2019/07/01 - 2019/07/05
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タヌキを連れた布袋(ほてい)さん
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「14,15世紀にオスマン勢力に征服されたブルガリアやセルビアなどのドナウ以南のバルカン地域は,ワラキア・モルドヴァ両公国と同様,従属下に置かれた後,やがて併合されてオスマン帝国の直接支配に組み込まれたが,ワラキアとモルドヴァに限っては,併合されることなく近代に至るまで間接統治が継続されたことが,他のバルカン地域と大きく異なる特徴である。では,なぜオスマン帝国は両公国を併合しなかったのか。この問題は,以前からルーマニアの研究者の間で議論の対象となっており,1947年にルーマニア人史家のペトレ・パナイテスクはその理由として,イスタンブル-ソフィア-ベオグラード-ブダペスト-ウィーンというローマ時代以来の大動脈からワラキアとモルドヴァが外れているため,同地を直接押さえる必要性が低いこと,そして征服後も現地の支配組織を温存した方が,オスマン帝国にとって直接統治を行うよりも高い収益が確保されること,の二つを挙げ,これが一応の定説になっていた。(中略)14世紀にオスマン勢力がバルカンに進出して以来,正教徒が多数を占めるワラキアとモルドヴァが,常にイスラーム世界と西欧世界の狭間に置かれ,政治的にハプスブルク帝国,ポーランド,オスマン帝国という三つの大国に囲まれていた状況であったことが,この二つの公国に,ドナウ以南の地と異なる特別な地位を与えた可能性は大いに考えられる。
上述のように,ワラキアとモルドヴァがオスマン帝国の進出を受け,最終的に従属したのはそれぞれ15世紀半ばと16世紀前半のことであったが,その過程において,外国勢力が両公国の問題に深く関与したことは,両公国の地理的な位置からしても当然のことであった。例えば15世紀半ばのワラキアでは,公ヴラド・ツェペシュがハンガリー,トランシルヴァニアと同盟を結び,さらに同時期に地中海でオスマン帝国との対立が鮮明となっていたヴェネツィアやローマ教皇とも連携して,オスマン軍の攻撃に対処しようとした。しかしこの連携の試みは,ブラショフ(Braşov)やシビウ(Sibiu)の通商問題をめぐってワラキアとハンガリーとの間に対立が生じるなど,各国の思惑が複雑に絡んだため必ずしも有効に機能しなかった。そのため,十分な援軍が得られなかったワラキアは,1462年のオスマン軍の攻撃に持ちこたえることができず,結局オスマン帝国の軍門に降った。
モルドヴァでは状況がさらに複雑であった。15世紀後半から16世紀初頭にかけて公位にあったシュテファン大公は,ワラキアと同様反オスマン同盟の結成に努力し,彼の外交的な接触は,隣接するポーランド,ハンガリー,ワラキア,トランシルヴァニアにとどまらず,ヴェネツィア,ローマ教皇,ジェノヴァ,モスクワ,キプチャク・ハーン国,クリム・ハーン国,さらにアナトリアの君侯国アク・コユンルやイランにまで及んだとされる。モルドヴァにとって最も重要であったのは,北のポーランドと西のハンガリーとの関係であり,シュテファンは,モルドヴァ支配を望むポーランド・ハンガリー・オスマン帝国の三者の間で,戦争,同盟,従属を繰り返しながら約半世紀にわたってモルドヴァの一応の独立を維持した。」
「理由はともかくとして,オスマン帝国がワラキアとモルドヴァを,直接支配でなく間接支配の下に置いたことは,15,16世紀の興隆期のオスマン帝国が,ワラキアやモルドヴァに諸外国が進出することはできないであろうと思うほど,またその裏返しとして,ワラキアとモルドヴァが諸外国と結んで離反の動きを示すことはないであろうと考えるほど,自らの軍事力に自信を持っていたことを示しているのではないだろうか。17世紀末までの,西欧諸国に対するオスマン帝国の優位が明らかであった時期には,オスマン帝国の両公国支配はほぼ貫徹していたと言える。」
「唯一例外的な事例と見なしうるのは,16世紀末のミハイ勇敢公の例であろう。彼は1593年に生じたオスマン・ハプスブルク間の紛争に乗じて蜂起し,武力と外交によってオスマン帝国,ハプスブルク帝国,ポーランドの影響を排除して,一時的にワラキア,モルドヴァ,トランシルヴァニアの公を兼ねた。短期間とはいえ,後のルーマニア領にほぼ匹敵する領土を統一したことにより,ルーマニア史学史では彼の活動に英雄としての高い評価が与えられている。しかし,その期間は一年足らずに過ぎず,(中略)それは過大評価であると言わざるを得ないが,ワラキアとモルドヴァのオスマン支配に,非常に短期間ではあるが動揺を与えたことは事実であった。」
「両公国からイスタンブルへ支払われる金銭のうち最も重要なものは,イスラーム世界において非ムスリムの庇護民にのみ課せられるジズヤとハラージュ(トルコ語ではジズイェcizyeとハラチharaç)の二つの税であり,これらは両国の公から毎年イスタンブルへ送られた。(中略)また公からスルタンや政府高官へ送られる贈物(peşkeş あるいは pişkeş)は,イスタンブルへの忠誠の証として半ば義務となっており,具体的には,毛皮の衣服(câme,postîn),馬(esb),鷹(doğan),食器類などの品が贈られた。
また,ワラキアとモルドヴァは豊かな農業生産を誇ったため,多数の人口を抱える帝都イスタンブルの食糧供給地として位置づけられた。それゆえ,両公国で産する穀物,羊,牛,蜂蜜,塩などの食糧や蜜蝋や木材などの生活必需品は,何よりもまずオスマン政府への供給を優先するよう義務づけられ,オスマン政府によって市場価格よりも安い公定価格(narf)で買い付けられた。また,オスマン帝国と他国との戦争時になると,両公国には,軍勢を率いての戦役への参加義務が課せられ,さらにイスタンブルへの特別税(avâriz)の支払いや戦地への食糧,その他の必需品の供給を義務づけられることもあった。また平時・戦時を問わず,キリスト教世界,特に17世紀まではポーランドとハプスブルク帝国に関する情報の収集とイスタンブルへの伝達も両公国の公に課せられた重要な義務であり,オスマン帝国にとってワラキアとモルドヴァは,ラグーザとならんで,恒常的にもたらされる西欧についての重要な情報源になっていた。両公国からの西欧情報の伝達は,オスマン帝国が西欧諸国に常駐使節を置いた1793年以降も続き,少なくとも19世紀初頭まで史料により確認できる。
このような各種の義務を果たすことにより,ワラキアとモルドヴァは一定の自治を得ることができた。具体的には,両公国では現地住民の信仰の自由が保障され,教会の新築や修復なども,ドナウの南側のオスマン直轄地と異なり,自由に行うことが可能であった。また原則としてムスリムの入国は禁止され,商人など政府から許可を得た一部の者だけが入国できることになっていた。」
黛秋津著「三つの世界の狭間で 西欧・ロシア・オスマンとワラキア・モルドヴァ問題」(名古屋大学出版会)より
キシナウ逍遥その2
https://4travel.jp/travelogue/11660891
ティラスポリ逍遥
https://4travel.jp/travelogue/11663574
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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キシナウに到着した翌朝,
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さっそく街歩きを開始した。
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モルドヴァという国について一応簡単に説明すると,ここは旧ソビエト連邦の構成共和国のひとつ(モルダビア共和国)であった。ソ連崩壊後,独立して現在の「モルドバ共和国」となった。
隣国のルーマニアは,歴史的に三つの大きな地方から成り立ってきた。首都ブカレストがあるワラキア,ハンガリーと接するトランシルヴァニア,そしてロシアと接するモルダヴィアである。
第二次世界大戦の末期,ソ連軍がこのモルダヴィアに侵攻してドイツ=ルーマニア枢軸軍を蹴散らし,モルダヴィアの一部(ベッサラビア)を「モルダビア共和国」としてソビエト連邦に組み込んだ。
それにより,本来のモルダヴィアは,モルダビア共和国(ソ連)と現在のルーマニアのモルダヴィア地方に分断された。
以上の経緯から判るとおり,「モルドヴァ人」というのは民族・文化としてルーマニア人そのものと考えてよい。だから,ソ連崩壊後,モルドヴァの人々はソビエト時代のキリル文字を捨ててローマ文字に戻し,公用語は「ルーマニア語」とした。 -
とはいえ,いざ街歩きを始めてみると,40年以上に及んだソビエト時代の残滓をあちこちに見て取ることができる。
ルーマニアも東側諸国の一員であったが,そのルーマニアと較べて,モルドヴァは「ロシア化」の度合いがずっと強いように見える。衛星国か構成共和国かでこれほどに違うのだ。おいおい記していこう。
↑はキシナウ市庁舎。 -
さて,旅の情報が少ないモルドヴァだが,とりあえずキシナウで両替に困るようなことはなかった。
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シュテファン・チェル・マレ大通りなどに両替屋がたくさんある。
観光客が多いからというのではなく,ヨーロッパ諸国やロシアへ出稼ぎに行くモルドヴァ人が多いのだと思う。 -
モルドヴァはワインの生産がさかんな国だ。ワイナリーを目当てにこの国を訪れる人も多いと思う。
ただし,キシナウでもワイン専門店はそんなに多くなかった。ヴィンテージものは直接輸出に回されるのかもしれない。
モルドヴァワインの主な輸出先はロシアだ。
現在のモルドヴァ政府がルーマニアに接近したり,EU加盟の動きをすると,ロシアはモルドヴァワインの輸入禁止措置をとって脅しにかかる。
それをまねして,フィリピンが南沙諸島の問題で言うことを聞かないと,中国はフィリピンバナナの輸入禁止措置をとって脅しにかかる。 -
大通り沿いに,民芸品を売る市が立っていた。
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ひょうたんの容器。ぶどうの房が描かれているからワインを詰めるのであろう。
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こちらの容器もそうかな。
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小腹が空いたので,にぎやかな市場のあたりで食べ物を物色する。
プラチンタPlăcintăの露店を見つけた。
プラチンタはルーマニアのパイ。この店のプラチンタの具材は白チーズ,マッシュした馬鈴薯,キャベツと三種類あるようだ。
プラチンタは,中・東欧でパラチンタ,パラチンケ,パラチンキと呼ばれてクレープにようなものに変化していくが,こちらが元祖である。
観察していると,この店でみんなが買っていくのは「パテウリPateuri」という具入りの揚げパンのほう。
プラチンタがひとつ11-12MDLなのに対し,パテウリは4MDLと安い。具材の種類はほぼ同じ。今日のところは揚げパンを買ってみよう。
(1MDL=約6円)
あとになってから,ショーケースの下段に「Beleasi cu carne」の文字があることに気づいた。これはタタールのミートパイ,ベリヤシBelyash(またはPeremech)というものではないだろうか。たぶん揚げマンティに近いものと想像をするのだが,どうしてモルドヴァに? 買ってみればよかった。
また,キシナウでよく見かけるスナックとしては,もうひとつサラリSalariiというデニッシュのようなパンがあった。値段はプラチンタと同じくらいで,具材は上記の白チーズ,馬鈴薯,キャベツのほかに,リンゴや桜桃などのフルーツが入っているものも見られた。
肉やチーズ以外の具材のものにはちゃんと「Produs de post(斎食期間用)」の表示があり,正教のしきたりを守っている市民が一定数存在することが窺われる。 -
いま,キシナウの人たちに人気があるのは,ルーマニアと同じく,ドネルケバブのファストフードチェーンである。
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こちらはイスマイル通りにあったステーキ・レストランのメニュー。
ステーキよりハンバーガーのほうが高いように見えるが,ステーキのほうは100gあたりの価格が表示されている。
(1MDL=約6円) -
続いて,各国の大使館などが点在するエリアを歩く。
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こちらは緑の多い閑静なところだ。
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ときどき教会なども見かけるが,キシナウに歴史のある建築はそんなに多くないようだ。
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19世紀末に建てられた給水塔。現在は博物館になっている。
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日本料理店を発見。
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ビジネスランチ(12:00-16:00)
月曜日
玉子とホウレンソウの汁物(300g)
野菜と鶏肉のごはん(400g) かやくごはん?
おしんこ(甘酢漬けツナあえ)又はキムチ(300g)
火曜日
豚汁(300g)
わさびマヨネーズの野菜サラダ(150g)
とんかつ(150g)
水曜日
肉団子ともやしの汁物(300g)
野菜の天ぷら(200g)
めばるの煮つけ(150g)
木曜日
ラーメン(360g)
トマトときゅうりのサラダ(120g)
鶏肉の甘辛煮(150g)
金曜日
寄せ鍋(鶏肉)(200g)
キャベツサラダ・和風ドレッシング(160g)
豚肉の生姜焼き(180g)
月曜日の料理だけ量(グラム数)が突出して多い。もしかしたら「おしんこ又はキムチ(300g)」あたりに誤りがあるのかもしれない。そんなにいらないと思う。
水曜日の「めばる」はいささか唐突だ。何だろう,参考にした料理本に「めばるの煮つけ」と書いてあったのだろうか。メバルは日本近海でしか獲れないと思う。
また,月曜日以外の献立に「ごはん」の記載がないのが気になる。パンが出てくる可能性が高い。
しかし,これで値段が一人前60MDL(=約360円)というのは素晴らしい。これまでに海外で見た日本料理店のランチの中でかなり安い部類に入るはずだ。この値段ならパンでも許容できる‥‥かも? -
こちらは「シーラの聖テオドラ教会Biserica Sfânta Teodora de la Sihla」。
青い屋根が印象的だ。松ぼっくりのような形のルーコヴィツァも青い。ロシア風の色づかいだ。
ところが尖塔は,オスマンのミナレットを思わせるデザインになっている。イスラーム建築との折衷か。そう思うと,二色積みのアーチもメスキータのそれのように見えてくる。
ルーコヴィツァの上にある十字架に目を凝らすと,六端十字架の下に上向きの三日月の形が見える。六端十字や八端十字はギリシャ以外の東方教会で用いられるが,三日月はもちろんイスラームのシンボルだ。十字架までイスラーム折衷?‥‥というようなことがあるわけはなく,正教ではこの三日月つきの十字架を用いることもあるようだ(ブカレストでも見た)。三日月は舟の形とか,錨(いかり)のアーム部分をあらわすとか言われている。 -
教会の壁面には,これを建てた建築家アレクサンドル・ベルナルダッツィのレリーフが掲げられていた。
この旅行記の前のほうに出てきたキシナウ市庁舎や給水塔も彼の手によるものである。 -
教会の面するプーシキン通りは,キシナウでもっとも高級な繁華街・オフィス街になっている。
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カフェテリア方式の食堂を見つけたので入ってみた。
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品数が豊富なので色々と目移りするが,さっき揚げパンを食べたので控えめにしておこう。
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ペリメニとビーツサラダはよかったのだが,店員がおすすめだと言って皿に盛ってくれた肉料理を食べてみると,中華だしの味が舌に広がった。
ああ‥‥これは「店のおすすめ料理」というわけではなく,私を中国人とみて親切心ですすめてくれたわけだ。
中華料理をおかずにパンを食べる‥‥こうなると,ペリメニまで水餃に見えてきた。貴重なモルドヴァでの一食を棒に振ったような気分だ。 -
食堂を出たあと,郵便局へ行って絵ハガキを出す。
絵ハガキはこの郵便局の売店で売っている。切手と一緒に購入したら,貼って渡してくれた。 -
そのあと,コスモスホテルのある大きなラウンドアバウトまで歩いていく。
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このラウンドアバウトの付近には大きなショッピングモールがいくつか集まっていて,
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近くにキシナウ駅もある。
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あるスーパーマーケットに入ってみた。
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店内で例の野菜ペーストを探し,見つけた。ロシアの「イクラИкра」だ。
セルビアやクロアチアの「アイヴァルAjvar」から辿ってきたこの旅の野菜ペーストは,ピンジュルПинџур(北マケドニア),リュテニツァЛутеницаやリュティフカЛютивка(ブルガリア),ザクースカZacuscă(ルーマニア)と名を替え,この「(野菜)イクラИкра」(ロシア)で一応のゴールになる。
野菜イクラはソビエト時代のロシアで広まった。ニキータ・フルシチョフの夫人が広めたという説もある。菜食を好んだ人だったらしい。 -
野菜イクラの近くには,ザクースカもあった。
そしてその両脇には,揚げナスのアジカ漬け(アジカАджика=コーカサスのビベルサルチャ=唐辛子ペースト。ロシアでは辛口の野菜ペーストのことも「アジカ」と呼ぶ)とか,ハンガリー(&中欧)のレチョLecsóの瓶詰めが並んでいる。
今回の旅のルート以外にも,瓶詰め野菜ペーストの親戚筋と考えられる食品はたくさん存在していることが判る。こうやって今後の旅の楽しみが膨らんでゆく。 -
ブカレストにあれだけあったサラタ・デ・イクレSalata de icre(ルーマニアのタラモサラタ)は,ここキシナウでは鳴りをひそめる(ないわけではないが)。
代わりに,クリーム系の魚卵製品が現れた。 -
開けるとこんなの。塩味の白いクリームに人工キャビアが入っている。
パンに塗って食べてみたが,塩味しかしない。タラモサラタのような「海味」がついていないのだ。モルドヴァは内陸国だから,海味を好まない人が増えるのだろうか。 -
別の製品も試してみたが,似たりよったり。
これ↑は製品名が「Sos de icre somon afumat」と表示されていたから,そもそもサラタ・デ・イクレとは違う系統の食品なのかもしれない。 -
さて,こちらは久しぶりに出会った好物,(スィール・)チェチル。モルドヴァでも作っているのだ。
通称は「三つ編みチーズ」。ロシアとその周辺国で見られる。
ラベルに「Afumată(燻製)」の文字があるとおり,チェチルには白いプレーンタイプと茶色がかったスモークタイプとがある。
また,「スルグニSuluguni」とも書いてあるが,これはコーカサス版のモッツァレラのことを指す。モッツァレラなのでよく延び,長いひも状にすることができる。「Cosi?ă」の語はよく分からないが,おそらく三つ編みの形状を指すのだろう。 -
中から取り出した姿はこんな感じ。
結んであるところからほどいて,少しずつちぎって食べる。まるでさきいかを噛んでいるかのような気分になるが,ワインとの相性はこちらがはるかに優れている(とくにスモークのほう)。クセはないが塩味とコクがあって,チェチルさえあれば赤ワインをエンドレスで飲めるような気がする。
日本でも人気が出ると思うのだが,今のところ売っているのを見たことがない。
ちなみに,モルドヴァのVATは20%だった。パンや乳製品などで付加価値の低いものは8%の軽減税率が適用されるようだ。
(つづく)
キシナウ逍遥その2
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ティラスポリ逍遥
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