2014/09/17 - 2014/09/21
3位(同エリア1068件中)
SamShinobuさん
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- 旅行記132冊
- クチコミ1件
- Q&A回答1件
- 214,527アクセス
- フォロワー118人
サザンオールスターズの「流れる雲を追いかけて」という曲は戦前の大連を歌った歌だ。
「見果てぬ夢を追って」大連までやってきた若い2人が、銀座をも凌ぐと言われた「連鎖街」で「手に手をつなぎ」、「ダンスホール」で踊る夢のような日々を過していた。しかし戦争の影が忍び寄り、彼は戦争に動員され、彼女はひとりで女の子を出産。この歌は異国の地で幼い娘を連れながら、彼を待つ女性の切なさを歌った歌だと思われる。
当時国内で食い詰めても大陸に渡れば一攫千金のチャンスがあると、そんな夢を「大連」は抱かせてくれる街だった。しかしその夢も日本の敗戦によって、まるで風船が破裂してしまうがごとく、一夜にして消えてしまったのだ。この歌を聴くと、その頃の大連が偲ばれて胸が熱くなる。
日本が日露戦争に勝利し、大連を租借地にしてから終戦までの40年間、ここはまさに「日本」だった。それも東京をぎゅっとコンパクトにしたような最先端をいく街で、当時の大連には国際都市・上海とはまた違う魅力があった。
もしタイムスリップが可能なら1930年代後半の大連に行ってみたいが、今でも当時の面影が残る場所が数多くあるので、想像力を全開にして80年前の日本人が「夢うつつ」に彷徨ったこの街を歩いてみたい。
旅の始まりは、やはり旧ヤマトホテルの大連賓館からだろう。
街中に飛び交う中国語の毒気に当りながら、なぜか不思議と心地良くなっていく感覚は自分でも説明しがたいが、きっと自分にとって中国が第二の故郷になりつつあるのかもしれない。
大連は過去に何度も訪れているが、いずれも仕事だったのと、「旅順」に関してはその頃はまだ外国人に開放されていなかったため、203高地と水師営をこっそりと見ただけだった。
今回は、「大連」「旅順」ともじっくり時間をかけて、自分の足で回ってみようと思う。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2014年9月17日
大連は坂の多い街なので、中国の都市にしては珍しく自転車をほとんど見かけない。また街の清掃に徹底的に拘っており、道にごみが落ちていない。この2点においてだけでも、中国っぽくない。
街が綺麗なのには理由があって、以前大連の多くの国有企業が潰れてしまった時に、その社員たちを市の清掃員として再雇用したのだ。多分、市長か共産党のお偉いさんが、「それなら皆、清掃員として雇ったらどうかね」とかテキトーなことを言ったんだと思う。だから大連には必要以上に街の清掃員が溢れている。
また、夏に中国でよく見かける上半身裸のおじさんも大連には少ない。なんと市の法律で、すべてのドライバーや工事従事者に上半身裸になるを厳しく禁止しているのだ。でも考えてみたら、そんなこと法律で取り締まること自体が笑えるが。
というわけで、「北方の香港」とまで呼ばれる大連の街路の美しさや、そこに住む人々の風紀は近年著しく改善されている。 -
超市(スーパーマーケット)
ホテルのそばにあった超市に買出しに行った。超市というのはそのまま直訳してスーパーマーケットという意味だが、ここはスーパーと言っても3坪くらいしかないバラック小屋だ。ビール4本とミネラルウォーター4本買って、32元(約580円)と言われたので、100元札を出したら、58元しかお釣りをよこさない。こいつ、日本人だと思って釣銭をごまかす確信犯だ。ただ、こちらも大連に着いたばかりで、まだ戦闘モードになっていなかったので、「お釣り、違うよ」としか言えなかった。店員のお兄ちゃんは悪びれもせず、10元札をこちらに投げるように渡した笑。
さて、おかげで気合いのスイッチも入ったので、街歩きに繰り出すか。 -
大連賓館(旧ヤマトホテル)
竣工1914年3月。祝!100周年!南満州鉄道が経営した高級ホテルチェーンの旗艦店だ。なにしろ満鉄本社のすぐそばにある。
大連を訪れた要人のほとんどがこのホテルに宿泊した。完成まで4年の歳月を費やし満鉄が威信をかけて建設しただけあって、100年経てもルネサンス様式のその威厳は、他の歴史的建造物を圧倒している。
当時このホテルのルーフガーデンから大広場(現・中山広場)を見下ろしながら、アイスクリームを食べるのが流行だったようだ。その頃の写真を見ると、このルーフガーデンから、パリのエトワール広場(現・シャルル・ド・ゴール広場)に倣って作られた円形広場を見物している着物姿の婦人たちが写っている。 -
ホテルの正面入り口に立つと、100年の風雪に耐えた唐草模様のキャノピーが迎えてくれる。
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100年回り続けていた回転ドアからロビーに入ると、左側にフロントがある。
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右側奥には、ホテルの客人を一人残らず見続けてきた虎のブロンズ像が鎮座している。この空間にいるだけでめまいがするほど嬉しくなる。
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「ホテル内見学ツアー有」の看板を見つけて、フロントで「我想参観」(見学したいのですが)というと、50元で男のガイドが案内してくれた。このガイド、ホテルに雇われているにしては、どこか胡散臭い。案内されたのは、「宴会場」と「迎賓庁」、そしてラストエンペラー溥儀の宿泊した208号室の3か所だ。
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宴会場では、ちょうどドラマの撮影をしていた。
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ガイドがその舞台でかつて李香蘭が「夜来香」を歌ったと言っていたが、そうではない。李香蘭が歌ったのは、ヤマトホテル時代、大広間として使用していた「迎賓庁」の方である。以前BS日テレの「クラシックホテル憧憬」という番組で、このホテルの副総経理の張氏が「迎賓庁の舞台でかつて李香蘭が歌った」と当時の様子を詳しく話していたのだ。それをガイドに言うと、「知らない」と逆切れされた。
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大連賓館のカフェ
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2階にあるカフェは、夜はクラブになる。珈琲を飲みながら、ここの窓から中山広場を眺めるのは実に気持ちいい。一瞬1930年代にいるような気分にさせてくれる。30元(540円)の珈琲は安くはないが、場所代と思えば納得できる。
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大連賓館の廊下
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勝利橋(旧日本橋)
ここは日本統治時代は「日本橋」と呼ばれていた。
サザンの「流れる雲を追いかけて」の歌詞に出てくる「大連の橋の上」というのは、間違いなくこの橋のことだろう。
1908年に大連港からの鉄道を跨ぐ形で、関東都督府が建設したものだ。この橋を渡るとロシア風情街が広がっている。 -
東清鉄道社屋(現・大連芸術展覧館)
ロシア人街入り口に建っている瀟洒な建物は大連芸術展覧館で、かつてロシアが中国に敷いた東清鉄道の事務所だった。北九州市の門司港にこの建物のレプリカが建っている。写真で見比べてみるとそっくりだ。門司港のは、1994年に大連との友好都市締結15周年を記念して建てられたものである。面白いのは、その後この本家である大連の建物は一度取り壊されてしまうが、何を思ったか1996年に、今度は門司のレプリカを模倣して建替えられている。きっと歴史的価値も何も考えずに壊してしまい、すぐ後悔したが後の祭り。その時、誰かが「そうだ、確か日本にここのレプリカがあったはず・・・」と思い出し、「それと同じに作ればいいじゃん!」と言ったのかもしれない。その真偽は分からないが、あり得そうで笑える。 -
ロシア風情街
かつてのロシア人街に現在ロシア人は住んでいない。今は、ロシアが建てた一部の建築物と、その後それっぽく建てたロシア風の土産物屋が並ぶ観光地だ。ハルピンではまだそれらしかったマトリョーシカも、大連までくると粗悪な偽物ばかりが陳列されている。それでも異国情緒漂う通りをそぞろ歩きしていると、ほんの一時とはいえ、ここがロシアの租借地だったということが偲ばれてくる。 -
ロシア風情街
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満鉄初代本社
ロシア風情街の突き当たりに小さな円形広場があり、その正面に実に立派な建物がある。このルネッサンス様式の建物は、1900年にロシアが東清鉄道事務所として建造し、1902年には市役所になる。1905年に日露戦争に勝利した日本は、まずこの建物を満鉄の初代本社にするが、1908年に魯迅路に満鉄本社を移転すると、今度はヤマトホテルとして経営していく。その後、中山広場に正式なヤマトホテルができると、最後は博物館として使用され、1998年以降は使われていないため廃墟となっている。 -
夏目漱石の旅行記「満韓ところどころ」によると、友人である満鉄総裁の中村是公に、「満鉄っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら」「お前もよっぱど馬鹿だな(中略)今度いっしょに連れて行ってやろうか」と言われて、大連に渡ったとある。大連に着いて「社の宿屋ですから」と言われたのが、ちょうどここがヤマトホテルとして営業していた時だ。ということで、夏目漱石は今はすっかり朽果てたこの建物に、1909年9月に宿泊しているのだ。
ヤマトホテルに中村是公が訪ねてくると、漱石は「この宿は少し窮屈だね。浴衣でぶらぶらする事は禁制なんだろう」と文句を言っている。すると是公に「ここが嫌なら遼東ホテルへでも行け」と言われる。全室畳式の当時最高級ホテルだった遼東飯庄のことだろう。ちなみに、伊藤博文は漱石が大連を訪れた翌月の10月に遼東飯庄に宿泊しているが、ヤマトホテルよりこちらを選んだのは、浴衣でぶらぶらしたかったのだろうか。 -
建物の裏側はこんな姿に。大連でも特筆すべきこの歴史的建造物がこのように朽果てていくのを見るのは、実に忍びない。
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サハロフ市長公邸
日本は1895年日清戦争に勝利するも、三国干渉によって大連・旅順の租借権をロシアによって奪われる。そしてロシアはサハロフに大連の都市計画を命じ、彼はパリの街並みをイメージして建設を進めた。市の中心にエトワール広場を模した中山広場を造り、広場から放射線状に10条の大通りを設け、広場の周囲に官庁、公共建物、寺院を建てる計画だ。
そしてシベリアアカシアを運んで植えた。よくアカシアの大連と言われるが、それはこの時サハロフが持ち込んだからだ。結局日露戦争で敗北した為サハロフの計画はとん挫した。その後中山広場周囲の建物は、ほとんど日本が建てることになるが、道路など街の設計はサハロフ案を踏襲している。それゆえ大連の街はサハロフが目指したヨーロッパ風な作りになっているのだ。
そのサハロフ市長が住んだ家は、その後満鉄総裁の公邸になる。漱石の旅行記「満韓ところどころ」に出てくる中村是公総裁もここに住んでいた。現在は、船舶学校の事務所として使われており、1階はロシア風のBARになっている。 -
大連居酒屋めぐり
民主広場横の一角にある「経典生活」という飲食店街に、なぜか日本の居酒屋が十数軒並んでいる。日本人駐在員が多い大連で、こんなところは重宝されるのだろう。 -
1軒目『まる』
経典生活には3階建ての建物が長屋状態に連なっており、日本料理屋やバーがひしめき合っている。居酒屋はどの店もだいたい1階がカウンターで、2階がテーブル席、3階が個室という作りになっているらしい。 -
とりあえずネットで評判がよかった『まる』という居酒屋にお邪魔する。
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店員の女の子が気さくに話しかけてくる。「お客さんは駐在ですか?」「ホテルはどこですか?」「いつ日本に帰りますか?」とても流暢な日本語だ。とりあえずは、日本の生ビールもあるが、ここは青島ビールをもらおう。メニューを見ると、日本とまったく同じである。違うのは料金が「元」ということだけだ。ワカメ酢、いかの天ぷら、サンマの塩焼きを注文したが、どれも見事に美味しかった。かつて何度も幻滅している、中国の「なんちゃって和食」ではない。ワカメ酢の酢具合、イカの天ぷらのサクサク感と実に見事である。
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2軒目『銀』
『まる』の数軒隣りにある『銀』に入る。 -
6~7人しか座れないカウンターの真ん中に座る。目の前で、料理人が実に手際よく魚をさばいている。ワサビつぶ貝、ポテトサラダ、焼酎の水割りを頼む。目の前のちょっとカッコイイ料理人ともうひとりのお兄ちゃんが黙々と働いている。全く手が止まらない、その包丁さばきについつい見とれてしまう。
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せわしなく働く店の子が「今日は団体が入っていて、忙しくてスミマセン。いつもはヒマなのに」と気遣ってくれる。ワサビつぶ貝美味!ポテサラも申し分ない。う~ん、いい店だ。
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3軒目『千鳥』
少し戻って『まる』の隣りの『千鳥』に入る。 -
焼酎のお湯割りを頼むと、店長が「銘柄は黒霧島でいいですか?日本人、これ好きでしょ?」というので、「大好きです」と答える。枝豆とエリンギバターを注文。枝豆は少々塩がきつく、エリンギバターは微妙だった。若い店員と会話する。彼女は、先日李香蘭(山口淑子)が死んだことは知っていたが、李香蘭を中国人だと思っていたようだ。日本人だと教えると驚いていた。また、明日が柳条湖事件(満州事変)が起きた日で、中国では「九一八事変」という日だと言ったら、全く何も知らなかったので、中国の若者にとってはすでに風化した歴史で、興味も無いのかも知れないと思った。
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4軒目『夜話BAR』
さすがにもう何も食べられないので、ホテルの方向に戻った「天津街」にあるBARに入ってみる。BARと言っても、スナックのようだ。Hママは3年ほど上野の中国スナックで働いていたので、日本人の扱いが上手く、店の女の子の教育もしっかりしている感じだ。カウンターで隣り合った駐在の日本人客と意気投合。カラオケもあり、互いに何曲か歌う。彼は九州人で、2週間ごとに大連と日本を往復していると言っていた。かなり酔ってきたので、お先に失礼しますとホテルに帰る。千鳥足でも10分位で帰れるのが嬉しい。 -
2014年9月18日
中山広場
大連賓館の目の前はラウンドアバウト(環状交差点)になっている。ラウンドアバウトというのは信号のいらないロータリー式の交差点で、その効率の良さから日本でも数年前より導入が始まっている。その円形交差点の真ん中が広場になっていて、この広場にはかつて初代関東都督府長官・大島義昌大将の像が立っていた。関東都督府とは、大連・旅順を含む関東州を統治・防備する機関で、満鉄とはずっとその権限争いをしていた。1919年に関東都督府は関東軍と関東庁に分かれる。世界最強の精鋭部隊と言われた関東軍の前身でもあった機関のトップだったのだから、大連のど真ん中にある広場にその像が立っていてもおかしくないが、実はこの大島義昌の玄孫が、阿部晋三総理なのだ。満州国の経済的な土台を作り上げた岸信介を母方の祖父に持ち、父方の祖先には初代関東都督府長官・大島義昌がいるとはなんて不思議な縁なのだろう。 -
広場では、「九一八事変発生83周年勿忘国恥」の大きな看板が掲げられており、そのイベントの舞台が設置されていた。
1931年9月18日の今日、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きた。中国では、この日を「九一八事変」と呼び反日デモが国中で起こる反日の象徴でもある。関東軍の謀略によって満州国という偽国家を作るきっかけとなったこの日を「勿忘九一八」(9月18日を忘れるなかれ)と言って、反日のスローガンにしているのだ。
広場内を警察犬が何匹も警備しており、少々物々しい雰囲気だったが、お構いなしに写真を撮りまくった。 -
中山広場建築群
この円形広場から放射線状に10本の街路が延びており、周囲には10棟の歴史的建造物が建っている。そのひとつが「大連賓館」(旧大連ヤマトホテル)だが、他に市役所、警察署、郵便局、銀行など当時の行政・金融機関がどっしりと構えていた。今でもほとんど当時のまま残っているので、主だったところを見て行こう。 -
大連市役所(現・中国工商銀行)
1919年竣工の立派な建物は、実に面白い意匠が施されている。西洋建築にもかかわらず、中央の塔は京都の祇園祭の山車をモチーフに作られ、玄関には「唐破風」を配するなど日本的デザインが不思議な印象を与える。設計者が京都の社寺保存修復に従事した経験があり、「ちょっと京都っぽくっ 」とふざけているのかと思いきや、実に真面目に作られているので、いまだにその重厚な作りはこの建築群の中でもトップだろう。 -
玄関の唐破風。
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横浜正金銀行(現・中国銀行)
大連賓館の対面に建つ実に優雅な建物は、1909年に竣工された。3連のドームが美しいバロック式建築。僕の大好きな建造物「神奈川県立歴史博物館」がかつて横浜正金銀行の本店ビルだったので、調べてみるとなんと設計者はここと同じ、妻木頼黄だった!道理でこの威風堂々なドームの作りなどよく似ている。 -
特徴的なドーム。
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遼東飯庄(現・大連飯店)
伊藤博文は、1909年10月18日にこのホテルに宿泊している。現存する建物は1930年に建替えられたものだが、伊藤が泊まった頃のこのホテルは、ほとんどの客室が畳式の日本間で大連一の高級ホテルであった。今ある建物もその曲線系のフォルムはお洒落で、ちょっと萌える。今では2つ星ホテルに成り下がったが、とうとうつい先日ホテルの営業をやめてしまったようだ。入り口から中を除いたが、かなり傷んでいた。伊藤博文はこのホテルをチェックアウトした後、旅順経由でハルビンに向かう。そして同年10月26日、朝鮮人の安重根にハルビン駅第一ホームにて暗殺されてしまうのだ。伊藤は日韓併合に慎重だったので、伊藤の死により日韓併合が加速化され、暗殺は大韓帝国の消滅という皮肉な結果をもたらしたと言われている。 -
連鎖街
今回の旅の目的のひとつが、この連鎖街を歩くことだった。
1929年に満鉄と商工会議所などが、大連の銀座を目指して鉄筋コンクリートのビルが連なる「連鎖街」を作った。水洗トイレ完備、全戸スチーム暖房によるセントラルヒーティングという当時では最先端を誇る街だった。映画館、ホテル、ダンスホール、日本航空やJTBの事務所、バー、カフェなど200軒からなる世界初の組織的ショッピングタウンで、言ってみれば、大連の駅前に巨大アウトレットモールをどーんとこしらえてしまったようなものだ。JTBの事務所というのは、その前身のジャパン・ツーリスト・ビューロー(1912年設立)のことで、まさに100年以上の歴史ある旅行社である。 -
前述のサザンの曲にも歌われている「連鎖街」だが、遙か異国の地に辿り着いて、突然目の前に煌びやかな夢のような街が現れたらどうだろう。それも、寿司屋、すき焼き屋、おしるこ屋まである日本そっくりなレプリカタウンだったとしたら。
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そんなテーマパークのような街も現在ではスラム化しており、建物は当時のままだが、中国の雑貨屋や電気製品の部品屋などが所狭しとひしめき合っている。再開発予定地になっているというのだから、いつ取り壊されてもおかしくないので、この街を見ることができるのも最後のチャンスだろう。
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この連鎖街に「常盤座」という映画館兼劇場があった。今でもその建物は残っており、秋葉原の電気パーツ屋のようになっている。井上ひさしの戯曲「円生と志ん生」によると、1945年8月14日(終戦の前日!)に、落語家の円生と志ん生は、この常盤座で「二人会」を開いている。志ん生は満州に行けば酒がたらふく飲めるというので、満州慰問を引き受け最後は大連で終戦を迎える。この「二人会」で志ん生は「居残り佐平次」を演ったそうだ。まさかその時は、自分が大連に「居残り」になり、1年以上も帰国できなくなるとは知る由もなかっただろう。戦時中、国が禁演落語と言って53の演目を禁じていたが、この「居残り佐平次」も廓噺なので禁演落語のひとつだった。ここでは大目に見られていたのだろうか。「連鎖街」の「常盤座」で、志ん生の「居残り佐平次」を生で聴きたかったなあ。
ところで、この常盤座の社長が、なかなか引揚船に乗れずに住むところもなくなった円生と志ん生に、逢坂町の遊郭「福助」を紹介した。置屋「福助」の娼妓たちはロシアの軍人相手にけっこう稼いでおり、市役所などは「世の善良なる婦女子の貞操と純潔を守る防波堤となるように」というようなめちゃくちゃなお達しまで出していたそうだ。この逞しい娼妓たちに、円生と志ん生は宿代がわりと言って毎晩落語を聞かせて喜ばれていたというから、なんとも艶のある話だ。きっと想像するに、志ん生の持ちネタの「幾代餅」「三枚起請」「品川心中」や円生の「五人廻し」「文違い」などの廓噺に、自分達の身の上を重ね合わせながら、娼妓たちは泣き笑いしていたのだろう。「幾代餅」の最後のセリフ「傾城に誠なしとは誰が言うた」では、拍手して喜ぶ彼女たちの姿が目に浮かぶ。結局、円生と志ん生は1947年になってようやく引揚船に乗って帰国することができた。 -
連鎖街
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連鎖街
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大連駅
1937年に竣工した大連駅を設計したのは、満鉄の太田宗太郎だ。彼はその5年前に完成した上野駅を見て、その機能的な設計に相当感激したに違いない。乗車客は1階から入り降車客は地下1階から出る導線は、今でいう空港のような造りだからだ。だから彼は大連駅を、外観も人の流れもこれでもかというくらい上野駅をパクった。出発する人は2階から入り到着した人は1階から出るという構造も同じで、写真で比べてみても驚くほど似ている。この大連駅はほぼ完成時の姿のまま現在に至っている。当時上野駅は東京の玄関口であったから、海を渡ってはるばる大連にやってきた日本人は大連駅を見て、上野に戻って来てしまったんじゃないかと妙な錯覚を覚えたのではないだろうか。そして駅前には日本の商店しか入っていないショッピングタウン「連鎖街」が広がっていたので、それはそれは不思議な光景だったに違いない。 -
駅前の「AMICI COFFEE」でアイスコーヒーを飲みながら、この旅行記のメモを書いていたら、突然けたたましいサイレンが鳴り始めた。時計を見ると、9時18分である。「勿忘九一八」(9月18日を忘れるなかれ)なのだ。3分間街中に鳴り響いていたが、街行く人は何ごともないかのように携帯で話していたり、煩そうな顔をしていたりで、例えば黙祷をするような人はひとりもいなかった。その後、9時23分と29分にも同様に3分間づつ、合計3回サイレンを鳴らした。しつこい!
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勝利広場
広場と言っても、ここは大連駅前に地下4階まであるショッピング街で、2000年に完成した比較的新しい大連の名所だ。2000店舗をゆうに超え、ファッション・雑貨・コピー商品・フードコートからボーリング場まであり何でも安く揃うのはいいが、あまりに広すぎて間違いなく自分が何処にいるのか分からなくなる。映画のDVD屋を探し歩いていたら、思った通り迷ってしまった。まるで巨大なアリの巣に迷い込んだような感じだ。ここで火事にでもなったら助かる気がしない。 -
勝利広場
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勝利広場
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野力(火鍋屋)
この店は以前からのお気に入りだ。まず鍋が一人分なのでお一人様でも食べやすい。鍋のスープは薬膳が入っており、真赤な辛いスープか白くて辛くないスープから選ぶ。辛いスープもいいが、肉の味が分からなくなるので、ここは白いスープにする。つけダレは醤油ベースと辛し味噌の2種類を持ってきてくれる。このタレが絶品。基本、肉は羊でいく。それにきのこと野菜の盛り合せを注文。羊肉はしゃぶしゃぶのように薄く切ってあるので、スープにくぐらせたらすぐに食べられる。羊臭さは全くない。実に美味しい!それになぜか力が付く気がする。肉の量はかなりあったが一気に食してしまい、まだ少し食べ足りないので、羊肉を追加するかそれとも麺にするか、しばし悩む。しかしここは、やはりしめの麺だろう。さすが中国、麺の種類は沢山あるが、ここはあえて方便麺(インスタントラーメン)にする。このB級感がたまらない。たいそう満腹になり、青島ビールですっかりいい気分になった。 -
野力(火鍋屋)
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野力(火鍋屋)
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野力(火鍋屋)
〆はインスタント麺。 -
満鉄本社(現・大連鉄道有限公司)
満鉄とは、南満州鉄道株式会社の略称で、日露戦争の勝利によりロシアから譲渡された東清鉄道(長春~大連間)とその付属地の経営にあたる半官半民の会社だった。1907年にスタートし、鉄道だけでなくホテル、病院、学校、炭鉱、製鉄所の経営と今でいう多角化経営で、最大時は40万人の従業員がいた。南満州鉄道と言っても、満州国が建国されたのが1932年なので、その25年も前からあったのだ。 -
南満洲鉄道といえば、夢の超特急「あじあ号」が有名だが、最高時速120kmで走る流線型の車体は当時では国内のどの列車より速く、後の新幹線の基礎になったとも言われている。また、そのころ冷暖房を完備した列車は世界的にも珍しく、その豪華さは「オリエント急行」にも匹敵したのではないだろうか。
そしてなんと、この「あじあ号」が大連の列車倉庫に人知れず残っており、大連の旅行社を通じて見学ができるということが分かった。これは絶対に見たいと思ったが、いろいろ調べていくうちに、つい先日瀋陽の「鉄道陳列館」に移されたことが判明し、残念ながらもう大連にはないとのこと。一歩、遅かった! -
さて、満鉄本社は、現在は大連鉄道有限公司が使っており、建物の一角に「大連満鉄旧跡陳列館」がある。陳列館の入り口が分からなくて、とりあえず大連鉄道有限公司の正面から入ってみる。さすが旧満鉄本社だけあって、1908年に竣工した建物はかなりの威圧感があるが、中は大連鉄道の事務所なので普通に仕事している人がいる。こんな時はさも関係者のように堂々としていると、何も言われない。建物の隅から隅まで歩き、隙を見ては写真を撮りまくったが、問題なかった。
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ようやく「陳列館」の入り口を見つけたが、受付もなく誰もいなかったので勝手に入った。本来は見学に70元(約1260円)かかるが、誰もいなかったのだから仕方がない。
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大連満鉄旧跡陳列館
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大連満鉄旧跡陳列館
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大連病院(現・鉄路局大連医院)~後藤新平
大連ヤマトホテルから南へ坂道を登って行くと、坂の向こうに大きな病院が見えてくる。
この病院を作った満鉄の初代総裁は、後藤新平である。後藤は台湾民政長官時代、徹底した調査に基づいた経済政策とインフラ作りで、現在の台湾の基礎を作り上げた実績を買われ、満鉄に迎えられた。
ちなみに、関東大震災で壊滅状態になった東京を復興させるにあたり、後藤がその都市計画を行った。幾重にも広がる環状線や南北に走る昭和通り、明治通り、東西の靖国通りなど今の東京の形を作ったのは彼だ。また主要道路の幅員を70~90mとした時、東京はまだ車が普及する前だったので、皆が理解に苦しんだ。
そんな都市の未来を見据えられる後藤は、植民地経営の要は「学校」「お寺」「病院」を建てることだと言っている。そんな後藤が作ったこの病院は、当時東洋一の総合病院と言われていた。1926年に竣工した建物は現在も病院として使われており、広い敷地内を歩いてみた。 -
大連居酒屋めぐり
1軒目『あきよし』
この店は5年前に来たことがある。当時経典生活に居酒屋は、この「あきよし」と昨晩お邪魔した「まる」しかなかったが、今では10軒以上になったそうだ。 -
さすが老舗だけあって、味もサービスも申し分ない。ほうれん草ベーコンはなかなかの逸品。やきとりは日本でも旨い店にめぐり会うのは大変なのだから、このレベルならOK。アルコール度数の低い青島ビールが旅の疲れを癒してくれる。
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2軒目『まる』
昨日美味しかった「まる」を再訪。店の子たちももちろん皆覚えていてくれて、もう常連扱い。黒霧島の水割りで、鮪の刺身を頂く。うずらベーコン揚げはお勧めだけあって、かなりのクオリティだ。美味しいと言うと、お代わりする日本人もいるそうだ。
九一八事変について若者の意見を聞こうと思い、店の子に「今朝、サイレンが鳴ってたね」と水を向けると、「うるさかったですね。あれ、何ですか?」と逆に質問された。九一八事変について何も知らないようで、なぜか中国人に満州事変について説明する変な状況になってしまった。 -
まる
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まる
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3軒目『桂馬』
もうすでにお腹いっぱいなので、明太子焼きとオクラ酢をつまみにウーロンハイをいただく。ママらしき女性が来て、どうも昨日からの自分の行動を見られていたらしく「このあたりのお店の調査をしているんですか?」と真面目に訊かれた(笑)
店の子に「この後も飲むんですか」と尋ねられたので、BARに行こうと思ってると話す。すると「私はこの店の後、ちょうど裏にある『AQUA BAR』という店で働いているので来てください」と言うので、「じゃあ、明日行くよ」と言って店を後にした。 -
4軒目『老地方爵士酒吧~OLD PLACE JAZZ BAR』
かなり酔っていたが、タクシーを拾い、良運酒店というホテルの2階にあるジャズバーに向う。結構広い店だが客は数組しか入っていない。好きなテーブルにつきジャックダニエルのロックを頼むと、すぐに演奏が始まった。 -
若い白人女性と中国人男性が出てきた。ただし、歌う曲は全てポップスでJAZZではなかったし、演奏レベルもちょっと上手い学生バンドといった感じだった(泣)
後編に続きます。
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この旅行記へのコメント (1)
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- yayoさん 2020/02/25 19:55:57
- 大連!
- 大連旅行記ありがとうございます!
行くはずだった大連・・・(笑)
大連は日本の歴史と切っても切り離せませんよね。
SamShinobuさんは本をよく読んでいらっしゃるようですし、知識も豊富で私も頑張って勉強しないとなぁといつも思います。
連鎖街がもしまだ残っているのなら、今度リベンジした際に見てみたいと思いました。
そしてSamShinobuさんといったら現地の酒場巡り(笑)。個人的にはいつも楽しみにしているんですが、今回もはしご酒でしたね(笑)こんな風に飲めたらもっと旅も楽しくなるんだろうなぁと羨ましく思います。
それから中国が好きになったきっかけは何ですか?出張でたくさん行かれたからですか?よかったらお聞かせ下さい。
それでは後編も楽しみにしてますね♪
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