2020/01/07 - 2020/01/10
1014位(同エリア4949件中)
明石DSさん
曇り空の今朝
雨でなければ万歳!
今日も歩くぞ!
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マカオ
2020:令和2年1月7日(火)~1月10日(金)
3泊4日
3日目:1月9日(木):晴れ
マカオを歩く
2020.令和2年1月9日(木)
■マカオ三日目の朝!
「マカオ四日間」の旅は正味二日で二日目の今日が観光最終日となる。明日は早朝8:15分(発)便なのでホテルから空港への直行。日本時間午前6時、マカオ時間5時前後に目覚めカーテンを開け天気を確認。雲に覆われて快晴とは程遠いが雨でなければ文句はない。
温水シャワーで洗髪をし出発準備。部屋を綺麗にし午前7時24分に「今日も歩き回るぞ!」と部屋を出る。行き先は、まずはまだ行っていない日本人の足跡巡り。といっても狭いマカオ半島、まだ行っていないのは「豆醤里」の路地。
それにカモエンス公園と傍にある唯一のプロテスタント教会「モリソン教会」と墓地。最初に「豆醤里」を目指す。ホテルを出て5分で金正男が暮らしていたマンション「嘉安閣」の手前を左に曲がり「加思欄花園(サンフランシスコ庭園)」に立ち寄り、東洋望新街を北東に歩く。
魯子高街→馬大臣街(左へ)→羅憲新街(左へ)→醫院後街(突き当り左)→「大砲台斜巷」を南へ下がると左手にポルトガル総領事館がある。領事館前の道「伯多碌局長街」を西に歩いていると小学生や中学生らしき子供が緑のジャージの上下を来て登校中の姿に出くわした。
カジノの収益で税収が滑沢、高校まで義務教育:医療費は無料。マカオの教育ってどんなんだろう?『マカオの人口は92.4%が華人(華人(かじん)は、移住先の国籍を取得した中国系住民をさす。国籍を取得していない華僑とは異なる。) 』・・・そんなマカオ人は中国共産党や大陸中国人をどう思っているのだろう? わからん。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
午前7時過ぎに「ホリデイ・イン マカオ」を出る
振り返ってホテルを写す -
「加思欄馬路」の坂道を上る
前の白いマンションが金正男の館「嘉安閣」
ホテルから徒歩5分 3年前2017年に暗殺されなければ
この辺りで出会っていたかも? -
へぇ~ この道の路肩はコインパーキングなのか
最長2時間駐車可能のようだけど・・・ -
加思欄花園(サンフランシスコ庭園)
公園はどこでも石畳(カルサーダス)が美しい -
ポルトガル総領事館
かってこの辺りにポルトガル人と中国人の
居住区の境界線があったらしいが、今はその面影はない -
午前7時57分 登校中の学生
みんな同じジャージ姿で学校へ
伯多碌局長街を西へ歩く -
日本語を由来とする豆醤里(D?・u ji?・ng l?・)
小さな小さな路地の名前が「ミソ路地」
ポルトガル語で「BECO DO MISSO(ミソ)」
こんな路地に名前が・・・不思議なり
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■豆醤里(D?・u ji?・ng l?・ ドォジャオリィ)
「伯多碌局長街」から「賣草地街」へ出て北へ、そして「大砲台街」に入って目的の路地「「豆醤里」を見つけた。奥行20mほどの小さな行き止まりの路地なのか!こんな路地にちゃんと名前があり、“Google・Map”に明記されている。そして現場ではタイル貼り「アズレージョ」で写真で見ていた「豆醤里(豆醤圍)BECO DO MISSO」」の表示があった。
ポルトガル語「BECO DO MISSO」は「味噌の路地(BECO)」・・・ここはモンテの砦のすぐ南側、日本人の集落があったとされる茨林圍にも近い。この「豆醤里」を含めて日本人たちが暮らしていたところなのだろう。
茨林圍の名前の由来は「茨仔:ジャガイモ」そして「味噌」と当時のマカオで住んでいた日本人が作っていたようだ。400年前の日本人が布教のために日本にやってきた宣教師たちによってキリスト教に感化されこのマカオに追放された。
「信じる者は救われる」で彼らの一生がどうであったのか?知る由もないが宗教の力には恐れ入る。今の日本にも新興宗教のような物が沢山ある。私には無縁でありいくら勧められたり説法を聞いてもばかばかしく思うだけ。
そんな私だが宗教心は人一倍とは言わぬが人並みにはあるつもりだ。墓参が趣味、家には神棚・そして四男ゆえ位牌もないのにネット購入の仏壇を置きご先祖様を祀っている。そして朝夕「般若心経」を暗記し二度読経している。「般若心経」の「色即是空・空即是色」が気に入っている。
私の解釈では「あるけどない・ないけどある」だ。この世に永遠なるものは何もなし。そして輪廻転生を信じる。身体は死んでも土にかえり、やがて元素・原子として漂い、いずれ何かの物になるやもしれぬ。出来ることなら人として再び生まれたい。
そして私はあの世を信じる。あの世があるかなしかの議論など無用だ。あの世があると信じ、ゆえに現世をまっとうに生き抜きたい。そしてあの世から子孫の姿を眺められるものだと信じて疑わず。根拠は無用、信じる者はただ救われるのみ。
私は日々ご先祖さんに守ってもらっていることを痛感している。親が子を自分の命に替えても守りたいようにご先祖は子孫を守ってくれる。八百万の神に感謝、ご先祖に感謝が私の宗教だ。他に不要なり。しかしながら神社や寺で賽銭を入れ頭を垂れ家内安全を願う。勝手は重々承知だ。そんなことで罰を当てるような神仏は真の神仏ではない。
そんな私なのでキリスト教も仏教もどうでもよい。宗教は信じる人を救うのかもしれないが、争いの種でもある。時の権力者が解釈を都合よく変える。利用する。私に言わせれば元は一つなのに宗派が多いのが宗教の胡散臭さの証明だ。それこそ神や仏でなく生臭人間の教えなり。
生臭人間とは欲望を持つ人間のことだ。欲は無論度が過ぎなければ健全であり成長の源だ。しかし度が過ぎると悪となり際限がない。そして共産主義は悪魔の宗教なり。共産主義者は哀れな奴らでそれを信奉したり属したり束ねたりする者は人類の敵なり。
マカオ通信
http://www.macaotourism.jp/rep/talkabout.php?pubid=6&page=6&news=1
以下転載
400年前、マカオからシリアへ
味噌汁で癒し 国思う日々
400年前、1614年10月。長崎。キリスト教弾圧の嵐が吹き荒れていました。家康は天下をとって、その勢いは激しさを増すばかり。5隻のマカオ行きジャンクに宣教師23人、修道士29人、53人の日本人信者が乗りこみました。遣欧四少年使節のひとり、原マルティノも乗っていました。
追放とはいえ、神学校の生徒にとってマカオは「明治期の学生がロンドンや巴里を夢見たように、憧れの留学地だった」と遠藤周作さんは『銃と十字架』で述べています。
1カ月近い、苦しい航海で一行は新天地マカオに。マカオでは聖ポール教会と隣接する宗教学校(セミナリオ)の周辺に居を得ます。その棲み家の名残か。聖ポール天主堂跡(ファサード)近くに「豆醤里(BECO DOMISSO)」という小道が現存します。〝味噌小路〟の意味です。追放された信者やその後に迫害を逃れてマカオにやってきた日本人は市場で豆を仕入れ、味噌を作る。そして温かい味噌汁で心を休め、故郷を思ったのかもしれません。そんな名残の地名です。
マカオから大巡礼
神学校の生徒、岐部ペトロ(1587~1639)もそのとき、追放された一人です。マカオでは必ずしも日本人が歓迎されたわけでなく〝招かれざる客人〟と受けとられます。そんな空気を肌に感じた岐部は4年のマカオ滞在後、神父の道を求めてローマへ行く大巡礼の旅に発ちます。11年後にマカオに戻ってきますが、その間の足跡は次のとおりです。
マカオ~マラッカ~ゴア~(ホルムズ海峡)~バグダード~(シリア砂漠)~ダマスカス~エルサレム~ベニス~ローマ~マドリード~リスボン~(喜望峰)~ゴア~マニラ~マカオ。いったんマカオに帰着してからアユタヤ~マニラ~坊津(鹿児島)のルートで16年ぶりに日本へ戻ってきます。密入国です。
キリシタン弾圧のなか各地に身を隠し、仙台領でとらえられて江戸で処刑されます。国家、宗教、信条、情熱。これらを現代人に問いかける中世・日本人の足跡です。マカオはそんな歴史の回り舞台でした。それにしても400年もの昔、今は戦乱のシリア砂漠を横断した日本人がいたとは。(沢木)
以上転載 -
大砲台街
この通りの向かうに豆醤里があるはず・・・
この時は「どこにあるのかなァ」「どんな道かなァ」
と、いろいろ想像しながら歩いていた -
えっ! あれ、これが?あったァ~
写真では見ていたけど、なんじゃこりゃあ
こんな小さな路地なんや、え~ホンマかいな
驚きの豆醤里 -
確かに 確かに 路地の入口に
綺麗なアズレージョの表示があった
日本人の痕跡なのか?
味噌を作ってたのか? -
豆醤里入り口を背に大砲台街を写す
西方向 -
これがミソ路地「豆醤里」
良くぞ名前を残してくれた
良くぞ地図に表記してくれた
地名は歴史なり 土地や通りの改名はご法度なり -
ミソ路地は20mほどで行き止まり
日本から飛行機に乗ってこの小さな小さな路地を訪ね来る
我が家の周囲にまだ未踏の路地数々あれど 楽しきかな -
MISSO路地奥から大砲台街を写す
この小さな路地に名前があり
アズレージョの案内表記がある
遠き昔、この辺りに日本人あり
味噌を作っていたという -
グーグル・アースより
豆醤里(味噌小路)
←「大砲台街」: →「史山斜巷」
日本人と味噌 味噌汁 醤油
味噌と醤油あれば何でも日本の味覚になる -
豆醤里から東は「史山斜巷」通り
上り坂を歩く
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■豆醤里から「モンテの砦」へ
「豆醤里」の路地までが大砲台街で、そこから東は道の名称が史山斜巷に変わる。その急坂の道を上って砦に向かった。午前8時20分にはモンテの砦の上に立つ。砦の上からマカオを眺めこんどは壁の方に降りてきた。
昨日は砦もその周囲も“ゆっくり”見ていないので、今朝は高台からマカオの景色を楽しみながら壁の方に降りてきた。神学校跡の遺跡周囲をめぐり壁の前に来ると、ここは今日も朝から多くの観光客で賑わっている。
天主堂の壁跡を背景にして、ここはマカオの随一の撮影スポットだろう。人間ウォッチングが趣味の私は景色や遺跡よりも「人・人々」を飽きずに見続けることが出来る。
この壁の左側横下に透明の強化プラスチックに囲われた「礎石」のような一画があり、そこに「漢語」「ポルトガル語」「英語」「日本語」の四ヶ国語での説明文が貼り付けてある。 その日本語説明文は『みあらかは澳門が悦んで高潔な童貞聖母への奉献:1602年』と書かれてあるのが面白い。いつだれがこの日本語の解説文を作ったのだろう?
その場では「どう考えてもこの文章は日本人ではないだろう。訂正されずこのまま表示されているのも不思議だ」・・・なんて思っていたが、帰国後ネット検索すると「みあらか」は「御舎・御殿」と書いて「みあらか」と読む。そして万葉集にもこの言葉を使った歌が残されている。
万葉歌碑を訪ねて
https://tom101010.hatenablog.com/entry/2019/11/04/222207
「地球の歩き方:マカオ」には『この石碑の「マカオ市は1602年、これ(礎石)を偉大なる聖処女、御母に捧げ置く」という文面の年号記述によって、天主堂の建造年が確定された』との説明があある。
天主堂の壁そして神学校の遺跡跡、モンテの砦。この場は私にとってのマカオ観光の中心だった。でもまだこの時は砦の博物館にも行っていないし、天主堂の博物館も開館前なので、後からもう一度戻るつもりでカモエンス公園へと向かった。 -
史山斜巷から大砲台街を写す
通りの境が「豆醤里」
あの隙間が「豆醤里」
「豆醤里」に驚き
何か分からんけど感動す -
「?犠咤廟斜巷」を歩く
階段を上ればモンテの砦 -
苔むす砦跡
砦の完成は1626年
しかし完成前の1622年
マカオ侵攻を企てたオランダ軍を
この大砲が撃破しポルトガルは勝利した -
まだ午前8時21分
朝の散歩でまたも来た
マカオは散歩気分で市内周遊できる -
昨日の夕方
この場で大陸:珠海市に沈む夕陽を眺めた -
左 高層マンション 右 天主堂の壁(ファサード)
ファサード(仏: fa?・ade)とは
建築物の正面部分のことである -
マテオ・リッチ( Matteo Ricci)宣教師:中国名:利瑪竇( L?・ M?・d?・u )
( 1552年10月6日 - 1610年5月11日)
アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』は第二千年紀(1000年 - 1999年)の
もっとも偉大な百人の一人としてマテオ・リッチを選んでいる -
天主堂の横に神学校(コレジオ)が建っていた
聖ポール天主堂とコレジオの図面 -
マテオ・リッチと壁と神学校跡
400年の昔、日本人がここにいた -
壁前はいつも人がたえず
高台でもあり 雰囲気もあり
何より、この壁が人を引き付ける
壁だけ残ったからこそなり -
礎石に残された日本語
『みあらかは澳門が悦んで高潔な童貞聖母への奉献:1602年』
みあらか・・・(御殿・御舎)
「みあらかは高知らさむと・・・」万葉集にあり -
あの部分が礎石
「みあらか」・・・か
1602年の日本人が語っている日本語を聞きたいなあ
分かる言葉と分からない言葉 でも日本人なら
時代は変われど何とか意思疎通は出来るはずだ -
左:壁
マテオ・リッチの像もある
正面:モンテの砦
私にとって
ここがマカオで最高の場所だった
夕方、ライトアップを見に戻る -
全球居茶餐廳
通りすがりに思わず入った喫茶店
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■モリソン教会とプロテスタント墓地へ
大三巴斜巷→大三巴街→花王堂街を歩く。昨日夕食を食べた「The Place 面面堂」、ダイソー「日本大創百貨」の前を通り聖アントニオ教会へ。昨日の夕方も来ているし、歩いていれば徐々にマカオの街の様子も分かって来る。
花王堂街を歩いていると地元のオッサンたちが喫茶店「全球居茶餐廳」でモーニングを食べてる様子がガラス越しに見えたので吸い込まれるように店内に。サンドイッチとコーヒーを頼む。マカオの日常の風景のなかにいる自分にニヤッとしながら20分ほどの小休止。
アントニオ教会からカモエンス公園横の「?プロテスタント墓地」へ。ここにマカオ唯一のプロテスタント教会「モリソン教会」がある。墓地は1821年宣教師のモリソンの妻が亡くなり、その妻を葬る為にマカオから土地を提供してもらい墓地になった。
ロバート・モリソンは英国の宣教師。中国に派遣され、聖書を初めて中国語に翻訳した。1834年「三吉」たちがマカオに上陸する1年前に広州で亡くなりマカオに葬られた。そしてモリソンが亡くなった3年後の1837年、世に言われる「モリソン号事件」が起きる。
モリソン号事件とは、モリソンの名を付けたアメリカの商船がマカオに辿り着いていた日本人漂流民七人を乗せ日本へ帰国させるために出港。七人とは三吉たち三人と、1834年九州から船出し漂流、ルソン島から1837年にマカオに辿り着いていた四人の計七人。
『モリソン号は1837年6月2日(旧暦)にマカオを出港6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。』
七人はその後日本に一時上陸をした者はいたが、それぞれに異国で生涯を送ることになる。このモリソン号の来航によって渡辺崋山や高野長英が幕府の鎖国政策の批判をする著作を発表。渡辺・高野はその後幽閉され「蛮社の獄」に繋がっていく。
そして開国攘夷に揺れ動く江戸時代となっていった。そんなことは知る由もない「モリソン」だが、モリソン号の来航はその後の日本の行く末に大きな影響を与えることになった。
そのモリソン教会は白壁造りの簡素で小さな教会だった。内部も正面祭壇にはステンドグラスに十字が描かれているだけで何もなく、並べられた長椅子も色褪せていた。横壁には男前のモリソンの自画像なのか写真なのか?掲示されていた。
宗教施設は質素・簡素・素朴が良い。私が最も感動するのは何と言っても伊勢神宮のお社だ。日本文化の象徴なり。数百年の歳月を掛けて作った巨大で荘厳な大聖堂が世界に多々あれど日本のお社が私には一番心安らぐ。そういう意味ではモリソン教会は気に入った。
このモリソン教会の正面ステンドグラスの中に描かれた聖書。その聖書に新約聖書ヨハネの伝の冒頭の有名な一節が刻まれている。『ステンドグラスの窓には中国語で「初めに言葉ありき」と書かれた聖書が描かれています。』ちなみに三吉(岩吉、久吉、音吉)がギュツラフに協力して出来た初めての日本語翻訳の聖書には片仮名で『ハジマリニカシコイモノゴザル』と書かれている。
教会の裏手にプロテスタント墓地がある。見た目50m四方の四角い墓苑。墓管理のおじさんが花の手入れをしていた。その他誰もいない。モリソンの墓碑を“オジサン”に聞いたら「分からない、あそこで聞いて」と教会を指さされる。
自分で探そうと順番に見て歩いたらすぐに分かった。ロバート・モリソンと妻、その家族の墓碑が並んでいた。その他にも英国人画家「ジョージ・シナリー」やチャーチル首相の祖先の墓もあるようだ。
そして帰国後だが、この墓地には多くの日本と関係ある者の墓があることが分かった。それは「マカオ新教徒墓地に眠る日本物語」宮澤 眞一(著) に詳しく紹介されている。マカオのカトリック教会に日本人は埋葬されているが、このプロテスタント墓地に日本人の墓はないとのこと・・・。
しかし
『(抜粋)マカオ新教徒墓地内の墓石には、実際に、「日本」(JAPAN ないし Japan)という文字が刻まれているものが数基発見できた。或いは文字に刻まれずとも、日本に渡航したり、渡航予定であったり、幕末日本との係わりの深い人物の墓石も見受けられる』
『ペリー提督の日本遠征艦隊に参加した数々の軍艦からは、1849~1857 年にいたるまでに、約 10 名ほどの乗組員がこの墓地に埋葬さ れている。』とある。 -
木曜日の朝:9時2分
コーヒーとサンドウィッチのモーニング
一瞬でもマカオ市民になった心地よさ
一人旅って自由気ままで良い -
いいなあこの雰囲気 喫茶店だ
ここから今日の一日が始まる
地元にもあるけど車移動なので入らない
もう少し年老いて車にも乗らず、仕事もせず
そうなれば近所の喫茶店に毎朝通うかも -
アントニオ教会
昨日もここを通った
道を隔ててカモエンス公園がある -
歴史地区各所にある日本語の案内板は
マカオは日本人観光客が多い証だろう
ハングルを見ないだけでも気分良し -
プロテスタント墓地図
「マカオ新教徒墓地に眠る日本物語」より転載 -
モリソン教会(馬禮遜教堂・英国国教会)
ロバート・モリソンの中国名は馬禮遜(M?・ L?・x?・n)
マカオに残る英国史跡 -
小さな教会だった
祈りの場は簡素・質素が良い -
男前のモリソン
1834年死去のモリソン自身は知らないが
1837年
その名を付けたモリソン号の日本への来航によって
江戸から明治維新へと向かうきっかけとなった
モリソン号事件
https://nihonsi-jiten.com/morrison-incident/ -
プロテスタント墓地
元の名は英国東インド会社墓地
現在は墓地の受け入れ停止
史跡となっている -
ロバート・モリソン( Robert Morrison)の墓石
1782年1月5日 - 1834年8月1日 52才没
右斜め上の小さな墓石は
モリソン長男「James Morrison」の墓
1811年5月5日死去、墓石は他所より移設 -
左からモリソン・妻メアリー・次男ジョン
モリソン家の墓が並ぶ
「マカオ新教徒墓地に眠る日本物語」宮澤 眞一(著)
この墓地には日本物語がある(抜粋)
『「日本」(JAPAN ないし Japan)という文字が刻まれているものが数基発見
日本に渡航、渡航予定、幕末日本との係わりの深い人物の墓石も見受けられる』 -
手前より次男・妻・モリソンの墓石
妻とモリソンの間の小さな墓石が長男
正面壁際の石碑は漢文の記念碑
「馬禮遜博士去世百年祈念碑誌」
『ペリー提督の日本遠征艦隊に参加した数々の軍艦
1849~1857年、約10名ほどの乗組員がこの墓地に埋葬』
へぇ~、そうだったのか?・・・と、帰国後知る -
カーサ庭園(東方基金會會址)
元はポルトガル王室貴族「マヌエル・ペレイラ」の別荘
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■カーサ庭園とカモエンス公園へ
モリソン教会を出て次に「?カーサ庭園(東方基金會會址)」に入る。もとはポルトガルの富豪の別荘だったが18世紀後半イギリス東インド会社が借り上げ船荷監督者が住んでいた。そのピンクの邸宅は1885年マカオ政府が購入。現在は東方基金會の事務所となっている。
ここにも日本語での案内表記があった。邸宅の入り口はチェーンが掛けてあり人はいたが庭だけ見て出て行った。その横がカモエンス公園で、昨日の夕方に続いて二度目の来訪だ。公園の名前の由来はポルトガルの大詩人「ルイス。デ・カモエンス」(1524年頃 - 1580年6月10日、ポルトガル史上最大の詩人とされる人物)
カモエンス公園は『〃オットソン〃と呼ばれた曰本漂流民』宮永孝(著)や『小説「海嶺」』の中に三吉たちが1835年12月中旬、マカオに到着し、その後三年間ほどマカオで暮らすことになったギュツラフ牧師の住居のすぐ傍に『広いカモエンス公園があり、博物館があった。』との記載がある。
「ふ~ん、この辺りで三吉たちは日本への帰国を一日千秋の思いで待ちながらギュツラフの日本語翻訳に協力していたのか・・・」と。久吉・音吉が漂流を始めたのは1832年14才、13才なので、マカオに上陸したときも二人は、まだ17、16才の少年だった。
三吉がギュツラフ宅に身を寄せてからのギュツラフの手紙に『午前七時から九時まで旧約聖書の中国語訳をおこない、「それから九時半から十二時まで、二、三人の日本人の助けにより、新約の日本語翻訳に従事する。十二時より午後一時まで、右翻訳文の厳密なる訂正」。』と三吉たちの翻訳作業が書かれている。
そしてギュツラフは日本語に翻訳された聖書「約翰福音之傳」と「約翰上中下書」を完成させ1837年5月木版刷りで出版した。三吉たちがマカオで暮らし始めて一年数か月たった1837年3月、九州出身の漂流民四人『庄蔵(27才)・寿三郎(24才)・熊太郎・力松)がルソン島経由でマカオに着きギュツラフの家に引き取られ日本人は七人となる。
その七人が待ち望んだ日本への帰郷を叶える時が来たのは1837年7月3日、マカオに停泊していたモリソン号に乗船し『7月29日午前10時ごろ、船は伊豆岬から12から14マイルの地点を航行していた。雪をいただいた富士山を望見する』・・・「7月末に雪をいただいた富士山を望見」とは、やはり今の気候とは違うようだ。
モリソン号に同乗していた医療宣教師:ピーター・パーカー(1804~1888)は、日本本士を見てこおどりして喜ぶ漂流民たちのようすを描写している。
『七名の男は、ふたたび故国の海岸をみて歓喜した。かれらはやり出’し(帆船の船首に突き出ているマスト状の円材)の上に腰をおろ し、”祖国“を食い入るような目でじっと見つめ、じぶんたちが熟知している岬、島々、山などを認めると、改めて歓声をあげた。 漂流民の心は、もうすぐこの地上において最もいとしい、しかも一別以来ひじょうに長い歳月になる者たちのもとに戻れると思って、意気盛んであるようだった。』
しかし7月31日現在の横須賀野比の海岸から砲撃を受け退去を余儀なくされる。次に向かった薩摩でも帰郷は叶わず砲撃を受ける。かくて七人は断腸の思いでマカオに戻ることになった。その時帰国の望みを断ち切るために頭髪をすべて切り落とした者がいたとのこと。
薩摩の水夫:寿三郎は、その後オランダ人に託して家族に送った手紙に『まことにそのときの哀しさわれ、かえすがえすもうみやま(海山)何にもたとえることなき』と認めている。自らの責任ではなくて起きたどんな運命に直面しても人は生きていかねばならない。
北朝鮮に拉致された日本人の運命を思う。日本国と日本人は彼らを放置しままだ。大東亜戦争敗戦後からの日本が後世において日本の歴史上一番「無様で情けない時代」だったと評価されることを切に願う。そうであってほしい。
モリソン号に同乗していた米国人「サミュエル・ウェールズ・ウィリアムズ」(牧師」・言語学者)は、マカオに戻ってからの七人への思いやその後の消息を「チャイニーズ・ミッショナリ・リコーダー」に投稿している。
それによれば『七人のほとんどはいろんな仕事に仕事に従っているといい、ほとんどの者が役立つ人間だ』とあり、その後の七人の経歴は
愛知の三人
岩吉・・・のちマカオより寧波に移るが、女房が不義をはたらき、先夫の手にかかり殺されたようである。
久吉・・・のちマカオより香港に移り、1849年、イギリス商務庁に勤務した。
音吉・・・その後「米国」→「上海」へと移りデント商会の社員として活躍。シンガポールで「ベルーナ&オトソン商会」を経営し成功した。
「にっぽん音吉漂流の記」
http://www.town.aichi-mihama.lg.jp/docs/2013100806067/
薩摩の四人
庄蔵・・・のちに香港に移り洋服屋になる。
寿三郎・・マカオで死亡
熊太郎・・七名のうち一番消息不詳
力松・・・のち香港に移り、イギリス商務庁に勤務した。その後通訳として函館・長崎にも随行している。
漂流から始まり思いもよらない運命に翻弄された少年青年が180年前にこのカモエンス公園の付近で暮らしていた。その後、江戸から明治と時代は変わり日清・日露・シナ事変・大東亜戦争と日本は激動の時代だった。いや日本だけではなく20世紀は戦争の世紀でもあった、そして今、カモエンス公園にはマカオ市民や旅行者ののどかな姿がある。
公園内の石のテーブルを囲んでトランプで遊ぶ“オバチャン”グループに“おっさん”連中。泰平の世に生きるのは誰だって楽だけど・・・誇りと名誉を守ることから背を向け、誤魔化して生きる戦後日本人は不幸の極みだ。
木曜日の午前10時、カモエンス公園をボチボチ歩いて一周する。カジノで潤うマカオ市民が公園で過ごす風景はいつもこんな感じなのだろう・・・と。180年前日本人漂流民七人がここにいた。 -
1770年建立の洋館
ならば1582年マカオ着の天正遣欧使節の少年たちは知らず
1835年マカオに来てこの付近に住んでいた
三吉たちはこの建物を身近に目にし
この付近を毎日散歩していたのだろう -
カモエンス公園全景図
1835年 マカオに辿り着いた三吉たちは
この公園付近にあったギュツラフ邸に住み
聖書の日本語訳に協力して暮らしていた -
2020年のカモンエス公園
巨石?パワースポットなのか?
漂流時1832年岩吉28才、久吉14才、音吉13才
1835年マカオに上陸時「31、17、16才」なり -
カジノ収益で潤うマカオ
中近東の石油成金国と似たり
老いて楽な日々は幸福だが
若くして楽は不幸なり -
カモンエス公園から南方向を写す
マカオのランドマーク
「グランド・リスボア」
あのそばに私のホテルがある
フラフラ歩けど迷う不安なし -
聖方濟各斜巷を上り壁へと向かう
マカオ半島に名前のない路地はなし
正面:ナーチャ廟
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■再び天主堂跡へ
カモエンス公園からナーチャ廟前を通り再び壁跡へ戻る。壁跡の向こう側には天主堂の基礎部分が遺跡として保存され復元図もあった。奥には「天主教藝術博物館」と「納骨堂(墓室)」が地下にあり入って行った。「地下聖堂」「納骨堂」「墓室」と掲示があり日本語でも「これより先は神聖な場所です。どうぞお静かに」との注意が書かれていた。
納骨堂には日本人殉教者の遺骨も収められているようで入り口には日本人殉教者59名の「名前」「殉教地」「年月日」が一覧で掲示されていた。その中には1597年2月5日、豊臣秀吉の命によって長崎で磔の刑に処せられた26名「日本二十六聖人」の一人「ディエゴ喜斎」の名前もある。
日本二十六聖人記念館
http://www.26martyrs.com/
納骨堂入り口に掲示されている日本人殉教者は1500年代は1587年「ジュラン中間」と1579年「聖ディエゴ喜斎」の二人、その他の57名は1603年~1633年まで、徳川政権になってからの殉教者。二十六聖人の一人だけがここに納骨されているのは何故?
『殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた』『26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。 』とのこと。
そして『天正遣欧少年使節の一人だった「原マルティノ(60没)」は1629年10月23日にマカオで死去。遺骸はマカオの大聖堂の地下に生涯の師:天正遣欧少年使節派遣を計画・実施したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano) と共に葬られた。』とある。
『豊臣秀吉が禁教令を出した理由には諸説あり、秀吉は国内の政治と宗教のつながりを恐れていたため・・・』ともあるが私は秀吉に同感する。『宗教の定義は宗教学者の数ほどもある』とも言われ教祖によって何とでもなる。宗教に救われる場合もあるだろうが悪魔にもなり得る。
宗教はグローバルであり宗教勢力の拡大は政治勢力の拡大と同義であり、難儀なのは宗教は国を越え民族種族文化を越えてその宗教の教義に帰結する。そんな宗教が国の中で勢力を広げれば国家は独自の文化伝統を保持する独立国として統治不能になり、その宗教の勢力下に陥ってしまう。
宗教は教祖の考え方次第で政治と直結し危険極まりない。今の日本も創価学会はすでに宗教団体とは言えず政治団体だ。近所の創価学会信者の家から経を上げる声は聞こえず、選挙やごく身近な政治活動を含め勢力拡大を目指す熱心な政治団体になり果てている。私の宗教は「八百万の神」と「ご先祖様」だ。
墓室中央の花崗岩が積み重なったのはアレッサンドロ・ヴァリニャーノの墓と言われているようなので、共に葬られているということは原マルティノもこの地下に今も眠っているのだろう。
墓室の隣に小さな「天主教藝術博物館」があり展示品も数少ないがそれぞれが貴重な物のようだ。でも興味がない私には「猫に小判」であり何も分からずほぼ素通りだった。信仰の為には死をいとわない精神力には感服するが、人を救うべき神がなぜ信者に死を選ばせる?一神教は私は受け入れられない。
地下から地上に出て聖ポール天主堂跡の壁を後ろから見る。壁だけ残して焼け落ちた教会跡は基礎遺跡のある広場になっている。思えば良くぞ壁だけ残したものだ。これがあってこそのマカオであり素晴らしい観光場所となっている。 -
ファサード(壁)を潜って中へ
朝はまだ開いてなかった地下聖堂へと向かう -
聖パウロ天主堂復元図
1835年11月、三吉たちはマカオに上陸した
その年の1月、火災により壁だけとなった -
1597年2月5日
豊臣秀吉の命で長崎で磔の刑に処せられる26名の殉教者
宗教は祭りごとであり政治でもある
ましてや異国異文化の宗教の布教は禁ずべき -
朝はまだ閉館中だった地下聖堂
興味津々降りてゆく -
宗教とは洗脳であり
洗脳なくして殉教者にはなれぬ
私は洗脳されない自信がある(笑) -
真ん中:日本殉教者
26聖人の一人「ディエゴ喜斎」があったけど
他の名前は見当たらず
1587~1633年 59名の名前あり -
正面「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」の墓??
左右の棚に遺骨が納められている -
小さな「天主教藝術博物館」
興味なし -
博物館のある地下から地上に出てきて写す
こんな感じ -
イギリス人画家、ジョージ・シナリー画
(1774~1852年)
1834年の聖パウロ天主堂
1835年火災で壁だけになる一年前の姿 -
火災40年後の壁だけの姿
壁を良くぞ残してくれた -
下から壁を見上げる
存在感は半端ではない
いついつまでもこのままであれ -
モンテの丘 麓の「澳門博物館」入り口
やっと入ることが出来た
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■澳門博物館へ
次にモンテ砦にある澳門博物館に行く。博物館で一番興味深いのはマカオの昔の写真。澳門葡京酒店前が海だった頃の埋め立て前やモンテ砦が高台に聳える写真に「へぇ~こんなんだったのか・・・」と、写真を見れば今との違いが歴然だ。
博物館を出てまた壁の前に・・・。ここは相も変わらず人が多く自撮りスポットの様子をしばし眺めていた。そしてとうとうこの場を去ることにして壁を背に往来の人で一杯の大三巴街を下る。
ここからは昨日見つけることが出来なかった「地球の歩き方」マカオで「老舗物語が今も生きる」と紹介されている「十月初五街」を目指して歩いた。大三巴街の女?黒廟を目印に右に曲がって草堆街を西方向にあるく。地図にはこの通りは電気店が多いと書かれていたが、その通り。
そして今日は間違うことなく康公廟のある康公廟前地に辿り着く。道教寺院「康真君廟(康公廟)」に参詣し「十月初五街」を西に向かって歩く。この時はここからが「十月初五街」の始まりだろうと思っていたが帰国後地図を見たら、そこから北側が四分の三だった。
1910年のポルトガル革命を記念して「十月初五街」と名前がついた通りだがポルトガル的なものはないとのこと。そして歩いたのは四分の一だが、人通りも少なく「老舗物語」を感じることもなく午前中だからなのか?シャッターが閉まっている店ばかりで何の感傷もなく通り抜けてしまった。 -
1978年 撮影 42年前・・・か
「湾仔遠望澳門内港一帯」 -
こんな写真あちこちで目にしたが
モンテの砦??
背景も不可思議で壁も見当たらず -
コレジオ(神学校跡)と壁
どの角度から写真を撮っても絵になる -
400年の昔から日本人はこの天主堂を訪れていた
神学校で学んでいた日本人もいた
そして三吉たちは壁だけになったあとに来た
これからも多くの日本人がこの前に立つ
我が子孫もこの前に立つ時が来るかも?誰が?いつ? -
袋を配っていた
私ももらった マカオの土産なり
ありがとう、今 机のそばにある -
何と言っても壁前はマカオの聖地なり
この人の往来を見れば聖地巡礼の如く
往来の人波は途切れぬ -
いよいよ壁と永遠の別れなり
我生きて再び壁を見ることなし
名残惜しくも来てこそよかった -
「女?黒(読み)ジョカ」とは・・・中国古代神話上の女神
この「女?黒廟」を目印にして草堆街へ
廟とは思えない建物で一度通り過ぎた
これも廟なのか・・・と
地元では「縁結びの廟」として有名とのこと -
「十月初五街」を目指し「草堆街」を西へ歩く
草堆街は地図の解説通り電気店が多かった -
2018~19「地球の歩き方」マカオ
62.63頁見開きで紹介されている「十月初五街」
50年前はマカオで最も賑わう中国人の街だったとのこと
しかし私が歩いたのは写真「赤丸」康真君廟から西(左へ)の四分の一
人通り少なく昔の賑わいを感じるものは何もなかった -
康公廟前地に辿り着く
左奥が道教寺院「康真君廟(康公廟)」
ここから「十月初五街」に入る -
澳門博物館にて写す「康公廟前地市集」 画
19世紀「康公廟前地」は波止場に面していた
マカオで大規模偽カジノ摘発
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-2475.html
マカオ半島も今では埋め立てが進んで島の形も変わってしまった -
康公廟前地前に停車のパトカーと警察官
かっこ良すぎる!
警察車両も警察官の制服も
ポルトガル統治の影響を感じる -
期待し探して辿り着いた「十月初五街」
四分の一しか歩いてないが写真の通り
賑やかさとは程遠く寂しい通りだった -
「十月初五街」西の端
とりあえずのマカオ半島巡りの予定終了
だと、この時は思っていたが・・・ -
タクシーに初めて乗ってマカオへ
タクシーは道端で手を挙げて止めた
日本びいきの運転手と楽しいひと時を過ごす
やはり人との出会いが旅の良しあしを左右する
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■コタイのベネチアへ
マカオ半島での今日の散策予定はとりあえず終了、時は午前11時51分。さあこれからどうしよう・・・まだ時間は十分ある。ならば新都市「コタイ」のベネチアに行こうと決定。道沿いで手を上げマカオ初のタクシーに乗った。
行き先は地図で示し、車内で50代の運転手とつたない中国語で会話。「マカオの人ですか?」「そう」「家族は何人」「三人、妻と17歳の子供一人」「日本は好き、三回日本に行った」「日本のどこ?」「北海道・東京、その他地名は分からない」「温泉が好き」などなど。
マカオ人には反日感情はないように思う。私がそう感じる理由の一つは、日本車が圧倒的に多いから。もっともどこに行っても日本と日本人には大体好意的だ。中国の若者から日本への反感を感じるようになったのも10年くらい前から。嘘捏造の反日教育によるものだ。
タクシー代金は¥69(¥966)でバス停留所がならぶ「ヴェネチアン(威尼斯人)・マカオ」前に到着。ここには来る予定もなかったので何の下調べもしていないし、とりあえず入ったけど右も左も分からないまま昼なので最初に目に入った広東料理の店「海王老記」に入る。
こういう店に一人でテーブルに座ってるのは、いつもながら私だけ。「雲?湯麺(広東風ワンタン)」を頼む。量が分からないので注文は一つだけ。具入りのワンタンがスープの中に5~6個 入っていた。はたから見れば見た目寂しい昼食だが腹八分でちょうど良かった。味も良し。値段はこれだけで¥97(¥1358)。
海王老記を出て歩いているとフードコートがありビルの中に青空があった。初めての光景で空のリアルさに一瞬驚く。まるで青空の下にテーブルを置いての食事の風景に「へぇ~ こんなん初めて見るわ」だった。
何も分からず歩いているとマカオの「水の都」ベネチア(orヴェニスorベニス)があった。「ふ~ん、なかなかよく出来てるなあ」と感心しながら運河沿いを歩く。建物内に運河が流れゴンドラには観光客が乗り民族衣装を着た船頭が歌を歌いながら漕いでいる。本場ベニスといえずとも・・・なかなかのものだ。
運河沿いに歩けど歩けど運河は続く。一体どんだけの広さやねん?と思うくらい。やっと終点に辿り着いた。そして次は巨大カジノに潜入と言っても10分ほどで出てきた。見るのは飽きないけどどことも同じだし、マカオ半島に戻って最後の散策をしておきたいと思って出た。 -
ザ・ベネチアン・マカオ
まったく予備知識なく、とりあず来た
右も左も分からず -
ここに入って行った
ザ・ベネチアン・マカオ
所有は米国:ラスベガス・サンズ -
入ってすぐに見つけた広東料理の店「海王老記」
-
「雲?湯麺(広東風ワンタン)」
しょぼい昼食と言うなかれ
これで腹八分ちょうど良い -
前もって写真も見ていなかったのでこの天井に驚く
なかなかリアル 日本にもこんなんあるのかなァ?
どうなってるの? -
建物内部に水路を作ってゴンドラを浮かばせる・・・か
こんな途方もないことを最初に考えて
「ザ・ベネチアン・マカオ」が出来たんだろうなあ
「ディズニーランド」といい「USJ」といい
GoogleもアマゾンもYouTubeも・・・・
悔しいけれど白人の発想と実行力には敬意を表す -
この建物内部 一体どうなってるの?
どこまで続くこの運河?歩けど歩けど運河は続く
全容は不明のまま帰国す -
カジノも巨大だった
欧米人の姿はスタッフ以外皆無?
カジノは大金持ちの遊び也
コツコツ働いて給与を得る者
そんな貧乏人はするべからず -
このバス停から無料バスに乗ってマカオ半島に戻る
このバス停の係員“オバチャン”優しくなかった
旅先での親切は本当に嬉しいけど、その反対は落ち込む
私も日本では心しよう 国籍問わず親切にしなければ
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■コタイから「ホリデイ・イン マカオ」へ
時間は午後2時。さあここからどうやって戻ろう。その時にはすでにパタカの手持ちも少なくなりタクシーで戻る金も不安になっていた。明日ホテルから空港までのタクシー料金100パタカを財布に残しておかないといけないし、夕飯代も必要だしと。
バス停係員の何人かに聞いたが分かるように教えてはくれず。諦め祈る気持ちで適当に乗ったバスだったがマカオ半島のフェリーターミナルまでのシャトルバスに乗ることが出来た。マカオとタイパを結ぶ三本の橋、その東端にある友誼大橋(フレンドシップ大橋)をバスは快走、高い橋上からの眺めも最高で17分でターミナル到着。
私のマカオでのランドマーク「グランド・リスボア」が見えてるので歩きでも不安はないが、ターミナルにもホテルへのシャトル便乗り場があった。ラッキーこれで戻ろうとバスを探したら 「グランド・リスボア」行きがちょうどあってちゃっかり乗車。15分ほどで到着。 -
係員の“オバチャン”に聞いたけど
分かるようには教えてもらえず
祈る気持ちで適当に乗った
どこでも良いから半島に渡れますように -
半島に戻れる!
友誼大橋(フレンドシップ大橋)をバスは快走
眺望最高!このバスに乗れて良かった! -
右端が澳門外港客運碼頭(フェリーターミナル)
正面小高い山が松山(東望洋山)ギア要塞・灯台 -
左端に小さくランドマーク:「グランド・リスボア」が見える
歩いてでも戻れるけど、ここにもホテルシャトル便あり
ラッキー!「グランド・リスボア」のバスに乗る -
フェリーターミナルから15分ほどで
「グランド・リスボア」前に到着
マカオ三日目 だいぶ慣れた -
ホテル傍に輪タク集団が客待ち
金持ちマカオでこんな仕事は
大陸からの出稼ぎ者なのだろうか?
それとも運動がてら暇つぶしの小遣い稼ぎ? -
「ホリデイ・イン マカオ」からギア灯台へ
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■ギアの要塞・ギア灯台へ
ホテルに戻って小休止せずに「グランド・リスボア」前からマカオの最も高い所にある砦(標高92m)ギアの要塞・ギア灯台とギア教会に向かう。ちなみにモンテの砦は標高52m。またも金正男マンションの前の加思欄馬路から白頭馬路を歩き嶺南中學横を通って地厘工程師馬路(松山馬路)を上がった。
「ギア」って名前はなんや?と思ったが「マカオ歴史散歩」菊間潤吾(著)によれば『この丘は外港に直面しており、海上の防衛には最適なところだったのだろう。オランダに対抗する砦であったが、皮肉なことにその建築はオランダ人の捕虜の労働によるものであった。そして、捕虜たちをまとめていたオランダ人技術者の名前を取り、「ギアの砦」と呼ばれるようになったという。』へェ~、そうなんか・・・。
ここは松山市政公園及二龍喉公園となっているようで丘にはギア要塞としての砲台も残り防空洞展示廊がある。そして教会・灯台があり眺望も抜群。上りながらマカオを去る前にここに来ることにして本当に良かったと思った。私にとって高台からの風景は何にも代え難い。
水池斜坡から東望洋斜坡を経てギア砲台(東望洋砲台)、東望洋山(松山)の山頂にあることからの名称。地元の人は「松山砲台」と呼ぶそうだ。ここは長い間軍事禁止区域とされ、1976年にポルトガル軍がマカオから撤退し砲台が観光地として解放された。
砲台と教会は1622年建設、そして1865年に作られた極東で最も古いと言われる灯台、鐘楼もありで最近メンテナンスしたのか教会も灯台も白塗りの色も鮮やかで美しい。ここはなかなかの観光スポットだ。日本最古の洋式灯台は1869/明治2年に作られた観音埼灯台(神奈川県)。
日本の灯台
https://www.tokokai.org/lighthouse/japanlist01/
しばし灯台のある山頂で高台からのマカオ市街地の風景を楽しみ下に降りたら「松山軍用隊道」があり入って行った。隊道の壁には昔の写真が掲示されていた。ギア砲台の写真もモンテの砦の昔の写真で見ればよく分かる。
そして出口付近に一葉の写真が・・・それは第二次世界大戦時に日本の将軍がマカオを訪問した時の写真だった。将軍の名前はなかったが堂々とした日本軍人の姿は威厳があり誇らしげだ。今の日本人ににこんな姿はない。侍も軍人もみんな消えてしまった。今いるのは貧相な日本人ばかりなり。
40分近く松山砲台にいた。マカオに来る前には予定してなかったここに来れたことに喜び満足し降りてゆく。 -
何度も通った加思欄馬路
正面白いマンション嘉安閣の前を通りギア要塞に向かう -
ホテルを2時37分頃に出て嶺南中學前2時51分
まだ歩き始めて14分
随分歩いたような気がしたけど -
時代を感じる瀟洒な建物があった
「聯合國大學計算與社會研究所」
なんと
「United Nations University Institute on Computing and Society」
「国連大学コンピューティング社会研究所」 -
ここは当初来る予定はなかった
東望洋斜坡を上ってギア要塞へ -
ギア要塞(砲台)跡
1638年完成、地元華人は松山砲台と呼ぶ
マカオ半島で最も高い標高92mにある -
砲台と教会と灯台
最近塗り換えられたのか?色美しい
灯台は1865年に作られ極東で最も古いと言われる
日本最古の洋式灯台は1869/明治2年完成:観音埼灯台 -
92mといえどマカオの最高峰
眺望すこぶる良し、ここは予定外の場所だったが
マカオ観光最後に運よくこれて本当に良かった -
大砲も今ではオモチャだが、最新兵器であった時代がある
核兵器を凌駕する大量破壊兵器とはどんなものなのだろう
核兵器保有国が多々ある今、世界規模の戦争は想像できない
なにがなんでも日本は一日も早く核保有国になるべき
現行憲法廃棄・新憲法創憲若しくは明治帝国憲法改正
私のゆるぎない確固たる主義主張なり -
ギア教会「聖母雪地殿教堂」 1622年建立
『ポルトガルの田舎町にあるような礼拝堂』
そんな紹介の通りの雰囲気がある教会だ、 -
内部もシンプルで気に入った
フラスコ画が有名なのに目にとまったはずだが
その時は予備知識なく、写真も写さず記憶もなし -
下を覗けば要塞・砦を感じる
今では・・・
『米中ハイテク争奪戦の核心は「サイバー兵士」』
砦も要塞も戦車も不要になり生身の兵士もいない
そんな戦場はどこに?どこで戦うのか? -
カルサーダス(石畳)の美しい塔石広場
澳門中央図書館、その向こうに聖ミカエル墓地
マカオの風景が眼下に広がる
“Google・Map”はホンマ凄い! -
松山軍用隊道へ入る
これぞ要塞の入り口なり
満州のソ連国境沿いの関東軍要塞を思い出す
海拉爾・東寧・虎頭・黒河・勝山・五頂山 等々
要塞の想像を絶する規模 完成度の高さに驚いた
日本の国力・国民の力を結集しての要塞ばかり
当時の日本国と日本人に万感の敬意を表す -
防空洞展示廊
要塞隊道に写真が掲示
写真は情報の塊
昔々の写真こそ面白い -
発電機や弾薬庫、休憩室などがある
1976年ポルトガル軍撤退後、観光地になった
マカオの戦い「ポルトガルvsオランダ」
1622年6月22日 - 6月24日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 -
第二次世界大戦中にマカオ訪問の日本軍将官
立ち居振る舞い堂々と国を背負っての姿なり
武士・軍人あればこそ国は国として存続し得る
軍人なく商人ばかりになれば国は劣化の限り
金は大事だが誇りと名誉守らねば惨めなり -
松山市政公園に来て良かったと満足し帰路に就く
マカオの三大観光地
「壁」「モンテの砦」「ギアの砦」
高いところから街全体を見るのが一番
高過ぎず低過ぎず程よい高さ、ペンニャ教会も
「モンハの丘」も行きたかったけど -
華士古達伽馬花園(バスコダガマ公園)
社会か地理か歴史の授業で知ってる名前
学校で習った名前はいつまでも記憶にある
バスコ・ダ・ガマ
(1460年頃-1524年12月没)
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■バスコ・ダ・ガマ公園からホテルに戻る
帰路は往路と違って東望洋斜巷を歩く。「華士古達伽馬花園:Jardim Vasco da Gama」バスコダガマ公園があった。
『バスコ・ダ・ガマ公園は、バスコ・ダ・ガマが1898年にインド航路発見400年を記念して作られた』『バスコ・ダ・ガマはヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。』
本人はマカオに来たことはないようだが、ポルトガルの英雄の偉業を讃え作られた。ふ~ん、この公園は1704/明治31年日露開戦6年前に出来た古い公園なのか。
公園から馬大臣街を歩き西方向に羅憲新街に入ってすぐ「蔡佬記:珈琲粥麺」という喫茶と中華の店のようなところに入った。ホットドックあり喫茶店風でもあるし、おでんもあり中華メニューもいろいろある。なんでもありのレストラン?
選ぶのも難しく無難な「焼き飯」を頼んだ。焼き飯(¥38)に飲み物はミルク紅茶(¥8.5)合計¥47(658円)は高くはない。訳わからんけど、ここではそんなこと誰も気にしない。 焼き飯とミルク紅茶の夕飯で終わってしまった。どうも食事だけはいつもうまくいかない。
帰る途中小学校前が人だかり。下校時には必ず父兄が迎えにくるのだろう。日本ではこういった光景はない。私が小さいころには「人さらいに会うで」とか「サーカスに売られるで」とか、そんな言葉で脅かされたりがあったけど、それも遠い昔話になった。
午後4時45分「ホリデイ・イン マカオ」に戻りマカオ三日目の散策は一応終了となった。 -
路地に入れば大陸中国と似たり、人の性根は違うと思う
マカオの人口は92.4%が華人 -
左の店「蔡佬記:珈琲粥麺」に入る
ここで夕食を食べる -
喫茶店のようだけど食事メニューもめちゃ多い
何を頼んで良いのか分からず焼き飯を頼む -
ガイドなしの海外一人旅の食事は難しい
食事への情熱がない、とりあえず食うと
食が大切なのは分かっているけど
薬は毒・食い物が薬 -
やっと戻ってきた
「グランド・リスボア」が目印なり
マカオ半島では歩き廻りで不安なし -
午後4時半
小学校の下校時間
お迎えで賑わう -
2619号室は綺麗になっていた
金さえあれば何でも出来るのか?
世の夫婦、収入に関わらず
揉めたり喧嘩の種は金・金 -
マカオ観光最後の最後にもう一度
日本人ゆかりの地?長崎街へと行った
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■長崎街とカジノ見学
でも部屋でじっとは出来ず5時過ぎに出て、初日の夜に行った長崎街へと向かう。明るい時にもう一度見ておこうと思って。この時は長崎街は日本人ゆかりの地だと思っていたから・・・。
帰国後この「長崎街」は、新たな埋立地の「通り」に世界の都市の名前を付けたことが分かり「なんや、そうやったんか」と拍子抜けしたが。その時はこの辺りに日本人の生活の場があったのかと、感傷的な気分で歩いていた。
明るくて人通りも少ない長崎街を歩き、最後はどこに?と、考えて決めた行き先はカジノ。「グランド・リスボア」へと向かう。午後6時前にカジノに入り、見るだけでアッチに行ったりこっちに行ったりと、カジノ台にたむろして金を賭けて一喜一憂の中国人男女の姿を観察していた。
ゲームによって「ミニマムベット(MIN BET):最小掛け金」「マックスベット(MAX BET):最大掛け金」が違う。周りながらマックス掛け金の多い台を探して見ていた。私が見た台で最大のは¥800000HKD(香港ドル)¥11,317,360日本円。一回の勝負で千百三十万円が負ければ消える。勝てば二千二百六十万円に!その台では最小が¥2000HKD:¥28,293日本円。
300HKD:¥4,243日本円が最小で最大が2000HKD:28,292日本円の台もあった。ラスベガスのカジノは知らないが、ここは中国人ばかり。白人は一人も見かけず。日本人もいるのだろうが分からない。客が伏せたトランプを見る時はトランプの端を容赦なく折る。これではトランプは一回使えば捨てるのか?
『これぞ「ザ・マカオ!」チャイナカジノの真髄を体感できる黄金のカジノホテル:https://マカオのカジノ.net/Grand-Lisboa.html
こんなもので国や地方自治体の懐が潤うのは「楽は苦の種苦は楽の種」で、良いことは何一つない。博打は法律違反でヤクザのしのぎとして裏街道だけで良い・・・と、マカオでカジノを見てIR法案には反対の立場になりかけたが、帰国後パチンコの売り上げをネットで見て「IR導入パチンコ潰せ」が、最終的に私の意見となった。
パチンコ売り上げ
『帝国データバンクの調べによると、2018年のパチンコホール経営業者1892社の売上高は前年比3.9%減の計15兆8438億円となり、4年連続の減少となった。』
いくら四年減少となってもパチンコは至るとこにあり、これこそ在日韓国朝鮮企業としか思わず日本に不要だ。日本に三ヶ所程度のカジノ導入によってパチンコ店が潰れた方が日本にとって有益だ。そしてカジノは日本及び欧米資本に限る。
「グランド・リスボア」のカジノでの人間ウオッチングも結局30分もおらずに出てきた。午後6時11分、マカオでの観光は万事予定終了。明日の帰国を残すのみ。海外旅行に行くようになってからずっとだが、明日は帰国となればいつも嬉しい。まだ帰りたくないなァ~は、一度もなし。
今日の歩数計は「29673歩=約21km」なり。明日の朝は4時起床。片づけて寝る。 -
このあたりは埋め立て後の新市街
道に世界の都市の名前を付けたとのこと -
「グランド・リスボア」のカジノ見学へ
ベネチア・カジノも巨大だったけど -
この渡り廊下の突き当りがカジノ入り口
2012年マカオのカジノ産業全体の売上げ
約3,052億パタカ(約375億米ドル)
ラスベガスの約4倍の規模に成長 -
30分足らずのカジノ見学で退散
台によって違うけど
掛け金マックス:¥800000HKD(香港ドル)¥11,317,360日本円
一回の勝負で千百三十万円が負ければ消える。勝てば二千二百六十万円に!
その台では最小が¥2000HKD:¥28,293日本円。 -
町の景観の基調は赤と黄 赤っぽい
たまにはこんなんもいいけど
わびさび文化とは相容れない -
「ホリデイ・イン マカオ」に戻ってきた
マカオ三泊四日の旅は明日早朝帰国するだけ
満足満足 -
歩数計は「29673歩」
「1万歩で7km」ならば約21km
昨日26k 今日21k
マカオ二日で計47kmよく歩いた 満足なり
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