2020/02/16 - 2020/02/16
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たびたびさん
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三重県といえば、伊勢神宮、伊勢路。古事記の研究に打ち込んだ国学者、本居宣長。伊勢神宮は天皇家の氏神である天照大神を祀る神社であり、古事記は日本書紀と並ぶ天皇家の正当性を担保する歴史書。大和政権の誕生は奈良県だったとしても、それを支える大きな礎のひとつが三重県にあるということは、ちょっと感慨深いものがあると思います。
一方で、三重県は宗教的歴史的な側面に止まらず、三井家に代表される伊勢商人が出たり、活発な経済活動でも注目に値する地域。しかし、伊勢街道は伊勢神宮に向かう伊勢湾に沿った南北の道。地図で見ても伊勢神宮に至るドン詰まりの道というふうに見えるので、経済活動という意味では恵まれた道ではなかったのではないかという疑問もわいてきます。
また、県民性は往々にして江戸時代の幕藩体制の中で育まれたものが多いのですが、三重県ではそれが影を潜めている印象。伊勢の南部は伊勢三領と呼ばれる紀州藩の領地17万9千石があるにせよ、松阪を築いた蒲生氏郷。徳川四天王のひとりで桑名10万石を賜った本多忠勝。津藩22万石(後に27万石)の藤堂高虎など。それなりに有名な武将との縁があるにもあるにも関わらず、全体としてはお国自慢につながっていないことが不思議だったんですね。
これまで私としては、この伊勢街道と江戸時代の幕藩体制を巡る二つの疑問は、三重県についての大きなもやもやになっていて、今回の旅のもう一つ大きな目的がこれを解消することだったんですよね。
さて、その解消の鍵を握ると睨んだのが三重県総合博物館MieMu。津駅からバスで訪ねました。立派な施設で三重県の力の入れようを感じますが、いかんせん、三重県の県庁所在地でありながら、観光地としてはむしろ辺境である津にあることで、我々観光客にとってはちょっと縁遠くなるところがあって。これまで何度三重県に来たことがあるか分からない私でさえ、やっと今になって初訪問となりました。
さて、伊勢路のこと。確かに、お伊勢参りは江戸時代に大きなブームとなっていましたから、その往来が激しかったことはその通りです。一方で、古来より、伊勢は関西からすると大阪から大和を越えて伊勢神宮につながる伊勢街道や京都・滋賀から桑名に抜ける複数の街道など関西との交通の太いパイプがあるんですね。そして、そこから先、伊勢は海路でつながる伊勢湾周辺との交易の拠点となっただけではなく、さらには東国に向かう玄関口という位置づけ。伊勢は決してドン詰まりということではなかったんですね。そんな解説を見て、初めて伊勢路の理解が開けたような気がしました。
一方で、江戸期の津藩の解説とかはここでもやっぱりほとんどなし。博物館の学芸員の方にそんな疑問をぶつけたら津藩の幕末の対応に地元では複雑な思いが残っていて、もしかしたらそんなことも影響しているのではないかという話も伺い、なるほどね。そこもこれまでのもやもやが少し晴れたような気がしました。たぶん、その見方は学術的なことではなくて、多分地元でのぼんやりとした気分を踏まえてのものでしょう。他の地方でも会津戦争の会津に限らず、幕末の出来事が尾を引いている事例は少なくない。伊勢でもそんなことがありましたかと妙に納得してしまったたびたびです。
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津駅前から、バスで三重県総合博物館MieMuに向かいます。
歩けない距離ではないのですが、ちょっと雨も降っているし、まあ、いいでしょう。 -
これがMieMuですか。
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ほ~。
こんなに立派だとは思いませんでしたね~
しかし、もし伊勢市にあったら、たくさんの観光客が来ているんでしょうけど、ちょっともったいないような気もします。 -
玄関ホールにはナウマンゾウ。
博物館ですから、こういうところから始まります。 -
イチオシ
さて、ここからが有料ゾーン。
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自然の紹介なんかも定番ですけど
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はいはい。この辺りからが伊勢路の解説ですね。いよいよですね。
これは赤須賀船。今だと桑名市の一部になった赤須賀。明治に入って、七里の渡しの賑わいが衰えると、三重県の南部、熊野灘方面との船運に乗り出して活路を見出す。
米や野菜を提供し、薪や炭を仕入れて戻る。外洋に面した荒い海でも難なくこれだけの流通網が確保されていたんですね。 -
熊野灘辺りを中心にした江戸時代の海運ネットワーク。上方と江戸を結ぶ樽廻船、菱垣廻船の活躍です。三重県がその中継地として重要な位置づけにあったことが伺われます。
伊勢はどん詰まりの地ではないことがよく分かりますねえ。 -
東南アジアとのネットワーク。江戸時代初期のご朱印船貿易の歴史が四日市港の整備にもつながったという解説かな。ちょっと強引な気がしなくはないけど、それだけ海運の重要性、可能性を理解する土地柄であったことはまあそうなのかな。だんだん、そんな気がしてきます。
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鎌倉・室町の中世までさかのぼって、南伊勢系の土師器鍋の出土地域分布から
伊勢と東国の交流の太さを説明します。 -
今度は伊勢湾に絞って、大湊。今の伊勢市ですが、それをネットワークにした海運の姿。かなり、きめ細かなネットワーク。伊勢神宮のおひざ元が同時に海運ネットワークの拠点としても発展していく。河崎の町の河崎商人館なんかも思い出されます。
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伊勢路というのは伊勢神宮に向かう道という意味ですからちょっとぼんやりした概念なんですが、もうちょっと絞ると伊勢街道とそれに通じる京都や大和からの陸路。
京都からだと東海道、大和からだと伊賀経由と名張経由の二本がメインルートかな。しかし、そのメインルートに関連してその周辺にもかなりの脇街道。こうして見ると古来から関西と伊勢のパイプがいかに太かったのかがよくわかります。 -
特に、京都と桑名。八風越え、千草越え。鈴鹿峠を越えるルートも大消費地へ向かう金を生む街道だったのでしょう。
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伊勢街道から南は熊野街道。こちらに向かう流れがあるのもまた伊勢がどん詰りではない気分につながります。
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伊賀から大和へは一部川運(木津川)も。陸路の人力には限界がありますから、そこに水運が加わると途端に物資の動きは活発になる。関東の物流も街道ではなくて水運のネットワークを知らないと実は理解したことにならない。栃木市、流山市、川越市。こうした町は水運の恵みを受けて発展した町なんですよね。
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ここから先は、お伊勢参りの賑やかさ。
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多くの客を迎え入れることができたのも豊富な物資の流通網があったから。
そして、人の往来がその流通網の発展をまた刺激する。 -
多相な要因が重なり合って、
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伊勢の活況を支え、
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発展させていたんですね。
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伊勢路はどん詰りではない。むしろ、海運によって開かれたネットワークの中心。
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伊勢商人が江戸に進出して大成功を収めたのもそんなに偶然のことではない。開かれたネットワークの重要性をよく理解していて、広い視野を育んでいた。そんなことかと思います。伊勢路のこれまでのイメージが一変したことで、これは大収穫。じんわり満足感に浸ります。
ただ、津藩のことはここでもほとんど展示なし。学芸員さんを呼んで、少しこれまでのもやもやを聞いてもらいます。
すると津藩の幕末の動きが話題になりました。つまり、藩祖、藤堂高虎は外様ながら徳川家康から絶大な信頼を得たことで、伊賀・伊勢22万石を拝領し、別格譜代の位置づけ。それが津藩の誇りだったはずなのですが、戊辰戦争の緒戦となった鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍として山崎の重要拠点を任されていたのに、あっさり新政府軍に寝返り。幕府軍の敗色が一気に濃厚となりました。様子見をしていた藩や寝返りをした藩はむしろ多数派なのですが、津藩の場合はこれによって大きなものを失うことになったよう。武士の誇りが失われてしまえば、津藩の歴史が地域のアイデンティティになるはずもない。津藩のことを語ること自体がむしろ恥ずべきこととなってしまったのかもしれません。戊辰戦争の痛みといえば東北のことが真っ先に思い浮かぶのですが、そればかりではない。こんなところでも意外に深い傷があったことに気が付くことになりました。伊勢の悠久の歴史からしたら、僅かなことかもしれませんが、それでもこれでまたちょっと理解が深まったのかな。MieMuに期待していたことが、違う形でしたがちゃんと実を結んだように思います。 -
総合博物館から三重県立美術館へは、津駅の方に戻りがてら歩きます。こちらでは、常設展を拝見しました。
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ルノワール、モネ、シャガールの印象派に国内では藤島武二、安井曾太郎、安井曾太郎などなど。ひときわ目を引くような作品は見当たりませんでしたが、手堅くそれなりに広がりのあるコレクションのように感じました。柳原義達記念館の方は彫刻。ただ、目線が合うのにちょっと時間がかかるかなと思います。
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津駅まで帰って、今度は津新町駅の方へ。
ところで、津には津ぎょうざというB級グルメがあって、何軒かその認定を受けていて、このいたろうもその一つ。津新町辺りでは代表格のお店です。 -
イチオシ
注文すると、あのでかい餃子。全体がよく揚げてあってカリカリ。それを割ったようにしてほぐすと大量の餡が出てきて、今度はジューシーな味わいなんですよね。一個食べればもう結構満足。抜群のおいしさというわけではないのですが、この餃子は地元の給食でも定番のようですが、やっぱり津の食文化を代表していることは間違いありません。
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津城は、藤堂高虎が造った城だし、浅井長政が亡くなった後は、お市方もここで暮らしたことがあるほどの歴史の城なのですが、行って
みるとけっこう草ぼうぼうで荒れた感じ。これだけの文化遺産なのに、津の人は何を考えているんだという思いになってしまいました。近所の人に話しかけたら、やっぱりその人もそういう思いを持っているようで、そのとおりとしきりにおっしゃっていました。
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さて、ちゃんとした昼飯はこちら。
東洋軒の創業は明治22年。津にあって、上野の精養軒などと同じく、日本の洋食文化の草分け的存在。宮内省御用達として皇居内の晩餐会等に出張していたという歴史を持っています。 -
津城のほど近くに建つしゃれた洋館。派手さはないんですが、優雅な空間。従業員も多くてきびきび対応。さすが歴史を持つお店なんですが、ランチとか値段はとってもリーズナブルです。
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私はランチのコースをいただきましたが、
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イチオシ
メインディッシュの鳥料理。トマト風味の煮込みソースが掛けてあるのですが、鶏肉は揚げたパリパリ感が程よく残っていて、ちょっとしたサプライズ。やっぱり料理は遊び心も必要です。
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そして、この揚げ物は基本がよくできていて正統派ですよね~
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料理から店内の雰囲気から
いろんなところで楽しませてもらいました。 -
ここからは、さらにスイーツチェックもしてみますよ~
蜂蜜まん本舗は、津新町の中心部。餡子の入った大判と同系の饅頭なんですが、 -
イチオシ
このまあるい形が特徴ですね。ただ、餡子にはちみつがよく効いていて、ちょっと刺激的な甘さ。10個20個と大量買いしていくお客さんが何人もいて、その気持ちとっても良く分かります。
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津観音寺へも久しぶりですね。浅草や大須と並ぶ日本三観音の一つなんですが、普段は見ることはできません。
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広い境内には本堂と五重塔のシンプルな眺めなんですが、それなりに威厳もある寺。
前回来た時は、本堂の前に立つ二本の桐の木の紫の花がちょうど見事に満開となっていて、とっても印象に残ってます。 -
お焼屋は、以前「地上の星」というお菓子をいただきました。中島みゆきの歌の題ですけど、なんでしょうねえ。白餡の中に干しブドウが少し入っていて、もしかして、それが地上の星ってことでしょうか。白餡の甘さのアクセントになっていました。
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今回は、津の名物「けいらん」。
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これなんですが、いがまんじゅうのことですね。もち米のつぶつぶ感がおいしいです。
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続いては、玉吉餅店。こちらのみたらし団子もいいんですが、やっぱりこちらでも「けいらん」をいただきましょうか。
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イチオシ
表面にピンクや赤のもち米をトッピングして鮮やかな景色。もちッとしたお餅に甘い餡子の基本的な組み合わせはシンプルなだけにお店の実力がそのまま出ます。ここの場合も餡子のくせのない甘さが秀逸です。
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平治煎餅の本店もこの辺りでは有名店。
津を代表するお菓子といってもいい平治煎餅は、小麦粉の甘い系の軽いサクサク煎餅。これを食べると伊勢路の旅人の疲れを癒してきた煎餅だなあとほっこりします。 -
もう一軒は、とらや本家です。観音寺の門前町入り口。
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福豆まんじゅうをいただきました。餡子の中に福豆が仕込まれていて、なるほど、景色が美しいですね。意外にあるようでなかった工夫。イチゴ大福の発祥の店ということもあるようですが、こういうところにもこのお店の真骨頂が現れているようです。
はい、これで津というか三重は終了。これで一区切りがついたと思います。 -
で、もう一つどうしても行きたかったのは、徳川美術館の尾張徳川家の雛まつり。昨年訪ねたら、なんと開催の前日。涙を呑んでから早や一年です。
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江戸時代の文化というと初期の狩野派を別として、一般的には町人文化の方が高く評価されるきらいがある。しかし、武家の美意識もやっぱり素晴らしいものがあって、それを強烈に認識させてくれたのは、この徳川美術館。そういう意味でも、ここのひな祭りは絶対外せないと思っていました。
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雛飾りの目玉は、尾張徳川11代当主斉温(なりはる)に京都の近衛家から嫁いだ福君(さちぎみ)の雛道具と14代当主慶勝の正室、矩姫(かねひめ)のひな人形。前者はひな人形が伝わっていないということでしたが、たぶん、始めからなかったんだと思います。雛飾りだけあって、ひな人形はないというのは古い時代だとそれが当たり前でしたからね。
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ただ、ストレートな見ごたえとしては、矩姫(かねひめ)のひな人形がなんといっても圧巻。享保びなのような細い切れ長の目は、どうかすると不思議な仏像みたいな迫力もあって、他の展示品の追従を許しません。歴史的に見ても彫刻を志す才能が目指すなら、その最高峰はやっぱり仏像でしょう。欄間彫刻でも仏師の彫ったものをたまに見ることがありますが、やっぱり迫力が違うような気がします。この人形もそんな感じなんですよね。本当に見入ってしまいました。
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イチオシ
しかし、一方で、矩姫(かねひめ)の夫、慶勝は幕末の難局を駆け抜けた尾張徳川家の最後の殿様。徳川幕府からおしきせ養子を受け入れ続けた尾張徳川家の時代から、分家から入ったとはいえ、久々に登場した尾張家のプロパー当主。安政の大獄では謹慎を受けますが、その後、復活。第一次長州征伐では征討軍総督となり外交的に勝利。松平容保も含めた高須四兄弟の物語も含めて思いを馳せると、これこそ名古屋の誇り。もっと味わい深く鑑賞できるような気がします。
(詳しくはこちら:https://4travel.jp/travelogue/11525158) -
最後に蓬左文庫なんですが、これは尾張徳川家の旧蔵書を保管していた建物。徳川美術館の敷地の一角にあって、漆喰の特徴的な外観です。ただ、内部は徳川美術館の展示室の一部に組み込まれていて、順路を巡ると、この建物中も通っているという関係。ちょっとその意識をもって順路を巡りましたが、どこが蓬左文庫の中なのかは分かりませんでした。
さて、これで、今回の旅もおしまい。お疲れ様でした。
それにしても、いろんなところで区切りがついた旅。すっきり爽やかな気持ちで帰途につきました。
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