2020/06/24 - 2020/06/24
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ドクターキムルさん
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横浜市南区宮元町3に鎮座する杉山神社は承元3年(1209年)、俗に鎌倉法印と呼ばれた貞暁法印(源頼朝の三男)が、鎌倉幕府の鬼門鎮護のため、伊豆国土肥の杉山から市杵島姫命を勧請したのが起源である。七社弁天の一つとされ、七杉山神社などの言い方もある。
貞暁法印は、南龍山不動院無量寺(https://4travel.jp/travelogue/11627591)を開山となって創建し、鎌倉法師貞暁阿闍梨とも呼ばれた。3代将軍源実朝の兄にあたる。
明治42年(1909年)、無格社大神宮社、稲荷神社を合祀し、祭神2柱を加えた。御祭神は、主祭神が市杵島姫命・天照皇大神・宇賀御魂命、相殿に木花開耶姫命を祀る。
大正12年(1923年)の関東大震災で被災し、鉄筋コンクリート造の現社殿は昭和32年(1957年)に造営された。
平成21年(2009年)には鎮座800年を迎えた。
「杉山神社」の社号標石は東郷平八郎(弘化4年12月22日(1848年1月27日)~ 昭和9年(1934年))が揮毫したものである。氏子の中に東郷を知っている人がおり、お願いしたのだという。「伯爵東郷平八郎謹書」とあり、改まったものである。横須賀、逗子、鎌倉と東郷ゆかりの地でも揮毫した社号標石は少なく、初めてのことだ。
貞暁法印(文治2年(1186年)~寛喜3年(1231年))は源頼朝の三男ではあるが、母は大進局であり、北条政子の嫉妬により不興をかい、建久3年(1192年)に頼朝は貞暁を仁和寺に入室させた。その後、貞暁は高野山で修行し、承元3年(1209年)に南龍山不動院無量寺(https://4travel.jp/travelogue/11627591)と杉山神社を創建した。寺のホームページ(http://kouya-muryouji.com/freepage_3_1.html)によると、「貞暁は源頼朝の子として鎌倉に生まれたが、故あって幼少より仏門に入り、紀伊の国高野山で修行に専念した。頼朝の死後、幕府は政権の安定を欠いたが、幕府創業の功臣執権北条時政は貞暁を将軍職として鎌倉に招聘した。貞暁は途上蒔田の宿場に着いたがその夜持仏である不動明王が夢枕に立ち、『汝、鎌倉に入るとも世はすでに北条の天下である。旬日のうちに運命の厄に遇わん、宜しくこの難を避け菩提の道を得られよ』とのお告げを受けた。貞暁は深く時局を洞察して入府を断念し 時政に告げた。時政は上人の清い信心を讃え鎌倉法印の称号と禄を以て遇した。この奇縁によって、蒔田の山麗に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、南龍山不動院無量寺と号し、貞暁は当山の開祖となった。以来鎌倉鎮護寺として発展した。」と記載されている。北条政子は、承久の乱(承久3年(1221年))により鎌倉市中が不穏になり、弘明寺界隈に難を逃れている。その乗蓮寺(横浜市南区井戸ヶ谷上町)(https://4travel.jp/travelogue/10877023)から南龍山不動院無量寺(横浜市南区蒔田町)と杉山神社(横浜市南区宮元町3)は近い距離ではあるが、貞暁誕生からの経緯から、政子が頼朝の三男を頼って弘明寺界隈に避難した訳ではないだろう。弘明寺観音にすがってのことであろう。
今では平政子は貞暁に帰依していたことが知られている。最後の一文は訂正すべき内容であるようだ。
(表紙写真は杉山神社拝殿)
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