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親しい友人で2週間のドイツ鉄道旅行。6月のドイツは結婚シーズン。各地で新婚さんに出会いました。<br />Herzlichen Glückwunsch zu Ihrer Hochzeit!<br /><br />今までのシリーズは下記のULRで目的地別に目録としてご覧になれます。本編とともにご愛読ください。⇒<br />https://4travel.jp/travelogue/11630688/<br />「ペテロのアトリエ旅行記目録」 でも検索可能ですその他下記の旅行記もご覧ください<br />

ペテロのアトリエ:麗しき初夏のドイツ

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2015/06/16 - 2015/06/30

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PETERtn

PETERtnさん

親しい友人で2週間のドイツ鉄道旅行。6月のドイツは結婚シーズン。各地で新婚さんに出会いました。
Herzlichen Glückwunsch zu Ihrer Hochzeit!

今までのシリーズは下記のULRで目的地別に目録としてご覧になれます。本編とともにご愛読ください。⇒
https://4travel.jp/travelogue/11630688/
「ペテロのアトリエ旅行記目録」 でも検索可能ですその他下記の旅行記もご覧ください

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  • 1、プロローグ<br /> 過去40数年間に40回近く海外に出た私だが、アメリカとカナダにはそれぞれ1回ずつ、オセアニア方面は主として出張で5回程度、それ以外はすべてヨーロッパ方面に出かけている。出かけた主な国々はドイツ、スイス、オーストリーにはそれぞれ6回前後、フランスも5回程度行っている。ドイツ語圏3ヶ国は1回の旅行中の全行程を1国に滞在していることが多かったが、フランスやイタリーは他の国との「掛け持ち旅行」で1国内に留まっていた旅行はほとんどなかった。<br />

    1、プロローグ
     過去40数年間に40回近く海外に出た私だが、アメリカとカナダにはそれぞれ1回ずつ、オセアニア方面は主として出張で5回程度、それ以外はすべてヨーロッパ方面に出かけている。出かけた主な国々はドイツ、スイス、オーストリーにはそれぞれ6回前後、フランスも5回程度行っている。ドイツ語圏3ヶ国は1回の旅行中の全行程を1国に滞在していることが多かったが、フランスやイタリーは他の国との「掛け持ち旅行」で1国内に留まっていた旅行はほとんどなかった。

  •  出張で出かけたヨーロッパは1回だけ、デュッセルドルフに行ったことがあったが、「国際会議なれば夫人同伴も当然」と勝手な理屈をつけて、同伴で出かけ、会議はわずか数日だったが、会議の終了後は二人でドイツ各地を巡って歩いた。<br /> ドイツ、スイス、オーストリーなどドイツ語圏諸国への訪問が多いのは、ウィーン郊外から西へ向かって延びたアルプス山脈はドイツからスイスへとドイツ語圏内を通り、シャモニーで南に転回してニースで地中海に没するまでがフランス語圏だが、登山に適した山脈はそのほとんどがドイツ語圏であることと無関係ではない。<br /> 50数年前の大学時代、理系の学部に学んだ私だが、英語主体の今と違って当時、理系世界の文献はドイツ語が主体だった。必然的に第2外国語にはドイツ語の履修が勧められ、フランス語を学ぶ機会はなかった。また合唱に夢中になっていたこともあって、ドイツ語やイタリア語、ラテン語の基礎は独習する機会はあったが、ついぞフランス語に親しむ機会はなかった。<br />

     出張で出かけたヨーロッパは1回だけ、デュッセルドルフに行ったことがあったが、「国際会議なれば夫人同伴も当然」と勝手な理屈をつけて、同伴で出かけ、会議はわずか数日だったが、会議の終了後は二人でドイツ各地を巡って歩いた。
     ドイツ、スイス、オーストリーなどドイツ語圏諸国への訪問が多いのは、ウィーン郊外から西へ向かって延びたアルプス山脈はドイツからスイスへとドイツ語圏内を通り、シャモニーで南に転回してニースで地中海に没するまでがフランス語圏だが、登山に適した山脈はそのほとんどがドイツ語圏であることと無関係ではない。
     50数年前の大学時代、理系の学部に学んだ私だが、英語主体の今と違って当時、理系世界の文献はドイツ語が主体だった。必然的に第2外国語にはドイツ語の履修が勧められ、フランス語を学ぶ機会はなかった。また合唱に夢中になっていたこともあって、ドイツ語やイタリア語、ラテン語の基礎は独習する機会はあったが、ついぞフランス語に親しむ機会はなかった。

  • 2、ふたたびドイツへ<br /> ヨーロッパに出かけるようになってもまったく馴染みのないフランス語圏よりはドイツ語圏・イタリア語圏に自然と足が向くようになったのは必定だった。ドイツ語圏の中でもスイスやオーストリーは日本の九州や北海道程度の広さだが、ドイツの国土面積は日本全体の面積とほぼ同じ大きさで、それだけに見ごたえのある国であった。何度も足を運んでいるドイツだが、ぜひ見ておきたい場所やもう一度訪れてみたい地域がいくつか残されていた。<br /> まだ見ていない地域で、ぜひこの目で見ておきたかった場所のひとつは、フランクフルトの北方約70キロにあるマールブルクであった。ここは方伯城というお城も有名だが、お城はともかく、もう一つ聖エリーザベート教会は、ぜひ訪れておきたい聖堂だった。<br />

    2、ふたたびドイツへ
     ヨーロッパに出かけるようになってもまったく馴染みのないフランス語圏よりはドイツ語圏・イタリア語圏に自然と足が向くようになったのは必定だった。ドイツ語圏の中でもスイスやオーストリーは日本の九州や北海道程度の広さだが、ドイツの国土面積は日本全体の面積とほぼ同じ大きさで、それだけに見ごたえのある国であった。何度も足を運んでいるドイツだが、ぜひ見ておきたい場所やもう一度訪れてみたい地域がいくつか残されていた。
     まだ見ていない地域で、ぜひこの目で見ておきたかった場所のひとつは、フランクフルトの北方約70キロにあるマールブルクであった。ここは方伯城というお城も有名だが、お城はともかく、もう一つ聖エリーザベート教会は、ぜひ訪れておきたい聖堂だった。

  • 聖エリーザベート教会はハンガリー王室から御輿入れしてわずか24歳でこの世を去った、エリーザベート妃を記念した聖堂だが、その聖堂に安置されているバルラッハ作の十字架像は第2次大戦中、数奇な運命をたどった十字架であった。<br />ドイツがナチス政権下となった大戦中のある真冬の日、ナチスの将校がエリーザベート教会にやって来て、牧師と会談中に、聖堂に掲げられている十字架像を指差した将校が「こんなもの教会の裏のラーン川に投げ込んじまえ!」との暴言を吐いた。ところがそれを聞いた牧師は抵抗することもなく、直ちに十字架を取り下ろすと、裏手を流れるラーン川にザブンと投げ込んでしまった! しかしそこで話が終わらなかった。翌朝、牧師は薄氷の張る川に飛び込んで、川底に沈んでいる十字架像をすくい上げ、元通り聖堂に安置したという。<br /> この話を紹介したドイツ文学者小塩節氏は後年、外務省の公使としてドイツに赴任したときにマールブルクを訪れ、大戦中にエリーザベート教会の牧師だった聖職に会う機会があった。「ラーン川に飛び込んだ時はさぞかし冷たかったでしょうね」と水を向けると、牧師先生は「イヤなに、前の晩はナチスの将校と痛飲したので、翌朝は二日酔いで、寒さなんか感じませんでした」との返事が返ってきたという。<br />

    聖エリーザベート教会はハンガリー王室から御輿入れしてわずか24歳でこの世を去った、エリーザベート妃を記念した聖堂だが、その聖堂に安置されているバルラッハ作の十字架像は第2次大戦中、数奇な運命をたどった十字架であった。
    ドイツがナチス政権下となった大戦中のある真冬の日、ナチスの将校がエリーザベート教会にやって来て、牧師と会談中に、聖堂に掲げられている十字架像を指差した将校が「こんなもの教会の裏のラーン川に投げ込んじまえ!」との暴言を吐いた。ところがそれを聞いた牧師は抵抗することもなく、直ちに十字架を取り下ろすと、裏手を流れるラーン川にザブンと投げ込んでしまった! しかしそこで話が終わらなかった。翌朝、牧師は薄氷の張る川に飛び込んで、川底に沈んでいる十字架像をすくい上げ、元通り聖堂に安置したという。
     この話を紹介したドイツ文学者小塩節氏は後年、外務省の公使としてドイツに赴任したときにマールブルクを訪れ、大戦中にエリーザベート教会の牧師だった聖職に会う機会があった。「ラーン川に飛び込んだ時はさぞかし冷たかったでしょうね」と水を向けると、牧師先生は「イヤなに、前の晩はナチスの将校と痛飲したので、翌朝は二日酔いで、寒さなんか感じませんでした」との返事が返ってきたという。

  •  6月中に完結する最終的なコースは次の通りとなった。<br />16日(1日目):成田発⇒(ヘルシンキ乗継)⇒コペンハーゲン泊<br />                  (第1泊目:Richmond)<br />17日(2日目):コペンハーゲン発⇒(渡り鳥ラインで列車ごとフェリーでバルト海横断)⇒リューベック泊<br />               (第2泊、第3泊目:Park inn)<br />18日(3日目):リューベック滞在、デンマークとの国境の町フレンスブルク方面へ<br />19日(4日目):リューベック⇒バンベルク泊<br />                  (第4、5泊目:National)<br />20日(5日目):バンベルクよりローテンブルク観光<br />21日(6日目):バンベルク⇒ミュンヘン泊、途中ヴュルツブルク観光<br />                  (第6泊目:Marc Münich)<br />22日(7日目):ミュンヘン⇒ムルナウ泊<br />                  (第7、8泊目:Sporerhof)<br />23日(8日目):ムルナウよりエッタール修道院、オーバアマガウ、ヴィース教会観光<br />24日(9日目):ムルナウ⇒ハイデルベルク泊 <br />                (第9、10、11泊目:ibis)<br />25日(10日目):ハイデルベルクよりヴィースバーデン観光<br />26日(11日目):ハイデルベルクよりマールブルク観光<br />27日(12日目):ハイデルベルク⇒ケルン泊<br />               (第12、13泊目:Wyndham Köln)<br />28日(13日目):ケルンよりライン川観光<br />29日(14日目):ケルン⇒デュッセルドルフ空港⇒(ヘルシンキ乗継・機中泊)<br />30日(15日目):成田着 帰国<br /> 第2日目コペンハーゲン~リューベック間は後述の渡り鳥ラインを利用した。<br />ミュンヘン中央駅からまっすぐ南に国境を越えてオーストリーのインスブルックまで鉄道が通じている。ミュンヘンを出るとすぐ周辺に田園風景が広がるが、列車はまもなくドイツアルプスの山岳地帯を超えてインスブルックに到着する。ドイツは南部のスイス・オーストリーとの国境地帯はアルプス山脈が国境を分けているが、ミュンヘンから北の大部分は一面の平野で、オーストリーやスイスとの国境地帯のドイツアルプス地方だけがツークシュピッツェ(2962mドイツの最高峰)を主峰とする3000メートル級の山岳地帯である。さらに南下した鉄道はブレンナー峠を越えてイタリーまで伸びている。<br />************<br />ミュンヘンを出た列車は1時間後に10年ごとに開催される村民劇(キリスト受難劇)の上演で知られるオーバアマガウ行の支線との分岐駅ムルナウに到着する。今から15年前、2000年の受難劇上演の時に、私は妻と二人で観劇に来た。たかが片田舎の村民の演じるドラマと思っていたが、極めて充実した内容の受難劇に感心し、夏のあいだ中開催されている受難劇なので、特に目標を定めず、約6週間の旅行を楽しんでいた私たちは、2週間後に再び受難劇を見に来ることにした。<br />

     6月中に完結する最終的なコースは次の通りとなった。
    16日(1日目):成田発⇒(ヘルシンキ乗継)⇒コペンハーゲン泊
                      (第1泊目:Richmond)
    17日(2日目):コペンハーゲン発⇒(渡り鳥ラインで列車ごとフェリーでバルト海横断)⇒リューベック泊
                   (第2泊、第3泊目:Park inn)
    18日(3日目):リューベック滞在、デンマークとの国境の町フレンスブルク方面へ
    19日(4日目):リューベック⇒バンベルク泊
                      (第4、5泊目:National)
    20日(5日目):バンベルクよりローテンブルク観光
    21日(6日目):バンベルク⇒ミュンヘン泊、途中ヴュルツブルク観光
                      (第6泊目:Marc Münich)
    22日(7日目):ミュンヘン⇒ムルナウ泊
                      (第7、8泊目:Sporerhof)
    23日(8日目):ムルナウよりエッタール修道院、オーバアマガウ、ヴィース教会観光
    24日(9日目):ムルナウ⇒ハイデルベルク泊
                    (第9、10、11泊目:ibis)
    25日(10日目):ハイデルベルクよりヴィースバーデン観光
    26日(11日目):ハイデルベルクよりマールブルク観光
    27日(12日目):ハイデルベルク⇒ケルン泊
                   (第12、13泊目:Wyndham Köln)
    28日(13日目):ケルンよりライン川観光
    29日(14日目):ケルン⇒デュッセルドルフ空港⇒(ヘルシンキ乗継・機中泊)
    30日(15日目):成田着 帰国
     第2日目コペンハーゲン~リューベック間は後述の渡り鳥ラインを利用した。
    ミュンヘン中央駅からまっすぐ南に国境を越えてオーストリーのインスブルックまで鉄道が通じている。ミュンヘンを出るとすぐ周辺に田園風景が広がるが、列車はまもなくドイツアルプスの山岳地帯を超えてインスブルックに到着する。ドイツは南部のスイス・オーストリーとの国境地帯はアルプス山脈が国境を分けているが、ミュンヘンから北の大部分は一面の平野で、オーストリーやスイスとの国境地帯のドイツアルプス地方だけがツークシュピッツェ(2962mドイツの最高峰)を主峰とする3000メートル級の山岳地帯である。さらに南下した鉄道はブレンナー峠を越えてイタリーまで伸びている。
    ************
    ミュンヘンを出た列車は1時間後に10年ごとに開催される村民劇(キリスト受難劇)の上演で知られるオーバアマガウ行の支線との分岐駅ムルナウに到着する。今から15年前、2000年の受難劇上演の時に、私は妻と二人で観劇に来た。たかが片田舎の村民の演じるドラマと思っていたが、極めて充実した内容の受難劇に感心し、夏のあいだ中開催されている受難劇なので、特に目標を定めず、約6週間の旅行を楽しんでいた私たちは、2週間後に再び受難劇を見に来ることにした。

  • 4、出 発<br />ホテルの手配もすべて終わり、鉄道パスの購入も済ませ、出発当日の6月16日、成田空港に集合した9人は午前11時、ヘルシンキに向けて、飛び立った。成田~ヘルシンキ間は約9時間、ヨーロッパ各地の空港の中ではもっとも短時間に到着できる空港の一つだ。ヘルシンキ空港でローカル便に乗り換えて、コペンハーゲンに着いたのは午後6時過ぎだが、緯度の高い北欧の夏は午後6時でも太陽はまだ中天高く輝いている。一行をホテルまで案内した私は明日の目的地、リューベックまでの座席指定券購入のために、再度コペンハーゲン中央駅に引き返した。列車の座席指定は必須ではないが、座席指定券があればバルト海を横断してリューベックまで4時間の旅を安心して過ごすことができる。

    4、出 発
    ホテルの手配もすべて終わり、鉄道パスの購入も済ませ、出発当日の6月16日、成田空港に集合した9人は午前11時、ヘルシンキに向けて、飛び立った。成田~ヘルシンキ間は約9時間、ヨーロッパ各地の空港の中ではもっとも短時間に到着できる空港の一つだ。ヘルシンキ空港でローカル便に乗り換えて、コペンハーゲンに着いたのは午後6時過ぎだが、緯度の高い北欧の夏は午後6時でも太陽はまだ中天高く輝いている。一行をホテルまで案内した私は明日の目的地、リューベックまでの座席指定券購入のために、再度コペンハーゲン中央駅に引き返した。列車の座席指定は必須ではないが、座席指定券があればバルト海を横断してリューベックまで4時間の旅を安心して過ごすことができる。

  • コペンハーゲンで第1夜を明かした一行は翌朝6月17日、揃ってコペンハーゲンに向かい、9時34分発ハンブルク行ICE1等の指定席に落ち着いた。ICE(InterCityExpress)はドイツ鉄道が誇る国際高速列車で、隣国デンマークのコペンハーゲンから、バルト海を列車ごとフェリーで横断しハンブルクまで、一日に4本運行しており「渡り鳥ライン」の愛称で親しまれている。コペンハーゲン駅を定刻に発車した列車は鉄道橋を介してファルスター島、ロラン島へとデンマーク領を南下し、ロラン島のレドビーで約8両の列車は連結したままフェリーに滑り込み、約1時間の船旅の後、ドイツ領フェーマルン島のプットガルテンでふたたび線路に載ると、フェーマルン・スンド海峡を鉄橋で渡りドイツ本土に入る。レドビー~プットガルテン間は現在海峡横断鉄橋が工事中で、2018年にはコペンハーゲン~リューベック間はフェリーを利用せず、全線を鉄道で連絡できる予定だったが工期が伸び、本稿を執筆中に開通は2019年12月24日になるとの報告が入った。

    コペンハーゲンで第1夜を明かした一行は翌朝6月17日、揃ってコペンハーゲンに向かい、9時34分発ハンブルク行ICE1等の指定席に落ち着いた。ICE(InterCityExpress)はドイツ鉄道が誇る国際高速列車で、隣国デンマークのコペンハーゲンから、バルト海を列車ごとフェリーで横断しハンブルクまで、一日に4本運行しており「渡り鳥ライン」の愛称で親しまれている。コペンハーゲン駅を定刻に発車した列車は鉄道橋を介してファルスター島、ロラン島へとデンマーク領を南下し、ロラン島のレドビーで約8両の列車は連結したままフェリーに滑り込み、約1時間の船旅の後、ドイツ領フェーマルン島のプットガルテンでふたたび線路に載ると、フェーマルン・スンド海峡を鉄橋で渡りドイツ本土に入る。レドビー~プットガルテン間は現在海峡横断鉄橋が工事中で、2018年にはコペンハーゲン~リューベック間はフェリーを利用せず、全線を鉄道で連絡できる予定だったが工期が伸び、本稿を執筆中に開通は2019年12月24日になるとの報告が入った。

  • 4、リューベック<br /> 王家を中心に中央集権の国家基盤が確立されていたフランスや英国と異なり、ドイツという国はいわば群雄割拠で国家としてのドイツは州単位に近い大きさの地域を治める領主国の集合体であった。北ドイツのリューベック、ハンブルク、ブレーメンなどは都市国家としての同盟体「ハンザ同盟」を結成し、「自由ハンザ都市」として都市の自治権を拡大していた。同盟関係は19世紀後半まで続いていたが、現在でもこれらの都市ではハンザ同盟時代の遺風が受け継がれている。<br /> 午後1時すぎ、定刻にリューベック中央駅に到着したICE36号から降り立った一行9人はひとまず駅前の大通りを越えたところに建つホテルPark Inn Lübeckに向かった。自分の足だけが頼りの個人旅行では、多少アコモデーションの不備は犠牲にしても駅至近の宿が便利だ。<br /> 私がリューベックに来るのは15年ぶりだが、駅前の光景はその頃とあまり大きな違いは見られない。ただ、前に来た時は駅頭に立って、駅前広場の向こうに見える小ホテルに目星をつけて2泊した。そのホテル(ペターセン)は建物だけは変わっていなかったが、ホテル・ペターセンの看板はなく、代替わりしたのかもしれない。15年前の時、朝食前の散歩に出ようとしたら、雨の降る様子もないのに、女主人が「傘をお持ちになって・・」というので、いぶかりながら傘を持って出たら、やはり雨が降ってきた。バルト海の入江に位置するリューベックは海洋性の気候で、突然の雨も日常茶飯だ。<br /> それぞれの居室も決まり、一休みした一行は三々五々、リューベック市内の散策に出た。リューベックのランドマークはホテルに近く、2本の尖塔を持つホルステン門だ。ホルステン門を通り抜けると、リューベックの中心地に出る。何人かのメンバーとホルステン門を通って、市内の中心部に出かけた。リューベックはドイツの北のはずれにある都市だが、中世前半にハンザ同盟都市として、バルト海の海運を武器に発展した都市である。同盟結成前の10世紀ころまでは北辺の一寒村であったと推察するが、中世後半の人口は1万人を超えるドイツでも有数の大都市に発展している。ちなみに現在の人口は20万人を超えているが、同じハンザ都市のハンブルクは180万人、ブレーメンは55万人である。<br />

    4、リューベック
     王家を中心に中央集権の国家基盤が確立されていたフランスや英国と異なり、ドイツという国はいわば群雄割拠で国家としてのドイツは州単位に近い大きさの地域を治める領主国の集合体であった。北ドイツのリューベック、ハンブルク、ブレーメンなどは都市国家としての同盟体「ハンザ同盟」を結成し、「自由ハンザ都市」として都市の自治権を拡大していた。同盟関係は19世紀後半まで続いていたが、現在でもこれらの都市ではハンザ同盟時代の遺風が受け継がれている。
     午後1時すぎ、定刻にリューベック中央駅に到着したICE36号から降り立った一行9人はひとまず駅前の大通りを越えたところに建つホテルPark Inn Lübeckに向かった。自分の足だけが頼りの個人旅行では、多少アコモデーションの不備は犠牲にしても駅至近の宿が便利だ。
     私がリューベックに来るのは15年ぶりだが、駅前の光景はその頃とあまり大きな違いは見られない。ただ、前に来た時は駅頭に立って、駅前広場の向こうに見える小ホテルに目星をつけて2泊した。そのホテル(ペターセン)は建物だけは変わっていなかったが、ホテル・ペターセンの看板はなく、代替わりしたのかもしれない。15年前の時、朝食前の散歩に出ようとしたら、雨の降る様子もないのに、女主人が「傘をお持ちになって・・」というので、いぶかりながら傘を持って出たら、やはり雨が降ってきた。バルト海の入江に位置するリューベックは海洋性の気候で、突然の雨も日常茶飯だ。
     それぞれの居室も決まり、一休みした一行は三々五々、リューベック市内の散策に出た。リューベックのランドマークはホテルに近く、2本の尖塔を持つホルステン門だ。ホルステン門を通り抜けると、リューベックの中心地に出る。何人かのメンバーとホルステン門を通って、市内の中心部に出かけた。リューベックはドイツの北のはずれにある都市だが、中世前半にハンザ同盟都市として、バルト海の海運を武器に発展した都市である。同盟結成前の10世紀ころまでは北辺の一寒村であったと推察するが、中世後半の人口は1万人を超えるドイツでも有数の大都市に発展している。ちなみに現在の人口は20万人を超えているが、同じハンザ都市のハンブルクは180万人、ブレーメンは55万人である。

  •  海運で発展したリューベックでは海事担当者は幅をきかせていて、今でも海運に関係する建物が現役で残っている。聖ヤコビ教会もその一つで、漁師たちの寄進で1334年に建立された。ブライテ通りをはさんでヤコビ教会の向かい側には船員組合のギルド(Die Schiffergesellschaft)があり、1階のレストランは一般に開放されているので、この日の夕食は9人全員が船員組合での会食となった。ツアーリーダーとしては、観光目的の案内も重要だが、それ以上に参加者の食事には気を使う。朝食はホテルで供与されるので心配はない。昼食もおおむね行動中なので、軽食で済ませられるが、夕食だけは旅の印象とも関係するのでそれなりに考えなければならない。旅行案内書を開くと有名観光地のレストランの案内も出ているが、過去の経験では案内書に出ているレストランは可もなく不可もなし、月並みなところが多い。それに日本の観光客が案内書を頼りにレストランを利用する関係上、周囲には日本人ばかりというレストランも珍しくない。私は案内書に出ているレストラン情報は参考程度にとどめ、できるだけ普段着の地元の人たちで賑わう店を見つけることにしている。

     海運で発展したリューベックでは海事担当者は幅をきかせていて、今でも海運に関係する建物が現役で残っている。聖ヤコビ教会もその一つで、漁師たちの寄進で1334年に建立された。ブライテ通りをはさんでヤコビ教会の向かい側には船員組合のギルド(Die Schiffergesellschaft)があり、1階のレストランは一般に開放されているので、この日の夕食は9人全員が船員組合での会食となった。ツアーリーダーとしては、観光目的の案内も重要だが、それ以上に参加者の食事には気を使う。朝食はホテルで供与されるので心配はない。昼食もおおむね行動中なので、軽食で済ませられるが、夕食だけは旅の印象とも関係するのでそれなりに考えなければならない。旅行案内書を開くと有名観光地のレストランの案内も出ているが、過去の経験では案内書に出ているレストランは可もなく不可もなし、月並みなところが多い。それに日本の観光客が案内書を頼りにレストランを利用する関係上、周囲には日本人ばかりというレストランも珍しくない。私は案内書に出ているレストラン情報は参考程度にとどめ、できるだけ普段着の地元の人たちで賑わう店を見つけることにしている。

  •  18世紀までのドイツは諸侯が群雄割拠の状態で、言語も一応ドイツ語としての共通語はあったが、地方によって言語の用法の差が大きく、文豪ゲーテ等の著述関係者は標準ドイツ語の制定に腐心したという。言語の不統一性は現代でも地方による差が大きい。今回、私はリューベックの船員食堂での食事の時にドイツ語の地域差を実感することになった。日本ではレストランで食事が終わると「お勘定お願い」とか「お愛想」と言って、精算するがドイツでも同じようにZahlen Bitte!と給仕人に声をかけて、勘定を依頼していた。ところがリューベックでウェイトレスを呼んで「ツァーレンビッテ」と声をかけても「??」、まるで反応がなかった。ふと言語の地域差のことを思い出して「レヒヌングビッテ」と声をかけたらたちどころに計算書を持ってきた。

     18世紀までのドイツは諸侯が群雄割拠の状態で、言語も一応ドイツ語としての共通語はあったが、地方によって言語の用法の差が大きく、文豪ゲーテ等の著述関係者は標準ドイツ語の制定に腐心したという。言語の不統一性は現代でも地方による差が大きい。今回、私はリューベックの船員食堂での食事の時にドイツ語の地域差を実感することになった。日本ではレストランで食事が終わると「お勘定お願い」とか「お愛想」と言って、精算するがドイツでも同じようにZahlen Bitte!と給仕人に声をかけて、勘定を依頼していた。ところがリューベックでウェイトレスを呼んで「ツァーレンビッテ」と声をかけても「??」、まるで反応がなかった。ふと言語の地域差のことを思い出して「レヒヌングビッテ」と声をかけたらたちどころに計算書を持ってきた。

  •  リューベックで一晩目を過ごした一行は、翌日はユトランド半島周遊に出かけた。ドイツの北西部に東西100km、南北400km、北海に向けて突き出した半島は根元部分の約4分の1がドイツ領で、先端部の4分の3はデンマーク領だ。国境線ギリギリのドイツ領にある町がフレンスブルクである。先にも触れたようにドイツの国土はオーストリーやスイスと国境を接する南部はアルプス山脈に連なる山岳地帯だが、ライン川の北側は一面海抜ゼロメートルに近い平野である。従って鉄道線路も起伏のない平野をひた走るが、リューベック方面からフレンスブルクに行く場合、一ヶ所だけ線路がぐるりと一回りするループ線でいったん高度を上げた鉄道が運河を越えていく。15年前にはじめてドイツに来た時もリューベックからフレンスブルクに来たことがあった。そのときはこのループ線の存在を知らず、突然列車が平野を離れて天空に昇り始めたので「ハテナ、こんなところに山があるはずはないのに?」と不審に思ったが、やがて眼下にキール運河を発見して、なぞが解けた。運河橋を渡った列車は数百メートルの楕円弧を描いてレンズブルク駅に到着した。キール運河はバルト海と大西洋に連なる北海を結ぶ重要な交易路である。従って大型船も通過できるように、今からちょうど100年前に42メートルの高さの橋がかけられたのである。ループ鉄道線は山岳地帯ではよく見かけるが、レンズブルクのループ線は平地では世界ではじめて設置された路線で、平地でのループ線は極めて珍しい存在だ。

     リューベックで一晩目を過ごした一行は、翌日はユトランド半島周遊に出かけた。ドイツの北西部に東西100km、南北400km、北海に向けて突き出した半島は根元部分の約4分の1がドイツ領で、先端部の4分の3はデンマーク領だ。国境線ギリギリのドイツ領にある町がフレンスブルクである。先にも触れたようにドイツの国土はオーストリーやスイスと国境を接する南部はアルプス山脈に連なる山岳地帯だが、ライン川の北側は一面海抜ゼロメートルに近い平野である。従って鉄道線路も起伏のない平野をひた走るが、リューベック方面からフレンスブルクに行く場合、一ヶ所だけ線路がぐるりと一回りするループ線でいったん高度を上げた鉄道が運河を越えていく。15年前にはじめてドイツに来た時もリューベックからフレンスブルクに来たことがあった。そのときはこのループ線の存在を知らず、突然列車が平野を離れて天空に昇り始めたので「ハテナ、こんなところに山があるはずはないのに?」と不審に思ったが、やがて眼下にキール運河を発見して、なぞが解けた。運河橋を渡った列車は数百メートルの楕円弧を描いてレンズブルク駅に到着した。キール運河はバルト海と大西洋に連なる北海を結ぶ重要な交易路である。従って大型船も通過できるように、今からちょうど100年前に42メートルの高さの橋がかけられたのである。ループ鉄道線は山岳地帯ではよく見かけるが、レンズブルクのループ線は平地では世界ではじめて設置された路線で、平地でのループ線は極めて珍しい存在だ。

  •  車内の一行が、地上42メートルの鉄橋上から平野の展望を愉しむまもなく、列車は北西に進路を取り、やがて国境の町フレンスブルクに到着した。フレンスブルクには15年前に一度来ただけだった。今回の再訪に備えて、この街に関する知識の吸収に努めたが、人口こそ8万人を超えるフレンスブルクだが、日本で得られる北辺の街の情報は極めて少なかった。前回の訪問のときには北ヨーロッパでよく見かける鋭い尖塔を持ったマリエン教会を見ていた。今回も同じような尖塔を持った教会があったが、マリエン教会は平地に建っていたはずだが、今回見かけた教会は傾斜地に建っている。帰国後地図を頼りによく調べてみたら今回訪ねて行った教会はマリエン教会ではなく、ロシア正教会のニコライ教会だった。フレンスブルクはドイツとデンマークが領地の取り合いをした時代があったが、マリエン教会はドイツ系住民が、ニコライ教会はデンマーク系の住民が主に通う教会だ。

     車内の一行が、地上42メートルの鉄橋上から平野の展望を愉しむまもなく、列車は北西に進路を取り、やがて国境の町フレンスブルクに到着した。フレンスブルクには15年前に一度来ただけだった。今回の再訪に備えて、この街に関する知識の吸収に努めたが、人口こそ8万人を超えるフレンスブルクだが、日本で得られる北辺の街の情報は極めて少なかった。前回の訪問のときには北ヨーロッパでよく見かける鋭い尖塔を持ったマリエン教会を見ていた。今回も同じような尖塔を持った教会があったが、マリエン教会は平地に建っていたはずだが、今回見かけた教会は傾斜地に建っている。帰国後地図を頼りによく調べてみたら今回訪ねて行った教会はマリエン教会ではなく、ロシア正教会のニコライ教会だった。フレンスブルクはドイツとデンマークが領地の取り合いをした時代があったが、マリエン教会はドイツ系住民が、ニコライ教会はデンマーク系の住民が主に通う教会だ。

  •  人口密度の少ない北ドイツの平野では線路の両側には森林と畑が連続して現れる。畑が連続して現れる風景の中で、突然周囲の畑とまったく異なる銀色に光る風景が目に飛び込んできた。目を凝らしてよく見たら、それは1枚の畑の全面をソーラーパネルに置き換えていたのだった。ドイツは再生可能エネルギー利用の先進国と言われているので、このような風景が現れたのだろうか。突然私は「これは電気の畑だ!」と胸の中で叫んだ。ただし、最近のドイツはソーラー発電の買取価格を高く設定し過ぎて、失敗だったと言われている。<br /> 北辺の街フレンスブルクの探索を終わった一行はふたたびレンズブルク運河橋を列車で超えて、リューベックに戻った。<br /><br /><br />

     人口密度の少ない北ドイツの平野では線路の両側には森林と畑が連続して現れる。畑が連続して現れる風景の中で、突然周囲の畑とまったく異なる銀色に光る風景が目に飛び込んできた。目を凝らしてよく見たら、それは1枚の畑の全面をソーラーパネルに置き換えていたのだった。ドイツは再生可能エネルギー利用の先進国と言われているので、このような風景が現れたのだろうか。突然私は「これは電気の畑だ!」と胸の中で叫んだ。ただし、最近のドイツはソーラー発電の買取価格を高く設定し過ぎて、失敗だったと言われている。
     北辺の街フレンスブルクの探索を終わった一行はふたたびレンズブルク運河橋を列車で超えて、リューベックに戻った。


  • 5、バンベルクへ<br /> 一行はリューベックでの2泊を終え6月19日、次の目的地バンベルクへ向かう。ただドイツ北辺のリューベックから中央部に位置するバンベルクまでの直行列車はないので、途中で乗り換えなければならない。荷物を持っての移動は、なるべく乗換が少ないほうが好都合だ。バンベルク周辺は大都市が点在しているので、鉄道も網の目のように四通八達していて、リューベック~バンベルク間をネットで検索すると何通りかのダイヤの組合せが出てきた。その中で時間的にも好都合で、乗換えも一度だけのコースを選び、リューベック発8時26分、ヴュルツブルクでは7分の接続時間で乗り継げて、バンベルクには13時半に到着できるダイヤを日本出発前に選び出すことができた。  <br /> バンベルクはフランクフルトから東へ約220㎞、ミュンヘンからは北に約230㎞の位置にある人口約7.8万人、面積54?の都市である。日本で人口と面積がバンベルクに近い都市は牛久市が8.4万人・59?、館林市が7.8万人で61?などが人口・面積ともにバンベルク市に近い。市内に点在する大聖堂、新旧の宮殿などを含めた市街が世界遺産に登録されている。<br />

    5、バンベルクへ
     一行はリューベックでの2泊を終え6月19日、次の目的地バンベルクへ向かう。ただドイツ北辺のリューベックから中央部に位置するバンベルクまでの直行列車はないので、途中で乗り換えなければならない。荷物を持っての移動は、なるべく乗換が少ないほうが好都合だ。バンベルク周辺は大都市が点在しているので、鉄道も網の目のように四通八達していて、リューベック~バンベルク間をネットで検索すると何通りかのダイヤの組合せが出てきた。その中で時間的にも好都合で、乗換えも一度だけのコースを選び、リューベック発8時26分、ヴュルツブルクでは7分の接続時間で乗り継げて、バンベルクには13時半に到着できるダイヤを日本出発前に選び出すことができた。  
     バンベルクはフランクフルトから東へ約220㎞、ミュンヘンからは北に約230㎞の位置にある人口約7.8万人、面積54?の都市である。日本で人口と面積がバンベルクに近い都市は牛久市が8.4万人・59?、館林市が7.8万人で61?などが人口・面積ともにバンベルク市に近い。市内に点在する大聖堂、新旧の宮殿などを含めた市街が世界遺産に登録されている。

  • あドイツの国土面積は約36万?で日本とほとんど同じだが、海に面しているのは北面だけなので、海運や漁業に利用できる海岸は少ない。そのため、ドイツでは平野を流れる豊かな水量の川を利用した水運や河川漁業が盛んである。バンベルクでも旧市街に隣接した川畔に漁師町があり、現在では漁業はおこなわれていないが、漁師町は「小ベニス」として景観地区になっている。<br /> 一回り、バンベルクの歴史地区を散策後、そろそろ夕食の時間が近づいた。それとなく、数軒のレストランに目星をつけておいたので、まずは中心部に位置するレストランを覗いてみたところ、大入り満員で席待ちの客が道路に溢れ出ている。とても9人で一度に入るのは無理なので、第2候補としてホテルの方向に少し戻ったところに見つけておいたレストラン“Zum Sternla”を覗くとちょうど席が空いたところで、運良く同じテーブルに全員が座ることができた。<br />

    あドイツの国土面積は約36万?で日本とほとんど同じだが、海に面しているのは北面だけなので、海運や漁業に利用できる海岸は少ない。そのため、ドイツでは平野を流れる豊かな水量の川を利用した水運や河川漁業が盛んである。バンベルクでも旧市街に隣接した川畔に漁師町があり、現在では漁業はおこなわれていないが、漁師町は「小ベニス」として景観地区になっている。
     一回り、バンベルクの歴史地区を散策後、そろそろ夕食の時間が近づいた。それとなく、数軒のレストランに目星をつけておいたので、まずは中心部に位置するレストランを覗いてみたところ、大入り満員で席待ちの客が道路に溢れ出ている。とても9人で一度に入るのは無理なので、第2候補としてホテルの方向に少し戻ったところに見つけておいたレストラン“Zum Sternla”を覗くとちょうど席が空いたところで、運良く同じテーブルに全員が座ることができた。

  •  日本でビールというと、ほとんどが下面発酵と言われる方法で醸造したラガービールで、たまに「ラガーより黒ビールが良い」という人もいるが、レストランで「ビールを」というと、銘柄を訊かれることがあっても醸造方法によって違う種類のビールなどなきに等しく、ラガービールが出てくる。ところがビール王国と言われるドイツでは醸造方法も千差万別、様々なビールがある。<br /> バンベルクにもここでしか味わうことができない地ビールがある。それはラオホビア(Rauchbier)という名のビールで、「煙のビール」の名のとおり原料の大麦を乾燥するときにブナの木を燃やして、麦芽を乾燥させている。昔はどのビールも同じような燻蒸法で麦芽を乾燥させていたが、煙を直接麦芽に当てないように焙煎釜が発明されてから、ビールに燻蒸の臭気が移らなくなった。ところがバンベルクでは焦げ臭いビールを好む愛飲家が多かったのか、焦げ臭いラオホビアがバンベルク名物となった。<br /> 初夏のドイツの味の代表は白アスパラガスだ。白アスパラの栽培は白ネギやタケノコと似ている。基本的には日光に当たると葉緑素が生成してグリーンアスパラになってしまうので、畝に土盛りをして日光を遮りながら生育を待つ。収穫時も気温の低い早朝に行う。ドイツでは品質保証上の観点から、収穫は6月24日(聖ヨハネ記念日)までに限っているので、6月末になると白アスパラは賞味不可能である。<br />もちろん“Zum Sternla”でまっさきに注文したのはラオホビアと白アスパラである。人によっては「旅先で見たこともないものを食べるなんて、恐ろしくてできない」と言って、決まりきった料理しか注文しないが、その土地に古くから伝えられる料理や飲物も郷土文化のひとつである。私はその土地の文化・風土の理解には土地の名物料理を食すのがもっとも手軽な理解法の一つと思う。<br />それほど広くない“Zum Sternla”のフロアーは半分が8人程度で囲むことができるテーブル席が5~6セット置かれ、後の半分はカウンター越しに飲みものを注文して適当に立飲みできるパブのような構造のレストランだった。地ビールと白アスパラに始まった夕食もやがてお開きとなり、一行はホテルに戻った。<br />

     日本でビールというと、ほとんどが下面発酵と言われる方法で醸造したラガービールで、たまに「ラガーより黒ビールが良い」という人もいるが、レストランで「ビールを」というと、銘柄を訊かれることがあっても醸造方法によって違う種類のビールなどなきに等しく、ラガービールが出てくる。ところがビール王国と言われるドイツでは醸造方法も千差万別、様々なビールがある。
     バンベルクにもここでしか味わうことができない地ビールがある。それはラオホビア(Rauchbier)という名のビールで、「煙のビール」の名のとおり原料の大麦を乾燥するときにブナの木を燃やして、麦芽を乾燥させている。昔はどのビールも同じような燻蒸法で麦芽を乾燥させていたが、煙を直接麦芽に当てないように焙煎釜が発明されてから、ビールに燻蒸の臭気が移らなくなった。ところがバンベルクでは焦げ臭いビールを好む愛飲家が多かったのか、焦げ臭いラオホビアがバンベルク名物となった。
     初夏のドイツの味の代表は白アスパラガスだ。白アスパラの栽培は白ネギやタケノコと似ている。基本的には日光に当たると葉緑素が生成してグリーンアスパラになってしまうので、畝に土盛りをして日光を遮りながら生育を待つ。収穫時も気温の低い早朝に行う。ドイツでは品質保証上の観点から、収穫は6月24日(聖ヨハネ記念日)までに限っているので、6月末になると白アスパラは賞味不可能である。
    もちろん“Zum Sternla”でまっさきに注文したのはラオホビアと白アスパラである。人によっては「旅先で見たこともないものを食べるなんて、恐ろしくてできない」と言って、決まりきった料理しか注文しないが、その土地に古くから伝えられる料理や飲物も郷土文化のひとつである。私はその土地の文化・風土の理解には土地の名物料理を食すのがもっとも手軽な理解法の一つと思う。
    それほど広くない“Zum Sternla”のフロアーは半分が8人程度で囲むことができるテーブル席が5~6セット置かれ、後の半分はカウンター越しに飲みものを注文して適当に立飲みできるパブのような構造のレストランだった。地ビールと白アスパラに始まった夕食もやがてお開きとなり、一行はホテルに戻った。

  • 6、ローテンブルク観光<br /> ローテンブルクは第2次大戦末期の1945年3月31日、16機の米空軍機の爆撃で旧市内の40%が被害を被った。ドイツの降伏は同年5月7日、約1か月後だった。大戦後、ドイツの他の街と同じようにローテンブルクの町並みは忠実に再現され、往時の姿を取り戻すことができた。日本でも町並みの再現を志向する自治体が多いが、ドイツの場合は建物だけの再現ではなく、住民も往時のままの生活ができる形で、町が単なるテーマパーク化することがない点が日本と違う。<br /> 大戦中にも被害を被ったローテンブルクだが、その300年前の1631年の30年戦争の真っ只中、カトリック派の軍隊がプロテスタント派のローテンブルクに攻め寄った時、市長ヌッシュがある休戦案を提出し、見事に町を救った史実があった。町の参事会館に現れた敵軍の将ティリー伯の気分をなだめようと差し出した3リットル入りのワイングラスを指差した市長は「今からこのワインを一気飲みしてみせる。もし一気に飲み干したら、直ちにカトリック軍を町から撤退させて欲しい」と言って、3リットルのワインを一気飲みで空にしたという。この話は現代まで伝説として受け継がれ、毎年マイスタートゥルンクの祭りとして聖霊降臨祭に行われている。市庁舎の仕掛け時計も文字盤の中から現れた市長が一気飲みで時を告げる。<br /> ワインの一気飲みは往時のドイツではしばしば行われていたらしく、この後で紹介するハイデルベルク城でもワイン保管庫の倉庫番が領主の言いつけでワインの大樽を一気飲みした伝説がある。<br />ふと目を向けると市庁舎から出てきた花嫁と花婿が大勢の招待者に取り囲まれて、祝福されていた。ドイツでは新郎新婦は正装で市役所に出向いて婚姻届を出してから教会で結婚式を挙げるのが慣わしだ。きっとあの新婚カップルも市庁舎で届出を済ませてこれから聖堂に入り、牧師の前で永遠の契を結ぶのだろう。後日、マールブルクの市庁舎広場でも幸せそうなカップルに出会うことができた。時は6月、まさにジューンブライドの誕生だ。<br />

    6、ローテンブルク観光
     ローテンブルクは第2次大戦末期の1945年3月31日、16機の米空軍機の爆撃で旧市内の40%が被害を被った。ドイツの降伏は同年5月7日、約1か月後だった。大戦後、ドイツの他の街と同じようにローテンブルクの町並みは忠実に再現され、往時の姿を取り戻すことができた。日本でも町並みの再現を志向する自治体が多いが、ドイツの場合は建物だけの再現ではなく、住民も往時のままの生活ができる形で、町が単なるテーマパーク化することがない点が日本と違う。
     大戦中にも被害を被ったローテンブルクだが、その300年前の1631年の30年戦争の真っ只中、カトリック派の軍隊がプロテスタント派のローテンブルクに攻め寄った時、市長ヌッシュがある休戦案を提出し、見事に町を救った史実があった。町の参事会館に現れた敵軍の将ティリー伯の気分をなだめようと差し出した3リットル入りのワイングラスを指差した市長は「今からこのワインを一気飲みしてみせる。もし一気に飲み干したら、直ちにカトリック軍を町から撤退させて欲しい」と言って、3リットルのワインを一気飲みで空にしたという。この話は現代まで伝説として受け継がれ、毎年マイスタートゥルンクの祭りとして聖霊降臨祭に行われている。市庁舎の仕掛け時計も文字盤の中から現れた市長が一気飲みで時を告げる。
     ワインの一気飲みは往時のドイツではしばしば行われていたらしく、この後で紹介するハイデルベルク城でもワイン保管庫の倉庫番が領主の言いつけでワインの大樽を一気飲みした伝説がある。
    ふと目を向けると市庁舎から出てきた花嫁と花婿が大勢の招待者に取り囲まれて、祝福されていた。ドイツでは新郎新婦は正装で市役所に出向いて婚姻届を出してから教会で結婚式を挙げるのが慣わしだ。きっとあの新婚カップルも市庁舎で届出を済ませてこれから聖堂に入り、牧師の前で永遠の契を結ぶのだろう。後日、マールブルクの市庁舎広場でも幸せそうなカップルに出会うことができた。時は6月、まさにジューンブライドの誕生だ。

  •  昼食後もふたたび市内見学に精を出す。マルクト広場に隣接してローテンブルク最大の聖堂・聖ヤコブ教会がある。聖ヤコブは北スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラで遺骨が発見されたという言い伝えがあり、発見場所に建立されたのが聖ヤコブ教会(サンチアゴ)である。ヤコブという名前は聖書の中に何人かいるので、12使徒のヤコブは「ゼベダイの子ヤコブ」と呼ばれ、使徒ヤコブのシンボルは帆立貝の貝殻である。フランスやスペインの各地からサンチアゴデコンポステラに向かう巡礼道は途中の道しるべとして、貝殻のマークが道路に埋め込まれている。<br /> 聖ヤコブ教会の聖堂内に黒檀で彫られた大きなボートが置かれていた。ボートの艫には幼子イエスを抱いた聖母マリアが座し、ボートの中間部分には12人の黒人が2列に並んで聖母子をあがめている。舳先の黒人は楽人なのだろうか、大きな角笛を吹いている。聖堂内には説明書きもなくわからなかったが、帰国後に文献を調べたらこの彫塑はドイツとタンザニアの友好の証として贈られたものだという。<br /><br />

     昼食後もふたたび市内見学に精を出す。マルクト広場に隣接してローテンブルク最大の聖堂・聖ヤコブ教会がある。聖ヤコブは北スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラで遺骨が発見されたという言い伝えがあり、発見場所に建立されたのが聖ヤコブ教会(サンチアゴ)である。ヤコブという名前は聖書の中に何人かいるので、12使徒のヤコブは「ゼベダイの子ヤコブ」と呼ばれ、使徒ヤコブのシンボルは帆立貝の貝殻である。フランスやスペインの各地からサンチアゴデコンポステラに向かう巡礼道は途中の道しるべとして、貝殻のマークが道路に埋め込まれている。
     聖ヤコブ教会の聖堂内に黒檀で彫られた大きなボートが置かれていた。ボートの艫には幼子イエスを抱いた聖母マリアが座し、ボートの中間部分には12人の黒人が2列に並んで聖母子をあがめている。舳先の黒人は楽人なのだろうか、大きな角笛を吹いている。聖堂内には説明書きもなくわからなかったが、帰国後に文献を調べたらこの彫塑はドイツとタンザニアの友好の証として贈られたものだという。

  • ドイツはかつて東アフリカ会社を設立し、植民地としてタンザニアを含めて開発していた。第1次大戦で敗北を喫したドイツに代わって東アフリカの統治は英国がとってかわったが、そのころ現地を訪れたアメリカのフェルプス=ストークス委員会は「学校に関して、ドイツ人は驚くべきことを成し遂げた。教育をドイツ人が行った水準まで引き上げるには若干の時間を要する」と報告している。<br />聖ヤコブ教会を見ているうちに時計は午後1時を過ぎてしまった。今日の予定ではこのあと、帰路の途中でニュルンベルクの観光も予定しているので、そろそろ帰路につかなければならない。<br />

    ドイツはかつて東アフリカ会社を設立し、植民地としてタンザニアを含めて開発していた。第1次大戦で敗北を喫したドイツに代わって東アフリカの統治は英国がとってかわったが、そのころ現地を訪れたアメリカのフェルプス=ストークス委員会は「学校に関して、ドイツ人は驚くべきことを成し遂げた。教育をドイツ人が行った水準まで引き上げるには若干の時間を要する」と報告している。
    聖ヤコブ教会を見ているうちに時計は午後1時を過ぎてしまった。今日の予定ではこのあと、帰路の途中でニュルンベルクの観光も予定しているので、そろそろ帰路につかなければならない。

  •  前日にバンベルク市内見物の際に立ち寄った丘の上の大聖堂で翌日(つまり今日)の夜、ドレスデン少年合唱団のコンサートがあることを知ったので早めに食事を済ませて大聖堂に行き、コンサートを聞くことができた。少年合唱団ではあるが、男声部(低音域)は少年合唱では歌うことができないので、OBたちなのであろうか、青年層の団員も加わっている。女声合唱よりも透明度の高いボーイソプラノの高声部はOBたちの低声部とマッチして美しいハーモニーを醸し出す。<br />曲目の中にはDoppelchor(二重合唱)の曲もあり、それまでステージがわりに前方のチャンセル(聖壇)で歌っていた団員は二手に分かれて、半数は聖堂中央の身廊後部に移動して、前後にわかれての演奏となった。<br />

     前日にバンベルク市内見物の際に立ち寄った丘の上の大聖堂で翌日(つまり今日)の夜、ドレスデン少年合唱団のコンサートがあることを知ったので早めに食事を済ませて大聖堂に行き、コンサートを聞くことができた。少年合唱団ではあるが、男声部(低音域)は少年合唱では歌うことができないので、OBたちなのであろうか、青年層の団員も加わっている。女声合唱よりも透明度の高いボーイソプラノの高声部はOBたちの低声部とマッチして美しいハーモニーを醸し出す。
    曲目の中にはDoppelchor(二重合唱)の曲もあり、それまでステージがわりに前方のチャンセル(聖壇)で歌っていた団員は二手に分かれて、半数は聖堂中央の身廊後部に移動して、前後にわかれての演奏となった。

  •  ローテンブルク観光で時間を取りすぎ、帰路に寄ったニュルンベルクでは1時間弱の駆け足観光となってしまい、聖クララ教会と聖ロレンツ教会の2ヶ所に的を絞った観光となった。聖ロレンツ教会の聖堂中央にはファイトシュトス作の受胎告知のレリーフが天井から下げられている。ニュルンベルクは先の大戦で徹底的に破壊された都市のひとつだが、聖ロレンツ教会はこのレリーフを含めて復元されている。

     ローテンブルク観光で時間を取りすぎ、帰路に寄ったニュルンベルクでは1時間弱の駆け足観光となってしまい、聖クララ教会と聖ロレンツ教会の2ヶ所に的を絞った観光となった。聖ロレンツ教会の聖堂中央にはファイトシュトス作の受胎告知のレリーフが天井から下げられている。ニュルンベルクは先の大戦で徹底的に破壊された都市のひとつだが、聖ロレンツ教会はこのレリーフを含めて復元されている。

  • 8、ヴュルツブルク経由ミュンヘンへ<br /> バンベルクでの宿泊は2日間で、翌日6月21日はミュンヘンへの移動日であった。バンベルク~ミュンヘン間にあるヴュルツブルクはロマンティック街道の起点だが、歴史的にも古い町で見ごたえのある施設も多い。日程と行程の関係でヴュルツブルクはミュンヘンへの移動当日に途中下車しての観光となった。

    8、ヴュルツブルク経由ミュンヘンへ
     バンベルクでの宿泊は2日間で、翌日6月21日はミュンヘンへの移動日であった。バンベルク~ミュンヘン間にあるヴュルツブルクはロマンティック街道の起点だが、歴史的にも古い町で見ごたえのある施設も多い。日程と行程の関係でヴュルツブルクはミュンヘンへの移動当日に途中下車しての観光となった。

  •  ヴュルツブルクでの見所はレジデンツと丘の上に建つマリエンベルク要塞である。以前来たときマリエンベルク要塞では日に数回、ドイツ語のガイドツアーとともに英語のツアーもあったが、今回は午後3時にドイツ語のツアーが一度だけで、それ以外の時間帯は自由見学であった。幸い私は前回英語ツアーで見学していたので、ガイドなしの見学でも最低限の見学場所は効率的に案内することができた。<br /> 丘上の要塞の庭園からは眼下に見えるマイン川の対岸にヴュルツブルクの市街が一望できる。要塞からマイン川に向けての斜面はブドウ畑で、土地の名産「フランケンワイン」の原料となる。ヴュルツブルク観光を終えた一行は列車で一路ミュンヘンに向かった。

     ヴュルツブルクでの見所はレジデンツと丘の上に建つマリエンベルク要塞である。以前来たときマリエンベルク要塞では日に数回、ドイツ語のガイドツアーとともに英語のツアーもあったが、今回は午後3時にドイツ語のツアーが一度だけで、それ以外の時間帯は自由見学であった。幸い私は前回英語ツアーで見学していたので、ガイドなしの見学でも最低限の見学場所は効率的に案内することができた。
     丘上の要塞の庭園からは眼下に見えるマイン川の対岸にヴュルツブルクの市街が一望できる。要塞からマイン川に向けての斜面はブドウ畑で、土地の名産「フランケンワイン」の原料となる。ヴュルツブルク観光を終えた一行は列車で一路ミュンヘンに向かった。

  •  午後6時前にホテルに落ち着き、一同揃って市内見物を兼ねて食事に出ることにした。ミュンヘン一の繁華街マリエンプラッツは中央駅からUバーンで2駅、ホンの数分で到着する。マリエンプラッツに面して建っている市庁舎の塔屋の仕掛け時計が観光のメダマだ。今日の夕食はその市庁舎内のラーツケラーと決めていた。広場に面したラーツケラーの入口に近づいてみると、入口は工事中で、市庁舎に沿って右手に曲がり込んだ別の入口から入るよう、指示された張り紙があった。入口は工事中だがレストランは通常通りの営業であった。店内に入ると、数組の先客が順番待ちしていた。ところが係りに「7人なんだけど」と人数を告げると、他の客を出し抜いて、一行をすぐに奥の方に案内してくれると、ちょうど7人分の席が空いていた。もちろんミュンヘン名物のピルスナービールの乾杯で夕食が始まったことは言うまでもない。

     午後6時前にホテルに落ち着き、一同揃って市内見物を兼ねて食事に出ることにした。ミュンヘン一の繁華街マリエンプラッツは中央駅からUバーンで2駅、ホンの数分で到着する。マリエンプラッツに面して建っている市庁舎の塔屋の仕掛け時計が観光のメダマだ。今日の夕食はその市庁舎内のラーツケラーと決めていた。広場に面したラーツケラーの入口に近づいてみると、入口は工事中で、市庁舎に沿って右手に曲がり込んだ別の入口から入るよう、指示された張り紙があった。入口は工事中だがレストランは通常通りの営業であった。店内に入ると、数組の先客が順番待ちしていた。ところが係りに「7人なんだけど」と人数を告げると、他の客を出し抜いて、一行をすぐに奥の方に案内してくれると、ちょうど7人分の席が空いていた。もちろんミュンヘン名物のピルスナービールの乾杯で夕食が始まったことは言うまでもない。

  • ミュンヘン中央駅まで2駅だが、距離はせいぜい2キロ程度と大したことはないし、中間のカールスプラッツを含めて、ウィンドショッピングも楽しめる散歩コースだ。マリエンプラッツの路上では弦楽とグランドピアノ、フルートの五重奏団が演奏中だった。街頭の演奏者の前には蓋をあけた楽器ケースがおいてあって、写真を撮る時にはそこになにがしかの投げ銭を入れる習慣がある。<br />顔をブロンズ色に塗りたくって、本物の銅像のようにピクリとも動かないパフォーマンスを演じている芸人なども街頭で見かけるが、そんな時にも写真を撮る場合は必ず投げ銭を放り込むのが礼儀だ。ミュンヘンはひと晩の宿で、翌日はムルナウに移動となった。前述のようにムルナウの宿は私が何度も利用した宿なので、家に帰るような気安さで利用できるが、大きな町の中心部にばかり宿を取ってきた他の参加者にとって、田園地帯の民宿など初めてで、現地に着くまで、いくぶんかの不安はあったかもしれない。<br />

    ミュンヘン中央駅まで2駅だが、距離はせいぜい2キロ程度と大したことはないし、中間のカールスプラッツを含めて、ウィンドショッピングも楽しめる散歩コースだ。マリエンプラッツの路上では弦楽とグランドピアノ、フルートの五重奏団が演奏中だった。街頭の演奏者の前には蓋をあけた楽器ケースがおいてあって、写真を撮る時にはそこになにがしかの投げ銭を入れる習慣がある。
    顔をブロンズ色に塗りたくって、本物の銅像のようにピクリとも動かないパフォーマンスを演じている芸人なども街頭で見かけるが、そんな時にも写真を撮る場合は必ず投げ銭を放り込むのが礼儀だ。ミュンヘンはひと晩の宿で、翌日はムルナウに移動となった。前述のようにムルナウの宿は私が何度も利用した宿なので、家に帰るような気安さで利用できるが、大きな町の中心部にばかり宿を取ってきた他の参加者にとって、田園地帯の民宿など初めてで、現地に着くまで、いくぶんかの不安はあったかもしれない。

  • 9、ムルナウ<br /> ミュンヘンで一夜を過ごした翌日6月22日はムルナウへの移動日だが、両駅間は1時間程度なので、一行は適時ミュンヘン見物後に午後の列車で分散してムルナウに入った。数年前に来たとき、オーバアマガウ行の支線との分岐駅のムルナウは改良工事中だったが、工事も終わっていた。駅から数分、牛舎特有の臭いの漂う田園地帯を歩くと民宿「スポーラーホフ」がある。3階建ての客室を持つ母屋と、庭に点在する3棟の宿泊専用棟があり、我々は数ヶ所にわかれての宿泊となった。<br /> 一昨年この民宿に泊まった時まで、私より10歳年長のおばあちゃんが切り盛りしていた。今回の訪問で私たちを迎えてくれたのは、おばあちゃんの娘さんだった。母屋に案内されると、食堂の一角の小テーブルに見覚えのあるおばあちゃんの大きな写真が飾られていた。もしや?と思って、娘さんにおばあちゃんの安否を尋ねたら、昨年亡くなったとのことだった。計算すると亡くなった時の年齢は86歳であったので、年齢的には不足はないが、あの温和なおばあちゃんに会えないのが残念だった。<br />

    9、ムルナウ
     ミュンヘンで一夜を過ごした翌日6月22日はムルナウへの移動日だが、両駅間は1時間程度なので、一行は適時ミュンヘン見物後に午後の列車で分散してムルナウに入った。数年前に来たとき、オーバアマガウ行の支線との分岐駅のムルナウは改良工事中だったが、工事も終わっていた。駅から数分、牛舎特有の臭いの漂う田園地帯を歩くと民宿「スポーラーホフ」がある。3階建ての客室を持つ母屋と、庭に点在する3棟の宿泊専用棟があり、我々は数ヶ所にわかれての宿泊となった。
     一昨年この民宿に泊まった時まで、私より10歳年長のおばあちゃんが切り盛りしていた。今回の訪問で私たちを迎えてくれたのは、おばあちゃんの娘さんだった。母屋に案内されると、食堂の一角の小テーブルに見覚えのあるおばあちゃんの大きな写真が飾られていた。もしや?と思って、娘さんにおばあちゃんの安否を尋ねたら、昨年亡くなったとのことだった。計算すると亡くなった時の年齢は86歳であったので、年齢的には不足はないが、あの温和なおばあちゃんに会えないのが残念だった。

  •  この民宿は駅に近くて便利なのだが、ムルナウの中心街(ドイツではドルフ…村…と言っている)は駅から15分ほど離れた場所だ。一般のホテルと違って、民宿では朝食は供与されるが、レストランが併設されているわけではないので、夕食は中心街まで出なければならない。15年前に初めて来た時、最初の夕食は妻と二人だけだった気楽さも手伝い、おばあちゃんに無理をお願いしたら「温かいものはあまりできないけれど」と言いながらも、しっかりした夕食を出してくれた。今回9人もいたのではそうわがままは言えない。それにムルナウの町も同行者に見てもらいたくもあり、皆でドルフまで夕食に出た。小さな村なのでレストランの数も少なく、結局前回も入ったことのある店に皆を案内した。<br /><br />

     この民宿は駅に近くて便利なのだが、ムルナウの中心街(ドイツではドルフ…村…と言っている)は駅から15分ほど離れた場所だ。一般のホテルと違って、民宿では朝食は供与されるが、レストランが併設されているわけではないので、夕食は中心街まで出なければならない。15年前に初めて来た時、最初の夕食は妻と二人だけだった気楽さも手伝い、おばあちゃんに無理をお願いしたら「温かいものはあまりできないけれど」と言いながらも、しっかりした夕食を出してくれた。今回9人もいたのではそうわがままは言えない。それにムルナウの町も同行者に見てもらいたくもあり、皆でドルフまで夕食に出た。小さな村なのでレストランの数も少なく、結局前回も入ったことのある店に皆を案内した。

  •  ムルナウでは2泊の計画で、中1日に希望者は近隣の観光地数ヶ所を回ることにしていた。行先はエッタール修道院、壁絵と10年ごとの受難劇で世界中から観客が集まるオーバアマガウそして建築家ツィンマーマン兄弟の傑作と言われ、草原の奇跡とも呼ばれているヴィース教会である。私はオーバアマガウとエッタールには何回か来ているが、ヴィース教会は15年前、キリストの昇天を記念する聖日に訪問し、この聖堂で昇天日の礼拝を守ったことがあったが、ぜひもう一度来てみたい教会だった。<br /> 6月23日、ムルナウからインスブルック方面行の列車でオーベラウまで行き、バスに乗り換えてエッタールに向かった。エッタール修道院は1330年に建立されたベネディクト派の修道院である。<br />エッタール修道院についたとき、私は1本の電話をかけてみた。2000年にオーバアマガウの受難劇を見に行ったとき、隣席にドイツのご婦人が座った。受難劇は昼食休憩をはさんで6時間もかかる公演なので、幕間には同い年の彼女と会話が弾んだ。公演が済んだ夕方、どちらからともなく「それでは10年後の次回公演でまた会いましょうね」と言いながら別れを告げた。以降、e-mailを使わない彼女とは時々手紙の交換が続き、約束通り2010年の公演の時には同じ公演日のチケットを買い求めて、現地で10年ぶりの再会を果たした。その彼女の自宅はブレーメンの近くだが、エッタールにサマーハウスを持っていて、毎年夏はエッタールで過ごしていた。今回、エッタール訪問を思いついた背景には、運がよければ彼女と会えるのでは?との期待もあり、出発前にエッタールに出かける日程を知らせておいた。前日ムルナウに着くと宿の女主人が私宛にブレーメンの彼女から来たハガキを手渡してくれた。ドイツ語で書かれた手紙は「残念だけど今年はエッタールには行かれない」との文言が書かれていた。エッタールについて「もしかしたら」と淡い期待を込めて彼女に電話をかけてみたのだが、やはり彼女はブレーメンの自宅にいることが分かり、再会は出来なかった。<br /><br />

     ムルナウでは2泊の計画で、中1日に希望者は近隣の観光地数ヶ所を回ることにしていた。行先はエッタール修道院、壁絵と10年ごとの受難劇で世界中から観客が集まるオーバアマガウそして建築家ツィンマーマン兄弟の傑作と言われ、草原の奇跡とも呼ばれているヴィース教会である。私はオーバアマガウとエッタールには何回か来ているが、ヴィース教会は15年前、キリストの昇天を記念する聖日に訪問し、この聖堂で昇天日の礼拝を守ったことがあったが、ぜひもう一度来てみたい教会だった。
     6月23日、ムルナウからインスブルック方面行の列車でオーベラウまで行き、バスに乗り換えてエッタールに向かった。エッタール修道院は1330年に建立されたベネディクト派の修道院である。
    エッタール修道院についたとき、私は1本の電話をかけてみた。2000年にオーバアマガウの受難劇を見に行ったとき、隣席にドイツのご婦人が座った。受難劇は昼食休憩をはさんで6時間もかかる公演なので、幕間には同い年の彼女と会話が弾んだ。公演が済んだ夕方、どちらからともなく「それでは10年後の次回公演でまた会いましょうね」と言いながら別れを告げた。以降、e-mailを使わない彼女とは時々手紙の交換が続き、約束通り2010年の公演の時には同じ公演日のチケットを買い求めて、現地で10年ぶりの再会を果たした。その彼女の自宅はブレーメンの近くだが、エッタールにサマーハウスを持っていて、毎年夏はエッタールで過ごしていた。今回、エッタール訪問を思いついた背景には、運がよければ彼女と会えるのでは?との期待もあり、出発前にエッタールに出かける日程を知らせておいた。前日ムルナウに着くと宿の女主人が私宛にブレーメンの彼女から来たハガキを手渡してくれた。ドイツ語で書かれた手紙は「残念だけど今年はエッタールには行かれない」との文言が書かれていた。エッタールについて「もしかしたら」と淡い期待を込めて彼女に電話をかけてみたのだが、やはり彼女はブレーメンの自宅にいることが分かり、再会は出来なかった。

  •  修道院の見学後、バスでオーバアマガウに向かった。10年に一度受難劇を開催することで名高い村だが、その受難劇上演のために恒久的な劇場が建てられている。受難劇は5月から10月まで約80回上演されるが、受難劇上演の年以外も様々な公演が行われている。今回も劇場に立ち寄って見たらヴェルディの歌劇「ナブッコ」上演のための大道具の準備中だった。

     修道院の見学後、バスでオーバアマガウに向かった。10年に一度受難劇を開催することで名高い村だが、その受難劇上演のために恒久的な劇場が建てられている。受難劇は5月から10月まで約80回上演されるが、受難劇上演の年以外も様々な公演が行われている。今回も劇場に立ち寄って見たらヴェルディの歌劇「ナブッコ」上演のための大道具の準備中だった。

  •  ムルナウでは2泊の計画で、中1日に希望者は近隣の観光地数ヶ所を回ることにしていた。行先はエッタール修道院、壁絵と10年ごとの受難劇で世界中から観客が集まるオーバアマガウそして建築家ツィンマーマン兄弟の傑作と言われ、草原の奇跡とも呼ばれているヴィース教会である。私はオーバアマガウとエッタールには何回か来ているが、ヴィース教会は15年前、キリストの昇天を記念する聖日に訪問し、この聖堂で昇天日の礼拝を守ったことがあったが、ぜひもう一度来てみたい教会だった。<br /> 6月23日、ムルナウからインスブルック方面行の列車でオーベラウまで行き、バスに乗り換えてエッタールに向かった。エッタール修道院は1330年に建立されたベネディクト派の修道院である。<br />

     ムルナウでは2泊の計画で、中1日に希望者は近隣の観光地数ヶ所を回ることにしていた。行先はエッタール修道院、壁絵と10年ごとの受難劇で世界中から観客が集まるオーバアマガウそして建築家ツィンマーマン兄弟の傑作と言われ、草原の奇跡とも呼ばれているヴィース教会である。私はオーバアマガウとエッタールには何回か来ているが、ヴィース教会は15年前、キリストの昇天を記念する聖日に訪問し、この聖堂で昇天日の礼拝を守ったことがあったが、ぜひもう一度来てみたい教会だった。
     6月23日、ムルナウからインスブルック方面行の列車でオーベラウまで行き、バスに乗り換えてエッタールに向かった。エッタール修道院は1330年に建立されたベネディクト派の修道院である。

  • 11、ハイデルベルク<br /> 見学の中心は丘上に聳えるハイデルベルク城である。城までは市庁舎横のコルンマルクト広場からケーブルカーで昇ることができる。<br />  城の建設は文献では13世紀、1225年が最初の記録として残されているが、その後破壊と再建が何回も繰り返されて現在に至っている。17世紀前半にドイツを中心に争われた30年戦争の最中には前述のローテンブルクに攻め込んだカトリック軍は市長ヌッシュが3リットルのワインを一気に飲み干すのを見て、ローテンブルク攻略を中止した故事がある。<br /> 城内の一角は薬事博物館として中世以来の製薬に関する文献や実験道具が展示されている。中世紀のヨーロッパでは錬金術の研究が盛んで、錬金術師たちが真剣に錬金術に取り組んでいた。物理学の理論からすれば鉛を金に変えることは、核反応を利用しない限り不可能だが、錬金術の「副産物」として諸種の実験技術が発達し薬剤学にも貢献していた。丘上に建つ城の庭から眼下にハイデルベルクの街とネッカー川、そして川に架かるアルテ橋が広がる風景はハイデルベルクを物語る時にかかせないひとコマだ。<br />

    11、ハイデルベルク
     見学の中心は丘上に聳えるハイデルベルク城である。城までは市庁舎横のコルンマルクト広場からケーブルカーで昇ることができる。
     城の建設は文献では13世紀、1225年が最初の記録として残されているが、その後破壊と再建が何回も繰り返されて現在に至っている。17世紀前半にドイツを中心に争われた30年戦争の最中には前述のローテンブルクに攻め込んだカトリック軍は市長ヌッシュが3リットルのワインを一気に飲み干すのを見て、ローテンブルク攻略を中止した故事がある。
     城内の一角は薬事博物館として中世以来の製薬に関する文献や実験道具が展示されている。中世紀のヨーロッパでは錬金術の研究が盛んで、錬金術師たちが真剣に錬金術に取り組んでいた。物理学の理論からすれば鉛を金に変えることは、核反応を利用しない限り不可能だが、錬金術の「副産物」として諸種の実験技術が発達し薬剤学にも貢献していた。丘上に建つ城の庭から眼下にハイデルベルクの街とネッカー川、そして川に架かるアルテ橋が広がる風景はハイデルベルクを物語る時にかかせないひとコマだ。

  •  お城見物の後、ネッカー川沿いに散策していると下流から上ってきた船が川岸に停まった。そこには堰が設けられていて、船が堰の脇に設けられた閘門に入り、下流側の閘門が閉じられると、今度は上流側(船の舳先側)の閘門が開かれて、船の停留している部分の水位が上がる。水位が上流側と等しくなった時点で上流側の閘門が全開して、堰の高さ分だけ高くなった船は上流に向けて航行を開始した。ヨーロッパ平野は大西洋から黒海まで運河で結ばれているが水面の高さはまったく同じではないため、川の途中で何回か水位調整のための閘門を通過しなければならない。<br />太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河も海抜26メートルのガトゥン湖を運河の一部に利用するため、6門の閘門を設けて高低差をクリヤーしている。ハイデルベルクの閘門に入った船は約7分で水位調整が終わって上流に向けて動き出した。<br /><br />

     お城見物の後、ネッカー川沿いに散策していると下流から上ってきた船が川岸に停まった。そこには堰が設けられていて、船が堰の脇に設けられた閘門に入り、下流側の閘門が閉じられると、今度は上流側(船の舳先側)の閘門が開かれて、船の停留している部分の水位が上がる。水位が上流側と等しくなった時点で上流側の閘門が全開して、堰の高さ分だけ高くなった船は上流に向けて航行を開始した。ヨーロッパ平野は大西洋から黒海まで運河で結ばれているが水面の高さはまったく同じではないため、川の途中で何回か水位調整のための閘門を通過しなければならない。
    太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河も海抜26メートルのガトゥン湖を運河の一部に利用するため、6門の閘門を設けて高低差をクリヤーしている。ハイデルベルクの閘門に入った船は約7分で水位調整が終わって上流に向けて動き出した。

  • 閘門はアルシュタット駅に近かったので、町の中心までは電車で戻った。夕食前にいったん駅前のホテルに戻るとき、駅前広場には何台かの長距離バスが客待ちで停車していた。車体に書かれた広告ではケルン~ドレスデン間が1日に2本の運行で20ユーロ、デュッセルドルフ~ベルリン間の夜行バスが22ユーロなどとなっていた。ちなみに鉄道の場合、ケルン~ドレスデン間の区間運賃は142ユーロ、デュッセルドルフ~ベルリン間は111ユーロである。日本でも高速バスの方が鉄道料金より割安だが、ヨーロッパでも事情は同じのようだ。<br /> 夕食は市内中心に近いペルケオホテルに併設されたレストランで同室者と二人で摂った。私が注文したのは“Scweinskotelette in Zwiebelkruste mit grünen bohnen und Bratkartoffeln”、要するに玉ねぎなどの野菜を添えたカツレツである。もちろん喉のためには泡の出る飲料も欠かせない。<br /> 夕食を摂ったホテル名のペルケオはハイデルベルクの選帝侯カルル3世に命じられてワインの樽の見張りを命じた大酒のみの道化師だった。選帝侯がたわむれに「大樽のワインを飲み干すことができるか?」と聞くと「Perché no?」(イタリア語で「なぜ、できないの?」)と答えたことからペルケオ(Perkeo)と呼ばれるようになり、ハイデルベルク城のマスコットとなっている。ペルケオはワイン以外の飲み物は飲んだことがないという酒豪だった。<br />

    閘門はアルシュタット駅に近かったので、町の中心までは電車で戻った。夕食前にいったん駅前のホテルに戻るとき、駅前広場には何台かの長距離バスが客待ちで停車していた。車体に書かれた広告ではケルン~ドレスデン間が1日に2本の運行で20ユーロ、デュッセルドルフ~ベルリン間の夜行バスが22ユーロなどとなっていた。ちなみに鉄道の場合、ケルン~ドレスデン間の区間運賃は142ユーロ、デュッセルドルフ~ベルリン間は111ユーロである。日本でも高速バスの方が鉄道料金より割安だが、ヨーロッパでも事情は同じのようだ。
     夕食は市内中心に近いペルケオホテルに併設されたレストランで同室者と二人で摂った。私が注文したのは“Scweinskotelette in Zwiebelkruste mit grünen bohnen und Bratkartoffeln”、要するに玉ねぎなどの野菜を添えたカツレツである。もちろん喉のためには泡の出る飲料も欠かせない。
     夕食を摂ったホテル名のペルケオはハイデルベルクの選帝侯カルル3世に命じられてワインの樽の見張りを命じた大酒のみの道化師だった。選帝侯がたわむれに「大樽のワインを飲み干すことができるか?」と聞くと「Perché no?」(イタリア語で「なぜ、できないの?」)と答えたことからペルケオ(Perkeo)と呼ばれるようになり、ハイデルベルク城のマスコットとなっている。ペルケオはワイン以外の飲み物は飲んだことがないという酒豪だった。

  •  さて翌朝6月25日、今日の予定はヴィースバーデン行きである。もちろんヴィースバーデン市内の見物も考えていないわけではないが、ヴィースバーデンには珍しいケーブルカーがあるので、それに乗りたいというのが主目的である。<br /> ケーブルカーを含めて、線路上を走る鉄道は電力や内燃機関、蒸気機関などが普通の動力源である。ところがネロ山に登るためのヴィースバーデンのケーブルカーの動力源は水・・なのである。ケーブルカーは2台の車両が太いワイヤー(ケーブル)で結ばれていて、傾斜した線路をつるべ状に上下する形式の鉄道だが、通常は山上駅に設置されたモーターでケーブルを巻き上げて運行する。ところがネロ登山ケーブルの場合は、客車の床下に7トンの水が入るタンクがあって、山上駅でこれから下ろうとしている客車のタンクに水を注入すると、麓駅に止まっている客車よりも水の分だけ重くなった山上の客車との平衡が破れて動き出す。終点に来たら麓駅の車両は水を捨て、山上駅の車両には新たに水を注入するというシステムである。ものの本によっては「究極の省エネ」などと紹介しているが、山上駅で注入する水は下からポンプで汲み上げているので、熱力学的には単に動力源の力率の違いだけの問題で、決して究極の省エネにはならない。同じようなシステムで動くケーブルカーはスイスのフリブールにも市街地の上と下を連絡するケーブルカーがある。<br /> 麓駅に到着した客車に乗り込むと、客車は床下に貯めた水を線路の下に音を立てて捨てていた。数分の乗車で山上駅についた客車は給水用の太いパイプを連結して、7トンの水を貯め込んで、出発準備完了となる。ネロ山頂には3本のタマネギ状の塔を持ったロシア正教の聖堂(聖エリーザベート教会)がある。<br /><br /><br />

     さて翌朝6月25日、今日の予定はヴィースバーデン行きである。もちろんヴィースバーデン市内の見物も考えていないわけではないが、ヴィースバーデンには珍しいケーブルカーがあるので、それに乗りたいというのが主目的である。
     ケーブルカーを含めて、線路上を走る鉄道は電力や内燃機関、蒸気機関などが普通の動力源である。ところがネロ山に登るためのヴィースバーデンのケーブルカーの動力源は水・・なのである。ケーブルカーは2台の車両が太いワイヤー(ケーブル)で結ばれていて、傾斜した線路をつるべ状に上下する形式の鉄道だが、通常は山上駅に設置されたモーターでケーブルを巻き上げて運行する。ところがネロ登山ケーブルの場合は、客車の床下に7トンの水が入るタンクがあって、山上駅でこれから下ろうとしている客車のタンクに水を注入すると、麓駅に止まっている客車よりも水の分だけ重くなった山上の客車との平衡が破れて動き出す。終点に来たら麓駅の車両は水を捨て、山上駅の車両には新たに水を注入するというシステムである。ものの本によっては「究極の省エネ」などと紹介しているが、山上駅で注入する水は下からポンプで汲み上げているので、熱力学的には単に動力源の力率の違いだけの問題で、決して究極の省エネにはならない。同じようなシステムで動くケーブルカーはスイスのフリブールにも市街地の上と下を連絡するケーブルカーがある。
     麓駅に到着した客車に乗り込むと、客車は床下に貯めた水を線路の下に音を立てて捨てていた。数分の乗車で山上駅についた客車は給水用の太いパイプを連結して、7トンの水を貯め込んで、出発準備完了となる。ネロ山頂には3本のタマネギ状の塔を持ったロシア正教の聖堂(聖エリーザベート教会)がある。


  •  ドイツの鉄道は過去の経験では時間が正確で、時計を見なくても列車の通過時刻で時計がわりになったのだが、今回の旅行に限っては、まったくダイヤがあてにならなかった。今日のネロベルク行も帰りがけにはヴィースバーデン市内観光の時間も余裕で取れたはずだが、ハイデルベルクから2回列車を乗り継いでヴィースバーデンに着いたのは10時半で、予定より1時間も遅くなっている。さらにネロ山頂でもゆっくり時間をとったために、結局帰途はどこにも寄らずにハイデルベルクに戻ることになった。

     ドイツの鉄道は過去の経験では時間が正確で、時計を見なくても列車の通過時刻で時計がわりになったのだが、今回の旅行に限っては、まったくダイヤがあてにならなかった。今日のネロベルク行も帰りがけにはヴィースバーデン市内観光の時間も余裕で取れたはずだが、ハイデルベルクから2回列車を乗り継いでヴィースバーデンに着いたのは10時半で、予定より1時間も遅くなっている。さらにネロ山頂でもゆっくり時間をとったために、結局帰途はどこにも寄らずにハイデルベルクに戻ることになった。

  • 11、マールブルク、<br />ネロベルクに行った翌日、6月26日はマールブルクに出かけた。ハイデルベルクからはフランクフルトを経由して約2時間、早めに出たので10時前に到着した。マールブルクでの見学目的地は2ヶ所。駅に比較的近い聖エリーザベート教会と山の上にある方伯城である。教会の名前はネロ山頂の教会と同じだが、まったく別の教会だ。ユーレイルパスは鉄道には乗れるが市電や市バスなど市内交通には使えない。1回ごとに乗車券を買ってもよいが、どこの町でも3回以上乗る場合は観光案内所で売っている市内交通が1日乗り放題で、博物館などの入場にも割引が適用されるカード(今日の場合で言えばマールブルクカードのように都市名を冠したカード)が便利だ。エリーザベート教会も駅から2停留所くらいだが、市バスや市電に乗るのも訪問の印象に残るので、市バスで行く。<br /> 冒頭で触れたようにマールブルクのエリーザベート教会の十字架は先の大戦のときにナチスの将校の命令で、一度は教会裏のラーン川に投げ込まれてしまった十字架である。投げ込まれた翌朝、牧師の手で救い出されてふたたび祭壇に安置され たパルラッハ作の十字架をこの目で確かめたかった。もちろん聖堂そのものも壮大な建物で一見の価値ある聖堂だ。聖堂の見学後旧市街中心部の市庁舎広場に面したレストランで昼食とした。市庁舎広場は構造材の木材を見せたまま漆喰で塗り込める、木組の建物(Fachwerkhaus)が美しい。昼食後広場の風景を見ていたら市庁舎の前に人だかりが出来ている。<br /> 1週間前のローテンブルクと同じく、ここでも婚姻届けにサインを終えた新婚カップルが市庁舎から出てくるところだった。寒い冬から解放された6月のドイツはジューンブライド誕生、結婚ラッシュの季節だ。<br />

    11、マールブルク、
    ネロベルクに行った翌日、6月26日はマールブルクに出かけた。ハイデルベルクからはフランクフルトを経由して約2時間、早めに出たので10時前に到着した。マールブルクでの見学目的地は2ヶ所。駅に比較的近い聖エリーザベート教会と山の上にある方伯城である。教会の名前はネロ山頂の教会と同じだが、まったく別の教会だ。ユーレイルパスは鉄道には乗れるが市電や市バスなど市内交通には使えない。1回ごとに乗車券を買ってもよいが、どこの町でも3回以上乗る場合は観光案内所で売っている市内交通が1日乗り放題で、博物館などの入場にも割引が適用されるカード(今日の場合で言えばマールブルクカードのように都市名を冠したカード)が便利だ。エリーザベート教会も駅から2停留所くらいだが、市バスや市電に乗るのも訪問の印象に残るので、市バスで行く。
     冒頭で触れたようにマールブルクのエリーザベート教会の十字架は先の大戦のときにナチスの将校の命令で、一度は教会裏のラーン川に投げ込まれてしまった十字架である。投げ込まれた翌朝、牧師の手で救い出されてふたたび祭壇に安置され たパルラッハ作の十字架をこの目で確かめたかった。もちろん聖堂そのものも壮大な建物で一見の価値ある聖堂だ。聖堂の見学後旧市街中心部の市庁舎広場に面したレストランで昼食とした。市庁舎広場は構造材の木材を見せたまま漆喰で塗り込める、木組の建物(Fachwerkhaus)が美しい。昼食後広場の風景を見ていたら市庁舎の前に人だかりが出来ている。
     1週間前のローテンブルクと同じく、ここでも婚姻届けにサインを終えた新婚カップルが市庁舎から出てくるところだった。寒い冬から解放された6月のドイツはジューンブライド誕生、結婚ラッシュの季節だ。

  •  市庁舎広場から両側に古い家並みの続く坂を登っていくとまもなく方伯城に出た。ガイドブックによってはマールブルクを「坂道の町」と書いているとおり、家の立て込んだジグザグの道が城まで続く。マールブルク(Marburg)の名前の由来は「テューリンゲン方伯領とマインツ大司教領との境界(marc)にある城(Burg)」が語源だという。<br /> 海抜287メートルの城山に築かれた方伯城は11世紀から13世紀にかけて完成された。城の一部はマールブルク大学文化史博物館の一部として利用され、大学が収蔵する石器時代からこの地域の歴史に関する展示コレクションを展示している。中世の面影を残した城内では演劇上演、コンサートや中世風のマーケットなどの文化イベントが開催される。<br /> 城内をめぐりながら坂道を登っていくとやがて城山の頂上にでた。ふと目をやるとそこにはバス停のマークがあり、路線バスが発車しようとしていた。そのバスには乗れなかったが、バス停の時刻表を見ると市内を通って駅まで毎時1本のバスが出ていた。我々一行は急坂を登っての観光で若干息を切らしていたので、思いがけずバスで駅まで帰れるとあって、皆ホっとしていた<br /> 次のバスまでの時間、城内の一角、マールブルクの町を一望できるところにあるカフェでティータイムとなった。やがてバスの時間が近づいたのでバス停に行くと、若い女性が一人待っていたので聞いてみると間違いなくバス待ちの女性だった。バスの来るまでの間に彼女が話したところでは彼女はマールブルク大学の医学生で、実家はハンブルクとのことだった。<br /> 時間通りにバスがやって来た。先ほどは小型のバスだったが、どういうわけか今度やってきたのはバスではなく10人乗り程度のワゴン車だった。乗客は6~7人だから問題ないが、途中から乗り込んだ客にドライバーが説明していた話では、バスが故障してしまったのでやむなくワゴンで運行したとのことだった。<br /> 来た時と同じようにフランクフルトで乗換え、午後5時過ぎにハイデルベルクに戻った。夕食は同室者と二人で駅近くのカフェテリアに入った。今日は6月26日、ホワイトアスパラガスは既に収穫時期を過ぎているはずだが、メニューにはアスパラが載っていたので、ビールとともに注文するとパイ生地のような台の上にバターたっぷりのオランダソースをかけたアスパラが出てきた。<br /><br />

     市庁舎広場から両側に古い家並みの続く坂を登っていくとまもなく方伯城に出た。ガイドブックによってはマールブルクを「坂道の町」と書いているとおり、家の立て込んだジグザグの道が城まで続く。マールブルク(Marburg)の名前の由来は「テューリンゲン方伯領とマインツ大司教領との境界(marc)にある城(Burg)」が語源だという。
     海抜287メートルの城山に築かれた方伯城は11世紀から13世紀にかけて完成された。城の一部はマールブルク大学文化史博物館の一部として利用され、大学が収蔵する石器時代からこの地域の歴史に関する展示コレクションを展示している。中世の面影を残した城内では演劇上演、コンサートや中世風のマーケットなどの文化イベントが開催される。
     城内をめぐりながら坂道を登っていくとやがて城山の頂上にでた。ふと目をやるとそこにはバス停のマークがあり、路線バスが発車しようとしていた。そのバスには乗れなかったが、バス停の時刻表を見ると市内を通って駅まで毎時1本のバスが出ていた。我々一行は急坂を登っての観光で若干息を切らしていたので、思いがけずバスで駅まで帰れるとあって、皆ホっとしていた
     次のバスまでの時間、城内の一角、マールブルクの町を一望できるところにあるカフェでティータイムとなった。やがてバスの時間が近づいたのでバス停に行くと、若い女性が一人待っていたので聞いてみると間違いなくバス待ちの女性だった。バスの来るまでの間に彼女が話したところでは彼女はマールブルク大学の医学生で、実家はハンブルクとのことだった。
     時間通りにバスがやって来た。先ほどは小型のバスだったが、どういうわけか今度やってきたのはバスではなく10人乗り程度のワゴン車だった。乗客は6~7人だから問題ないが、途中から乗り込んだ客にドライバーが説明していた話では、バスが故障してしまったのでやむなくワゴンで運行したとのことだった。
     来た時と同じようにフランクフルトで乗換え、午後5時過ぎにハイデルベルクに戻った。夕食は同室者と二人で駅近くのカフェテリアに入った。今日は6月26日、ホワイトアスパラガスは既に収穫時期を過ぎているはずだが、メニューにはアスパラが載っていたので、ビールとともに注文するとパイ生地のような台の上にバターたっぷりのオランダソースをかけたアスパラが出てきた。

  • 12、ケルンへ<br /> 6月16日に日本を立った旅行も今日で12日目、いよいよ最終宿泊地ケルンに向かうことになった。ハイデルベルク~ケルン間は列車で2時間半だから、午前中にケルンにつけば、午後はたっぷり観光に使うことができる。全員一緒にケルンに向けて出発し、11時にはケルンに到着した。ホテルは駅前に建つケルン大聖堂とは反対側だが、駅前のホテルである。15年前にケルンに泊まった時も同じ駅前にあるホテルに泊まったが、今回はホテル名も違うしウェブで調べても前とは別のホテルのようだ。ところがチェックイン後に部屋に入って見たら、驚いたことに駅舎のプラットホームの屋根の向こう側に聳える大聖堂の2本の尖塔の位置が、15年前の部屋から見えた感じとまったく同じであった。念のために窓から見える駅舎と大聖堂を写真に納めて、帰国後15年前に撮った写真と比べたら、15年前の写真と位置関係は寸分の狂いもなく同じだった。15年前に泊まったケルンのホテル名はEuro Plazaだったが、今回のホテル名はHotel Wyndhamだったが、帰国後にホテルの外観写真をくらべてみるとまったく同じ。つまり経営者が変わり、ホテルの名前も変えて営業を続けていたことが分かった。偶然とはいえまったく同じ場所のホテルだったとは!ただし、内装は更新したらしく室内は新しくなっていた。<br /><br /><br />

    12、ケルンへ
     6月16日に日本を立った旅行も今日で12日目、いよいよ最終宿泊地ケルンに向かうことになった。ハイデルベルク~ケルン間は列車で2時間半だから、午前中にケルンにつけば、午後はたっぷり観光に使うことができる。全員一緒にケルンに向けて出発し、11時にはケルンに到着した。ホテルは駅前に建つケルン大聖堂とは反対側だが、駅前のホテルである。15年前にケルンに泊まった時も同じ駅前にあるホテルに泊まったが、今回はホテル名も違うしウェブで調べても前とは別のホテルのようだ。ところがチェックイン後に部屋に入って見たら、驚いたことに駅舎のプラットホームの屋根の向こう側に聳える大聖堂の2本の尖塔の位置が、15年前の部屋から見えた感じとまったく同じであった。念のために窓から見える駅舎と大聖堂を写真に納めて、帰国後15年前に撮った写真と比べたら、15年前の写真と位置関係は寸分の狂いもなく同じだった。15年前に泊まったケルンのホテル名はEuro Plazaだったが、今回のホテル名はHotel Wyndhamだったが、帰国後にホテルの外観写真をくらべてみるとまったく同じ。つまり経営者が変わり、ホテルの名前も変えて営業を続けていたことが分かった。偶然とはいえまったく同じ場所のホテルだったとは!ただし、内装は更新したらしく室内は新しくなっていた。


  •  ケルンの北方約40kmのところにヴッパータールという人口30数万人の市がある。1863年に化学会社バイエルが産声を上げた町だが、この町は1901年に世界最初のモノレールが開通し、現在も市民の足として活躍していることでも知られている。ケルンからは30分程度で行ける町なので、午後からヴッパータールに行くことにしていた。列車がヴッパータールの町に近づくと少し離れてモノレールの橋脚が並行して敷設されているのが見えた。鉄道駅とモノレール駅は並行しているが100メートルほど隔たっていて、折しも駅前広場は工事中で、仮の通路が出来ていた。<br /> ヴッパータールはその名のとおりヴッパー川が町中を流れていて、モノレールは路線延長14kmのうちの10kmはヴッパー川をまたいだ鉄骨に支えられて建設されている。100年以上前のこの町で用地買収に苦労したとは思えないが、景観を保ちながら地上を避けて川上を通す姿勢に、市民への配慮が感じられ、地元住民の意思を考えずに基地建設に邁進する国との落差を感じる。モノレールの橋脚や路線はしっかりした鉄骨構造で、100年前のドイツ鉄鋼産業の力強さが感じられる構造だが、車両は最近更新された近代的な車両だった。10分も乗ると眼下に賑やかな町が見えたので、モノレールを下りてみた。正面には北ドイツで見たような角塔の屋根を鋭く尖らせた教会が見えている。時間の制約もあり、街歩きもそぞろにふたたびモノレールの乗客となって、ヴッパータール駅に戻り、ケルンに戻った。<br /><br />

     ケルンの北方約40kmのところにヴッパータールという人口30数万人の市がある。1863年に化学会社バイエルが産声を上げた町だが、この町は1901年に世界最初のモノレールが開通し、現在も市民の足として活躍していることでも知られている。ケルンからは30分程度で行ける町なので、午後からヴッパータールに行くことにしていた。列車がヴッパータールの町に近づくと少し離れてモノレールの橋脚が並行して敷設されているのが見えた。鉄道駅とモノレール駅は並行しているが100メートルほど隔たっていて、折しも駅前広場は工事中で、仮の通路が出来ていた。
     ヴッパータールはその名のとおりヴッパー川が町中を流れていて、モノレールは路線延長14kmのうちの10kmはヴッパー川をまたいだ鉄骨に支えられて建設されている。100年以上前のこの町で用地買収に苦労したとは思えないが、景観を保ちながら地上を避けて川上を通す姿勢に、市民への配慮が感じられ、地元住民の意思を考えずに基地建設に邁進する国との落差を感じる。モノレールの橋脚や路線はしっかりした鉄骨構造で、100年前のドイツ鉄鋼産業の力強さが感じられる構造だが、車両は最近更新された近代的な車両だった。10分も乗ると眼下に賑やかな町が見えたので、モノレールを下りてみた。正面には北ドイツで見たような角塔の屋根を鋭く尖らせた教会が見えている。時間の制約もあり、街歩きもそぞろにふたたびモノレールの乗客となって、ヴッパータール駅に戻り、ケルンに戻った。

  •  今朝、ホテルにチェックインした時はまだ時間が早かったので、全員分の部屋は使うことができず、私が仮に荷物を置いたのは別の参加者の部屋であった。夕方戻った時にはもちろん部屋の準備は整っていて、私たちも自室に落ち着くことができた。ただし15年前に泊まった部屋の位置とは方角も階数も違うので、いながらにして自室から大聖堂は見ることはできない。部屋替えを済ませて、同室者と二人で食事に出た。10日以上を過ぎた放し飼いツアーなので、徐々に放し飼いに慣れた参加者は2人、3人と小グループでの行動が増え、帰宅時間もバラバラになり、揃って夕食を摂る機会も次第に減ってきた。これこそ仕掛け人としては計画通りの狙いなのだが、食事を一緒に出来ない分、一抹の物足りなさも感じる。<br /> 大聖堂前の広場に面したレストランで、夕日に輝く大聖堂を眺めながらの夕食は、しばしの贅沢感を味わうことができた。食事のあと大聖堂を写真に収めた。今まで私はライカ判相当で28ミリの広角ズームを利用していたが、奥行の限られたスペースの聖堂内や、1880年の完成当時は世界一、167メートルの高さを誇ったケルン大聖堂の全景を、限られた広さの広場から収めるのは難しかった。そこで焦点距離を変えるためのコンバージョンレンズを購入していた。そのままレンズに装着したらコンバージョンレンズの重さに合焦モーターのイナーシャが追いつかず、焦点が決まらないので、若干の自作改造を加えて、なんとか実用にこぎつけて持参した。これで焦点距離は21ミリまで短縮できた。<br />

     今朝、ホテルにチェックインした時はまだ時間が早かったので、全員分の部屋は使うことができず、私が仮に荷物を置いたのは別の参加者の部屋であった。夕方戻った時にはもちろん部屋の準備は整っていて、私たちも自室に落ち着くことができた。ただし15年前に泊まった部屋の位置とは方角も階数も違うので、いながらにして自室から大聖堂は見ることはできない。部屋替えを済ませて、同室者と二人で食事に出た。10日以上を過ぎた放し飼いツアーなので、徐々に放し飼いに慣れた参加者は2人、3人と小グループでの行動が増え、帰宅時間もバラバラになり、揃って夕食を摂る機会も次第に減ってきた。これこそ仕掛け人としては計画通りの狙いなのだが、食事を一緒に出来ない分、一抹の物足りなさも感じる。
     大聖堂前の広場に面したレストランで、夕日に輝く大聖堂を眺めながらの夕食は、しばしの贅沢感を味わうことができた。食事のあと大聖堂を写真に収めた。今まで私はライカ判相当で28ミリの広角ズームを利用していたが、奥行の限られたスペースの聖堂内や、1880年の完成当時は世界一、167メートルの高さを誇ったケルン大聖堂の全景を、限られた広さの広場から収めるのは難しかった。そこで焦点距離を変えるためのコンバージョンレンズを購入していた。そのままレンズに装着したらコンバージョンレンズの重さに合焦モーターのイナーシャが追いつかず、焦点が決まらないので、若干の自作改造を加えて、なんとか実用にこぎつけて持参した。これで焦点距離は21ミリまで短縮できた。

  • 13、ライン下り<br />明けて6月28日、最後の滞在日はライン下りを愉しむ予定だ。ライン川の観光船は上流のコブレンツと下流のケルン間を往復しているが、流れている川を運行する関係上、下流⇒上流の場合は上流⇒下流を乗船する場合に比べて乗船時間が1.5倍もかかってしまう。今回の旅行では下流のケルンにいるのだが、いったん列車でマインツまでライン川を遡って上流側から乗船することで、時間の節約を図った。ケルンまで行かずにモーゼル川とライン川の合流点のコブレンツで降りた我々は「ドイツの角」と呼ばれる両河川の合流点の三角州に行ってみた。「ドイツの角」からは対岸の丘上のFestung Ehrenbreitstein(エーレンブライトシュタイン要塞)までのロープウェイがかけられていて、要塞の展望台から見事な三角州を眺めることが出来る。<br />ロープウェイで対岸の山上の要塞に渡ったが、鉄道はライン川の両岸に走ってはいるものの、要塞側の鉄道はローカル線で若干時間もかかるので、ふたたびロープウェイで対岸に戻って、ケルンに帰ることにした。ところがここで問題が起きた。私たちの乗ったデュッセルドルフ行の列車は駅に掲示された時刻表では確かにケルン経由と表示されていたのだが、実際はケルンの手前のケルンメッセ駅から別の線路を経由して、ケルンには入らずにデュッセルドルフに直行してしまった。<br /><br />

    13、ライン下り
    明けて6月28日、最後の滞在日はライン下りを愉しむ予定だ。ライン川の観光船は上流のコブレンツと下流のケルン間を往復しているが、流れている川を運行する関係上、下流⇒上流の場合は上流⇒下流を乗船する場合に比べて乗船時間が1.5倍もかかってしまう。今回の旅行では下流のケルンにいるのだが、いったん列車でマインツまでライン川を遡って上流側から乗船することで、時間の節約を図った。ケルンまで行かずにモーゼル川とライン川の合流点のコブレンツで降りた我々は「ドイツの角」と呼ばれる両河川の合流点の三角州に行ってみた。「ドイツの角」からは対岸の丘上のFestung Ehrenbreitstein(エーレンブライトシュタイン要塞)までのロープウェイがかけられていて、要塞の展望台から見事な三角州を眺めることが出来る。
    ロープウェイで対岸の山上の要塞に渡ったが、鉄道はライン川の両岸に走ってはいるものの、要塞側の鉄道はローカル線で若干時間もかかるので、ふたたびロープウェイで対岸に戻って、ケルンに帰ることにした。ところがここで問題が起きた。私たちの乗ったデュッセルドルフ行の列車は駅に掲示された時刻表では確かにケルン経由と表示されていたのだが、実際はケルンの手前のケルンメッセ駅から別の線路を経由して、ケルンには入らずにデュッセルドルフに直行してしまった。

  • 14、エピローグ<br /> この「事件」だけでなく今回の旅行では列車ダイヤの乱れや突然の行先変更で、目標の時間に到着できなかったり、乗換で慌てさせられることが多かった。以前のドイツ鉄道は時間も行先も正確だったが、最近はかなりいい加減になっていることを実感させられた。異常を感じたのは鉄道だけでなく、郵便もいままで日本あての郵便は少なくとも10日以内には届いていたのが、今回は投函後1ヶ月も過ぎて、私が帰国後に「ハガキをいただきました」という礼状が何通も届くなど、過去には考えられなかった現象が起きている。<br /> さて翌6月29日はいよいよデュッセルドルフ空港からヘルシンキ経由での帰国当日だ。当初、帰国はフランクフルトからローカル便でフィンエアの基地でもあるヘルシンキに飛び、成田行に乗る予定だったが、デュッセルドルフからもヘルシンキ行のフィンエア便があることがわかった。ケルン~デュッセルドルフ間は鉄道で30分、フランクフルトより近いのでデュッセルドルフ経由に決めた。<br /> 遠距離の国際線が発着するミュンヘン、フランクフルト、ベルリンの3空港とブレーメン空港は利用したことがあったが、いままでデュッセルドルフは利用したことがない。ガイドブックには「デュッセルドルフ空港にアクセスする鉄道駅は2ヶ所ある」と書かれているが、そのうちのひとつは地下鉄、もう一つがドイツ鉄道で、ケルンからはドイツ鉄道を利用することになる。駅についてみると空港まではモノレール(スカイトレイン)が接続していて、難なく空港ロビーに到着した。<br /> ドイツ入国時は成田発が午前中で、時差(7時間)の関係でその日の夕刻コペンハーゲンに到着したが、帰国時は時計を7時間早め、翌日6月30日の朝、成田着となる。<br /> 15日間の旅行中前半は比較的日照は少なく、曇りがちだったが後半は晴天が続き、爽やかな初夏のドイツを楽しむことができた。帰国した頃の日本はまだ梅雨が明けず、いきなり日本の猛暑に苦しめられることはなかったが、その後の日本は例年にない猛暑で、東京の猛暑日記録はそれまでの連続4日間を一気に更新してしまい、ひたすら爽やかだったドイツの日々を懐かしむ毎日だった。<br />

    14、エピローグ
     この「事件」だけでなく今回の旅行では列車ダイヤの乱れや突然の行先変更で、目標の時間に到着できなかったり、乗換で慌てさせられることが多かった。以前のドイツ鉄道は時間も行先も正確だったが、最近はかなりいい加減になっていることを実感させられた。異常を感じたのは鉄道だけでなく、郵便もいままで日本あての郵便は少なくとも10日以内には届いていたのが、今回は投函後1ヶ月も過ぎて、私が帰国後に「ハガキをいただきました」という礼状が何通も届くなど、過去には考えられなかった現象が起きている。
     さて翌6月29日はいよいよデュッセルドルフ空港からヘルシンキ経由での帰国当日だ。当初、帰国はフランクフルトからローカル便でフィンエアの基地でもあるヘルシンキに飛び、成田行に乗る予定だったが、デュッセルドルフからもヘルシンキ行のフィンエア便があることがわかった。ケルン~デュッセルドルフ間は鉄道で30分、フランクフルトより近いのでデュッセルドルフ経由に決めた。
     遠距離の国際線が発着するミュンヘン、フランクフルト、ベルリンの3空港とブレーメン空港は利用したことがあったが、いままでデュッセルドルフは利用したことがない。ガイドブックには「デュッセルドルフ空港にアクセスする鉄道駅は2ヶ所ある」と書かれているが、そのうちのひとつは地下鉄、もう一つがドイツ鉄道で、ケルンからはドイツ鉄道を利用することになる。駅についてみると空港まではモノレール(スカイトレイン)が接続していて、難なく空港ロビーに到着した。
     ドイツ入国時は成田発が午前中で、時差(7時間)の関係でその日の夕刻コペンハーゲンに到着したが、帰国時は時計を7時間早め、翌日6月30日の朝、成田着となる。
     15日間の旅行中前半は比較的日照は少なく、曇りがちだったが後半は晴天が続き、爽やかな初夏のドイツを楽しむことができた。帰国した頃の日本はまだ梅雨が明けず、いきなり日本の猛暑に苦しめられることはなかったが、その後の日本は例年にない猛暑で、東京の猛暑日記録はそれまでの連続4日間を一気に更新してしまい、ひたすら爽やかだったドイツの日々を懐かしむ毎日だった。

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