2020/08/31 - 2020/08/31
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xiaomaiさん
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8月31日に新竹へ行き、廟(+新竹州廳)巡りをしてきた。でも、この日、新竹へ行った主目的は18時からの新竹都城隍廟査夜暗訪を観ること。7月に偶然見られた彰化の城隍廟暗訪に続き、2度目の城隍廟暗訪。
訪れた廟:都城隍廟、東寧宮、新竹關帝廟、内天后宮、天公壇、北極殿、長和宮、水仙宮、鄭氏家廟
台湾の民間信仰をあまりご存じでない方にもわかりやすく書こうと思っていたのですが、なかなか時間が取れず、およそ一月の時間が流れてしまいました。結局、専門用語の多い旅行記となってしまっています。画像のみをご覧いただき、台湾の祭事の雰囲気をお楽しみくだされば幸いです。
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区間車(各駅停車)で新竹へ。台北からだと90分ほど。
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日本の植民地になる前の1893年に開業した新竹駅。現存する駅舎は1913年に完成したもので、台湾で現存する最古の駅舎。しかも、現役。
新竹駅 駅
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1998年に台湾の国定古蹟に指定されていて、2015年に東京駅と姉妹関係を結んだ。
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駅前の中正路を進むと、竹塹城迎曦門。竹塹というのは新竹の旧名。改修工事をしているのか、囲われていて近づけず。
東門城 城・宮殿
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東門街を進むと、右手に東寧宮。その元になったのは、1821年創建の新竹嶽帝行宮で、東嶽大帝を祀っていた。皇民化運動が始まると、地蔵菩薩や東嶽大帝などの像は近隣の寺や廟に預けられて、廟そのものは解体され、貯水池と防空壕になった。戦後、寄付金を募り、鄭成功を祀るという名義で「東寧宮」として再建された。
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東寧宮を過ぎさらに進むと、城隍廟前広場。龍の頭を持つ魚の像がある。画像を見てわかるように、今にも雨が降りそうになってきていた。
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城隍廟前広場に設けられた感謝台。城隍廟内部は美食街を進んだ奥にあり、大型な儀式をするのが不便なため、祭事のために特別に設けられた舞台。
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城隍廟を取り囲むように、美食店や土産店などが立ち並ぶ。
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城隍廟へはいくつかの入り口があるけれど、正門と言えるのはこの門。
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新竹都城隍廟の三川門。
乾隆十二年(1747年)に淡水同知であった曾日瑛が朝廷に上奏し,名士から寄付を募って、1748年に官廟として城隍廟が落成した。1887年、龍虎山61代天師であった張天師が彦星と織姫の間に天狗星が入っているのを見つけ、そのことが台湾に不利であると判断した。そのため、今の新竹城隍廟で法会を行うことにし、その時、廟格を上げる必要があり、都城隍廟となった(台湾でもっと高い位にある城隍廟)。その後、数度修築が行われ、特に1924年には新竹名士であった鄭肇基が多額の寄付をし、3年をかけた大修築が実施された。
日本植民地時代、特に武官総督時期は、道教信仰はよくないとされ、多くの道教寺院が「道路拡張」などという理由で破壊された。けれども、勧善懲悪を行い、人を善へ導く城隍廟は、統治に有益だと考えられ、破壊されずに、むしろ修築が重ねられた。新竹城隍廟 寺院・教会
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香爐。左手は天公(玉皇上帝)ので、右のが城隍爺の香爐。
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三川中央入口。入る時はここからではなく、この右側の入口(龍門)から。出るのは左側の虎門。ただし、捕らえた犯人を逃さないようにするため、虎門は普段は閉められている。虎門が開くのは鬼月と呼ばれる旧暦7月のみで、法士(道士)が儀式を執り行い、その後、二爺が開ける。
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青斗石彫で造成された雄獅子
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子獅子を抱いた雌獅子
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入ってすぐ右手においでになる大爺(台湾では一般的に七爺と呼ばれることが多いけれど、この廟では大爺)の謝将軍。
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左には二爺の范将軍(台湾では一般的に八爺と呼ばれることが多い)。
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三川殿の天井にある「結網藻井」。
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謝将軍の左に捕快楽爺と捕快怒爺。
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范将軍の右には、捕快喜爺と捕快哀爺。捕快爺は喜怒哀楽の4尊がおいでになる。
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さらに内部へ進むと、六将軍(右側)。六将軍というのは、中国の仏教と道教、台湾の民間信仰が混合された陰間神祇で、東嶽大帝、閻羅王、城隍爺、地蔵王菩薩の部下。悪事をしたものを捕え、この世から生き様を審判される場へ死者を連れていく役目を担っている。
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六将軍(左側)
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死んだ人間を城隍爺の元へ連れて行く范将軍。
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范将軍の御名は范無救(罪を犯したものは救われぬ)。小柄で小太り。橋の下で謝必安と落ち合う約束をしていたが、大雨で水嵩が増してきた。それでも、謝必安との約束を違えたくなかったため、その場で待ち続け、結局溺死してしまった。それで、黒い顔になっている(諸説あり)。
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左手には悪事を働いた者を捕らえる鎖。
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右手には虎が描かれた榜牌(虎牌)。書かれる文字は「勧善懲悪」「善悪分明」「奨善罰悪」など数種類ある。新竹城隍廟の范将軍の榜牌には「除暴良安」。
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死んだ人間を城隍爺の元へ連れて行く謝将軍。
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背が高く細身の謝将軍の御名は謝必安(謝罪をすれば必ず平安が訪れる)。大雨で范無救との約束の時刻に間に合わなかった。後に范無救が溺死したのを知り、悲しさのあまり首を吊って死んだ。そのため、舌を出している。
玉皇大帝は范無救と謝必安の信義に感じ入り、二人を冥界大神に封じた。 -
謝将軍の帽子には「一見大吉」。「一見發財」「一見生財」と書かれている場合もある。
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左手に白い羽の扇、右手に火籤と呼ばれる長い形の令牌を手に持つ。火籤ではなく、魚の形の枷を持つ場合もある。
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審判を受けた魂を陰界に送り込む銀鎖将軍。
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審判を受けた魂を陰界に送り込む金枷将軍。
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送り込まれてきた魂を陰界の入り口で引き受ける馬将軍。足が早く、どんな魂も逃さない。
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送り込まれてきた魂を陰界の入り口で引き受ける牛将軍。力が強く、どんな魂も逃さない。
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正殿内の龍が彫られた石柱
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1980年代に安置された李排爺
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1980年代に安置された董排爺
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城隍爺直属の幕僚である文判官。人間の「生死台帳」を管理し、人々がした善事と悪事を書き込む。
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城隍爺直属の幕僚である武判官。
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都城隍爺は身長がおよそ160cmで、視線は下方に落とされている。左手には錦を握られ、右手には紙製の扇子を持たれていて、親指に玉の指輪と金の指輪をされている。「都城隍爺」という御名が示すように、台湾でもっとも高い地位を有される城隍爺。1885年に中仏戦争が起こり、光緒帝が聖旨をもって台湾を省に昇級させ、それに伴い、新竹の城隍爺も県の城隍爺から都の城隍爺に昇級した。「金門保障」という額も1891年に光緒帝により賜った。「金門」というのは金門島のことではなく、「皇帝の有する国家の門」という意味。「理陰賛陽」は科挙の殿試に合格し進士となった初の台湾人である鄭用錫が1852年に書いたもの。
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側面から拝見した都城隍爺のお姿。城隍爺が黒いお顔をされているのは、司法神であるから。包公が黒い顔をしているのと同様の理由。
都城隍爺は旧暦7月12日に奥にある神棚からこの場所へお移りになり、体を清められ、衣装、帽子、扇子など、身に付けられるものをすべて新しいものに替えられる。これらは信徒が寄贈するもので、寄贈者が多いため、寄贈するまで数年待たねばならない。神棚をお出になり、ここにおわすのはたった8日間。 -
土地公と山神公。
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土地公と山神公の下には......
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虎爺(地虎爺)がおわす。
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城隍爺の部下で、各部門の長官である六司。左に糾察司、楽善司、延寿司。右に速報司、罰悪司、増禄司。
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城隍爺の秘書長(事務局長)である陰陽司公。白いお顔は「人がした良いことをすべて知っている」ことを表し、黒いお顔は「人がした悪事をすべて知っている」ことを示す。つまり、公正に人を裁くことの表れ。
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謝将軍
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信徒からの要請により、2009年に安置された月下老人。霊験あらたかとされ、参拝客が後を絶たない。
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子供の生育を守られる註生娘娘。
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月下老人の後方に城隍爺夫人。城隍爺が地域社会をお守りくださるのに対し、城隍爺夫人は家庭内の幸せをお守りくださる。
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城隍爺の大少爺(長男、右)と二少爺(次男、左)
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観音菩薩、南無大勢至菩薩、南無清浄大海衆菩薩、十八羅漢が祀られる法蓮寺が城隍廟本殿の右にある。
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法蓮寺の後方にあるのが弥勒仏殿。
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弥勒仏の前方に文昌帝君。
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お守りなどは有料で授けてもらえる。
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弥勒仏殿前にある金爐。
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弥勒仏殿前にある香爐。
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香爐の左右に2頭の狻猊。火と煙が好きで、火爐にしがみつくようになっているものが多い中、このように顔の部分だけがあるのはあまり見ない。
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やがて豪雨に見舞われた。
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雨が小降りになり、玉皇上帝への参拝から開始。
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この日は査夜暗訪があったため、参拝者は特に多かった。
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都城隍爺殿と法蓮寺の間にある通路
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鹿港にある摸乳巷のように細いわけではない。
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廟の門前に広がる飲食店街。城隍廟夜市と呼ばれるけれど、朝から営業している店も少なくない。前任市長は地下化しようと考えていたが、そうならなかったと地元の方に聞いた。戦後からの長い歴史を有するから、このままの方がいいと個人的に思う。
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画像左側の「香香」に入店。
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蚵仔煎。日本語で言うところの牡蠣オムレツ。オムレツとは異なるものだけれど、ここで食べたのはとてもおいしかった。
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新竹名産「貢丸」(ミートボール)のスープ。
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新竹名産のビーフン。3品食して、もっともおいしく感じたのは牡蠣オムレツ。新竹一帯は以前牡蠣が多く穫れていたと地元の方が言われていた。
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食後、再度、廟内を見学。法蓮寺のすぐ前にも食堂がある。
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弥勒殿の前では夜訪で使用される松明(火把)が準備されていた。
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城隍爺へのお供物。
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城隍爺「奉旨賑孤遶境」の御触書
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ローストチキンショップのお兄さんも丁寧にお参り。
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査夜暗訪にはお出ましにならない城隍爺。
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査夜暗訪の開始まで時間がかなりあったから、神々が廻られる廟を観て回った。まずは1777年創建の關帝廟。
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立派な金爐
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赤兔馬も祀られている。
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三川
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本殿の香爐
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萬世人極
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ご本尊の關聖帝君。
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合祀されている文昌帝君。
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孝友文章
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夏は入学試験や公務員採用試験が多く、参詣者が特に増える。
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岳武穆王(岳飛)も祀られている。
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岳武穆王
杭州にある岳王廟:
https://4travel.jp/travelogue/10601020 -
階上には太歳星君。
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岳飛穆王殿2階から見た關帝廟。
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新竹関帝廟の沿革が刻まれている碑。重いものを背負うのが好きな贔屭(龍生九子の一つ)。碑の大きさに対して、ここまで大きい贔屭は見たことがない。
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中央路と平和街の交差点にあった古い建物。元は茶葉を扱う店だった。
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中山路と大同路の交差点にある建物。現在は新竹第一信用金庫。
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昭和11年に、新竹でもっとも高い建築物として建てられた新竹市消防組合。2002年に消防博物館となった。
新竹市消防博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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1925年に新竹州庁として建設された建物で、現在は新竹市役所として使われている。
新竹市政府行政大楼 史跡・遺跡
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市役所は見学目的でも入館可能。画像はエントランスホール。戦前の日本建築のエッセンスがつまったこの建物を、建築学を専攻する日本人の大学生が見学に来ることもあるそうだ。
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1階通路
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荘厳な石造りの階段に大きな木製の窓枠。
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中央階段。2階中央に市長室。現市長は45歳で民進党籍の林智堅氏。城隍爺「奉旨賑孤遶境」の際、神輿に付き添われていた。
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大きな窓が並び、外の緑が美しく見える。
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建物両端にある階段。
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閉塞感が全くない2階通路。
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一般執務室内部。もっとも手が込んでいると思われる市長室には当然入れず。
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歴史のある窓枠。日本時代のものであるかどうかはわからない。
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それほど大きな建物ではないから、内部見学には時間を要さない。台湾にある日本時代の建築物は大切に保管されるだけでなく、実際に使用されているものが多い。
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市役所の向かいにある警察局。
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北大路と中正路の交差点に建つ北大天主堂(正式名は聖母聖心主教座堂)。1957年に落成した、カトリック新竹教区の主教座堂。
北大教堂 寺院・教会
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清朝期に進士を出している鄭氏の家廟。ここにも城隍爺は立ち寄られる。神様が一個人の家に立ち寄られるのは非常に名誉なこと。実は、新竹城隍廟修築にあたり、経済的な支援をしたため、毎年城隍爺が訪れになっている。
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鄭氏家廟の近くにある黒猫包(肉まん)。10数年ぶりだったから、食べたかったけれど、空腹感がなく、夜に食べることにした。
黒猫包 地元の料理
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近くには日本時代の建築物。
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城隍爺が鄭氏家廟の後に訪れられる長和宮。
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ここは聖母天后が主神として祀られていて、信者の多くは地元の閩南人。ここに祀られる媽祖は中国湄洲から海を渡ってこられた正三媽。頭部に取り付けられている髪は林黙娘のものだと言われている。
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観世音菩薩も合祀されている。
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太歳星君
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右に関聖帝君。
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左に文昌帝王。
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商朝末期の紂王の手下であった、高い法術を持った兄弟のうちの一人。のちに神となり、千里眼将軍として媽祖のボディーガードを務めている。
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千里眼将軍の兄弟で、金精将軍、水精将軍と呼ばれることもある順風耳将軍。千里眼将軍とともに媽祖をガードする役目を担う。
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長和宮と隣の水仙宮は内部がつながっている。現在2つの廟は横に並んでいるが、水仙宮は元々長和宮の後殿だった。
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長和宮の前にも歴史のありそうな建物、そして高層建築物。
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布袋劇の人形の文物館
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劇場でのパフォーマンスもあるけれど、廟会時に屋外で演じられることが多い。
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陽晒し、雨晒しになっている人形。
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城隍廟広場に設けられた感謝台に戻ってきた。豪雨が降ったことが信じられないほどの青空。
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だいぶ歩き回り、汗をたくさんかいたから、遠東デパート内のスタバへ。
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いつものように、キャラメルマキアートとクラシックチーズケーキ。
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中秋節を控え、うさぎデザインのタンブラーが売られていた。
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ある女性が一番右のを気に入ったらしく、長いことご覧になっていた。結局、撮影だけして、この時は購入されなかった。
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カップホルダー
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遠東デパートの地下には、小籠包で有名な鼎泰豐も。
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内天后宮へ向かう途中見かけたこの建物は、1972年から使用されている「西門街イエス聖心堂」という教会。
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聖母天后を祀る内天后宮。ここも城隍爺が訪れられる廟。1748年の創建で、信徒は客家人が中心(新竹は客家人が多く住む地域)。
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千里眼将軍、順風耳将軍などの神々。
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聖母天后
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立派な柱彫刻
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金将軍
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柳将軍
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秦叔寶將軍。秦瓊(571年?-638年)のことで、唐朝を開國した將領。凌煙閣二十四功臣の一人とされ、門神とされることが多い。
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尉遲恭将軍。尉遲敬徳のことで,隋末唐初期の名將。凌煙閣二十四功臣の一人とされ、秦叔寶將軍とともに門神となることが多い。
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神々の行列の先鋒となる太子。
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内天后宮の頭旗
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夜になると、ここに暗訪ご一行がおいでになる。
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次に向かったのは天公壇。乾隆年間に「天公会」という宗教組織が結成され、1851年に廟が建設された。1895年に起きた抗日戦争である乙未戦争の際、全焼。1913年に地元名士の努力により再建された。
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元は魔除の動物である貔貅。現在では、金を食べるのに肛門がないということで、蓄財の神となっている。
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玉皇上帝を主神として祀る大きな廟。
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無理に食べさせ、数百キロまで太らせた豚(「神豬」と言う)を神様にお供えする風習が、伝統文化維持の名の下にいまだに台湾にもある。伝統保持という考えもあるけれど、人道的な方法であることが条件になるだろう。時代が変わったのだから、この供物のように、作り物でよいと思う。
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玉皇上帝を祀る本殿。三官大帝、福禄寿が合祀されている。
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五穀先帝
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本殿右手の左側に五斗星君。
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本殿右手の右側に観世音菩薩。
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五路財神
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托塔天王
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玉皇上帝と文昌帝君を祀る光明燈殿。
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斗姥元君(仏教の摩利支天)殿。人々の運命を決め、寿命を司る女神。
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太歳殿
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本殿に戻ると「スリに注意」の張り紙。廟で悪事を働くとは心得違いも甚だしい。
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5尊の学問の神(文昌帝君、關聖帝君、孚佑帝君、朱衣神君、魁斗星君)を祀る五文昌殿
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紙で作られた龍の船
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急に大雨が降ってきた。神様にお願いしたら、すぐ止んだ。
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ほんの数分前の大雨がウソのよう。神様、ありがとうございます。
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新竹天公壇は規模が大きく、地元民の信仰の中心地になっている。
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最後に訪れたのは北極殿。
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北極玄天上帝(北帝、真武大帝)を祀る廟。
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涼傘、頭旗など
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北極玄天上帝
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合祀されている關聖帝君
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城隍廟の査夜暗訪と出巡で回る廟をすべて訪れた後、都城隍廟へ戻ってきた。
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城隍爺の「大少爺(大公子)」(ご長男)が、城隍爺の出巡に先立ち、露払いとしての暗訪をなさる。
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雲行きが怪しくなってきた。雨が降ってきた場合に神輿が雨に濡れぬよう、ビニールをかぶせる。
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査夜暗訪が実施されるこの日は、多くの参拝客が絶え間なくやってきていた。
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17時40分ごろ、新竹都城隍廟「奉旨賑孤遶境」の鄭耕亜総幹事、新竹市議会議員などが城隍爺の前に立ち並び、儀式が始められた。
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城隍爺本尊は2体あり、六将会という、いわば実行委員会幹部は後方の城隍爺の前に立ち儀式に臨まれる。後方におわす城隍爺は1924年に新築された時に泥を使って塑造されたもので、手足を動かすことができない。しかし、こちらの城隍爺こそがこの廟の主神で、街に繰り出される城隍爺は分身。
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三立テレビ局が独占ネット中継。
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18時に大少爺の査夜暗訪が開始された。
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大爺と二爺が行列の先頭。
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先回りして、内天后宮へ向かうと、内天后宮の神々が大少爺一行の出迎え準備をされていた。
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内天后宮に取り付けられた自動制御の太鼓が鳴らされる。
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都城隍廟の神々が内天后宮の聖母天后にご挨拶。殿(しんがり)は輿に乗られた大少爺。
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大少爺の後に、パトカーと......
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救急車が続く。街を挙げての大行事。
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ご一行は内天后宮の次は天公壇へ向かわれるのだけれど、自分はそこへは行かず、その次の立ち寄り場所である北極殿へ。ここに到着して間もなくして、激しい雨が降り出した。大少爺ご一行はその中を進まれたことになる。先回りした自分はまったく濡れることなく、ここで待機。ズルをしてしまったように感じたり、日中神々に雨が降らないよう祈り続けたご利益だと感じたり......。ここでのご一行のご挨拶を観た後は......。
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すぐに長和宮へ。
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でも、ご一行到着までしばらく時間がありそうだったから、黒猫包を食べに行った。
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黒猫包の店の近くにある鄭氏家廟。昼間に訪れたときは門が閉ざされていたけれど、夜は大少爺を迎えるため、門が開かれていた。ここは普段は一般公開されていないから、長和宮でなく、ここでご一行を待つことにした。
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科挙殿試で合格した「進士」を出した名門鄭氏。
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内部は非常に立派なものだった。
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祀られているのは、鄭氏のご先祖様。
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まさに新竹一の名家。
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一行は査夜暗訪では内部には入ってこられず、前を通り過ぎるのみだった。
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鄭氏家廟の前にある水田福徳宮(北壇)。
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清朝に創建されたこの廟は、福徳正神を主神として祀り、さらに台湾では非常に珍しい四面土地公を合祀している。
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城隍廟の陰陽司公(現代の検察官に相当)は旧暦7月になると、ここに移られ人々の生活をご覧になり、7月15日に城隍廟へお戻りになる。いわば、民衆に近づき、人々を理解されるご努力をなさっている。城隍爺出巡の際、城隍爺に伴い、城隍廟へお戻りになる。
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その次に向かったのは東寧宮。途中にある新竹市議会。
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そして、市役所。
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さらに、昭和8年に落成した新竹市影像博物館(台湾で初のクーラー完備の映画館)。
影像博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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竹塹城迎曦門の上には月。
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お供えの金紙を燃やし、大少爺のお越しを待つ廟の方。
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そして、信者の方々が列をなして現れた。
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煌びやかなトラック
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風帆
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レディス太鼓(一番後ろの1人だけ男性)
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また風帆。
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松明(火把)を持った信者の列。
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そして、二爺。
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大爺。中に入っている人の顔がかわいく見える(でも、本当は汗びっしょり)。
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最後に大少爺。
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地藏王菩薩にご挨拶後は、神輿の向きを変え......
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都城隍廟へお戻りになる。
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この日は最後まで見届けず、電車で台北へ戻ることにした。それで、列を最後まで見送ることに。
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一番後ろの救急車まで見届け、新竹駅へ向かった。
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21時26分発の各駅停車に乗車し、自宅到着は23時半ごろ。26000歩ほど歩いた1日となった。
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この旅行記へのコメント (2)
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- Weiwojingさん 2020/10/04 18:08:41
- 新竹の道教寺院と祭に大いに興味を覚えました。
- 初めまして。xiaomaiさん.
台湾には何度も訪れ、新竹にも行ったことがあります。これまで中華系の道教寺院にはあちこち訪ねたことがありますが、こんなに密着ぶりには関心を覚えました。
益々興味を覚えますが、なかなか個人的にはここまで極めることはできないですね。またこれからも見させていただきたいと思います。
Tamegai
- xiaomaiさん からの返信 2020/10/04 22:55:47
- Re: ご高覧、ありがとうございます
- Tamegai さん
旅行記のご高覧、ありがとうございます。また、ご興味を感じていただき、うれしく思います。
今夏は日本へ一時帰国することができませんでしたので、久しぶりに西側を中心に台湾各地を旅しました。7月以降の旅行記には道教寺院に関する記載が少なからずありますので、お時間のある際にご覧いただければ、懐かしく感じていただけたり、さらにご興味をお持ちいただけたりするかもしれません。
これからもよい旅を。
xiaomai⭐︎
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