2017/07/26 - 2017/07/26
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夏休みを利用して、以下の都市を車で周遊。総走行距離1904.9km
7/25 ①ノイシュヴァンシュタイン城 ザルツブルグ泊
7/26 ②ザルツブルグ ウィーン泊
7/27 ③ウィーン 前編 ウィーン泊
7/28 ④ウィーン 後編 プラハ泊
7/29 ⑤プラハ プラハ泊
7/30 ⑥ローテンブルグ ヒルシュホルン城泊
7/31 ⑦ハイデルブルグ
この旅行記は、2日目、ドイツ・オーストリア・チェコ周遊②ザルツブルグ。サウンドオブミュージックの舞台。引き続きの生憎の雨。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 徒歩
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昨晩みた夜景。ザルツブルグ旧市街。
今日も生憎の雨。寒い。
ザルツブルク市街の歴史地区は、オーストリア共和国の世界遺産のひとつ。ドイツとの国境に近い、オーストリア北西部ザルツブルク州の州都ザルツブルクに所在する。
紀元前より岩塩の交易によって栄えてきたこの町は、「ザルツ(塩の)ブルク(城)」と呼称されてきた。中世において塩は、「白い黄金」と呼ばれるほど貴重なものであった。9世紀には司教座が置かれて宗教都市として栄え、ザルツァッハ川左岸の旧市街には、教会や歴史的建造物が数多く建てられ、「北のローマ」あるいは「北のフィレンツェ」と称された。1996年、世界遺産(文化遺産)に登録されたが、オーストリア国内ではウィーンの「シェーンブルン宮殿と庭園群」とならんで初の世界遺産登録であった。「教会国家」としての長い歴史にちなむ遺産、バロック時代に由来する多くの建築物群、モーツァルトの生家など音楽にまつわる多くの遺産で知られる。(Wikiより) -
モーツァルトの生家
Mozarts Geburtshaus
ザルツブルク旧市街で最も繁華な小路となっているゲトライデ通りGetreidegasseの9番地にある。この通りは、店の装飾的な鉄細工の看板が連なり、目を楽しませてくれる。
目立つ黄色の建物に中央に「モーツァルトの生家(ドイツ語)」と書かれている。
1756年1月27日にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが誕生したといわれる家 (Mozarts Geburtshaus) は黄色い建物の4階にあり、現在はモーツァルト記念館として残されている。
ちなみにこことは別に「モーツァルトの家」が川を渡った新市街側にある。どちらも小規模だが、モーツァルトが好きな人にはたまらない場所で、彼ゆかりの品が飾られている。両方とも日本語のオーディオガイドあり。
写真撮影禁止。なので、内部の写真の掲載はありません。モーツァルトの生家 建造物
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レジデンツ広場
Residenzplatz
大聖堂横の広場。広場西側(この写真で右手)にはその名称の由来となったレジデンツ(宮殿)が建っている。現在、レジデンツ内部はザルツブルク州立博物館となっており、そのギャラリーにはヨーロッパの美術品とくに中世絵画が多数収集され、中世の武具なども数多く展示されている。(Wikiより) -
レジデンツ広場
Residenzplatz
レジデンツ広場の「アトラス神の噴水」レジデンツ広場 広場・公園
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モーツァルト像
Mozart-Denkmal
レジデンツ広場につながるように、モーツァルト像の立つモーツァルト広場がある。ここも写真スポットのひとつ。モーツァルト像 モニュメント・記念碑
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ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg
モーツァルトはこのザルツブルク大聖堂で洗礼を受け、1779~1781年までパイプオルガンの奏者を務めていた。 -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg
(以下はすべてWikiからの切り貼り。)
最初のドーム (Dom) は774年に前期ロマネスク建築によりメンヒスベルクの山裾に創設されたもので、司教聖ヴィルギリウスが大聖堂を献堂し、そののちの図書館や学校の基礎となった。その後の数世紀、教会はその影響力をたえず広げようとし、寄進や寄付あるいは特権によって守られた宗教的な地位を、世俗的な権力を強めるためにも活用した。 -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg
2度目のドームは、1181年から1200年ころにかけて後期ロマネスク様式に改築された。アルプス以北では唯一、身廊が5つあるバシリカ様式の建築でドイツ皇帝聖堂との混合形式である。一領主である司教がこのように優れた建築物を造ることができたのは、教会所有地の収入のほか、ハラインの岩塩採掘、タウエルンの金採鉱での収入によるものであった。 -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg
今日のザルツブルク大聖堂は、1628年にバロック様式によって建て直されたものである。ザルツブルクの歴史において最も華麗な祝典は、1628年の大聖堂の献堂式であったが、それは三十年戦争のさなかの出来事であった。イタリア出身のヴィンチェンツォ・スカモッツィ(1548年-1616年)の設計案が廃案となり、同じくイタリア出身のサンティーノ・ソラーリオ(1576年-1646年)によって設計された大聖堂は、ドームの乗る大理石の双塔をもち、ペディメントをはさんで構成されたファサードを特徴とする。 -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg
ちなみに教会にくると必ず正面ファザードの写真を撮るのですが、教会正面の広場にコンサートホールの観客席の足場が組まれており、正面全体の写真が撮れない。。。といっても、実はこのゴシック式の教会、2つの尖塔はあるものの正面はシンプル。教会の規模は大きいのだが。 -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg
ここまで窓を配置して、光が差し込む教会は珍しい。 -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg
ちょっと見上げていて少し気持ちが悪くなる。。。 -
ザルツブルグ大聖堂
Dom zu Salzburg -
Kapitelplatz
大聖堂の反対側の広場にでると、やや有名なこの作品。「Sphaera」
Stephan Balkenhol作
このまま、山の上に建つホーエンザルツブルク城に行けるケーブルカーの駅を目指します。Kapitelplatz & Kapitelschwemme 広場・公園
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ペータースフリートホフ
Petersfriedhof
とそのケーブルカーの地上駅の手前に、この聖ペーター教会への入り口の扉があり、入ると、裏庭の墓地に出ます。写真は墓地の中心にある礼拝堂。friedhofで墓地。 -
ペータースフリートホフ
Petersfriedhof
墓地に対してこのコメントは失礼かもしれないのだけど、それぞれで、様々な趣向があり、もしくは生前の個人の趣味や性格なりを表しているのかな。と思わず考えてしまう。咲いている花を植えているのはちゃんと手入れしている証拠。 -
ペータースフリートホフ
Petersfriedhof -
ペータースフリートホフ
Petersfriedhof -
聖ペーター教会
Stift St. Peter Salzburg / Erzabtei Sankt Peter
さきほど見ていた墓地はこの聖ペーター教会に付属しているもの。ザンクト ペーター教会 寺院・教会
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聖ペーター教会
Stift St. Peter Salzburg / Erzabtei Sankt Peter
聖ペーター僧院教会に隣接して、メンヒスベルク山の岩盤をくりぬいた岩肌を利用したレストラン「シュティフツケラー・ザンクト・ペーター」があり、フランク王国のカール大帝の宮廷に仕えたアルクィンが803年に「ヨーロッパ最古のレストラン」として記録している。(Wikiより)シュティフツケラー ザンクト ペーター 地元の料理
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聖ペーター教会
Stift St. Peter Salzburg / Erzabtei Sankt Peter
聖ペーター僧院教会 (St. Petersstiftskirche) は、聖ルーペルトが696年に開いたベネディクト派の教会であり、ドイツ語圏のなかでは最も古いとされる男子修道院である。当初はロマネスク様式を主として建てられ、三廊式バシリカの形式をもち、回廊西翼や玄関にはロマネスク様式の、マリア礼拝堂には初期ゴシック様式の古い建築様式を今に伝えている。18世紀後半には後期バロック様式で改築され、内装はきわめて壮麗かつ優美さも加わり、すでにロココ様式の片鱗もみられるとの評価がある。(Wikiより) -
聖ペーター教会
Stift St. Peter Salzburg / Erzabtei Sankt Peter
ザルツブルクはケルト時代から人が定住していたところで、ローマ時代の地名はユヴァーヴム(Juvavum)といった。その後、他民族の侵略により廃墟と化したが、696年に今のドイツのヴォルムスからルペールト司教がやってきてこの地に聖ペーター修道院を建設するとともに町を再建、これが今のザルツブルクの源流になっている。聖ルペールトは、ザルツブルクの町の守護聖人となっている。 -
聖ペーター教会
Stift St. Peter Salzburg / Erzabtei Sankt Peter
冒頭にWikiからの引用で、「ザルツブルグは紀元前より岩塩の交易によって栄えてきたこの町は、「ザルツ(塩の)ブルク(城)」と呼称されてきた。」と説明したが、説明の不一致に気づきました?ローマ時代は別の名前ヴァーヴムと呼ばれていますので。ザルツブルグと呼ばれたはじめたのは、ドイツ語系の名前がついていることからも、ルペールト司教が廃墟の町を修道院とともに再建したころと推測される。その由来も、ここで岩塩がとれることはなく、近郊で取れたものをザルツァッハ川で輸送する際に交易を通して発展した町(砦)は、ザルツァッハブルグ(Salzachburg)と呼ばれ、それが転じて、ザルツブルグ、それが町の名前になったというもの。ザルツァッハ川の名前自体は、塩の川なので、結局、塩に関連しているというのは間違いではないのですが、岩塩が取れない場所に、直接的に「塩の砦」と命名、呼称したというのは不正解ではないかと思います。 -
聖ペーター教会
Stift St. Peter Salzburg / Erzabtei Sankt Peter -
聖ペーター教会
Stift St. Peter Salzburg / Erzabtei Sankt Peter
また、聖ペーター教会では、ロマネスク-ゴシック期の岩窟礼拝堂、グロッタや初期キリスト教徒の地下納骨堂(カタコンベ)も見学することができます。いまから、岩窟礼拝堂に入ります。有料ですが、一見の価値があります。
この崖のところどころに窓が開いているのが見ると思いますが、それが礼拝堂、もしくはそこに続く廊下の窓です。 -
一番、右にある礼拝堂から入ります。
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岸壁に掘られたトンネルの階段を上がっていきます。
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初期キリスト教時代の祈祷のための洞窟礼拝堂。元はカタコンベ。
迫害や処刑を免れる為に、隠れて、例えば、洞窟や廃棄された鉱山の中、さらに、地下墓地(カタコンベ)などで礼拝を行っていた。ローマ時代後期、400-800年に移動してきた初期キリスト教信者により作られたとされている。 -
昔はフレスコ画が書いてあったのだろうが、内容がよく分からなくなっている。
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辛うじて。2人の聖人がわかる。中央も人影かな。
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埋め込まれた石板。ローマ時代っぽい。
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十字架。
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本当に中世その当時のものだろうか。もしそうだとしたなら、すごく貴重なもののような気がするが、意外と普通に置いてある。
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十字架の中央に掘られた図柄、レリーフ(Relief)。
ちなみにこの意味の語源はフランス語「持ち上げる」。図柄を削って浮かびあがらせているから。英語のRelieveの名詞形のRelief(リリーフ。野球でピンチの時に登板するピッチャー、意味は、除去、ほっとする、安堵する、救助、救援)とはスペルが同じだけ。不思議な一致。レリーフ(浮彫)に、(英語の)リリーフ、信者を救済し、信仰により安堵を与える力があるということにすれば、しっくりくる。 -
旧キリスト教の洞窟教会の窓からの景色。結構、崖の高いところにあり、景色を一望できる。目の前は、さっき行った大聖堂。眼下は墓地。右に見えるのは、墓地の敷地のなかにある礼拝堂(チャペル)。
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視線を左手に移すと、聖ペーター教会。
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ケーブルカーに乗って丘の上へ。
写真はホーエンザルツブルク城からの景色。
Festung Hohensalzburg
1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間に起こった叙任権闘争のさなか、教皇派の大司教ゲプハルト(ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世)が皇帝派の南ドイツ諸侯に対抗すべく建築した防衛施設で、旧市の南端、メンヒスブルク山の山頂に立地する。ゲプハルトにはじまった増改築はマイセン辺境伯コンラート1世(1098年ころ-1157年)のもとで一応の終了をみた。「赤ひげ王」として知られる神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世"バルバロッサ"(在位1152年-1190年)によってザルツブルクの町が焼き払われたことがあったが、この城はそのときも無事であった。
ホーエンザルツブルク城は、町のほとんどどこからでも見ることができ、1.3キロメートルにわたって続く高さ約50メートルの高地をなしている。一番高い場所(ホーアー・シュトゥック)の標高は508メートルである。
城のなかには、等身大の12使徒像がならんだ1498年建造の「聖ゲオルク礼拝堂」、ザルツブルクの町の人びとに時を告げる、1502年製作の機械オルガン「ザルツブルクの雄牛」があり、いずれもレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教(在位1495年-1519年)の大拡張によるものである。その後も歴代の大司教により増改築がくり返され、17世紀後半にはほぼ現在の姿に近づいたと考えられる。
内部はブルク博物館になっており、マヨルカ焼の後期ゴシック様式の豪華なストーブや武器、魔女狩りが盛行した時期の拷問具などが展示され、「黄金の大広間」「黄金の小部屋」など後期ゴシック様式の壮麗な部屋がある。15世紀までは大司教の住居として使用され、それ以後は兵舎または牢獄として利用されたが、外敵に占領されたことが一度もなく、ヨーロッパ中世のものとしては完璧に保存された稀有な例となっている。「レックの塔」からは北に市街地、南にアルプスの山々を見わたすことができる。
ホーエンザルツブルク城では毎年「国際サマーアカデミー」がひらかれており、世界中の芸術家が集まる。山頂へは、1892年開通のケーブルカーが約10分間隔で往復している。(Wikiより)ホーエンザルツブルク城塞 城・宮殿
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ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg
つまり、このザルツブルグは、長年、オーストリア(ハプスブルグ家)ではなく、ローマ教皇派の大司教が収めていた町。
外敵に一度も占領されたことがないというのは非常に稀なこと。
ナポレオン戦争によるフランス軍の占領後の1816年からは、司教座を廃止され、ザルツブルク市街とともにオーストリア(ハプスブルク家)の支配下に入った。このときは争うことはなく無血開城だったといいます。 -
ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg
「ザルツブルグの雄牛」、自動演奏のパイプオルガン。
ザルツブルクの町の人びとに時を告げる、1502年製作の機械オルガン「ザルツブルクの雄牛」があり、いずれもレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教(在位1495年-1519年)の大拡張によるものである。
パイプオルガンの命名とはおそらく関係ないが(単純に音が大きいか、牛の鳴き声に似ていた?)、この城には牛にちなんだ伝説がある。この城が兵糧攻めにあった際に、食料が尽き果て、とうとう牛一匹しか残らなくなったときに、この牛に毎日、違った色を塗り、如何にもまだ沢山牛がいるように見せかけてたという話。ホーエンザルツブルク城塞 城・宮殿
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ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg
ちなみに現日本代表南野拓実が所属するザルツブルグのクラブ、FCレッドブル・ザルツブルク。こちらもエナジードリンク、「レッドブル」と牛に関係があるが、これまた、命名にはまったく関係はない。
そのレッドブルはレーシングスポーツでのスポンサーとしても有名で、創業者にして、今や世界屈指の航空機・レーシングカーコレクターのディートリッヒ・マテシッツ氏が、ザルツブルク空港に併設する形で所有し、無料で一般公開しているコレクション展示場「Hangar-7(ハンガー7)」がある。
ちなみに、日本や東アジアですでに市場を形成していたエナジードリンクの大正製薬のリポビタンDがきっかけで、欧州でも販売を検討し、その成分がレッドブルの開発の参考になっている。今ではレッドブルの方が売り上げが比較にならないほど大きい。レッドブル社自体は工場を全く持たず、ジュース会社、ラウフ社(Rauch Fruchtsäfte GmbH&CO OG)にすべて委託されている。
レッドブルはリポD同様に滋養強壮目的のアミノ酸のタウニンが普通に入っているが、販売国の都合で調合が微妙に異なり、日本では薬事法の関係で、タウニンの代わりにアルギニンを入れている。その為、リポビタンDが、「指定医薬部外品」であるのに対して、レッドブルはただの「炭酸飲料」となっている。機会があればレッドブルを飲み比べてみて下さい。
話が脱線し過ぎました。 -
ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg -
ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg -
ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburgホーエンザルツブルク城塞 城・宮殿
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ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburgホーエンザルツブルク城塞 城・宮殿
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ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg -
ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg -
ホーエンザルツブルク城
Festung Hohensalzburg -
下に降りてきました。川を渡って新市街側へ向かいます。
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新市街側にある、「モーツアルトの住居」。
モーツアルト一家は、より広い住居を求め、この中のアパートに1773年に引っ越しました。アマデウスは1780年にミュンヘンに行った後、ウィーンに定住しましたが、彼の父レオポルトは1787年の彼の死まで、この家に住んでいました。オリジナルの建物が1944年に連合軍の爆撃で破壊された後、別の建物が建っていましたが、1994年に壊され、1996年にオリジナル通りに建て直されました。
ちなみに、理系の方にはお馴染みのドップラー効果のドップラーの生家もすぐ近くにある。救急車やパトカーのサイレンの音が近づくと、音が高くなり、遠くなると低くなる例の現象。
クリスティアン・アンドレアス・ドップラー
Christian Andreas Doppler
1803年11月29日 - 1853年3月17日
オーストリアの物理学者、数学者、天文学者。
彼の教え子には、遺伝の法則を発見したメンデルがいる。モーツァルトの住居 建造物
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ミラベル庭園
Mirabellgarten
ザルツブルグというと、「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)の舞台。
この入り口の像がドレミの歌の途中で、シーンが、高原からザルツブルグの町に移った後、でてきます。「ソ」(♪Sew, a needle pulling thread)の音のとき。 -
ミラベル庭園
Mirabellgarten
「ラ(La)」の説明の歌詞だけ納得がいかないのは私だけでしょうか。 -
ミラベル宮殿
Schloss Mirabell
Mirabell Palace
1606年に、愛人ザロメ・アルトのために、大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウが建てたものを、後にバロック様式で改築して宮殿としたものですが、1818年に火災で焼失しており、再建後の現在は市長公邸として用いられる他、コンサートホールとしても利用されています。
付属する庭園のユニコーン像が置かれている北側入口にある階段は、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の撮影の際に、主演のジュリー・アンドリュースが子供たちと「ドレミの歌」を歌いながら踊ったところとして知られています。
また、この階段から庭園奥に望めるメンヒスベルクの丘にあるホーエンザルツブルク城を見るのが、ベストポイントともいわれています。(Wikiより)
何故、大司教に愛人がいるの? -
ミラベル庭園
Mirabellgarten -
ミラベル庭園から見上げるホーエンザルツブルク城。
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ミラベル庭園から見上げるホーエンザルツブルク城。
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ミラベル庭園から見上げるホーエンザルツブルク城。
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ミラベル庭園
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ペガサスの噴水。
Pegasusbrunnen
ここもドレミの歌の中盤とクライマックスのあたりで、でてくるペガサスの噴水。ミラベル宮殿 城・宮殿
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ちょっと、宮殿の中へ。
階段も美しい。 -
宮殿の2階にある「大理石の間」は、モーツァルトも演奏したことのある由緒ある大広間。中には入れませんが、扉越しに撮影。
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実は、この1年後の2018年に、ザルツブルグの再訪し、ここでコンサートを聞きました。
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ペガサスの噴水。
Pegasusbrunnenミラベル宮殿 城・宮殿
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ユニコーンが両側にある階段から、ホーエンザルツブルグ城を眺める。
ちょうど、ドレミの歌のクライマックスと同じ景色。
さて、ウィーンに向かいます。
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