2020/01/07 - 2020/01/10
880位(同エリア4964件中)
明石DSさん
「ホリデイ・イン マカオ」26階19号室
室内のタバコの強烈な臭いも、もはや気にならず
マカオの朝、早速探索に出掛けるぞ!
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マカオ
2020:令和2年1月7日(火)~1月10日(金)
3泊4日
2日目:1月8日(水):晴れ
マカオを歩く
2020.令和2年1月8日(水)
■マカオの朝!
マカオでの初めての朝、やはりいつも起きている朝6時、マカオ時間5時ころ目が覚める。温水シャワーですっきりし出掛ける準備。パスポートや予備の金を備え付けの金庫に入れて四桁の暗証番号でロック。部屋の金庫を使ったのはまだ数回しかないけど今回はなぜか使った。モーニングサービスはないので日本から持ってきたレーズンパンを食べて朝の散歩に出発。
海外に出ると一人勝手に「日の丸を背負う」 それが自分の気分を高揚させるし気合も入る。それも私の海外旅行の秘めた楽しさなのだ。だからチェックアウトの時は無論だが、連泊の時に出かける時も部屋はゴミ一つないくらい綺麗にして出る。ゴミは持参した袋にいれてゴミ箱に入れておく。
あまり整頓しているとタオルも替えてくれていないのでは?と、不安な時があったので、バスタオルなどは使ったことが分かるようにバスタブに並べて掛ける。シーツは三泊くらい替えてくれなくても良いと思っているのでどうでもよい。
歯ブラシも歯磨きも置いている簡易の物一つを今回も三日間使った。一応二人分の部屋料金を払っているので二人分の用意はあるけど一つしか使わない。無理してなどない必要ないから。日本代表チームの海外での試合で選手ロッカーが綺麗に整頓されていたり、日本ファンが試合終了後スタジアムのゴミを拾っている報道があるが、私もそれと同じだ。
戦後日本は私にとって米国の属国であり続け、その他も無様になり過ぎている。私も自分では分からないがきっと敗戦までの日本人と比較すると劣化の極みだろう。何とか自身の劣化の歯止めのためにも自己満足だろうが抵抗したい。俺は日本人なのだと思いたい。だから出る前に部屋を綺麗にする。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
エレベーターホール
記憶からすぐに喪失する
写真を見れば思い出す
人間の脳内ハードディスクの容量は如何に?
脳の記憶容量
https://mnemonic-device.info/27-capacity.html -
エレベーター
部屋のキーカードを先に差し込まないと
ボタンは何ら反応せず
田舎者は慌てる -
ホリデイ・イン マカオ」の一階ロビー
昨日到着直後にタバコ臭さに部屋を替えてと頼んだけど
「今日は禁煙室の空きがないので明日なら・・・」と言われ
でも何故か?すぐに慣れて部屋はそのまま三泊 -
ホテルの前 午前6時42分
こんなに朝早くから店が開いている -
北京街沿いに建つ
「ホリデイ・イン マカオ」
道向こうから写す -
上り坂「加思欄馬路」
宿泊ホテルからすぐ近くだったけど
地図と現場はなかなか一致せず
この写真の正面白いマンションがそう
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■マカオ金正男のマンションへ
6:42分ホテルから出る。最初の行き先は弟:金正恩にマレーシアで暗殺された金正男家族がマカオで暮らしていたといわれるマンションに向かう。何で?といえば「オリエンテーリング」ではないけど、興味のある場所を探し当てるのが趣味なのだ。2017/平成29年にはマレーシア・クアラルンプール国際空港の暗殺現場にも行ったし。
https://4travel.jp/travelogue/11307858
『(抜粋)正男氏は2000年代前半から、2人の内縁の妻や2人の子供とマカオで暮らしてきたとされる。少なくともマンション3軒、別荘1軒で生活の痕跡がある。ほかにも、正男氏が2番目の内縁の妻とされる女性と息子、娘の4人で暮らしたというマンションが、別荘に近いコロアネ地区とマカオ市内中心部の2カ所にあった。』
「Google・map」で中心部のマンション「嘉安閣(CA ON COURT)」を見つけてルートをプリントして持ってきた。それを見ながら歩いたが、いつも現場と地図ではなかなかピンとこない。決め手は「嘉安閣」が写った写真の背景に「グランド・リスボア・ホテル」が写っていて、その角度を探してマンションを見つけた。
坂道「加思欄馬路」沿いの古いマンションだった。お世辞にも綺麗とは言えないが中心部であり結局このマンション前を二日の間に何度も歩いて行き来した。「見つけた。へぇ~、このマンションか・・・」で、まずは達成。それからはブラブラ付近を散策。そこそこ広い道路には駐車スペースが設けられて駐車車両が並んでいる。見れば7~8割が日本車ではと思うほど日本車が多い。現代車は滞在中に数台見かけただけ。 -
残念ながら迷わず発見とはいかず
この写真の「グランド・リスボア」との角度で
方向を定めて見つけた -
マカオ宅、消えた家族
「金正男マンション」
https://www.sankei.com/world/news/170221/wor1702210042-n1.html"
マカオの金正男家族が暮らしていたマンション
「嘉安閣(CA ON COURT)」
北朝鮮の崩壊はいつなのか? -
高級時計に貴金属アクセサリー
カジノ客目当ての24時間営業なのか?
カジノは人も地域も狂わせる
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■早朝カジノに入る
適当に歩きながら早朝「7:26分」初めてカジノにちょっとビビりながら入った。そこは「新東方置地酒店」のカジノ(娯楽場)。入る時に身分証明書が必要なようでパスポートのコピーを見せたらOKだった。そしておでこに放射温度計のような光るものを当てられる。
この日は1月8日、そうか!今にして思えば、もしかしたらすでに武漢肺炎の情報がマカオには内密で入っていたのかも?ネットでのマカオカジノの解説や案内で入場時の体温測定のことは書いていないから通常はないのかも。
マカオには武漢や湖北省の中国人も沢山来ていたかもしれず。もしそうなら感染しないで帰国できて良かった。手荷物はなかったのでそのまま入場。内部の写真はダメとどの旅行記等にもあったし雰囲気的に怖さもあり自粛。
初めて見るカジノにやはり驚いた。「広いこと」「台の多いこと」「早朝なのに客がそこそこいること」・・・滞在二日間で数ヵ所のカジノを見ただけだが賭け事好きは身を亡ぼす。こんな簡単に金のやり取りをすれば地道な労働は一体どうなるの?あちこちの貴金属店も朝の7時から店開き。買ったカジノ客が買うのか?
日本でもIR法案(カジノ法案)が議論されている。このマカオでカジノを見るまでは、「在日パチンコ店を潰すためにカジノもええか・・・」と思っていたが、カジノ目当てで来る外国人から金を巻き上げるだけなら良しだが、カジノを地域経済活性化の呼び水にするのには疑問が出てきた。
これで収益を上げれば地場産業は育たずカジノの収益で例え自治体の税収が大きく膨らんでも自治体も住民もカジノ収益に狂うだけだ。 カジノ探索をしてまた部屋に戻った。まだ時間は午前7時半過ぎ。 -
カジノの周囲は電気が煌々
違う世界がここにある
何もかもが普通ではない -
置地倶楽部場(カジノ)に入る
初のカジノ潜入に緊張
おでこに放射温度計のようなものを当てられる
「マカオカジノを徹底解説♪」
https://www.wbf.co.jp/macau/kanko/macao-casino.php -
内部に入れば朝昼晩の時間の感覚は瞬時になくなる
驚くほどカジノ客がいた
みんな徹夜でやっていたのだろうか?
ふ~ん これがカジノというものか
10分ほどで出てきた -
早朝散歩から部屋に戻ってきた
2619号室の窓から下を覗く
周囲は高層ビルばかり
狭いところに高層ビルが林立し
コンクリート世界に大勢の人が暮らす
動物が生きる環境ではないなあ -
コンクリートジャングルだが食い物は豊富にある
食い物は他所から運ばれてくるから
こんな環境で人が長生きできるのは凄い -
左「ホテル・リスボア(澳門葡京酒店)」
右「「グランド・リスボア(新葡京酒店)」
並び立つ・リスボア
どちらも
澳門旅遊?樂股?囲有限公司 所有
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■マカオ半日観光ツアーの始まり
1月3日出発三日前に予約が出来た【マカオ半日観光ツアー】の集合時間は9時、場所は「ホテル・リスボア」。8時前に部屋を出てボチボチ歩いていく。
そして集合時間まで余裕があったので「ホテル・リスボア」と「グランド・リスボア」付近を散策してた。そうやってるうちに時間が近づいたが、こんどは集合場所である「ホテル・リスボア」の「西ロビー(西座)のエスカレーター前」が分からず焦った。あっちいったりこっちへいったりでやっと見つける。
その場所に同じツアー客らしき4~50代くらいの女性が一人立っていたので「半日観光の方ですか?」と尋ねたら「いや私は一日観光です」ということだった。でも結局同じツアー仲間で半日同じコースを同行した。ネット申し込みでいろんな旅行会社を経由して申し込むが、実際現地では下請けらしきガイドがまとめて案内する。
友人と二人連れの3~40代らしき女性二人と計四人グループとなった。そして8時50分集合9時出発なのにガイドは9時過ぎに遅れてきた。40代の日本人女性ガイド、マカオ滞在8年ですでにマカオの永住権を持っているらしい。でも今では「マカオ移住はヒ?サ?の関係て?ほほ?無理になっている」ようだ。
https://ijuusya.com/macau.html -
リスボアホテル傍の風景
ガイドさん曰く
おんぼろマンションに見えても
不動産価格は相当高いとのこと -
ホテル・リスボア(澳門葡京酒店)
1970年代創業の老舗ホテル
今日の半日観光の待ち合わせ場所
「西ロビー(西座)のエスカレーター前」
うろうろ探してやっと分かった -
昔の写真
ホテル・リスボア(澳門葡京酒店)
創業当時はホテル前は海だった -
「グランド・リスボア」
マカオで最も高い建築物
マカオでのランドマークに最適
52階建て・高さ258メートル・全430部屋の高級ホテル
蓮の花をイメージって? -
グランド・リスボア
一階 ロビー -
マカオで法輪功の活動が出来ているということは
「一国二制度」がまだ保たれている証になる
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■聖パウロ天主堂跡へ
午前9時14分「ホテル・リスボア」前から小型マイクロバスで半日観光へ出発。
最初に到着したのがマカオの象徴ともいうべき壁だけ残っている「①聖パウロ天主堂跡」
階段の上に壁だけが・・・。1835年1月火災により壁だけになった。その年に三吉たちがこのマカオにやってきてこの壁だけの天主堂をまじかに見た。今年2020年、まだたった185年前のことだ。私の高祖父(ひい爺さん)が生まれたのが1844年「天保十五年」なのでそんな過去のこととは思えない。
彼らが1835年12月このマカオに着いて初めてこの天主堂の壁を目にした時のことを小説「海嶺」には『「何や?壁だけや。これがセント・パウロ・チャーチか」久吉がぼやいた。と、ギュツラフが、その日本語が分かったように言った。「残念ながら、今年、大嵐の夜、火が出てこの壁一枚だけが残ったのです」「今年ですか!」音吉は、石造りの家でも、焼け落ちることがあるのかと思いながら、高い壁を見上げた。」』とある。
この天主堂が最初に建てられたのは1582年、ちょうどその年に長崎から「伊東マンショ」「千々石ミゲル」「中浦ジュリアン」「原マルティノ」の四人の天正遣欧少年使節がマカオに到着、10カ月ほどここでで過ごした。その間天主堂に隣接する学院を宿舎としこの教会で祈りを捧げていた。そのうちの三人「伊東 マンショ」「中浦ジュリアン」「原マルティノ」は1590年に日本に帰国後「天主堂」が最初に火災で焼失した1601年神学を学びに再びマカオに来ている。
そしてその翌年から天主堂の再建が始まった。日本へのキリスト教布教は『1549年に始まるザビエルによる宣教活動が、日本へのキリスト教の最初の伝来と言われている』その後、織田信長の庇護を受け信者を増やした。豊臣秀吉は「イエズス会の領土的野心」や「日本人が奴隷貿易の商品となって海外に売られている」ということなどから「バテレン(神父)追放令」を出し一部は実行されたが骨抜きの令で結局信者は若干増えていたようだ。
そして徳川家康が天下を取り『(抜粋)政権を握った徳川家康は、初期のころキリスト教の布教活動を許可・黙認しました。それは、ポルトガルやスペインとの貿易を推進するためでした。(中略)この後、キリスト教禁教令が出されるまでの約10年間は教会がいちばん充実し、発展した時代でした。』
しかし1612年に岡本大八事件が起きその翌年にキリスト教信仰の禁止を発布。家康亡き後、『(抜粋)1619年に京都で52名が殉教、1622年に長崎で55名が殉教、1623年江戸でも55名が殉教した。以後、禁教令の解除まで約250年の間、キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害されることになる。』
日本へのキリスト教の布教、その後の骨抜きの禁止、そして1619年からの厳しい弾圧が始まる。そんな時代にキリスト教絡みで多くの日本人がマカオに暮らすことになった。そして追放によってマカオにいた日本人が天主堂の再建に携わり壁の随所に日本を思わす彫刻が残されている。「菊」であり、中国語として不自然な漢字「念死者無為罪」(死者の魂に罪はない):「魔鬼是誘人為悪」(悪魔は人を悪へと誘う)等々。
この壁のあるこの付近はマカオと日本人を結ぶ場所であり往時を偲ぶ格好の場所だ。この後も何度もここに来た。壁に向かって右側に「モンテの砦」、このすぐ北側には日本人集落だった「茨林園」があり、砦の南には「豆醤里」がある。三吉たちが暮らしたギュツラフの家のそばにあった「カモンエス公園」も歩いて5分ほど。
1500年代後半の少年使節の四人もそうだが、家康が天下人になってからの1600年代前半のキリスト教弾圧・追放で当時この辺りに日本人が暮らし、それから二百年以上の時が過ぎ、1835年12月江戸時代後期に三吉たちがこの壁の前に立った。
戦跡巡りはもっと興奮するけど・・・それでも海外の日本人の足跡を巡るのは面白い。今日私はその同じ場所に立ってこの壁を見る。果たしていつまでこの壁はあるのだろうか?
壁の横に小さな祠の「②ナーチャ廟」がある。ナーチャ廟は子供の神を祀る道教寺院。1901年:明治34年建立とのこと。日露戦争開戦三年前か。日本人との関わりなくば関心もなく、その横には1569年外敵から身を守るためにポルトガル人が作った「③旧城壁」が数メートル残っている。
1632年の地図によれば「モンテの砦」と城壁でポルトガル人居住区は囲まれていたそうだ。「壁に砦、ナーチャ廟と旧城壁」この場では、この四つが世界遺産登録されている。今や世界は世界遺産だらけで年々増え続けその価値は低下する一方だ。
日本の「国立公園」「国定公園」など誰が関心を持っているのか?何でも世界基準で誰か訳の分からない連中が牛耳る世界機関?が決める。それに振り回されているのが現状だ。なかでも、お笑い種で馬鹿らしいのが日本の「寿司屋」も「和食の店」も「お好み焼き」まで「ミシュラン・ガイド」の星評価に一喜一憂する。
例え日本人が評価していたとしてもミシュランのような外国企業に上から目線の品定めを受け入れるな!ミシュランの星を自慢する老舗の寿司屋は恥を知れ!そんな寿司屋は、ただでも行かん。糞面白くない。世界に迎合するな合わせるな白人文化になびくな。
この壁を背景にガイドが「写しましょうか?」というので頼んだ。撮ってくれたが「えっ、なに、それ」というくらい、ちゃんと構えもせず粗雑にシャッターを押した。「写しましょうか・・・」と言ってくれるのは嬉しいけどがっかり。まあそれでも何枚か写してもらったが、案の定まともな写真は一、二枚。
天主堂の壁を背にすれば正面左手にオモロイ形のランドマーク:「グランド・リスボア」が聳えている。ここからの景色でマカオを感じる。この場を訪れる観光客も引きも切らず次々と。人間ウォッチングにも最高だ!撮影スポットなり。 -
1835年1月 火災により壁だけが残った
同年12月 漂流民三吉たちがこの壁を見る
185年後の2020年 同じ壁跡を後ろから見る
私のマカオ半日観光のスタートになった -
ナーチャ廟と旧城壁(左側部分)
廟は明治34年建立の道教の祠
城壁は1569年ポルトガル人が作ったが
明朝に度々破壊されるもその都度修復 -
1639年のマカオ
砦と城壁でポルトガル人居住区は囲まれていた -
ナーチャ廟を背にマカオ市街を写す
壁
グランド・リスボア
(右)中國銀行澳門分行營業中心 -
壁を背に南方向を写す
私にとってこの場所こそが
マカオの象徴であり
思い出の地になった -
良くぞこの壁を保存してくれた
1600年当初キリスト教弾圧で追われた日本人が
この教会再建に関わったと言われている
『澳門キリスト教主における日本人に関する覚書』
http://www.icm.gov.mo/rc/viewer/30017/1685 -
聖ポール天主堂跡・聖パウロ天主堂跡・サン・パウロ天主堂跡
中国語( 聖保祿大教堂遺址・大三巴牌坊・大三巴・牌坊)
ポルトガル語(Ru?・nas da Antiga Catedral de S?・o Paulo)
ここに多くの日本人の足跡がのこされている -
まず老舗の牛乳カフェ「義順鮮?垢」へ入る
牛乳は60才以降飲んでいない、飲みたくない
少量なら身体に良いのかも?だが
がぶ飲みはどう考えても異常だと思う
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■マカオ歴史地区巡り「セナド広場」に
天主堂跡までバスで来たが、ここからは歩きで散策。大三巴街→賣草地街→板樟堂街を経て1587年創建の「聖ドミニコ教会」を通り過ぎて先に老舗の牛乳カフェ「義順鮮?垢」で牛乳プリンを食べる。
60才の時、小学校の同窓会でヨーガ講師健康オタクの女性同級生と席が横になり『「乳がんと牛乳」(ジェイン・プラント著)を読んで!』と言われて読み、それ以来牛乳は飲まない。そして体調も良くなった。
「ガン」や「骨粗しょう症」になりたくなければ牛乳は控えた方が良いと思う。乳を飲む大人は人間だけだ。過酷な自然環境の中で生きる動物たちも大人が乳を飲むことはない。理由は本を読めば分かる。特に「乳がん」「前立腺がん」等になりたくなければ・・・。
牛乳プリンを食べて「④聖ドミニコ広場」に建つ「⑤聖ドミニコ教会」を見て、旧正月の準備最中の「⑥セナド広場」へと行く。広場はポルトガルの熟練工が石をウェーブ状に敷き詰めた石畳(カルサーダス)が美しい。
正面に白い建物の「⑦民政総署大楼(市政署)」、左側には1700年代後半に建てられた「⑧仁慈堂大楼」。その横には1929年建立の郵政總局が建つ。セナド広場を歩けば、こんな風景がポルトガルの風景なのか?と、思わされる建物が周囲を囲む。 -
牛乳プリン・・・とやらを初体験
たまの乳製品は美味しいけど -
セナド広場傍の牛乳カフェ「義順鮮?垢」
https://goo.gl/maps/UU16xz6m2DbszHL1A -
1587年創建の「聖ドミニコ教会」
「地球の歩き方」マカオには
『群を抜く美しさのバロック教会』
と紹介されている。中に入らず -
石畳(カルサーダス)の「セナド広場」
春節を迎える準備が始まっている
今年の春節
1月24日(金)~30日(木)7連休
正面突き当りは「市政署」 -
正面が「民政総署大楼(市政署)」
広場の南:通称「新馬路」を挟んで建つ
1940年 現在の建物になった -
市政署を背に写す
右手前 噴水の教皇境界線を示す地球儀とは?
1493年ポルトガルとスペインが世界の覇権を握り
東と西を教皇裁定で二分した境界線が示されている
その奥、白い建物が
1700年代後半に建てられた「仁慈堂大楼」
アジア最古の慈善福祉団体 現在も活動中 -
1929年建立「郵政總局」
マカオ観光の中心でもあるセナド広場
周囲を欧風建築で囲まれ、これぞマカオ -
ポルトガル⇔マカオ
えらい遠いなァ~
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■マカオって?
なんで中国大陸の海岸沿いの点のような一画にポルトガルの飛び地のようなマカオが存在してるのか?
『16世紀の半ば大航海時代の覇者ポルトガルは中国交易と布教の目的で頻繁にこの辺りに現れた。その時この周辺の海賊(倭寇?)討伐の功績が認められポルトガルにマカオの租借が認められる。
当時は日本の銀が良質安価で、ポルトガルは日本と明との中継貿易による為替差益で巨額の富を築きマカオは繁栄した。その後衰退と繁栄を繰り返している。大東亜戦争時も香港は日本軍が占領したが、ポルトガルが中立の立場をとったため日本軍はマカオには進出せず中立地帯となっていた。そして日本軍への物資調達地点となり特需景気となっていた。
香港返還の2年後1999年2月マカオも中国に返還され、以後50年間香港同様ポルトガル時代の制度が維持されることになっている。「一国二制度」ということだが香港のそれとは違って「一国三制度」とも言われている。その理由はカジノ収益だろう。
それもこれもカジノの収益が莫大となり一人あたりのGDP『(抜粋)国内総生産・・・簡単にいうと?「一人が1年間にどれだけ儲けたか?」と考えてもらって差し支えありません。』
一人あたりのGDPは「マカオ:8万2千ドル」「香港5万2千ドル」「日本3万9千ドル」。マカオの人は一人あたり日本人の倍以上稼いでいることになる。大陸中国人の一人あたりの数字はまちまちで推測の域なのだろうが「1万ドル前後?」ではとも。
マカオ住民もこのままの状態が維持できれば大陸に盾突く必要もないだろうし、シナ共産党もマカオの今の現状で十分利用価値があるのだと思う。今やシナ共産党も香港よりもマカオに価値を見出しているが、シナ共産党は香港住民の自由を奪われることへの抵抗を読み誤って大きな傷となっている。 -
市政署の内部に入り「アズレージョ」を見る
「アズレージョ」「カルサーダス」・・・か
タイルと石畳
マカオ観光に来て初めて知った
言葉もそうだが 現物も美しい
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■歩き回る
通称「新馬路(サンマーロ)」を隔てた正面の市政署の内部に入った。何を見に入ったのかというと、壁のタイル張り。「アズレージョ」を見に入った。アズレージョはポルトガル伝統の「絵タイル」のこと。マカオは「歩道も」「道標も」「壁も」至る所、石畳(カルサーダス)とタイル張り「アズレージョ」の町で美しい。
この市政署で今日のツアー集合時間に遅れた二人を待った。やってきたのは母娘連れ、母親は78才(“Mさん”)で足が悪く歩くのが大変そう。そして娘さんより大きなリュックを背負っていた。母曰く「娘に誘われて・・・」と、ご本人はみんなに迷惑を掛ける旅が申し訳ないという感じだった。これでツアー仲間は女性5人、男は私一人の計6人になった。
市政署を出て次は「⑨ドン・ペドロ5世劇場」→「⑩聖オーガスティン教会」を回ったが、この辺りも坂が多く“Mさん”のリュックを娘さんが持つなどしてペースダウンをして歩いた。そして官印局街を歩いて「⑪聖ローレンス教会」の前を通り「⑫聖ジョセフ神学院(聖若瑟修道院)」=セミナリヨ(ポルトガル語: semin?・rio)と行って「修道士育成のための初等教育機関(小神学校)」の入り口前を通過し、神学校と連結している 「サン・ジョセ修道院聖堂(聖ジョセフ教会) 」へ行く。
この教会に入るには大階段を上がっていく。手摺もないのでガイドが“Mさん”に「無理せず下で待っていてくださいね」と“Mさん”を残して上って行った。階段を上った広場に大きなガジュマルの大木が聳えていた。マカオ市内を歩いていたら良く見かけるのがこのガジュマル。『亜熱帯~熱帯地方に分布するクワ科イチジク属の常緑高木。』
日本でも『九州の屋久島と種子島以南・本州でも見ることがある。 』らしいが近年の暖冬は異常であり、もはや日本列島も亜熱帯地方に属するといっても過言でない。雨もスコールのように降り、日差しは強烈、夏は40度を超えることも珍しくない。この先どうなるのか?排出二酸化炭素が原因なのか?それとも地球の生命体としてのサイクルなのか?
100年後は如何に?本州でもガジュマルやモンキーポッドが普通に見かけるようになるのだろうか。私の動物としての感覚ではヤバイ!氷が解け海水面が上がり陸地が水没して行く。火星への脱出・移民が真剣に検討される時代は来るのか?どんな環境になろうと逞しく生き延びてくれ子々孫々の健闘を祈る!
この1757年建立の教会。何と言ってもここの目玉は「フランシスコ・ザビエル」の右腕の肘の骨が安置されていること。この時は礼拝中で中に入れず見ること叶わず。後から一人で再訪しその写真も撮った。 ザビエルは「1506年 - 1552年12月3日46才没」。骨は死後50年以上経った1614年に切断され、当初は日本に安置される予定だったが当時の日本はキリスト教弾圧最中でマカオに置かれた。
『なお耳・毛はリスボンに、歯はポルトガルに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。』・・・お釈迦さんの骨も「仏舎利」として世界に散らばっている。骨になっても未来に影響を与え続ける人物とは?私が生きた時代、私が選ぶなら一人「三島由紀夫」とする。敗戦までの日本人なら沢山いるが・・・。
この教会の次にマカオタワーで半日コースは終了となる。 -
市政署 中2階の中庭
胸像はボルトガル史上最大の詩人
「ルイス・デ・カモンエス」(1524年頃 - 1580年6月10日)
「西吹けば東にたまる落葉かな(蕪村)」
若き頃この句に衝撃を受け以後我が座右の銘とする
当たり前を当たり前に貫くことの大切さを肝に銘ず
ならぬことはならぬものです
「什の掟」に通じる
https://nisshinkan.jp/about/juu -
アップダウンが多いマカオを歩く
旅は歩きが基本 だが体力がいる
最初は足が悪いと不安そうだった年配女性だが
徐々に娘さんの意図通り?歩くうちに元気になってきた -
1860年建立「ドン・ペドロ5世劇場」
名前の由来:ポルトガル王ドン・ペドロ5世より
ペドロ5世はコレラに罹り、1861年
四弟のフェルナンドとともに24歳で死去 -
ドン・ペドロ5世劇場内部
元々男性専用アジア初の西洋式劇場 席数は約300席
以前は内部は非公開だったが
現在はコンサートや公共の催事、祝賀会などで使用されている -
聖ローレンス教会(聖老楞佐教堂/St. Lawrence's Church)
「マカオで最も壮麗な教会と知られる」とのことだが
半日ツアーの我々は前を素通りしただけ。文句ないけど -
続いて「聖ジョセフ神学院(聖若瑟修道院)」前を素通り
セミナリヨ(ポルトガル語: seminário)
「修道士育成のための初等教育機関(小神学校)」
この隣が連結している「サン・ジョセ修道院聖堂(聖ジョセフ教会)」 -
サン・ジョセ修道院聖堂(聖ジョセフ教会)
フランシスコ・ザビエルの右腕の肘の骨がある
この時は礼拝中で入場ならず -
教会の庭にガジュマルの大樹
写真の女性はツアー同行者にあらず -
龍嵩正街の北方向を写す
“Google・Map”の映像
https://goo.gl/maps/zp9UXMbJibKJE6x79
“Google・Map”は私にとって奇跡だ!
この道を南に歩いた
路上駐車の整理整頓ぶりが凄い! -
擺華巷を南に下ってバス待ち場所に向かう
半日観光の歩きは間もなく終了
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■マカオタワーへ
「龍嵩正街」→「擺華巷」と歩いてバスの待つところまで行きバスでマカオタワー前に行った。半日コースは私と女性二人連れ。一日コースは女性一人と母娘連れ。昼食はこのタワーのバイキングで食べようと思っていたが予約していないとダメだった。一日コースの人はここの昼食バイキングも含まれている。
入場券はツアーに含まれているので入場してから一期一会のツアー仲間とガイドと別れを告げて散会。午前11時半からマカオ一人歩きの始まりとなった。マカオタワー『高さは338メートルで東京タワー(333メートル)より5メートル高い。233メートルの高さから飛び降りるバンジージャンプは特に有名で、商業用バンジーとしては世界最高の高さ。』
まず58階の展望台でエレベーターを降りた。高層ビルが林立した近代都市の風景が眼下に広がっている。天正遣欧使節の少年たちや三吉が見たマカオとはまったく違う風景だろうが山並みだけは変わりようがないだろう。ここでは命綱を付けて外の回廊を歩けるようになっている(スカイウォーク)。二人の若い男女西洋人が命綱だけで平気でポーズをとったり身を乗り出して遊んでいた。
マカオタワー
https://www.howtravel.com/asia/china/macau/mac-sightseeing/mac-building/torre-de-macau/
58階からの360度の景色を堪能して今度はバンジーのある61階に上がった。ちょうど若い中国人だと思う男性が飛び降りスタンバイだったが、なかなか飛び降りない。飛び降りる瞬間を見たかったけど、私が見る場所を変えようとして目を離した時に飛び降りたので何も見れず。
展望台で30分ほど過ごし下に降りた。これからひたすら歩き回るので腹ごしらえをしてと、ちょうどそこに「Mocha cafe(摩卡美味坊:モカ・カフェ)」というレストランがあったので入る。写真付きのメニューを見て頼んだのが「Baked Pork Chop Rice」
写真では皿に盛った「トンカツ丼」のような感じだったけど、まあ似たような物が来た。量もたっぷり、味はまあまあ。お茶はサービス、値段は¥97パタカ(¥1358) -
このマイクロバスに乗った
マカオタワーが見えていた
歩いても行けそうだけど -
この入場券をもらった
タワー到着「一期一会の出会い」も終わった
ツアー同行の皆様のご多幸を祈る -
この入場券をもらった
タワー到着「一期一会の出会い」も終わった
ツアー同行の皆様のご多幸を祈る -
タイパ方向の風景
海外に「来て」「見る」は
大概が一生に一度だけ
しかし地元明石市でさえ
一生一度も行かない見ない場所が大半 -
ガラス張りの床
いまでは展望タワーに上がれば
どこにでも普通にあるけど
いろんなことが出来るようになる -
へぇ~、これが「スカイウォーク」ってやつか
公式料金:$888(約12,500円)
百万円くれるならやるけど -
バンジージャンプ(Bungy Jump)
公式料金:$3,788 = 約53,000円
本日の割引料金¥2540(約36,000円)
高いなァ、なかなか飛ばないジャンパー
目を離した隙に飛んでいた -
バンジーは待ってる人はゼロ
今日は待ち時間なしでいつでも飛べる
百万円くれるなら飛ぶけど
「マカオ・タワー」徹底ガイド
https://urtrip.jp/macau-tower/ -
この展望回廊をぐるぐる回って景色を堪能
一周動画も撮ったけど -
Mocha cafe
残念ながらマカオタワーの昼食バイキングは予約者のみ
階下に降り「Mocha cafe(摩卡美味坊:モカ・カフェ)」に入る -
「Baked Pork Chop Rice」
¥97パタカ(¥1358)
腹は膨れた -
ガイド同行の半日観光が終了して
これからが一人歩きの旅の始まり
タワー前の「西灣湖景大馬路」を歩く
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■媽閣廟へ
ここから次の目的地は決まっている。歩きで「⑬媽閣廟(マァガミャオ:Mā gé miào)」へ。ルートは「Google・map」ルート検索で徒歩22分「西灣湖景大馬路」を行く。プリントして持参してる地図を見なくてもほぼ一本道。12:40分マカオタワーをスタート、歩いてたら案内表示もあった。
タイパや大陸:珠海を対岸に見て海沿いを歩く。公園もあり歩道も整備されウォーキングには快適。だけど車の行き来は多いが、この道を歩く人なし我一人歩く。海沿いから「媽閣上街」へ入る。「媽閣廟」前到着は13:00時ちょうど。タワーから20分で着いた。
1488or1605年に建てられた「媽閣廟」は道教と仏教、他に儒教・民間信仰等も祀る混合寺院でマカオ最古の寺。『(抜粋)ポルトガル人が、はじめてマカオに上陸したのが、「媽閣廟」の岸辺でした。当時、現地の人に場所名前を尋ねると、「媽閣(ma5 gok3)」と言われたそうです。この「ma5 gok3」が「マカオ」となって、全体を「マカオ」と呼ぶようになったそうです。』
小説「海嶺」に描写がある。
『媽閣廟に行った時だった。香の煙に煤けて、真っ黒になった天井を見、岩吉はギュツラフに言った。「額の文字も読めませんね、煤けて。よほど参拝の人が多いということですね」ギュツラフは大きくうなづき、「そのとおりです。ここは漁師や船乗りが一番信仰している寺でしてね」それを聞いた音吉と久吉が、「船乗りにご利益のお寺やって。よう拝んでおかにゃなあ」と言い。岩吉と共に、丁寧に手を合わせた。』
小説だから作者「三浦綾子」の創作たが、きっと彼らはここに来てこんな場面があったと思う。媽閣廟は今も人気スポットで参拝客は多いようだ。この日もそこそこの人で賑わいがあった。 媽祖閣と書かれた参門を入ろうとした時、出てくる人と目が合い互いに「アッ!」と声が出た。
さっきまでのツアー同行者で一日コースの三人とガイドの人たちとここでバッタリ出会う。そして「お気をつけて!」と互いに挨拶しながら別れる。三吉をはじめマカオに暮らした日本人たちも一度は来ているに違いない。
三吉たちの時代は媽閣廟は海に面し水際に建っていたが1900年代初頭に埋め立てられた。今はセナド広場同様、廟の前は波状の石畳(カルサーダス)の広場「⑭バラ広場」になっている。私の海外への旅は時を超えて同じ場所に立つのが快感となる。
といっても「ふ~ん、そうか、ここか・・・」で目的達成となってしまうのだけど。媽閣廟も1988年、2016年と火災にあったが修復されて現在に至る。『主に建物と4つの古代の寺院で構成され、それぞれ本堂(正殿・石殿とも呼ばれる)、弘仁殿、観音閣、正覚禅林です。』中に入ると正殿(石殿)の前に金属製の賽銭箱があり、その上に見た感じ古~い木版が貼ってありそこに英語と日本語が書かれていた。
英語『YOUR DONATION IS HIGHLY APPRECIATED MAY WISH YOU AN UNLIMIIED BLESSING』(あなたの寄付に感謝し、あなたの永遠の祝福を願っています)
日本語『皆様方わざわざ お見えになりまして 神様の為に 線香代として この箱にご随意に 御献金下さい』・・・とは、いつの時代の日本語?
その下に『無量 功徳 楽助 随縁』これは中国語?と思えど今一分からず。ネット検索すれば日本語として意味がある。無量(計り知れない):功徳(神仏の恵み。御利益?):楽助(のんきもの):随縁(仏語。縁に従うこと)
無量、功徳は分かるけど楽助・隨縁が日本語としてあるのか・・・と、媽閣廟に来て初めて知る。とりあえず廟内を上に上に上がる。一応上れるところまで上り降りてきた。一通りゆっくり見たつもりでも20分足らず。足跡巡りもいい加減なものだ。 -
広東省珠海市(しゅかいし)を左に見ながら
歩行者のいない西灣湖景大馬路を歩く
この先を右折して媽閣上街へ -
媽閣廟に到着
“Google・Map”のルート検索徒歩22分
実際に歩いて20分・・・ほぼ当たってる
1488or1605年に建立されたマカオ最古の中国寺院 -
門前から前方を写す
建立当時は寺院前は海辺だった
埋め立てられた寺院前広場
カルサーダスの「バラ広場」も世界遺産 -
1800年後半の媽閣廟
四つのお堂がある
「弘仁殿」「観音閣」「石殿(正殿)」「正覚禅林」
中国Wikipedia:媽閣廟
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AA%BD%E7%A5%96%E9%96%A3 -
1605年建立:正殿(石殿)or“神山第一殿”
この横に変な日本語の表示がある -
上の写真「石殿」:右横の日本語掲示
『皆様方わざわざ お見えになりまして
神様の為に 線香代として
この箱にご随意に 御献金下さい』
時代を感じる日本語 -
洋船石
帰国後この写真を見て気づいた
岩に船の絵
「400年以上の歴史を持つ」と中国語Wikipediaに記載あり
ならば1835年三吉たちもこの石の船は見たはずだけど -
今日も多くの参詣者があった
私は墓参りや神社仏閣巡りは好きだが
寺とも神社とも付き合いには不熱心で
おまけに賽銭も投じる額に迷うケチだ -
一応登れるところまで上ったはずだけど
1488年建立なら天正遣欧使節(1582年)の少年たちも
1600年代、追放された隠れキリスタンたちも
ここに来たのかなァ?
それともキリスタンは仏教徒は縁切りか? -
元々は海の「バラ広場」から媽閣廟を写す
マカオタワーが頭を出す -
媽閣廟前が海だった頃のイメージ画像
媽閣廟
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4b0bb6d40100h1fm.html -
右上「港務局大樓」:1874年建立
ムーア人の兵舎?ムーア人って?
「北西アフリカのイスラム教教徒」
現在は港務局の事務所と海上警察の本部
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■マカオ歴史地区を歩きまわる
媽閣廟を出て「媽閣斜巷」を歩いて世界遺産登録『1874年にマカオの治安維持に尽力したムーア人の兵舎として建てられた「⑮港務局大樓」』を右手に見ながら「媽閣斜巷」から続く「媽閣街」を歩き「⑯鄭家大屋」を見に行った。
鄭家大屋は「マカオの世界遺産の1つ」・・・孫文にも影響を与えた19世紀の思想家:鄭觀應が住んでいた屋敷。屋敷に入ろうとしたが今は残念ながら閉館中で入れず。内部は随分広いようだ。
「媽閣街」を東に向かって左に曲がったところに「鄭家大屋」があり、右側角にリラウ広場がある。道角の空き地くらいの広さで、ここが世界遺産登録されているマカオの古跡とは露思わず。この時は通り過ぎてしまった。亜婆井街から西望洋斜巷の急坂を上ってペンニャの丘に建つ「主教山小堂(西望洋聖堂:ペンニャ教会)」へ行った。
1622年創建、現在の建物は1935年に建て替えられている。『世界遺産「マカオ歴史地区」には、22の歴史的建造物と8つの広場を含むエリアが登録されています。』・・・30ヶ所の世界遺産登録があるなかにこのペンニャ教会は登録ならず。来るには急坂を上って一苦労だが眺望良し、教会も建物としても美しく。
何でここが登録されないのか?『歴史的には十分世界遺産の価値がありながら、建て直しと増築によってリストから外れた教会です』・・・のようだ。でも眺望だけでも来る価値あり。案の定、ここで花嫁花婿の撮影会をやっていた。眺望良し絵になる教会。『かつてマカオ観光の定番観光地だった場所』というのが頷ける。マカオに来るなら来るべき場所だ。 -
「鄭家大屋」を見つけたが閉館中にて入れず
順番に探し当てるだけの散策道中 -
鄭家大屋の全容図
内部はこんなに広い
図の左端が道に面した入り口 -
ペンニャの丘に建つ
「主教山小堂(西望洋聖堂:ペンニャ教会)」へ
写真で見るより勾配は急だし
初めての道なので先行き不安
この先にあるのか?・・・と -
あっ! ここや・・・と
急坂を上り迷わず辿り着いてホッとする
土産物売りの露店が一軒 -
プライダル写真撮影中
教会も 立地も 何もかも
ここがマカオで一番素敵な教会だった
しかしながら世界遺産登録から外される -
手前「西灣湖」の南に建つマカオタワー
右:西灣大橋とタイパ:珠海市を望む
ギアの灯台がある東望洋山に対し
ここは西望洋山という -
ペンニャ教会 よく見る写真の構図
見た目もかっこいい教会だ!
マカオで私が選んだベスト4
①壁 ②モンテの砦 ③ギア要塞 ④ペンニャ教会
この四ヵ所見ずにマカオに行ったというなかれ -
内部はこんな感じ
外が良い -
リラウ広場に戻って来たけど・・・
ここが世界遺産登録の広場って言われてもなァ~
この辺りにポルトガル人が最初に住み着いたとのこと
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■リラウ広場に戻る
ペンニャ教会で30分ほど小休止。ここまで来てリラウ広場(阿婆井前地, Largo do Lilau)を角の空き地としか思わず通り過ぎていたことに気づき引き返す。上ってきた坂道を下り世界遺産登録「⑰リラウ広場」に戻る。広場は当然のように石やレンガを敷き詰めた石畳(カルサーダス)。観光客らしき人たちが広場の椅子に座ってくつろいでいた。
道路や広場の石畳(カルサーダス)がマカオで近年凄い勢いで増えているようだが、これもカジノ収益の税収増でのなせることだろう。マカオ半島の歴史地区は世界遺産ポルトガル化が進んでいる。『(抜粋)「リラウ」はポルトガル語で「山の湧き水」。昔、ここがマカオでは水源地であり、ポルトガル人が最初に住みついた土地。』
ガジュマルの大樹がある小さな公園「リラウ広場」から次は、海星中学の横の南巫圍を通って「⑱聖ローレンス教会」に到着。1558~1560年創建。現在の建物は1846年二度目の再建のもの。この二日間でマカオ歴史地区という名前で世界遺産に登録された30ヵ所のうち何ヶ所走破出来るのか?別段その数に目標はなく地図で記した場所に向かって歩く。
ポルトガルの宗教はローマカトリックなのでマカオもカトリック教会ばかり。プロテスタントの教会は唯一「モリソン教会」だけ。マカオ住民の大半は華人でポルトガル人は0.6%。そんなマカオに教会が沢山あるが「キリスト教7.2%」と、少ない。私の宗教は「八百万の神」「ご先祖様」なので、一神教にも教会にも興味なく、しかし教会に入れば厳粛な雰囲気を感じる。 -
南巫圍の狭い路地を歩く
迷路のようだが迷う怖さはない
どんな狭い道にも
必ずアズレージョの道標あり -
この壁にもアズレージョのタイル
幻覚園(高棲里)
PATIO DA ILUSAO
路地裏を探して歩けば
混ざりあった文化を感じる -
聖ローレンス教会にやってきた
世界遺産登録の場所には
このように日本語案内がある
有難い -
マカオ一壮麗と言われる「聖ローレンス教会」
1558~1560年創建時は木造
現在の建物は1846年石造りでの再建
教会近くにイギリス人画家
「ジョージ・シナリー(1774~1852年)」が住んでいた
教会前にシナリーの名前の通りがある
千年利街(ジョージ・シナリー通り)
Rua George Chinnery
https://goo.gl/maps/3D77csWdt76vNeve8 -
聖ローレンス教会の内部
教会に縁なき私にとって内部の造りはどことも同じ
美しい 荘厳 厳粛っていうのは思うけど -
教会前の道で道路工事中
工事風景を見れば、その国の水準が分かる
マカオは金持ちなので現場も整っている
作業車も“おっちゃん”たちの服装も -
フランシスコ・ザビエルの骨の展示を見に来た
ザビエルは教科書にも出てきた名前で
この名前を知らぬ日本人はいないはずだ
日本に初めてキリスト教を伝えたザビエル
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■「聖ジョセフ教会」に再訪
「聖ローレンス」を出て午前中入れなかったザビエルの骨がある「聖ジョセフ教会」に行くつもりが何故か?道に迷いドン ペドロ5世劇場の前を通り市政署の方まで行ってしまった。改めて地図を見直し引き返す。30分も余分に歩いて聖ジョセフ教会に到着。そして教会内に入りザビエルの肘の骨の展示を見ることが出来た。
教会内に入ると数名の観光客らしき人がいた。警備の人に「写真OK」とデジカメでジェスチャーしたら笑顔で頷いてくれた。正面右側に祭壇が設けられケースに入ったザビエルの肘の骨がそのまま展示されている。「フランシスコ・ザビエルは、1552年」マカオ南方の上川島(サンショアン島)で46才死亡。遺体はインドのゴアに運ばれた(1554年)。
右肘の骨は最初は聖ポール聖堂に安置されていたようだが、1835年の火災によって聖アントニオ教会に移され、現在は聖ジョセフ教会に安置されている。
Wikipedia抜粋
『遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。棺の開帳は10年に1度行われ、最新の開帳は2014年11月23日から2015年1月4日の間に行われた』ふ~ん。
ザビエルの日本人の印象について、『「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」と高評価を与えている。 』
ザビエル曰く『驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。』・・・先人に申し訳ない。昭和20年8月15日の敗戦後は誇りも名誉も顧みず情けない国家国民になった。拉致被害者を放置し奪還の勇気も覚悟もない。米国に安全保障を依存している。憲法で戦争を放棄している(戦うことを忌避した動物に生きる資格はない)。商人国家はどこまでも無様になり人間は腐る。顔も心も醜い。
経済力は重要だが、その経済を活性化するには名誉を重んずることが一番の活力になる。人間誰しも「誇り・名誉」のバックボーンがあれば元気百倍だ。一致団結勇気凛々厳しい世界情勢の中でも日本は一つの家族国家として発展する。今のように「金と似非平和」の為に卑屈に生きれば活力は出ない。
若者が結婚しないのも少子化の原因も自殺者の多いのも日本人に将来への夢や元気がないからだ。名誉を守るために戦う気概と覚悟があれば、たとえ一時的に経済力が低下しても必ずや再生する。北方四島はロシア相手だから今はまだ無理だが、尖閣に公務員常駐や竹島奪還は覚悟があれば可能だ。
不法占拠されている竹島を返さなければ日韓国交断絶するという覚悟あれば韓国も動揺するだろう。そしてそれでも返さなければ日本が断固断交を実施すれば良いだけだ。そうでなければ国土は取り返すことなどできない。それによって世界に日本の毅然とした態度を示し得る。商人国家ほどつまらん国はない。
「士農工商」商人は目先の金儲けに走る。武士は「武士は食わねど高楊枝」・・・武士に政権を託してこそ国はまともな国として存在続ける。鎌倉時代から昭和20年まで日本は武士・軍人が政権を担っていた。その上に天皇陛下の存在ありでバランスが保てる。こんな夢のような仕組みを有しているのが日本だ。
この教会でザビエルの骨の写真を撮っていた福建省から来ていた夫婦と拙い中国語で挨拶を交わした。「どこからですか?」「日本から」「福建省から」「私は一人旅です」「中国語はどこで習ったのですか?」「日本で」・・・一言でも会話が通じるとやはり嬉しい。1998年、我が家の長男の上海留学を機に私も中国語教室に通いだした。すでに20年以上、今も月に二回行っている。上達はしないが生涯学習として続ける。 -
午前中に来たときは礼拝中で入れず
中に入ったら観光客が数人来ていた
正面祭壇までの真ん中辺り
右壁際に骨が展示されている -
ケースに入れられ展示されている
ザビエルの右肘の骨
遺骸はボン・ジェズ教会に安置
右腕上膊はマカオに
耳・毛はリスボンに
歯はポルトに
胸骨の一部は東京に
などと分散して保存されている -
ザビエルの肘の祭壇
福建省からの夫婦連れ
出会いは常に奇跡なり -
「昔の遊郭あとで軒先を赤で染めた家屋が並ぶ」
確かに赤で染めた家屋が並ぶ通りだった・・・が
午後3時の通りに賑わいを感じることは出来ず
今は
「当時の街並みを残しつつレストラン街へ変貌」
ホンマかいな??静かな通りだった
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■壁に向かって歩む
ザビエルの骨を見たあと向かうのは朝一番に行った「聖パウロ天主堂跡」向かう道中に「マカオ歴史散歩」で『昔の遊郭あとで軒先を赤で染めた家屋が並ぶ』と紹介されている「副隆新街」を探して歩き、次に「地球の歩き方:マカオ」で『老舗物語今も生きる約50年前にはマカオで最も賑わう中国人の街だった』と言われる「十月初五街」を探した。
赤い軒先が並ぶ副隆新街は見つけて歩いたが「十月初五街」は分からず、いつのまにやら人で賑わう大三巴街に出て「天主堂跡の壁」に到着する。そして日本人の集落跡と言われる「茨林圍(ツーリンウェイ:Cí lín wéi)」を探す。徳川家康死亡後日本国内ではキリスト教弾圧が更に厳しくなりマカオに追放されたり逃れていた日本人の帰国も禁止されこの地で集落を作り暮らしていたと言われている。
『(抜粋)茨林圍の日本人はやがて明に追われてこの地を去り19世紀以降は中国人が住んでいる。数奇な背景を持つこの集落は地図にも記載されず外部者は寄り付かなかったという。ここには当時の日本人が掘ったという古井戸が残っている。』・・・茨林圍は壁と砦の北側にありすぐに分かった。
「地球の歩き方」マカオに紹介されているが『バラック街のようになっていて、路地が迷路のように巡っている。閉鎖的な場所であり、野良犬も多いので立ち入らない方が良い』との注意書きがある。私は5歳のころに飼い犬に腕を噛まれたトラウマがあって今も犬が怖いといいながら犬を飼っていた。柴犬「愛犬ジョン」は17年生き長寿犬表彰も受けた。でも苦手。
その茨林圍内に入って野良犬に警戒しながら路地をアチコチ巡り井戸を探したが見つけられず。途中ちょっとした空き地で茨林圍の住民の“おっちゃん”が四人ほどテーブルを置いてゲームをしていた。トランプだったと思うけど。それを見ていた一人の“おっちゃん”に「地球の歩き方」マカオの古井戸紹介の小さな写真の載っているページを見せて「この井戸どこかわかりますか?」と聞いた。
ゲーム中のみんなも手を止めて「井戸?」と言いながらちょっと考えてくれた様子だったが「ここにはない、ほかの場所だろう」ということだった。その場に大きな黒い番犬が鎖に繋がれていたがしきりに私に吠えるのでビビった。それもあって粘ることも出来ず。それに一人がこの迷路のような場所から出口まで道案内してくれたので出ていく羽目となる。
この場に来て探したことで納得することにした。しかし今思っても気になるのは彼らが「井戸」という文字を見て「いど」というような発音をしたように聞こえた。一人ではなくその場にいた数人が。「えっ?いど」と確かに言ったよな。確認すればよかったと思ったが、その場を去りそのままになった。今思えば残念だ。
もう少し粘ればよかったのにと。私が井戸を「いど」といったので彼らも「いど」と言ったのかも?だけど真相は不明。もしかしたら日本人の末裔がこの地にいたはずだし、この井戸は1980年代まで使用されていたようなので「いど」という言葉がこの茨林圍の言葉として残っていても不思議ではないはずだ。
「茨林圍」の井戸
https://gramho.com/explore-hashtag/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%AA%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3 -
福隆新街
ここを通ったというがそうだという証明写真
“Google・Map”福隆新街
https://goo.gl/maps/GQUCCRGUBhNeoDBQ8 -
十月初五街は見つけること出来ずに
壁跡に戻ってきた
壁の北側に日本人の集落跡「茨林圍」がある -
「地球の歩き方」マカオの地図
「茨林圍」が昔、日本人の集落だった
天主堂の壁跡の北側 -
日本人が作ったという井戸を探しに入って行った
茨林圍の名前の由来は日本人が食料として作っていた
じゃがいも(茨仔)からと言われている
茨林圍(PATIO DO ESPINHO)
https://goo.gl/maps/FAbLeLBDyXwchDTZ9 -
茨林圍
-
井戸を探しに、ここを降りて茨林圍に入って行く
-
茨林圍の路地を歩く
広場でトランプ遊びをしていた
4~5人の“おっさん”グループに
本を見せて井戸のことを聞いてはみたが
誰も「知らない」で、結局見つけられず -
これが日本人が作ったとされる井戸
この井戸の写真は「#マカオ世界遺産 Instagram Posts」より転載
https://gramho.com/explore-hashtag/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%AA%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3 -
天主堂に併設されていた神学校(コレジオ)跡
天正遣欧使節でローマに派遣された四人のうち3人
「伊東マンショ」「原マルティノ」「中浦ジュリアン」
1601年に神学の高等課程をこのコレジオで学んだ
そして1608年、三人はそろって司祭に叙階された。
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■モンテの砦
茨林圍を出て「モンテの砦」に向かった。砦のふもとになにやら遺跡跡が?天主堂に併設されていた神学校(コレジオ)の史跡だ。この神学校で天正遣欧使節の一行は学んでいたようだ。
マカオのコレジオ
http://coicaie-tabiji.mond.jp/mission/arekore/makau_colegio.html
『モンテの砦(大砲台)は、1617年から1626年にかけてイエズス会の修道士の手によって聖ポール天主堂とともに建造された軍事要塞』・・・神に仕える修道士が天主堂と要塞を作るのが人間の性を示している。この地球に生あるものは、命の灯が消えるその時まで、如何に生き如何に次代に繋ぐかがすべてだと思う。
良く生き、生き延びるには「徳」と「戦い」がともに不可欠だ。その意味でも修道士が戦士となってもなんらおかしくはないと私は思っている。もっとも神や仏に仕えるというのは私にはピンとこないし、まず無理だ。いくら説教されても洗脳されないと思っている。モンテの砦の大砲は海に向かって三方向に備えられているが大陸には向いていない。
『1622年にはここから放たれた大砲の弾がオランダ軍火薬庫に着弾し、勝利に貢献した。』とのこと。天主堂の壁と砦は半島の中央部にありマカオ観光の象徴だ。たった正味二日のマカオの旅で壁と砦には何度も来た。砦から夕陽を眺め昔日の日本人たちのマカオでの日々を偲ぶ。時は違えど同じ場所に立つぞ嬉しき。
砦で夕陽を眺めて博物館に入ろうと思ったが閉館まじかで入れず。 -
壁はどこから見てもその存在感は絶大だ
壁だけ残っているからこそ何故か心打つ
こんなことって他にもいろいろある -
おォ!大砲だ!
今ではおもちゃのようだけど
新兵器として登場した時は??? -
1875/明治8年 モンテの砦
1875年1月1日生まれなら今年、2020/令和2年145才
天主堂の壁は・・・どこに?? -
「グランド・リスボア」にロックオン
100年 200年で何もかもが変わる
変わらないのは人 人は進化せず -
砦より大陸に沈む夕陽を眺める
夕陽さえあればそこが何であれ美しい
神々しい夕陽はすべてを美に替える -
砦の石垣
砦が完成途中の1622年 オランダ軍がマカオに上陸
モンテ要塞の砲弾がオランダ軍弾薬庫に命中・爆発
ポルトガル軍が歴史的勝利を収めた -
聖アントニオ教会
ポルトガル軍の大尉:軍神
結婚の神として親しまれた
聖アントニオを祀る教会
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■三吉たちがマカオで暮らした所
次に向かうのは三吉たちがこのマカオ滞在中に暮らしたギュツラフ邸の近くの「カモンエス公園」。その公園に向かって歩いた。大三巴街→花王堂街へと続き徒歩5分足らずで「⑲アントニオ教会」があった。
(抜粋)『聖アントニオ教会はイエズス会が1565年マカオで最初に建てた礼拝堂の跡地に建つ。ポルトガル軍の大尉であり、軍神として親しまれた聖アントニオを祀る教会。1638年に建てられて以来3度の火災に遭い、現在の建物は1930年の完成。庭にある十字架のみが1638年の物。』
そして世界遺産登録の「⑳カモンエス広場」があって「カモンエス公園」(白鴿巣賈梅士花園:Camoes Garden and Grotto)がある。「ふ~ん、これがカモエンス公園か・・・」と一歩を踏み入る。岩吉・久吉・音吉たちが1832年11月3日美浜町から出航しまもなく漂流が始まる。14ヶ月の漂流の末米国西海岸に辿り着いたときは14人が3人になっていた。
幾多の経緯を経てマカオに着いたのは日本を出て3年後の1835年12月中旬。すぐにもマカオから日本への帰国が叶うと思いきや、このマカオで聖書の日本語訳に協力することになり二年。このカモンエス公園そばのギュツラフの家で過ごした。きっと三人はこの小さな半島の隅々まで歩いたことだろう。
この時は1600年前後に日本を追われてこの地に住んだ日本人キリスト教徒たちも、その後「明」の圧力で追い出され日本人はやがてマカオにいなくなった。小説「海嶺」にギュツラフの案内で三人がマカオを散策している様子が描かれている。
『「曲がりくねった石畳の道である。「ここが日本人町です」ギュツラフが岩吉たち三人に言った。「日本人町?日本人の町ですか?」驚く三人にギュツラフは「そうです、日本人町です」とくり返した。「では、今ここにいる人たちは・・・」三人は改めて行き交う人々を見た。
弁髪の男、白人の女、纏足でよちよち歩く女、褐色の肌ををした男、縮れた黒い髪の子供、どの一人も日本人に見えない。「今も、日本人の血を引いた人がいる筈ですよ。但し純粋な日本人は今はいないでしょう。純粋な日本人がいたのはもう二百年も昔のことですからね」ギュツラフの言葉に、三人は頷いた。』
今から400年前に日本を追われた日本人キリスト教徒たちが暮らし、200年前に三吉たちが望郷の念を抱いて日々を過ごしていた。それに比べて私は暢気な観光旅行。生まれてきた時代に感謝あるのみ。たとえ戦後日本と日本人がカスでも大正時代に生まれるより今を選ぶ。卑怯なりしもそれが我。
この公園の名前となったポルトガルの詩人:カモエンスの銅像を見て、今日はこの場を去る。もとより今日は場所の確認だけにここまで来た。私のマカオの旅の主目的の場所なので明日ゆっくりこの辺りをめぐるつもり。それにこのあと今日は聖ポール天主堂跡のライトアップを見る予定。 -
カモンエス公園の下見に来た
この時はカモエンス公園が世界遺産登録の場所だと思っていた
登録は公園ではなく公園前の広場だった。まさか?写真も撮らず
三吉たちはこの近くにあったギュツラフ邸で暮らしていた
また明日も来るけど -
ルイス・ヴァス・デ・カモンイスの胸像
(Luís Vaz de Camões、1524年頃 - 1580年6月10日)
三吉たちがマカオで暮らした1835年当時には
弁髪の男、白人の女、纏足でよちよち歩く女
褐色の肌ををした男、縮れた黒い髪の子供がいた
今は弁髪も纏足もいない -
夕闇迫るカモンエス公園から南方向を写す
ランドマーク「グランド・リスボア」が見える
どこでからでも見えるから迷う心配がない -
The Place 面面堂
店内が明るくて丸見えなので思わず中に
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■夕食を食べホテルへ戻る
公園をあとにしてすぐ花王堂街にあるレストラン「The Place 面面堂」に思わず入る。何で入ったのか?良くわからないが入った。メニューを見てサンドイッチを頼んだ。結構待たされたけど出てきたのはボリュームのあるサンドイッチ。
写真で見るより「全部食えるかなあ?」と思うほどの大きさだった。お腹一杯になった。ポテトは全部食べ切れず残した。コーラとサンドイッチで¥76パタカ(¥1064)。面面堂は夕食時なのに客が入ってこないので心配したが、私が食べ終わるころに二組の客が来て、何故か?ホッとする。
食後「聖ポール天主堂跡」のライトアップをしばし眺める。マカオの象徴が淡いライトを浴びその下に人が集う。今は弁髪の男も纏足の女もいないが、様々な肌の色や服装の人たちが手に手にスマホを持ち写真を撮っている。 人の賑わいはあるが喧噪もなく、寒くも暑くもなく、ライトアップされた「壁」の前は遥か昔と今を繋ぎ感傷に浸れる心地よさがあった。
満足し「壁」を背にして大三巴街をホテルへの帰路に就く。途中、粘りのあるトルコのソフトクリーム(ドンドゥルマ)を買って歩きながら食べる。¥30パタカ、日本円¥420円、さっきのサンドイッチに比べて高いなあと思いながら・・・。甘くはない。日本のソフトクリームの方が美味い。
帰り道は知らずともランドマークの「グランド・リスボア」がどこでも道しるべになって迷うことなし。午後7時29分部屋に戻った。部屋は綺麗になっておりベッドの上に「謝謝:thanks」と書かれたワッペンが置いてあった。それを目にし嬉しかった。
今朝は6時半から散策開始、13時間マカオを歩き回った。万歩計は「37947歩」だった。『一歩が70cmとすると、70cm×10000、1万歩で7kmになります』・・・ならば「約26、6km」歩いたことになる。我が家から三ノ宮駅まで約27km、なんどか私は徒歩5時間くらいで走破した。私の旅は歩くことなり。
明日もマカオを歩くぞ -
夫婦でやってる店のようだった
午後6時18分 こんな時間なのに
通りに面するも入って来る客がない
マカオの夜飯の外食時間はいつ頃? -
写真で見るより三倍のボリュームがあった
持って来てくれた時、全部食えるかな?と思った
サンドウィッチは全部食べたがポテトは残す
この写真で見たら全部食べても腹六分なのに
不思議 なんでやねん? -
壁のライトアップ
午後6時52分 大勢の人が壁に集まってくる
もっと遅い時間でも沢山の人がいるのかも
ここがマカオの芯であり中心だ カジノではない -
トルコのアイス
神戸の祭りの時にはこの屋台が必ずある
きっと世界中にあるのだろう -
確かに粘りがあって崩れないけど
味は日本のソフトクリームの方がおいしい -
このランドマークのお陰で
マカオ半島の散策で迷う不安は皆無
良くぞ役立ってくれた 感謝! -
部屋に入ってすぐ目についた
ベッド上にこれが置いてあった
「謝謝!tanks」
どの部屋にも置いてるのかもだけど
これ見て、嬉しかった。一人にやけた
ありがとう! -
「37947歩」
「1万歩で7km」ならば「約26、6km」
旅とは歩くことだ!万歳!
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