2020/08/16 - 2020/08/16
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PHOPHOCHANGさん
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先週の真鶴に引き続き、久しぶり過ぎの横浜・根岸です。
三渓園は40年前に訪れた事が有り、それ以来。蓮は終わってしまいましたが、鶴翔閣の特別公開がこの日まででしたので、招待券を手に入れて足を運んでみる事にしました。
40年前と言う区切りは、PHOがとある県の名を冠したC大学に在籍していた頃で、その後ポキッと人生の分岐点を折れてしまった為、その前後で極端な隔たりが在る訳です。
三渓園へ直通の、その名も「ぶらり三渓園バス」の始発が9時横浜駅東口発だったのに合わせて家を出ました。最近そのパターン多くて、ややゆっくりめの出発ですね。
市営バス1日乗車券600円を利用して、主要観光地を横目に(中華街入口を4回も通過)、行きたい所だけピンポイントで廻って来ました。
何しろ猛暑でしたから、日本庭園を巡って日焼けするという…
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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いきなりですが、三渓園園内です。
三溪園は生糸貿易により財を成した実業家で茶人の原 三溪によって作られた日本庭園です。175,000平方mに及ぶ園内には国の重要文化財建造物10棟、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、京都や鎌倉から移築された17棟の建築物を有し、広大な敷地の起伏を生かした庭園との調和がはかられています
バス車内などでシャッターを押す機会は有りましたが、何故かデジカメの調子が悪く★
焦りましたが、到着したら何事も無かったかのように元に戻りました、ホッ良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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鶴翔閣。
延べ床面積約950平方mと、三溪園に在る歴史的建造物の中でも際立って大きな規模を誇ります。その名称は鶴が飛翔する印象の外観に由来すると言われています。
明治35(1902)年に原三溪が自らの住まいとして建て、以後20年にわたる三溪園造成の足がかりとなったほか、横山大観や前田青邨といった日本画家たちが集い、滞在し絵を制作するなど、日本の近代文化の発展にも関わった文化サロンとしての役割も果たした場所です。
現在の建物は平成10(1998)~12年にかけて修復工事が行われ、建築当初の姿に復元されたものです。
今日まで(8月8~16日)特別公開中でした良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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儲けたお金で庭園を造って公開したり、芸術家の世話をしたり、例えそれが財力を誇示する為だったとしても、こうして後世に残って、人が集まるのは良い事だよなと思います
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意外に洋間っぽく
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窓の外の緑♪手前に黒塗りの漆机が在れば…
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楽室棟方向。かなり造りが複雑です
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楽室棟廊下。
前庭に面しています -
夏座敷の設え。
風情は有りますが、体温に近い気温の中では吹き抜ける風も温く… -
茶の間棟。
原家の住まいであった当時、日常的な居間として使用されていた棟です -
茶の間棟。
奥から -
書斎棟。
主人の寝室及び書斎として使われていました。当初は畳敷きの和室でしたが、いつの時期からか板張りとし、洋風の室内装置を備えるようになりました。
また、書斎棟の床は茶の間棟より2尺8寸(約85㎝)高く造られています。
池の眺望を考慮したものと思われます -
倉(一番倉)。
家の中に?
食器類が収納されていましたが、当初は美術品を保管していたようです。
二番蔵は客間棟の西側に在ります。
何故、一番蔵と二番倉じゃないのかな? -
客間棟。
三溪に招かれた画家たちは、この部屋で多くの名作を生み出しました。
特に、横山大観「柳蔭」、前田青邨「御輿振」が描かれたこの場所は、歴史的にも貴重な場所です -
鶴翔閣は結婚式場やコンベンション会場として利用出来ます。
飲食は、三溪園契約登録業者からのケータリングサービスとなりますが、その業者と言うのが、なだ万、美濃吉、ホテルニューグランド、横浜グランドインターコンチネンタルホテルなど、有名どころばかりです -
楽室棟。
三溪が画家たちを招き、自ら集めた古美術の名品コレクションを鑑賞し、論評し合った場所です。
これで一周した事になります -
屋根の造りを垣間見る事が出来ます
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二番蔵
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ボイラー室。
此処でお湯を沸かして、浴室などに供給していたようです -
外へ出ると目の眩む日射しです。
それでも隈無く見て歩こうと思います。目指せ、三重塔! -
藤棚が格好の日除けになります
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三渓記念館。
記念館三溪園の創設者・原三溪に関する資料、三溪自筆の書画、 ゆかりの作家作品や美術工芸品、臨春閣の障壁画などを展示しています -
御門。
京都・平安神宮近くの寺院・西方寺に在った江戸時代の宝暦5(1708)年頃に造られた門です。三溪園には大正時代の初めごろに移築されました。
戦前、三溪園では、一般に開放されていた外苑に対して、内苑は原家の私的なエリアとして使用され一般の人は立ち入る事が出来ませんでした。その境界にあった建物がこの御門です。
この先にある臨春閣は当時、豊臣秀吉が建てた桃山時代の聚楽第の遺構とされ、「桃山御殿」と呼ばれていた為、この門も「桃山御門」または「桃山御殿門」と呼ばれていました良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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白雲邸。
大正9(1920)年に原三溪が夫人と暮らす為に建てた隠居所で、三溪自らの構想により同郷の大工・山田源市に造らせたものです。屋根を桧皮葺、庇を杮葺とし、室内は関西で一般的なサイズの京間畳を用いるなど、当時廊下で連結されていた臨春閣に合わせた造りとしています良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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臨春閣(重要文化財)。
さっきの御門の突き当りに見えていた建物で、去年から修復工事が始まってます良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)。
天正19(1591)年、豊臣秀吉が病気から快復した母・大政所の長寿を祈って建てた、生前墓の寿塔を覆っていた建物です。桃山時代らしい豪壮な彫刻や、柱とその上の組物などにはかつて鮮やかな彩色が施されていましたが、現在は風化して一部に痕跡を残すのみとなっています。
この覆堂が在った天瑞寺は大徳寺内の寺院の一つでしたが、明治時代の始めに廃寺となり現在は存在していません
三溪園への移築は明治38年・1905年のことで、原三溪が内苑に移築した最初の古建築です良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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桃山時代の彫刻がそのまま残ってる!
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臨春閣。
江戸時代初めの慶安2(1649)年に現在の和歌山県岩出市の紀ノ川沿いに建てられた紀州徳川家の別荘・巌出御殿と考えられています。その後、大阪市此花区春日出新田に移されていたものを明治39(1906)年に原三溪が譲り受け、11年をかけて念入りに配置を吟味し、大正6(1917)年に移築が完了しました。
移築の際には、屋根の形と3棟からなる建物の配置が変更されましたが、内部は元の状態が残され、狩野派を中心とする障壁画と繊細・優美な数寄屋風書院造りの意匠を各所に見る事が出来るそうです。
池に面して3つの棟を奥にずらしながら連結させた、この臨春閣の姿は内苑の景観の中心となるもので、三溪園が「東の桂離宮」と称される所以となっています -
この橋、気に入ったんですが何の説明も無いんです。臨春閣の一部と見做されているのでしょうか?
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月華殿(重要文化財)。
徳川家康が慶長8(1603)年に京都伏見城内に建てた諸大名の控えの間であったと伝えられています。内部には海北友松筆とされる障壁画や菊の透かし彫り欄間が見られます。
三溪園へは大正7(1918)年に、京都・宇治の三室戸寺金蔵院から付属していた茶室・現在の春草廬とともに移築されました良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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舞台造りのように敢えて崖の上に張り出して建っています
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他の建物もそうですが、基本外から眺めるだけです。近寄れないのも在ります
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金毛窟。
原三溪の構想によって大正7(1918)年に建てられた一畳台目、すなわち一畳と約4分の3の大きさの畳からなる極めて小さな茶室で、月華殿と連結されています。
金毛窟の名前は、床柱に京都・大徳寺の三門・金毛閣の高欄の手すりの古材を用いている事にちなみます。
此処は近寄れない部類に入ります、茶室はどれもそうかも良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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天授院(重要文化財)。
鎌倉の建長寺近くにあった心平寺の地蔵堂の建物と考えられています。禅宗様を主体とし、全体に室町時代の様式が見られますが、修理の際に慶安4(1651)年の墨書銘が確認され、江戸時代の初め頃に建てられた事が明らかになりました。
三溪園には大正5(1916)年に移築され、原家の持仏堂として用いられました。
天授院とは三溪の先代、原家初代・善三郎の法号です良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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聴秋閣(重要文化財)。
徳川家光の上洛に際し、元和9(1623)年に二条城内に建てられ、後に家光の乳母であった春日局がこれを与えられたと言われ、嫁ぎ先の稲葉家の江戸屋敷に伝えられていました。
三溪園への移築は大正11(1922)年で、これをもって三溪園は完成となりました。
意匠は、幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた佐久間将監によるといわれ、3つの屋根を組み合わせた外観から移築前は三笠閣と呼ばれていましたが、原三溪はこれを聴秋閣と改め、周辺を秋に紅葉を楽しむ風情としました良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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この聴秋閣と春草盧は名前にちなんでか、春(GW前後)と秋に特別公開されます
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春草盧(重要文化財)。
織田信長の弟・織田有楽の作とされる江戸時代初め頃の茶室で、月華殿とともに大正11(1922)年に京都・宇治の三室戸寺金蔵院から移築されました。
かつては「九窓亭」と呼ばれ、三畳台目、すなわち3枚の畳と約4分の3の大きさの畳を合わせた小さな空間には、その名のとおり九つの窓が美しく構成されています。その三畳台目の小間に付属する水屋と広間は三溪園に移築の際に原三溪が加えたものです良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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蓮華院。
原三溪が自らの構想により、大正6(1917)年に建てた茶室です。もとは現在の春草廬が建つ位置に在りましたが、第二次世界大戦中に解体保存され、戦後、現在の位置に再建されました。土間の中央にある太い円柱とその奥の壁の格子は、宇治・平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。
蓮華院の名は、三溪が茶会で広間の床の間に奈良・東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾った事からと言われ、小間の天井にも蓮の茎が用いられているそうです良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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松風閣展望台。
昭和39(1964)年に展望台が設けられました。だから、レトロと言うか、かなりボロいです。首都高湾岸線がすぐ其処です。
元々はこの名の別荘が在った所でしたが、大正12(1923)年9月1日の関東大震災で倒壊しました。
松風閣と言う名前は伊藤博文によって名付けられたものでした。
てっきり此処に三重塔が在ると思って上がって来ました良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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手前のタンクはJXTGエネルギー根岸製油所です
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旧燈明寺三重塔(重要文化財)。
室町時代の康正3(1457)年に建てられた、園内の建造物では最も古い建物です。三溪園へは大正3(1914)年に、現在の京都・木津川市の燈明寺から移築され、小高い丘に建てられたその姿は三溪園を象徴する存在となっています良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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大池を見下ろして。
今度は池の右側を歩きます -
三重塔の周りは全く眺望無し
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臥竜梅
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小さな流れが在ります。聴秋閣の辺りから水路が見えます。
此処から見えるのは?横笛庵かなぁ -
旧東慶寺仏殿(重要文化財)。
縁切寺・駆け込み寺の名で知られる鎌倉の東慶寺に在った禅宗様の建物で、江戸時代の初め頃に造られたものと考えられています。
東慶寺は明治時代以降衰退し、建物の維持が困難になっていました。これを憂えた原三溪は、明治40(1907)年に三溪園に移築しました。この時、三溪によって建物内に納められた棟札には禅師説法の道場にする為、そして三溪園の鎮護とする為に移築した事が書かれています良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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旧矢箆原家住宅(重要文化財)。
飛騨白川郷の一部、現在の高山市荘川町に在った江戸時代後期の入母屋合掌造りの民家です。御母衣ダム建設の水没地域に在った為、昭和35(1960)年に三溪園に移築されました。
農民の家ながら、式台玄関や書院造の座敷など立派な接客の空間を備え、火灯窓が付けられるなど、飛騨の三長者の一人といわれた矢箆原家の格式の高さを伝える、現存する合掌造りでは最大級の建物です。
屋内では、移築に合わせて蒐集された飛騨地方の民具が展示されているほか、囲炉裏では毎日火が焚かれています良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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豪雪地帯から移築されたにしては軒が短いように思いましたが?
単なる印象です、PHOは建築の専門家でも無いし、茅葺き屋根の家に住んだ事も無いですから -
土間が2つ。囲炉裏も2つ
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欄間もお洒落
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合掌造りの農家には珍しい書院造りも
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横笛庵。
茅葺屋根の土間と栩葺き屋根の小間からなる、素朴ながら趣のある草庵風の建物で、その名前はかつて内部に置かれていた横笛の像にちなみます。横笛は平安時代の末に平清盛の娘で高倉天皇の中宮であった建礼門院に仕えた女性で、平重盛の従者・斎藤時頼との悲恋の話が平家物語や高山樗牛の「滝口入道」から知られています。
この横笛の像は時頼から送られた恋文で横笛自らが作ったものとされ、縁結びの像として祈願に訪れる人も多くにぎわいましたが、第二次世界大戦中の空襲により失われました -
待春軒。
お昼は此処で原三渓考案の名物をいただきます不思議な三渓そば by PHOPHOCHANGさん待春軒 グルメ・レストラン
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テラス席が設けられていますが、エアコンの効いた店内へ
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三渓そば。
見た目はジャージャー麺のようでもあり、冷し中華っぽくもあり。
そばとは言うものの蕎麦粉は使われておらず、モチモチした食感の細目のうどんって感じです。汁は無く(はねて服がよごれないように、と)、肉味噌を混ぜていただきます。温かいです。
昆布茶付きで800円です -
旧燈明寺本堂(重要文化財)。
三重塔と同じ京都・木津川市の燈明寺に在った室町時代の建物です。明治時代以降、燈明寺は衰退し、第二次世界大戦直後の台風の被害を受けて解体され、再建出来ないままとなっていました。その後、三重塔が移築されていた縁により三溪園に寄贈され、昭和62(1987)年に移築が完了しました良く見えません by PHOPHOCHANGさん三溪園 公園・植物園
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三渓園天満宮
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歓心橋。
三重塔を入れるなどして、結婚記念の写真を此処で撮るカップルが多いようです -
此処が横浜である事を忘れる風景です
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高浜虚子句碑。
鴨の嘴 より たらたらと 春の泥
昭和8(1933)年3月に三渓園で詠んだ句です -
原三渓の碑。
茶店の前に在ります -
和舟の浮かぶ大池を望む
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蓮池からの眺め。
これでグルッと園内一周して来ました -
ぶらり三渓園バス。
横浜駅発着で、桜木町駅と中華街入口だけに停車します。
次の目的地も根岸エリアなんですが、バスのみで移動するので、桜木町駅まで戻ります横浜市営バス 乗り物
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ポケモンマンホール「ポケふた」。
https://local.pokemon.jp/manhole/
神奈川県にはこれ1つだけ -
市電保存館前行きの市営バスに乗って、山元町4丁目で下車し、T字路の坂を上ります
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根岸森林公園。
https://negishi-shinrin.jp/
かつて根岸競馬場の馬場だったエリアは、戦後は米軍専用のゴルフ場として使用されていましたが、現在は「根岸森林公園」として一般に開放されています。
猛暑じゃなければ気持ちの良い所なのでしょうが -
車で此処まで上がって来てしまうと停める所とて無く、立ち往生する羽目になるかと(駐車場は正門側に在ります)
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突き当たりは日本では有りません
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根岸森林公園は米軍施設を挟んで左右に分かれています
一等馬見所は狭い方、ドーナツ広場の奥に在ります日蔭が無いので夏は注意 by PHOPHOCHANGさん根岸森林公園 公園・植物園
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PHOが居るのは薄赤色、撮影禁止区域です
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シオカラトンボ。
最近、昆虫を写真に撮れるタイミングが多いような気がします -
ドーナツ広場から見た旧一等馬見所。
根岸競馬場がこの地に完成したのは幕末の1866年。翌年に日本で初めての洋式競馬が開催され、その後76年間にわたってレースが行われました。
当初は居留外国人の娯楽として始まった洋式競馬でしたが、やがて日本人、特に貴族に親しまれるようになり、根岸競馬場は日本人も含めた社交場として賑わいました。競馬は春と秋の年2回開催、現在の天皇賞や皐月賞にあたるレースも行われていたのです。
日本各地に建設された競馬場のモデルともなった根岸競馬場ですが、第二次世界大戦の激化により、昭和17(1942)年に競馬の開催が休止、翌年には競馬場も閉鎖されました。
戦後、根岸競馬場は米軍により接収。1969(昭和44)年に一部施設が返還されましたが、競馬場としての再起には至らず、老朽介していた二等馬見所やパドックも解体されました。
そして現在、唯一残された根岸競馬場の遺構が、この旧一等馬見所ですもうちょっと見たい! by PHOPHOCHANGさん根岸競馬場一等観覧席跡 名所・史跡
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旧一等馬見所は米国出身の建築家J・H・モーガンの設計で、昭和4(1929)年に完成した日本初の本格洋式競馬場「旧根岸競馬場」の一等観覧席だった建物です。丸窓のある3つの塔が印象的な歴史的建造物で、
。またこの付近は根岸台の丘の上に在るので、みなとみらい~丹沢の山並み~富士山も見渡せる絶景スポットでもあります -
モーガン広場
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出来たばっかりの頃の写真です
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廃墟っぽさを感じるのはこちらから
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その後、本格的な修復が行われる事無く現在に至りますが、平成21(2009)年にはその価値が認められて、経済産業省により近代化産業遺産に認定されました。
かつてYMOのプロモーション映画のロケにも使われた廃墟は米軍施設となっている正面側から見る事は出来ないので、裏側および横からその雄姿を眺めるのみ -
遊具広場から。
これが後ろの正面です。
この後、そのまま斜面を下って蓑沢口から出て、山元町2丁目からバスで桜木町駅へ向かいました -
横浜市のマンホールは横浜のシンボルであるベイブリッジを中心に捉え、周囲を船の操舵輪でデザインし、「のびゆく港・未来」を表しています。平成9(1997)年に設置が開始されました
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桜木町駅に戻って来ました。
日本初の都市型ロープウェイ「YOKOHAMA AIR CABIN(ヨコハマ・エア・キャビン)」が令和2(2020)年度末に誕生予定です。区間は「桜木町駅前」から「みなとみらい21新港地区(ワールドポーターズの運河パーク前)」までで、汽車道に沿った約630mほどの距離を36基のゴンドラで運行します。
この後、更に市営バスを横浜駅まで乗って、東急線経由で都内に戻り、母の面会に行きました桜木町駅 駅
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