2020/01/15 - 2020/01/30
427位(同エリア16318件中)
hy-2217さん
- hy-2217さんTOP
- 旅行記213冊
- クチコミ59件
- Q&A回答15件
- 408,329アクセス
- フォロワー60人
近くて遠いところ「ケワロ湾~ケワロ・ベイシン・パーク」を3年振りに訪れました。
3年前の天気は「晴れのち曇り」でしたが、ハワイ島のキラウエア火山が噴火していたため、火山灰の影響を受けて空はどんよりしていました。
今回はハワイらしい天気を期待していたのですが、青い空は多少見えたものの雲が多い天気になってしまいました。
しかし、今回の散歩では、ハワイの歴史の一部を知るためのすばらしい出会いがありました。
「ケワロ・ベイシン・パーク」内に女性の銅像があります。3年前に訪れた時はあまり関心を持ちませんでしたが、今回、銅像の前にある立て看板を読んでその女性をもっと知りたくなりました。
看板には、「MOTHER MARIANNE COPE」と書かれていました。ネット等で調べて見ると、19世紀ハワイに蔓延していたハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げた人で、後に列聖され「聖マリナンヌ・コープ」と呼ばれている女性であることが判りました。また、その女性がハワイ州庁舎・北側(山側)玄関に建立されている「ダミアン神父」と接点があったことも判りました。
「ダミアン神父」も、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げた人で、後に列聖され「聖ダミアン」と呼ばれている人です。
ワイキキ・ビーチの近くにある「セント・オーガスティン教会」の建物の前に、「ダミアン・マリアンヌ記念館」があるらしいので、次回、ハワイへ行くチャンスがあれば、ぜひとも、訪れたいと思っています。
そのような「旅行記」ですが、よろしければ一見・一読していただければ有難く思います。
※写真は、「ケワロ・ベイシン・パーク」にある「MOTHER MARIANNE COPE(聖マリアンヌ・コープ)」の銅像です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- デルタ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- JTB
PR
-
「シェラトン・ワイキキ・アロハラウンジ」のバス停からハイバス(HiBus)に乗って、「オリオリ・アラモアナ・ステーション」に到着。
そこから、「アラモアナ・ビーチ・パーク」内の遊歩道を西に進み、「ケワロ湾(Kewalo Basin)」に向かいました。
※写真は、「アラモアナ・ビーチ・パーク」の遊歩道から見た、北東方面(ワ-ド周辺)の景色です。 -
※写真は、「アラモアナ・ビーチ・パーク」西端にある池周辺の景色です。
池の周辺には、歴史を感じさせる岩が点在していましたが、私の知識では判りません。
木陰では若いカップルが一組、静かに幸せな時間を過ごしていました。 -
「アラモアナ・センター」から約1km、「ケワロ湾(Kewalo Basin)」に到着しました。
「ケワロ湾」は、コの字型の湾で、サンセット・クルーズや真珠湾クルーズ船の発着地として知られています。トローリング船もここで参加者を募っています。
湾の西側には魚市場があり、早朝に魚の水揚げ等を見ることができます。
私は昨年、ここから出入港する観光船に乗って、海上からワイキキ周辺&ダイヤモンド・ヘッド周辺の風景を見るツアーに参加しました。
これから、「ケワロ湾」の東側遊歩道を南方面へと進んで行きます。
※写真は、東側遊歩道から見た、西方面(①~②船着き場周辺)の景色です。
※船着き場は写真を説明するため、独断で北側から南側に向かって①~②~③~④~⑤の番号を付けています。 -
※写真は、同じ場所から見た、北西方面(船着き場①周辺)の景色です。
-
※写真は、同じ場所から見た、南西方面(船着き場②周辺)の景色です。
-
※写真は、東側遊歩道から見た、西方面(船着き場②~③周辺)の景色です。
ヨット・ハーバー全体が非常に静かで、落ち着いた印象を受けますね。
最近の「アラワイ・ヨット・ハーバー」の岩壁には多くのごみが溜まっていた記憶がありますが、このヨット・ハーバーではごみは見かけません。
ヨット・ハーバーを利用している人達のマナーの違いなのか、偶然なのかは判りませんが・・・。 -
※写真は、同じ場所から見た、北西方面(船着き場②周辺)の景色です。
-
※写真は、同じ場所から見た、南西方面(船着き場③周辺)の景色です。
-
※写真は、東側遊歩道から見た、西方面(船着き場③~④周辺)の景色です。
ここも、ローカルのヨット・ハーバーらしく、非常に静かで、落ち着いた印象を受けますね。 -
船着き場③~④周辺の景色をズームで撮って見ました。
湾の向こう側に見える建物は、「チルドレンズ・ディスカバリー・センター」&「ハワイ大学がんセンター」等々だと思います。
建物の左側辺りが、「カカアコ・ウォーターフロント・パーク」になります。 -
※写真は、同じ場所から見た、南西方面(船着き場④周辺)の景色です。
-
※写真は、東側遊歩道から見た、南西方面(船着き場④~⑤周辺)の景色です。
船の向こう側には、「ケワロ・ベイシン・パーク」が見えています。 -
船着き場⑤までやって来ました。
船着き場⑤には3年前と同様、ひと回り大きな船が接岸していました。
乗降が道路直結で便利なため、使用料も高いような感じがしますね。 -
※写真は、船着き場⑤の東側遊歩道から見た、北方面(ケワロ湾&カカアコのビル群)の景色です。
カカアコ・エリアも、ここ数年で多くのビルが建てられたものですね。 -
※写真は、船着き場⑤の東側遊歩道から見た、北西方面(ケワロ湾&カカアコのビル群)の景色です。
-
船着き場⑤の道路を横切ると、「ケワロ・ベイシン・パーク(Kewalo Basin Park)」東側入り口に到着しました。
「ケワロ・ベイシン・パーク」は「アラモアナ・ビーチ・パーク」と「カカアコ・ウォーターフロント・パーク」に挟まれて、旅行者には認知度が低いですが、ヨットハーバーの海側にある穴場的存在のビーチ・パークだと思います。
砂浜はありませんが、海へ下りる階段があり、上級サーファーやパドルボーダーには人気のスポットになっています。
また、トイレ、シャワー、水飲み場、休憩エリアもあり、ロコ達にとっては、有難い憩いの場所となっています。
3年前は週末であったため、ロコ・ファミリーがバーベキューを楽しんでいました。
「ケワロ・ベイシン・パーク」を初めて訪れたのは今から3年前。
週末であったため、数組のロコ・ファミリーがバーベキューを楽しんでいました。
しかし、パーク内で出会ったのはロコの人達だけ、日本人には一人も出会いませんでした。 -
※写真は、「ケワロ・ベイシン・パーク」の海側から見た、東方面(アラモアナ・ビーチ~マジック・アイランド)の景色です。
3年前は、「ハワイ島・キラウエア火山」が噴火していたため、火山灰の影響で空と海の色はハワイらしくない色をしていました。
今日こそはハワイらしい青い空&青い海を期待していたのですが、残念ながらご覧の通りの天気です。
歓迎されないのは、普段の行いが悪いのかもしれませんね。 -
ちょっと左側、「アラモアナ・ビーチ&ワード周辺」の景色を撮って見ました。
ど~んよりした天気で、何かスッキリしませんね。 -
「ヒルトン・ハワイアン・ヴィレッジ」「イリカイ・ホテル」周辺の景色をズームで撮って見ました。
写真のように「アラモアナ・ビーチ」西側と「ケワロ・ベイシン・パーク」の境界線辺りは、「パドル・サーフィン」を楽しんでいる姿をよく見かけます。 -
「ケワロ・ベイシン・パーク」は規模が小さなローカル公園です。公園内には「東西を結ぶ遊歩道」が一本だけあります。
これから、遊歩道を東側から西方面へと進んで行きます。
遊歩道を進むと右側にピクニック用テーブル&イスがありましたが、利用している人はいません。
誰も利用していないテーブル&イス・セットの向こう側には、3年前に見た女性の銅像が見えていました。 -
この写真は3年前に撮影したのですが、その時は銅像に近寄ることなく、”女性らしい人の銅像がある”とだけで何の関心も示しませんでした。
しかし、今日は好奇心が湧き、銅像になっている女性の歴史を知りたくなりました。 -
銅像の女性は「マザー・マリアンヌ・コープ(MOTHER MARIANNE COPE)」と言う人でした。
※この銅像は、2011年(ローマ教皇ベネディクト16世により列聖された年)にこの場所に建てられたらしいです。
※文献には「マリアン」「マリアンヌ」双方の名前が記載されていますが、この「旅行記」では「マリアンヌ」を採用させていただきます。
※写真は「ウィキペディア・・・マリアン・コープ」を参照。 -
※写真は、銅像の前にある立て看板です。
〈看板に記載されていた内容〉
☆(生誕)1838年1月23日~(死没)1918年8月9日
☆I AM HUNGRY FOR THE WORK...I AM NOT AFRAID OF ANY DISEASE(私は、仕事に貪欲である。私は、どのような病気も恐れない。)
☆1883~1888年:カカアコ・ブランチ病院
☆1888~1918年:モロカイ島・カラウパパ
☆2005年5月14日:イタリア・ローマで列福された
☆2010年1月23日:像が奉納された
ニューヨーク・シラキューズ・フランシスコ会修道院のマザー・マリアンヌ・コープと6人のシスター達は、ハワイ王国のカラカウア王から、ハワイの人たちがハンセン病で苦んでいるため助けてほしいとの要請に応えた。
※解釈が間違っていたらゴメンナサイです。 -
※写真は、ハワイへ出発直前の「マリアンヌ・コープ」(1883年・45歳)。
〈マザー・マリアンヌ・コープの略歴〉
マリアンヌ・コープ(英名:Marianne Cope、1838年1月23日~1918年8月9日)は、ドイツ生まれ、アメリカ育ちのカトリック教会の修道女。
ハワイ王国の時代にモロカイ島のハンセン病コロニーで働き、ダミアン神父の偉業を継いで、後に「聖マリアン・コープ」として列聖された。
☆1838年、ドイツのヘッセン州にマリア・アンナ・バルバラ・コープ(Maria Anna Barbara Koob)として生まれた。
☆翌年両親に従って、アメリカ合衆国・ニューヨーク州へ移民して、名前を英語風に「Marianne Cope」とした。
☆父親が亡くなった1862年、隣町シラキューズにあるフランシスコ会修道院に入り、シスター・マリアンヌと呼ばれるようになった。
初めは教師、次にドイツ語を使う学校の校長、そして、シラキューズ大学医学部の病院でも働いた。
☆1883年、自分が所属する教会の管理者になっていたが、ハワイ王国のカラカウア王から”ハンセン病患者を助けてほしい”という要請に接した。この病気は伝染しやすいという理由で、すでに50の教会が要請を断っていた。しかし、「シスター・マリアンヌ」はこの要請に応えて、1883年11月8日オアフ島に到着した。
長らく外界との連絡が無かったハワイでは、外来人がもたらした様々な病気が流行し、19世紀半ばはハンセン病が蔓延していた。
☆1887年、新しい政府の命令で、ハンセン病患者はすべてモロカイ島へ移動させられ、アオフ島の施設は閉鎖された。
☆1888年11月、「マザー・マリアンヌ」はモロカイ島のカラウパパへ移動して、すでに世界的に知られていて、当時ハンセン病を発症して死に向かっていた「ダミアン神父」の世話をした。
「ダミアン神父」は1889年4月15日に亡くなり、ハワイ政府は女性患者に加えて、男性患者の面倒もみるように彼女へ頼んだ。
☆1895年、フランシスコ会から5人のブラザーが到着して、男性患者の面倒を見るようになった。
☆「マザー・マリアンヌ」は1918年8月9日に亡くなって、遺体はカラウパパに置かれた。遺体は2005年シラキューズに里帰りした後、2014年にオアフ島にあるハワイ教区司教座聖堂である「平和の聖母大聖堂」に葬られた。
☆2004年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により列福、2011年、ローマ教皇ベネディクト16世により列聖され、「聖マリアンヌ・コープ」と呼ばれるようになった。
☆2012年10月21日、「マザー・マリアンヌ」は聖人となった。
※写真&説明文は、「ウィキペディア・・・マリアン・コープ」を参照。 -
カカアコの病院で働いたフランシスコ会のシスター達。
2枚の白黒写真を見ていると、”困っている人々、苦しんでいる人々を救いたい”という、彼女たちの強い意志がひしひしと伝わってきますね。
損得を考える凡人には、決して真似は出来ないことですが・・・。
※写真は「ウィキペディア・・・マリアン・コープ」を参照。 -
※写真は、ハワイ州庁舎の北側(山側)玄関前に建立されている「ダミアン神父」の銅像です。(撮影:2018年1月)
以前から「ハワイ州庁舎」の北側玄関に「ダミアン神父」の銅像が建立されていることは知っていましたが、今回、「マザー・マリアンヌ・コープ」の略歴を調べて、初めて二人に共通の出来事があることを知りました。
※ハワイ州庁舎の吹き抜けを通って、南側(海側)玄関前には、「ハワイ王女:リリウオカラニ」の銅像が建立されています。 -
〈ダミアン神父の略歴〉
「ダミアン神父(英名:Father Damien、称号:聖ダミアン(Saint Damien)、1840年1月3日~1889年4月15日)」は、ベルギー出身の宣教師です。「ダミアン」は修道名であり、本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)です。
ハワイ王国のモロカイ島において、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げ、自らもハンセン病で命を落としました。
☆1840年1月3日、ベルギーで農家の7人兄弟の末っ子として生まれ、幼児洗礼を受けてヨゼフと名付けられた。
修道院に入っていた兄や姉の影響を受けて、1859年にイエスとマリアの誠心会に入会し、司祭として神と人々に自らの一生を捧げることを誓った。この時選んだ修道名が「ダミアン」であり、以降、「ダミアン」と呼ばれるようになった。
☆1863年、同じ修道会にいた兄がハワイ王国へ宣教師として派遣されることになったが、病気により急遽派遣が中止となった。代わりに「ダミアン」がハワイへ派遣されることになった。
1863年10月にドイツの港を出発して、1864年3月にホノルルに到着した。まだ、神学生であった「ダミアン」は、1864年5月にホノルルの「平和の聖母大聖堂」で叙階され、司祭となった。
☆ハワイの各地で活動して8年目、「ダミアン」はハンセン病患者の世話をする者が誰もいないことを知る。当時、患者たちは見つかるとすぐモロカイ島のカラウパパへ隔離され、そこで誰からも世話されずに死んでいくという状況であった。
「ダミアン」は決断してモロカイ島への派遣を願い、許されて単身患者のもとへ向かった。ハンセン病患者以外の者で常駐するために島へ向かうのは彼が初めてであった。
☆1873年5月、モロカイ島へ赴任した「ダミアン」は、患者たちの荒廃した生活環境の整備から始めた。
やがて、世論が「ダミアン」を「モロカイ島の英雄」と言って注目し始めると義援金なども集まり、モロカイ島の環境改善は進んで行った。
しかし、「ダミアン」は一度決めたことは絶対に譲らない頑強な性格の持ち主であったため患者たちには優しかったが、教会の上司や共働者達とは問題を起こすことも少なくなかったらしい。
☆1881年9月、ハワイ王女「リリウオカラニ」の訪問を機に「ハワイの栄光」になったと報じられ、ようやく人々もハンセン病患者の現実に目を向けるようになった。
☆1884年12月、「ダミアン」自らもハンセン病を発症した。
☆1888年11月、「マザー・マリアンヌ」はモロカイ島のカラウパパへ移動して、当時死に向かっていた「ダミアン神父」の世話をした。
☆1889年4月15日、「マザー・マリアンヌ・コープ」を始めとするシスターたちや医師、さらに協力者の司祭や患者たちに見守られてこの世を去った。
☆「ダミアン」はモロカイ島に埋葬されたが、1930年代に「ベルギーの英雄」として、その遺体を求める世論がベルギーで高まった。
これを受けて、1936年1月棺が掘り出され、同年2月出航、アメリカ海軍~ベルギー海軍を経て同年5月、故国ベルギーへ到着した。港では国王レオポルド3世以下、多くの国民が集まった。アントウェルペンで追悼ミサが行われ、遺体はルーヴァンの大聖堂に埋葬された。その後、1995年の列福を機に、遺体の右手だけがモロカイ島・カラワオの墓に戻され、今日に至っている。
☆1995年6月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により列福された。カトリック教会において、「ハンセン病患者、HIV感染者及びハワイの守護者」とされている。
☆2009年2月、ローマ教皇ベネディクト16世から列聖されることが発表され、列聖は同年10月11日、バチカンのサン・ピエトロ広場で行われた。
ベルギーのアルベール2世国王夫妻及び首相・閣僚・政党党首など4000人近いベルギー市民、ハワイから数百名の巡礼団を始め、日本人のカトリック信者数百名など、数万人の巡礼者が参加しました。
※説明文は、「ウィキペディア・・・ダミアン神父」を参照。 -
「マザー・マリアンヌ・コープ」の銅像を見て、心を洗われた後、「東西を結ぶ遊歩道」を西方面へと進んで行きました。
3年前に訪れた時は週末、ロコ達がサ-フィンを楽しんだ後、はしゃぎながらシャワーを浴びていましたが、今日は平日、ロコ達の姿はありません。
ちょっと残念ですね。(※撮影:2017年1月) -
さらに遊歩道を西に進んで行くと、「ケワロ・ベイシン・パーク」の西端付近までやって来ました。
突き当りには、ブロンズで造られたモニュメントがあります。モニュメントの頂部には羽根を広げた一羽の鳥、鳥の名前は判りませんが・・・。
この周辺は、フィッシングには人気があるらしいですが、平日のためか、付近には人の姿はありませんでした。
ちょっと、寂しい気持ちになりました。 -
3年前に訪れた時は週末であったため、「ケワロ湾」の出入り口の防波堤では、多くの釣り人が釣り糸を垂らしていました。(撮影:2017年1月)
-
モニュメントの足元には、銅板にハワイ語&英語で書かれた説明文があります。
説明文を読むと、「Kewaro Basin」地区に貢献した「Frank W. Sheriff」と言う人を称えて造られたモニュメントのようです。
1993年建立となっていました。 -
モニュメントの目の前は、「ケワロ湾(Kewalo Basin)」の出入り口です。
海の向こう側に見える景色は、カカアコ(Kaka'ako)エリアにある「フィフティスリー(53)・バイ・ザ・シー」周辺です。
建物の西側は、「カカアコ・ウォーターフロント・パーク(Kaka'ako Waterfront Park)」になります。 -
防波堤の南側先端部までやって来ました。
※写真は、防波堤の先端部から見た、北東方面(ケワロ・ベイシン・パーク~アラモアナ・ビーチ・パーク)の景色です。 -
※写真は、防波堤の先端部から見た、北方面(ケワロ湾&カカアコ・エリアにあるビル群~ケワロ・ベイシン・パークの西端)周辺の景色です。
-
※写真は、防波堤の先端部から見た、東方面(アラモアナ・ビーチ・パーク~マジック・アイランド&ワイキキ・ホテル群)の景色です。
天気が良ければ、ハワイらしい、爽やかな景色を見ることが出来たのに・・・。
ちょっと残念ですね。 -
「マジック・アイランド&ダイヤモンド・ヘッド」周辺をズームで撮って見ました。
-
※写真は、防波堤の先端部から見た、南方面の景色です。
この辺りは波が大きく、上級サーファー達には人気があります。
沖合いを見ると、数名のサーファーが波と戯れていました。
平日なので、仕事優先でやむを得ませんね。 -
今日初めて「ケワロ湾」へ入港する船を見ました。
船の側面には「HAWAII GLASS BOTOM」と書かれていました。その横には「オーシャン・スニーカー オリオリ・ルックJTB」の文字が見えました。
「オーシャン・スニーカー」は、ガラス張りの船底から海中を眺めることができるようになっています。
昨年1月、ワイキキ・ビーチ&ダイヤモンド・ヘッド沖を海上遊覧で利用した船のようです。
懐かしいですね。1年前の楽しかった海上遊覧を思い出しました。 -
昨年、船に乗って「ケワロ・ベイシン・パーク」のモニュメント周辺を見ると、このような景色でした。(撮影:2019年1月)
-
しばらくすると、今日、2隻目の船が入港してきました。
天気が良ければ、「フィフティスリー(53)・バイ・ザ・シー」をバックに、すばらしい写真が撮れたのに、どんよりした天気で残念ですね。 -
「ケワロ湾」を出港した直後の船から、湾の出口側を見るとこのような景色が広がっていました。(撮影:2019年1月)
正面に見えるのは「ケワロ湾&カカアコ・エリアのビル群」、右側に見えるのは「ケワロ・ベイシン・パーク」の西端部の景色です。 -
「ケワロ湾」から湾の出入り口を見るとこのような景色が広がっていました。(撮影:2019年1月)
左側に見えるのは「ケワロ・ベイシン・パーク」の西端部、右側に見えるのは、「フィフティスリー(53)・バイ・ザ・シー」周辺の景色です。 -
「東西に結ぶ遊歩道」を東方面に進み、東側出入り口近くまでやって来ました。
東側出入り口周辺では、ロコ達がいろいろなスタイルで「パドル・サーフィン」を楽しんでいました。
※写真は、「パドル・サーフィン・ボード」に座ったまま、カヌーのように漕ぎながら「パドル・サーフィン」を楽しんでいる娘さん。
楽しさが伝わってきますね。 -
「スタンドアップ・パドル・サーフィン」を楽しんでいる若者。
-
「パドル・サーフィン・ボード」に乗って、幸せな時間を過ごしている1組のカップル。
羨ましいと言うか、微笑ましい光景ですね。
「パドル・サーフィン」は1960年代に始まったらしいですが、ローカル・ビーチ独特のの~んびりした光景ですね。
これで、本日の散歩は無事、終了しました。
ハワイらしい「青い空&青い海」の下で散歩が出来ていたら、もっと、すばらしかったのですが・・・。
しかし、今回の散歩で、ハワイのために生涯を捧げた二人の聖人「聖マリアンヌ・コープ」と「聖ダミアン」を知ることができたのは大きな収穫でした。
ハワイの歴史の一部を知り、ちょっとだけ、頭が賢くなったような気持になりました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
hy-2217さんの関連旅行記
ホノルル(ハワイ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
45