまわりの4つの円盤はユタ州(左)、コロラド州(上)、アリゾナ州(下)、ニューメキシコ州(右)の印章です。<br /><br />後方の長屋風の建物はモニュメントを中心とてして菱形状に配置されたアメリカ・インディアンの土産物店の一部です。<br />

    フォー・コーナーズ・モニュメントにやって来ました。
    人がいない写真を撮らなかったので、恐縮ですが私の写真を示します。
    私が立っている所がフォー・コーナーズ・モニュメントです。

    私の右足はコロラド州とユタ州の上、左足はニューメキシコ州とアリゾナ州の上にあり、私の体はこれら4州の上に同時にあることになります。

    そのまわりの4つの円盤はユタ州(左)、コロラド州(上)、アリゾナ州(下)、ニューメキシコ州(右)の印章です。

    後方の長屋風の建物はモニュメントを中心とてして菱形状に配置されたアメリカ・インディアンの土産物店の一部です。

  • これはこの場所でよくとられるポーズの1つで、左手はユタ州、右手はコロラド州、左足はアリゾナ州、右足ニューメキシコ州にあるということになります。<br />元気のいい人は仰向けのブリッジポーズをとりますが、老体の私には無理ですね。<br />

    これはこの場所でよくとられるポーズの1つで、左手はユタ州、右手はコロラド州、左足はアリゾナ州、右足ニューメキシコ州にあるということになります。
    元気のいい人は仰向けのブリッジポーズをとりますが、老体の私には無理ですね。

  • モニュメント脇のあったサボテン。<br />メサ・ヴェルデ国立公園のチェイピン・メサ考古学博物館<br />脇にあったバックホーン・チョーラです。<br />これは綺麗に花が咲いている。<br />

    モニュメント脇のあったサボテン。
    メサ・ヴェルデ国立公園のチェイピン・メサ考古学博物館
    脇にあったバックホーン・チョーラです。
    これは綺麗に花が咲いている。

  • 近づいてもう一枚。 <br />バックホーン・チョーラ。<br />

    近づいてもう一枚。
    バックホーン・チョーラ。

  • バックホーン・チョーラ、接写。

    バックホーン・チョーラ、接写。

  • そろそろ引き返します。<br />振り返って見たフォー・コーナーズ・モニュメント。<br />旗が8本見えますが、左から、ナバホ・ネイションの旗、ユタ州旗、アリゾナ州旗、ナバホ・ネイションの旗、コロラド州旗、ナバホ・ネイションの旗2本、ニューメキシコ州旗です。<br />

    そろそろ引き返します。
    振り返って見たフォー・コーナーズ・モニュメント。
    旗が8本見えますが、左から、ナバホ・ネイションの旗、ユタ州旗、アリゾナ州旗、ナバホ・ネイションの旗、コロラド州旗、ナバホ・ネイションの旗2本、ニューメキシコ州旗です。

  • 駐車場に戻ってきました。<br />公衆トイレもあります。<br />

    駐車場に戻ってきました。
    公衆トイレもあります。

  • 駐車場を出て今日の宿泊ホテルである、モニュメント・バレー(Monument Valley)のゴールディングズ・ロッジ(Gouding’s Lodge)を目指します。

    駐車場を出て今日の宿泊ホテルである、モニュメント・バレー(Monument Valley)のゴールディングズ・ロッジ(Gouding’s Lodge)を目指します。

  • US 160を西に約40 km走り、レッド・メサ(Red Mesa)付近にやって来ました。<br />車窓右(北)側の風景。<br />平原の上に上が平らなメサが飛び出していますねえ。<br />

    US 160を西に約40 km走り、レッド・メサ(Red Mesa)付近にやって来ました。
    車窓右(北)側の風景。
    平原の上に上が平らなメサが飛び出していますねえ。

  • US 160をさらに西へ約20 km走ってUS 191に入り、少し北上しました。<br />車窓右(東)側の風景。<br />なだらかな山が見えて来ました。<br />

    US 160をさらに西へ約20 km走ってUS 191に入り、少し北上しました。
    車窓右(東)側の風景。
    なだらかな山が見えて来ました。

  • US 191を2 km程北上しました。<br />車窓右(東)側の風景。<br />絶壁の丘ってか。<br />

    US 191を2 km程北上しました。
    車窓右(東)側の風景。
    絶壁の丘ってか。

  • US 191をさらに30 km程北上しました。<br />車窓右(東)側の風景。<br />絶壁のメサってとこですか。<br />

    US 191をさらに30 km程北上しました。
    車窓右(東)側の風景。
    絶壁のメサってとこですか。

  • US 191をさらに1 km程北上しました。<br />車窓右(東)側の風景。<br />絶壁。風化が進んでます。<br />

    US 191をさらに1 km程北上しました。
    車窓右(東)側の風景。
    絶壁。風化が進んでます。

  • US 191をさらに5 km程北上してUS 163に入り、西から北へと5 km程進みました。<br />車窓右(東)側の風景。<br />これまた風化が進んだ絶壁です。<br />

    US 191をさらに5 km程北上してUS 163に入り、西から北へと5 km程進みました。
    車窓右(東)側の風景。
    これまた風化が進んだ絶壁です。

  • US 163を1 km程北上しました。<br />車窓右(東)側の風景。<br />これまた風化が進んだ絶壁です。<br />地層が見える崖とポコポコした丸い丘です。<br /><br />この後US 163を南南西に60 km ほど進むとモニュメント・バレーのゴールディングズ・ロッジに着きます。<br /><br />この旅行記はこの後「アメリカ グランドサークル モニュメントバレー」へと続きます。<br /><br /><br />付録<br /><br />1.地理<br />

    US 163を1 km程北上しました。
    車窓右(東)側の風景。
    これまた風化が進んだ絶壁です。
    地層が見える崖とポコポコした丸い丘です。

    この後US 163を南南西に60 km ほど進むとモニュメント・バレーのゴールディングズ・ロッジに着きます。

    この旅行記はこの後「アメリカ グランドサークル モニュメントバレー」へと続きます。


    付録

    1.地理

  • メサ・ヴェルデ国立公園はキャニオンランズ国立公園(https://4travel.jp/travelogue/11668657)、アーチーズ国立公園(https://4travel.jp/travelogue/11678778)と同様、ユタ州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州にまたがるグランドサークル内のコロラド高原(図の青線で囲んだ部分、https://4travel.jp/travelogue/11546130の付録1参照)にあって、ユタ州とコロラド州にまたがるパラドックス盆地(図の黄線で囲んだ部分)南部のコロラド州側にあります。<br />またフォー・コーナーズは上記4州の州境の交点に位置し、メサ・ヴェルデ国立公園との距離は約50 kmです。<br /><br />2.住民の歴史<br />カナダの先住民族(https://4travel.jp/travelogue/11494932付録4.)同様、約20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスが、世界に拡散する過程でモンゴロイドに分化し、最終氷期であるウィスコンシン氷期末期の1万5千年前頃、ベーリング海峡を渡って北米大陸にたどり着きました。この人々はパレオインディアン(Paleo-Indians、「古代インディアン」の意)と呼ばれ、紀元前9500頃にはメサ・ヴェルデ地域にやって来て大型の獲物を狩る生活を送っていましたが、メサ・ヴェルデ中心部に住んでいたという兆候はほとんどありません。その後この地域の環境は暖かく乾燥し、メサ・ヴェルデの中央の松林とそこで繁殖する動物に変化をもたらしました。紀元前7500頃には、ますます多くのパレオインディアンがメサに居住し始めました。しかし、彼らが季節の居住者なのか、通年の居住者なのかは不明です。この時期のアトラトルの開発により、彼らはより小さな獲物を狩りやすくなりました。これは、この地域の大型の獲物のほとんどが景観から姿を消した時代の重要な進歩でした。<br />国立公園の住民は、カナダよりさらに南下してフォー・コーナーズ(Four Corners)周辺のユタ州、コロラド州南部からアリゾナ州、ニューメキシコ州北部一帯に定住したプエブロ(Pueblo、スペイン語で「村」、「人民」の意)人です。<br />現在のプエブロ人はこの時代のプエブロ人を先祖プエブロ人(Ancestral Puebloans)と呼びます。先祖プエブロ人の文化的特徴に基づく時系列分類は、1927年に米国の考古学者アルフレッドV.キダーが主催したニューメキシコ州ペコス(Pecos)開催の考古学会議での合意されたペコス分類(The Pecos Classification)に基づいています。しかし、その後多くの議論があって、何回も改定が加えられ、現在では以下のペコス分類が用いられています。「年」は紀元前の場合のみその旨記載してあります。<br />1.アルカイック?初期バスケットメーカー(Archaic?Early Basketmaker Era)(紀元前7000年?紀元前1500年)*)<br />2.初期バスケットメーカーII時代(Archaic?Early Basketmaker Era)(紀元前1500 ?50 年)<br />3.後期バスケットメーカーII時代(Late Basketmaker II Era)(50年 ? 500年)<br />4.バスケットメーカーIII時代(Basketmaker III Era)(500年 ? 750年)<br />5.プエブロI期(Pueblo I Period)(750 ? 900)<br />6.プエブロII期(Pueblo II Period)(900 ? 1150)<br />7.プエブロIII期(Pueblo III Period)(1150 ? 1350)<br />8.プエブロIV期(Pueblo IV Period)(1350 ? 1600)<br />9.プエブロV期(Pueblo V Period)(1600 ?現在)<br /><br />*) 紀元前8000年以前については考古学的遺物が殆ど発見されておりません。<br /><br />3.地質<br />この地域で最初のスペインの探検家はこの特徴をメサ・ヴェルデと名付けましたが、真のメサはほぼ完全に平らであるため、この用語は誤った名称です。メサ・ヴェルデは南に傾斜しているため、適切な地質学的用語はメサではなくケスタ(cuesta)です。公園は、峡谷の間にあるいくつかの小さなケスタで構成されています。メサ・ヴェルデの傾斜は、この地域の岩窟住居を保護するアルコーブの形成に貢献しました。<br />白亜紀後期に、マンコス頁岩(Mancos Shale)は、コロラドの大部分の下に見られる岩層であるダコタ砂岩の上に堆積しました。マンコス頁岩の層は、白亜紀の深海に堆積した「細粒の砂岩、泥岩、頁岩」です。粘土含有量が高いため、濡れると膨張し、地形が滑ってしまいます。この頁岩の上に、メサヴェルデグループ(Mesaverde group)には3つの層があり、時間の経過に伴うこの地域の堆積環境の変化を反映しています。1つ目は、公園のポイント・ルックアウト(標高2569 m)の特色にちなんで名付けられたポイント・ルックアウト砂岩(Point Lookout Sandstone)です。この砂岩は、白亜紀の海が後退したときに浅瀬の海洋環境で形成されたもので、巨大で、きめが細かく、斜交層理で、非常に抵抗力があります。その形成。その堆積物は約120 mの厚さであり、その上層は無脊椎動物の化石性を含むことを特徴としています。<br />次はメネフィー層(Menefee Formation)で、その中身は炭素質頁岩、シルト岩、砂岩が挟まれています。 これらは、沼地やラグーンなどの汽水域の半海洋環境に堆積しました。その堆積環境とその組成中の有機物質のために、メネフィー層を通る薄い石炭の継ぎ目があります。上部では、この層はクリフ・ハウス砂岩(Cliff House Sandstone)によって侵入されています。<br />クリフ・ハウス砂岩は、この地域で最も若い岩層です。白亜紀の海が完全に後退した後に形成されたため、ビーチや砂丘などからの砂の含有量が高く、峡谷の表面に特徴的な黄色の色合いがあります。ポイント・ルックアウト砂岩のように、それは約120 mの厚さです。そこには、さまざまな種類の貝殻、魚の歯、および後退した海から残った他の無脊椎動物の多数の化石層が含まれています。 この特徴の頁岩帯は、先祖プエブロ人が住居を建てた場所にアルコーブが形成された場所を決定します。<br />白亜紀から第三紀初期にかけて、コロラド高原、サンファン山脈、ラプラタ山脈の地域で隆起があり、侵食の助けを借りてメサ・ヴェルデの岩間斜面が形成されました。小さな水路がこの地層を横切って砂利を堆積させました。第三紀の後半、隆起と岩石が南に傾く最後の期間により、これらの小川は急速に岩石に食い込み、緩い堆積物を取り除き、今日見られる広大な峡谷を形成しました。これにより、メサ・ヴェルデ岩間斜面が周囲の岩から隔離されました。今日、気候がより乾燥しているので、これらの侵食プロセスは遅くなっています。<br />

    メサ・ヴェルデ国立公園はキャニオンランズ国立公園(https://4travel.jp/travelogue/11668657)、アーチーズ国立公園(https://4travel.jp/travelogue/11678778)と同様、ユタ州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州にまたがるグランドサークル内のコロラド高原(図の青線で囲んだ部分、https://4travel.jp/travelogue/11546130の付録1参照)にあって、ユタ州とコロラド州にまたがるパラドックス盆地(図の黄線で囲んだ部分)南部のコロラド州側にあります。
    またフォー・コーナーズは上記4州の州境の交点に位置し、メサ・ヴェルデ国立公園との距離は約50 kmです。

    2.住民の歴史
    カナダの先住民族(https://4travel.jp/travelogue/11494932付録4.)同様、約20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスが、世界に拡散する過程でモンゴロイドに分化し、最終氷期であるウィスコンシン氷期末期の1万5千年前頃、ベーリング海峡を渡って北米大陸にたどり着きました。この人々はパレオインディアン(Paleo-Indians、「古代インディアン」の意)と呼ばれ、紀元前9500頃にはメサ・ヴェルデ地域にやって来て大型の獲物を狩る生活を送っていましたが、メサ・ヴェルデ中心部に住んでいたという兆候はほとんどありません。その後この地域の環境は暖かく乾燥し、メサ・ヴェルデの中央の松林とそこで繁殖する動物に変化をもたらしました。紀元前7500頃には、ますます多くのパレオインディアンがメサに居住し始めました。しかし、彼らが季節の居住者なのか、通年の居住者なのかは不明です。この時期のアトラトルの開発により、彼らはより小さな獲物を狩りやすくなりました。これは、この地域の大型の獲物のほとんどが景観から姿を消した時代の重要な進歩でした。
    国立公園の住民は、カナダよりさらに南下してフォー・コーナーズ(Four Corners)周辺のユタ州、コロラド州南部からアリゾナ州、ニューメキシコ州北部一帯に定住したプエブロ(Pueblo、スペイン語で「村」、「人民」の意)人です。
    現在のプエブロ人はこの時代のプエブロ人を先祖プエブロ人(Ancestral Puebloans)と呼びます。先祖プエブロ人の文化的特徴に基づく時系列分類は、1927年に米国の考古学者アルフレッドV.キダーが主催したニューメキシコ州ペコス(Pecos)開催の考古学会議での合意されたペコス分類(The Pecos Classification)に基づいています。しかし、その後多くの議論があって、何回も改定が加えられ、現在では以下のペコス分類が用いられています。「年」は紀元前の場合のみその旨記載してあります。
    1.アルカイック?初期バスケットメーカー(Archaic?Early Basketmaker Era)(紀元前7000年?紀元前1500年)*)
    2.初期バスケットメーカーII時代(Archaic?Early Basketmaker Era)(紀元前1500 ?50 年)
    3.後期バスケットメーカーII時代(Late Basketmaker II Era)(50年 ? 500年)
    4.バスケットメーカーIII時代(Basketmaker III Era)(500年 ? 750年)
    5.プエブロI期(Pueblo I Period)(750 ? 900)
    6.プエブロII期(Pueblo II Period)(900 ? 1150)
    7.プエブロIII期(Pueblo III Period)(1150 ? 1350)
    8.プエブロIV期(Pueblo IV Period)(1350 ? 1600)
    9.プエブロV期(Pueblo V Period)(1600 ?現在)

    *) 紀元前8000年以前については考古学的遺物が殆ど発見されておりません。

    3.地質
    この地域で最初のスペインの探検家はこの特徴をメサ・ヴェルデと名付けましたが、真のメサはほぼ完全に平らであるため、この用語は誤った名称です。メサ・ヴェルデは南に傾斜しているため、適切な地質学的用語はメサではなくケスタ(cuesta)です。公園は、峡谷の間にあるいくつかの小さなケスタで構成されています。メサ・ヴェルデの傾斜は、この地域の岩窟住居を保護するアルコーブの形成に貢献しました。
    白亜紀後期に、マンコス頁岩(Mancos Shale)は、コロラドの大部分の下に見られる岩層であるダコタ砂岩の上に堆積しました。マンコス頁岩の層は、白亜紀の深海に堆積した「細粒の砂岩、泥岩、頁岩」です。粘土含有量が高いため、濡れると膨張し、地形が滑ってしまいます。この頁岩の上に、メサヴェルデグループ(Mesaverde group)には3つの層があり、時間の経過に伴うこの地域の堆積環境の変化を反映しています。1つ目は、公園のポイント・ルックアウト(標高2569 m)の特色にちなんで名付けられたポイント・ルックアウト砂岩(Point Lookout Sandstone)です。この砂岩は、白亜紀の海が後退したときに浅瀬の海洋環境で形成されたもので、巨大で、きめが細かく、斜交層理で、非常に抵抗力があります。その形成。その堆積物は約120 mの厚さであり、その上層は無脊椎動物の化石性を含むことを特徴としています。
    次はメネフィー層(Menefee Formation)で、その中身は炭素質頁岩、シルト岩、砂岩が挟まれています。 これらは、沼地やラグーンなどの汽水域の半海洋環境に堆積しました。その堆積環境とその組成中の有機物質のために、メネフィー層を通る薄い石炭の継ぎ目があります。上部では、この層はクリフ・ハウス砂岩(Cliff House Sandstone)によって侵入されています。
    クリフ・ハウス砂岩は、この地域で最も若い岩層です。白亜紀の海が完全に後退した後に形成されたため、ビーチや砂丘などからの砂の含有量が高く、峡谷の表面に特徴的な黄色の色合いがあります。ポイント・ルックアウト砂岩のように、それは約120 mの厚さです。そこには、さまざまな種類の貝殻、魚の歯、および後退した海から残った他の無脊椎動物の多数の化石層が含まれています。 この特徴の頁岩帯は、先祖プエブロ人が住居を建てた場所にアルコーブが形成された場所を決定します。
    白亜紀から第三紀初期にかけて、コロラド高原、サンファン山脈、ラプラタ山脈の地域で隆起があり、侵食の助けを借りてメサ・ヴェルデの岩間斜面が形成されました。小さな水路がこの地層を横切って砂利を堆積させました。第三紀の後半、隆起と岩石が南に傾く最後の期間により、これらの小川は急速に岩石に食い込み、緩い堆積物を取り除き、今日見られる広大な峡谷を形成しました。これにより、メサ・ヴェルデ岩間斜面が周囲の岩から隔離されました。今日、気候がより乾燥しているので、これらの侵食プロセスは遅くなっています。

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