2020/11/21 - 2020/11/23
877位(同エリア2989件中)
KGBさん
ずーーーっと行きたかった広島
広島焼きに牡蠣が食べたい ('ω')ノ
9月の長崎で原爆関係の資料を学んで
次は世界で唯一原爆を落とされた日本人の義務として
広島の原爆資料も学ばねば
と言う大義名分の下に行く事に (^○^)
そして2日目は安芸の宮島観光で
広島名産の牡蠣と穴子飯を食しましょう
JRさんのキャンペーン「どこでもドアきっぷ」を利用して
前回の福井、石川と同じく
土日2日間の休みを有効利用するために
金曜前泊で2泊2日の旅行となりました
写真が多いので
前編・中編・後編に分けさせて頂きました
1日目後半となります
お暇がありましたら見て頂けると嬉しいです^^
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「広島平和記念資料館」へ入場できる時間になりました
予約が必要と言う事を知らずに来ている人も多くて
別の列に並んでおられました
この時計は「地球平和監視時計」と言うそうです
「現在時刻を表示するアナログ時計の下には、
「広島に原爆が投下された1945年8月6日」からの経過日数と、
「最後の核実験が行われた日」からの経過日数が表示されています。
新たな核実験が行われる度に最後の核実験が行われた日からの経過日数が
リセットされるシーンがニュースや新聞などで報道されることもあります。
筐体に組み込まれた歯車装置は、
戦争や核開発により人類が破滅へ向かう恐ろしさを暗示的に警告しており、
二度と同じ過ちを繰り返させないという決意と
平和な世界の実現を願う多くの人々の想いが込められています。」
セイコータイムシステム株式会社様からお借りしました広島平和記念資料館 美術館・博物館
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早速入場させて頂きます
音声ガイドも忘れずにお借りしましょう広島平和記念資料館 美術館・博物館
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長崎にもありましたが
被爆前の広島の写真があります広島平和記念資料館 美術館・博物館
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被爆前の原爆ドーム
立派な建物で美しかったのでしょうね広島平和記念資料館 美術館・博物館
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原爆が投下された日時
1945年8月6日
日常が崩壊した時間です広島平和記念資料館 美術館・博物館
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崩壊後の原爆ドームです
ドウーム内にいた人たちは当然全滅でしょう
周囲も火災の被害でほとんどの方が亡くなったそうです
もちろん人間だけでなく動植物もすべて・・・広島平和記念資料館 美術館・博物館
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ものすごいきのこ雲
「真っ赤、いや違う、
黒味がかった朱色
そんな気もする。
とにかく過去一度も見たことのない、
あざやかで、強烈な色だった。
『被爆の遺言―被災カメラマン写真集―』より」広島平和記念資料館 美術館・博物館
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金属類が溶けて固まった溶解塊
中には人骨と融合したものも展示してありました広島平和記念資料館 美術館・博物館
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展示物は被災した方、遺族の方などからもあつまり
けっこうなボリュームです
こちらの噴水の吐水口も藤本博光氏の寄贈によるものです
「広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)の中庭にあった噴水の吐水口。
1952(昭和27)年頃、自宅近くの看板店がこの彫刻に銀粉を塗って
看板に飾っていたのを、広島県産業奨励館に勤めていたことのある
寄贈者の父、為吉さんが見つけた。
その後、看板店が廃業したため、為吉さんが譲り受け、
保管していた。
1945(昭和20)年当時、
広島県産業奨励館は内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材などの
統制会社の事務所として利用されていたが、
原爆の投下により建物内にいた人は即死した。
建物は一瞬で大破し、全焼したが、ほぼ真上から爆風を受けたため、
壁の一部は倒壊をまぬがれた。」
(資料館様のデータベースからお借りしています)広島平和記念資料館 美術館・博物館
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一応資料館の展示物は個人の記録としてなら
撮影が可能です
もちろんフラッシュは厳禁
ただ見ているうちにあまりにも悲惨な状況に
写真を撮る気も失せてしまいました
最後のコーナーで分かりやすい
この原爆ドームの被災前後の模型と広島平和記念資料館 美術館・博物館
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原子爆弾の模型があったので
撮影させて頂きました
もう中は涙無くしては見ることのできない
貴重な資料が沢山あります
原爆資料に触れたことの無い方には
是非知っておいて頂きたいと思います広島平和記念資料館 美術館・博物館
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資料館を出てミュージアムショップの奥で
「被爆75年企画展 広島平和記念資料館のあゆみ
第一部 礎を築く-初代館長 長岡省吾の足跡」
と言う企画展が行われていました
「広島平和記念資料館は今年8月開館65年を迎えます。
資料館では開館以来、被爆の痕跡が残る資料を展示し、
原爆被害の実相を伝えてきました。
その展示の礎を築いた人物は長岡省吾。
長岡氏は資料を収集するだけでなく原爆に関する調査・研究を行い、
生涯をかけて被害の実態を明らかにしようとしました。
この企画展では、近年長岡氏の遺族から資料館へ寄贈された 資料を基に
同氏の足跡をたどりながら、資料館が開館するまでのあゆみと
開館初期の状況について紹介します。」
(資料館様からお借りしています)
長岡氏はかなりの苦労を重ねて
今の資料館を築き上げた方だと言う事が分かる企画展でした
帰って調べると氏の足跡はほとんど残っていないそうです
長岡省吾氏は広島文理科大学(現・広島大学)で地質鉱物学を指導していた地質学者だったそうです
「被災の翌日に広島市内に入り護国神社で腰かけた石灯ろうの表面に、
異常な高熱によって、尖った無数の“トゲ”ができて いることに驚く。
石の専門家である彼は「特殊な爆弾だ」と直感し、
毎日廃墟となった広島の町に通いつめ、
焼けただれた石や瓦、ビンなどをひたす ら集めるようになった
「あの瞬間」に何があったのかを伝え続け、被爆から10年後、
その信念が原爆資料館を生む。
しかし、それほどまでの苦労を重ね、
貴重な資料を遺した長岡さんについての情報は、ほとんど残っていない。」
(TSS様からお借りしました)広島平和記念資料館 美術館・博物館
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この日は雨模様で特に昼からは雨がひどくて
外の写真がほとんどありません
なのでいきなり
「広島市平和記念公園レストハウス」の中へ移動しております平和記念公園 公園・植物園
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ちゃんと説明文があって
原子爆弾による火災跡と言う事が分かります平和記念公園 公園・植物園
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この建物は爆心地のすぐ近く
堅牢な建物だったので地下室は無事だったようです
たまたま書類を取りに地下へ降りていたこの方だけが助かったそうです
ただ原子爆弾ですから被爆は避けられなかったと思われます
資料館ではこの放射線による被害の実態もかなり展示されていて
顔に黒い斑点が浮き出て死んでゆく青年など
本当に辛い事実を知らされました
下記は資料館様からお借りしました
野村英三さん
(爆心地ばくしんちから約170mで被爆ひばく)
「野村英三さん(当時47歳)は、中島本町(現在の中島町)にあった
燃料会館(現在の平和記念公園レストハウス)の地下室で被爆しました。
猛烈な火と煙の中をくぐり抜ぬけ、かろうじて己斐方面に
逃のがれることができました。
その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で
死線をさまよいました。」平和記念公園 公園・植物園
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ご本人はこの地下室からどうやって外へ出たのかは
分からないと仰っていたそうです
「外は真っ黒い煙で暗い。
半月くらいの明るさだ。
急いで元安橋のところへ来た。
ふと橋の上を見ると、中央手前のあたりに、
丸裸の男が仰向に倒れて、両手両足を空に伸ばして震ている。
そして、左わき下のところに何かまるいものが燃えている。」
外に出て知った災禍です平和記念公園 公園・植物園
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「元安川の水の一部が盛り上がった、
と思ったらクルクルクルと円柱となって空高く舞い昇ぼった。
水の竜巻だ!その中から風下に水が落ちている。火勢は熾烈だ。
川向いの煙が火の粉とともにわれわれに襲いかかった。」
野村さんは火の手と反対に走って逃げた為
助かったそうです平和記念公園 公園・植物園
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どうやらこのレストハウスは2020年の7月に
リニューアルされたとの事
賛否両論あるようですが・・・平和記念公園 公園・植物園
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この部分だけ当時のまま残されています
平和記念公園 公園・植物園
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このドアから地下に降りたのでしょうか
そして生死の分かれ目になったのですね平和記念公園 公園・植物園
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こちらのレストハウスの説明文がありました
1.大正屋呉服店
この建物は、大阪に本店を持つ大正屋呉服店が、
対岸の細工町から新築移転したもので、
木造家屋が主流の当時としては
めずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物でした。
1~3階はショーウィンドウのある売場で土足が可能で、
屋上からは市内が一望できました。
2.戦時体制へ
1943(昭和18)年12月、繊維統制令により呉服店は閉鎖され、
被爆当時は、他の耐火建物と同じく国策の統制会社である
広島県燃料配給統制組合が建物を取得し、使用していました。
3.被災状況
爆心地から170m、原爆により屋根が押しつぶされ、内部も破損、
地下室を除いて全焼しました。
しかし、爆心地の近くでありながら爆心地側に開口部のほとんどない
強固な建物だったためか、基本的形態はとどめました。
被爆当日、この建物には37人が勤務しており、
そのうち8人は傷つきながらも建物を脱出しましたが、
たまたま地下に書類を取りに下りていた1人
(1982(昭和57)年6月死亡)を除きその後全員死亡しました。
4.戦後の修復
戦後は早い時期に補修され、引き続き燃料関係の組合や会社が
燃料会館として使用しました。
5.レストハウス
平和記念公園の建設に伴い、取り壊すかどうかの議論がありましたが、
1957(昭和32)年に広島市が買収し、東部復興事務所として使用しました。
その後大幅に改修され、1982(昭和57)年からは
平和記念公園レストハウスとして使用されています。
なお、地下室は現在も被爆当時の姿をとどめています。
(広島平和記念資料館様からお借りしています)
レストハウスはもちろん
原爆ドームも素敵な建物ですよね
このあたりは繁華街で素敵な街だったのでしょう平和記念公園 公園・植物園
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「中島地区の成り立ちと歴史」という常設展かな?
この地区が城下町だったことを
初めて知りました
何にも知らないので面白く勉強になりました
広島城も近くにあったんですね
時間的に見るのは無理でしたが
お城好きな相方の為にも見に行きたかった(._.)
おまけにここで痛恨のミス!
被爆ピアノを見忘れていました(;O;)平和記念公園 公園・植物園
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体力的に限界を感じたので
エネルギーをチャージしに行きます
街は早くもクリスマスですね
ツリーがきれい(^^♪ -
お好み村にも行きたかったな~
でも昨日のお好み屋さんに行かねばなりませんお好み村 名所・史跡
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その前にお腹と足と喉と口が限界なので
こちらへちょっとお邪魔させて頂きます焼鳥酒場 ようちゃん グルメ・レストラン
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お腹はとりあえずの広島菜
足は椅子、喉はビール、口は煙草で復活!(^^)!焼鳥酒場 ようちゃん グルメ・レストラン
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メインは焼き鳥
全く期待せずに入ったのですが
申し訳ございませんm(_ _)m
大変美味しゅうございます焼鳥酒場 ようちゃん グルメ・レストラン
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身が大きく丁寧に焼かれていて
鶏自身も全く臭みの無い良いお肉
このあと何本か食べておいとましました
ご馳走様でした(^○^)焼鳥酒場 ようちゃん グルメ・レストラン
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そして連日でやって来た「ほな」さん
実は昨日こちらのお店に忘れ物をしてしまったのです
写真を見てふと違和感
のれんの「お好み焼き」が裏文字ですね
なにか理由があるのかな?
今度行ったら聞いてみようほな グルメ・レストラン
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忘れ物はちゃんと置いておいて下さいました
ありがとうございましたm(_ _)m
で又々酢カキを頂きます
こちらのはボリュームたっぷりで
満足感があります
そしてなにより美味しい(*^^*)ほな グルメ・レストラン
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お好み焼きも頂いて~
お腹いっぱい
ご馳走様でした♪
で、いつもの通り
ホテルでの部屋飲みからの
意識喪失となりました(^-^;
お読みいただきありがとうございます
翌日の宮島編に続きます
お時間がありましたら見て頂ければうれしいですほな グルメ・レストラン
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