2014/09/17 - 2014/09/21
4位(同エリア1053件中)
SamShinobuさん
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- 旅行記113冊
- クチコミ1件
- Q&A回答1件
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旅順
人口21万人ほどの、この小さな町の名前を知らない日本人はいない。なぜなら、ここは日清・日露戦争のまさにクライマックスと言っていい激戦地だったからだ。
かつては寂れた漁村にすぎなかった旅順が中国史にその名を刻むようになったのは、1878年に李鴻章が北洋艦隊の本拠地として軍港を築いた時からだろう。
そして1894年、日清戦争では乃木希典の歩兵第一旅団がわずか一日で旅順を陥落し、この働きによって、10年後の日露戦争では乃木は再び旅順攻略の司令官に任命された。しかしこの時すでにロシアはコンクリートで固めた難攻不落の要塞を築き上げており、かの有名な203高地では死屍累々の死闘を繰り広げ、日本軍は5,000人の戦死者を出してしまう。
近年、旅順は中国海軍基地があるため軍事機密地域に指定され、中心市街地や軍港周辺の外国人の立ち入りが禁止されていた。2008年にこの地を訪れた時は、旅行社の車で203高地と水師営のみ連れて行ってもらい、市内は車から降りることすら許されなかった。
翌年の2009年にようやく外国人にも開放され、一部を除いて勝手に歩き回れるようになったので、今回は自分の足で、歴史という運命に翻弄されたかつての小さな漁港めぐりを堪能してみよう。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
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旅順行きのバス
ホテルから大連駅まで歩き、地下通路で反対側の北口に出る。駅前広場の北の端に、旅順行のバス停とキップ売り場がある。切符代は7元プラス保険代の1元で、合計8元だ。直行便のキップを買い、旅順行と書かれたバスに乗り込む。その運転手にキップを見せると「後ろのバス!」と言われ、訳が分からずその後方に停まっていたバスに乗ると、ここでも「違う!」と言われた。「はあ?」と思ったが、さらに後ろの方に歩いて行くと、「旅順行」と書かれたバス停がある。まだバスは来ていなかったので、そこに並んでいた女子大生風の2人組にチケットを見せて、「このバスでいいんですか?」と英語で聞いてみた。すると、ここで大丈夫ですよとの返事。どうも前の2台は各停の旅順行だったようだ。ただ、その後衝撃の一言が。一人の女の子がもう一人に小声で「なんで中国人なのに英語で話しかけてくるの?」と言っていた。いえいえ中国人じゃないんですけど。 -
バスは8時35分に出発し途中3ヶ所ほど停車し、10時5分に旅順バスターミナルに到着した。冷房のないバスは、蒸し風呂のようだった。
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闖関東影視城
バスターミナルからタクシーで「闖関東影視城」に向う。タクシーのドアを開け、行き先を告げると20元だという。「メーターは?」と訊くと、「いやなら乗るな」というような顔をする。きっと10元位で行ける距離だと思うが、ここは時間のほうが大切なので「可以」(いいよ)と言って、乗り込む。10分程で到着。何もない山道を走ってきたが、タクシーを降りるとバス停もないし、客待ちのタクシーもいない。帰りが心配になるが、まあ何とかなるだろう。 -
ここは中国で2009年からオンエアされた「闖関東中篇」(全55話)というドラマの撮影の為に、1200万元かけて作られたオープンセットだ。
面積4万㎡の広大な敷地は、現在もドラマ・映画の撮影に使われ、一般公開もされている知る人ぞ知る映画村である。入場料:40元。 -
1930~1940年代の歴史背景で作られており、その時代の古い建物を忠実に再現しているので、なかなかのリアル感である。
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僕は20年近く映画関係の仕事に従事していたので、撮影所に来るとやはり血が騒いでしまう。全て回ると結構大変だが、時間を忘れて隈なく見学した。
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この「闖関東中篇」というドラマは、当然関東軍が悪者に描かれているようで、セットからもその悪意が感じ取れ興味深かった。
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見学が終わり正面の駐車場に出たが、やはりタクシーは1台も停まっていない。山道を上がってくる途中にバス停があったが、そこまで歩く気もしない。こんな時は、困った顔でぶらぶらする。すると思った通り、普通のセダン車からお兄ちゃんが下りてきて、「どこに行く?」と話しかけてくる。要するに白タクである。「旅順駅」というと、「20元」と言う。先ほどのタクシーと一緒だ。即OKして、乗り込んだ。もちろんこれは最終手段だ。
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旅順駅
ネットの時刻表によれば、大連行は1日2本しかないということなので、夕方の列車の切符を買おうと思ったが、行ってみると、つい最近廃線になっていた(涙)。ロシアが作った100年前の駅舎も見たかったので無駄足ではないが、旅順~大連間を走る古い列車と車窓の風景を楽しみにしていたので残念である。 -
旅順駅
1903年に営業開始した旅順駅は、中国国内でも最も古い駅のひとつで、軍港が近いので以前は外国人が近づくことも禁止されていた。潮の香りが漂う、素敵な駅舎だ。 -
旅順駅
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軍港遊園
旅順駅から5~6分歩くと「軍港遊園」に着く。 -
軍港遊園
遼東半島の先端に位置している旅順港に面した公園は、左手に黄金山、右手に老鉄山に挟まれ、旅順港閉塞作戦の戦場を間近で見ることができる。閉塞作戦とは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい。日露戦争時、旅順港の一番狭い湾口に日本の古い戦艦を沈めて、ロシアの戦艦を身動きできないようにしようとしたが、失敗に終わった作戦だ。しかし、この時沈めた21艘の艦船は、今も沈んだままなのだろうか。沈没船を引き上げるには、莫大な費用と労力がかかるが、中国がそれをしたとは到底思えない。そう考えると、旅順湾口の海底には日本やロシアの戦艦だらけかもしれない。ちょっと浪漫! -
軍港遊園
園内には、日露戦争時、ロシア軍が使用した92mm連射砲や、203高地で出土した砲弾などが展示してある建物もある。 -
軍港遊園
湾内に停泊している軍艦も見えるので写真を撮ったが、数年前なら考えられないことだ。 -
軍港遊園
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軍港遊園からタクシーで旅順博物館に向かう。博物館の前でタクシーを降りたが、昼も過ぎて空腹なことに気が付いたので、食事をするところを探して少し歩く。するとラウンドアバウトの交差点があり、古い地図にはレーニン広場と書かれている。こんなところでも、ロシアが三国干渉で大連・旅順を得て、街作りを進めた歴史を実感することができる。すると先程のタクシーがわざわざ戻って来て、「博物館はあっち!」と親切に教えてくれたが、「吃飯、吃飯」(食事です)と言うと、納得して、手を振ってくれた。
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向陽馿肉館
レーニン広場の周りに小さな食堂が3~4軒ありどこに入るか迷ったが、思い切って一番汚い店に決めた。どこか惹かれるところがあったのだろう。メニューを見てもよく分からず、ここは無難な麺にしようと思ったが、店主がやたらと「馿肉餃子」を推してくる。馿肉?と思って電子辞書で調べてみると、なんと「ロバ肉」らしい。そして、よく見ると店名も「馿肉店」と書いてあり、ここはロバ肉専門店だった。中国では、「天では龍の肉、地上ではロバの肉」が一番美味しいという言い伝えがあるが、ここは腹をくくって、人生初のロバ肉に挑戦することにした。店主推薦の「ロバ肉蒸し餃子」と「ロバ肉麺」を注文し、外のテーブルで食べることにした。 -
向陽馿肉館
メニュー -
向陽馿肉館
「ロバ肉餃子」をニンニクの醤油だれにつけて食べてみると、これが実に旨い。店主が「どうだ!」という顔でこちらを見ている。 -
麺のほうは相変わらず量が多くてびっくりだが、上に載っているのはまさにロバ肉だ。恐る恐る口にすると、これが軟らかいビーフジャーキーのような味でコクがあり美味しい。昼ビールですっかり気分も良くなった。
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向陽馿肉館
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旅順博物館
日本版インディ・ジョーンズはなんと浄土真宗本願寺22代法王だった。大谷光瑞は、若い頃イギリスに留学しすっかり西洋かぶれしてしまって、帰国後、門徒にオルガンに合わせて「讃美歌」ならぬ「賛仏歌」を歌わせる傍若無人ぶりを発揮する。さすがに皆の反感を買い、法王の座を弟に譲ると、何を思ったのか突然探検家になると言い出して、シルクロードへ発掘の旅に出た。ここ旅順博物館は、その大谷光瑞が1902年か1914年に発掘したお宝をメインに展示している博物館なのだ。もともとはロシア将校クラブとして起工され未完成のままだったが、1917年に日本が考古館としてオープンさせた。 -
旅順博物館
本来は入館料が20元だが、今日は身分証明書があれば無料だと言う。パスポートでもいいかと訊くとOKだそうだ。展示の目玉は、大谷がトルファンから持ち帰った6体のミイラだ。展示は2体だけだったが、さすがに気味悪い。じっと見ていると、魂が吸い取られそうだ。館内は見学者がほとんどいなかったので、静かに見て回ることができた。それにしても日本の敗戦後、ソ連の接収時代や文化大革命など激動の時代を通して、よく収蔵品が守られたかと思う。 -
旅順博物館
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旅順博物館
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関東軍司令部
旅順博物館の敷地内にあり、博物館の正面の建物がそうだ。今は「関東軍司令部博物館」になっており、司令室や関東軍の武器の展示もあり、写真パネルの説明は、関東軍があんな酷いことをした、こんな悪いことをしたという内容のオンパレードだ。 -
関東軍司令部
1932年に満州国が成立し、関東軍司令部はその首都・長春に移転した。それまではここが泣く子も黙る関東軍の本拠地だった。関東軍とは陸軍の一部だが、なぜ関東軍は天皇の意思に反してまで、ここまで暴走することが出来たのだろうか。昭和天皇は、張作霖爆殺事件の時、その真相について曖昧な説明で誤魔化そうとした田中義一首相に辞任を求めたり、満州事変からも対米開戦までずっと平和協調主義をとっていた。にもかかわらず関東軍が強気に出られたのは、中国大陸の鉱山の利権や満州の農業・工業に日本経済の命運がかかっていたからなのかもしれない。 -
関東軍司令部
昭和天皇といえば、宮内庁が24年かけて編纂した「昭和天皇実録」を、ついに公開した。新たに見つかった側近の日記など膨大な資料に基づく初めての公式記録集で、戦前から戦後の激動の時代を歩んだ昭和天皇の生涯が詳細に記録されている。その中でも軍部暴走への苦悩の心情がつづられているが、自分が興味を惹かれたのは、天皇が生涯に亘って鑑賞した映画が記されていることだ。それによると、1944年12月には、木下惠介監督の「陸軍」(松竹)を鑑賞されている。この映画は、田中絹代演じる母が出征する息子を走りながら見送るクライマックスに、陸軍が「戦意高揚にふさわしくない」とクレームをつけ、木下監督は次回作を干されたといういわくつきの作品だ。新聞などマスコミの煽情もあって、日本国民全体が対米開戦という熱病に浮かされていた時、最後まで戦争回避を主張していた天皇は、どんな思いでこの作品を御覧になられたのだろうか。 -
粛親王邸・川島芳子旧居
ここも一歩遅かった。つい最近、完全に壊してちょっと昔風な建物に建て替えてしまっていた。今は「粛親王陳列館」の開館準備中だった。今までは観光客もほとんど訪れない古い屋敷だったのを、ひとつの観光名所にしたかったのだろうが、せめて建物は多少のリノベーションを施しても残して欲しかった。ここは川島芳子の実父・粛親王の邸宅で、川島芳子の実家である。 -
旅順ヤマトホテル
2013年、ヤマトホテルに宿泊することを目的のひとつとして、瀋陽、長春、ハルピンの旧ヤマトホテルを泊まり歩いた。大連の旧ヤマトホテル「大連賓館」は以前宿泊したことがあるので、この旅順ヤマトホテルに泊まれば、満鉄が経営していた現存する旧ヤマトホテルを制覇したことになる。しかし、旅順の旧ヤマトホテルは招待所という安ホテルになっており外国人の宿泊はできないと聞いていた。それでもせめて内部を見学できればと思い今回訪れたが、ここも最近営業をやめてしまったようだ。ロックされた扉から内部を覗くと、かなり傷み朽果てていた。 -
旅順ヤマトホテル
このホテルには、1931年に溥儀が宿泊している。溥儀は、1909年に3歳で清朝皇帝になったが、1911年の辛亥革命によって帝位を奪われる。その後も紫禁城に住んでいたが、1924年にそこも追い出され、日本の保護下で天津に暮らしていた。1931年に「満州事変」が起き、関東軍は「満州国」建国の為に溥儀を担ぎ出し、また溥儀も清朝復活と皇帝への返り咲きを夢見て、満州へと向かう。その際、まず営口経由で旅順に向かったが、営口ではあの甘粕正彦が溥儀を待っていた。旅順に着くと、ヤマトホテルの2階で1か月ほど滞在し、その後ヤマトホテルから5分程の所にある「粛親王邸」に移る。
続いて、天津に置いてきた皇后の婉容を脱出させる為に、粛親王の実娘・川島芳子が日本人商社マンになりすまし、婉容はその愛人ということにして大連行の貨物船に乗り込んだ。この男装の麗人・川島芳子も、この旅順ヤマトホテルで1927年に蒙古の王子と結婚式を挙げたが、この結婚はうまくいかず3年ほどで離婚している。 -
ホテルの横では、市が立っており野菜、果物、魚介類などが並んでいた。市をぶらぶらしたがとてものんびりしていて、活気というよりはゆったりした時間が流れていた。
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旅順師範学堂
ヤマトホテルの隣りには、旧師範学堂の立派な建物がある。1901年にアメリカ人が建て、日本統治時代は教員の育成学校、高校など様々な教育施設だった。戦後は病院として使われていたようだが、今は廃屋となっている。
市場のおじさんがこの歴史的建造物の壁に立小便をしているのを見つけた。注意しようかとも思ったが、子供のころからここで小便してるのかもしれないと思ったら、余計なお世話だろうと諦めた。 -
三輪タクシー
来た時と同じバスで大連に戻り、バスを降りたところからホテルまで、とってもかわいい三輪タクシーに乗った。 -
もちろんメーターなどなく、15元と言われたが相場がわからないのでOKした。乗り心地は決していいものではないが、小さ過ぎる車体は振動も凄くて楽しい。ホテルまではあっという間に着いた。
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路面電車
大連市内にはとてもレトロな路面電車が走行している。大連駅を通る201号線は、一部の車両が1937年日本車両製のDL3000型で、現在も現役で走っている。この大連市電は1909年から徐々に開通していき、最大時は13路線あったが、今は2路線となっている。それでも大連名物のひとつとして観光客を楽しませるだけでなく、市民にとっては大事な足だ。料金はどこまで行っても1元(約18円)で乗車時に支払う。ただし大連駅を跨いで乗る時は追加料金としてさらに1元かかる。全ての停留所に泊まるので、降車ボタンはない。運転手、車掌の大半は女性である。 -
ホテルから経典生活のある民主広場まで、この路面電車に乗った。乗ったのがちょうどDL3000型だったので、嬉しくて写真を撮っていたら民主広場で降りるのを忘れてしまい、それならそれで構わないのでずっと乗っていた。
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大連居酒屋めぐり
1軒目『銀』
路面電車の心地よさに思わず遠くまで行ってしまい、戻ってくるのに時間がかかって大変だった。今日は、とりあえずハンサムで料理の上手い料理人に会いに「銀」に行く。また料理人の目の前のカウンターに陣取る。一昨日はかなり忙しかったので、彼は調理に奮闘していたが、今日はそれほど忙しくなさそうだったので、「料理が上手いからまた来たよ」というと、ほんの少し照れた様子だった。少し話をすると、彼は日本には行ったことがないが、大連の日本料理店で10年以上働いていると言っていた。サラダと天ぷらの盛り合せを頼む。サラダの和風ドレッシングがとても美味しいので、そう言うと、「日本人には評判良いけど、中国人にはどうも受けがよくない」と言う。和風ドレッシングの味の奥深さは、残念ながら中国人には難しいと思う。店の女の子が、9月は忙しくてまだ一日も休んでいないと言っていた。よく働くなあ。 -
2軒目『味吉』
お好み焼きが食べたくなって、また新規開拓。ここは、昨日行った「あきよし」の姉妹店だ。 -
豚モダン焼きを頼んでみた。味は悪くないが、ちょっと何か違う。お好み焼きの上に麺が載っている感じで、生地が厚過ぎるのだ。誰か、モダン焼きの作り方を教えてあげて。量が多かったので、死ぬほど満腹になった。
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3軒目『AQUA BAR』
昨日「桂馬」のOさんが、「8時から系列のBARで働いているので来てください」と言っていたので、覗いてみる。9時近かったが、Oさんはまだいないようなので聞いてみると、「今日は桂馬が忙しいので、まだ桂馬にいます」とのこと。女の子が電話して呼ぼうとしているので、「わざわざ呼ばなくていいよ」と言うと、「彼女もこっちのBARのほうが忙しくないので、喜んで来ますよ」と笑う。なるほど。僕が、「桂馬とこのBARは経営者が一緒って聞いたけど、日本人?」と訊ねると、その女の子が「オーナーは中国人の女性です」と言う。「やり手だね、居酒屋とBAR、2軒も持ってるなんて」と感心して言うと、その子が恥ずかしそうに「実は、オーナーは私です」と。驚いてよく見たら、昨晩「桂馬」にいたママだった。 -
2014年9月20日
李老湯拉面
今日の朝食もホテルのブッフェではなくて、外で食べてみようと思う。天津街の方向に歩いて行くと、美味しそうな食堂がある。ちょっと覗くと、職人が麺を打っており、麺生地を両手で手延べしている。ぶんぶんと振り回して、4本が8本、16本、32本、64本とどんどん細い面が出来てくる。これは美味しいに違いないと思い、入店。とりあえず、オーソドックスな「肉醤面」(8元=140円)を注文。すると、注文を受けてから、麺を打ち始める。あっという間に細長くなった麺を、強火で沸騰している鍋へ投入して、すぐ完成。 -
出てきた麺は中国の麺にしては腰があって、やはり思った通り美味しい。テーブルの上に、生のニンニクが丸ごとごっそり置いてあるが、見ているとそのまま食べる人もいる。朝からニンニク丸かじりとは凄いな!偶然入った店でも、期待以上の麺が食べられて嬉しくなった。
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星海公園(旧星が浦)
タクシーで星海公園に向う。ここは砂浜ではなく砂利浜で、砂利が大きめなので裸足だと痛そうだ。泳いでいるおじさんや釣りに興じている人もいる。ボランティアの若者たちが清掃をしており、ごみはほとんど落ちていない。潮風に吹かれながら、海の家で買ったビールを飲むのは実に気持ちがいい。 -
星海公園(旧星が浦)
ここは昔、星が浦と呼ばれ、1909年に満鉄が人工海岸として造営し、星が浦ヤマトホテル・海水浴場・ゴルフ場などを併せ持った総合リゾートとして開発された。現在の星海公園の2~3倍あったそうだ。残念ながら星が浦ヤマトホテルは取り壊されて現存していない。 -
星海公園(旧星が浦)
甘粕正彦は星が浦に自宅を構え、ここに家族を住まわせて、自身は新京ヤマトホテルを常宿としていた。昨年長春を訪れた際は、甘粕の足跡を追って新京ヤマトホテルや彼が理事長をしていた満州映画協会にも行ったが、自宅のあったこの星が浦も一度訪れたかったのだ。 -
2階建てバス(16路)でぎょうざの王将(三八広場店)へ
星海公園で朝ビールに酔いつつ、甘粕の生きた時代に思いを馳せた後、大連に出店している「ぎょうざの王将」に行くべく、2階建てバスに乗った。すばやく2階に上ると、一番前の席をゲット。かぶりつきで、流れる風景を見ながら市内に戻る。2階建てのバスも、1元(約18円)である。1元でこの席はとてもお得である。 -
三八広場のぎょうざの王将に着くと、日本語で「いらっしゃいませ」と言われ、ファミレスのような店内を席まで案内される。
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とりあえず、生ビールと餃子、レバニラ炒めを頼む。餃子は9元(約160円)だ。この餃子、日本の王将より美味しかった。にんにくの多い半生のあんがたっぷり入っていてジューシー、自分の好みの餃子だ。(現在は閉店)
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大連港
タクシーで大連港に向かったが、港湾広場を抜け、港に近づくにつれて、「あれ?」と思った。大連名物のひとつ、港の巨大ターミナルが消えて無くなっているのだ。かつては5,000人を収容した待合室は、映画「ラストエンペラー」で、溥儀がジョンスン先生と別れるシーンを撮影した歴史的建造物である。また、やってしまったな! -
かろうじて、その前にあった埠頭事務所(1916年築)は残っていた。
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大連港
当時、この埠頭は東洋一の自由貿易港だった。5本あった各埠頭には全て満州鉄道のレールが引き込まれており、船からじかに汽車へ貨物を移せる近代的な港だった。1909年92月、夏目漱石はここに降り立った。ここで漱石は「苦力(クーリー)」と呼ばれている港湾労働者を見て、「一人見ても汚らしいが、二人寄るとなお見苦しい、こう沢山かたまるとさらに不体裁である」と表現しているが、この立派な港に心を動かされるよりも、そういう処にまず目がいくのがなんとも漱石らしい。
大連港は「満州」の玄関であり、船を降りるとすぐそばの大連駅から満鉄に乗って長春、後にはハルピンまで行くことができた。大勢の日本人がなぜか引き寄せられるように「満州」へ海を渡ってやって来た。そして敗戦後には、ここ大連港から引揚船に乗って、やはり大勢の日本人が帰国したが、中には落語家の円生や志ん生のようになかなか引揚船に乗れなくて、大連でしばらく燻っていた者も多かった。 -
15庫
ターミナルは無くなってしまったが、その横の埠頭に4階建ての「15庫」が出現した。まるで、お台場のような作りで、海に面している店舗はレストランかカフェが多い。どの店もデッキにパラソルとテーブルを出し、外で食事ができるようになっている。中国とは思えない程静かでお洒落な空間だ。 -
ここの4階にある「小景珈琲」というカフェに入り、コーヒーを飲んだ。また小雨が降ってきたので、外ではなく窓際のテーブルでこの旅行記のメモを書いていると、店員の女性が「日本人ですか?」と日本語で話しかけてくる。少し会話したが、大連は本当に日本好きが多い。
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大連居酒屋めぐり
1軒目『銀』
すっかり常連になった「銀」に入り、いつもの席、ハンサムな料理人の目の前のカウンターに座る。清潔な調理場で無駄なく動く彼の包丁さばきを見るのも、この店の楽しみだ。今日は思い切って刺身を食べてみよう。まず、アワビ、赤貝、ウニを注文する。すると店の子が小声で「今日のウニはあまり美味しくないです」と教えてくれる。常連の特権だ。「では、アワビ2個と赤貝お願いします」と、なんとも贅沢なつまみ。もちろん新鮮でめちゃくちゃ旨い。ビールがすすむ。 -
メニューを見ると「鰻蒲焼き」と書いてある。鰻があるのか。注文すると、やはり時間がかかるという。鰻はこうでなければいけない。いくらでも待つというと、女の子が笑う。料理人はなかなか笑ってくれない。ようやく焼きたての鰻が出てくると、この鰻、かなり肉厚でボリュームがある。「大きいねえ!」と言うと、日本のとは種類が違うらしい。しかし味は変わらないし、肝心のたれも美味しくて、ほくほくの鰻でお腹がいっぱいになった。
あの料理人がちょうどまかない飯の時間になり、どんぶりにご飯を山のようによそい、その上にこぼれそうになるほどジャガイモの煮つけをのせて、外のテーブルで食べ始めた。そこで一緒に写真を撮ってもらった。店の子が、「笑って!」と言うと、ようやく彼の笑顔が見られた。 -
2軒目『愛妻家』
もう鰻で満腹だったので、あさりの酒蒸しと枝豆に黒霧島を頼む。カウンター越しに調理を見ていたら、どうも手際が悪い。「銀」の料理人とは雲泥の差である。忙しくもないのに、時間ばかりかかり、やっと出来たかと思えば案の定美味しくない。早々に退散することにして、隣の「AQUA BAR」へ。 -
3軒目『AQUA BAR』
店に入ると、ママとOさんがいる。ジャックダニエルのロックを貰い、今日一日の報告をした。やはり、この店は落ち着く。 -
4軒目『夜話BAR』
最後に天津街まで歩いて、初日にお邪魔したスナックに行く。Hママは、「〇〇さん、また来てくれたのね!」と、こちらの名前がすぐ出てくるところはさすがである。店の子に今回の旅行のエピソードを話していると、「言ってくれたらいつでもガイドしたのに」と言われた。もちろんその積りなら初めから頼むことはできたが、ひとりが気楽でいいのだ。それに今回の旅も昨年の中国東北地方と同様、独力でどこまで出来るかを試したかった。最後の夜だったので、カラオケも歌いまくり、すっかりご機嫌になってホテルに戻った。 -
2014年9月21日
李老湯拉面
ホテルのブッフェでコーヒーだけ飲み、また昨日行った手延べ麺のに行く。今日は、「鶏蛋炒面」(たまごやきそば)を食べてみる。麺がもちもちで美味しい。麺を延ばしているのが面白くて写真を撮っていたら、店の子に「どこの国の人ですか?」と訊かれ、「日本人」と答える。この店に日本人客は珍しいらしく、こちらを見る目が輝いている。「前のホテルですか?旅行ですか?」と、例によって質問攻めにあった。 -
李老湯拉面
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李老湯拉面
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李老湯拉面
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中山公園
中国には、「中山公園」や「中山路」など、孫文を記念して作られた場所が各地にある。孫文は1911年に辛亥革命を起こし、276年続いた清朝を倒して、共和国家・中華民国を樹立した。号を中山といい、中国では本名の孫文よりも、孫中山と言われることが多い。
なぜ中山かというと、孫文が袁世凱との戦いに敗れ日本に亡命していた時、日比谷公園の近くに住んでおり、その近所に「中山」という邸宅があった。なぜか孫文はその「中山」という表札を見てえらく気に入ったようで、「今日から私は孫中山だ!」と言ったという嘘のような本当の話。孫文、子供か!
日比谷公園と言えば、園内にある洋食屋「松本楼」が有名だが、孫文はこの松本楼で、支援者の梅屋庄吉とたびたび会っている。梅屋庄吉は、映画会社・日活の創始者として莫大な財産があり、ある時孫文と意気投合し、「君は兵を、私は財を」と約束し、現在の貨幣価値でいうと、1兆円以上の援助をしたらしい。1兆円以上ってマジかーと思ったが、Wikipediaにもそう書いてある。 -
中山公園
さて、大連の中山公園だが、毎週土日は骨董市が開かれており、ちょうど日曜日だったので結構賑わっていた。観光客向けではないので、ぼったくりも少なく価格交渉もゆるい感じでいい。 -
中山公園
とても広い公園で、園内では太極拳やダンス、胡弓を弾く人、地面に水で書く青空習字など中国の公園ならではの光景がずっと続く。野菜や果物の露天販売もあり、なんとリンゴがキロ5元(約90円)で売られていた。 -
中山公園
当てもなく歩き回っていたら大きな広場に出て、その真ん中に孫文の像が立っていた。 -
エピローグ
満州国とはいったい何だったのだろうか。一部の軍部、政治家を除いては、満州国は日本の植民地ではなく、多民族が平等に暮らす「五族協和」という理念のもとに生まれた、理想の国家だと信じられていた。志ある人々は、列強各国が中国を食い物にしてきたそれまでの歴史とは違う、公平な政治が行われる平和で楽しい「王道楽土」を目指していたはずだ。しかし、結局は日本も他の侵略国と変わらず、欺瞞に満ちた「五族協和」・「王道楽土」は幻想に過ぎなかった。
そのことに苦悩していた李香蘭は、1944年に満映を退社する決心をする。でも満映の看板女優が辞めると言ったらきっと甘粕理事長は激怒するに違いない。恐る恐る「私は中国人になりすましていることが、もうできません。これ以上、李香蘭としての生活には耐えられません」というと、甘粕は引き留めるどころか、「長い間ご苦労様でした。あなたの将来は長い。できるなら日本映画界で発展してください。くれぐれもからだを大事にして、自分の道を進んでください」と言ったそうだ。
今回、旅の直前に李香蘭の訃報を聞き、その激動の人生に思いを馳せながらの追悼の旅になった。満州国とは何だったのだろうかと考えた時、まさに李香蘭の人生が象徴しているとも思える。日本人にもかかわらず中国人として生きなければならず、常に自分のアイデンティティに悩み続けた李香蘭。いくら独立国家だと日本が言っても、日本の傀儡国家に過ぎなかった満州国もまた、国家としてのアイデンティティに苦しんでいたのではないだろうか。
日本から満州に入る玄関口だった大連は、大陸に渡ってきた人々の様々な思惑や野望が渦巻く中国の中の日本だった。満州国と同様、敗戦と同時に儚い夢のように租借地としての大連は消滅した。それから今年で69年。東京は関東大震災と東京大空襲、そしてその後の経済復興によって当時の建物はほとんど残っていないが、大連には、ここがかつて日本だったことを証明してくれる建築物等が、数多く残っているのである。しかし、それももう時間の問題かもしれない。中国の発展は多くの歪みを内包しつつもまだまだ続き、今までは手つかずで放置されていた歴史的に価値のある建物も、中国の急激な経済成長によって、何のためらいもなく失われていくだろう。
この旅では、かつてそこにあった中国の中の日本をこの目で確かめ、そして今の大連を肌で感じることができたのでとても幸せだった。
また、いつかこの地を訪れるその日を夢見つつ、この旅行記を終える。
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