2010/02/21 - 2010/02/26
1092位(同エリア1378件中)
WT信さん
シチリア島東端メッシーナからフェリーでイタリア本島へ。
”帰れソレントへ”・・カンツォーネ、強烈な太陽と紺碧の海、ナポリタン(造成日本語)、ピザ。
若い頃に知った私のイタリアを印象する言葉は、ナポリ以南の南イタリア育ちに有った。
しかしこの旅で南イタリアの苦悩の歴史を知ることになる。
8世紀ギリシャの繁栄で溢れたギリシャ人がイタリアの南部に移住、いくつかの都市を造った。
これの人々が築いた都市の中には、一時はギリシャ本土をも凌駕した都市もあり、その成功を”大ギリシャ”と誇った。
その後南イタリアは幾度も外国に支配されることになり、民衆は迫害を受け続ける。
そんな中で民衆は為政者に表面は服従しながらも腹の中では笑い飛ばす、根明の生活術を会得し、独自の文化を育んだ。
その文化は強烈な太陽と、紺碧の海に良く似合う・・筈であったが、残念ながら、この旅では天候にはあまり恵まれなかった。
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現在日本もそうですが、欧米諸国は新型コロナウィルスに苦しんでいおられる。
その中でも世界一の世界遺産件数を誇る観光立国イタリからのニュースは心が痛みます。
その思いがこのブログを投稿を促すことになりました。
追記;このブログを書く準備をしていて気付くことが有った。
Google Chromeで検索した私のサイトに、”ページがモバイルフレンドリーでありません”とメッセ―が表示されている。
私のHP”WT信の旅行三昧”はモバイルには馴染まないと云うことらしい。
私がHPの投稿を開始したのは2006年の9月。
現在のモバイル等知る由もない、せいぜいノートパソコンの時代。
旅行風景中心の私のサイトが、画面の小さいモバイルに適合していなくて不思議ではない。
モバイルで見るパノラマ風の風景写真などが、年配者はもとより、若者にとっても本当に楽しめるもであろうか?
”モバイルはパノラマ風写真ページフレンドリーでありません”
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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南イタリア&シチリア旅行マップ
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メッシーナ海峡in南イタリア
メッシーナ海峡はどす黒い雲で覆われていた。
その雲の隙間から、薄雲で透かされて白色化した太陽の光が、矢の束の様に海面を叩きつけていく、幻想的な海面をフェリーはイタリア本土に向けて進む。 -
マテーラin南イタリア
”キリストはエボリに留まりぬ”・・キリスト様はマテーラには来て下さらなかった
マテーラは昔から自然の洞窟があり、その洞窟に人が住んだ形跡があった。
その洞窟に支配者から追われたギリシャ正教の修道僧や農民が迫害を逃れて住み着き、次第に洞窟住居(サッシ)が形成されていった。
一時は繁栄を誇ったが、財を成したものはここを去り、マテーラは貧民屈の象徴と化して行った。
第2次大戦後この有様を目にした、トリノの作家カルロ・レーヴィが”キリストはエボリに留まりぬ”を発表。
イタリア政府はこの様を国の恥部として、住民を強制疎開させ、ここは一時廃墟となる。
そしてここは1993年、世界文化遺産となる。
現在は再開発も進み、新しく住み着く人も増えつつあるが、印象を変えるほどには至っていない。 -
アルベロベッロin南イタリア
白い壁に円錐形の黒い屋根のトウルッリ。
アルベロベッロは主に住宅中心のモンティ地区と、土産物店などが広がるアイア・ピッコラ地区からなる。
お伽の国の様な可愛いこの風景も,元を質せば支配者と民衆の、辛い、しかしどこか滑稽な物語が潜んでいた。
アルベロベッロの領主ジャンジローラモ2世は、農民に対して簡単な解体しやすい家の建設を命じる。
その理由は次の2つ。
1.反抗的な農民に対する懲罰
2.領主はナポリ王にたいして、その地区の家の数に応じて税金を納めることになっており、税金逃れの一策として簡単に家を壊すことが出来るようにした。
お陰で今やアルベロベッロは世界遺産となり、世界から観光客が押し寄せる。
その観光客だった日本女性の一人が、アルベロベッロの魅力に摂り付かれ、ついには嫁となって、アイア・ピッコラ地区の土産物店の女主人となる陽子さん。
”陽子さんの店”の2階からアイア・ピッコラ地区のパノラマが展望ができた。 -
アマルフィーin南イタリア
ローマ時代から今も続く憧れのアマルフィー海岸。
かってのアマルフィ共和国の首都で、ここも世界遺産。
アマルフィー共和国は海運王国として地中海に君臨。
またアマルフィの商人たちは十字軍のヨハネ騎士団結成の切っ掛けをも作り、最大のスポンサーでもあった。
何とか雨は上がったものの、くすんだ様なアマルフィー海岸は、期待していただけに何か物足らない。
アマルフィーの街の中心にアマルフィ大聖堂が建ち、大聖堂の前はドゥモ広場。
海岸線は遊歩道になっており、桟橋からのパノラマが望め、右手には大聖堂の鐘楼が聳えるのが望める。 -
ポンペイin南イタリア
ポンペイはWT信の旅行三昧の切っ掛けとなった、2003年のイタリア旅行の際訪れて以来2回目の訪問。
雨雲が低く垂れ汲めた天候は変わらず、前回は拝めたヴェスヴィオス山は遂に姿を見せてくなかった。
写真は2003年に訪れた際のもの。 -
しかし今回はポンペイの街の北西部の奥に潜む、1929年になって発掘された”秘儀荘”も訪れた。
ディオニュソスの秘儀の間と呼ばれる、このような絵が壁一面に描かれた部屋が
あることから、”秘儀荘”とやや不気味な呼が付けられているが、金道持ちの別荘と云う説が有力。
絵は”秘儀荘”の壁画一部の絵葉書。 -
ソレントin南イタリア
名曲”帰れソレント”の街は断崖の上に建つ。
しかし夕方ついた着いたため、美しい夕日には遭えなかった。
翌朝、ミニバスに乗り換え、ヘアピンカーブの急坂をポルタ・グランドに降りる。
明けきらぬ朝のポルタ・グランデは、ドキットするほど名曲”帰れソレント”ピッタリの景観が漂っていた。 -
ポルタ・グランデからボートでカリブ島に向かう頃には、”天気晴朗なれど波高し”。
ボートは波に揺られた。 -
カリブ島in南イタリア
カリブ島のマリナ・グランデに何とか到着。
しかし”天気晴朗なれど波高し”の状況は収まらず、南イタリア観光の目玉、”青の洞門観光”はお流れ。
カリブ島のマリナ・グランデの景観はこんなに穏やかに見えたのに。 -
ナポリin南イタリア
この旅の終着地ナポリ。・・ナポリを見て死ね・・
しかしここでも思わぬ災難が待ち受けていた。
ナポリに着いて最初に向かったのはナポリ国立考古学博物館。
その途上のダンテ広場にはためく赤旗と失業者の群衆。
そして博物館は数台の警察の装甲車が入り口塞いでいた。
翌朝、空港出発前に再度博物館を訪れてはみたものの、ポンペイでそのレプリカを見た「アレキサンダー大王の戦い」の大モザイク原画はお目にかかれなかった。
*写真は2003年の旅で撮ったものです。 -
気分を変え、スッパカ・ナポリ・・ナポリを真っ二つに割った・・へ。
”無原罪のマリアさまの塔”がスッパカ・ナポリ散策の出発点。 -
ナポリ名物のずらりと軒を連ねる伝統工芸品店を覗く。
居た々。
真っ白の頭巾と、真っ赤なシャツの上にユッタリとした、真っ白の服に身を包み、
目を蔽った黒い仮面を被り、踊ったり、楽器を鳴らすポーズのピエロ達・・プラチネッラ。
権威には敬するも尊まわず、思いに任せない世の嘆きを快活に笑い飛ばし、忍耐強く生きるナポリ人(南イタリの民衆)堅気の象徴。
夜はビザの老舗「ブランディ」で最後の晩餐。 -
翌朝5時に起き。
2度と来る機会が無いかもしれないという気持ちに駆られ、一人で地図を片手に、朝のナポリを散策。
1ウンベルトⅠ世のガッレリア -
2サン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会
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3王宮
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4カステルヌオーヴォ
見たのは外観だけだが、これで「ナポリを見たか?」と閻魔様に問われても、「見ました」と胸を張れるだろう。 -
帰路の飛行機の窓から、やっとヴェスヴィオス山が、別れを惜しむかのように雲の上にその姿を見せた。
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